はてなキーワード: 能力主義とは
ヴィーガンは食生活についての主義で、増田の言いたいのはアニマルライツ(動物の権利)論者のことと思われる。アニマルライツを実践すると大抵ヴィーガンにならざるを得ないが、ヴィーガンが必ずしもアニマルライツ論者というわけではない。美容・健康、宗教的戒律、食の好みでヴィーガンをやってる人もいるからな。フェミニズムを実践するとヴィーガンにならざるを得ないというのも、あんまりメジャーな主張ではないと思われる。全ての差別を否定するならヴィーガン&アニマルライツにいきつく、というのは概ね正しいが。
で、アニマルライツも一枚岩ではないが、メジャーな考え方としては割と能力主義的なところがある。例えば痛みやストレスを感じる能力がある動物は、人間社会においては人間と同じように痛みやストレスを出来るだけ受けないよう配慮される権利があるってことだ。
つまり能力に対して相応の権利が生じる。日本国においても社会的能力が足りないと見なされる未成年には選挙権が与えられないのだから、同じくコミュニケーション能力不足な動物だって参政権などの「社会権」は相応に制限されるって寸法だ。社会権や財産権は生存権などの肉体的な自由と比べて一歩劣る扱いをしてもよい、というのはアニマルライツに限らず極端な無政府主義者以外ならある程度賛同するものと思われる。
ただ、近代国家は知的障害者にも参政権を与えたり、必ずしも能力と権利を全面的に対応させたりしない。アニマルライツは能力差別なのではないかという批判は昔から根強くあり、それに対するアニマルライツ側の反論もあるのだが、俺はアンチ・アニマルライツなのでここまでにしておく。
人は実績にではなく、期待値に対して金を払っている
例えば飯を買うなら、美味い飯を期待して金を払っている
労働も、実績に対して払っているようでいて、その金額は期待値で決まっている
成果主義を謳っている会社でさえ、期待値に払っていることが多い(つまり能力主義)
会社が未だ何もしていなくても、期待だけで株が買われる
期待値で金を払うことが必ずしも悪いというわけではないが
しばしば実績を置き去りにする
より実績を上げた人ではなく、期待を煽った人が多くの金を得ることがある
世の中がそれで壊れていないのは、反復購買があるからだ(リテンション)
期待を裏切られた場合「次は買わない」となる
そこにおいて実績は大した意味を持たない
(※過去の実績は問われるが、実際に成功したかは問われないということ)
もちろん、そういう状態を嫌って成果報酬型にする事業も出てきている
しかし、その成功に至る過程で、多くの期待値払いが発生しているのも事実だ
私たちは、期待値の中に生きているのか、実績の中に生きているのか
[1] この文書はもっぱらグーグルのマウンテンビューキャンパスでの視点から書かれている。私は他のオフィスや国について語ることはできない。
[2] もちろん、私にもバイアスがあるかもしれないし、自分の視点を支持する証拠だけを見ているのかもしれない。政治的バイアスの観点からは、私は古典的自由主義者であり、個人主義と理性に強く価値を置いていると思う。私はこの文書について喜んでさらなる議論を行いたいし、例証を挙げたい。
[3] 私は、この文書を通じて”技術職”を、ほぼソフトウェアエンジニアリングという意味で使っている。
[4] ロマンチックな男女関係において、男性はより強く地位によって値踏みされ、女性は美貌によって値踏みされる。さらにこれには生物学的な起源があり、文化的に普遍性がある。
[5] Stretch、BOLD、CSSI、Engineering Practicum(ある程度は)、それと特定ジェンダー及び人種のためのいくつかの他のグーグル提供の内部、外部プログラム。
[6] 代わりにある特定層のための潜在的なGooglegeistのOKR設定。私たちは、特定のグループにとっての環境を良くすること(それはサーベイスコアによって確認できる。)によっても、保護された地位に基づく差別化(それは違法であり、すでになされていると私は見ている。)によっても、組織レベルでの登用を増進させられる。登用増進OKRは後者のインセンティブとなりうるし、組織間でのゼロサム闘争を作り出しかねない。
