はてなキーワード: 偶像とは
事を焦り過ぎ、何の恨みも無い安倍元首相をテロによって暗殺した結果
完全なる被害者となった安倍首相は「志半ばで倒れた偉大な政治家」として偶像化され
一方そんな彼の行為を腐し愚弄するリベラルやフェミニストの評価を「品の無い異常者」にまで貶めた。
実際彼女ら彼らの安倍憎悪は異常で、死してなお憎悪は霧散するどころかより強固になりお悔やみの言葉を送る人達にまで
ある事ない事悪口を言い募る浅ましい姿は、まさに鬼畜の所業としか言い様が無かった。
そんな彼らが使う「統一教会」「壺」「🏺」というワードは、「ネトウヨ」「性差別」「表自」といった、「党派性が偏った人達が使うレッテル貼り」にまで成り下がった。
最早本当に統一教会の危険性を訴えても、一般市民はその行為自体を忌避するまでになった。
「あぁ、また頭のおかしい党派性人が何か言ってる、怖いから近寄らんとこ」と。
統一教会を論じる事自体が「異常党派性者」と見なされるリスクを、山上は作ってしまった。
これが彼の望んだ結末なのだろうか?
反日カルト宗教はこれ幸いと逃げおおせようとしている。しかしこれは山上自身が作ってしまった世論なのだ。
彼のテロ行為は無意味どころか逆効果だったとしか言い様が無い。
彼は完全に失敗した、愚かな殺人犯だ。
引用元の筆者(以後あなた)はカール・ヒルティが敬虔なキリスト教徒であることを都合よく忘れてしまっている気がします。
あなたの言う通り、カール・ヒルティの『幸福論』1巻の大半はストア主義哲学をベースにした仕事術のような内容です。
それはおそらく、イエスが人々の聞く力に応じて、何事もたとえを用いずには語られなかったから、
それにならったのでしょう。
また、ストア派の考えとキリスト教の思想は一部分似通っていて、
私もあなたのように1冊目を読んだあと、キリスト教とヒルティの思想をより詳しく知りたくなり2巻3巻と読みました。
彼の著作である『眠られぬ夜のために』や、聖書も含めて日ごとに読んでいます。
だからこそ、あなたの言われたことには、まったくの勘違いがあると言いたいのです。
「死んだら何らかの形で次の人生が続くと考えた方がいいだろう。もし死んで何もなかったとしても、次の人生がある前提で生きる方が楽しく生きられるから、それでもいいのだ」こんな内容のことを言っていた
この点についてです。
『幸福論』にこのような思想は一切ありません。まったく反対の考えになってしまっています。
「現世のためでなく、来世の為にこそ、私は現世で善い人間として生きることを努めよう」
なぜそうなるのか、彼の思想がどう書いてあるのか。
幸福論1-3巻、眠られぬ夜のために、聖書などからの抜粋しつつ記します。
死後に私(達) もまた霊的な復活をし、
そして、神の国に入って高い者とされるのは、神に愛されるものである。
生前に清かった者、義に篤かった者、憐み深かった者…そのような人達である。
だから私も、私の愛する神の御前で恥ずかしくない自分になっていたい。
私は現世での朽ちる宝ではなく、永続する神の国での栄光をこそ求める。
だから、私は現世においてのあらゆる快楽や地位や名誉を軽んじ。
この空しい現世において、そのような決意と実行は難しい…。
神の国を想いかつ行動することで、様々な形で、しかし確かな喜びを感じる。
そうした経験を重ねることが信仰を深くし、やがて神のそば近くにいるという実感に至る。
あなたも言われている通り、ヒルティの思想はキリスト教の教えに根差しています。
それなのだから「来世があるから好き勝手に生きよう」となってはいけないのです。
むしろ「現世のためでなく、来世の為にこそ、私は現世で善い人間として生きることを努めよう」となるのです。*
つまり、現世での富はお金ですが、来世の富は神の御心に適う信仰とそれに伴った行いであると説かれているのです。
ヒルティは現世での善く生きることが、来世への貯蓄のようなものだと言っているのだと思います。
ヒルティの言う来世は、確かにキリスト教世界観の来世でありますから、
たとえ現世において、貧乏や不遇な状況にあった人でも、誠実で親切(愛)と公正を尊び、
神の戒めを守って生きた人は救われる──。そういうものであって、
神を信じず、好き勝手適当に生きた人が救われる来世ではありません。*
あなたはヒルティの思想をキリスト教的なものであると知りながら、
