はてなキーワード: 脚本とは
日テレ、小学館、双方の報告書を読んで、なんとなく想像できてしまったので吐き出しておく。
亡くなる直前に残した言葉「攻撃したかったわけじゃなく…ごめんなさい」がヒント。
これは誰に対する攻撃なのか? 誰に対し謝っているのか?
日テレ、小学館の報告書を読むと、芦原さんの謝罪対象は「本件脚本家」だと推測できる。
つまりこれは、自分の怒りの矛先が間違っていたことを謝っているのではないだろうか?
芦原さんが、プロットや脚本修正のラリーの中で「脚本家が悪い」という思いを募らせていったことが報告書からわかる。
堪忍袋の緒が切れ、9話10話の脚本を自分で書くとした。クレジット表記も許さなかった。それで一時は矛を収めた。
ところが、本件脚本家のInstagram投稿でその怒りが再燃してしまった。自分の知る経緯を公開せずにはいられなくなってしまった。
ところが、ブログを公開して炎上したあと、脚本家には実はさまざまなことが伝えられていなかった事実に気づいた。
怒りの矛先を本件脚本家“だけ”に向けていたことは、間違いだった。
SNSで本件脚本家を擁護する声が、実はそれほど理不尽なものでもないことにも気づいてしまった。
つらい。
原作者「これだけ加筆したんだから8話脚本としてクレジット入れて」(各種修正以外に追加エピソード複数加筆)
原作者「仕方ないからそこは折れるけど9、10話はまじめにやってね」
脚本家「9、10話脚本クレジット入れなきゃ差し止める」(一切書いてない)
日テレ「最終話オールスタッフクレジットの先頭に入れます原作者よりも大きい扱いにします」
どうしてこんな異常すぎる力関係に
原作者は鬼介入したうえで、”脚本家の手柄にされるのが納得がいかない”旨の発言があるな(日テレ報告書)
手柄にされるのが気に食わないほどの評判があったってことだから、出来上がりに一定の満足はしていたんだろう
①8~10話のやりとり ②クレジット問題 ③脚本家SNSの問題
日テレと違って、ここの部分に関して雄弁に記載していないところが、小学館の報告書はズルい
恐らく、意図的に端折ってるんだろうけど
で、こっからは邪推なんだが、原作者がすべて介入した8~10話の受けが意外と悪く
くだんの脚本家SNSへの同情とか”それで後半はチグハグだったんですね(意訳)"みたいな意見を耳にしてしまって
自分のこだわりが、チームの作品を汚してしまったって考えから思いつめちゃったんじゃないかなあ
どちらの報告書でもそういう結論だね、だから原作者はドラマの出来自体には満足してたと。
ただし小学館の方はそもそも最初の約束が守られてたら「脚本作成過程の尋常ではない心労」はなかったはずだし
それが「影響していなかったと断定はできない」という立場。
それは今回の問題点を、ドラマ制作サイドの意図が原作者に充分伝わっていなかった、つまり「説明不足」に求めているところ。
本打ちメンバーが当該原作の設定を変えようと試みたことには、それ相応の議論と積極的な理由があった。しかしながら、本件原作者の上記返信内容をみる限り、本打ちメンバーで議論した内容・意図が十分伝わっているとは思えない状況であったことがうかがえる。
いや、そうじゃないんだよ。原作が何を大切にしているかプロデューサーや脚本家を含めた制作サイドがまったく理解していない改変を繰り返すことが原因なんだよ。だから原作者が誤っている箇所とその理由を事細かに指摘し、それを繰り返しても一向に直ならない状況に絶望し、心身を疲弊させていく羽目になったんだよ。
以下なんてまさにその無理解を露呈してるよね。
原作では朱里が短大に進学した設定があるが、本打ちでは、同設定に関して、「短大に進学するよりも専門学校に進学する方が近時の10代、20代としてはリアリティがあるのではないか」、(短大進学の原因となっている)「父親のリストラはドラマとしては重すぎるのではないか」等の議論を経て、高校受験の際に、父親が勤める会社が不景気になり、母親から「高校は公立でいいんじゃない?」と言われて本当は友達と一緒に制服がかわいい私立校に行きたかったけど、「うん、そうだね」と笑って受け入れたという設定に変更する旨のプロット案を送信した。(中略)上記プロット案に対する本件原作者の返事として、かわいい制服の私立高校に行けなくなったことなどは「心底どうでもいい」ことである、原作のジェンダー要素も逃げずに書いて欲しい、制作サイドは短大での設定を避けているのか?といった趣旨の記載がなされた文章が送信された。
日テレの報告書は、調査にあたった外部有識者(弁護士)が、本件以外取引がなく、独立性・中立性が担保されているとわざわざ冒頭に記しているが、上記を見れば外部有識者が日テレの側に立っていることは明らかだ。日テレも外部有識者もこれで騙くらかせると思ったんだろうか。舐めすぎじゃないかね。
再発防止策を本気で練るなら以下以外にありえない。
日テレ側は当初(3月9日あるいは29日打ち合わせ)で「本件原作者の意見を無視するような改変はしない、リスペクトをもって取り組むという趣旨の話をした」と日テレ報告書にあるが、それがなかったのは上記からも明らかである。
リスペクトとは何か。それは原作が、畢竟原作者がその作品で大事にしていることを同じように大事にするということであろう。
原作者は一切の改変を許さないというスタンスではなく、むしろ当初は上手く料理されることを願っていた節さえある。
芦原氏は、監修者として漫画とドラマは媒体が違うので、ドラマ用に上手にアレンジするのがベストであることは理解している。全てお任せして「ああなるほどそうくるのか!面白い!」と思える脚本が読めるなら、一番良いが、「ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変」がされるなら、しっかり、原作通りの物を作ってほしい。脚本で 100 点を目指すのはもう無理だと思うので、演技や演出力で、なんとか80~90点に、引き上げて欲しい。ベストは無理だと判断したので、限りなく全力でベターを目指して欲しい。と一層の努力を求め、原作者として「作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラを破綻させる様な、安易な改変」は、作家を傷つけることをしっかり自覚して欲しいと要請しつつ、役者スタッフ等多数人の労苦に感謝しており、「闇雲に原作を変えるな!と主張しているわけではなく、よりよいドラマになるように、自分を守るために、現段階でできるベストを尽くしているつもり」と結んで本件脚本家の理解を期待した。
上記は小学館側の記載だが、原作者の当初の期待とそれが失われていった様を如実に表した一文であろう。