[7] 共産主義は資本主義より道徳的にも経済的にも優れていることを約束する。しかし、その試みは全て道徳的には堕落し経済的には失敗している。自由民主主義社会の労働者階級が”資本主義の抑圧者”を倒そうとしていないことが明らかになったとき、マルクス主義知識人は階級闘争からジェンダーと人種の政治へと移行した。抑圧者-被抑圧者の中核的な力学は残り、今や抑圧者は”白人で、ストレートで、シスジェンダーの家父長制”である。
[8] 皮肉にも、IQテストは当初能力主義が貴族政治の犠牲者を助けとなることを意味していた時代に左派によって擁護された。
[9] もちろん、全国的な総計において、女性はさまざな理由で男性より賃金が低い。ただ同じ職業につく限り、女性は男性と同じだけの賃金を得ている。女性が男性よりお金を使い、給与というものが従業員がどれだけのものを犠牲にしたか(例えば、より多くの時間とストレスと危険)の指標であることを思えば、権力に関わるステレオタイプを考え直す必要がある。
[10] 伝統的なジェンダーのシステムは支援が必要な男性というアイデアをうまく扱えない。男性は強く、不平を言わず、自ら問題に対処することを期待される。男性の問題は、ジェンダーによる行為主体性の考え方によって、しばしば犠牲者というよりは個人的な失敗とみなされる。これは泣き言、不平、弱さの現れとみなされることを恐れて、男性が男性の問題(それが個人的なものにせよ集団的なものにせよ)に注意を払うことを妨げている。
[11] 政治的正しさは、”社会的に恵まれない人たちや差別されている人たちの集団を排除し、軽んじ、侮辱すると受け取られるような表現と行動を避けること”と定義される。それでなぜそれが左派の現象であり、権威主義者の道具であるのか明らかだろう。
って言うか、プロも含めてここで発言している人がほぼ誰一人原文読んでないってやばくないですか?個人的には偏向報道ここに極まれりだと思います。
・議事録の原文「最初に申しましたように、天皇家は続くことと祈るという聖なる役割に意味があるので、それ以上のいろいろな世俗のことを天皇の義務としての役割とお考えになられるのはいかがなものか。代々続く天皇には、優れた方もそうでない方も出られましょう。健康に問題のある方も皇位につかれることもありましょう。今の陛下が一生懸命なさってこられたことはまことに有り難く、かたじけなく思います。しかし、一部の学者先生が説かれるような行動者としての天皇とか象徴天皇の能動性ということも大切かもしれませんが、私はその考え方にさかしらを感じます。その世俗、secularの面に偏った象徴天皇の役割の解釈にこだわれば、世襲制の天皇に能力主義的価値観を持ちこむことになりかねず、皇室制度の維持は将来困難になりましょう。 」
※出典:天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/kaisai.html
如何でしょうか?正しいかどうかは別として、学者的立場、一人の良識ある国民として、天皇家を思っての発言と受け取れるのではないでしょうか?
しかしながら、あたかも「お飾りなんだから、ただ祈ってりゃ良いんだ!」と言わんばかりの捻じ曲げた毎日新聞の報道には、大きな疑問を感じます。というか、呑気に胸が痛むなんて取締役がコメントしている場合ではないのでは?とも思います。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20170521/k00/00m/010/097000c
みんな、原文読もうよ
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/dai3/gijiroku.pdf
最初に申しましたように、天皇家は続くことと祈るという聖なる役割 に意味があるので、それ以上のいろいろな世俗のことを天皇の義務としての役割とお考え になられるのはいかがなものか。代々続く天皇には、優れた方もそうでない方も出られま しょう。健康に問題のある方も皇位につかれることもありましょう。今の陛下が一生懸命 なさってこられたことはまことに有り難く、かたじけなく思います。しかし、一部の学者先生が説かれるような行動者としての天皇とか象徴天皇の能動性ということも大切かもし れませんが、私はその考え方にさかしらを感じます。その世俗、secularの面に偏った象徴 天皇の役割の解釈にこだわれば、世襲制の天皇に能力主義的価値観を持ちこむことになり かねず、皇室制度の維持は将来困難になりましょう。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20170521/k00/00m/010/097000c