理解できないキリスト教部分を誤読して自身に都合よく受け取ってしまったのでしょう。
もちろん、キリスト教徒になれ!ヒルティをもう一度信じろ!と言いたいのではありません。
ただ、彼の思想を誤解したままでは、読まれたあなたの経験が無駄になってしまいます。
それはあまりに勿体ないような気がするのです。
「これまでを反省して前に進もうとするあなたの心は正しい方向を向いている。
その行いが公義や公正に反しないのであれば、それは地上で人に認められたことだからだ。
しかし注意しておかねばならない。
金を得れば、妻を得れば、なにか夢中になれる娯楽を得れば…と。
そうした偶像に救いがあると期待するのは止めておきなさい。
それを得られない事も、あるいは得て、しかし満足と幸福が得られないことは良くあることだ。
いまからでも遅いということはない。
ただあなたの善い生き方をしようと努め、自発的に行う意思のある仕事を見つけて励みなさい。
そして神を信じられないまでも、神はいないと自分に言わず、神を憎まず、
はじめはただキャラやシナリオが好きでゲームをプレイしていたが、ある日特定の二人のキャラクターに関心を持つようになった。シナリオ上ではその二人の関係性がお互いの価値観に影響を及ぼすような書き方をされていて、その二人がどんな会話をするのか、どんな気持ちになるのかもっと知りたくなった。二次創作をする習慣があったので二人をカップリングにした作品を書いてネットに投稿するようになった。二次創作をするということはその二人をカップリングとして解釈する機会が特段に増える。あくまで妄想だと理解しながらも、自分の作品の楽しみ方はそこに焦点を持つようになるので徐々にこの二人を主軸に公式を応援するようになった。
当初関心を持ったように、更新されるシナリオでは度々二人の時にしか互いに見せないような表情が描かれたり会話があった。ほかのキャラクターとの間には描かれない特別さがあり、更新が心待ちだった。
自分が応援していた特定の二人をAとBとすると、AとBの間にあったと私が思っていた特別な関係性が、BとCの間で描かれるようになってきた。BとCの描写が増え、作中でのAとBの描写は減っていき、描かれたとしても明らかにそれは希薄になっていった。AとBがお互いを気にするような描写もないし、むしろBとCが互いのことをよく理解していたり関心が高い描写の方が濃密になっていった。
私はもとからこの作品が好きだった。特定の組み合わせが好きだったわけではなく偶像劇として作品を応援していた。けれどカップリングに後から熱中してしまった。いつのまにか作品の今後の展開よりも、徐々にAとBの関係性がどこまで展開していくのかを期待するようになってしまっていた。そのためBとCの会話を見るのが徐々に辛くなってきた。AとBの間で描かれると思っていた互いの成長が、今はBとCの間で描かれている。シナリオが更新されるたびにBとCの関係が濃密であることをまた思い知らされるんだ…という嫌悪感がある。ネットを見ていると最近濃密に描かれ始めたBとCの関係性に惹かれて新しく作品を話題にしている人が多い。逆にAとBを応援していた人たちは徐々に口数が減っていき二次創作をほとんんど更新しなくなっていった。
正直なところAとBが特別な関係性で今後新しく描かれない限り、私はもうこの作品を応援できないところまできてしまっている。最悪である。
カップリングにはまって二次創作をすることは楽しかったし、同じカップリングを好きな人と交流するのも楽しかった。しかし今はこのカップリングにはまったことで作品を純粋に楽しめなくなったことを不甲斐なく思う。
一度特定のキャラクター達の関係性に過剰に期待してしまった自分が悪いんだとわかってる。
同じようにAとBが好きな人に話せる感情じゃない。愚痴ったってどうにもならないだろうし。
なのでここに書いた。ここに書いて自分も二次創作を止めて作品から離れよう。この気持ちを手放して、カップリングに興味がなくなったらまた作品を追っていこうと思う。
アイドルアニメとかゲームって、最早現実のアイドルと乖離してないかという話。
アイドルものは流行りに流行っているし、ドルオタのコードである「推し」なる言葉が一般層にまで普及したことからもそれはわかる。
ロールモデルはゴールドロジャー、ロジャーがやったことをやれば海賊王だと言える。
今の二次元コンテンツでアイドルが目指してるトップアイドルって、どういう存在のことなの?