両報告書を読んで最も強く感じたのは原作者の孤独と絶望である。原作者は小学館を間に挟んでドラマ制作サイドと戦っている感覚だったのではなかろうか。
本来なら原作者と同じスタンスで原作によりそい、ともにドラマを作り上げていく仲間であるはずの制作サイドが敵となってしまったのは、本事件における最大の不幸である。
なぜそんな不幸が生まれたのか、制作サイドが真剣に反省し再発防止策を明文化し、プロデューサーからADに至るまでそれを徹底的に学び、実行しなければこの悲劇は繰り返される。
のではあるが…
●今回のことを受けて
・これで怖がっちゃいけない。安全にドラマを作る方法なんてない。それはみんな意見が違うし考え方が違う。その中で人間の生き方みたいなものを提示していかなければいけない。意見の食い違いもケンカもいろんなことがあって、プロデューサーが代表して、こういうドラマを世に問うんだと原作者、脚本家をまとめやっていかなきゃいけない。それを怖がっていたら面白いモノが出来なくなってしまう。そういう危険は今後もはらんでいるだろうけれども、だからこそ話し合ってコミュニケーションをとってやっていくしかない。
・放送局としてはまず第一に社員を守ることが仕事。社員を守るために早く結論を出すとか、その原作に係るトラブルの際に早く赤信号みたいなものをキャッチし、社員ができるだけクリエイティブに物を作る環境を整えるのが会社の仕事。
・若手プロデューサーの起用については、(トラブルになりやすいというのは)正直言ってあるとは思うが、それを恐れていたら駄目。失敗しないと学ばないからこそ、失敗してもフォローが出来る体制を作っていく方が大事。
https://www.ntv.co.jp/tanakasan/caststaff/
1〜8話 脚本
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%B2%A2%E5%8F%8B%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E5%8E%9F%E5%A6%83%E5%90%8D%E5%AD%90
三上絵里子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%8A%E7%B5%B5%E9%87%8C%E5%AD%90
大井章生
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E7%AB%A0%E7%94%9F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E8%82%A1%E9%9A%86%E4%B8%80
宮下直之
https://www.allcinema.net/person/1061188
制作協力
9話の脚本は5稿まで書いていて、脚本家はその際のアイディアが使われていると主張してます。
実際どうなのかは然るべき場で係争する事案でしょう。少なくとも一方が判定するようなことではない。
少なくとも5稿まで書いた事実は両社の報告書で明記されてますし、その労働の対価としてクレジットすることは何も不自然ではない。(実際脚本料は日テレは支払っている)
まず結論を書いておく。
「電話で社外の人と合意を取り付けたら、合意内容を、関係者をccに入れて相手にメールしろ」
言いたいのは、それだけだ。(当然だと思った人もいるだろう)
以下、具体的な状況を見ていく。
ドラマ「セクシー田中さん」の製作過程で問題が生じた大きな原因が、原作者が求めた条件「(ドラマオリジナルとなる終盤では)原作者があらすじからセリフまで用意する」「用意したものは原則変更しない」「場合によっては、原作者が脚本を執筆する可能性もある」が十分に履行されなかったことなのは、衆目の一致するところだろう。
日テレ報告書では、この条件について、「許諾の条件として伝えられていたとの事実は確認できなかった」としている。つまり、「言った言わない」論争が発生している。
この"条件"を主導したのが、小学館の社員B氏である(小学館報告書での呼称。以下同じ)。B氏は、映像化関連の部署に所属している。この部署が長いのか、日テレX氏(担当者Y氏の上司)とも8年程度の面識があった。
そこで4月25日、社員Bは、小学館社内で芦原氏に面談し、ドラマオリジナル部分についてはできるだけセリフを多く入れたロングプロットを書いてそれを脚本家に脚本化してもらうこと、それでもうまく脚本にできない場合はご自分で書く場合もあるが良いかと尋ね、その覚悟があることを確認した。社員Bが、できるだけキャラクターのセリフを多めに書くことで、脚本家が芦原氏のつくるキャラクターのセリフを替えることができなくなると説明したところ、同氏はすぐに理解した。
そして、B氏は、日テレX氏にこれを伝える。
社員Bは(6月)9日、日本テレビ社員X氏に電話で改めて、ドラマのオリジナル部分は芦原氏が詳細プロットを書き、これを受けて脚本家が起こした脚本を了承しない場合は脚本を自ら書く方法を提案し、脚本家に失礼にならないよう了承を取ることを求めた。
これに対して日本テレビ社員 X 氏は、芦原氏に書いてもらうことはありがたいと賛同し、脚本家にもうまく話しておくと回答した。
なお日本テレビ社員 X 氏は、「もし脚本が芦原先生の意図を十分汲まず、芦原先生の承諾を得られないときは、芦原先生に脚本も書いてもらうこともある」と言われた記憶はないと否定している
おそらく、日テレ側は「脚本」「詳細プロット」という言葉を、提供されるフォーマットについての言葉として理解しており、原作者やB氏の意図する「原則変更しない」という意図では捉えていない。
実際、この後の日テレ担当Y氏のメールでは「具体的に頂けるほうが良いと思います」と言っており、「詳細プロットや脚本=具体的な表現方法での提示」として捉えている。さらに続けて、「こちらからもそのご提案を受けて、案だしもさせて頂ければと思います」と「原則変更しない」を認識していない発言を続けている。
(なお、このメールを受けた小学館の担当者A氏も、「案だし」を咎めず、また、自分のメールでも「脚本もしくは詳細プロットの体裁でご提案」とフォーマットとして書いているので、同じ捉え方をしていた可能性がある)
ここから伺えるのは、小学館B氏が日テレX氏に電話で伝えた意図が日テレ側に正しく伝わらなかったこと(もしかすると、小学館A氏にも伝わっていない)。
そして、その連絡が、2人の電話でしかないため、2人の記憶違いが生じたら、どうしようもなくなることである。
もし、B氏が電話で合意した(と認識していた)内容を、A氏をCCに入れて日テレ側にメールしていれば、「原則変更しない」という点についての双方の認識の齟齬にもっと早く気づけ、悲劇は防げたのではないだろうか。