みんな、原文読もうよ
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/dai3/gijiroku.pdf
最初に申しましたように、天皇家は続くことと祈るという聖なる役割 に意味があるので、それ以上のいろいろな世俗のことを天皇の義務としての役割とお考え になられるのはいかがなものか。代々続く天皇には、優れた方もそうでない方も出られま しょう。健康に問題のある方も皇位につかれることもありましょう。今の陛下が一生懸命 なさってこられたことはまことに有り難く、かたじけなく思います。しかし、一部の学者先生が説かれるような行動者としての天皇とか象徴天皇の能動性ということも大切かもし れませんが、私はその考え方にさかしらを感じます。その世俗、secularの面に偏った象徴 天皇の役割の解釈にこだわれば、世襲制の天皇に能力主義的価値観を持ちこむことになり かねず、皇室制度の維持は将来困難になりましょう。
たとえば、「失敗を恐れる」と言われる人がいる。失敗を恐れる人を批判する際にはしばしば「傷つくことを恐れている」という言い方がなされるが、実際のところそれがどういう傷つき方なのかに関して、批判者と当事者では大きなすれ違いがあるように思われる。
私見では、「失敗を恐れる」という時には2種類の仕方がある。自分の能力不足を実感することへの恐れと、自分の性格上の問題があらわになることへの恐れだ。 「失敗を恐れるな」という人は、そういう人を前者の意味で恐れているのだと考えるかもしれない。しかし、実際に「失敗を恐れる」と言われる人はむしろ後者を恐れているのではないだろうか(少なくとも私はそうだ)。ここにすれ違いがあると考えられる。
明確に能力不足に基づく失敗は対処しやすい。やり直しが効きやすいし、そのために何を頑張ればよいのかもかなりの確率で分かる。この世のすべての失敗がこれにカテゴライズ可能だったらどんなに素晴らしいだろうかといつも思う。
一方で社会生活の中には、この二分類に収まりにくい失敗もありうる。大げさな例だが、作った製品の動作不良で人を死なせてしまった場合なんかはそうだ(道義的責任が来るからね)。そこまで行かなくとも、日常のちょっとしたミスでさえ何度か繰り返していればいつの間にかそれは「意思の問題」や「性格の問題」になってしまうのが常であろう。
普通、能力の問題と人格の問題は別であると言われる。「あなたのやったことを咎めているのであって、人格非難をしているのではない」云々。しかしその二つが本質的に区別されうるものとは思ってない人にこれが通じるだろうか。私はこの二つに本当は大した違いなど無いのではないかと感じることが多いのだが (*1) 、そういう人は他にも大勢いるのではないか。
他の人がどうかは知らないが、少なくとも私の場合、失敗を恐れる気持ちとは「どこからどこまでが能力の問題でどこからが人格の問題なのかが分からなくなる経験」と一体になっている。「次失敗すると、それが人格や意思の問題にされてしまうのではないか」という感覚が湧いた時、失敗を恐れる気持ちに繋がる。だからそれを逃れるためには、
のどちらかしか無い。
まともな社会性を持っていれば、人格の問題と能力の問題が区別できなくなることはそうそう無いだろう。しかし、一度それが分からなくなった人間に言葉で理解させるほどの力を普通の人は持っていない。区別に自信のない人間は、他人を能力で殴れるようにするか、その場を逃げるしか無い。
---
(*1): どういう時にこれを感じるかといえば、たとえば「ほんとうに頭の良い人は○○しない」系の文章を見た時。これは人格を知能に還元できることを前提にした発言ではないか?
http://anond.hatelabo.jp/20160316231324
女性と男性、労働と結婚と出産などの、ここ100年くらいの状況って総括するとどうなるんだろ?
