はてなキーワード: あまつさえとは
そいつは一つの国語表現に固執するあまり、不特定多数に自説を吹聴して回り、
あまつさえ特定の国語学者のアンチまで務めるという壊れっぷりであった。
流石に目に余るのでそいつのプロフィールを見たところ「発達障害」という文字列が入っていた、
ああそういうことね、と冷たくレスを返してみると、案の定相手がいきり立ったものである。
ひたすら自説の正当性と大義名分を主張しヒートアップしていく一方、
私はそれを見て、かわいそうなやつだなと思った一方、
「なんのためにこいつは発達障害を自称しているのか」と思ったものである。
自分も素人なので詳しいことは知らんが、ネットでちょっと調べた限りでは、
「発達障害はどうでもいいことに固執する傾向がある」というような話があった。
(下手に曲解するといけないので、そういうふわふわした理解にとどめておく。)
その性質を自覚しているなら、そうなっていると指摘された時に、
「すまんな」「ええんやで」とならなくては意味がないのではないか。
逆に言えば、それができないのが発達障害なのかもしれんが。
いずれにしろ、彼が発達障害と診断された意味が微塵も感じられなかったのである。
そういえばもう一つ、「病気の診断」に関して思うことがあった。
一昔前に「新型うつ」という概念が流行ったころ、それを否定する風潮が強かった。
お茶の間にとって「うつ」とは「常に気分が落ち込んでいるべきもの」という偏見があった時代で、
(あるいは今もそう変わってはいないのかもしれないが、少なくともメディアの扱い方は違う気もする)
「やるべきことに直面すると落ち込む、解放されると嘘みたいに明るくなる」という新型うつを見て、
「甘え」や「仮病」の二文字が頭に浮かぶ人は少なくなかったであろうと思われる。
その様子を見ていた自分は当時まだ子供であったが、子供なりにその風潮を憂えたものであった。
いざ自身が大人になってみると、うつ病の人が周囲にちらほら出てくるようになる。
私の交友関係はだいぶ狭いほうだが、それでもあんな人やこんな人がカウンセリングを受けている。
仕事で心を破壊された気の毒な人もいれば、体育大学に通いながら精神を病んでしまった人もいる。
健全な精神は健全な肉体に宿れかし。そう思わずにはいられない。
無知の知ではないが、うつ病とはわからぬものだなという事だけがわかってくる一方、
彼らが日々己の心身と闘っている様子が切実に見えてくるものである。
しかしながら、うつ病患者だからといって100%同情されるわけでもない。
知人のとあるうつ病患者は、日々の体調管理すら苦労している様子が見て取れる一方、
もともと愚痴が多いうえに「かわいそうな自分」に酔うタイプであった。
それを日々聞かされる周囲の人はだんだんと耐えられなくなり、距離を置くようになってしまっていた。
うつ病であることそのものではなく、自分に酔うことを苦々しく見られていたのである。
子供のころから見ていた自分は「こいつ病気なんじゃね」と思っていた。
私が大人になるにつれて傾向は見えてくるようになり、
どうやら忙しいだとか面倒なことが控えると機嫌が悪くなり、
思うようにならないことがあると、それをしばらく引きずる形でまた機嫌が悪くなるようであった。
頼れるものに頼ろうとしても結局文句ばかりで一向に楽になろうとせず、
そうして忙しくなるとまた機嫌が悪くなるというマッチポンプばかりをしていた。
ネットを通して「そういう人もいる」という知見を得て、そういう人なら仕方ないなと思っていた矢先、
本人からうつ病であると打ち明けられたのである。診断書を見せられるでもなく。
そのとき私が抱いた感情は「かわいそう」とか「お気の毒」ではなく、
申し訳ないが「それ見たことか」「何を今更」「で?これからどうする?」という気持ちであり、
正直言って同情は一切わかなかったものであった。
なぜなら自らを病に落とし込んでいるようにしか見えなかったからである。
近年は様々な病気、あるいはナントカ症というものが多数生まれてきている。
先日某ラジオでも取り上げられていたが、とくに恐怖症になると枚挙にいとまがない。
「お酒恐怖症でーす!なぜなら目の前にあったら飲んじゃうから!違うかw」という投稿には個人的にムカついたが、
ほとんどは「落ち着きをなくす」「立っていられなくなる」のような割と切実な訴えであったし、
自身の友人知人からもそういう話は聞いたり、あるいは付き合ってきたものである。
そうした新たな病気やらなにやらというものの周知が試みられているのもまた現代であるが、
じゃあすべて見て聞いて覚えられるかと言えば、そんな余裕は多忙な一個人にはないし、
公の場で突然異変を起こした人を「あ!これネットで見たやつだ!」と100%適切に助けられる自信もない。
ましてや「病気」認定が差別的なものになりうることは過去も現代も同じであり、
無垢なマイノリティの方々が切実な訴えをなさっては、様々な人間が入り乱れて大騒ぎになるところである。
では「病気」という診断は何のために存在するのか?百害あって一利なしなのか?