歌と踊りでみんなを魅了する「国民的アイドル」って、最早どこにも存在してなくない?
なんとなく山口百恵(書いてる人間20代です念の為)みたいな虚像が未だに受け継がれているような気がする。
そして、トップアイドルが何かもわからないのに、みんなアイドルを推している。
目標がないのに目標に向かい努力しているアイドルそのものを「推し」ている。
彼女たち、彼らはどこに向かっているんだろう。
昨日投稿した記事がとてもありがたいことに伸びたので、調子に乗って別の話をしようと思う。軽い気持ちで書いてたらクソ長くなった。
これを読む前に注意してほしいのは
だ。
YOASOBIの「アイドル」を聞いて、これはすごいと思って推しの子を見た。
そして第一話でアイが殺されて「??????」となった。あまりにも納得がいかなかった。それは以下のような理由による。
偶像としてのIdolを死守する(「嘘が愛」とかアイっていう名前からも推察できるように)というのが最序盤のテーマだったわけで、そこに子供がいるっていう嘘を死守するっていう物語があって、さらにIdolとしてファンを愛してるっていう嘘(本当は誰のことも愛したことがないから)もあるから、その嘘が本当のこと(ファンとほかの人々を心の底から愛することができるようになる)になる、っていうのが大筋のストーリーになるべきだったわけだ。
その重要な過程(アイが少しずつ成長していく)が完全にすっ飛ばされたので肩透かしを食らったという感、殺されるところでいきなり愛してるって言っていて、正直第一話だけだとアイに対して人間としての共感が全くできない。
この物語が評価されている大きな要因としては、まず推しの子に自分がなるっていう第一話のインパクトとコメディ性、次にアイが死んでしまうっていうさらに劇的な展開。
これ自体は別に悪くないと思うが、やはりアイが本当の愛を知る過程をスキップしているので作品としての完成度が低下している。
たぶんその理由として乳幼児だと行動の幅が狭すぎるっていうのがあるのかなーと。簡単に動かせないから話を作りづらいっていうのがあったんだと思う。それをどうにかするのが脚本家の仕事ではあるんだけど。でも子役ルートがあるならそういう問題もなくないか?
また、アクアとルビーの父親に関する伏線が第一話だけっていうのもつらいポイントではある。
どうしてもそこからのストーリー展開が難しくなる。第二話以降の話は割と自由に進めることができるはず(ルビーがアイドルを目指すとか、主人公が父親を捜すとか)で、その辺の先の読めない感じは面白い。
1クール目の最後でアイが殺されたりしてたらもっとよかったんじゃないかなーとか思った。
「え!? この感じなのにこの1クールを全部このOPでやるの!?!?!?!!?」
初めてこの曲を聞いた時とんでもない衝撃を受けた。
それは初めてYOASOBIの「夜に駆ける」を聞いた時に感じた衝撃と同じものだった。
まず、「夜に駆ける」が空前絶後のヒットを叩き出した最大の理由について述べようと思う。
もちろんこれは俺の意見であって、完全に正しいということを主張したいわけじゃない。別の意見があればコメント等に書いてほしい。
音楽というのはほぼすべてが感覚で成り立っているので、それを正確に記述することは本当に難しい。
「夜に駆ける」を語るにはまずコンポーザーのAyaseについて紹介する必要がある。
Ayaseはもともとボーカルとしてバンド活動を行った後、解散したのちいわゆるボカロPになったミュージシャンだ。
ボカロP:Ayaseを象徴する代表曲は「幽霊東京」や「ラストリゾート」が挙げられる。
初めてこの曲を聞いた時の俺の感想は、”よくあるボカロ曲だなあ”というものだった。