よくまとまってる記事とかブログとか本ってない? なるべく私怨が少ないやつで。
この辺の問題を論じるとき、参加者は背景の共有ができているのだろうか。できてないと話ズレるとおもう。
要点キーワード列挙するとこんな感じ
男女、歴史的経緯、政治の無策、教育、自分で考える能力のなさ(政治の無関心)、権力構造、時代に適応して価値観を変えたり次世代に引き継ぐことができない権力層
■昔
選択の自由がない単純化されたシステムだった。キツいが、役割を果たせば成立しているシステムであった。でも役割がキツすぎたのか反発が起きていく。
男性が労働して家族を養っていた。つまりそれだけの給料をもらえていた。ただ、家庭と職場の両面で社会的重責が課せられた。その反動か家庭内では暴力的だった。
女性は労働しづらかった。だから一人で生活が不可能なので、旦那を見つけて専業主婦するしか選択肢がなかった。たとえ暴力旦那でも。
男女がお見合いで利害の一致によってくっついて家庭になるので必然的に子供もできた。
このとき男性側のメリットって何なのだろうか?メリットというよりは社会的圧力だろうか。
あまり能力がなくても就職できさえすれば年功序列によって救われた。
女性は生きていけないので、旦那がイケメンかどうかとか言ってられない、なりふり構ってられない状況であった。だからブサメン男性も救われていた。
■現代
男性の給料が減り、家族を養うどころか自分一人を生かすのも危うくなった。男性一人の収入で家族を養えるのはごく限られた一部になった。
女性は能力と意志さえあれば働けるようになり、一人で生活が可能になった。とはいえ給料は男性と同じかそれ未満。給料的に置かれてる状況は同じ。金が無い。
このことから、子供を作る場合は共働きでないと収入面で辛くなった。それでも働いているので時間がなかったりしてかなり厳しい状況なので子供を作れなくなった。DINKSという。
仕事も育児もなんでもこなすスーパーウーマンなんかはごく一部である。共働きとはいえベビーシッターを雇えるような状況でもない。
親子間での殺人事件、ネグレクト、子供の騒音問題、ベビーカー問題、子供への犯罪、養育費の高騰、核家族化による育児サポートのなさ、大学まで行かせても低い就職率、ブラック企業、日本の将来性など、子供の未来にも暗い影があることも出産を抑制している。
それに子供以前に、結婚をしなく・できなくなった。女性は自活できるので、結婚への圧力は減り、恋愛は自由競争化しお見合いが減った。なので市場価値の高いものを志向するようになった。昔の男性のような家族を養える高収入、アイドルブーム、二次元の発達による美形、などを志向する風潮。
また、労働の能力や意思がない女性は、昔の時代の女性が受けた暴力の反動を根拠とするアジテートからか、都合の良いATM旦那や家事育児旦那を求めたり、痴漢冤罪や恋愛弱者男性の迫害といった、婚前・婚後を問わない男性への社会的暴力を開始した。昔の男性の罪など知らない現代の男性にとってはこれを不服とし、「イケメン無罪」「※ただしイケメンに限る」「メンヘラ」「(イケメンには良い顔をする)クソビッチ」などの揶揄・批判用語を作り出して応戦した。泥沼化している。
※昔の男性の罪は、現代の男性が負うべきなのだろうか。罪というかみんな別々の辛さだったんだけど。その批判なら男性でなく明治政府に対してすべきでは?
男性に対する結婚への社会的圧力も減ったので、男性側も結婚を選択しないで済むようにはなった。というか市場価値不足によってしたくてもできないのも大きい。女性の社会的暴力に辟易してしまう成分もあるし、二次元の発達、性風俗に従事する女性の美形レベルの向上もある。旦那がガンになったら捨てられたりする。熟年離婚。セーフティネット、互助機能が家族から失われている。「病める時も健やかなる時も〜」という宣誓は何だったのか。昔のところに書いたように、イヤイヤでも仕方なく結婚したケースも多いから仕方ないのか。
「労働の意思や能力があり、自活できる女性はDVから救われ自由を手に入れた」わけだが、「労働の意思または能力がないので高収入旦那ATMを必要とする女性」はあまり救われてない感じである。ATM旦那を見つけたとしても、そんな妻をもった旦那のほうはイヤイヤ結婚生活であり苦痛である。鉄道模型を捨てられたりするし。
