はてなキーワード: 謙遜とは
令和2年8月23日(日)に、第52回社会保険労務士試験が実施され、11月6日(金)に合格発表がありました。
今年は、新型コロナウイルスの感染拡大の影響が大きく、私も受験会場が希望していたところから変更になりました。厚生労働省所管の試験ですので、当日は手指消毒や検温、換気などは徹底されていましたが、酷暑の中、過去に例のない過酷な試験だったと思います。
私は、今回この試験に無事合格し、社会保険労務士有資格者となることができました。ここでは、国家資格の試験に興味・関心がある方や、これから社会保険労務士試験を目指そうと検討されている方たちのために、できるだけ情報や私が思ったことをまとめて記録しておきます。もし参考になることがあれば、お役立てください。内容について、何か自慢をしているように誤解される方もいらっしゃるかもしれませんが、無意味な謙遜をして不正確なことを書いても真意が正しく伝わらないし意味もないので、できるだけ思ったことを率直に書いています。はてな匿名ダイアリーを使うぐらいなので、その意図はありませんが、もし不愉快に思われても、その点は予めご容赦ください。
私個人の属性はTwitterでも一切明らかにしていないのですが、社会人で、仕事をしています。現在は、人事系の部署にいます。
大前提として、社会保険労務士資格を取得しても、現在の仕事は辞めないし、その限りは社会保険労務士として登録することも予定していません。この試験に人生やキャリアをかけている人もたくさんいるので、その方たちには申し訳ない気持ちもありますが、私自身は今のところこの資格を使うつもりはありません。
大学は文学部の出身ですので、大学で法律の勉強はしていません。
ただ、総務系や人事系の部署の経験があるので、人事管理や労務管理の実務経験はあり、労働関係法令や社会保険関係法令に触れる機会も少しありました。一定程度の予備知識はあったと言えると思います。
私はすでに行政書士有資格者でもあるのですが、実務経験もなく、これを将来有効に使えるとは考えていませんでした。社会保険労務士は、行政書士と同じ法律系の国家資格で、ダブルライセンスによる相乗効果も大きいと言われています。もちろん、ダブルライセンスによって直ちに資格が生きるとは考えていませんし、先に書いたように、これらの資格を使って独立開業というようなことも考えていません。資格手当の制度もありませんが、今の仕事で人事上有利に働く可能性はあるかもしれません。また、現在の部署では、試験勉強を通じて得た法令の知識は、大変役に立っています。
あと、現在の仕事の関係もあり、資格学校に通うことはもちろん無理だし、繁忙期は何か月も勉強できなくなってしまうので、通信教育も難しいと考えました。つまり、必然的に市販の教材を使って独学で勉強することになるのですが、独学で挑むことができる法律系の最高難易度の国家資格の一つが、私は社会保険労務士だと思っています。司法試験、司法書士や税理士、公認会計士、弁理士などは、おそらく独学では不可能だと思いますし、市販のテキストもほとんど売ってないと思います。独学の是非については、後で書きます。
さて、2019年の2月中旬、確かバレンタインデーだったと思いますが、私がたまたま立ち寄った書店で、社会保険労務士試験のテキストを見つけ、さらっと内容を立ち読みしてみて、これなら何とか対応できるのではないかと思い、そのまま買って帰りました。これが勉強を始めた最初のきっかけです。
私は、第51回(令和元年度)試験も受けましたが、実質半年に満たない勉強期間での受験になりました。結果は惜しくも不合格でした。実は、選択式は合格基準点を超えていたのですが、択一式の合計点が2点足りませんでした。その時点で、もう1年今の勉強を積み上げれば、合格できるのではないかと見込みました。そして、今年の第52回試験にて、2回目の挑戦で、約1年半の勉強期間で何とか合格することができました。
社会保険労務士試験は、年に1回、毎年8月の第4日曜日に実施されます。全国の主要19都市に試験会場が設けられます。
比較すると、行政書士試験は受験資格がありませんが、社会保険労務士試験には受験資格があります。例えば、大卒又は短大卒であるか、あるいは高校卒でも行政書士試験合格者であれば受験できます。他にも、実務経験など資格を満たす要件はいろいろあります。
