はてなキーワード: 局所とは
こちらを読んで。http://anond.hatelabo.jp/20140618202833
私は脱いでる時に相手から見られているのが嫌いだと言って相手に布団をかぶせて待機していてもらう。
脱いでるところを見られるのが嫌というのは嘘ではないんだけど、おりものシートを見られるのが嫌って言うのが実は一番の理由なんだよね。
さて、ブコメを読んだところ排卵日以外はつけないとかそもそも付けない派とかをちらちら見かけるが、私は生理用ナプキンをつける期間以外は常におりものシートを装着している。このメリットは非常に多い。
予想に反して月経が早く訪れて、それが外出先であってもあわてずに対処できるし、くしゃみをしてうっかりちょっと洩れちゃった時も思いのほか下着を守ってくれる。
ここまで踏み込んだことを書いたら今更はばかるのも嘘くさいので書いちゃうが、極度の下痢を起こしたときにもおりものシートが犠牲になって下着を守ってくれたことがある。感謝してもしきれない。
もっと日常的な話をすると、たとえばジーンズは何回か穿いてから洗う人が多いと思う。
もしおりものシートがなかったら、分泌物の水分が蒸発して出来た蒸気をジーンズの股部分が局所的に吸ってる事になる。
採用っていうのは、入試みたいにスカラーの点数がついててある基準以上であれば通るってもんじゃなくて、マッチングなんだ。基準に足りてなければ採用されないけど、同様に基準をオーバーしていても採用されない。overqualified、って言葉は聞いたことあるだろう。
日本の新卒就職市場はマスに合わせてるから、あなたが自分で思うような人材なんだとしたら、多分あなたはマスマーケットに不適合なんだと思う。社会経験として就活をやってみてもいいけれど、自分の経験では飛び抜けて優秀な人ってのは就活とは関係ないところで仕事見つけてるよ (一本釣りされるとか)。
気をつけて欲しいのは、相手企業の求めていることがあほらしく見えたとしても、バカにしないこと。現在のシステムは、理想的でないにせよ、ある制約のもとで各プレーヤが最適化しようとした結果だ (局所最適に落ちてるっぽいけどな)。あなたが一匹狼で生きてゆくなら別だけど、日本社会の中で仕事をしてゆくなら、現在のシステムを成り立たせてる色々な制約と付き合って行くことになるだろう。それを変えてゆくにせよ、回避するにせよ、理解することは必要だ。
鼻血論者の言うように鼻粘膜のβ熱傷で鼻血が生じているのなら「たかが鼻血」では済まないよ。一例でも症例報告ものだよ。水俣病のときにそうであったように被曝との因果関連は不明であるにせよ、「他の疾患で説明しがたい鼻粘膜のびらんおよび炎症を伴う鼻出血の経験」とかで症例報告できる。鼻粘膜の局所の被曝で鼻血が起こっていたら、まず気付くのは鼻粘膜を直接観察する耳鼻科医でしょ。
鼻血論者のハードルは、単に「ごく微細な放射性物質の粘膜への付着で鼻出血が起こり得ること」の説明だけじゃないんだよ(そのハードルも実は超えていないのだけど)。それに加えて、「未知のメカニズムで鼻出血が起こっているにも関わらず、耳鼻科医の診察でも通常の鼻出血と区別できない不思議な現象が起きる理由」も説明できなければならない。さらに言うなら、「原発作業員のようなもっと多くの放射性物質の曝露を受ける人に顕著な症状が出ていない理由」も説明できなければならない。
いちえふを見学しただけで鼻血が出るのなら、そこで作業をしている人たちにもっとひどい症状が出てもおかしくないよね。アレルギーのように個人差が大きかったり、癌の発症のように確率的な現象なら説明できるけど、β熱傷説では説明できない。
お茶の間はドラマの主題歌やCMソングとそれとは別の話題のミュージシャンとかアイドル枠だとジャニーズとかAKB48、きゃりーぱみゅぱみゅ位までなら
多分許容しているだろうが、アニメソングはお茶の間が凍りつくと思う。
Mステに限らないが、PVで深夜アニメの少し卑猥なアニメキャラ達が歌って踊るシーンは見てて不快感を持たれる恐れがあるというわけだ。
今度の件ではうたプリ、ラブライブなんかが当てはまるけど、正直言ってアニソンがベスト10に続々入るようになって久しい。
ただ、それだけである。
他の人にとってはどこかで聞いた事あるなぁって曲ならともかく全く聞いたことがない上に、深夜アニメに対してまだまだ認知度が低く、酷い場合はそれらが有害図書であるかのような
認識でいる人達さえいるわけだ。PTASの子供に見せたくないアニメに未だクレヨンしんちゃんがランクインしている所を見ても当然だろう。
それとは別に往年のアニソン歌手などは昨今見られるようになったが、それは今のテレビ業界の年齢層を反映しているからである。
本業歌手は昨今アニメとのタイアップが実現しての主題歌担当なので、元々歌手でそれが売れればMステに出られてもおかしくないだろう。
こういったアニメキャラクターやその中の人はMステに出されるべきだろうか。
まず声優だが、子供ないし大きなお友達の夢を壊す事になるであろう中の人の出演はNGである。
林原めぐみ曰く「(本業の)声優は裏方に徹するべき」なのだから、本来は出演されるべきでない事は明白だ。
次にアニメキャラクターに関してだが、例えば初音ミクであればどうだろうか?