私はそうは思わない、というか、「病気」だけが特別である必要がないと思う。
彼はかなり前に、声帯ポリープが発見されたことがあったらしい。
声を出すお仕事の人にとっては特に厄介な病気であり、切除をしてしばらくお休みをいただくのが常である。
しかし彼は「付き合っていけば味になる」と割り切り、手術をしなかったというのである。
そのせいもあってか度々喉の不調で活動休止ということもあったようなのだが、
2011年の時には「プロとして情けない」とツイートした履歴もある。
身体と心の不調では話が違う、と言われるかもしれない。
しかしながら私が言いたいのは、彼はある種の病を「個性」として受け入れたということである。
病気とまでは言われないものや、単なる性格に過ぎないものも細分化されつつあるように感じる。
「あなたはこだわり屋さんです」とか「あなたはネガティブです」とか言われても、
それは正式な病気や障碍ではないし、なんらかの公的な援助が受けられるわけでもない。
あるいは病気や障碍とまでは言い切れない「グレーゾーン」なるものも存在するようである。
そういう「個性」が明らかになったときに、自分はどうするのか?
自分がその個性とどう「付き合ってい」くか考えていくべきなのではないか?
もちろん病気や障碍には「どうにもならない」「仕方がない」部分はあるし、それに伴う人並み以上の苦労もある。
自身の身体をコントロールできない病なら、どんなに偉そうにして厚かましい要求をしてもいいのか?
自身の精神をコントロールできない病なら、コントロールを諦めて好き勝手罵詈雑言を吐いてもいいのか?
一般人にとっては、大義名分があるから批判することは難しい。でも人として嫌な思いはする。
そうして直言を受けることなく、一部の優しい人に甘やかされ続け、他の人からは疎まれ、
傍若無人にしてある種の孤独なモンスター、言い換えれば「裸の王様」が生まれる。
とくにマイノリティにおける過激派は、どいつもこいつもこうなってはいまいか?