厚生労働省の報道発表によれば、第52回(令和2年度)試験は、受験申込者数49,250人、受験者数34,845人、受験率70.8%(受験率が低いのは、新型コロナウイルス感染拡大の影響で受験を控えた方が多かったからではないかと思います)でした。そして、合格者数2,237人、合格率6.4%でした。この合格率からも、社会保険労務士がどれぐらい難関な国家資格かということはお分かりいただけると思います。合格率は例年並みという印象ですが、私が昨年の第51回と今年の第52回と、2回受験した印象としては、今年の方が試験は難しかったと思います。
難易度については、一般的には、税理士試験よりは易しく、中小企業診断士試験と同じぐらい、行政書士試験よりは難しいと言われています。ただし、これは受験者の実務経験や予備知識によって大きく左右されるので、だいたいこのあたり、という捉え方で良いと思います。
国家資格としては、一度合格すると一生有効なので、実務経験があれば合格後はいつでも登録して社会保険労務士を名乗ることができます。実務経験がない方も、事務指定講習を受ければ登録できます。
以下に、今年の試験に関するサイトへのリンクを貼っておきます。
社会保険労務士試験オフィシャルサイト - 第52回(令和2年度)社会保険労務士試験についての情報 https://www.sharosi-siken.or.jp/exam/info.html
厚生労働省 - 第52回社会保険労務士試験の合格者発表 https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000183106_00007.html
以上の10科目です。大きく、労働科目と社会保険科目に分ける場合もあります。これらの法律に加えて、一般常識としてその他多くの法令、あと政省令や通知通達、判例、白書、統計なども問われるので、試験範囲はとても広いと言えると思います。
私は、労働基準法は実務経験の中で触れることが一番多い法律なので得意でしたが、同じく実務で使うにも関わらず労働安全衛生法が一番苦手でした。また、多くの人が毎年苦しめられるのが、労働管理その他の労働に関する一般常識(通称「労一」)と社会保険に関する一般常識(通称「社一」)です。一般常識は、私は得意とか不得意とかでは語れないような掴みどころのない科目だと思っています。そして、特に今年の選択式の労一は、阿鼻叫喚の様相でした。午前の試験で気持ちを折られると、午後が本当につらい試験です。
また、出題形式としては、
があります。社会保険労務士試験は1日で終わるのですが、午前中80分が選択式試験、午後210分が択一式試験で実施されます。試験中は休憩時間もないので、特に午後の3時間半は、知識や情報に加えて、気力・体力・集中力が試されます。実際に受験された方は分かると思うのですが、時間は長いのですが、問題を捨てたりせずに全問しっかり解こうとすると、かなり集中してやっても時間が足りなくなります。
選択式試験は、いわゆる穴埋め問題で、A~Eの穴に対して①~⑳の選択肢があり、埋めていきます。選択式は非常に対策がしにくく、私はあまり対策については意識していませんでした。
択一式試験は、いわゆる五肢択一で、A~Eから正答を選びます。正しいもの又は誤っているものを選ぶ問題は比較的解きやすいのですが、正しいもの又は間違っているものの組合せを選ぶ問題や、あと最も苦しめられる正しいもの又は間違っているものの個数を選ぶ問題(いわゆる個数問題)が増える傾向にあるそうで、この形になるとその問題の正答率はぐっと下がると言われています。
私は、社会保険労務士試験の勉強は、択一式対策が基本であり、これを深めていくと選択式も解けるようになる、と考えていました。
社会保険労務士試験の難しさは、この採点基準にあります。税理士試験のような科目合格の概念もなく、1回の試験で、全ての科目で合格基準点以上の点を取り、なおかつ合計点で合格基準点を上回っている必要があります。
具体的には、原則として、選択式は各科目5点中3点以上、択一式は各科目10点中4点以上を取らなければなりません(ただし、試験の結果によっては、それ以下でも救済されることがあります)。また、合計点でも、今回は、選択式で25点以上、択一式で44点以上が必要でした(これも、試験の結果によって毎年変動します)。これらの基準点を1つでも満たしていなければ、他がどんなに点数が高くても合格しませんし、次回以降免除になるなどの措置もありません。この試験は、まさに「1点に泣かされる」試験だと言えると思います。この「1点」で落ちると、本当にメンタルに堪えると思います。