正直これらの曲はボカロ曲としては古典的な印象を与えるものだと思う。DTM感が強い、打ち込みで構成されたボカロ曲……という感じだ。
しかしここで重要なのは、実はこれらの曲でAyaseのパーカッション、リズムに関する凄まじいセンスが光っており、それが当時のネット音楽のトレンドにぴったりとマッチしてある程度の人気を博していたということだ。
Ayaseのリズム感に関する才能には目を見張るものがある、というのは上記の二曲を聞けばたぶんわかってもらえると思う。もちろんこの曲が発表されてから時間が経っているので、当時は真新しくとも今では多少風化しているように感じるかもしれないけど。
「夜に駆ける」においてもそのリズム感が遺憾なく発揮されている。ただ、この曲がそれまでのAyaseの曲と大きく違うのは
・繰り返される転調
と
だ。
一つ目の繰り返される転調に関しては「夜に駆ける」を聞けばわかる。最後のCメロのところとか二回くらい転調してる。で、たぶんなんか普通の転調とは違う感じがする。音楽知識がないのでその辺はわからないけど。まずそこの斬新さがある。異論は認める。
まずikuraが持つリズム感についてはもうとりあえず「夜に駆ける」聞いてみてほしい。歌詞の子音がバスドラとクラップに気持ちよくハマっている。
この文章を書くにあたって今一度「夜に駆ける」を聞いていたら、そのikuraのリズム感の素晴らしさについてちゃんと語りたくなったので細かく述べる。興味ない人は飛ばしてください。
・イントロの”沈むように「溶けて」いくように”の「溶けて」のリズム感が良い
・”二人だけの空が広がる夜に”ここのリズム感は全部いい
・”さよなら「だけだった」”の「だけだった」のリズム感が良い
・”その一言で「すべ『て』がわかった」”の『て』が良い
・”日が沈みだした空と君のすが「た」”の「た」のリズムの取り方がマジですごい
・Bメロの”いつだってチックタックと「鳴る世界で」”の「鳴る世界で」のリズムの取り方がすごい。
・Bメロの”触れることない言葉うるさい声に涙が”ここのリズムは全部すごい
・サビの”騒がしい「日々に」笑えない「きみに」”の「日々に」と「きみに」のリズムの取り方がすごい。
・二番のBメロは正直全部リズムの取り方すごい。”信じてたいのに信じれないことそんなのどうしたってきっと これからだっていくつもあってそのたんび怒って泣いてくの”ここがすごくいい
・Cメロの”もういや「だって疲れたんだって」”の「だって疲れたんだって」のリズムがすごい。
ここにリズムの優れた曲を作るAyaseとのシナジーがある。偶然にしては出来すぎたユニットである。
次の”ikuraが持つ自我の顕れない説得力のある歌声”について
これは説明がとても難しい。
と
・なんでも歌える歌手
の二種類だ。一見後者の方がなんでも歌えて優れているように思えるかもしれないけど、事態はそんなに単純じゃない。
まず前者について具体例をいくつか挙げようと思う。
とりあえず例を列挙する。
米津玄師「アイネクライネ」というか米津玄師はほぼ全部自分の話をしている感じがする。
実はほとんどのバンドマンは自分の話しかしていない。ヨルシカが「八月、某、月明かり」の歌詞で叫んでいるように「心を売り出し」ているのだ。
ちなみにヨルシカは「詩書きとコーヒー」でも「寿命を売るなら残り二年」とか歌っていたりして、そういう自分のことしか歌えないナブナ自身をどこか皮肉めいて表現していたりする。
りりあの「浮気されたけどまだ好きって曲」を聞いてほしい。これ絶対自分の話だろと思って調べてみたけど明言してないっぽい。なら自分の話と考えていいのかな?