Mステでさえも海外でもその留まる事を知らない人気を無視できずについには出演となったが、それは海外の邦楽ファンの意見を容れた結果であり、
決してアニソンやアニメキャラクターが容認された、というわけではない。
調査の結果、子供に見せられるアニメキャラクター(ゲーム、音楽含む)だと認可されたための出演だったのである。
初音ミクのように海外でも無視できない人気であれば、アニメキャラクターを出演させることが出来るかもしれないが、
問題のうたプリやラブライブのムーブメントは局所的であり、日本以外ではまず話題に上る事はないだろう。
あくまで仮説の話だ。
それによって人間の認知可能な世界は広大に広げることができるだろう。
その一方で趣味嗜好だったり、話題にあがるものごとが極端に狭く単一化していっているようにも感じる。
2013年にこういった局所的大ヒットが複数発生したことは果たして偶然なのだろうか。
これは、ひとえにスマートフォン(特にiPhoneの普及とApp Store)
とソーシャルメディア(Twitter,Facebook)が大きく影響し、発生しているように思う。
ただ、こういった趣味嗜好の一極集中は、人間のあり方としてどうなのだろう。
豊かさが失われているような気がしてならないのは気のせいだろうか。
結局これは、男はじじいになると価値がなくなるが、女は年を取っても社会にとって存在価値があると思しき生物学的事実に、恐れおののいている人たちが、必死にあげている悲鳴なんだろうな、と。
(寿命の長さ男女格差問題、そもそも生物にとってメスが本体であり、オスは生殖の道具として発明されたものにすぎない問題、蟻などもそうだが社会性が高くなると、メスは生殖以外に存在価値を持つようになる(閉経というシステムが備えられている)が、オスにはそれがない上、精子はそのシステム上経年劣化してしまう、等々)
そうでないと聞いてもらえないから。まず聞いてもらうことが大事だから。
でもそれゆえ女性に対する無差別攻撃の様な形になってしまい、結果問題の内容に耳を傾けてもらえなくなり、悲鳴の内容が解消される日は来ない。
おぼれる者が、どこが水面かわからず、水底へ向かって泳いでしまうこの手の問題は、局所最適による失敗の一種なのかな、と思う。
人間は上手く出来ていない。
「いわゆるサブカル系ロックバンドのファンに背が低い女の子が多い現象」といった記事を読んでも読まなくても、ほんわりと感じていたことなのだが、いわゆるキャスケット(wikipedia)をかぶって街を歩いている日本人の男女がどうもちんちくりんな外見の人が多いのは、なぜなのだろうか、という問題について考えてみたい。
太めで大きな体の男性がキャスケットをかぶっていたら、この帽子の丸いシルエットがうまくマッチして、なかなか愛嬌のある外見になるが、ほとんどそういう人はいない。キャスケットをかぶっている男性はほとんどがひょろっとした体型で、以下の属性に分けられる。
たくましいイケメンがキャスケットをかぶっている姿はまず見かけない。かぶっているのは大抵の場合、ひょろっとした体型で、顔の作りがあまり良くない男性である。そして、キャスケットに合わせようとしている服や靴のセンスはぱっとしない。
これは次のように説明できるのではないか。
もともとファッションセンスがあまり良くなく、外見にもあまり自信のない男性が、オシャレしてみようと考えると、なにか他の人と違っていて、オシャレっぽく見えるものとして、キャスケットという選択肢がある。が、体を鍛えておらず、猫背で、しかもトータルコーディネートの技術に長けてはいないため、キャスケットのみが目立つ。その結果、全体的に、貧相で、うさんくさく、むさくるしいというイメージが、意図せず演出されてしまう。
若くして禿げてきている男性が、減った頭髪を隠すために帽子をかぶるが、少しでもオシャレにしようとして、キャスケットをかぶっている。しかし1.と同様の理由で、トータルコーディネートがうまくできていないため、一種異様な印象を与える。
私自身の周りで、キャスケットをかぶっている女性は、男性よりもさらに顕著な外見的統一性がある。
彼女たちは総じて背が小さく、痩せていて、顔の造作は地味であり、また浅黒い肌の割合が高い。
上記の体型をした彼女たちがかぶるのは、男性よりも輪をかけてサイズの大きなキャスケットであり、低身長とコントラストをなして、ひときわ、ちんちくりんとしか言いようのない外観を呈する。
この現象は次のように説明することができるのではないか。
彼女たちには、男ウケのする、Viviやcancamに載っているような、ギャル系の服を着る選択肢は最初から与えられなかった。
次の選択肢は、リンネルやOZmagazineに出てくるような、ナチュラル系かつ文化系女子を目指すことだが、この路線でナチュラルビューティーを達成するには、相当なリサーチ力とファッションセンスを要する。
とはいえ、ジーンズに、中途半端なフリルがついた寸胴型のチュニックを着ているだけでは、喪女たちの中に埋没してしまう。