恋愛市場価値の高い男性は引く手数多であり、未婚率が男性が高く女性が低いのは、そういった男性が再婚をするからである。
恋愛市場価値の高い男性と、低い男性との間でも溝ができた。「恋愛のアドバイスだって?じゃあさ、まず女の子と食事いくとするじゃん?」といった、前提レベルが違いすぎる分かり合えない溝を産んだ。
労働の能力や意思の無い(低い)男性は、強い社会的圧力にさらされている。
昔は年功序列によって無能も救済された。だが、徐々に能力主義になっていくにつれ無能は淘汰され、そもそも入社できなくなっていく。しかし昔の無能は年功序列によって上層部になっていくので、能力主義による淘汰を免れた。いまでは上層部の中・高齢者は無能と有能が混在し、中堅以下の中年や若年には無能が存在できなくなった。そういう組織構成になった。医療の進歩で寿命が延び、高齢化社会になったのもある。
それでもニートは200万人くらいいるらしい。「働いたら負け」の名言も産んだ。デイトレードと新小岩も産んだ。
※ニートはなぜか上限が35歳までで、そこまでしか統計を取っていないようだが、あまり年齢上限の意味はないと思う。
昔から現代を通じて「男性への労働圧力」はなんら改善されていないし、反発もされていないのだが、ニート200万人が無言の反発ともいえる。
昔の男女の役割固定の価値観は、現代の役割や生き方の自由化しようとしていることと相性が悪い。男だって働きたくない、男だって家事育児したい、女だって働きたい、女だって産みたくない。昔の価値観どおりにいくのはごく限られた一部であり、多くの現代人の足かせになり、もはや適さない。誰も得せず不幸にするだけ。
現代人は昔の人に教育をされたわけなので、昔の価値観が教育されている。それがもはや現代人を幸せにしない価値観なのにも関わらず。だから価値観を再構成する必要がある。そこに気づくことのできない、"優等生"現代人が、その意味も理解しないまま社会的圧力の次世代の担い手となり、自分自身をも苦しめている。昔の人の誰得価値観を守るために。20代-30代の労働における自己肯定感の低さと自殺率の高さたるや。棄民された氷河期世代も含まれる。
結婚・出産への社会的圧力は減ってはいるが、無くなったわけではなく、むしろ昨今の年金問題と少子化問題が深刻化するにつれて圧力が復活しているようにも見える。政治的失策を国民に責任転嫁する形で。
先述の「昔側の男性」に属する為政者による発言にもそういった圧力が増えた。産む機械発言とか。それが、男性へは収入(労働)への圧力、女性へは収入(労働)と出産への圧力となっていて、男女間でのさらなる火種となっている。というかすでに炎上しているところに油を注いでいる。
これまでのコーディングの経験の多寡はあれど、純粋に技術に憧れを持っていた。
それが悲劇につながるとも知らずに。
「ハッキング王に俺はなる」
コーディングの知識が増え、コーディングにひたすら専念したくなる。
なまじ技術を習得しているので、他人と話が合わなかったり、コーディング以外の仕事ができなくても、問題と認識できない。
「年功序列、終身雇用はオワコン。能力がないやつはさっさと辞めさせればいいのに」
PMの言うことも顧客の言うことも聞かないのでメインの構築からははずされている。
かろうじて、火消しやデバッグに駆り出されている。
「駄目プログラマは何人いても駄目」
「こんな糞コード読めるのは俺ぐらい」
もはや、何をしているのか誰も把握していない。
相談役のような肩書きだが意思疎通が難しいので、結局放置されている。
本人にとってはそれなりに安住の地。
チラ裏ごめん。
就活だ。
私の周りのエリートたちを見ていると、日系の企業から、全く内定をもらえていない。
東大・一橋・早慶→ 世界的な超名門大学・大学院、のような学歴も申し分なく、
もちろん英語も日本語もネイティブで、頭のキレもかなり良く、ロジカルで、知識も豊富で、話も上手い。
努力もしてきて、とにかく、とてつもなく頭が良い。
しかし彼らはみんな就活で失敗しまくっている。落ちるのは日系企業、もしくは外資でも日系っぽい企業。
私が考えた理由は2点ある。
1. 扱いにくい
おそらくエリートすぎて扱いにくいのだろう。上司よりも仕事が出来てしまったり、非効率な雑務が出来なかったり。可愛げがないのだろう。