社会保険労務士試験の勉強方法の選択肢は、大きくは次の3つだと思います。
金銭面のことを抜きにして考えれば、資格学校へ通学するのが一番良いと思います。教室で授業を受けられ質問や相談もできること、一緒に挑戦する仲間ができること、自習室を使えることなど、メリットばかりです。ただ、仕事と通学の両立というのは、よほど恵まれた職場環境でなければ難しいと思いますし、また、今年はコロナ禍で講義が開かれなかったり自習室が使えなかったりしたなどの影響もあったと聞いています。現下の状況が続けば、通学のメリットは少なくなるかもしれません。
仕事と両立して勉強をするのであれば、通信教育が一番現実的かなと思います。費用はかかりますが、お勤めの方で雇用保険が適用されている方であれば、通学や通信教育の場合、条件を満たせば教育訓練給付制度を使うこともできます。どこの資格学校が良いかは、私は使っていないので分かりませんが、人によって講師やテキストとの相性があるようですので、資料請求をしたり無料体験をして比較してみると良いようです。
さて、私は独学の道を選択したのですが、独学のメリットは圧倒的に費用が安くすむことで、それ以外のメリットは何もありません。社会保険労務士試験は、いくつかの条件を満たせば独学で突破できない試験ではないですが、私は全くおすすめしません。最初に、今年の試験の合格率が6.4%だったと書きましたが、資格学校利用者の合格率は、その3倍以上あると言われています(大手資格学校のフォーサイトでは3.59倍だと公表されています)。独学の人の合格率というのは統計としてはないと思うのですが、つまりこれは独学の人が合格率を大きく引き下げているということだと思います。通学や通信教育に比べて、勉強時間も長く確保する必要がありますし、効率も非常に悪いです。独学は茨の道だと思いますし、私は通信教育で勉強をしている方を本当にうらやましいと思っていました。
ただし、絶対に無理だというわけではないので、あくまで私見ですが、次のような条件を満たせば、独学での合格もありえると思います。
また、
私は該当しませんが、この条件であれば、独学でも取り組めるのではないかと思います。
特に、法律には「読み方」というものが存在します。この試験の本質は法律ですので、法律を読むスキルがあると、かなり有利だと思います。
大好きな二次創作者がいる。
その人が作る全てが大好きだ、生み出すものはプロ並みの技術と言ってもいいと思う。
本当に大好きだ。
しかしその人は自分の作品は下手だとずっとずっとずっとずっとずっと言い続ける、
沢山評価が付いた作品もまぐれだとやっぱり下手だと言い続ける。
私に出来る事は感想を伝えること好きだと伝えることその人が求めるCP作品を少しでも増やしたいと自ら創作もした
するとその人が生み出すものには到底及ばない(謙遜でも思い込みでもなく本当に自分は中なのだ)私の創作物と比べ自分は下手だと言う
私は間違ってしまったんだろうか
どうしてそこまで自分のかくものを、かいた自分を痛めつけられるのか見ていてとても悲しい、
https://anond.hatelabo.jp/20201026003439
何度かこの手の機会の格差に関する記事を読んできたが、今回のエントリーもなかなか心にくるものがあった。
格差の是正とか機会の均等のためにどうするべき、みたいな難しい話はここではしないことにして、ただただ感想を垂れ流してみる。
簡単に自己紹介をすると、自分は上記エントリでいう恵まれた側の人間である。
東京都で育ち、小中高と私立に通い、塾は幼稚園である5才から大学受験までの13年間通っていた。
小学校受験、中学校受験を経て中高一貫に進学し、周囲の大半が東大にいく環境で自分もそのレールに乗り東大へ進学している。
ただ、お恥ずかしいことに、大学に入るまで自分が特段恵まれている人間だという認識は全くなかった。
むしろ自分の家は両親が地方出身で比較的貧しい家庭で生まれ育ち、親が借金などに追われながら生きてきたような人なので、周りの環境においては貧しい方に分類されてしまっていた。
小学校で私立に通うような人はかなりお金持ちが多いので、別荘を皆持っている中で自分の家だけ別荘がない、などといったことで疎外感を感じて悩んでいたりもした。