このようにしてキャスケットをかぶることになるが、そのことによって全体的なコーディネート力がアップしたり、顔の造作が変わったりするわけではない。もっとわかりやすく、オシャレ感を出そうとすると、キャスケットのサイズがどんどん大きくなる。
こうして、身体の大きさにキャスケットの大きさが反比例してゆく。
以上のことから、キャスケットをかぶるという行為は、男女ともに、もともとの外見やファッションセンスというリソースの不足を最大限に補おうとする努力の一端であることが伺える。しかし、彼(女)らはもともと、異性に見せるための服と割りきって自分の服を選んだり、髪型や体型を変えたりすることがあまり得意ではない。その結果、キャスケットをかぶるという行為は、一点豪華主義または局所最適化的な解答になっている。
いやそんなもん俺だって理解してないけど。
でも「進化のために繁殖する」とか「強い遺伝子が生き残る」みたいな子供の妄想みたいな単純な話ではないということは容易に想像できる。
統計力学では協同現象という物理が広く存在するけど、これは局所的な相互作用だけで全体的に協調的な動きをすることがあるということ。
鳥や魚の群れが一斉に同じ方向に動いたりするのを見ると、「単純な進化論」的な思考だと何か全体の意思があると思ったりするんだろうけど、
もちろんそんなものはなくて、単に各個体は自分の近くの個体の動きに機械的に合わせてるだけ。
非線形力学系ではリミットサイクルというもんが存在して、あたかも何か意味ありげな構造的な運動が現れたりするけど、これも別にそれ自体に
深淵な意味があるというより、運動方程式の非線形性がたまたまそういう形を成しただけで、違う形のリミットサイクルが(見えないだけで)
無数に存在したりする。
極端に単純化した物理モデルでもそれだけ複雑な構造が起こるわけで、不確実性が比べ物にならないほど大きくて複雑な生物システムでは何が起こるか
なんてどう考えても単純に言い表せるものではないだろうし、「進化」とか「強さ」とか分かったような顔して語れるものでは絶対に無いだろう。
ネットリテラシーの高い声ヲタの皆様に置きましては周知のことかと存じますが、声優・阿澄佳奈さん(以下、アスミス)は未婚女性であられます。
誤った報道に情弱が煽られ、局所的に阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されるという、先進国水準では考えられない事態が生じております。
今後の再発防止のため、事の経緯を整理してみましょう。
このように書きますと、「俺はイベントでアスミスを見たぞ!」と反論される方がいらっしゃるでしょう。
生身のアスミスと、ファンが憧憬の眼差しで愛でるアスミスを混同してはいけません。
正確さを期して言えば、前者(生身のアスミス)は「たぶんそういう女性がいるんだろうね」といった感じの、極めて輪郭が曖昧な存在です。
逆説的ですが、前者から湧き出た後者(声ヲタ脳内のアスミス)の方が、ファンにはハッキリとイメージされ、実体(前者)よりもリアルな存在として認識されています。
2. アスミスは心の中だけにいる
このように、虚像が実像よりもリアルに感じられる状態が続くと、いつしか実像の存在意義は薄れ、やがて実像は雲散霧消し、「認識上の存在だけがこの世に存在する」という独我論に行き着きます。
声ヲタ1軍の皆様なら独我論の境地に達していることでしょう。もしくは自己防衛本能が働き、無意識のうちにアスミスを抽象化・永遠の処女にし、心の傷を最小限に止めているはずです。
したがって、メディアがいくら『実像』のアスミスについて書き立てたところで、独我論的アスミスは永遠に不変であり、声ヲタの精神的ホメオスタシスは維持されます。
今回の結婚騒動で少しでも心を掻き乱されてしまったアスミストは、これを奇貨として精神鍛錬を始めてみてはいかがでしょうか?
初歩的な訓練プログラムですと、『井上喜久子17歳』といったテーゼが独我論入門としては易しい部類に入ります。
阿川佐和子ばりの独身芸がウリの松来先輩も、そろそろネタが笑えなくなるので、積極的な心のメンテナンスを強く薦めます。
例えば『寝起きにポテトチップス』で、乙女ゲーにハマっている話を延々とすれば、イマジナリーな伴侶を容易に獲得できるでしょう。心優しいファンも松来先輩の妄想もとい自己ケアをサポートしてくれるはずです。
そもそも話がズレてるんだよ。
俺は「ビッグダディの家庭事情」っていう局所的なことを質問したのに
なんで「テレビに踊らされた一般人のその後」っていう広い話になるんだ。
事実かどうかなんて聞いてないし、「個人がどう思ってるか?」ってのは感想だろう?
別に否定派でも肯定派でもないし
興味が無いからチャンネル変えた時に見る程度だから教えて欲しい。
あれってちゃんと家庭が回ってんの?
あなたから見てビッグダディの家庭は破綻していないか、また子供は幸せそうに見えますか?
