2024-06-04

セクシー田中さん脚本家断罪する前に検討するべき3つのこと

日テレ報告書小学館報告書どちらも読んだけど、

原作者は最終的なドラマの出来については満足していたということについてはどちらも認めているんだよな。

で、小学館の方で新たに発覚したのが「脚本家の例の投稿によって原作者原稿が書けない状態になっていた」ということ。

これ読むと脚本家SNS投稿原作者の死のトリガーになったってハッキリ言ってるように聞こえる。

それがなければ制作中のトラブルはあっても「慣れない新人Pに担当されて大変な目にあったけど脚本家追放してドラマ大成功した件」で終わるはずだった。

日テレが再三主張している伝達のミスも、そもそも脚本家が「原作者の指摘を直接見たくない」と言い出したのが発端に見えるし、

SNS投稿の原因となった「9,10話に対して脚本家が協力などの形でクレジットを載せろという要求が通らなかった」ってのも、

それらが最終的に原作者脚本で進んでいたことを考えると無理のあるゴネに見える。

とはいえこれだけで脚本家断罪するのは危険だ。

これらの脚本家行為妥当であったかを考えるには、

脚本家が見たくないと思ったほどの原作者の指摘とは具体的にどういった文面だったのか?

・9,10話には本当に脚本家アイデアが一切(例え偶然にでも)使われていなかったのか?

アイデアが一切使われていなかったとしても、脚本作成を途中まで行っていた以上クレジットするというのは慣習として標準的なのか?

の3つを明らかにする必要がある。

1つ目については両社の報告書にはやや怪しい部分がある。

原作者とのやり取りの文面は膨大な量になっているはずなのに、具体的に提示している文面は

短大の設定を変更したこと」や「4話時点で入れ替えなどによる作品崩壊を指摘する文」など同じ箇所を引用しているのだ。

穿ち過ぎかもしれないが、他の箇所では表に出しづらい語調のものがあり避けた結果と考えることもできなくはない。

もちろん問題を考えるうえで様々な理由で被ったとは思われるが、

何にせよ大部分の文章は表に出ておらず、脚本家要望妥当と思える文面があった可能性は捨てきれない。

2つ目については原作者脚本が丸ごと使われている以上ありえないように思えるが、

日テレ報告書では脚本家が「9,10 話で本件脚本家アイデアを一切使わないでほしい」と要望した文面があり、

このことについて報告書ではスルーされている。(小学館側は知りようがないので当然不記載

また、小学館報告書によると、原作者ドラマ演出から意見を反映させて脚本を完成させたとある

この演出者の意見がじつは脚本家の案を反映させたものであった、という可能性は無いとは言えない。

また、偶然原作者脚本の内容が元の脚本と被っている部分があったとしても、

すでに現場から外れていた脚本家には流用されたとしか見えず、上記要望へ繋がったとも考えられなくはない。

これは完成以前の原稿が出てこないことには検証ができない。

そして3つ目。

日テレ報告書で「状況を鑑みて脚本家権利として商習慣上「脚本協力」のクレジット表記されるのが当然」と脚本家が述べているが、

おそらくこれは最終的に使われなかったとはいえ「一旦は脚本を完成させるところまで作業をした」のにも関わらず、クレジットされないのはおかしいという話であると思われる。

例えばシン・ゴジラでは途中までひるね姫神山健治脚本を書いていたが、最終的に大まかな要素を残しつつ別物となったもの庵野が書き上げ、神山企画協力というクレジットになっている。

これはオリジナル映画であり上山の要素もかなり残っているので当然と思われるが、

もし当人成果物が使われていなくても途中まで参加していたメンバークレジットに乗せるという習慣があるのであれば、この要望妥当であり、SNS不本意を表明するのも妥当と言えることになる。

なんにせよこの件は未だに曖昧情報が多い。

日テレ小学館も保身のためにより具体的な情報を出し渋っている傾向があり、これだけで特定個人責任を論じるのは危険だと思われる。

  • テレビ局と出版社の間で、どんな報告書にするか、その塩梅を水面下で融通していたとでも言いたいのか?

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