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気付けば「忠臣蔵」の人気や知名度が無くなってた(らしい)理由の考察など - Togetter
忠臣蔵、そんなに減ってる?と思ったので並べてみた。
こうしてみると、なんだかんだ数年ごとに新作が出てきてペースは変わってないんじゃないのとか、一時期を境に映画とテレビドラマがスパッと切り替わってるんだなとか、そういうことを思った。
今回は、主にWikipediaの情報を整理しただけだが、どうもパロディ要素の強い作品は入っていないようだ。
もちろん、再放送なども入っていないので、リストに無いからといって、全く何もやっていないわけではないということに注意してほしい。
さらに「年末年始に放送された単発ドラマ」という括りで見ると、
となり、特に1987年から1991年までは途切れずに放送されていたため、この頃に「忠臣蔵のスペシャルドラマは毎年恒例」という記憶が醸成されたのではないか。
やあ、視聴者のみんな。
俺の名前はヴェノラ。
老若男女に大人気のアニメである『ヴァリアブルオリジナル』の不動たる主人公だぜ。
「己の心身に刻み込まれたエピソード」の人気投票、その結果発表だ!
応募総数は何と100万越え! (外国からの投票、組織的な投票、同一人物による多重投票を除く)
第5位から発表していくぜ。
第1位を知りたいせっかち君はグッと堪えな。
自分の投票したエピソードが入ってない子は管を巻かずに、真摯に結果を受け止めて。
結果がどうあれ、友達とは仲良くやれよ!
投票すらしていない子や、投票のシステムにブツクサ言ってる子は放っておいてやれ。
じゃあ、いくぜ、第5位のエピソードはコレだ!
最後に戦った四天王なんだけど、俺たち一行の緊張感はどうも欠けていた。
ましてや、この頃の俺は「とにかくすごいってことだけは伝わる設定の武具」を持ち合わせていたし。
油断していたことは認めるけど、それでも余裕だというのが客観的な判断だった。
剣姫スミロドン「無駄だヴェノラ! 貴様の剣は、ワタシにとって丸めた紙束のようなもので殴るが如く、なのだ」
ヴェノラ「なんてこったい! あまりにも予想外!」
剣姫スミロドン「今度はこちらから行くぞ! プレダトリ・スラッシュ!」
ヴェノラ「なんの! この防具で受けてやる……あ、痛いっ!」
剣姫スミロドン「さぞ痛かろう。今のお前が着けている防具は、さしずめ靴ズレを起こしているようなものだからな」
なんと剣姫スミロドンは、俺の「とにかくすごいってことだけは伝わる設定の武具」が通じない特異体質だったんだ!
そのことで動揺した俺たちは隙を突かれて、相手の張っていたあからさまな罠にまんまとハマる。
ヴェノラ「まさか、こんなところに結界牢獄があるなんて……逆に意外だぜ」
そんな中、イセカだけは油断していなかった。
イセカ「そうやって弱者を装い、歴戦の勇士である我が肉親を油断させたのだな、剣姫スミロドン!」
そう、剣姫スミロドンこそ、イセカが旅をする理由、両親の仇だったんだ。
剣姫スミロドン「貴様も直にそうなる。恨みの力は我が糧。それではワタシは倒せんぞ!」
この時、油断していたのは剣姫スミロドンのほうだった。
イセカの力の源は、恨みの力じゃない。
イセカ「引導を渡させて頂く! 届け、チョウナ・ブーメラン!」
第5位も納得の、素晴らしいバトルだ。
「チョウナ・ブーメランが四枚刃になるシーンの迫力には脱帽。売ってる玩具で四枚刃になることは知っていたけど、満を持して披露された時は予想以上に圧倒された」
「仇を討って大義名分がなくなったイセカに、『大義名分がお前にとって必要だというのなら、これから作ればいい』と言うヴェノラの説得力に感動した!」
「盛り上がるバトルはもちろん、今まで倒した四天王が、旧四天王だったということが明らかになるのも衝撃的」
「『かろうじてサブアタッカー』と言われていたイセカが、単独で四天王を懲らしめるという激アツ展開! アプリゲーム版での性能も早く修正して!」
日本 | 織田信長 | か坂本龍馬か。戦前なら楠木正成とか。他国と比べて「民族独立の英雄」「侵略者を撃退した英雄」が少ないのが日本の特徴か。北条時宗もそれほど人気ないし。 |
韓国 | 李舜臣(1545-1598) | 李氏朝鮮の名将。文禄・慶長の役では水軍を率いてゲリラ的に戦いを進め日本軍を苦しめた。一度は更迭され一兵卒にまで身を落とすも後に復帰し、露梁海戦で戦死した。 |
中国 | 岳飛(1103-1142) | 南宋の名将。農民出身ながら、私兵を率いて金に対抗し、幾度も勝利を収めた。しかし岳飛の存在が和議の邪魔になると危惧され、罪を着せられて処刑された。 |