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1312/25/news043.html
アラサーの女です。
女性向けAVには是非裾野を広げて欲しいと思ったので、私が感じた女性向けAVの良い点を書いときます。
男性向けAVも定期的に見てたので(無料動画だけど)それと比較して感じたことです。
以下はあくまでも私の性的嗜好なので、是非他の女性陣の意見を聞いてみたい。(上記記事や関連ブログのブコメ読んでても、女性の率直な意見が見えなかったので。)
だから自分を投影する女優が、ブスだったり、素人のグダグダ体系だったり、巨乳デブだったりすると萎える。
細身で、おっぱいもそれなりにあり、手脚の長さのバランスがよくて、そこそこ可愛い顔が良いんです。
それがどれだけ現実の自分とかけ離れていようと、妄想の世界では少女漫画の主人公でいたい。
そういう点では、もしかしたら女性向けAVでは異性の身体についての局所的なフェチもの(男性でいう巨乳好きとかデブ専とか)は需要が少ないかもしれない。
私は男性の腕の静脈が好きで、隣にいる男性の静脈を見るとドキドキするけど、それをAVで見ても何も感じないと思うから。
イケメンが良いっていうんじゃない。
汚い感じのオッサンや、ホストっぽいの、みすぼらしかったりデブは駄目。
鈴木一徹って人はその点ではまってるのかも。
彼の出演作を何本か見たけどまったく顔は覚えていない。タイトルに名前が入ってたから覚えてるだけ。
女性向けのAV男優は、ジャニーズみたいな本人キャラ押しの売り方はしないほうがいい。
むしろ「彼が出ている作品は女性向けAVとしてはずれがない」、っていう作品ブランドとして押し出した方がいいと思う。
男性もののAVで「コンビニで万引きした女をバックヤードでお仕置き」ってシチュエーションがありますが、「これはないわー」と思う。
コンビニのバックヤードなんてバイトの店員が頻繁に出入りするんだからこんなことできないだろ、と思うともう駄目。
「ちょっと好意があるけど・・・」的な設定があってからの、「押し倒された」って感じが良い。こういうの少女漫画でよくありますね。
【追記】
「女性の代表」みたいに読めてしまったら、それはひとえに私の貧弱な文章力の問題です。すいません。
同意を得たかったのではなく、これが火付けとなって他の女性の率直な意見をもっと聞ければ、と思い書いたまでです。現実世界ではこういう話できないから。
男性のエロについては情報が溢れててマーケットが成熟してるので、女性向けのエロももっと分析されてコンテンツの質・量が向上してくれれば、と思ってます。
私がサードブロガーという言葉を始めて目にしたのはこの記事を読んだときである。
はてな村では「誰が言ったか」より「何を言ったか」とか言うけど嘘だよね。またはサードブロガーアワードでも、γブロガーアワードでも、+αブロガーアワードでも同時並行で勝手にやったらええねん
この記事について私はこのような感想を残している。
順位を気にしてるからこそ「順位なんか気にせず行こう!」って言ってるみたいで、なんか根本的な解決になってない気がする。宇野常寛っぽい。 2013/10/19
http://b.hatena.ne.jp/masudamaster/20131019#bookmark-165863730
「電車に新しい席を作ろう」という話を書いたつもりです
と言っているが、新しい席も何も、インターネットという場には無数に席がある。それこそ無限にだ。
勝手に座ればいいのに、アルファブロガーがうんぬんアワードがうんぬんと言い続けるその姿勢
カースト論そのものがそもそも馬鹿馬鹿しいし、ましてやブログにはそういった類の優劣は無いはずだ。
私のような疑問・違和感を他の人も表明している。
・サードとかフォースとか言ってる人たち
ゴメンやっぱりよくわからない。
この人ら、何が言いたいの?
「僕はアルファーになれない。アルファーになれない僕らは何者にもなれないのと同じ。でも何者にもなれないのはツライから自らが何者かであると自称する。よかったら認めてくれ」って話なの?そうとしか聞こえないわけだが。
それが書き手個々人の自尊心とかやる気にとって意味があるのは何となく分かる。だが、読み手にとってそれ何の意味があるの?個々人が胸の内で持っていればいいことじゃないの?その概念を広めて最終的にどうしたいの?
(略)
そのサードブロガーとやらは、アルファとは何が違うの?アルファと違って何が読み手にとって素晴らしいことなの?別にブロガーにプロアマの違いがあるわけでもないし、「アルファブロガー」の劣化版としか思えないわけで。 サードブロガーとして認められたら何か満たされるの?すでにサードブロガーとして認められた人たちは、何か心が満たされましたか? 何か生活変わりましたか?
自分なりの目標立てて満足したいだけなら、そんな名前いらなくない?
そもそもなんでアルファにこだわる必要があるの?アルファとかにこだわってるの君等だけじゃないの?自分に自信はあるけどアルファは無理、だからセカンド、サード、フォース、フィフス。そんな志半ばで折れてくたびれた人みたいな話に読み手が付き合う必要あるの?
毎日のように「本物のブロガーとは」みたいなこと言ってる人は、本当はアルファになりたいんじゃないの?
