はてなキーワード: 能力主義とは
格差が広がることの何が問題なのかイマイチよくわからないんだよね。
治安が乱れるっていうのも所詮は統計に表れていない予言の域を出ないし。
この件、はてブでは感情的に反発している人が多く、もうちょっと落ち着けと言いたい
以下、思うことをつらつらと
ぶっちゃけ経営者の多くは前々から終身雇用には否定的だったと思うけど、ここに来て明け透けに言い出したのは、定年延長がきっかけだろう。
その昔は定年が55歳で、のちに60歳に上がり、人件費抑制のために多くの企業は役職定年を導入した。
そして65歳に上がり、将来的には75歳だなんて話まで出ている。
受給開始年齢が上がり続ける年金と同じで、増加する高齢者福祉の負担を誰が担うのか、なすり付け合った末の結果だ。
これは杞憂と思われる。
年功序列を維持しながら、終身雇用を廃止するのであれば、待遇の良い外資系企業やらに淘汰されるだけだろう。
そう信じてきた人たちは気の毒というほかないが、不文律でしかなく、補償されることはあまり期待できないだろう。
この辺りの不文律については、労働組合が支持し続けていたりするので、どう出るのかが注目される。
それは正しいが、デメリットがメリットを上回ると判断しただけだろう。
メンバーシップ型雇用を頑として続けるという逆張り企業が出て来ても良いと思うし、
時代による変化の小さい企業であれば、それが合理的になることも十分にあり得るのではないか。
これは正しいし、制度を変えることそのものより、ここが直面する問題の本丸なのではないかと思う。
世の中の仕事が高度化しすぎて、人間それぞれの能力に応じた仕事を用意できなくなってしまっている。
前にユニクロの会長が「中間層が減って年収100万円と1億円に二極化する」みたいな発言をしていた。
これもまた感情的な反発が多かったが、100万円と1億円は極端な例にしても、
横だけどこういう話がある
・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87 ピーターの法則
ピーターの法則(ピーターのほうそく、英: Peter Principle)とは組織構成員の労働に関する社会学の法則。
能力主義の階層社会では、人間は能力の極限まで出世する。したがって、有能な平(ひら)構成員は、無能な中間管理職になる。
時が経つにつれて、人間はみな出世していく。無能な平構成員は、そのまま平構成員の地位に落ち着く。また、有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。その結果、各階層は、無能な人間で埋め尽くされる。
便乗して語らせてください。
上野千鶴子がこういうことを言っていた時代と、「(ギャルゲーなどを消費するするシスヘテロ男性の)オタク」の側と、彼らに対する批判の内容が変わった結果、上野が過剰に非難されているのだと見ている。
*以後、いちいち書くのもうっとうしいので、「オタク」をもって「ギャルゲーなどを消費するシスヘテロ男性のオタク」に変えます。
当時、オタクの側の主張の大勢は、現実の女性とのセックスや恋愛は本当に必要ない、三次は惨事、二次元こそ至高!というものだった。代表としては、本田透の『電波男』だろうか。
対して、非オタの世間はオタクを、女性をものに出来ないからゲームや漫画を代替物として危ない性癖をこじらせている、本人の表面上の意思に反しても現実の女性とつがわせるべき。と論じがちだった。
で、上野は、オタクが二次元にしか興味がないというなら本当にないのでしょう。だったら現実に女性に加害をしないのだから、女性にとっては無害で、問題にする相手ではない。血縁家族を社会保障の前提とする現代日本では子供を作らないと困るフェーズが来るだろうが、それもオタクの自由のうち。というようなことを、過不足ありつつ散発的に言っていたと記憶している。
要するに、オタクの主張を信じて彼らのしたいようにさせておけ。というだけの主旨で、オタクの積極的な味方ではないが敵ではなかった。