もちろん、他にも多くの問題点はあったし、日テレ側にも問題もあった。しかし、一番の問題点として感じたのは、肝心の所で、「言った言わない」が生じていることであり、その原因となったのはB氏の仕事の仕方である。
なお、社員Bが電話ですべてを終わらせていた問題については、小学館の報告書にも書かれている。
しかし、同報告書は「日本テレビ側が原作者の意向を代弁した小学館の依頼を素直に受け入れなかったことが第一の問題」と主張するために書かれており、小学館側のコミュニケーションの問題とはしていないことから、論点をずらしている。
社員Bは大抵、日本テレビ社員X氏と電話で交渉したようであり、文章になった資料の提出はなかった。本委員会において認定根拠としえたのは、社員AへのLINEメッセージである。日本テレビ社員 X 氏との電話交渉についてもより詳細な記録があれば事実経過の理解に役立ったと思われる。また、膨大な業務をこなしながら、日常行うのは大変かもしれない。 しかし交渉過程の記録はビジネスの鉄則である。記録がなければ、万一担当者に事故があればその成果は継承されない恐れがある。
多くの会社では、日報・日誌等で経過を報告し、上司・同僚と共有するのが普通である。そこから問題点の指摘を受けることもある。
しかし、小学館の社員A氏(芦原氏の担当編集者)の立場からすると、他部門の管理職(と思われる)B氏が、頭越しに漫画家に進め方を提案し、テレビ局とも勝手に交渉し、口頭でしか共有してくれない…なんて、たまったもんじゃないよな…。
このケースで脚本家が著作者にあたるかどうかはハッキリしていないと書いたつもりだけど。
携わったのが確定している以上、(脚本という役職以外でも)クレジットされる権利はあるべきだし、それらクレジット案が全て拒絶されたことを前提としている。
セクシー田中さんの両社の報告書を流し読みしたが、日テレ側に書いてあった故・芦原先生に関する行動や心境の記述が、小学館側では何故か触れられていない。
具体的には以下。
7 話のプロットのラリー中の同月 16 日に、本件原作者から A 氏に対し、ベリーダンスのショー観覧の誘いがあり、本件原作者、C 氏、A 氏、F 氏が同席した。本件原作者と A 氏はここで初めて会ったものである
本件原作者は本件脚本家の 1 回目の投稿があった直後の 2023 年 12 月 25 日に関係者と食事をした。食事の際、本件原作者は以下の内容を関係者に話した。
・ A 氏は最初から本件ドラマについて改変ありきで進めていたのではないか疑問に思う。
・ 1 話から 8 話までは自分が大変な思いをして修正したものであるのに本件脚本家の手柄にされており、自分が脚本として作った 9,10 話が駄作と言われているのが許せない。
(中略)
関係者は、本件原作者他とグループ LINE をしていたが、本件原作者の投稿後、本件原作者から「こんな騒ぎにしてしまって申し訳ありません」というメッセージが来た。
関係者が「謝ることはないですよ、言いたいことがやっと言えてよかったですね」というメッセ―ジを送ったところ、本件原作者は「ありがとうございます。」とメッセージを残した。
これらは先生の心理を紐解くヒントになる重要な出来事であるにもかかわらず、日テレ側では調査できているのに小学館側が載せていないこと自体が、何らかの意図があると感じる。
先生からの制作サイドへのベリーダンスへのお誘いは、先生からの唯一の歩み寄りだったはず。同行した小学館関係者は、この時の先生の心理を説明できるはずでは?
また小学館側は1~8話の制作過程は詳細に記載しているが、9話、10話に関しては、先生が執筆することに決定後、それに関する記述はほとんど無くなる(クレジット問題を除き)
原作者が書いたからそこには何も問題が生じていなかったというスタンスだろうか。上記の関係者の内容やブログを見る限り、執筆した為に生じた苦悩があったことは明白であると思う。
全体的に、小学館側は芦原先生の代理人・代弁者という立場で仕事をしていた自覚がないようにみえる文書になっている。
芦原先生が強硬姿勢になる原因を作ったのは日テレ側の制作プロセスの問題だが、原作者と日テレ側が直接やり取りしない体制に合意した以上、それを制御できる立場にあったのはパイプ役の日テレ側の窓口・編集者だけだった。
にもかかわらず、強硬姿勢になるまでの間に小学館側が何らかの具体的なアクションを取ったり、先生の苦悩を慮る配慮をしていた様子が見られない。または報告書の中からカットされている。
日テレ側が負担や問題を押し付けてた結果生じた事件であるということを強調したいが為か、恣意的な、ドキュメンタリー感ある報告書になっているように感じる。
あとついでに。
(2) クレジットについて
本件ドラマの第 9 話、第 10 話の脚本を書いたのは芦原氏であり、その著作者は芦原氏であるから、芦原氏が単独のクレジット表記を求めることはおかしなことではない。
この主張はヤバくないか?
関わっていないと断定して外部の人間のクレジットは外せという要求は、明らかに著作権の範囲を超えた越権的行為だ。
スペシャルサンクスに書かれてる人間全員何もしてないだろ!消せ!とか言ってる人間いたら、どの立場でも顰蹙買うだろう。
(補足:前提として、制作サイドが提案したクレジット案を原作サイドが全て拒絶して9話に脚本家はどの役職でもクレジットされなかった。10話はオールクレジットという手段で認可された。小学館側はこれを妥当とする主張)
・クレジットとは本来敬意を示す箇所であり、直接携わっていなくても表記するケースは慣例として幾らでもある
・脚本家は9話は第5稿、10話は第4稿まで提出していて、その中のアイディアが決定稿に使われていると主張している
・日テレ側は脚本家が9話と10話に関わったことを認めていて、脚本家の名前をクレジットするつもりだった
・氏名公表権の観点から、(利害を人質に)他者のクレジットを消させる行為は、違法である可能性がある
これらのことを考慮せずに、制作側ではなく、取引先でしかない小学館が、一方的に判断してクレジットに口を挟むことを是とすることが強い違和感がある。
小学館はクリエイターファーストの精神であるのであれば、クリエイターの尊厳を軽視するようなことを主張すべきではないだろう。
自分は原作しか知らんけど、その範囲であれば「2人が愛し合っている」と思うやつは馬鹿だと思う。
それこそ、ガストン・ルルーが見たら、墓から出てきて脚本家を頭からばりばり食い殺しかねないレベルに。
ほんと、原作改変は止めて欲しいよね。
自分は「おもしろくなるなら原作改変はしてもいい」派にも同意しかねる。
「おもしろい」って誰が決めるんだよ。
お前のお気持ちだろ?
