はてなキーワード: フォレスト・ガンプとは
ある時、テレビで映画「フォレストガンプ」が放映された翌日、学校でセンセイが俺に言い放ちやがった。「お前は無能なフォレストガンプだな」って。その時は腹が立ったけども、よく考えたら当たってた。そうだよな、映画じゃ主人公のフォレストガンプは知恵遅れだけど、底抜けの優しさと脚の速さで皆から愛された。少なくとも才能があった。卓球だってアメリカ代表になるくらい強かった。
あぁ、わかるよ。とにかく愛されないんだ「俺たち」は。
ちなみに、製作者はフォレスト・ガンプをどう思っていたんだろうな。結論から言うと、彼らはガンプを愛したが、知的障害者は愛していなかった。監督のロバート・ゼメキスはDVDの副音声でこう言ってる。
監督が求めたのは、自分の意思がなく、状況をただただ受けいれるだけの純粋無垢なキャラクターだった。90年代の映画にしてはちょいと古くさい知的障害者像だ。
じゃあさ、「フォレスト・ガンプの時代に現実の知的障害者たちはどうだったの?」っつー疑問が浮かぶわな。そこで調べたんだが、1950年~1990年のアメリカは知的障害者にとっても激動の時代だったことがわかった。
劇中、フォレスト・ガンプ少年はIQの低さから公立小学校への入学を拒否されかけたのだが、ママが校長にファックを決めたおかげで難を逃れた。
愛する息子を守るため、裏技に手を出すのも当然だ。当時、知的障害者は施設にぶち込むのが当たり前だった。そして、施設はひどいなんてもんじゃなかった。
1965年にウィローブロック州立学校という知的障害児の施設がリークされた。
潜入リポーターが残した記録によると、4000人しか収容できないにもかかわらず、6000人にものぼる障害児が押し込められ、服を着ていない人や、ほとんど介助されず放置状態の人など、人間が生活する環境とはとても思えない状況だった。
とにもかくにも、この時代に知的障害であると判定をされたら終わり。その先に人間の尊厳はない。
1950年代には知的障害者の親たちが施設への批判を始めたという動きもあったらしいので、ガンプのママが知っていても全然おかしくない。
ちなみに、映画では校長から特別支援学校への入学をすすめられ、ママが「そんなところでタイヤの修理方法を勉強させません」なんて言い返している。
個人的には、史実に基づいたやり取りなのかという点でちょっと疑ってる。
というのも、当時の特別支援学校には簡単には入れなかったらしいからだ。教育を受けられる障害者は全体の5人に1人程度。軽度だからほいほいと入れるのだろうか。
それに、修理工の授業なんてあったのだろうか。卒業後、施設にぶち込まれるのであればそんなもの必要ないわけで。ここは有識者のコメントを求む。
血の日曜日事件のアラバマ州が舞台でありながら公民権運動をスルーしたことで、白人礼賛の保守映画と認定されがちな本作であるが、1960年代は黒人だけでなく障害者にとっても革命的な時代だった。
1963年には脱施設化の転機である「精神病及び精神薄弱に関する大統領教書(ケネディ教書)」が発表され、
1972年には、Wyatt vs. Stickneyの訴訟で、軽度の知的障害のある人たちは入所施設に収容されるべきではないという判決が出された。
公民権運動だって知的障害者に大きな影響を与えた。アメリカの障害当事者団体の中で一番強力な権利擁護運動団体といえば「ADAPT」だ。(まあ、身体障害者向けの権利団体なんだが)
設立者のウェイド・ブランクはガンプのお膝元アラバマ州で公民権運動にかかわっており、その運動のノリでADAPTを設立したってわけだ。
個人的には、ガンプがキング牧師に会わなかったことより、ウェイド・ブランクにスカウトされてないほうが疑問なわけだ。
アメリカ全体が脱施設化に向けて動きはじめたのはいいが、「じゃあどうやって地域で暮らすの」というのが目下の問題だった。