大学の授業に通えていない現状を憂えてのことであったと思われる。
当時の自分は「怠けているだけなのに病院に行かせてくださいだなんて…」と、
今思うと「たとえ病気でなくても」医者にかかったほうがよかったのではないかと思っている。
結局二度と機会は訪れなかった私であるが、
大学生時代におけるリアルとネットの交流を通じて多くのことを学び、
時には大きなトラブルを起こして教訓を肝に銘じ、
また時には友人からの諫言も受けつつ自分を自分なりに成長させることができた。
かつては絵に描いたような「メンヘラ」だった私も、
今では精神疾患を冷静に分析し、自身を客観的に見られるようになり始めた、と思う。
そうか?と思われるかもしれないが、少なくとも昔よりはマシである。
なぜなら今思い返すと「昔の自分」が恥ずかしくて仕方ないからである。
未だに昔の自分に同情する部分もないわけではないが、
一方で人の振り見て我が振り直すことも多くなった。
それだけ人の、自身の「醜さ」というものをより理解できるようになったのである。
自身の気分の落ち込みも「これは見苦しいな」「こうすればおさまる」と自己分析し、
専門家によらないセルフコントロールを自分なりに築き上げてきた。
そんな自分から見ると、コントロールそのものを放棄している人が理解できないのである。
現代は科学と西洋医学の時代であり、「病気を治す」ことに邁進しているものと思う。
しかし一方で、「付き合っていく病気」というものは決して無くなるものではない。
今のコロナ禍においてもワクチン接種が進む一方で感染は防げない!と言われたり、
新たな生活習慣においては鳴りを潜めたことで、日々の感染対策の重要性が浮き彫りになった。
ワクチン打てばかからない!でもなければ、タミフル飲めば大丈夫!でもなく、
自分ができることをして病気と付き合っていくことこそが大事であると改めて示されたものと思っている。
以前ネット上で「自分の機嫌は自分で取る」という言い回しが話題になった時には、
それができるかどうかはさておき、やろうと思わなければ始まらないのである。
不機嫌な自分を正当化するだけでは、だだをこねる子供と変わらないのである。
自分の心をなだめてあげること。
心の不調の原因に向きあうこと。
それをやらずして「病気」に甘んじていては何の意味もないのである。
人はたいてい、何かしらのハンデを抱えている。
病気や障碍を隠して生きるよりかは、カミングアウトできる世の中であってほしいが、
カミングアウトを免罪符と誤解している人間は、その秩序を乱してしまう。
自分に対しては、病気や個性を認め、なるべくコントロールしてみよう。
他人に対しては、病気や個性を認め、なるべく受け入れてあげよう。
それらが並立して初めて、やさしい世界を体現できるのではないか。
しかし聴き間違えた恵庭は花を売るなんてだめですよ、と忠告する。
礼子は、あなた何いってんの、と冷たくあしらうのだった。
恵庭は途中の休憩でパンを取り出すが、気泡の穴を見て頬を赤らめる。
あまりの想像力たくましさに小熊が思わず、しいちゃん色々大丈夫?
と声をかけるが、恵庭は穴があったら入りたい、となおも穴の話題を継続するのだった。
あまつさえ恵庭は琵琶湖INNにつくなりそんなに大きい建物入りません、と口走る。
もちろんテントを張る、という行為に大いに興奮した恵庭だった。
当人のアクションだけで潮吹きが完結していたが、残りの二人は知る由もない。
鳥取砂丘を見てもサンドから板挟みの3Pを想像してしまい、どうしても正視できない。
ネットカフェで二人が寝静まったあと、個人席で好きなブツを堪能した恵庭。
珈琲屋のパパは娘があらぬ方向に成長しているさまを暖かく見守るのだった。
ぼかして言うが、1万円程経費かけて3万円程収入を得た。
でこれを就労収入として役所に報告したが、労働として認められず8000円のみ控除となった。
これを不服としたが役所からは相手にされず、法テラスから紹介された弁護士は音信不通。
しかたなしに最後の手段として共産党市議に相談した結果分かったのは、
「自分は働けないと言う認定である(これは実際間違ってない。病院から認められているキチガイだ)」
「働けない認定であるのに収入を得ているのは、認定と矛盾するから労働としては認めない。」
と言うものであった。
しかし生活保護とは、働けもしないのに自殺もできない意気地なしが、国民様に寄生する行為であり、生活保護受給者は非国民で害悪である。
だから1円でも稼いで少しでも国民様から恵んで頂く金を減らさなければならない。
しかし共産党市議は「働けない認定だから、まずは体を治すことを優先すべきであって働くことを考えるべきではない」と言ったのだった。
あまつさえ「生活保護は国民に認められた権利だから後ろめたさを感じることも、感謝を感じる必要もない」とまで言われた。
重ねて言うが生活保護とは、働けもせず、自殺をする勇気もないクズの寄生虫が、高貴な日本国民様に行う寄生行為でしかない。
それは権利でもなんでもない。
本来は、自ら命を断つべきクズが、死にもできないから人にたかることを選んだ結果が生活保護だ、
死ぬべきなのに、生にしがみついている寄生虫が、せめてヒトモドキであろうと1円でも稼ごうとする行為も禁止された。
お前は一生寄生虫として生きて行けと言われたに等しい。
死にたい。
https://twitter.com/pocarisweat_jp/status/1402822833886044161
\夏に向かって汗かこう。#暑熱順化 のすすめ/
猛暑が予想される今年の夏。
家族みんなで健康な夏を迎えてほしい。
そんな想いで、#タダノなつ 先生に、家族の物語を描いてもらいました。
お子様もご高齢の方も、本格的な暑さの前に、身体を動かしてください!