今考えるととても異常なことなのだが、当時は本気で自分が貧乏だと思っていた。
学生のうちはせいぜい狭いコミュニティに生きているので、周りと比較してしまう。
はじめてこの格差の問題に気づいたのは大学に入ってからだった。
クラスやサークルに塾の友人や中高の同期がいて、新歓などでも最初の挨拶では出身高校の話になる。
お互い名の通った中高一貫校出身であることが多いので出身校の話をすれば大抵共通の友人の話などで盛り上がることができるので当然のようにその話をしていた。
ただ大学に入って仲良くなった人の中に全くしらない高校から入学してきている人がいた。
話をきくと地元には塾などが全くなく、強いて言えばくもんがあっただけ、模試も受けたことがないと言っていた。
正直自分にはそんな状況でどうやって東大に合格できるのか理解ができなかった。むしろ自分は学校の授業は当てにならないので全て寝て塾に全振りしていたくらいである。
彼は学問を愛していたし、とても頭がよかった。
勉強する環境が整っていて親から「勉強しろ」と言われる毎日の中で、勉強が本当に嫌いで仕方なくやらされている感じで勉強をしてきた、東大に入っても学問にまったく興味を持てない自分を呪った。
心のそこから自分の代わりにこういった人に東大で学問をしてほしいと願った。
東大は国内にそれ以上の大学が実質的にないと言っていいので、学内のレベル差は最も大きいのではないかと思っている。
入学してすぐ、もっと学問が好きな人、地頭がいい人はたくさんいる、自分は最底辺であるということを悟った。
お金と環境でなあなあで入学したのはいいが、自分は要領がいいだけでなにもすごくなかったのだと自覚せざるをえなかった。
格差を知り、自分の立ち位置を理解して以降、恵まれている側のコンプレックスのようなものが芽生えてしまい、外で初めて会う人などに「東大生なんだすごい!」と言われるのがとてもつらくなった。
ただ、東大に落ちている人がたくさんいる中で自分は環境のおかげでここにいる、決して頭が良いわけではないと言っても嫌味にしかならないので、当たり障りのない謙遜をすることしかできない。
ただ、ここでは自分よりもっと東大で学問をするべきだが、そのチャンスすら得ることができない人がたくさんいる事実を噛みしめたい。
最近では恵まれた環境に育ったからには努力を怠ってはいけない、社会に還元しなければならない、という認識を持っているし、周りもその想いで似たような環境から激務の公務員などになろうとしている人や事業を起こしている人が多くいる。それが自分たちにできる精一杯だと思っている。
とりとめもなく書いてしまったので結論はないのだが、皆がチャンスをえられるような社会を目指して、微力ながら行動していきたい。
先週、Bさんとのシフトの時に暇だったので雑談をしたら、どういう流れか忘れたけど「バイトそれぞれの個性による怒られ易さについて」という話になった。
そんで、Bさんから「増田さんってあまり客からキツく当たられたりしないでしょ?」って言われた。今までの人生で何度か似たようなことを人から聞かれたけど、謙遜するとあまり良い結果にならなかったような記憶があるんだよな、と咄嗟に思ったので、
「それは確かにそうー! 私、たぶん他の人よりだいぶ怒られにくいですよ!」
って堂々とサムズアップしたら、Bさんは「ですよねー」って苦笑した。この話題でムッとされなかったのは珍しい。やっぱり私はそういうキャラでーす♪と言っていた方が世の中上手く回るのか。
「増田ちゃんって毎日が幸せそうでいいよねぇー。苦労したこと全然ないんでしょ?」
って言われた時、何を思ったのか、
などとナメくさった返事をしたら喜ばれたことがあった。外見と中身の一致は大事ということなのだろうか。知らんけど。
新しい自動レジが導入されて数週間経つ。新自動レジはお客様が自分で支払い方法を選んで、自分でお金をレジに投入したり、カードをカードリーダーに通したりしてお支払いをしなければいけない。
新自動レジ導入直後、オーナーは私どもバイト達に対して、お客様一人一人に「『レジが新しくなりまして、これからはお客様ご自身でレジを操作してお支払いしていただくようになりました』って説明しろ」って指導をしたのだが、これぞまさに怒られの原因になるので、私はオーナーの見ている前以外では、その長セリフは言わない。お陰でレジが原因で怒られることがほとんどない。Aさんはよくその長セリフを忠実に発してお客様を怒らせている。