ガンプは走りたいから走っていたが、現実の知的障害者たちはそういうわけにはいかない。
結局デモなりなんなりで、「地域で暮らしていいよね!」、「俺たちにだって権利があるよね!」と市民の了解を得るしかない。
というわけで長い年月がかかったわけだが、1990年に「ADA法(障害を持つアメリカ人法)」という決定的な法律が成立した。障害による差別を禁止する公民権法だ。ダン中尉、政府のおっぱいは限界です的な裏事情はあるものの、いよいよ連邦政府が障害者の権利を認めたのだ。
「マイレフト・フット」、「レナードの朝」、「ギルバート・グレイプ」、「フィラデルフィア」。
90年代ハリウッドでは障害を肯定的に捉える映画がたくさん作られた。フォレスト・ガンプもこの延長線上にあることは間違いない。
革命的なのは2000年代のファレリー兄弟だろうな。いよいよ障害者ご本人が登場しちゃうんだもん。
さて、冒頭のロバート・ゼメキスの話に戻る。彼は障害を肯定的に捉える映画の企画が通りやすい状況を苦々しく思っていたのかもな。
「だって俺、興味ねーし」っていう。
結局ADA法に逆行するような、意思のない愛されキャラのフォレスト・ガンプが作られたし、世間もそれに乗った。
まあ、素の「俺たち」は苦々しく思われているわけだ。
「知的障害者」だって苦々しく思われてる、それは同じだ。それでも権利を主張してきたし、いくつかは勝ち取ってきた。
今じゃグループホームなんかで暮らしながら、地域生活をエンジョイしてる知的障害者もいる。
日本の話だけど、この前バリバラに地域で子育てしてる知的障害者の夫婦が出てたぜ。ハロー・1950年代、これが2019年だ。
だから、俺は無能な「フォレスト・ガンプ」をやめて、こいつらを参考にすることにした。権利があるんだって言いつづけてやるさ。
当然のように、俺たちにはその権利があるんだ。
コメントに映画の中で答えが描かれてるから難しくないとか言ってる人がいるけど、嘘だから。こういうのは最悪。
こうやって映画を使ってマウント取ろうとする人がいるから「映画好き」は嫌な奴ってイメージが広がる。いい迷惑だ。
本来は冒頭に解説があって本編にもナレーションがあったのを、監督のキューブリックがわざと削って「意図的に」わかり辛くしてる作品だから。見ただけじゃ誰も正確にはわかんないよ。
淀川長治とか海外の評論家とか有名な映画監督も細かい内容を理解してなかったのは有名な話。
俗説が間違いだらけの中、根拠を元にそれらを否定して映画2001年宇宙の旅を「きちんと解説した」ことではやはり町山智浩の仕事が一番だと思う。(最近は映画以外のことで色々言われてるけど)
脚本や資料や当事者にきちんと取材して作家の本来の意図を伝える一連の仕事はすばらしいと思う。
WOWOWの公式で解説した動画もyoutubeにあるのでまずはそれを見ればいいんじゃないかな。
町山智浩のほかの仕事としては、フォレスト・ガンプ一期一会やバック・トゥ・ザ・フューチャーの醜悪な人種差別観を暴いた解説などもおすすめ。
日本だと誰も批判的なことを言わないし、そういう情報も周知されないタイトルなので、これらも優れたプロの仕事と言えると思う。(こういうことを書くとステマとか言われるのだろうけど)
映画って実は解説を読まないとわからない部分も多いんだよ。解説を見て解釈が真逆になることもある。
冒頭の例のように見ただけでわかった気になってマウントを取る馬鹿もいるんだけど、わからないのは悪いことではないので、いろいろ調べてみてほしい。
アメリカの影
エルマー・ガントリー
G・I・ブルース
ワン・ツー・スリー
荒馬と女
噂の二人
草原の輝き
片目のジャック
底抜けもててもてて
101匹わんちゃん大行進
樹々の大砲
昼下りの決斗
野望の系列
ハッド
鳥
たたり
5月の7日間
未知への飛行
裸のキッス
殺人者たち
イグアナの夜
赤死病の仮面
不意打ち
ラブド・ワン
ファスタープッシーキャット キル!キル!
