はてなキーワード: 局所とは
『馬鹿と言う人が馬鹿』 これはもう疑いようのない事だと思う。
これについてこれから度々考察し、匿名ダイアリーに書くことにしようと決めた。自分の考えをまとめて整理する為だ。
この『バカとゆう人がバカ』といった言葉に、最初に出会ったのはいつであったであろうか。
過去を遡れば小学生の頃であろうか。・・いや、もの心がついて間もない時まで遡るかもしれない。
その時は自分も含め、親兄弟そして友達クラスメイト、はたまた恩師にいたるまで『馬鹿』とゆう言葉を多用していたように思われる。
「この馬鹿っ」「いやーぃバーカばーか」「うるせーよバカってゆうおまえが馬鹿だよ」「カーバ」「ばっかじゃねーの」
「馬鹿なんだからやめろよ」「んもう・・バカなんだから❤」・・・など多種多様な使われ方、使い方をしてきた。
この『馬鹿』という言葉について違和感や嫌悪感を感じたのはいつであっただろうか・・・
この疑問もきっと幼少時まで遡ることになるのだろう。
それほど馬鹿と言われるような行為をしてきたし、また短絡的に『馬鹿』と言ってしまう人物に囲まれた環境であったようにも思う。
ここで『馬鹿』と『馬鹿といわれるような行為』は分けて考えるべきだと提案したい。
理由は後で上手く説明できれば良いと思っている。
それで、馬鹿という言葉に対しての違和感や嫌悪感なのだが・・・
こんなもん言われたら嫌に決っているからだ。
なぜならば他者を『馬鹿』と断罪する人間は、決まってその対象者を見下し侮蔑しているフシがある。
この点については、異論など様々状況によって変わってくるであろうが、総じて『馬鹿』と他者対して言う人間は自分のほうが優秀だと思っている。
そして『馬鹿』と言ってしまう人間は言った相手に対して、考える事をやめてしまっている。
短絡的に『馬鹿』と断定し断罪し、慮ったり思いやったり、なぜ相手がそうなのかについて思考することをやめてしまう。
思考を停止して決めつけてしまう・・・。これはとても『愚かな』行為なのではないのだろうか。
まして『馬鹿』とゆう言葉を受け取った側の人間からすると不愉快極まりない。
その言われた瞬間に、相手から見下されてしまっているからだ。ここで怒らない人間はよっぽど出来た人ではないと無理だと思われる。
くだらないプライドを捨て、謙虚に真摯に『馬鹿』という言葉を受け止める。そういった人だ。
あほか!無理や!
日々そうゆう人間になりたいと努力は続けているが無理や!短絡的に『馬鹿』っていってくるような人間に謙虚などなれるかいっ!ぼけぇ
・・・少々取り乱してしまったが、本人が故意に間違いを犯したり、性根が曲がっていてワザと『馬鹿な行為』をしている場合ではないのに対し、
『馬鹿』だろ?「おまえバカだろ」などと言ってくる人間を、私は軽蔑するであろう。
なぜなら【人にされて嫌なことはすべきではない】と思っているからだ。
これは年を重ねていくうちに経験として、また他者から教えられて実感し学び身につけて来たことだと思う。
この点についてだけでも、他者に対し『馬鹿』などと言うことは良くないことだと明らかだと思われるのだが。
だって嫌な事されたり言われたりしたら不愉快じゃん。ムカムカイライラするじゃん。嫌われるじゃん。
別に嫌われてもしかたない場合もあるけれど安易に嫌われる必要ないじゃん。好きな子にフラれちゃうじゃん。
あと自分自身が『馬鹿』と言われる対象者ではなく、第三者の立場であった場合においても不愉快である場合が多い。
誰かが誰かに『馬鹿』と言われているのを聞いてしまったりする場合だ。陰口であったりした場合などは、なおさら最悪である。
まあ例外もあって、自ら『馬鹿と言われるような行為』を理解したうえで行った場合は別である。
「うわーい今日は白ーしーろしーろ白パーンツー」「ばっっかじゃないのっ!」
とかいった場合は『馬鹿』と言われても仕方がない。自ら解っていてやっているのだ。
しかしこれについてもスカートめくりをした本人が『馬鹿』なのではなく、スカートめくりという『行為』が『馬鹿』なのだ。
なぜなら・・・なぜならスカートをめくった本人は相手の女の子を好きであったりするかもry)
その人自身が『馬鹿』なのではなく『馬鹿』といわれる行為があるだけだ。
『馬鹿』と言われる『人間』があたかも存在し、またそれが当たり前かのように思われているかもしれないが、
それは『馬鹿』と他者に対して言ってしまっている人間が創り出し、短絡的に決定付けてしまっているにすぎない。
この言葉を意識し、本当に考え始めたのはいつだったろうか・・・