この曲は浮気された女の子の心情を歌うにしてはリアリティが高すぎる。
汚れた君は嫌いだ
君を汚したあいつも嫌いだ
この歌詞の下のほう、「君を汚したあいつも嫌いだ」ってそっちにヘイトが向く心情を表現できるのすごくないか? 普通浮気された曲って恋人に対する恨みつらみで話が終わると思っていただけにびっくりした。
こんな風に自分のことを歌う曲は”その人の人生の重み”が自然と声に乗っかるので、ものすごい破壊力がある。
でも、こういう歌手がほかの人の作った歌を歌うと、どことなくちぐはぐな感じになる。なんか違うな~とか、ぐっとこないな~みたいな気持ちになる。
あとこのタイプの歌手は一発屋で終わる傾向が多い。劇的な経験がないと歌えないならそうなるのも必然、という感じはする。
歌い手文化はいろんな人の曲を歌うっていう前提があるわけで、そこでさっき挙げたような自分の歌を歌うタイプの歌手は歌い手文化にそぐわない。
自分が共感できる曲だけを歌うことでその問題を解決してる人もいるっぽいけれど。
なんでも歌える歌手の例を挙げる。
・ikura
・Ado
・yama
・suis
ヨルシカはナブナの個人的な、本来だったら本人にしか歌えないような歌をsuisが上手く歌っている感がある。
これらの歌手は限界まで自分の色を出さない。でも無個性とは違う。ただひたすらに歌詞にひたむきに向き合って、そこから読み取れる感情をまっすぐに表現している。だから聞く人の心にダイレクトに届いているように思う。
YOAOBIのコンセプトは”小説を音楽にする”だ。このコンセプトとikuraのどんな曲も歌うことができるという特性は実に親和性が高い。
「夜に駆ける」の元となった小説は「タナトスの誘惑」というものだ。
あらすじをめっちゃざっくりと言うと、死にたがりの彼女を助けた主人公だったが実は彼女は死神で、最終的に一緒による闇に飛び降りるという、中二病要素をこれでもかと言うほど詰め合わせたような物語だ。大学生が書いたらしい、笑った。
さて、どれほどこの物語がチープであろうとしても、この歌を実体験として生々しく歌うことができる人はなかなかいない。テーマが重すぎるし、全体的に闇が深いものだからだ。
ただ、ikuraは「夜に駆ける」を独自に解釈することに成功している。
この作品自体をどことなく俯瞰的に見下ろして歌うことによってそれはかなった。過度に主人公やヒロインに感情移入するのではなく、どこか客観的な視点から物語を淡々と紡ぐように歌う感じ。無機質な――機械的な、ある種ボカロっぽい歌声と、どことなく人間の闇を感じさせるPV(このPVもあの原作小説から作ったとは思えないほどクオリティが高い)が悪魔的に融合した。
これが「夜に駆ける」がヒットした二つ目の要因だと思う。
もう一回PV見てるけどやっぱりいいな。
“制限が新たな芸術を生む”的な言論があったりする。「アイドル」が素晴らしい曲であるのにはここに要因がある。
今回の場合は
・最新の曲調(Adoが歌う「踊」に似てるとか指摘されてるね)
・”推しの子”のOPに要求される、アイドルソングライクな(コールが差し挟まれるなどの)要素
この三つが程よくミックスされた結果、既存の物にはない斬新さを持った曲としての大ヒット……だと思う。
この話をするにあたって、YOASOBI「アイドル」の歌詞について軽く説明する必要がある。
「アイドル」の歌詞は原作「推しの子」とそのスピンオフ小説の「45510」をもとにしたものだ。
医者の主人公のところに推しのアイドル(アイ)が妊娠出産のために入院してくる→出産日に主人公が殺される→気づいたらアイの子供に生まれ変わってた→アイドルなので子持ちはまずい→なので必死に嘘で隠す
というものだ。
そしてスピンオフ小説「45510」の主人公は、アイとかつて同じアイドルグループに所属していた女性だ。
「アイドル」の歌詞の中での主人公は歌の途中で変わっている。二回目のサビまではスピンオフ小説の「45510」の主人公がこの歌の主人公で、その後はアイ自身の歌に変わる。
1サビまでの歌詞は「45510」の主人公の、アイに対する憧憬を描いたものと思われる。同じグループの中でも抜きんでて人気のあるアイに対する羨望を表現している。
ここの歌詞をikuraは上手く歌えている。