キャット・バルー
シェナンドー河
ミッキー・ワン
銃撃
テキサスの五人の仲間
ある戦慄
招かれざる客
ドアをノックするのは誰?
フェイシズ
泳ぐひと
華やかな情事
愛すれど心さびしく
甘い抱擁
明日に向って撃て!
夕陽に向って走れ
雨のなかの女
ジョンとメリー
アメリカを斬る
ハズバンズ
真夜中のパーティ
キャッチ22
さすらいのカウボーイ
断絶
愛の狩人
ラスト・ショー
白い肌の異常な夜
ゴングなき戦い
夕陽の群盗
フリッツ・ザ・キャット
アメリカン・グラフィティ
地獄の逃避行
こわれゆく女
カンバセーション…盗聴‥
三人の女
地獄の黙示録
チャンス
マンハッタン
ロング・ライダース
アルタード・ステーツ/未知への挑戦
レイダース/失われた聖櫃
評決
ダイナー
ハメット
シルクウッド
スター80
再会の時
ラヴ・ストリームス
レポマン
チューズ・ミー
バーディ
ミシマ
最後の誘惑
存在の耐えられない軽さ
ダイ・ハード
ヘア・スプレー
ドラッグストア・カウボーイ
ヘザース
ゴッドファーザーPARTIII
グリフターズ
バートン・フィンク
希望の街
殺人課
夫たち、妻たち
ボブ★ロバーツ
アメリカンレガシー
摩天楼を夢みて
エル・マリアッチ
ショート・カッツ
ナイトメアー・ビフォア・クリスマス
リトル・オデッサ
クラークス
リービング・ラスベガス
デッドマン
誘う女
真実の囁き
スターシップ・トゥルーパーズ
クンドゥン
プライベート・ライアン
バッファロー'66
マーシャル・ロー
メリーに首ったけ
π
スリー・キングス
最近の傾向を見るに、近い内にポリコレ同士の報復合戦が始まると持っている。恐らく構図としては男vs女。
男に都合のいい女性像を描いたものが叩かれる傾向にあるが、恐らく男からの『じゃあこれは良いの?』攻撃が始まると思ってる。
ちょっと下品なレディコミに、CanCamなんて格好の的だろう。
仮面ライダーには誰もが憧れない野暮ったい男が割り当てられ、
少女達の憧れるシンデレラも、シンデレラになりたくてもなれない美しくない人のために、王子様になりたくてもおれないイケてない男達のため、綺麗な物語として扱えなくなる。
往年のオードリーヘップバーンの美しさを語ることすら、ルッキズム至上主義時代の悪しき象徴として叶わなくなるかもしれない。
女性の生まれながらの見栄えに優劣がつけるのが倫理的にまずいなら、
少なからず遺伝的要因や生まれた環境が影響するありとあらゆるコンテストが消えてなくなるのかもしれない。
正直ポリコレを突き詰めて重箱の隅をつつけばなんだって叩けそうだ。
シンデレラやローマの休日まで叩かれる未来予想なんて極論すぎるか?自分にはこれが極論だとはとても思えない。
日本人に和服をプレゼントされた日本びいきの白人が日本人置いてきぼりで白人たちの間で差別主義者と糾弾されるように、
どうせ『じゃあBLはいいの?』なんて言ってる男が『ホモォ』ツイートに傷ついているわけがない。
醜い重箱の隅つつき合戦が、もうすぐ始まる。
■シン・ゴジラ ★★★★★
超絶おもしろかった。内閣総辞職ビームの意味がわかった。エバンゲリオンを観たくなったんだけどプライムになくて諦めた。
■君の名は ★☆☆☆☆
どこがおもしろいのかわからなかった。おれも歳をとっちまったのかなぁ。
■転校生 ★★★★★
男女入れ替わりものならこっちのがおもしろかったので改めて観かえしたたけど、やっぱり面白かった。ふたりの中学生の名演が光る。あのわざとらしい演技がなんかクセになる。
■ライフ・イズ・ビューティフル★★★★★
すごくいい!あんな陽気なお父さんになりたいなぁ。最期撃たれちゃっても構わない。
■フォレスト・ガンプ ★★★★★
20年ぶりくらいに観た。観おわってすぐ後楽園のババガンプにエビ喰いにいった。
■ヒトラー ★★☆☆☆
■ショーシャンクの空に ☆☆☆☆☆
5回くらい観ようと思ったのに、いつも最後までたどり着けずに寝ちゃう。たぶんつまんないんだと思う。