「お会計◯◯円でございま~す。こちらのお支払い方法をお選びくださ~い、ありがとうございま~す。現金をこちらにお入れくださ~い、ありがとうございま~す。そうしましたらOKボタンをタッチお願いしま~す、ありがとうございま~す、またお越しくださいませ~」
って言う方が怒られない。説明をすると怒られる。~してくれるように頼む時はあまり怒られない。世の中、小賢しそうな人間を嫌う人が多いので、長く説明をするのは危険だ。
いつだったか忘れたが数年ほど前に、
「それは差別的呼称であり、当事者以外の者が謙遜・自虐・卑下に使うことは適切ではない」
事実、かつて多くの腐女子は自分の嗜好について自虐する風潮があり、
(乱暴な口調=男勝りなキャラ=自分カコイイ!!、という中二病も多くいたが)
それを本来の当事者であるゲイセクシュアルの方と思われる方の一部が、
「なぜ第三者である人間に立場を低く言われなければならないのか」
と憤慨するのは、当然の流れだと思う。
wikipediaによると、「同じ、よく似た」という意味のギリシャ語から生まれた言葉だそうだ。
(ちなみにホモサピエンスのホモはラテン語で「人」を意味するらしい)
「同じ性別を恋愛対象とする人」つまり「同性愛者」を指すに過ぎないのだ。
男性の同性愛者のことは「ゲイ」と呼び分けていることが多いが、
そのふたつを総括する言葉が「ホモ(セクシュアル)」なのである。
かつては「ゲイ」という言葉すらもしょっちゅう中傷に使われていたと思う。
現在ネットやテレビを見る人で、LGBTという言葉を聞いたことが無い人は滅多にいないだろう。
「ゲイ」は差別的なニュアンスで使われることが減ったと言えるだろう。
つまり、「分類上の呼称のひとつ」という本来の意味で使われるようになってきたということだ。
2chなどで多く見られる「ガイジ」「池沼(ちしょう)」という言葉だ。
2chなどで、と前置いてしまったが、私が小学生の時(10年ほど前)、
同じクラスに自閉症の子(支援学級に入っていた)がいたにも関わらず、だ。
この競争社会に生まれ落ちた存在として容易に陥りやすい思考である。
しかし、「障がい者である」ということそのものは、本当の障がい者にとっては単なる事実に過ぎず、
「マイノリティ」に属すること自体を屈辱的、普通よりも劣っていると決めつける集団心理だ。
(グループに属せないゆえにマイノリティと呼ばれるのかもしれないが、ここではあえてこう書かせてもらう)
とどのつまりは、「自分(達)よりも能力や数で劣っている人間は社会不適合者だ」というレッテルを貼る者達が、
ここまで色々書き連ねておいてなんだが、
私個人の意見としては、ああいうものは被差別者と差別者達が議論して折り合いをつけていくものだと思っている。
つまり、特に肩を持つようなことはしないが、一方的に攻撃するのはおかしいよね、くらいの認識だ。
しかし、社会の本質として「似ている人間同士の集団」こそあれ、
もしもクローンが作られ、同じ生育環境だったとしても、それは同じことだと思う。
「自分と違う存在」「自分より一見劣ると思える存在」を容認し、
それを愛する世の中に住みたい、と私は切に願うばかりだ。
切れたので分けました
・このように私は研究職向いていないのではないか?就活は①にすべきでは?と思うのだが、ただ、両親や教授や就職課のお兄さんは、このまま理系就職した方がいいよって言うんです。
・母は、私がさっき挙げた研究職向いていないと思う要素のほとんどは、別に他の職種でも必要な能力なのだから、別にあなたはどの職種も向いていないのよ。そもそも働くのが向いていないのよ、でも就職しなきゃいけないの、と言うの。
・私は高学歴なのか?まあ一般にはそうなのだろうな。学歴で足切りはされない学歴だとは思う。そりゃ東大とか偏差値的に上はいるけどね。
この大学に行きたくても入れない人は沢山いるんだよ、は色んな人に言われた。
就活を始めてインターンとかで他の学生の所属を聞いて、エッ、優秀な化学系の大学って日本全国にめちゃくちゃあるじゃん!私その中じゃめちゃくちゃちっぽけじゃん!マジムリ!と思った記憶はある。狭い研究室の中で井の中の蛙をやれていた頃は幸せだったなぁ、とも当時思った。
まあ私の大学も、そのめちゃくちゃある優秀な化学系の大学のひとつではあるのだろう。