問題はその後だ。
我々はハナからおまけです
お星様の引き立て役Bです
全てがあの子のお陰なわけない
これはネタじゃない
からこそ許せない
完璧じゃない君じゃ許せない
自分を許せない
誰よりも強い君以外は認めない
これはアイが所属するアイドルグループ「B小町」の別のメンバー:「45510」の主人公の心情を描写したものだ。正直、この歌詞を書いたAyaseは天才だと思う。
一見、最初はアイに対する強烈な嫉妬心を表現しているように見えて、最後には
完璧じゃない君じゃ許せない
自分を許せない
誰よりも強い君以外は認めない
とアイに対する信仰とでも言うべき強い感情の発露を描いている。この一見相反するようでいて、しかし同一の感情を詳細に表現したセンスはマジですごい。
Vtuberの歌ってみたとかを聞いた時に「お、この曲はこの子とマッチしてるからいい感じだな」とか思ったことがないだろうか? 俺はその現象を”人格一致ボーナス”と呼んでいる。
たぶんikuraはまっすぐに、幸せに育ってきたタイプの女の子なんだと思う。だから、こうした嫉妬などのどす黒い感情にそれほど縁がないのではないだろうか? なので、それを歌おうとしても、どうしてもうわべだけのものになってしまう。
先ほどの話に戻る。世の中には
・どんな歌も歌うことができる歌手
の二種類が存在する、と言った。
の二つがあるのだ。
そして「アイドル」という曲は”とある人間にしか歌えない曲”に属する。それはこの曲が極めて個人的な体験(この場合だと、45510の主人公とアイ自身の体験)をベースに紡がれているからだ。
ikuraのスター性と「アイドル」の明るい部分は極めて親和性が高い。特に一番のサビなんかは完璧に歌えている。しかし、45510の主人公のアイに対する嫉妬などのダークな部分は歌えない。聞けばわかると思うが、なんだか上っ面で歌っているような印象を受ける。
そんな私の嘘がいつか本当になること
信じてる
恵まれないアイの家庭環境を背景とした暗いCメロの歌詞だ。やっぱりここでも、ikuraの歌はどことなく空虚な感じがする。ikura自身にこんな経験がなく、想像することさえも難しいからだ……と思う。
あるいは、
【ikura】今回は、レコーディングする前にたくさん話し合って…。どういうイメージで、どういう声色で、ニュアンスでやっていこうかっていうのを考えながらレコーディングしました。
【Ayase】そしてたどり着いたのが…「最強のかわいい!」です。僕はikuraがレコーディングブースに入って一生懸命歌っている中、勇気づけるようにディレクションブースから「もっと自分のことかわいいと思って!」って伝えていました。https://news.yahoo.co.jp/articles/32691ffa10659b427d43550c4eda76ad09a1ea74から引用
とあるように、レコーディング環境が足を引っ張ってしまった可能性もある。
「アイドル」の歌ってみたをいくつか聞いてみると、この二番を上手に表現する歌い手を何人か発見した。やはり、こうした現代的な嫉妬の経験がある歌い手のほうが歌声に説得力が増す。
しかしこうした歌い手は同時に、サビの部分で顕著に表れるアイが持つ底抜けの明るさ、可愛さを表現することが難しい。
「アイドル」を完璧に歌える人間は存在しないかもしれない、とか思った
俺は女性が好きです。
「神聖でいながら妖艶。慈愛に満ち溢れながら冷酷さを持つ」そんな女性という偶像を愛しています。
待遇もよく給与も満足してるが人間関係や上下関係に関してはちょっと前時代的なうちの会社では、独身の俺は「結婚しろ」だの「誰か紹介しましょうか?」だの「女嫌いなんじゃないか?」だの言われる。その場じゃ笑って「なかなか難しくて」なんて誤魔化してるんだが、ここで本音を置いておく。
なお、俺は現実の女性に対して憎悪やヘイトをぶつけたり加害する気はないのでその心配は無用。このエントリが女叩き、ヘイトと勘違いされたらそれはもうどうしようもない。憲法は私人と私人の間には入ってくれないので殻に閉じこもるしかない。
しかし、現実の女性が汚いって認識は変えるつもりはない。女性だけじゃなく男性も汚い。大人はみんな汚い。俺も汚い。人間は汚い。
最悪