■カーズ1〜3 、トイ・ストーリー1〜3 、モンスターズ・インク1・2 ★★★★★
この話。twitterで流れてきて何気なく読んでみたんだけど恐ろしくて笑えなかった。自分自身を見ている様で。
【イオンモールに2日連続行っただけで店員にポップニートってあだ名付けられたんだが
http://hamusoku.com/archives/9305199.html
作り話かとは思うんだけれども、まず何かしらの障害(発達障害:スペクトラム、知的障害とか?)を抱えている人なのかなとは思う。コメント欄も全部読んだ。フォレスト・ガンプを彷彿させる、とか、ホラーみたい、とか。中でも自分が妙に胸が苦しくなったのは、「自分自身が見えていない人にはこうやって世界が見えるんだろうな」というコメント。
私は、そのポップニートと同じ行動はしていないまでも、「良かれと思った行為が、周囲には不気味・変な人に見える」事をしていたことがあったのでは。と思い始めた。それが、友達からの塩対応だった。ドタキャンを重ねられた時、私は最初は「非常識だな」「友達として酷いな」「前日、あるいは当日になっても連絡が繋がらずFBは更新するなんて。」「後付けで子どもを理由に御咎め無しにさせる流れにするなんて。」などなど、何度かくたびれてしまう事があった。でもそれはピュアに受け止めていた私から見た世界であって、本当は「塩対応をされていた」という事を思うようになったのは、かなりの時を経た時だった。
友達だと思ってたのは私の勝手な思い込みで。信頼を損ねる様な行為を友達から受けても「何で酷い事するのかな」と思うばかりだったけれど、本当は私と距離を置きたいからこそ塩対応したのだな、と思うようになった。
私の母がこの「ポップニート」の話を読んで、「最初は怖いな。とか気持ちが悪いと思ったけど、段々と可哀想になってきた。男性でイケメンじゃない障害者系の人だから話題になってるんでしょ?性別が逆だったら怖くは無いよ。女性で美女でも可愛くも無い障害者系の人だったら無害だって思うじゃん。明るくて絡んでくる変な子ってだけでしょ?」と言った。そして、「このポップニートはピュアなんだな。善意や厚意で絡んでた。あわよくば…みたいな考えを持ってたから好意を持たれても困るからホラーなんだよね。」と。
この「ピュア」という単語。塩対応してきた友達から度々聞かされてきた。
「貴女はピュアだから」と。確か「社交辞令が通じないって難しいよね」みたいな話だった時だ。「こういうセクハラしてくる人がいて、どうやって『NO』を伝えるか、角を立てずに収束させるのが難しいし、口が達者な人が相手だから余計に怖い」みたいな流れになった時に、「こうしたらいい」「ああいうタイプはこうする」みたいな処世術を教えて貰った。その時の方法が、今思うと彼女が私に対してやった塩対応も幾つか入っていたのだけれども…。
母に「このポップニート、何となく自分と似てる節があるなって思う」と言った時も、母は否定も肯定もしなかった。だから、多分、そういう事なんだと思う。私は、自分自身がどう見られているか解っていなくて、認めたくなくて、「普通な人間」だと思っていたんだ。何か、ポップニートには悪いけれど、本当に勉強になったし、笑い話や怖い話で終わらせない努力をしなければと思った。せめて「許せる変な子」でありたいな、と思う。
何か、まとまりが無くてごめん。具体的な対策はまだ、出来てない。今は落ち着いて「世間様と合わせる努力」をする術を考えていきたいな、と思ってる。
ここまで読んでくれて、本当にありがとう。
世界最大の映画情報サイト・インターネット・ムービー・データベースで集計されたランキングを元にリスト化しました。
http://www.imdb.com/chart/top?ref_=nv_mv_250_6
ひれふせ。
1. 『ショーシャンクの空に』(1994)9.2/10点
3. 『ゴッドファーザー:パート2』(1974) 9.0/10