「僕らはアルファになれないブロガーです!」と自称する意味がわからないし、それを公表して一体どうしたいのか、とは
誰もが持つ疑問である。ほとんどのブロガーはアルファではない。しかしブロガーはそんなこと気にしないし、ましてや
いちいちそのような自虐めいたことを記事にはしない。
「僕らは競争から降りたんですよ」と言っているわりにはアルファブロガーに対する意識がとても高く、これにも矛盾を感じた。
この時点で、私のサードブロガーに対する印象は最悪である。自分の立ち位置を意識して書かれたブログなどに価値は感じないからである。
このような記事が投稿されたが、私はこれがまったくわからないのである。
何が言いたいのかわからないのである。村上春樹がここで出てくる。
「○○かもしれないし、○○かもしれない」
「完璧な○○など存在しない。完璧な○○が存在しないようにね」
一事が万事この調子で、とても難解な文章になっているし、私や他のはてなユーザーへの回答・反論にはなっていないと言って良い。
なっていないから「サードブロガー」の意味は二転三転したのである。
それはこの池田批判にも繋がる
サードブロガー問題について理解したいと思っている読者に対して何かを説明しようという意図は全く感じられない。説明する前にさらに自分の課題意識を語って問題をさらにややこしくしている。読んでる人完全においてけぼりである。
そうこうしていると、次はトマト祭り(?)なるものが開催され、よくわからないが、この事件には私よりも私以外のユーザーが不満を漏らしていた記憶がある。
たぶん、トマトをお題にブログを書いてブックマークし合う、といったような話であろう。
身内ブクマ問題である。この部分にはあまりコミットしていないので私にはわからない。
そうすると今度は、やけに声の大きいとても目立つブロガーたちが集団で現れた。体調わる子を筆頭としたはてな女子、大彗星ショッカー、まつたけ、etc・・・。
彼らははてなで大騒ぎをした。とんでもないタイトルととんでもない極論をまぶした記事をはてなに大量に投げ込んだ。
はてな移住前のファンを引き連れてやって来た(ホットエントリが確保されていた)。
お金をください、ファンになってください、と叫んだ。自殺宣言をした。馴れ合った。アイコンを女体に変えた。
私は彼らのことをさっぱり理解できず、嫌悪感を持ちながらも考察した。彼らがブログを書く動機や目的は何か。
そして彼らをどうカテゴライズすればいいのか。
そのとき、私やはてなユーザーは、池田氏が提唱した「サードブロガー」という言葉を持っていた。
これを使わない手はなかった。
池田氏の提唱する「サードブロガー」に対する嫌悪感と、新参DQNブロガーに対する嫌悪感が合体した瞬間である。
「まとめて呼んでしまえ」
ここで池田氏は「提唱者が違う」とおっしゃられるかもしれないが、私はこの記事を提示したい。
サードって言葉使うと俺はサードではないとか、まつたけは一緒にするなとか、原義がー事実誤認がーってうるさいんだよ、あいつら。
そんな細かいこと知らないし、ソース当たるために読み返さねーよ…
そこまでしたくなるほど魅力的な人物や文章がない。
かなり口は悪いが、それなりのことは言っていると思う。
つまり我々は、友達でもない人のブログをいちいち過去に溯ってまで読まないということだ。
自分のブログを過去に溯ってまで読まれるということはとても光栄なことであり、それは自分に興味を持ってくれたということでとても嬉しい。
ただ、それはとても稀なことであり、だから私の過去もあなたの過去もほとんど参照されない(それは救いでもある。東浩紀レベルになってようやく参照されまくる)。
池田氏以外の最近のブロガーにも言えることだが、「私はこのときこう言ってるんですけど!」「過去記事見てください!」
というのは文章のコミュニケーションではたぶん有り得ないことだ。文脈の時制を統一するのが文章のやり取りであり、もちろん
日本のインターネットに居るほとんどの人ができているのに、サードブロガーになると途端にこれがダメになる。
「私の過去ぐらい知ってるでしょ?(みなまで言わないわよ)」ときたもんだ。そんなもん知らないのである。
そういう姿勢が、サードブロガーの文章の読みにくさの大きな要因となっている。
話は逸れたが、つまり私や他の多数のユーザーにとって、「サードブロガー」の提唱者・代表者は間違いなく池田氏だということだ。
さて以上が「私がサードブロガーという言葉を使うまで」の私的(主観)歴史である。
サードブロガーという概念・言葉が二転三転した経緯を私はこう捉えている。
他の人はどう考えているのか。最後に私の目に止まったものを紹介して今回の記事を終わる。
kanose 「サードブロガー」が今までのブログとどう違うか明確に説明されず、他人が理解できない時点で、定義がどんどん出てきたのは当然だったんじゃないかな 2013/12/23
そんな絶望した世界にサードブロガーという言葉が定義されました。
だって、そんな名前つけなくてもWebには、小さな世界や日常をを映し出す人達なんていくらでもいた。
トマトブロガーになりませんかって茶化す記事があったときに一緒になって笑っていた。
別の人間も、フォースブロガーでもプラスアルファブロガーでもええやんと言い出した。
いっぽうで、はてなブログの馬鹿騒ぎに苦々しい思いをしている人たちは、
だから、彼らが大して大事にせずにほったらかしにしてた言葉を使うことにした。
この動きがあった時も、大して反論のようなものは見られなかった。
この時点で、もはやサードブロガーは提唱者のものではなくなってしまった。
乗っ取りが完了してしまっている。
(略)
起源などどうでもいいとはいわない。言葉を提唱したこと自体に意味が全くないとは言わない。
だが、サードブロガーという言葉をどのように使うか決められるほど
トマトバイトテロが洗濯機に入って浮かれているときに笑って見ていた。
ところが、「サードブロガー」周辺のやりとりをみるに、このあたりがよくわからない。PVや影響力だけがすべてではない、と主張しているようにみえるけれど、実際、サードブロガーに該当しそうなブロガーがPVや影響力を軽視しているようには見えなかった。既存のはてなダイアリー・はてなグループのブログ群のほうが、よほどPVや影響力を意識せず動いているようにみえたからだ。そして、彼らはお隣さん同士で「拍手」をつけあい、「あしあと」を気にしあうようなプライベート的ブログ文化圏のソレに近いようにもみえた。本人達の思惑はさておき、日本のブロゴスフィア全域を前提として考えた時、第三の極と言えるようなポリシーの鋭利さは見出しえなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20131222231100
http://anond.hatelabo.jp/20131209142219
http://anond.hatelabo.jp/20131224125320
http://anond.hatelabo.jp/20131228163827
俺はブログと言う世界で生きている、この世界で偉いのは金持ってる奴でも喧嘩強い奴でもない、土日祝日ブログ書く奴。サードブロガーです!