モンゴル | チンギス・カン(1162-1227) | 言わずと知れた世界史上最凶の侵略者。 |
ベトナム | 李常傑(1019-1105) | 大越の名将。特に北宋との戦いに勝利したことで有名。また国政にも関わってその手腕を讃えられ、後に神格化されて崇敬されている。 |
フィリピン | ラプ=ラプ(1491-1542) | マクタン島の領主。イスラム教徒。世界一周中のマゼランがフィリピンに上陸し、各部族にスペインへの朝貢とキリスト教改宗を要求したとき、ラプ=ラプだけがそれを拒否し、その後の戦闘でマゼランを討ち取った。ヨーロッパの侵略に対抗した最初のフィリピン人であるとされる。 |
インドネシア | ガジャ・マダ(?-1364) | マジャパヒト王国の名宰相で、その領土を現在のインドネシアのほぼ全域にまで広げた。そのためインドネシア諸島の統合の象徴と見なされている。 |
マレーシア | ハン・トゥア(?-?) | マラッカ王国に仕える無双の勇士だったが、冤罪で死刑を宣告された。ハン・トゥアが処刑されたと聞いた彼の親友は怒り狂って反乱を起こしたが、実は密かに生き延びていたハン・トゥアによって討たれた。死刑を宣告されても、親友を殺すように命じられても王に従った、ハン・トゥアの絶対的な忠誠心が称賛される。 |
タイ | ナレースワン(1555-1605) | アユタヤ朝の王にしてタイ三大王の一人。ビルマの属国となっていたタイを連戦連勝で独立へと導き、「軍神」として崇められるようになった。ムエタイの創始者とも言われる。 |
ミャンマー | バインナウン(1516-1581) | タウングー朝の王。当時の王の乳母兄弟で、その崩御のあとに分裂したビルマを統一した。タイのアユタヤを兵糧攻めで降伏させて支配下に置いた。ナレースワンの台頭はバインナウンの死後より始まる。 |
ラオス | アヌウォン(1767-1831) | ヴィエンチャン王国最盛期の王にして最後の王。当時、ラオスを属国としていたタイに独立戦争を仕掛けたが、敗れて獄死した。メコン川の岸辺にタイに向かって銅像が建てられている。 |
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。
不届き者を成敗したことでヴェノラの溜飲は下がる。
「いやあ、溜飲が下がった、下がった」
だが、体温まで下がってはいけない。
風呂が豪華だったので、食事についてもヴェノラたちは期待していた。
そして、その期待に応えられる豪勢さを確かに持ち合わせていたのである。
「この宿の食事は美味しいな」
宿屋で提供された料理はヴェノラたちの満足のいくものであった。
だが、仲間の一人であるウロナのみ、表情は曇っていた。
「確かに味と質はいいかもしれません。ですがバランスがよくありません。肉の量に対して野菜が少なすぎます。できれば果物も欲しいところです。あと塩分過多です」
ウロナのクレームを見越していたのか、近くにいた宿屋の主は語り始める。
「実はその件なんですが、のっぴきならない事情がありまして。最近ここいらの村で野菜泥棒が出没しているんです。おかげで野菜は質や量の割に値段が上がって困っております」
なんと、それはよくない。
ウロナを筆頭に、ヴェノラたちの正義の心に火が灯る。
「その前に、出された料理を食べてしまいましょう。食べた後は消化するまで激しい運動は控えましょう」
腹が減っては戦は出来ぬというが、満たしすぎても戦は出来ないのである。
ウロナはそのことを説き、ヴェノラたちも静かに頷いた。
準備を調えたヴェノラたちは、野菜が盗まれたという現場で張り込みをしていた。
しかし……
現世の時間で計算すると、およそ午後9時になろうとしており、ヴェノラたちは痺れを切らしていた。
それはヴェノラたちの前回の睡眠から、十数時間が経つことを意味していたからである。
「これ以上の夜更かしは体によくありませんので、帰って休みましょう」
「そうだ。あまりに疲れた状態で寝てしまうと、睡眠のコスパが悪くなり明日に響く」
「そうしよう。あと寝る前に歯を磨こう……うん?」
帰ろうとしていたその時である。
まるでそれを狙いすましたかのように、暗闇の中で明らかに怪しい人物が不審な行動をするのが目に入った。
「来たぞ」
夜も遅いのに大声で喋る、不届きなヤカラである。
「野菜泥棒だぜ。この世界でも泥棒はよくないことだが、それでなお実行する意志があるんだぜ」
「なんですって」
夜も遅かったが、野菜泥棒が登場した以上、見過ごすわけにはいかない。
ヴェノラは戦闘態勢に入る。
だが野菜泥棒は相手がかなりやる奴だと勘付いた途端、踵を返して逃げ出した。