7. 『パルプ・フィクション』(1994) 8.9/10
8. 『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』(2003) 8.9/10
11. 『ロード・オブ・ザ・リング』
14. 『インセプション』
15. 『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』
16. 『カッコーの巣の上で』
18. 『マトリックス』
21. 『シティ・オブ・ゴッド』
22. 『セブン』
24. 『素晴らしき哉、人生!』
25. 『ユージュアル・サスペクツ』
26. 『甘い生活』
27. 『レオン』
30. 『プライベート・ライアン』
31. 『アメリカンヒストリーX』
32. 『インターステラー』
35. 『街の灯』
37. 『最強のふたり』
38. 『モダンタイムス』
41. 『ターミネーター2』
42. 『ディパーテッド』
43. 『戦場のピアニスト』
44. 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
45. 『セッション』
46. 『グラディエーター』
47. 『メメント』
48. 『地獄の黙示録』
50. 『ライオンキング』
51. 『博士の異常な愛情』
53. 『エイリアン』
54. 『独裁者』
55. 『善き人のためのソナタ』
56. 『ニュー・シネマ・パラダイス』
58. 『突撃』
60. 『火垂るの墓』
61. 『WALL・E』
63. 『アメリカン・ビューティー』
64. 『エイリアン2』
65. 『もののけ姫』
67. 『市民ケーン』
68. 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』
70. 『Uボート』
71. 『めまい』
72. 『情婦』
74. 『M』
75. 『レザボア・ドッグス』
76. 『ブレイブハート』
77. 『アメリ』
78. 『レクイエム・フォー・ドリーム』
79. 『時計じかけのオレンジ』
81. 『深夜に告白』
82. 『トイ・ストーリー3』
83. 『アラビアのロレンス』
84. 『アラバマ物語』
85. 『エターナル・サンシャイン』
86. 『フルメタル・ジャケット』
87. 『アマデウス』
88. 『スティング』
91. 『雨に唄えば』
93. 『トイ・ストーリー』
95. 『イングロリアス・バスターズ』
96. 『キッド』
97. 『LAコンフィデンシャル』
99. 『アパートの鍵貸します』
やたらクリストファー・ノーラン作品が多いのは
imdbでは常に2chなみに陰惨なカルト闘争が行われているからです。
でもまあ、世界最大の映画情報サイトのランキングなんで仮にそういう組織票があったとしても世界一であることには代わりませんがね。
『馬鹿と言う人が馬鹿』 これはもう疑いようのない事だと思う。
これについてこれから度々考察し、匿名ダイアリーに書くことにしようと決めた。自分の考えをまとめて整理する為だ。
この『バカとゆう人がバカ』といった言葉に、最初に出会ったのはいつであったであろうか。
過去を遡れば小学生の頃であろうか。・・いや、もの心がついて間もない時まで遡るかもしれない。
その時は自分も含め、親兄弟そして友達クラスメイト、はたまた恩師にいたるまで『馬鹿』とゆう言葉を多用していたように思われる。
「この馬鹿っ」「いやーぃバーカばーか」「うるせーよバカってゆうおまえが馬鹿だよ」「カーバ」「ばっかじゃねーの」
「馬鹿なんだからやめろよ」「んもう・・バカなんだから❤」・・・など多種多様な使われ方、使い方をしてきた。
この『馬鹿』という言葉について違和感や嫌悪感を感じたのはいつであっただろうか・・・
この疑問もきっと幼少時まで遡ることになるのだろう。