だから上に従順してくれる体育会系とかが受かりまくり、エリートは落ちるのである。
外資は能力主義なので、可愛げのある奴なんかどうでもよく、仕事が出来れば良い。だから受かる。
2. 嘘がつけない
エリートたちは嘘をつくのが下手なので、「志望動機」を聞かれる最終面接まではホイホイ行く。
しかし志望動機でうまいことを言えないのである。「第一志望で〜す♪」なんて言えないのである。
言えても目が死んでいる。
外資は志望動機なんてどうでもいいのである。志望しているから受けているのだから。
この2つのせいで落ちてる気がする。
逆に
1. 扱いやすくて
2. 嘘・演技が上手い人
は、能力がなくても日系企業には受かっている。その代わり、能力重視の外資にはなかなか受からない。
成長するポテンシャル、我慢する力はあるのかもしれない。が、それだけでいいのか?と思ってしまう。
なんだか、勿体無いような気がしてならない。
今年の新卒で思う事、今年は多く8人取った。そんでその中で一番使える子が女新人Aだ。
優秀なんで最近は皆で優遇していた感は有る。そしたら別の男子社員が飲みの席で「女は良いですよね!男女雇用機会均等法のおかげで採用してもらって上にも行ける!本当に優秀な人間が上に行くべきなのに!男と同等の能力が有るなら上に行っても文句は言いませんが!」とほざいて来た。
この男子社員も含め新人の半数以上が、愛想もたいして良く無く、学生気分でメモを取っているにも関わらずよく指示を忘れる。
しかし、女新人Aの子はその逆、愛想も良く、指示を忘れる事も無く、大学で習っていたらしく教える前からPCソフトも上手に使える。
質の良い文化的財は、ただそこにあるだけで「全般化されたアロー効果」(ブルデュー)を発揮する。「アロー効果」とは、アメリカの計量経済学者ケネス・ジョゼフ・アローの言葉で、ブルデューはこれを以下のように解釈している。
「絵画、記念物、機械、製作物などの文化的財の全体が、そして特に、生まれた家庭の環境を構成している全ての文化的財が、ただそこに存在するだけで教育的効果を及ぼすという事実」。
単に裕福な家庭の子が進学で有利というだけでなく、
文化資本(上品で正統とされる文化や教養や習慣等)の保有率が高い学生ほど高学歴であることを統計的に証明した。
またその子供も親の文化資本を相続し、同じく高学歴になることも統計的に証明した。
彼はこれを文化的再生産と呼んだ。特権的文化の世代間継承と、学校がそれに果たす役割を解明。
社会構造が再生産され変化するメカニズムについて考察し、現象学的主観主義を発展させることも目指した。
「客体化された資本」(家庭の中にある文化的なもの、本、楽器、美術・骨董品、蔵書等)、
「身体化された資本」(ハビトゥス;慣習行動を生み出す諸性向、「構え」「ふるまい」)
の3つの客体がある。
国家貴族になる学生は、実は統計学的に両親の学歴資本、文化資本、経済資本、社会関係資本が高いことが挙げられる。
4歳までに、専門職家庭の子どもなら自分に対して発せられた言葉を5000万語、聞く。労働者家庭の子どもは3000万語、福祉家庭の子どもは1200万語だった。
就業人口の4割近くを占めるはずの生産労働者は美術館の観客全体の4%でしかなかった
「女だからと、男女差別をするな!」と女叩きアンチしてくる奴がいるが、女の方が「ブサメンだから」と差別してきたのに反抗してるだけだ(女の方から男女差別をスタートしていることに注目)。
白人叩きの内容は白人特有の、宗教、経済観、法規、選民意識に対する、本質的な本能部分を叩いている。
女叩きの内容も、ブサメンを冷遇しイケメンに媚びる、女特有の『自然な』考え方を叩いている。
女だから『自然に』イケメンにこびるわけで、それ自体は女の本能にすぎない。『女の本能』であるからこそ女叩きになる。女らしさがブサメンをいじめるから女らしさの原因になっている歪んだ考え方を叩く。
さて、なぜだか分からないが、最近のフェミニストは、「男女を分けて論じるのがおかしい」「男同士でのホモソーシャルがミソジニーを産んでいる」という論法を使いたがる。つまり、男の側が男女の差別をするから女叩きしてるんだろ?ということらしい。
確かに、高学歴のイケメン集団は女を自由にできるので、女を冷遇するだろう。金持ち集団が男同士が優秀だからと性差で(高学歴の)女を冷遇するだろう。