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/12/24/170036
めんどくさいがざっくり説明しとくと、
元々、Tumblr界の魔神otsu●e氏が道路を暴走し、それを「情報戦略は始まっとるんや」とウチで茶化したらクマのお医者さんが鉄製の屑籠を振りかぶって
「悪いことは悪いって言わんかい...オマエネタにして調子乗っとったらぶち○すど、このクソ猿ブログが!!」
と怒鳴られ説教されて「やべー!殺される―!!怖ぇぇぇっ!! (((( ;゚Д゚)))」と冷や汗かいてるところを取り囲んでブコメで騒ぐはてな村お馴染みの盛り上がりの一連をyarukimedesu氏が
ブログ記事を沢山書いて、アルファーブロガーになりたいな、なんて思ったこともあったけど。今でも思うけど、こらあかんわ。人生はあきらめが肝心だ。“
と書いた。
それを見たinujin氏が「アルファなんて目指さないでいいんじゃね?」と言い出したところが最初。
だから元々の発祥も「ボクたちサードブロガーはもっとブログ界を盛り上げて...」なんて意味でも無かったんだが、ちょうどその頃新進気鋭でロジック・思考甘々で釣りまがいの記事を挙げまくって軽く炎上するようなブログが(昨日今日も何やら燃えてたらしいが)幾つも出て来たもんだから「新進気鋭のブログ=サードブロガー」と結びついて、その瞬間本来的な「サードブロガー」と言う言葉と概念は死んだ。
(略)
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20110113/1034189/?ST=life&P=1&rt=nocnt
こんなのとかいっぱい調査結果あるよ。
少なくとも運動量の多い冬季スポーツをやる人なんかは使わない。
毎年改良してるそうだからだんだん良くなってるかも知れないけど。
あと局所的な発熱で痒くなる人がいるんだよ。
「女は産む機械」って発言したら袋叩きじゃん。でもさ、「男は仕込む機械」って言ったところで全然叩かれないじゃん。どう考えても男女平等じゃないよね。歪んでる。狂ってる。卑怯。差別主義。人権侵害。人間じゃない。
これと似たようなことで、「男は女を性欲を満たす道具扱いしている」ってヒステリックに叫びまくる女はいっぱいいるよね。でもさ、実は女の方こそ男を道具扱いしてんだよ。
女は何であんなに恋愛の話が好きかわかる?
それはさ、恋愛そのものが女コミュニティの中で強力なステータスなんだよ。男コミュにおいても恋愛にはそれなりの価値があるけど、女コミュにおいてはずっと強力。女は「恋愛している自分の方が上よ」と主張することで女社会ヒエラルキーの上に立てるの。男なんて恋愛をするための道具なわけ。アクセサリーなわけ。
いい男であればあるほど、見せびらかしてて楽しい綺麗なジュエルってわけよ。
男なんて見せびらかして闘争欲求を満たすための道具にすぎないの。そう、「女は男を闘争欲求を満たす道具扱いしてる」んだよ。え、お嬢さんがたそんなことないって? よーーーーーーーーく自分の内面を見つめて考えてみ? そしてよーーーーーーく今までの人生における、恋愛状況と女コミュでの立ち位置を見直してみ?
まあ、女に限ったことじゃないんだけどさ、男よりかずっとこういう傾向が強いの、女は。個人差もあるから、局所的なサンプルでは違うことも多々あるだろうけどね。でも無視していい程度の偏りじゃない。あとさ、「性欲を満たす道具にしてる」っていうけど、男に性欲を満たさせるかわりに女だって同時にある欲望を満たしてんだよね。まあ、承認欲求なんだけどさ。
わかるっしょ?