やはりトム・ハンクス主演の映画[フォレスト・ガンプ]を見てからだったように思う。
あの映画の主人公は、自分の話し方や行動行為で、他者から絶えず『馬鹿』(gump)と言われていたはずだ。
そして言われるたびに主人公は言い返すのだ。『馬鹿と言う人が馬鹿』であると。
映画を観た方ならわかると思うが、はたして主人公は『馬鹿』であっただろうか。
決してそうではなかったはずである。
昨今インターネットを閲覧していて、とてもよく見かけるのだ・・・短絡的に他者を馬鹿よばわりする人を。
安易にそういった言葉で他者を避難したり卑下したり揶揄したり見下したりする人たちは、自分がされる場合になったら嫌ではないのだろうか。
果たしてその対象者は『馬鹿』と断ずるに値するのであろうか。ただ単に経験が足りなかったり、知識がなかったり、知らないだけだったり、はたまた勘違いをしていたり。
そういった事なだけではないのだろうか。
上記のような状況を私はインターネットや私生活で見聞きしたりする度に、悲しくなったり深く考えたり、気分が悪くなったりするのだ。
そして
嘆かわしいとゆうか悲しいとゆうか驚くのだが、「知識人」と呼ばれている方などに特に多く見うけられる気がする。
ある程度の地位などに就いている方なども、そういった傾向がある気がする。
そしてだ。こういった方々は必ずといっていいほどブーメラン現象をみせてくれたりする。
自分が行っていた行為や言説で、自ら墓穴を掘ったりしてしまうのだ。
はたから見ていて目も当てられない。
最悪な事に、自分が間違ったとしても認めなかったりもする。間違っているのにもかかわらず、自らを省みずに他者を攻撃し続けたりもするのだ。
恥ずかしくはないのだろうか・・・もはやそうゆう感覚もないのだろうか。
それとも自分だけが正しく、まわりは間違っているに決まっていると思い込んでしまっているのだろうか。
他者をすぐ『馬鹿』だと断定してしまう人に、こういった事例が多い傾向があるように思われる。
こういった事こそが愚かで『馬鹿』な行為なのではないのだろうか。
確かに解らなくもないのだ。
知識がある方からすれば、知識がない人は愚かに見えることもあるだろう。
経験を積んだ年長者から見れば、若い人々の行為が愚かに見えることもあるだろう。
知っていて当然だと思う事を知らなければ「え?」っとなる気持ちもわかる。
出来て当然だと思える事ができなければ「なんで?」となる気持ちもわかる。
しかし気をつけて欲しい。果たしてそれは知っていて当然なのだろうか。出来て当然なのだろうか。
知らない事に対して理由があるのではないのだろうか。
出来ない事に対して理由があるのではないのだろうか。
出来る人はできない人の気持ちはわからないのだ。
目が見える人に目が見えない人の気持ちはわからないのだ。
歩ける人に歩けない人の気持ちはわからないのだ。
若い人に年老いてしまって体が不自由な人の気持ちはわからないのだ。
高等数学を苦もなく解ける人に算数でつまずく人の気持ちはわからないのだ。
語学が堪能な人に国語の勉強でつまずく人の気持ちはわからないのだ。
会話が得意な人に吃音で悩んでいる人の気持ちはわからないのだ。
赤ちゃんが何故なくのか日々生活に追われる大人や子育てをしたことのない人にはわからないのだ。
または忘れてしまっているのだ。
まだまだたくさんあるだろうけど、今挙げた例は逆もまた然りなのだ。
経験していない事、出来ない事や立場については理解することは難しい。
きっと何かについて苦もなく出来てしまう人は、出来ないという経験を積む事がないから
悩んだり苦しんだりする気持ちがわからないのだ。
悩んだり苦しんだりという感情を経験してないから、そういった感情自体を知らないかもしれない。
あまりにも出来てしまう人はきっと悩んだり苦しんだりする経験が薄すぎるから、感情が希薄になってしまう事もあるのかもしれない。
怖い事なんだけど、有能だと言われている人にはこうゆう傾向があるように思える。
・・・これはまた別の問題かな。今回の『馬鹿とゆう人が馬鹿』といった問題とは別かもしれない。
さて・・・
しかし、だ。
それら理解できない状況や立場、行動行為、人などを『馬鹿』と断定してしまって良いのだろうか。
切って捨ててしまっていいのだろうか。
理解しようとせずにいていいのだろうか。
それではあまりにも短絡的すぎるのではないだろうか。
思考停止と言えるのではないだろうか。
短絡的にすぐ断定したり、思考を停止させてしまう行為こそが愚かなのではないだろうか。