しかし、そこらの派遣がルールを作って女差別するか?違うだろ、女に「年収低くて恋愛対象にならない負け組」冷遇されてきたから女叩きしてるだけだろ。
いわゆるフェミニストどもが最近主張したい男女差別からの女叩き理論っていうのは、「高学歴の女が得するために、『(高学歴の)女は』と主語から高学歴を抜いてを女一般にしている」という矛盾がある。
だって、女の社会進出を高学歴女が推進したせいで、普通の女が共働きじゃないと暮らせないようになってしまった。
普通の女は見合い婚である程度満足できていたのに、高学歴女がモラトリアムがほしく、仕事した欲求を満たしたいせいで恋愛至上主義になった。
フェミニストって高学歴女が大多数の低学歴女を搾取するための方便になってるわけだ。
ようするに、高学歴フェミニストが叩きたい、「女差別するな!」っていうのは、資本主義のトップが儲かれば経済が回るんだからって言って底辺の大多数の人間を切って行ってるのと同じ論法なんだよな。TPPとか、年功序列叩いて雇用を奪ったりする能力主義者達と同じ。
さて、話は戻るが、「女はブサメンを冷遇し、イケメンを優遇している」のだけど、なぜこういう事が起こるのか?実は、男の側も女差別しているからだ。
男は女を9割見た目でしか好き嫌いを判断しないため、女の方は(高学歴イケメンの)男に気に入られるようにとりいる。取り入らないとイケメンとセックスして子供を残せないから。だからこそ、「イケメンに都合のいい世界=ブサメンを奴隷にして女に奉仕させて、奉仕された利益を使ってイケメンに媚びる」ということを女は選んでいる。いわゆるアッシーメッシーと時代が古いかもしれないが、今の時代ならノート代、ブサメンの風俗代、ブサメンと結婚してイケメンと託卵、そういう部分からブサメンを使って搾取してるわけだ(ブサメンにもウインウインな形になっているが)。
女の方がブサメン差別するのは、男が先に「女は見た目」と女差別したからなのだ。イケメンに媚びるためにブサメンを差別している。
これを分かっているからこそ、ブサメンはイケメンを叩く。「イケメンはいいよな」「俺たちブサメンは冷遇されてる(イケメンが得してる)」「人生は顔」「ただしイケメンに限る」「リア充士ね」こういう風に叩く。女差別で得しているのはイケメンだけで、フツメン以下はデメリットしかない。
女はこの現状をなぜか見て見ぬ振りをしている、自分に都合の悪い行動は気づかないふりだろうか。で、これに乗れなかったブスが男叩きをはじめる、そう、ブスもブサメンと同じく冷遇された底辺女だからだ。さらに悪いことに、努力系美女、努力系脱ブスの女(ほとんどの女だが)は、せっかく努力したのだからブサメンから搾取して当然と思っているらしい、ブサメンを人間と思わず自分たちに奉仕する奴隷と思っている(白人の黒人差別同様)。
これが特にひどいのが高学歴フェミ。男に差別された、男に差別された、性差で差別するなと言い出す。いやいや、超絶貴族家庭で育って低学歴女を搾取して、どっちが差別主義者なんだよっていう。女差別してるのはフェミニストの方じゃん。
フェミニストは高学歴イケメンの女排他の理屈にたいして「高学歴イケメンに見初められたいのに、高学歴イケメンの差別社会の中じゃ私は輝けない!高学歴イケメンは女差別やめて!私と結婚して!セックスして!」って言いたいのを、男一般、女一般を苦しめてまで主張してるわがままな搾取をする差別主義者にしか思えない。
結論なんだけど、「フェミニストが強硬に主張したい『女叩きは女差別からきている』論は超絶勝ち組のイケメン高学歴にのみ通用する理屈であって、普通の男は『女に差別されたから女叩きをしている正当な主張』をしてうるのだから、別に女叩きは黒人の白人批判と同じで認められるべきじゃないの?」
あ。ついでに、個人的には、「男に容姿差別をされて傷ついた女が男叩きする」っていうのはいいと思う。けど、ブスの男叩きが全部ブサメン直行なのは勘弁なw流石に論理的におかしいからそれは。叩くならイケメン叩いてくれ、男の恋愛感を叩いてくれ。でも、イケメンには相手されないから、『女を陵辱するエロ漫画やAVを消費して女に対する性欲のはけ口を汚く見せてくる男恋愛観、そしてそれを消費するブサメン』を叩きたくなるのかな、女は。