Pまで行く人が若手とはいえそこまで能力値が低いとも思えないので、
単純に忙しすぎたのではないかなと思うんだよね。
抱え込みすぎというか。
能力が高い人が起業することは多いけど、起業するとだいたいの社長はバカになる、なぜなら決めることが多すぎて一つ一つに時間を割けないから。
というのと似たような感じ。
一番きついだろうなっていうのはやっぱり締め切りだろうな。
3月29日時点で条件が示されていればドラマ化はなかった――これは日テレの調査によって明らかになったドラマ制作サイドの考えだ。ドラマ制作した日テレは3月29日のウェブ会議において原作利用許諾を得られ制作がスタートしたと考えている。原作サイドの小学館は6月10日のメールで初めて契約が締結したと認識している。すれ違いだ。
すれ違いが多数重なったことで悲惨な結果になった本件だが、6月10日までに実際に何があったかに焦点を当てて考察する。どちらの調査報告書でも解釈の都合に合わせて省略が施されていて、突き合わせてみないと実態がわかりにくい。原作の先生がブログで示した「何度も確認した条件」は、果たしてどのようなものだったのか。どう確認されたのか。日テレは何を約束し、あるいは約束したと思い込んだのか。
なおこの考察では、日テレの調査報告書も小学館の調査報告書にもウソは書かれてないと仮定する。この後に及んですぐバレるウソをつくのはリスクでしかないし、外部の弁護士が実名で名を連ねているからだ。
引用元を(日p12)(小p34)のようにページ数を付記して示す。
(日) https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/pdf/20240531-2.pdf
(小) https://doc.shogakukan.co.jp/20240603a.pdf
なお文脈を補うために適宜カッコ書きで(このように)追記する。
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟ(小学館側は)芦原氏が自分の作品を大切にする方であり、作品の世界観を守るために細かな指示をする所謂「難しい作家」であるから、原作に忠実で原作を大事にする脚本家でないと難しいと伝えた。(小p13)
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟ他社に当面ドラマ化の意向がないことを確認し、会議で報告した。(小p13)
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟ他局からのドラマ化の話を断ったことが説明され(日p10)
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟ(日テレからの原作者とどういう形で進めていくのがよいか、の質問に対して)「できあがったプロット・脚本を見ながら進めていきましょう」
(日テレ側は)本件原作者の意見を無視するような改変はしない、リスペクトをもって取り組むという趣旨の話をした(日p10)
日テレはこのときにドラマ企画についての許諾がなされたと認識したらしい。
日テレの報告書には、この時点までの二度の打ち合わせではブログにあったような条件は文書でも口頭でも提示されてなかったと注記している。小学館担当者は「漫画を原作としてドラマ化する以上、『原作漫画とドラマは全く別物なので、自由に好き勝手にやってください』旨言われない限り、原作漫画に忠実にドラマ化することは当然という認識である」と回答した。
4月には日テレから脚本家候補者の提案があり、その中に揉めた脚本家も含まれていた。
脚本家が書いてきたプロットに原作の先生が修正を加えたりした。4月中に日テレから脚本家が決定したと通知された。
4月24日
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟ「マストではないので、ご提案があれば随時お聞きしたい」(と添えて原作者の意見を伝えた)(小p16)
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟ未完部分はドラマオリジナルのエンドでよい(日p9)
日テレの調査によると、この発言は「未完部分は原作に影響を与えないよう、原作者が提案するものをベースにしたドラマオリジナルエンドで良いという趣旨で言った」とのこと。
5月19日
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟ原作者としてエピソードの順番の入れ替えをしないよう脚本家に求めた。...送信メールに「 『セクシー田中さん』はキャラクター漫画だと思っています。それ故キャラクターを好きになってもらうために、各エピソードが綿密に構成されているので、やむを得ない場合以外はできるだけ、原作の流れを崩さないで頂けたら…と思っています」と記載し、編集者の立場からの希望を述べた。(小p17)
電話でドラマ化にあたってはやむを得ない部分はあるということを説明し了承を得た。(日p16)
6月6日
日本テレビ社内で 10 月期クールの日曜ドラマ化で決定になりそうだとして契約締結の段取りについて相談したいとの連絡(小p19)
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟ日本テレビ社内で正式決定されたら...連絡するように求めた(小p19)
6月8日
「日テレ内で『10 月ドラマ枠』で正式決定いたしました。」とメール(日p17)
(小学館社員に対し)契約の話を進めるように要請した。(小p19)
日テレの調査報告書によると、事前にドラマ化自体と放送枠は決まっていたが、初回放送日がこのタイミングで決まった、としている。
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟ電話で改めて、ドラマのオリジナル部分は芦原氏が詳細プロットを書き、これを受けて脚本家が起こした脚本を了承しない場合は脚本を自ら書く方法を提案し、脚本家に失礼にならないよう了承を取ることを求めた。(小p21)
芦原氏に書いてもらうことはありがたいと賛同し、脚本家にもうまく話しておくと回答した(小p21)
「ドラマオリジナル部分は原作にない部分を描くため、本件原作者にとって非常にセンシティヴであること、本件原作者の過去のドラマ化の経験から本件原作者から提案したほうが良いであろうこと、提案の形態は、プロット若しくはロングプロット(なるべくセリフを多めに書く)とし、本件原作者が作成して本件脚本家が読み込んだ上で、本件原作者の意図を最大限汲んだ形で巧妙に脚本化できればベストであること、ただし、脚本化の過程で本件原作者の了承がどうしても得られない場合は、本件原作者自ら脚本を執筆する可能性があること、これを実施すると、専業の脚本家の方に大変失礼であるので、予め了承を取っておいてほしいことを述べ」日テレ社員の了承を得た、とのこと(日p18)、しかし日テレ社員は、
「もし脚本が芦原先生の意図を十分汲まず、芦原先生の承諾を得られないときは、芦原先生に脚本も書いてもらうこともある」と言われた記憶はないと否定しているが、詳細プロットを書く話を聞き、感謝したことは認めている。(小p21)
原作者自ら脚本を執筆する可能性があること、これを実施すると、専業の脚本家の方に大変失礼であるので、予め了承を取っておいてほしいことは、この時点では言われた記憶はない(日p18)
小学館のレポートでは日テレ社員は「明確な条件としてはお伝えいただいておりません」とも回答し、話があったことを否定してはいない、と強調している。
「契約書の件承知しました。(日テレ社員)より(小学館社員)から契約にあたっての 9、10 話のロングプロットの話など聞きまして、こちらとしては合意で契約すすめたいというのは(日テレ社員)に戻させていただきました」(小p22)