十年以上時が流れて現在は、KKOとオタクがニアイコールになり、現実社会で救われるべきと、オタクの主張の方が変わってしまった。非オタの世間の方は、美少女コンテンツの氾濫ですっかり慣れた結果、いちいちオタクに違和感を表明しなくなった。プラス、上野は他にもオタクに嫌われる言動があり、上野の能力主義で自由主義な古典的リベラルフェミニズムとコンテンツ規制論を含む他の流派のフェミニズムとが混同された。結果として、当時の発言が実際以上にオタクを敵視したものとして取り沙汰されてしまっている。
と、こんな流れなのではないか。
シェンゲン協定ってのは労働者の域内移動の自由を保証するわけなんだけど、この協定に従って、労働者がたとえば出身地への愛情とか所有する家とかの諸条件を一旦無視して、経済的合理性だけで移動した場合、労働者の能力のレーティングに従ってEU域内の豊かな場所から順にアサインされることになるよね。つまりそれは能力の高い人が豊かな場所に住むって意味だ。
このモデルを思考実験で追いかけると、フランスはEU域内において、ドイツに次ぐ富裕国なわけだから、(適当な過程の数字だけど)EU全域統計における能力偏差値56〜53くらいの労働者が集まって住むことになる。もともとフランス国内にいた労働者のうち偏差値57以上の人はドイツに行くだろうし、53未満のひとは新しくやってくるボリュームゾーンの労働者に職を奪われて、それぞれの偏差値にふさわしい国や地域に移動して労働することになるだろう。これがシェンゲン協定の実態だよね。それがこの10年で明らかになったのが今の光景じゃないかな。
つまり「労働者の移動の自由を保証する」協定は、自由が自由競争に連結されている以上、能力主義によって追い出されて職場を選べないという「住居の自由を保証しない」協定になりうる。
もちろん上記のモデルは仮定のものなので色々要素が抜けている。政府は他の様々な政策(福祉や就業支援や移民政策)を通じてこのモデルに手を加え制御しようとするし、生まれ育った地域に対する愛情とかすでに持ってる不動産とか親戚づきあいとか、人口移動(あるいは不動)に対する影響変数はほかにもたくさんある。
フランスは域内では裕福な場所で、それはつまり目指すインセンティブが高い国家という意味だ。この国家の魅力を偏差値的に表現すると55だとしよう。このフランスで、55未満の市民に対する福祉的な政策をしてしまうと、シェンゲン協定は、EU域内から55未満の移民をかき集めてしまう。豊かな国なのに比較的納税額が少ない人をケアすれば、周辺国家から見て弱者をすてる老人ホームになってしまうということだ。これはつまり、フランスにはフランス市民にたいして手厚く福祉をする政策自由度がないことを意味する。
もちろん様々な工夫の余地はある。国籍を取って50年以上たった市民のみが福祉を受けられるとか。でもそれってたぶん欧州委員会に殴られるわけで、もっと細かく様々な方法で差別化するしかない。公務員として古いフランス市民を雇用して慰撫するとか。なんにせよ、EUがない国家に比べて政策の自由度がすごく低いということは理解すべきだ(日本での報道とかコメント見てると、このあたりを蹴飛ばしててすごく不公正な感じする)。
フランスがフランスの豊かさと文化を守るためには、そしてEU内での地位を守るためには、「フランスは金持ち向けの国家であり今後そうする」っていうデザインを取らなきゃならない。その意味でマクロンはその方針に対して忠実ではあったんだよ。でもその方針って「今すでにフランスに居る基準以下の労働者(先程の表現で言えば偏差値55以下の市民)は移動の自由に従って国外へ放出する」ことも意味してて、それがフランス市民には我慢ならなかった。
フランスの庶民や貧困層はフランス国民としてフランスで裕福になる権利があるってリベラルの人は言うかもしれないけれど、でもEU域内での庶民や貧困層(あきらかにフランスの庶民や貧困層より更に貧しい)は、フランスを含むEU域内の自由な場所で、EUの平均程度に豊かになる自由と権利があるわけだ。それはむしろリベラルの人がEU建設時に熱心に主張してた自由と権利なわけだよね。
そこには、正規も非正規もなく、男女差もなく、年齢格差もなく、外国人差別もない。
各仕事の内容に賃金表があり、昇進条件も役職手当も明確な会社でいいのではないか。
同一労働は、同一賃金なので、残業代を出してしまうと同一賃金ではなくなる。
かといって、残業代を出さないわけにはいかないので、次からは能力にあった仕事のレベルに下げられる。
同一労働、同一賃金なのだから、若い者を安く使って退職金を蓄えることもしない。