決め付けや憶測での価値判断こそ『馬鹿』な行為ではないだろうか。
高度な事を教えるのなら段階的に教えればいい。
基礎の事から学ぶように導けばいいだけの話だ。
なぜそうなるのかわからない場合、局所的な事実では見えない事もあるのだから、大局的な捉え方に目をうながすのも良い。
ちょっと立ち止まって思いやったり想像したり、相手の立場になって考えたりしてもいいのではないだろうか。
自分が上手く説明できたりするようになればいいのではないだろうか。努力してみたらいいのではないだろうか。
そういった姿勢や考えこそが賢く、【利口】と言えるのではないだろうか。
ふぅ~・・・ここまで書いてきて今気づいたのだが・・・あまりにもまとまりが無い。
文体、文脈、論理展開など滅茶苦茶じゃないだろうかこれは・・・。
このテーマについてはまたこれからも考察したりしていこうと思っている。
自分が他者にたいして短絡的に『馬鹿』などと言わない人になるために。
だが人に言われるのは好きじゃない。
私は、もちろん反対である。
例えば、予算が開催費用の方にまわされ、福祉方面が削減されたりといった事は当たり前になっているし、
基本的に、オリンピックとは、開催地の弱者を徹底して排除する事で成り立っているイベントなのである。
しかし、だからこそ東京で引き受けなければならないのではないか?
当然、そのツケを海外の他の都市にまわすという事でしかないからだ。
最も引き受けるだけの余裕があるのは、間違いなく東京なのである。
東京オリンピックに反対するリベラルや左翼は、この点を見落としている。
これは彼らの「脱原発」思想にも言えることだが、思考が日本だけの一国限定のものでしかないのだ。
日本が率先して原発を止めてしまえば、当然、その高い技術力の継承・発展は望めない。
そして、これは「脱原発」から見ても、将来的な廃炉の事を考えれば、
ある程度考えがまとまってきたし、変わってきた部分もあるので書いておく。
自分が性的欲求から自由でいられることは、非常な幸いだと思っている。周りの人たちが、この感情のために、いかに多くの葛藤を背負い、混乱に巻き込まれてきたことか。
なるほど、「この人と話していて楽しい」「この人の過去・現在・未来をもっと知りたい」「この人をもっと応援したい」と思うような異性には何人か出会った。よく「相手が見つからないのは環境が悪いから」という人がいて、それもいささかの真実を含んでいるように感じる。同じ興味関心・夢を共有している人は魅力的に映る。けれども、それは年長者が年下に対して感じるような、あるいは教師が教え子に対して感じるような親密感であるように思う。実際、同じ感情を同性に対して抱くこともあった。
やはり、端的に言って、普通の人と何が違うかといえば、性的欲求を相手に対して抱くかという一点に尽きると思う。普通の人は、性的欲求を感じるから、独占欲が生じる。あるいは、1対1関係という社会的・道徳的要請が生じる。友人が多いのは賞賛されるのに、恋人が多いのは賞賛されぬのは、ここに原因がある。私は、普通の人にとっての恋愛関係に近いまでの親愛の情を相手に感じることもあるが、性的欲求を感じない、独占欲を感じない。
自分は、性的なことに対して neutral な見方を持っているか。これは非論理的なことだと認めるが、neutral ではない。性嫌悪的なところがある。性的なものは見たくない。人前でできる程度のキスをしているのはよい。だが、それ以上は気持ち悪い。おぞましい。何かの弾みに、性的なバナー広告が目に入るのが不愉快だ。
上に性的欲求を持たぬと書いた。本当に0かは分からない。異性を見て、美しいと思うことがあるからだ。9割方は自然の風景や芸術作品に対する感情と同じものだと思っているが、同性に対してより、異性に対して感じることが多いのを見ると、まったく性的本能と無関係とは断定できぬ。しかし、美しいと思っても、服の下を見たいとか、触りたいと感じることはない。これは本当だ。むしろ、服に包まれていてこそ、魅力があるように感じる。露出度が高くても、美しいものはある。だが、法律で禁止されるような局所は見たくない。水着の下に突起とか裂け目を想像したくない。そこはのっぺりとした平面であるべきだ。
社会的な(人生観的な)理由で、子供がいらぬというのではない。確かに、自分の世界観として、仏教的とでもいおうか、生まれてくること自体が苦であるという思いがある。だが、苦でなかったとしても、子供はいらぬ。積極的に欲しがる理由がない。