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟ「脚本家の方との向き合いもあると思いますので、なかなか心苦しいのですが」との懸念を示しつつ「その先のドラマオリジナル展開に関しては、芦原先生の方から、脚本もしくは詳細プロットの体裁でご提案させて頂けませんでしょうか」と、提案(小p22)
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟ「許諾の条件という程ではありませんが、はっきりとした要望としてご検討頂けますと幸いです」(日p19)
小学館のレポートは「交渉への配慮として許諾条件という程ではないとしながらも」と注記している。
「結果進めさせて頂くとのことで承知しました。9話あたりからのドラマオリジナル展開に関して芦原先生の方から脚本もしくは詳細プロットの体裁でご提案して頂く点も承知しました。芦原先生の原作の世界観もあると思いますので具体的に頂けるほうが良いと思います。(小p22)
こちらからもそのご提案を受けて、案だしもさせて頂ければと思いますが、その方向で進めさせてください。」(日p19)
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟ具体的な進め方は...(別の社員)と相談するように求め、原作利用契約は小学館から連絡するとのメールを送った(小p22)
進め方の相談の電話を...(その小学館社員)にするとメールした。
日テレ側の聞き取りによると、日テレ社員は「脚本は本件脚本家が書くものだと思っていたため、…メールにある『脚本』という点が引っ掛かった。そこで、」
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟ9、10 話に関しては、原作者にプロットを書いて頂く方向で進められたらと思う旨メールにて回答した。(日p19)
小学館の調査報告書によると小学館担当者は「この提案は、プロットを忠実に脚本に起こしてもらえるならば、という前提での提案であり、この時点で芦原氏の脚本執筆を条件から外した事実はない。」とのこと(小p22)。日テレの調査にも同様の回答をしている。
「テレビドラマとして本件原作者のプロットが通用するかどうかは実際にみてからでないとわからない」旨回答し、本件脚本家の執筆したものでラリーをさせてほしいという旨伝えた(日p18)
さらに、「この時点で本件原作者の了承がどうしても得られない場合は、本件原作者自ら脚本を執筆する可能性があることについて本件脚本家に了承を取っておいてほしいことは言われたことはない」(日p18)としている。
ᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟᅟドラマオリジナル部分については本件原作者からロングプロットの提案をしたい旨連絡があった(日p18)
それで良い旨... 回答し、...(小学館担当者に)伝えた(日p18)
高々数MBをケチってログの残らない媒体でコミュニケーションを取るのはリスクでしかない。6月9日に何が起こったかについて双方の意見は真っ向から食い違ってる。お互いがああも自分の意見を主張できるのは、相手方に記録が残ってないという確信があるからだと思う。彼らの読みは正しくて、だから結局どちらが正しいのかはわからない。真実は闇の中。ログの残らない電話だから。
・ドラマ化するなら「必ず漫画に忠実に」。漫画に忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく。
・漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様「原作者があらすじからセリフまで」用意する。
原作者が用意したものは原作変更しないでいただきたいので、ドラマオリジナル部分については、原作者が用意したものを、そのまま脚本化していただける方を想定していただく必要や、場合によっては、原作者が脚本を執筆する可能性もある。
これらを条件とさせていただき、小学館から日本テレビさんに伝えていただきました。
...「この条件で本当に良いか」ということを小学館を通じて日本テレビさんに何度も確認させていただいた後で、スタートしたのが今回のドラマ化です。
(原作者のブログ記事より。アドレスはここだった http://ashihara-hina.jugem.jp/?eid=244 )
わたしの社会経験は豊富とは言えないけれど、小学館お墨付きのブログの「本当にこの条件で良いかと何度も確認させた」というのは誇張した表現としか思えない。少なくとも6月10日まで、原作者サイドはいろんな状況で何度も原作に従うように打診してきた。だけど「改めて」原作が脚本を書く了承を求めた6月8日以前にそれを求めた証拠を、わたしは小学館のレポートからさえも読み取ることはできなかった。そして「許諾の条件というほどではありませんが」… これが交渉の配慮から出てきた言い方なのは分かるが、「許諾の条件ではない」とワザワザ明記した要望が「許諾の条件だ」なんて認められない。これこれが条件だ、さもなければドラマ化は無しで、と言葉は強いかもしれないがビジネスの場では明確に迫るべきだと思う。
日テレ社員は6月10日のメールで「脚本もしくは詳細プロットの体裁でご提案して頂く点も承知しました」と一旦は納得してる。これは双方のレポートで食い違いがない。だけどその後に、「待てよ」と思い直して「(脚本ではなく)プロットで」と確認して小学館社員も方針に納得したらしい。しかし小学館社員は方向転換しない等とは言ってない。前提が覆れば現在の方針を改めるつもりでいた。このような『現在の方針の確認』は『契約の条件』というには曖昧に過ぎると思う。日テレ視点では脚本の話はそのメールでイキナリ飛び出てきた文言だったのかもしれない。だけど誤って受け入れた原作脚本の可能性を否定したいなら、「原作者が脚本を書く可能性は無しでお願いします」とハッキリ言わなければならなかったと思う。
小学館含む原作者側がどれだけ振り回され、心労を負ったか、という点にフォーカスしているのか日テレ版で言うところのラリーの詳細が多い。
漫画家の芦原妃名子先生がご逝去されたことについて、改めて、先生の多大な功績に敬意と感謝の意を表するとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
重箱隅つつきなのはわかりつつ。報告書冒頭にはまずこれがあるべきですよね。
(日テレ版は報告書本体のリンク元であるプレスリリースには同様の記載があるが、肝心の報告書冒頭には記載していない)
日テレの2人目の対応者って上司やったんかよ!!!いやそんな気はしてたけどさ!!!
そもそも小学館側はきちんと担当部署だけでなく、各社員と上司を明示していてこの時点で日テレ版より分かりやすさが違う。
特に問題はないという意見を示しつつ、気になる点として、第 2 話脚本中に若い男女のメッセージのやり取りをメールでさせていることについて、今どきは LINE が普通ではないかと指摘したり
「今時のJKは短大よりも専門学校だ」という議論をできるドラマスタッフが、今時の男女のメッセージやり取り事情に精通していないなんて…。
また併せて飼っていたハムスターの逃走範囲に関するセリフについて、原作漫画の 100M 以内との吹き出しの記載を 200M 以内に変更した点にも疑問が呈された
(略)
ヒンズー教徒が多いインドでベリーダンスをするという点に疑問を呈した
(略)
またダンスの動画についても、初心者に過ぎない田中さんのダンスが動画で評判になるほどのものではあり得ないこと等の理由を詳細に説明して、日本テレビの補足説明中の提案を認めなかった。
日テレ版では省略されていた「ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変」の具体的な例をきちんと書いてくれてますね。
「めっちゃ打ち合わせして議論してより面白くなるよう頑張ったんすよ」アピールしてた日テレさん、これも全て改変の意図がきちんと伝わらなかったの一言で済ますの?