・理系就職しないとしてじゃあどこに行きたいの?特に希望無いんでしょ?とも母に言われた。それはそう。大卒平均(できたらうちの大学の卒業生の無難な金額くらい)は稼ぎたい、とはふわっと希望している。化学系の研究開発以外で何の業界があるのかどんな職種があるのかもよく知らない。知らない幸せがあるとM1の時は思っていた(就活で視野を広げない言い訳とも言う)。あーあと敢えて言えば文系就職としてもいわゆる人気な業種は怖い。知り合いにいないのでよく知らないが、金融とか商社とかコンサルとかその辺ね。
就職課の人に言わせれば自己分析が足りないのだろうな。自己分析も自己PRも全然かけなくて1月とかに発狂しながら作った。
・あれかしら、本当に退学しないまでも、第二新卒で就職するつもりで少し就活するのはありだと思うの。下を知るべきかしら。
そういえば大学受験で病んだのも下を知らなかったのはあるかもな、と思っている。ハナクソほじってても入れそうな大学なんてひとつも知らなかった、高校の知り合いで、私がハナクソほじってても入れそうな大学に入っている人をかけらも知らなかった。
3年生の時に、今の学力そのままで受験になったとして入れそうな大学はどこですかと聞いたとき怒って教えてくれなかった塾の先生は少し恨んでいる。逆恨みだが。
高校受験は別に病まなかったのは、私がまだ世間を知らずにぽやぽやしていたから理想が上がらなかったのが大きいと思うが、下を十分知っていたのもあるのかもしれない。楽に入れる滑り止めが沢山あったのもある。
・嗚呼やだやだ忘れてた「大学受験もっと勉強すればよかったな病」を思い出しちゃった
でもね、しょーじき大学受験ちっとも勉強しなかったし、浪人生のときセンター前2週間くらいしかまともに勉強しなかった記憶あるけど、それでもうっかりそこそこの大学に滑り込んでしまったじゃん。それが悪い意味の成功体験にはなってると思う。あの時なんとかなったんだから今回もなんとかなるんじゃね?みたいな。
・院進学はほぼ即決で決めたが、就活したくないから、文系就職は絶対病むから、院進をすればきっと就活楽勝だろう、は理由の半分くらいであった。もう半分は、内部進学します!と言わないと教授が研究室に入れてくれなさそうだったのと、実験レポートは好きだったのはある。
この手の、結論を先延ばしにしたいというモラトリアム思考でここまで来てしまう、勉強はできる人ってありがちだと思うのよね。ほら見た?ちょっと前に私が書いた理想のキャリアプランもさ、結論を先延ばしにしていると思わない?
・これ思いつきなんだけど、自信が無いのって有機化学ができないと思っているからかな?もう一度勉強したら自信がつくかしら?院試もう一度解いてみる?失くしたと思うから誰かから借りてやらなければならない。
あーでもこれは躁による無謀な思いつきな気がする。怖いな。
・というか今絶対躁入っているのよね、どうしよう、自己管理ができない。昨日の夜も興奮して眠れなくてこの追記を書いていたら筆が滑って朝になってしまった。
・トラバ返信でもしたように、やる気が出るときと出ないときの乖離が激しくて、私は勝手に躁鬱のケがあると思っているのですが、頑張れる時期は馬鹿みたいに頑張れて徹夜も休日の実験も早出も残業も厭わないでできるのですが、できない時期は御覧のとおり引きこもる、というかんじで、高校時代から苦しんでいる。
一時期ラミクタールに手を出したが、就活で不利になるかな、というのと、平日ラボを休んで病院に行くのが嫌だったのと、お前のそれは薬じゃなおんねーよと友人に言われて2週間でやめた。
・今までの文章を読んでいただけたら分かるかと思いますが、私はどうにも理屈っぽくて、特に自己を語ると理屈っぽくなり、行動に移すまでにものすごく腰が重いという悪い癖があります。あまりよくない性格だろうなと思うので、改善出来たらいいのにな、とは思っています。やらない理由を探すのが得意で困ってしまいます。
この理屈っぽさを研究でも生かせればよかったのでしょうが、残念ながらあまり生きることはなく、見切り発車で実験をかけて失敗することが多いです。
・それから自分の選択に責任を取るのが怖くて、つい逃げの言葉を使いがちなのもよくないと思っています。うっかり、とりあえず、などの副詞をよく使いますが、責任を逃れたい意識がにじみ出る言葉だな、と思って本当はあまり使いたくありません。
・それから、私は自罰的で自己批判的である、との評価は人からよく貰います。そのこと自体はそんなに悪いことだと思わないで生きてきましたが、自己PRがかけらも書けないのが本気で困っています。