それほど馬鹿と言われるような行為をしてきたし、また短絡的に『馬鹿』と言ってしまう人物に囲まれた環境であったようにも思う。
ここで『馬鹿』と『馬鹿といわれるような行為』は分けて考えるべきだと提案したい。
理由は後で上手く説明できれば良いと思っている。
それで、馬鹿という言葉に対しての違和感や嫌悪感なのだが・・・
こんなもん言われたら嫌に決っているからだ。
なぜならば他者を『馬鹿』と断罪する人間は、決まってその対象者を見下し侮蔑しているフシがある。
この点については、異論など様々状況によって変わってくるであろうが、総じて『馬鹿』と他者対して言う人間は自分のほうが優秀だと思っている。
そして『馬鹿』と言ってしまう人間は言った相手に対して、考える事をやめてしまっている。
短絡的に『馬鹿』と断定し断罪し、慮ったり思いやったり、なぜ相手がそうなのかについて思考することをやめてしまう。
思考を停止して決めつけてしまう・・・。これはとても『愚かな』行為なのではないのだろうか。
まして『馬鹿』とゆう言葉を受け取った側の人間からすると不愉快極まりない。
その言われた瞬間に、相手から見下されてしまっているからだ。ここで怒らない人間はよっぽど出来た人ではないと無理だと思われる。
くだらないプライドを捨て、謙虚に真摯に『馬鹿』という言葉を受け止める。そういった人だ。
あほか!無理や!
日々そうゆう人間になりたいと努力は続けているが無理や!短絡的に『馬鹿』っていってくるような人間に謙虚などなれるかいっ!ぼけぇ
・・・少々取り乱してしまったが、本人が故意に間違いを犯したり、性根が曲がっていてワザと『馬鹿な行為』をしている場合ではないのに対し、
『馬鹿』だろ?「おまえバカだろ」などと言ってくる人間を、私は軽蔑するであろう。
なぜなら【人にされて嫌なことはすべきではない】と思っているからだ。
これは年を重ねていくうちに経験として、また他者から教えられて実感し学び身につけて来たことだと思う。
この点についてだけでも、他者に対し『馬鹿』などと言うことは良くないことだと明らかだと思われるのだが。
だって嫌な事されたり言われたりしたら不愉快じゃん。ムカムカイライラするじゃん。嫌われるじゃん。
別に嫌われてもしかたない場合もあるけれど安易に嫌われる必要ないじゃん。好きな子にフラれちゃうじゃん。
あと自分自身が『馬鹿』と言われる対象者ではなく、第三者の立場であった場合においても不愉快である場合が多い。
誰かが誰かに『馬鹿』と言われているのを聞いてしまったりする場合だ。陰口であったりした場合などは、なおさら最悪である。
まあ例外もあって、自ら『馬鹿と言われるような行為』を理解したうえで行った場合は別である。
「うわーい今日は白ーしーろしーろ白パーンツー」「ばっっかじゃないのっ!」
とかいった場合は『馬鹿』と言われても仕方がない。自ら解っていてやっているのだ。
しかしこれについてもスカートめくりをした本人が『馬鹿』なのではなく、スカートめくりという『行為』が『馬鹿』なのだ。
なぜなら・・・なぜならスカートをめくった本人は相手の女の子を好きであったりするかもry)
その人自身が『馬鹿』なのではなく『馬鹿』といわれる行為があるだけだ。
『馬鹿』と言われる『人間』があたかも存在し、またそれが当たり前かのように思われているかもしれないが、
それは『馬鹿』と他者に対して言ってしまっている人間が創り出し、短絡的に決定付けてしまっているにすぎない。
この言葉を意識し、本当に考え始めたのはいつだったろうか・・・
やはりトム・ハンクス主演の映画[フォレスト・ガンプ]を見てからだったように思う。
あの映画の主人公は、自分の話し方や行動行為で、他者から絶えず『馬鹿』(gump)と言われていたはずだ。
そして言われるたびに主人公は言い返すのだ。『馬鹿と言う人が馬鹿』であると。
映画を観た方ならわかると思うが、はたして主人公は『馬鹿』であっただろうか。
決してそうではなかったはずである。