完全な幻想である二次元にするならともかく、偶像・依存先として不安定な半リアルの人好きになるとかまじで終わってる メンタルに悪すぎる。
なんか女の子とコラボするのにモヤモヤするなーと思ってたら嫉妬してたのかな 少なくとも1年くらい前から
無理すぎる 二次元なら好き勝手妄想できたのに半生だからお花畑な想像すら罪悪感感じる
無理だわ これからどうしたらいいんだろ、心がいたい 頭おかしいのでは?馬鹿すぎる
正直Vのガチ恋勢、依存先他にしたらいいのにって軽く馬鹿にしてたけど、無理だよな 好きになるって制御できんし とは言え愚かすぎてまじで誰にも言えない 痛々しいのはわかってるし。
てか二次ガチ恋やめて1年くらいだけど、もう他の男に依存し始めてる自分が浅ましくて気持ち悪い まじで気分悪いわ ほんま無理
ていうか恋を楽しんだことないかもしらんわ なんでこんな馬鹿な事ばかり繰り返してんだろな ほんまアホ カス ゴミ 寝なきゃなのに胸が痛い アホすぎ 滅せダボ
最悪
完全な幻想である二次元にするならともかく、偶像・依存先として不安定な半リアルの人好きになるとかまじで終わってる メンタルに悪すぎる。
なんか女の子とコラボするのにモヤモヤするなーと思ってたら嫉妬してたのかな 少なくとも1年くらい前から
無理すぎる 二次元なら好き勝手妄想できたのに半生だからお花畑な想像すら罪悪感感じる
無理だわ これからどうしたらいいんだろ、心がいたい 頭おかしいのでは?馬鹿すぎる
正直Vのガチ恋勢、依存先他にしたらいいのにって軽く馬鹿にしてたけど、無理だよな 好きになるって制御できんし とは言え愚かすぎてまじで誰にも言えない 痛々しいのはわかってるし。
てか二次ガチ恋やめて1年くらいだけど、もう他の男に依存し始めてる自分が浅ましくて気持ち悪い まじで気分悪いわ ほんま無理
ていうか恋を楽しんだことないかもしらんわ なんでこんな馬鹿な事ばかり繰り返してんだろな ほんまアホ カス ゴミ 寝なきゃなのに胸が痛い アホすぎ 滅せダボ
ジャニオタは母数が多いからヤベーやつも多いっていうのは本当にそう。えてしてやべーやつの方が声が大きいからやべーやつしかいないようにみえてしまうけど、そんなことはない、はず。
先代性加害に対するジャニオタの反応で今まで知られてるものとしては
・よく知らないし興味もない、楽しいことだけ考えていたい。割り切り層。
・なんか嫌な気がするけど深く考えると怖くなるから見ないふりをしている。逃避層。
・推しが変に思われたら嫌だから黙ってほしい。事なかれ主義層。
・みんなに慕われてる先代がそんなことするはずない!ジャニーズを貶めようとするデマ!純粋層。
・今さら何言ってんの? だから何? 売名うざい。売れないやつの僻みだよね。抑圧層。
などが多いと思うんだけど、私は数年前にここに
・何が起こっているがよく承知しているし問題の重要性もわかっているがその上で残酷エンタメを楽しみたい層
がいるというのを知ってしまい、大変なショックを受けたものだった。
普段推しにキャーキャー言ってるだけの人がジャニーズへの思い入れで問題から目を背けるとか本質をごまかそうとするのはまだわかるんだよね。
そうじゃなくて、教養があって、冷静で、物事を分析できて、お金の使い方に余裕があるおそらくそれなりの年齢の人が、『良識ある女性』が、
「ジャニーズのエンタメは女を性的に見てこないから安心できる、だってジャニーが好きなのは少年だから」とか「(手を出されたことによって)陰が出た少年は色気がある」とか言ってるのがマジでキツくて、その人たちは先代が好き勝手にふるまう事を「も~おじいちゃんはしょうがないなぁ」みたいな感じで受け止めていて、彼の加害をちょっとしたおいた、どころかそれ(性的な目線)があるからこそ美しく魅力的で才能ある『ジャニーズらしい』少年を発掘できると評価しているのだった。
一方タッキーと少年たちとの関わりは兄貴分と舎弟みたいな感じで、これはこれでホモソーシャル感はあるが少なくとも性的な意味合いはないので、彼女たちは「タッキーとは男の趣味が合わない」が口癖だ。
同年代の少年たちと時に競い時に親しくしながら権力者から望まぬ性的な扱いを受けるというストレス負荷の高い環境で、それでも生き残る才能と偶像に化けるスター性を持ったどこか憂いを帯びた美少年、それが彼女たちにとっての『ジャニーズ』である。