社員 A は、上記の 10 月 2 日の日本テレビ社員 Y 氏あてメールで、本件脚本家に関して次のように問いかけている。
「確認なのですが、芦原さんが描き下ろした 8~10 話は基本的に変更無しで使用してほしい、という話は●●さん(本件脚本家。原文は実名)に伝わっていますか?●●(社員 B。原文は実名)から●●さん(日本テレビ社員 X 氏。原文は実名)にもお電話差し上げたのですが、そのお話しは●●さん(日本テレビ社員 Y 氏。原文は実名)に伝わっていますでしょうか?」
以後のメールで日本テレビ社員 Y 氏がこの点について回答した形跡はない。また本件脚本家によると、同氏は一切聞かされていないとのことである(本委員会質問に対する回答)
都合の悪いメールは読まなかったことにして無視、切羽詰まるとよくあるよね~(あるなよ)
10 月 5 日 16 時 45 分、芦原氏は社員 A に第 3 話脚本のシーン 50 で演じられるダンスが「ハリージ衣装でドラムソロを踊る」ことになっているが、これを「普通のドラムソロ」に変更するように日本テレビ社員 Y 氏に急ぎ伝えるよう要請した。
芦原氏が問題としていたのは、同シーンでベリーダンスを田中さんがステージで踊る際、演出では「ハリージ衣装でドラムソロを踊る」こととされていた点であり、芦原氏は、社員 A に対して、ハリージ衣装でドラムソロを踊ることは、ベリーダンスの歴史的、文化的背景としてあり得ないので日本テレビ社員 Y 氏に確認してほしいと求めたのである。芦原氏の求めを受けた社員 A が同日 19 時 50 分ショートメールで、日本テレビ社員 Y 氏に対し、芦原氏からの依頼として、「ハリージ+ドラムソロ」はダンスの監修者が OK しているとは思えないので確認してほしいとの依頼があったことを伝えた。
これに対して日本テレビ社員 Y 氏は社員 A に対して直ちに、ダンス監修者には「OK 頂いている」という認識であるが、改めて確認すると返し、同日 23 時 35 分にダンス監修者から OK の確認が取れたと連絡してきた。
しかしこの時、実際にダンス監修者が OK と言っていたかという点には疑問が残る。
(略)
ところが、後日、芦原氏は、「ハリージ衣装でドラムソロ」はあり得ないことを認識した。芦原氏は、日本テレビ社員 Y 氏(なお、撮影は 10 月 10日を予定していたが、日本テレビ社員 Y 氏は社員 A からの 10 月 5 日の問い合わせに撮影済みであると虚偽の発言をしていた。このことでも芦原氏は不信感を募らせていた)の対応に不信を募らせ、間違った有りようのダンスが公に放映されることを看過できず、ダンスの監修者の名誉のためにも撮り直しをするか、それができないなら番組 HP や DVD への釈明文掲載等を日本テレビに要求するように社員 A に依頼した。
3話リテイクの経緯詳細。
日テレ版では、
2023 年 10 月上旬、ドラマ撮影時に撮影シーンを巡って本件原作者が A 氏に対して不信感を抱く事案があった。A 氏は、C 氏より送付された本件原作者の意向に従って当該撮影内容としたつもりであったが、本件原作者はそのような趣旨では依頼していない認識であったため、C 氏に確認を依頼した。
C 氏を通じた本件原作者の撮影シーンに関する問い合わせに対し、A 氏は既に当該シーンは撮影済みである旨回答を行ったが、実際の撮影は 5 日後に予定されており、そのまま予定通り撮影が行われた。
その後、これらの経緯を本件原作者が知ることになった。A 氏によると、まだ撮影していない旨を回答すると本件原作者から撮影変更を求められるのは確実であると思ったが、A 氏は当該撮影シーンは客観的にも問題ないものだと思っていたこと、及び当該シーンの撮影のために 2 か月にわたってキャスト・スタッフが入念に準備を重ねていたため、撮影変更はキャストを含め撮影現場に多大な迷惑をかけるので避けたいと思って咄嗟に事実と異なる回答をしてしまった。このことは反省しているということであった。
と、「撮影前を撮影済みと嘘ついちゃいました、てへぺろ☆」なことしか書かれてないけど、その前に「ダンス監修者の了承が本当にあったのか?」という日テレ担当者の信頼度をさらに下げる一幕があったんじゃねーか!!!!
まさか「今から変更したらみんなに迷惑かけちゃう…」という我が身可愛さで嘘付く人でも「ダンス監修者の了承はきちんと取っていたに違いない」と信じてるの?
そしてどういうつもりで削ったの?(一応、読み落としたかと思って日テレ版を「ダンス監修」で検索してみたが見当たらない)
この間、社員 J が 7 月 27 日に日本テレビに送信した契約書案に対して同社から 9 月 26 日に修正案が戻された。
その中では、改変についての原作者の承諾に関し、小学館提示の原案では小学館と原作者双方の同意が必要としたものを、日本テレビは、日本テレビとして合意を得るべき相手を小学館に限定する修正依頼があった。
原作者の承諾は不可欠であるため、小学館を介して原作者の承諾を得ることに修正し、社員 J は部内の承諾を得たうえ、10 月 23 日に日本テレビに送った。
うーんこの。日テレが原作者をどう思ってるか本音ダダ漏れなの草でしょ。
社員 A のメールは貴重な記録であるが、社員 B は大抵、日本テレビ社員 X 氏と電話で交渉したようであり、文章になった資料の提出はなかった。
本委員会において認定根拠としえたのは、社員 A への LINE メッセージである。日本テレビ社員 X 氏との電話交渉についてもより詳細な記録があれば事実経過の理解に役立ったと思われる。また、膨大な業務をこなしながら、日常行うのは大変かもしれない。
しかし交渉過程の記録はビジネスの鉄則である。記録がなければ、万一担当者に事故があればその成果は継承されない恐れがある。
多くの会社では、日報・日誌等で経過を報告し、上司・同僚と共有するのが普通である。そこから問題点の指摘を受けることもある。
原作者は最終的なドラマの出来については満足していたということについてはどちらも認めているんだよな。
で、小学館の方で新たに発覚したのが「脚本家の例の投稿によって原作者は原稿が書けない状態になっていた」ということ。
これ読むと脚本家のSNS投稿が原作者の死のトリガーになったってハッキリ言ってるように聞こえる。
それがなければ制作中のトラブルはあっても「慣れない新人Pに担当されて大変な目にあったけど脚本家を追放してドラマ化大成功した件」で終わるはずだった。
日テレが再三主張している伝達のミスも、そもそも脚本家が「原作者の指摘を直接見たくない」と言い出したのが発端に見えるし、
SNS投稿の原因となった「9,10話に対して脚本家が協力などの形でクレジットを載せろという要求が通らなかった」ってのも、
それらが最終的に原作者の脚本で進んでいたことを考えると無理のあるゴネに見える。
・脚本家が見たくないと思ったほどの原作者の指摘とは具体的にどういった文面だったのか?