それから「もしかして謙遜と私の自己批判は違うのでは…?」みたいな思いが少しあります。
・私はこれまで相談室のようなサービスを使うのにものすごく罪悪感があって、いや、今でもあるのですが、まあこんな状態なら使う権利があるだろう、と思って使うことにします。コロナ渦で登校する学生が激減して空きは多いそうです。
・いや、罪悪感と言うより、敢えて露悪的に書けば、「手のかからないいい子でいたかった」という話だと思う。これはB4になったばかりの時にめちゃくちゃ思って病んだが、もう教授に迷惑をかけることは気にしないことにした。
偉そうなことをいうと、増田の練習への熱意はすごいし当然絵もうまくなったと思うけど、「周囲との比較」で自分の絵柄に自信をなくしたなら、それこそ「うまいと思う人の模写」ももっとやった方がいいのかもと思った。
(控えめな性格で謙遜してるのかもしれないけど、「上手くなったかどうか」の記述が少なくてなんかモンヤリしてるのかと思ったので)
増田には「人体作画のスキルアップ」って目標があったけど、デッサンや美術解剖のスキルって「持っていてもイラストに生かすにはまた別のスキルが必要」なんだよね。
例えばテルマエロマエの作者なんて美術留学でイタリアまでいってて、ほとんどの漫画家やイラストレーターより美術的にはうまいはずだけどあの絵だし。
もちろん本人がああいう絵でいいと思ってるんだろうけど、他の美大出身の漫画家もめちゃくちゃリアルに書き込んでるのに結構「え?」っていう絵の人が多い。
(今は上手くても初期の漫画だと目の上下位置すらずれてて、これで美大?と愕然とする人もいた)
逆に、漫画やイラストがすごく上手い人でもデッサンやらせると「こんなもんなの?」ってレベルだったりするし。
だから、地道な基礎練習ができることはもうそれだけで尊敬に値するけど(1日平均3時間は普通にすごい)、周りの絵に圧倒されたなら、同時に「最新のうまい・きれい・かっこいい絵」を模写するのも結構大事かも、と。
そういう「漫画やイラストのスキルと美術的なスキル」を合体させる技術って、模写やトレス以外に学べる方法って他にないんじゃないかなあ。
「ここ10年で絵のスキルがあがった」っていうのも、みんなが地道な勉強をやったっていうより、ネットで模写とかの参考にできる絵が増えた、あんちょこ的なショートカットが共有されたことも大きいんじゃないかなあ。
基礎的な画力の高さより、「よく見ると歪だけど、めちゃくちゃ魅力的なイラスト」ってのがすごい増えた印象がある。
模写はちゃんと考えられる人がやると理解度が全然違うし、「センスや流行を理解しそれに乗る」ってのもイラスト的に超大事な高等スキルだし、増田ならすごい速度で吸収できると思う。
線一本で表現の深さが段違いになる世界だし、漫画やイラストはそれこそ知識よりセンスで書く人が多いからこそ、美術的な知識で考えてもわからないスキルだらけなんだよね。
「なんでガタガタの線で綺麗な肌を表現できるの?!」とか、「この線がなくなっただけで全然違う絵になる!」とか、「よくわかんないけどここに細い線が2本重なってるのがかっこいい!」とか、模写やトレス練習すると予想外の気づきがある。
あと、絵自体は下手でも構図とかで「前後のストーリー」や「感情」を表現するのが上手い人とかもいるからね。
自分より下手でも「なんか気になる絵のひと」は、何らかの能力がめちゃくちゃ高いんだよね多分。
漫画は特にコマ割りで語るものだし、絵の技術だけでは推し量れない部分が多いからね、そういう人の漫画や絵をトレスすると新たな視点を手に入れられるかも。
不思議だけど、見てるだけじゃだめで自分の手で描いてはじめて気づくことも多いんだよね。
地道な練習も大事だけど、新しいことを知る刺激は単純に楽しいし!
だから、漫画を描くことが目的なら、他の漫画やイラストを模写を増やして絶対損はしないと思う。
流行とかセンスって、頭で学ぼうとするよりも実際に体を動かしてやってみる方が圧倒的に理解度が高いし。
まあ単純に頭の切り替えにもなるし、よかったらやってみた方がいいんじゃないかなあ、と偉そうに思ったり。
謙遜で傷つくのは損ですよー。増田さんはお母様に本心からけなされてはいないよ。
昔の人は、身内を褒める(実際凄く出来がよくて、内心は褒めて自慢したくても)のは下品という観念があったから。
だって、社外から上司あてに電話が掛かってきても、上司の事を下げて表現するでしょう?