「こんなに男を虜にしちゃって、あたしったらなんて素晴らしい、素敵な、グッドな、なんて価値のある女なんでしょう、きゃっきゃっ」
ってわけよ。
メンヘラ女にはビッチが多いじゃん、ね? 要するにメンヘラってのは自己肯定感が薄くて、認めてもらいたくてしょうがなくて、どうしようもなくつらいわけよ。そういう時、セックスで承認欲求解消に走るわけ、「ああ、あたしったら必要とされてるぅ~きもちいぃ~満たされるぅ~」。そう考えるとさ、やっぱりセックスを通して女は男を「承認欲求を満たすための道具」扱いしてるんだよ。
だから、女を性欲のはけ口として扱う男を叩くのなら、平等に男を承認欲求のはけ口として扱う女を叩かないとだめなんだよ。もしくはどっちも叩かないようにすること。それが男女平等でしょうが。ま、男女平等が善かというとわかんないんだけどね。ああ、この記事の出だしは話のテンポをよくするためのジョークだからね。真に受けんように。
で、今の社会では、男を承認欲求を満たす道具扱いする女に対する批判が甘いよね。承認欲求ってのはその凶悪さ(基本有用だけど)に比して表だって見えにくいからね。少なくとも性欲よりかは分かりにくい。
まあ、みんな薄々感じてきてるんだけどね。この前の三鷹女子高生殺害事件とか、最近の千葉女性刺殺事件でさ、「ビッチは殺されて当然」って声がけっこうあったよね。あれはさ、「男を欲望を満たす道具扱い」していることに対しての憤りなんだよ。その憤りが爆発してああいう発言になったわけ。んだけど、言葉というか頭が足りないから、「ビッチであること」と「殺されていい理由」とを切り離して考えらんないっつーね。そこ残念。でも気持ちはわかる。
こんなこと考え始めたきっかけはこれ。
http://anond.hatelabo.jp/20131202152843
何でさ、わざわざアイコンを半裸の女にするのかってーとさ、承認欲求をためこんじゃって辛くなったからだよなあって思ったわけ。ちなみに当該ブログはこれね。
http://meerkat00.hatenadiary.jp/
男の性欲を逆手にとって注目を集めて、「あたし認められてるきもちいぃ~」をやりたくて、やらざるを得なくて、だからやっちゃったんだろうね。まあ、そこまで考えてないんだろうけど。文章からはそういう方向性にいかざるを得ないほど追いつめられてる雰囲気はなかったんだけどなあ。まあ、わからんね、女心は。
はてな女子のブログみるとさ、そういうのがけっこうあるよなあって思うのね。
有名どころはこれかね。
http://luvlife.hatenablog.com/
この人は完全に男を「承認欲求を満たす道具扱い」したくてしょうがない感じやなあ。かなり自己肯定感が薄い感じはあって(メンヘラというほどじゃない)、かあいそう。ビッチ目指してる理由として「奔放な性に罪悪感を感じない、自由な存在になりたい」って言ってるけど、おかしいやん。
別に「奔放な性に罪悪感を感じない」ためにビッチ行為を無理にする必要なくね? 別に超清純な修道女的生活を送りながらでも、「奔放な性に罪悪感を感じない」精神状態にはなれるやん。
ビッチ行為をせざるを得ないんでしょ。自己肯定感が欲しくて承認欲求を満たしたくて、ビッチやらざるを得ないんでしょ。本質は「承認欲求を満たしたい」わけでしょ。「男を手玉にとって虜にしてるあたしって素敵ぃ~」をやりたくて仕方ないほど、追い詰められてるんでしょ。性の自由人を目指す前にその薄い自己肯定感をどうにかせんと。自己肯定感が満たされれば必死こいて「ビッチ目指してます」なんて主張したくなる気持ちは消えるよ?
一方でビッチぶりを晒してはいるけど、「男を承認欲求を満たす道具扱い」は、してないのもいるんだよね。
http://gokkun-ramune.hatenablog.com/
ここらへんはしょーもないビッチだけど、なーんなんやろな。わりと対等なんだよな。ちょっと自分でもよくわからん。考えとく。
長くなったんでまとめに入るかね。
「男なんて所詮、女の欲望を満たす道具」ってのはやっぱり真実なわけよ。んで道具扱いされた男の悲しみも真実なわけよ。
それをもう少しさ、世の中の女性には分かった方がいいと思うわけよ。誰にとっていいかってーと女性自身にとってね。道具扱いされる男の悲しみを想定して行動することが、女性にとって快適な環境をつくるのは間違いないよ。
三鷹の女子高生殺人事件のさ、チャールズ・トーマス容疑者だっけね。彼のやったことは一切肯定できないけどさ、彼の気持ちってのは想像を絶するもんだと思うよ。不憫。
ストーカー男ってさ、すごーく叩かれるけれど、今の社会にとってこうなんというかね、進化を促す寄生体みたいな意味合いがあると思ってる。もっと簡単に言うとワクチンか。今、世の中には、女性が「道具扱いされた男の悲しみを考慮していない」という脆弱性があるんだと思う。その脆弱性を突く存在としての面があると思ってる、ストーカーってのは。こういう事件が一切おきず、男がされるがままの世の中が永遠に続くなら、女が好き勝手に男を道具扱いする世の中も永遠に続くよね。そこに一石を投じる存在なんだと思う、ストーカーは。
被害者の女子高生がさ、もう少し男心について深い洞察をもって完璧に立ち回ったところでやっぱり殺されたかもしれないけどさ、でも、「男性を道具扱いするのはまずい」という価値観はある程度、浸透した方がいいとは思うんだ。社会にとって有益と思うよ?