なぜ私がこんなに詳しく彼女たちのことを知っているかというとわりと趣味が似ていたからだ。だからツイッターを見ていて楽しかった。言語化が上手く、フォロワーが多い人たちだった。
でもそういう趣味が許されるのって二次元限定だと思う。彼女たちの、自分の楽しみのためならば子どもに辛い思いをさせてもいいと思っているその根性、アイドルをまるで人間扱いしていない態度があまりに邪悪で、見るにつけ怖気が走った。
あんなに讃えているのに、あんなに才能を認めているのに、そこに人としての情愛はなく、ただ理想のお人形を愛でているだけなのだ。
そして彼女たちはそれを『正当なファンの楽しみ方』だと思っている。長年ジャニオタを続けてきた『事務所推し』としてそう確信している。いまもなおジャニオタではあるが、『偉大な先代』の性的な目線を失ったジャニーズは普通の芸能事務所みたいになっていってつまらないなぁと感じている。
もう本当に腹が立つので、ジャニー氏の騒動がどうなるにせよ、この人たちが全員泣きを見る結果になってほしいと私は願っている。
自分の子供は心も体も醜いなって、それはきっと親の自分からしてそうだからなんだと感じるだろうから。
河原乞食のど底辺だなんて嫉妬深い連中は口にするけど、そもそも遺伝子レベルで顔が優れている時点で、もう人間の上澄みなんじゃないだろうか。
悲しいけれど、顔の良し悪しっていうのは人間の基本性能を端的に表しているよ。
遺伝子が健康的で、身体が生まれつき左右にバランスが良く、全身の発育が健全でなければ美人にはならない。
化粧によってある肌艶なんかならある程度は誤魔化すことが出来るけど、顔の部品がキレイに配置された状態にするのは誤魔化しが効かない所がある。
人間ってのは生まれつきある程度顔が良いと自然に人格が健全になる。
生まれつきの美人だと性格が滅茶苦茶に歪むって語る人もいるけど、それは飛び抜けた美人が倫理観のない田舎に生まれた場合ぐらいだ。
顔がいい人間ほど承認がきちんと満たされた状態で人生を歩んできているから、人間として健康になりがちだ。
更にそれがアニメやゲームのキャラクターになると本当に極めて正しくて理想的でそれでいて年相応の愛らしさもある完璧な存在が出てくる。
アイマスU149の主人公たちは多様だが、それぞれが多様にある種の理想形のレールの上にいて、かといって押し固めたテンプレートではなく独立した個性を持っている。
(アンナ・カレーニナの法則が適用されるのは現実ばかりで、創作物においては醜い悪役ほどに凝り固まったテンプレの中に閉じ込められたそれぞれの工場で作られた金太郎飴になっていく。)
もしも、その姿を見ている時に、自分の子供とくらべてしまったらどんなに絶望するだろうか。
自分が育て導いた存在が醜いというのは相当なショックがあるだろう。
人間は共に高めあった相手が偉大であることをどこかで願ってしまう。
学生時代の知り合いが軒並み可能性の芽を育てきれずに冴えない大人になっていたとき、自分のことを棚に上げて失望するものだ。
伸びしろを感じた同僚や後輩がいつまでもつまらない失敗をしたり、今度は失敗に怯えていつまでも殻を破れずにいると期待した自分が馬鹿馬鹿しくなる。
自分の育てた子供、遺伝子を分け合った相手にそんな気持ちは感じたくない。
ゲームに出てくるキャラクター、カードやコマのような物と同じように、その性能(ステータス)を比べてより優れているものを好ましいだと感じるだろうし、むしろ劣ったものを誤った存在だと断ずるだろう。
人間市場の中でお互いに値踏みし合う価値観がスッカリ染み付いてしまっている。
私生活においてさえ気晴らしにプレイしていたゲームの中で、何万回と「性能が低いから」とキャラクターを切り捨て続けてきたことが遅効性の毒として自分を蝕んでいたのかも知れない。
人間はその機能を比較されるものだと完全に刷り込まれてしまっている。
たとえそれがモニターの向こうの偶像と、現実にいる我が子だろうと、関係なしにどちらに価値があり、どちらがどれほど不出来かを比べてしまうだろう。
そんなことはしたくないが、きっとしてしまう。
だから本当に思う。
子供が居なくて本当に良かったと。