水分補給には #ポカリスエット を♪ pic.twitter.com/fKJk2zBEGN— ポカリスエット【公式】 (@pocarisweat_jp) June 10, 2021
大の大人の男が嫌がる少女を無理やり外に連れ出し、冷えた缶を無理やり押し付けている
それをさも「親子の気さくなコミュニケーション」であるかのように描写している
これ普通にハラスメントでしょう???ないし虐待でしょ??????
しかしこのあとの展開は普通に「いい話」「いい思い出」風として処理されて終わる
ハアァ?????????????????????????????
令和の世においてまだこんなハラスメントを美化してるの????????????
あまつさえ大企業が漫画広告として大っぴらに宣伝してるの?????????????????????
ハアアアアアアアアァァァァ???????????????????????????????????????
ポカリスエット君さあ
アツギの変態性的搾取広告がどれだけ大炎上したか覚えてらっしゃらないの????????????????
それともそんな事まったく知らなかったとでも言いたいの????????????????????
そんなわけねえだろボケクソ共が!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
あなた達一体どうしていい加減世間の認識を更新してくださらないの????????!!??
学習能力というものが存在しないの???????????????????????????????
いつまでそんな化石のような価値観を持ち続けるの??????????????????????????????????
嫌だと訴えても殴る蹴るは当たり前の環境だったし、成人してから親に追求したら「しつけだった」「コミュニケーションのつもりだった」と言い訳されました。
子が嫌がってる事を男の大人が無理ぐりに強制させ、力づくで抑えつけ、それをあたかも遠い日の良き思い出であるかのように見せかけて自己陶酔に浸る
ふざけんな
同じような境遇の人間がこの漫画見たらどう思うか、少しでも想像できなかったの?????
未だにこんな化石のような人間を「成熟した大人の男」として描いてる価値観をいつになったら改めてくれるの本当に。
ポカリスエット社は子供を自分の承認欲求を満たすためのモノ扱いする男のクソジジイを立派な大人だと言いたい訳ですかそうですか。
死ね!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
気持ち悪すぎるのでもう永久にポカリスエットは買いませんし、ポカリスエット社は男性によるハラスメントを公認している企業であると覚えておきますので。
追記:
この漫画を描いてる漫画家らしきアカウントを発見、そこに投稿している漫画も吐き気を催すものばかりだった。
何?この人の脳内では女性は一生涯男のモノ扱いされなきゃいけない決まりでもあるの?
どうやったら描くの止めてもらえるの?
腕切り落とさない限りずっと描き続けるの?
自分の出来ることは思いつく限り全ての企業・出版社にこの漫画家を起用するなと抗議文を送りつける事しかできないというの????????????????
アンタら20代の判断つく年に、年功序列の息苦しい日本社会から自由になりたいぜとかいって小泉・竹中改革と新自由主義を称揚しておいて
当然、ハンデ無しの競争社会でボッコボコにされてこんなはずじゃなかった、昔の日本の方がよかった、小泉と竹中が憎いって、ムシが良すぎやしない?
散々氷河期世代が馬鹿にしてるゆとり世代やさとり世代なんて、その選択さえ選べないままに地獄の新自由主義スタグフレーション国民総セルフSNS監視国家の今の社会を生きざるを得なかったんだべ?
そんで今頃国が何とかしろとか被害者ヅラして謝罪と賠償を請求するニダ!とかあまつさえ単に自分が社会や人間そのものが嫌いなのにフェミ思想かぶせて周りの人間を委縮させるようなテロ活動に等しい迷惑なことやってるオッサンやババアが多いけど、何甘えたこと言っちゃってんの?自分らの立場わかってんの?