その会社での必要な知識と、体力の関係上、30代が一番有利で30代ばかりが上層部を占めるかもしれない。
知識が優先する職種だったら40代かもしれないし、体力優先の職場なら20代かもしれない。
どの道、ある一定の年代が上層部に集中してしまう可能性が高い。
人には向き不向きがある。それは自然なことである。本来ユニコーンの角のように鋭敏で尖っているものが、計るものさしの向きによっては短所にもなりうる。周りはその角をしきりに気にするのである。そこに優劣をつけて、優れたものを崇め奉り、劣ったものを見下し、屈辱を与え、尊厳を剥奪する。私こそ、その力学の中で最ももがき苦しんだ人間の一人であろう。私は才能、誰をも圧倒し凌駕するほどの、人類で一番というほどの天賦の才がなかったこと、ただその一点によって人であることを剥奪された。人は「それでも君は優秀ではないか」と鈍感なことを言うが、人類の分布の先端を目の当たりにしてしまった人間にとっては何もかも慰めにもならないのである。私は自分の無能を呪い尽くした。集団に不適応を催しているのなら、「天才」でなければ存在価値を認めない。そういった一元的専門能力主義に毒され、歪みきった価値観が「上位」の集団では蔓延しているのである。周囲は私にそのことによってのみ侮蔑的態度をとる。私の角をことあるごとにあざ笑う。屈辱の極みだった。腹も立った。しかし、それはあらゆる評価に裏打ちされた客観的事実に思われ、自分よりも明らかに優れている人間が繰り出してくる蔑みには抗えなかった。何よりも私自身が、この醜悪な能力主義を内面化してしまったようなのだ。苦しかった。自分が価値のないものに思えた。どんなに上り詰めても頂点に君臨するものに畏怖し、怯え、下から追われることにも怯え、自分が何もできはしないちっぽけな存在に思われた。数学ができれば生きている価値があるのだろうか?特別な才能がなければ、平凡であれば生きている価値がないのだろうか? しかしながら残酷なことに人の興味は優れ卓越したものに向くのである。私は私を肯定できない。
多くの人は能力と人間の尊厳とを勘違いしているような気がする。
能力があれば評価される。能力がなければ "バカ" とレッテルを貼られ、能力主義の元に正当化された差別が行われる。
"バカ" は人ではない。尊厳を踏みにじられ、人間としてカウントされない。それに耐えかねて死んでゆく。
言葉は何よりも切れる刃物だ。心を切り裂く刃物。それは物証としては残りにくい。しかし確かに苦痛を与えることができる。
人を物理的に殺せば罰せられる状況において、これはもっとも効果的な殺人手段である。いじめにおいてそれは行われる。
いじめにも損害を考えた理性的ないじめと、単に感情に流された野蛮ないじめがあると思う。
それらの違いはその集団の論理的な思考力による。感情を抑えつつ合理的な行動が取れるかという違いだ。
後者は語るに値しない。しかし、前者、これは人の残虐性が垣間見える。
コミュニケーションにおいては相手が心地の良いように演出することが重要である。つまり、人の気持ちがわかることこそがコミュニケーション能力だと思う。
裏を返せば、それは人がどうすれば傷つくのかをわかっているということだ。コミュニケーション能力を逆方向に運用する、そうすることで人を殺せる。
思いやりなどという概念はない。あるのは自分にとって利益であるかそうでないか。誰かがいじめられていても、助けることによるメリットがないならば助けず傍観する。場合によっては加勢する。当然といえば当然の判断である。
"バカ" かどうかは要するに "気づいているか気づいていないか" の問題である。それによって "生きる価値" なるものを否定されるのはそれこそばかげている。
障害者の方のお話を伺うセミナーに参加したことがある。それが終わった帰り際、ある人間が吐き捨てた。「何もできないくせに」
これが全てを物語っているように感じた。
能力を向上させるべく努力するのは大事であると思う。しかし、それと尊厳とを混同してはならない。
弱者を叩く、気に入らないから攻撃する、自分の優位性を実感できて心地が良いから貶める、そんな人間の残虐な本性を見すぎて嫌になった。
それが気持ちの良いことであるというのはその通りなんだろうと思う。だがだから実行に移すのは浅はかだとも思う。
正義はどこにもない。