・9,10話には本当に脚本家のアイデアが一切(例え偶然にでも)使われていなかったのか?
・アイデアが一切使われていなかったとしても、脚本の作成を途中まで行っていた以上クレジットするというのは慣習として標準的なのか?
1つ目については両社の報告書にはやや怪しい部分がある。
原作者とのやり取りの文面は膨大な量になっているはずなのに、具体的に提示している文面は
「短大の設定を変更したこと」や「4話時点で入れ替えなどによる作品崩壊を指摘する文」など同じ箇所を引用しているのだ。
穿ち過ぎかもしれないが、他の箇所では表に出しづらい語調のものがあり避けた結果と考えることもできなくはない。
もちろん問題を考えるうえで様々な理由で被ったとは思われるが、
何にせよ大部分の文章は表に出ておらず、脚本家の要望が妥当と思える文面があった可能性は捨てきれない。
2つ目については原作者の脚本が丸ごと使われている以上ありえないように思えるが、
日テレの報告書では脚本家が「9,10 話で本件脚本家のアイデアを一切使わないでほしい」と要望した文面があり、
このことについて報告書ではスルーされている。(小学館側は知りようがないので当然不記載)
また、小学館の報告書によると、原作者はドラマの演出者からの意見を反映させて脚本を完成させたとある。
この演出者の意見がじつは脚本家の案を反映させたものであった、という可能性は無いとは言えない。
また、偶然原作者の脚本の内容が元の脚本と被っている部分があったとしても、
すでに現場から外れていた脚本家には流用されたとしか見えず、上記の要望へ繋がったとも考えられなくはない。
そして3つ目。
日テレの報告書で「状況を鑑みて脚本家の権利として商習慣上「脚本協力」のクレジットが表記されるのが当然」と脚本家が述べているが、
おそらくこれは最終的に使われなかったとはいえ「一旦は脚本を完成させるところまで作業をした」のにも関わらず、クレジットされないのはおかしいという話であると思われる。
例えばシン・ゴジラでは途中までひるね姫の神山健治が脚本を書いていたが、最終的に大まかな要素を残しつつ別物となったものを庵野が書き上げ、神山は企画協力というクレジットになっている。
これはオリジナル映画であり上山の要素もかなり残っているので当然と思われるが、
もし当人の成果物が使われていなくても途中まで参加していたメンバーはクレジットに乗せるという習慣があるのであれば、この要望は妥当であり、SNSで不本意を表明するのも妥当と言えることになる。
日テレも小学館も保身のためにより具体的な情報を出し渋っている傾向があり、これだけで特定個人の責任を論じるのは危険だと思われる。
言いたいことが両者違ったり言った言わないのところもあるが大筋としてみたときの話をする。
何度も止めるチャンスはあったと思う。初手から間違っているのはそうなのだが、ミスは起こり得るものとして、最悪を引き起こさない最終チャンスはどこか考えると、脚本家がSNSに書くと言ったときだったのではないか。
どちらも見ると、この状況で脚本家がなにもSNSで言わないなんてことはないだろうと思う。脚本家はこの時点でメンタルに支障をきたしているようだが、健康でも、この脚本家でなくても、声を上げる人は多いだろう。
確かにSNSの投稿内容は考察の余地があるかもしれないが、ここでプロデューサーが脚本家のところに土下座謝罪しにいって「なにも伝えていませんでした」と言っていれば、SNSの内容は日テレ批判になっていただろう。そして日テレ側はこの問題を【もみ潰せたかもしれない】。
脚本家も原作者も何故そうなったのか分からない状態で、相手から批判を食らう状況になってしまっている。
これでなにか実際に悪いことをしていたら、批判も受け入れる余地があるのかもしれない。
脚本家からしたら、途中からはとくに具体的な指摘もせず悪口ばっか言ってきてついには降ろそうとしてきた原作者。
最悪な図式ができあがってしまっている。
日テレが正直にごめんなさいすべきだった。経験が浅く仕事ができない、ドラマ仕事に向いてない、またはノイローゼだったのはあるのかもしれないが、謝れない社会人はどうしようもない。
これ以降の対処にも改善点はある。あるのだが、それを全部改善したところでどうしても「もう遅い」感が否めない。
バッドエンドルートはここで確定をしていて、最悪に進むしかなくなっているように思う。
もみ潰せたかも、と書いたが今回表面化したことで対策を取れるようにはなった。死を無駄にするなという言葉は嫌いだが、対策をするしかないのだ。日テレはドラマを作りたいなら逃げるなよ。
芦原先生は、自身の作品がドラマ化される際に発生した問題について、SNS上で声明を発表しました。しかし、その声明が予想外の反応を引き起こし、ドラマの脚本家が中傷されるという事態に発展してしまいました。このような展開は芦原先生の本意ではなく、「攻撃するつもりはなかった」と慌てて投稿したことからも、自分の言葉が誤解され、意図しない方向に事態が進んでしまったことに動揺していたのでしょう。
- 責任感と罪悪感:芦原先生は、自身の声明がきっかけで脚本家が中傷されていることに責任を感じ、罪悪感に苛まれた可能性があります。特に、創作業界では「表現の自由」と「表現による影響」のバランスが常に議論されるテーマであり、先生は表現者としての責任を重く感じたのかもしれません。
- 予想外の事態に対する恐怖:SNSは時に予想外の方向に世論を動かします。芦原先生は、自分の言葉がこれほど大きな反響を呼び、攻撃的な行動に繋がるとは予想していなかったでしょう。この想定外の事態に恐怖を感じ、パニック状態に陥った可能性があります。
- 創作者のプライド:芦原先生は漫画家として、自身の作品に強い思い入れがありました。その作品が自身の意図しない形でドラマ化され、さらにその問題を指摘した声明がさらなる問題を生んでしまったことに、創作者のプライドが深く傷つけられた可能性もあります。
- 孤立感と絶望感:SNS上で騒動が起きたとき、芦原先生はひとりで対応していたのでしょうか。所属する出版社やテレビ局などのサポートがあったのかは不明ですが、騒動の渦中で孤立感を感じていた可能性はあります。さらに、テレビ局側が何らかの対応をする前に先生が亡くなってしまったことから、事態の収束や解決への道筋が見えず、絶望感を深めたとも考えられます。