言っとくけどな、名前出して主張してるだけ竹中先生は立派だぞ、アンタら氷河期が若いころいじめられまくったブラック企業の社長やセクハラジジイなんかその狂った思想や変態願望を声高に自分の名前と肩書で喧伝したか?やってないだろ
アンタら氷河期のオッサンやババアがやってることはな、当たり屋や通り魔と一緒なんだよ、恥ずかしいと思わないの?
恥とか言う概念もないくらい頭おかしくなってんなら、黙って精神科でもいってコンサータなりクロームプロマジンなり筋注しまくってセルフ蟄居閉門してくれよ、子供部屋とオナニーできるオカズとエロゲーさえあれば生きていけるだろ?お前らみたいなクズなんて
人々は弱者男性が被害者であると意地でも認めないつもりらしい。
弱者男性と扱われるのが嫌なら、弱者男性をやめればいいとでも思っているのだろう。
好きで弱者男性をやっているのだから自業自得だとでも言いたいのだろう。
だけれど弱者男性だって好きで弱者男性をやってるわけじゃないんだ。
強者男性になって、上げ膳据え膳のイージーモードで、人生という名のゲームを楽しみたかったんだ。
例えば校長のようなツワモノとなって生きる喜びを知りたかったんだ。
強者男性は若い女性を餌食にして利益を得て、その上で尊敬までされているのだろう?
もし弱者男性が強者男性を自認したとて世間の承認がなければ無力だ。
どうして世間は我々を我々の見て欲しいように見てはくれないのか?
「お前は弱者だ」と、言わば「強さ自認」を考慮しようともしない世間からの一方的な決めつけによってだ。
ただ弱者男性であるというだけの、ただそれだけの理由で若い女性から蔑ろにされているんだ。
悪いのはなにも若い女性ばかりではない。
だが強者男性とて一歩間違えばたちまち弱者男性に転落してしまうのだからやむなしだろう。
男社会はイージーモードの女社会とは違って過酷な競争社会なのだ。
どこで差がついたのか?慢心?環境の違い?
弱者男性にやはり慢心があって、努力すれば強者男性になれたのだろうか?
だが努力するのもまた才能であって、自己責任論は完全論破されているというのが定説だ。
常識的に考えて弱者男性が弱者男性であることが弱者男性の責任であるわけがない。
なんらかの(自己責任でない)理由によって、弱者男性であることを強いられているんだ。
そんな弱者男性の気持ちを綺麗事ばかり言うリベラルは絶対に絶対に分かろうとはしない。
そこにはリベラルが弱者男性を舐めているという病巣が隠れている。
若い女性が強者男性には素直に従い、弱者男性コンテンツばかり攻撃するのはなぜ?
だから弱者男性コンテンツの価値を意地でも認めようとせず、あまつさえ「かわいそう」と見下す。
フェミはヤクザや半グレといった歯向かえば命の危険すらある強者男性には絶対に口出ししない。
そしてオーラと言うのは極めて言語化しづらいなにかでお気持ち次第という次第。
科学万能のこの時代だけど、オーラみたいな非科学的な価値観が幅を利かせているのが現実だ。
弱者男性には遺伝子や環境といった(自己責任でない)理由のせいでオーラがない。
オーラがあれば金も、女も、地位も、名誉も、みんな手に入った。
裏を返せばオーラがなければ、一時的にそれらを手にしても、すぐさま失ってしまうんだ。
オーラがないというだけの理由で、弱者男性であることを強いられているんだ。
もしオーラが手に入るなら、諸君らはどれだけの対価を支払える?
