2016-09-11

「失敗を恐れる人」について

たとえば、「失敗を恐れる」と言われる人がいる。失敗を恐れる人を批判する際にはしばしば「傷つくことを恐れている」という言い方がなされるが、実際のところそれがどういう傷つき方なのかに関して、批判者と当事者では大きなすれ違いがあるように思われる。

私見では、「失敗を恐れる」という時には2種類の仕方がある。自分能力不足を実感することへの恐れと、自分性格上の問題があらわになることへの恐れだ。 「失敗を恐れるな」という人は、そういう人を前者の意味で恐れているのだと考えるかもしれない。しかし、実際に「失敗を恐れる」と言われる人はむしろ後者を恐れているのではないだろうか(少なくとも私はそうだ)。ここにすれ違いがあると考えられる。

明確に能力不足に基づく失敗は対処やすい。やり直しが効きやすいし、そのために何を頑張ればよいのかもかなりの確率で分かる。この世のすべての失敗がこれにカテゴライズ可能だったらどんなに素晴らしいだろうかといつも思う。

一方で社会生活の中には、この二分類に収まりにくい失敗もありうる。大げさな例だが、作った製品動作不良で人を死なせてしまった場合なんかはそうだ(道義的責任が来るからね)。そこまで行かなくとも、日常ちょっとしたミスでさえ何度か繰り返していればいつの間にかそれは「意思問題」や「性格問題」になってしまうのが常であろう。

普通能力問題人格問題は別であると言われる。「あなたのやったことを咎めているのであって、人格非難をしているのではない」云々。しかしその二つが本質的区別されうるものとは思ってない人にこれが通じるだろうか。私はこの二つに本当は大した違いなど無いのではないかと感じることが多いのだが (*1) 、そういう人は他にも大勢いるのではないか

他の人がどうかは知らないが、少なくとも私の場合、失敗を恐れる気持ちとは「どこからどこまでが能力問題でどこから人格問題なのかが分からなくなる経験」と一体になっている。「次失敗すると、それが人格意思問題にされてしまうのではないか」という感覚が湧いた時、失敗を恐れる気持ちに繋がる。だからそれを逃れるためには、

のどちらかしか無い。

まともな社会性を持っていれば、人格問題能力問題区別できなくなることはそうそう無いだろう。しかし、一度それが分からなくなった人間言葉理解させるほどの力を普通の人は持っていない。区別に自信のない人間は、他人能力で殴れるようにするか、その場を逃げるしか無い。

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(*1): どういう時にこれを感じるかといえば、たとえば「ほんとうに頭の良い人は○○しない」系の文章を見た時。これは人格を知能に還元できることを前提にした発言ではないか

(*2): 真に能力主義を貫徹しようと思ったら、意思問題本来不純な要素であるはずだ。

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