ぜんぜん、まとまんねー。
無理にまとめると、要するに世の女性は、男を道具扱いする時には、ある程度、リスクを覚悟して下さい、ということ。それが嫌なら男を道具扱いしない方がいいし、男を道具扱いせざるを得ない状況にならないよう、精神状態を別の方法でケアした方がいいよ、絶対。
男を好き勝手道具扱いして、キレた男がなんかしたら「あんたまちがってる、しになさい」を一切の罪悪感なく、自分に正義があると骨の髄まで信じ込みながら叫ぶのはやめた方がいいよ、これは最悪。
特に、上にあげたひきこもり女子の方なんか、ちょっとそういうとこあるよねえ……。
三鷹の事件も、千葉の事件も、何のせいで起きたかっていうと、あらゆる条件が複雑に絡み合って起きたわけで、簡単に「ビッチだから殺されたんだ」という一つの意見に集中するのはよくないけどさ。
70歳くらいのある時計職人のドキュメンタリーが2年ほど前にやっていた。それを録画したものを時々見ている。
そのドキュメンタリーで、時計職人が言った言葉が印象に残っている。
「どうせ世界は変わらないさ」
この言葉は、悲観的な気持ちで言っているのではない。そうではなく、自分を客観視するように言っているようだ。
その時計職人は、引退をしてからも、オリジナルの独創的な時計を作り続けている。そしてそれらの時計が街の色々な場所で良い景観となって動作し続けている。
時計を作っていくなかで、どうしてもうまく行かないことがある。その時に「どうせ世界は変わらないさ」と言って、熱中しすぎることを抑止して、冷静な頭で新しい発想を促しているように感じた。
自分のことだが、7年ほど前は「これをすることで世界が変わる!できるだけ短時間でやってやるぜ!マジンガーゼッ!」スタイルで、無理に色々な物を詰め込んで、無茶なスケジュールで仕事をしていた。達成感がすごいと感じていた。常に神経が張りつめた状態に自分を追い込むことで、細かな点に気づき、新しい発想が生まれた、と感じていた。
でも、今はそういうスタイルはやめ、「どうせ世界は変わらないさ」方式で、客観的に仕事をするようにしている。スケジュールもぎりぎりにせずに、少し余裕があるように設定している。結果として、問題の根本解決をすることができるようになり、その問題は一度解決したら、あとは手間がかからなくなり、次の新しいことにどんどん取り組めるという、正のスパイラルに入ったように思う。
振り返ってみて、モチベーションを高めて、邁進するというスタイルは、合う人には良いが、それは僕のスタイルではないと思った。神経がはりつめた状態で、細かな局所解に囚われすぎてしまう。そうでなく、「どうせ世界は変わらないさ」と楽観的なスタイルで、冷静に客観視しながら仕事を進めるのが自分には最良な方法であると思う。
そうでもない。
あなたが「不合理」と思う時は、「合理的ならこうなってるべき」って解が念頭にあるんだろうけど、得てしてその「合理的」は局所最適で、一見不合理に見えることが見えない要因を考慮に入れるとそれなりに合理的だったりする。
というより、当事者の心理まで考えると、今そうなってることっていうのにはそれ相応の理由があることが多い。各自が自分にとっての局所最適に落とし込もうと綱引きしてバランスの取れたところに落ち着いてる。一見矛盾があるような行動を取ってる人だって、その人なりの一貫性がある。
現状があなたにとって自明な合理性とはかけはなれてるとしても、それは単に自分の望ましい軸とは違う理由付けが働いてるってだけ。
「パロネタは熱い中に打て」とばかりに数カ所のみ改変したものを戯れに投下したところ、
補足1:これはパロディ(と呼ぶのもおこがましい改変ネタ)です
一行目にリンクを記載した記事(「21世紀の生存戦略」様)が元ネタです。桜蔭生かわいい。
これは、元記事の表現をそのまま用いた物ですが、元記事においては打ち消し線があります。
補足3:東大への進学実績について
2013年度において東大へは現浪合わせ99名が進学するようです。
学年あたりの生徒数が160名程度なので、約60%と算出しました。
(参考資料、pdf注意)
http://www.komaba-s.tsukuba.ac.jp/home/wp-content/uploads/2013/05/2013kokkouritu_zenkikouki0409.pdf
補足4:仕事について
だいたい似たような物だなと思って改変しなかったのですが、公務員、医者に加え、研究職や弁護士なども多いです。
民間就職する人間は安定した企業勤めが多いですが、もちろん起業志向もある人間もいます。
補足5:関西の雄について
補足6:その他
桜蔭、筑駒に限らずだいたいの都内進学校には当てはまるだろう、というご意見は完全に同意します。
とはいえ、筑駒生が結婚相手として優良なパートナーたりえることは、ここに強調しておきたいと思います。
乱文失礼。