みなさんのオーラを手に入れることへの意気込みを聞かせてください。
まぁ社会構造上そういう人間が存在するのは仕方ないと許容するしかないのはわかってるんだけどさ。
働き手の話で、無能な働き者より有能な怠け者、みたいな話があるじゃん。
買い手の話だったら、断然無能な貧乏人より図々しいものはないね。
無能すぎて自分ができない理由を周囲のせいにしやがる心根の悪さ。
うまくできないのは周囲の人間が悪い、無能なのは環境が悪い、金がないのは社会が悪い。
そう思ってるせいか、出来ない尻拭いとして金で肩代わりしてくれるサービスに対してもケチったりあまつさえ値切ったりしてくる。
本人にはできないから本人の意思でサービスを依頼しているというのに。
有能なやつは自分ができるから、自分でやるか、手間を金で買う。だから適正な値段だと判断できるから文句言わない。
無能でも金があれば適正かどうか怪訝そうな顔しつつも、相場を調べてまあちゃんと払う。
無能な貧乏人はとりあえず値切る。言うだけならタダみたいな顔して。根拠なく買い叩く気満々。
詳細な見積もり出させておいて「他と比較します」とか言って消えることもしばしば。他でこれより安いところがあるならぜひそちらへどうぞ。
ほんと心まで貧しい。
金を払うかもしれないんだから神様扱いしろ?金を払わないやつはお客様じゃないので神様じゃないから。
一次創作小説を書いている。ジャンルは説明しづらいが、主にファンタジーとGL。たまに文フリなどに出す。部数は30くらいではけたりはけなかったり、弱小サークルであると言って差し支えないと思う。カクヨムなどに上げてもアクセス数は50程度。それでもたまには感想をもらったり、ファンですみたいな人が現れたりする。ありがたいことである。
ありがたいことなのは分かっている。
しかし、感想というものの居心地の悪さ、あれはなんなのだろう。「素晴らしい文章で涙が出てしまいました、どうやったらこんなふうに書けるんですか?はあ……語彙力……」みたいな感想をもらうと、なんというか、たじろぐ。そんなに感動してくれてありがとうございます、でもこれそんなに感動するようなやつでしょうか?
アマチュアで文章を書いているひとを全員上手い順に並べることができたとして、先頭からかなり遠いのは自分でよく分かっている。かつ、一番後ろの方ですよと卑下できるほどプライドが低いわけでもない。その上で、上手くなくても良い作品というのはあるから、そういうふうに思ってもらえてるんだろう……と考えはするのだけど、その頭での理解と感想への戸惑いは別で、「え、こんなに下手なのに?」「なんでプロじゃなくて私の文章を読むんだろう?」と思ってしまう。もっと精神の調子が悪い時には「ろくな文章読んでないから私くらいで感動できるんじゃねえの?」まで行ってしまう。創作をしてる人からの感想で、しかもその創作が自分の好みじゃないと、「尊い……語彙力……とか言ってないでちゃんとやれば?」とか「この程度の人に褒められても嬉しくないな……」とか、全く口に出せない感じになる。
全部の感想にそう思うわけじゃなくて、自分でもよく書けたなと思ったところを褒められれば嬉しいし、自分より上手い人に褒められるとやる気が出る。「この人はちゃんと読んでくれてるな」とわかる相手から的確な批判を受けると燃える。アクセス数は何度も見に行ってしまう。褒められたくないわけじゃなくて、相手を選んでるのだ。ばかだな。
ツイッターの女性文章書き界隈みたいなところでは「文字書きは感想もらえると泣いて喜んで創作意欲めっちゃ湧くからみんな軽率に感想書いてこ!!」というような話がときどきバズる。それを見るたびに情けなくなる。なんで私は素直に喜べないんだろう。あまつさえ読者を馬鹿にするようなことまで考えちゃうんだろう。私も泣いて喜んでやる気を出して次を書くみたいなことしたかった。
オチはありません。
馬鹿なの?
住民税非課税世帯なら緊急小口資金も返済不要だし子育て世帯のみに別制度を増やす理由ってなんだろ?緊急小口資金の拡充じゃダメなんか?
住民税非課税レベル=ほぼ生活保護受給できる水準ですがそんな子育て世帯がどれだけあると思ってるんですか??
子育て世帯にのみ手厚くするのは子育てにそれだけ負担があるからなのですが?
そもそもコロナ第1波の前から特措法改正を主張してたのを無視し、あまつさえコロナ禍での過重労働で苦しんでる看護師の待遇を危うくするような日雇い派遣法案を通す方がありえないですよね
弱者男性?非モテ男性達は女性をずっとブスとかババアとか中古とかマンさんとか言ってて、結婚は負債だからするやつは愚かまで言ってたのに、ここになって急に自分達は弱者って主張し始めたの何?