あまりにも予想外な俊敏さに、ヴェノラたちは面食らう。
「ここは我がやろう」
そこで真っ先に気を取り直し、名乗り出たのは歴戦の勇士であるイセカだった。
歴然たる経験の差に、ヴェノラは羨望の眼差しを向けざるをえない。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。あくまで身体能力を客観的に分析した結果、我こそが最適と判断したまで。別にあなたが女性だから特別に庇護しようだとか、そういう意図ではない。差別ではない、差別ではないのです」
「しかし、あなたはそこまで俊敏な人間ではありません。あの野菜泥棒に追いつけるのですか」
「イセカ、それはいけません。チョウナ・ブーメランは野菜泥棒の命が危ぶまれる」
こうなると頼れるのは一人しかいない。
ヴェノラである。
「では仕方ない、皆は先に帰って休んでいてくれ。俺一人で野菜泥棒を捕まえる。個人経営だ」
http://anond.hatelabo.jp/20170125191935
これに乗っかるんだけど、山本七平と司馬遼太郎の対談にこのあたりが一番はっきりでていると思うのだが、二人は以下のようなプロフィールである
司馬については軍歴はいまいちぱっとしないとはいえ基本的には学歴エリートだといえるし、山本にいたっては死地を潜り抜けた歴戦の勇士であり、また教育によって得られた英語力と数学力を存分に活かして軍隊の下級幹部として活躍していたといえるだろう。ようするに彼らはエリートであり、そして現代においては彼らは知的エリートであったと理解されている人物だと思う。
が、しかし彼ら二人が対談したときに、しきりに繰り広げられていたのが自分たちは下っ端であったとか最末端であったとか典型的な庶民であったとかいう主張であり、特に山本はその認識が強い。いや、もちろんしかし彼らは下っ端であった。しかしそれは庶民の中での下っ端であったのではない。エリート社会におけるその階層の中での下っ端であったということだ。
このことは何を示すか。司馬遼太郎や山本七平ほどの観察力をもってしても、自分たちがエリート社会の最末端であるという事実を、日本社会の最末端であると誤認してしまうということだ。
これは別にこの二人とか日本人とかに限らない現象なのではないかと思っている。どんなエリートであれ、かならず自分よりも上が存在している。
たとえばビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグにしたところで経済力がどれだけ大きいといっても、政治的社会においては最末端の存在であろう。彼らはその資金力をロビー活動に用いるノウハウという点では古豪に及ばないだろうし、また資金力という点では必ずしも有力ではないドナルド・トランプやバーニー・サンダースと比べれば直接的な政治力はゼロも同然だ。
これは極端な例なのであまり適切ではないかもしれないが、たぶん大抵のエリートは自分のことをエリートだと正しく認識できていない。ある一面における能力と運においてのみ秀でている存在であるということを認識しても、自身がエリート階層に属しているという自意識を持つことは、あまりない。
故に彼らは大衆主義/ポピュリズムと愚民政治を混同してしまう。それは、自身が大衆ではないと認識していないから。自分「以外」の人間集団を見たとき、自動的に彼らを愚民として認識してしまう。自分は大衆であるが故に、自分と違うものは異常者か愚民に違いにない、と。
この話にオチはない。
「異世界の勇士」の方はそれ以上の細かいあらすじはよく分からないけど
次の「扉を開けて」の方は詳細出て来るね(新井素子だし知ってる人多いのかな)
内村鑑三の著書の一つに『一日一生』という本があって、1年365日(366日)の各日について聖書の一句を引用し、それについて内村のコメント(他の著書からの引用)を付す、ということをやっている。
そのうち12月24日と25日がやはりキリスト生誕についてのものだったので引用する。
<12月24日>
”だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(コリントの信徒への手紙二 第5章17節)”
イエスが処女からお生まれになったのは、神が普通の出産法を賤しめられたからではない。人類以上の生命をこの世に持ってくるために必要であったからである。贖罪はキリスト降世の唯一の目的ではなかった。これは罪の世に現われた第二の人におのずから懸かった職分であった。処女の懐胎は新人を世に供するために必要であった。私たちは聖書の記事によるだけでなく、宇宙の進化の順序からも、また私たち人類の切なる要求からも、この大きな事実を信じるものである。