昨今インターネットを閲覧していて、とてもよく見かけるのだ・・・短絡的に他者を馬鹿よばわりする人を。
安易にそういった言葉で他者を避難したり卑下したり揶揄したり見下したりする人たちは、自分がされる場合になったら嫌ではないのだろうか。
果たしてその対象者は『馬鹿』と断ずるに値するのであろうか。ただ単に経験が足りなかったり、知識がなかったり、知らないだけだったり、はたまた勘違いをしていたり。
そういった事なだけではないのだろうか。
上記のような状況を私はインターネットや私生活で見聞きしたりする度に、悲しくなったり深く考えたり、気分が悪くなったりするのだ。
そして
嘆かわしいとゆうか悲しいとゆうか驚くのだが、「知識人」と呼ばれている方などに特に多く見うけられる気がする。
ある程度の地位などに就いている方なども、そういった傾向がある気がする。
そしてだ。こういった方々は必ずといっていいほどブーメラン現象をみせてくれたりする。
自分が行っていた行為や言説で、自ら墓穴を掘ったりしてしまうのだ。
はたから見ていて目も当てられない。
最悪な事に、自分が間違ったとしても認めなかったりもする。間違っているのにもかかわらず、自らを省みずに他者を攻撃し続けたりもするのだ。
恥ずかしくはないのだろうか・・・もはやそうゆう感覚もないのだろうか。
それとも自分だけが正しく、まわりは間違っているに決まっていると思い込んでしまっているのだろうか。
他者をすぐ『馬鹿』だと断定してしまう人に、こういった事例が多い傾向があるように思われる。
こういった事こそが愚かで『馬鹿』な行為なのではないのだろうか。
確かに解らなくもないのだ。
知識がある方からすれば、知識がない人は愚かに見えることもあるだろう。
経験を積んだ年長者から見れば、若い人々の行為が愚かに見えることもあるだろう。
知っていて当然だと思う事を知らなければ「え?」っとなる気持ちもわかる。
出来て当然だと思える事ができなければ「なんで?」となる気持ちもわかる。
しかし気をつけて欲しい。果たしてそれは知っていて当然なのだろうか。出来て当然なのだろうか。
知らない事に対して理由があるのではないのだろうか。
出来ない事に対して理由があるのではないのだろうか。
出来る人はできない人の気持ちはわからないのだ。
目が見える人に目が見えない人の気持ちはわからないのだ。
歩ける人に歩けない人の気持ちはわからないのだ。
若い人に年老いてしまって体が不自由な人の気持ちはわからないのだ。
高等数学を苦もなく解ける人に算数でつまずく人の気持ちはわからないのだ。
語学が堪能な人に国語の勉強でつまずく人の気持ちはわからないのだ。
会話が得意な人に吃音で悩んでいる人の気持ちはわからないのだ。
赤ちゃんが何故なくのか日々生活に追われる大人や子育てをしたことのない人にはわからないのだ。
または忘れてしまっているのだ。
まだまだたくさんあるだろうけど、今挙げた例は逆もまた然りなのだ。
経験していない事、出来ない事や立場については理解することは難しい。
きっと何かについて苦もなく出来てしまう人は、出来ないという経験を積む事がないから
悩んだり苦しんだりする気持ちがわからないのだ。
悩んだり苦しんだりという感情を経験してないから、そういった感情自体を知らないかもしれない。
あまりにも出来てしまう人はきっと悩んだり苦しんだりする経験が薄すぎるから、感情が希薄になってしまう事もあるのかもしれない。
怖い事なんだけど、有能だと言われている人にはこうゆう傾向があるように思える。
・・・これはまた別の問題かな。今回の『馬鹿とゆう人が馬鹿』といった問題とは別かもしれない。
さて・・・
しかし、だ。
それら理解できない状況や立場、行動行為、人などを『馬鹿』と断定してしまって良いのだろうか。
切って捨ててしまっていいのだろうか。
理解しようとせずにいていいのだろうか。
それではあまりにも短絡的すぎるのではないだろうか。
思考停止と言えるのではないだろうか。