中高年になって1人が寂しくなってきたのかな。
結婚なんてしたら嫁にオタク趣味取り上げられて、家族サービスで休日が終わる。そんなつまらない人生なんて選ばない。これからもオタク友達と一緒にオタクとして生きていくのが正義って話だったよね。
それが低所得だから結婚もできず、彼女すらできずセックスできない俺たちは弱者だって言われても「ほーん」としか思えないと言うか、それこそあなた達の大好きな「自己責任」では?と思う。
端的に申し上げるのならば私は狩人である。
北海道の片田舎の漁業と狩猟を生業とする家に生まれた。
突然だがご存知だろうか。鹿は、強い。
北海道に生息する鹿はエゾシカと呼ばれ、本州へ生息する鹿よりも体躯は大きく力がある。
通常であれば猟銃で仕留めるところを仕留め損ね、猟銃禁止区へエゾシカが逃げてしまった場合はアイヌの伝統に習って槍での戦闘が始まるのだ。
筆者は奈良公園の鹿と対面したときには唖然としたものだ。
眼にまるで生き汚さはなく、体躯はたるみ、あまつさえ我々人間に媚を売る始末。
更に仔鹿などは創作物の影響からか愛玩動物のような印象を持っている人だって少なくない様子であった。
私の眼の前には鹿なぞ居らず、私が見たものはどこぞのお貴族様だったのだ。
エゾシカに向かって槍を構える。
穂先を決して上げてはならず地面すれすれを維持する。エゾシカはそれに呼応するように頭を下げて立派な角を向けてくる。
創作物などでは槍を高々と掲げる描写がよくある。映える場面にはなるのだろうが実際の戦闘では悪手だ。
槍を掲げ、そして振り下ろすという動作が遅れた場合を想定して欲しい。
エゾシカの突進は非常に強力で、もしも振り下ろしが遅れたのならば突進をモロに受けてしまい狩人の腹には風穴が開くであろう。
だからこそ地面すれすれに穂先を構え、そして突く。
先手を取る筆者の突きへエゾシカは素早く反応し突進を繰り出す、かに見えた。フェイントだ。
一撃必殺を狙った突きは重い。であるからこそ空を突いた場合の隙きは筆者へ重くのしかかる。
危機を感じた筆者は直ぐさま穂先を下げ、その瞬間にエゾシカは突進を繰り出した。
エゾシカの突進は槍が受ける。高く掲げればこうはいかない。
エゾシカは槍に触れた瞬間に頭を振り回し槍を絡め取ろうとするが、筆者は身体を回して突進を受け流し距離を取る。
穂先を下げて牽制の再開だ。
エゾシカはこちらの様子を伺う。エゾシカの眼が生き汚く睨みつけてくる。
悪いが死んでやるつもりはない。お前が死ね。
見解の一致を交差する視線から悟り、槍と角が交差する。
若鹿にあるような突進一辺倒でない。
一度の突進で押しきれないと理解するや角を振り回して小突く、小突く、小突く。
太い首に支えられつつ、いくつにも分岐した角は捌ききるには厄介だ。
こちらの嫌な表情を見逃さず、小突き、一歩、小突き、一歩と前へ出て圧力を加えてくる。
強い、鹿は強い。
体重差2倍以上、筋力差膨大、スタミナ差途方もない。
突いて、捌いて、下げてを繰り返す筆者の腕は痺れ、悲鳴を上げ、じりじりと追い詰められていく。
鹿は強い、そんなことは知っている。
堪えて、堪えて、堪えて、それでも堪えた終わりは突然やってくる。エゾシカのスタミナが切れたのだ。
銃弾を受けた足の出血が想定よりも早くエゾシカのスタミナを奪い続けていた。
エゾシカの猛攻は止まり、二歩三歩と下がったのちエゾシカはその場に座り込んだ。
エゾシカと筆者の視線が交差する。そして筆者は槍の構えを解く。