<12月25日>
”天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである(ルカによる福音書第2章10-12節)”
もしキリストがお生まれにならなかったら、この世はどうだったか。
シーザー、アレキサンダーらはなお陸続と世に顕れただろう。君主ひとりのために屍をその馬前にさらす忠臣義士は出たであろう。しかし下民のために剣を抜いたクロムウェル、ワシントンのような武人は出なかっただろう。ルター、サボナローラのような、いわゆる社会的勇士は生まれなかっただろう。
ホレス、ヴァージルのような宮廷に媚びを呈する詩人は出ただろう。けれどもダンテ、ミルトンのような平民的詩人は出なかっただろう。
キリストの生まれなかった世界は貴族帝王の世界である。人を崇めてこれを神として仰ぎ、一人の栄光を到達させるために万民が枯死する世界である。キリストによって筆も剣も脳も腕も貴族の用をせず平民の用をするようになった。
ブクマたくさんついてて驚きました。ありがとうございます。
更新するたびにコメントを書き直してる人とかも居て、みんな真心から勧めてくれてるんだなぁ、と。
ちなみに、1000年以上前の本で何かあるかなと考えたら、老荘や三国志等しか浮かばなくて、そういや西洋だとどんなんがあるんだろう、と思ってエントリを建てました。中国の本を除いて~ってのはそんな理由です。
んで建てた後に、そういやあの書き方だと中東の本とかも来そうだな~と思ってたら、まさかのヒンドゥー教の本が並んで笑った。
仕方ないんで岩波の『バガヴァッド・ギーター』とその訳者による解説(『バガヴァッド・ギーターの世界』)を買ってきて今読んでます。
戦争を前にして悩む勇士を、神が鼓舞するって設定からして面白い。
あと聖書を挙げてる人が多くて驚きました。聖書はそれ自体も面白いんだけど、理解できると西洋の小説や哲学がぐっと分かりやすくなるのがいいところ。
あと興味を引いたのはキケロ『老年について』。じじいになる前にに読んでおけとのことなので読みます。
『自省録』は何だか難しそう・・・。
思想統制の作法なんて、70年程度じゃ改善されないんだなって思う。
バレーボール試合開始前は「絶対に負けられない戦い!」などとうたい、彼我の戦力比や分析もなく精神論を掲げる。相手が強敵だとなおさら。
特定の、昨今ではイケメンの選手に注目。ことさらに祀り上げる。肉弾三勇士や広瀬中佐や九軍神みたいな祀り上げが平然と行われる。
劣勢でも、精神論をかざし負けていないイメージを演出。大歓声が選手を後押ししています! みたいな感じでごまかす。たまに良いプレイをしたときに大盛り上がり。敵が同じプレイしても無反応。
敵チームは「個人技」に長けていて、対して日本は「心を一つに!」して「チーム力」で勝負。個人技もチームの力じゃねーのか? そして日本人が個人技で得点しても、それは個人技と捉えられない。個人技は外国だけのもの。
戦後70年、私たちは未だ、客観的にスポーツを見ることが許されない。ま、日本が頑張っているような演出はみている方も何も考えずに気持ちよくなれるから、こういうスタイルの報道はこれからも続くんだろう。
何気ないものでも、時間が経てば書いた人のエネルギーみたいなものを感じたりするようになるのかもしれない。
その人が死んじゃって養子にきた遠縁の子が俺のじーちゃんだから、
そんなに直接の先祖ではない微妙な感じなんだけど、いきさつから割と裏山にあるお墓(慰霊碑)とかは大事にしてた。
蔵にその人の遺品が入った古いトランクを置いてたんだけど、シロアリが発生してダメになりかけてるって聞いて、
まだ巣になってなかった陸軍学校?のアルバムっぽいものと、学校や戦地で使ってたらしいノートだけ救出してきた。
アルバムをパラパラ見てたら、戦車が行進してる写真とかに混じって同期っぽい兵士の写真とかが貼ってあって、
「小隊一の勇士である」「真に仲間思いの男」とかコメント書いてあったりした。みんな若くてイケメン。
ノートの方は、学校で習ったっぽい、銃で高い位置の目標を撃つときの弾道と照準の合わせ方だとか、隊員(小隊長やってたらしい)の靴下の補給枚数のメモとかが書いてあった。
60年も70年も前に、この人は実際に生きてたんだなー、みたいな月並みなことをひしひしと感じて圧倒されてしまって、
こんなパラパラ読みじゃなくて、もっとちゃんと時間をかけて中を読ませてもらおうと思って家に持って帰ってきたので、時間を作ってちゃんと読んでみたいと思う。
もし好物の情報とか書いてあったら、今年の盆にはそれをお墓に供えよう。