社内では名前に役付きで呼び、敬語で話していても、社外の方に対してはたとえ専務や社長でも、名前だけで反応するようなもので。
眠れないので書き殴る
捻くれた家族の中で育った
暴力を振るう母
無関心な父
意地悪な姉
姉と同等に意地悪なわたし
父は婿で、いわゆるマスオさん的なポジションで、ずっと自室に引きこもっていて、私や姉が殴られていて泣いていても一切自室から出てこなかった。
思えば家族喧嘩は、いかに相手が傷つくか、そういう言葉の殴り合いだった。問題はいつも解決しない。
いつもギスギスしていて、さらに私は、1番子供で語彙力も無くて非力だったからいつも見下されて、殴られていた。殴られた次の日には、誰も何事も無かったような態度に戻る。
家にいるのが辛くて就職時に家を出た。
夫と喧嘩した時、夫が傷つく言葉を無意識に探している自分に気づいて死にたくなった。
喧嘩の解決になる訳でもないのに、目の前の人が傷つく言葉を探してる。なんて私は性格が悪いんだろう。夫が泣いてしまった。どうしてこんな酷い言葉が言えたんだろう。
夫と夫の家族を見てると、惨めになる。
お互いを尊敬してて、家族で助け合ってて、いつも感謝しあってる。うちの家族には無い。足の引っ張り合いもしない。もちろん暴力もない。
母曰く、謙遜しただけと言ったが、その時の義母の顔が忘れられない。
私は惨めだった。
こんな人間でごめんなさい。
なぜか女性と想定されることの多い書き手が、長い文章を書いて、結局自分の意見(わがまま)を表明したかっただけだとわかると、ネット上では「お気持ち表明」と揶揄することにすっかり慣れてしまっている自分がいる。
最近では、「結局自分のまとまらない意見を表明するだけだからな!非難するなよ!!」と予防線を張るために、ブログの書き手が自分の記事のタイトルに「お気持ち表明」と入れて謙遜(?)する向きもある。
こうした傾向にはなんら生産的なものがない。書き手も読み手も何らバリューを提供していない。
長くてまとまりがなく、同じことの繰り返しで、結局自分の意見(偏見)を開陳しているだけの文章があったら、
などと、具体的な指摘をしてあげよう。
日本という社会だからなのかはわからないが、自分のやっていることに対して一切何のフィードバックを受けないという前提の人は結構いる。
間違っても指摘されない
気に入らないことがあっても注意されない
うまくできても褒められない
どんなに慕われていても思いを伝えられない
要は、褒められても、注意されても、戸惑うしかない人、というのは結構いる。
え、何でこの人自分のこと褒めてるの?
え、何でこの人自分に注意してるの?
何もかもが攻撃に聞こえる人。
褒めていることすら戸惑いにしかならない人。
こういう人たちに何かを行った時に取りうるリアクションは
いやいや自分なんかそんな大したもんじゃないですよ、という謙遜のつもりの自己卑下
いかに自分が悪くないかをどんなでたらめなことを交えたとしてもとにかく言い切らねばと言うパニック
フリーズして何も言えなくなる
泣き出す
だがそういう人たちは子供の頃からフィードバックの後には何かしらの攻撃が来るとしつけられている、親に。
例えば、子供の頃に何か褒められたとする、子供なので素直に喜ぶ、調子に乗るなと怒られる。
例えば、子供の頃になにか達成したと親に報告する、親は何だその程度で喜んでと否定する。
例えば、何かミスを犯したとする、親は必要以上に、執拗にその子供を叱る、暴力を振るう。
何でこういう親がいるのかは知らないが、その親にとって子供はおもちゃでしかない。
この子供がそのまま大人になる。幼児期にはもうこういうパターンが刷り込まれているので、何もできない。むしろ人からのフィードバックが恐ろしいもの、戸惑いになるものしかなくなる。
結局自分に対する攻撃、という風に解釈したほうが心理的に自然になる。
そして本人はこれこそが論理的に正しいあるべきコミュニケーションだと思っているので、指摘すると秒で切れる。ブクマのコメント見てると、たまにものすごい距離を取って客観的に、斜に構えて物を言う人がいるが、そういう人たちの中にはそういう傾向がある人もいるだろう。
こういう人たちにとっての大好物はルールだ。ルールに従っている限り正義だ。ルールを逸脱すれば悪だ。自分たちがやられたことは人にもやりたい。意識していようといまいとやりたい。自分にとって一番自然な形に落ち着きたい