短絡的にすぐ断定したり、思考を停止させてしまう行為こそが愚かなのではないだろうか。
決め付けや憶測での価値判断こそ『馬鹿』な行為ではないだろうか。
高度な事を教えるのなら段階的に教えればいい。
基礎の事から学ぶように導けばいいだけの話だ。
なぜそうなるのかわからない場合、局所的な事実では見えない事もあるのだから、大局的な捉え方に目をうながすのも良い。
ちょっと立ち止まって思いやったり想像したり、相手の立場になって考えたりしてもいいのではないだろうか。
自分が上手く説明できたりするようになればいいのではないだろうか。努力してみたらいいのではないだろうか。
そういった姿勢や考えこそが賢く、【利口】と言えるのではないだろうか。
ふぅ~・・・ここまで書いてきて今気づいたのだが・・・あまりにもまとまりが無い。
文体、文脈、論理展開など滅茶苦茶じゃないだろうかこれは・・・。
このテーマについてはまたこれからも考察したりしていこうと思っている。
自分が他者にたいして短絡的に『馬鹿』などと言わない人になるために。
だが人に言われるのは好きじゃない。
主人公が知恵遅れだけど、ひょんなことからいろいろ活躍して人気者になったり金持ちになったりするコメディ。
で、そのヒロインは主人公が小学校の時に、唯一主人公をいじめずにやさしく接してあげたんだ。
で、月日は流れ、その女は普通に成長して普通に恋人を作るんだ。
でも、主人公がなにか有名になったり、社会的に成功したりすると、ひょっこり連絡を取ってくるわけ。
そいつ恋人もちゃっかりいるんだけど、急に会いに来たり電話してきたり。
恋人は毎回違うのさ。
取っ替え引っ替え、非モテの俺にはそう見えたけど、時間的に数年経ってるわけだし、恋人が変わっててもそれが普通なのかな。
ごく普通の、当時の社会情勢とか流行とかを考えたら妥当な相手のように思うよ。
大学生になったら大学で彼氏を作って、その当時平和運動とかヒッピーとか流行ってたからそういうところで彼氏を作って。
俺は見てて「殺すぞ」って気になったけどね。
自分に好意を抱いてるのを知ってて、わざわざ会いにきて、恋人とうまくいってない風のことを匂わせて、結局その恋人のもとに去っていくってことの繰り返し。
まあ、最後は主人公とくっつくんだけどさ、胸糞悪くてしょうがない。
これがさ、女がみると、
ひたむきで真っ直ぐな主人公の愛にようやく気付いた!いろいろと道に迷ったけど、最後に愛したのは主人公!
みたいな感動の話になるらしい。
最後だなんてふざけんな。
処女厨みたいに絶対に最初!っというふうなこだわりはしないけど、オーナーが5回代わって20万キロオーバーで事故歴ありの中古車とかは無理!
一青 窈さんのPVがすごすぎる件について - 深町秋生の新人日記に関連して。
日本の映像作品で、障害者(とくに知的障害者)演じるのがみんな美男美女なのはどういうことなんだろうな。
香里奈に大沢たかお、香取慎吾、いしだ壱成、和久井映見などなど。
海外でも「フォレスト・ガンプ」や「カーラの結婚宣言」、「アイ・アム・サム」みたいな作品があるから、「(知的)障害者=心はピュア」と描くのは日本特有の現象ってわけでもないだろうけどさ。
こういう「ピュア」描写ってすごく自分の実感からかけ離れている。
というか、知的障害者の心理を「ピュア」という概念で言い表すことができるとは思えないんだ。
(知的)障害者がピュアってことは健常者が「二枚舌」や「裏表」、「下心」というものを成長するにしたがって獲得していくこととの対比として表されているんだろうけど、私の実感では(知的)障害者の心理って「ピュア」/「二枚舌」といった対立軸では表現しきれない、そもそもそれらとはかけ離れた、無関係なところで動いている気がするんだよなー。
知的障害者の行動を健常者の立場からみて、健常者の世界観でいう「ピュア」というカテゴリーにぴたっと貼り付けてしまうっていうのが、なんとも心の狭い話だなーと感じてしまうのであった。