これらの要因が絡み合い、芦原先生は自殺という選択をしてしまったのかもしれません。創作者の表現は、時に思わぬ影響を及ぼすことがあります。この悲劇をきっかけに、SNS上での発言の重みや創作者の責任などについて、改めて考える必要があるでしょう。
InscryptionのSteam実績獲得率の最も低い『ドクロの嵐』を取得したので記念に書く。獲得率は現在1.9%だ。積極的に攻略情報やネタバレを書くつもりはないが、これからプレイする予定の人は見ない方がいいだろう。
「マンティスゴッド」デッキで10回くらい繰り返してようやくクリア。運良く「複製」と「合体」のマスを交互に踏めて、最終的にマンティスゴッドを以下のように強化できた。
攻撃力 | 12 |
体力 | 20 |
印 | 三又攻撃 |
嫌がらせ | |
二回攻撃 | |
托卵 |
上記のカードは、攻撃力3体力5(焚火2マスで強化)二回攻撃(合成で付与)のマンティスゴッドを「複製」 「合体」を2回経て作ったものだ。これで攻撃力と体力を4倍にできたのだ。「托卵」は「複製」した際に変化した印だが、構わず「合体」した。
これで、1ターン目にマンティスゴッドを出して奥歯がジャラジャラと弾け飛ぶのを眺めるだけのクソゲーとなってしまった。カードを組み合わせたコンボもシナジーも一切なし。これがInscryptionだ。こうでもしなきゃグリズリーボスを突破できないからしかたがない。チャレンジで変更した初見のラスボスもマンティスゴッド1枚でワンターンキルを繰り返した。最終形態だけは2ターンかかってしまったが、初見ラスボスの行動パターンを理解する前に倒してしまったのだ。
Kaycee's Modのチャレンジは少しずつ難易度が高くなるとともにカードや初期デッキのアンロックが増えていくのが楽しかった。ゲーム本編が、CPU相手に対する競技性やストーリー(脚本)の巧緻さよりも(メタ的な演出も含めた)芸術性や謎解きに重きを置いていると感じたのとは対照的だ。
ただし、それもチャレンジレベル12をクリアするまでのことだ。チャレンジを積み重ねるごとに、「今のプレイは運が良かったからチャレンジポイントをもっと盛っても勝てたんじゃないか?」などと思うことがあったが、チャレンジ全増しはまさにそうした運の良さを前提とした苦行だった。グリズリーの群れを突破できる強力なカードを運良く作れて1ターンで倒すか、それができずに1ターンで倒されてゲームオーバーか、という苦行だ。
まあそれでも、苦行を突破した達成感はあったから、それはそれでよし。
Kaycee's Modの実績は全取得できたが、本編の実績はいくつか取れてない物がある。でも、本編のゲーム性(競技性)はKaycee's Modに劣るし、実績を解除するのもただの作業に過ぎないだろうから、Inscryptionのプレイはこれにて一区切りとするつもりだ。本編のプレイはとても楽しかったけれども、2回3回と同じ演出を見ても興ざめになることは間違いない。あくまでも初見だからこそ楽しめる演出なのだから。謎解き勢なら何度も繰り返して考察を深めるのだろうが…。
例の報告書を読むに、セクシー田中さんのドラマ化にあたって原作者は
報告書を信じる限り、ドラマスタッフは原作を尊重して作業を進めたが、
原作者はスタッフの提示してくる脚本がその範疇を逸脱して改変されていると感じ、強い不信感を抱いたようだ。
原作者は「映像にする上で技術的、予算やスケジュール的に必要な改変」のみを考えており、
ドラマスタッフは「同時代のコンテンツとして原作未読のターゲットに受け入れられるようにすること」も含まれると(無意識に)考えていたのが原因だ。
報告書にある具体的な改変の例を元に考えてみよう
という内容に改変した。
その理由としてドラマ側は「近時の10代20代にはリアリティがない」「父親のリストラはドラマとしては重すぎる」というものをあげている。
つまりこのドラマのターゲットは現代の10代20代(の女性)であるわけだ。
こういったターゲッティングはドラマ制作が多額の予算を投じる事業である以上、多くの企画で設定されるものである。
また、公共の電波を使っている以上、圧倒的多数の原作を読んでいない人でも楽しめるものを作らないとならない。
そう考えた時に、大学進学の男女格差が縮み大幅に入学者数が減ったと報じられている短大は確かにターゲットにとって存在自体ががピント来ないものになっているし、
人手不足と法的規制でリストラが困難な現代日本ではリストラされるというシチュエーションはかつてのそれより深刻なイメージを伴う。
また、これに関連し原作者が「心底どうでもいい」と断じた「かわいい制服の私立高校に進むことが出来なかった」という改変も、
それが悪しきジェンダーロールとされていた頃よりも世界的に肯定的に受け入れられている現代的な感覚に照らして、
視聴者がその不条理に共感を得やすい強調表現として判断したのだろう。
ドラマスタッフはこうした現代の状況を鑑みて改変案を考えたのであって、
決して安易に思い付きで改変したわけではないのであろうが、
不幸なことに「原作者はそのような現代化自体を望んでいない」ということは気づかなかったのだ。
原作者が容認していたのは台詞を尺に合わせるとかロケの都合でシチュエーションを変えるとかそういったことであって、
アラサー女性をターゲットにした雑誌であるプチコミックの漫画をそれより若い女性に向けた作品にアレンジすることではなかったのだ。
日テレの報告書はテレビ局のドラマ製作を詳しく分析した希な資料として価値があり、
原作モノのドラマ化に際して改変の原因となる理由をまとめた表(報告書80P)はメディアに関わる人間は一読すべきである。
しかし上記にあげたターゲッティングのズレは言及されず「より面白くしようとするための改変」という漠然とした項目があるのみである。
しかし、このようなドラマに必要な面白さとはなんなのか、そのためにどんなことをするべきなのかということへの解像度の低さが、