はてなキーワード: 精神論とは
パクリだの何だのと言われてるけど、パクリではないと個人的には思う。
デザイナーがロゴを作る考え方のプロセス上で、必ず一度は考えうる形なので。
(それは独創性無くてダメじゃね?という話は一旦脇に置いておく)
案外気づいてる人少ない気がするけど、あの形にはTとLの形が共存してる。
2文字以上の要素をロゴマークに共存させる考え方はデザインにおける常套手段で、
2人のプログラマーが似たような動作を要求されるソフトウェアを開発するときに
プログラムのプロセスが似ていたとしてもパクリとは言われないだろう。
所謂ゴシック的(※1)なサンセリフ体を元にしてあの形を組むとただの罫線だ。
色分けするのもアリだが、白黒で使われるシチュエーションを考えるともっと
パっと見て判る物がいい。
そうなると、もっと書体として判り易いセリフ体を元にしたツメ方になっていく。
形を組み合わせ、出来る限り余計な線を排除し、シンプルに、シルエットでも判るように。
どこかに日の丸を組み込むと64年の亀倉先生へのリスペクト(※2)にもなる…。
と考えて行くとあの形にたどり着くのは容易に想定される。
このプロセスと似たような形をベルギーのデザイナーも踏んだはずだ。
中村勇吾が言う「すごく基本的な形態の組み合わせのシステム」というのはこういう事だと思う。
言わないよね。デザインを説明するなんて、芸人がボケを説明するくらい恥ずかしいもの。
だから精神論に走ったり、凄い人だからパクらない!みたいな言い方になる。
それでは少しも擁護になっていないのだが、どうしても一言言いたかったのだろう。
こういう時は黙っておくべきだ。本人のように。
まあ、本人自身は「パクリではありません」の一言くらいはあるべきだけど。
そんな訳で「ありがちなアウトプットなのでパクリではない」が答えだと思う。
(この"ありがち"っていうのも同業者が変な擁護論に走ってる一つかな)
同じ答えを誰かが言ってた気もするけど、自分も書き出してみたくなった。
以上。
あれ、普通のいい感じのじいさんやばあさんらへんの写真が載ってるから
雰囲気がよく見えるだけで、
例えば、
というかそういうのは載せないでしょ。
都合の良いのだけ載せてる。
「ぬくもり」とか
「まごころ」とか
「ふれあい」とか
に加えて
いい感じの素朴なじいさんやばあさんの写真を載っけてると
笑顔で作ってるから美味しい、こういう人柄の人が野菜を作ってる、とか言うの反吐が出る。
あと、無農薬で育てて虫が付いてると美味しい野菜!ってうたってるのも、
さすがに、ブロッコリ茹でててがんがん青虫が浮かんでくるのはどうよ?って思う。
自分はそんな虫付いてても平気なんだけど、
取り除くのに時間が掛かる。
それならちゃんと綺麗な(虫の付いてないって意味の)野菜を買って食べる方が
効率が良い。
結局、顔が載ってても、産地表示してても、
それが本当かという信用はどこにもないので、
安くて、そこそこ見栄えの良い物を買ってしまう。
野菜は高すぎる。
生活が成り立たなくなる。
じゃ、トマトジュースでもいいやみたいになるし
まぁ、極端なこと言い過ぎたけど。
http://anond.hatelabo.jp/20150713221159
むしろ女性に無条件の承認と庇護を求めて、得られなかった男性の方がミソジニストに近くない?
藤沢は対談でも「女性を傷つけようとすることに意味は無い」といった内容の発言をしている。
藤沢は女性を憎んでるんじゃなく、女性の内面と女性とのセックスの内容に関心が無いんだよ。
二村はそこに強い関心があるし、その結果、女性を憎む瞬間についても自分で語っている。
最も女性を憎んでいるのは「二村ほど女性の欲望に寄り添うのが上手くないが、二村と同種の欲求を持っている、劣化二村」みたいな男性だろう。
okemos なんというのかよく分からんが、とにかく藤沢さんがセックスについてはてな民大好きな承認欲求と絡めないという事自体は、健全な気がするな。この人は食道楽と同じようにヤリ道楽なんでしょ。
「この店で一番高いもの食わせてください」が食い道楽なら、藤沢のアレもヤリ道楽かもしれない。
でも藤沢の場合、セックスの内容に関心が無いんだから道楽と言われると引っかかるものがある。
「承認欲求と絡めないという事自体は、健全」という認識については完全同意する。
性欲を承認欲求でコーティングしだすと、男でも余裕で「面倒くさいメンヘラビッチ」になる。
fuyu77 "藤沢は変態の真逆なのではないか。セックスの内容に微塵も興味が無いのではないか。 『ぼく愛』をパラ見したが、セックスシーンは朝チュンだった"←この辺は私もブログに書いた。http://fuyu.hatenablog.com/entry/2015/07/01/004952
スマホやハサミや靴なんかを心から憎んでいる人間など早々居ない。
憎悪の対象になるのは大抵、人間だ。人間と思ってなければ憎むことも無い。
藤沢にとって、同僚や友人など対等なランクにある男性は人間だ。
セックスの内容への関心が薄い藤沢は、「こんな女を抱けば仲間の関心が引ける」という観点で女を選んでいるのかもしれない。
ブランドバッグを欲しがる女に似ている。彼女たちが意識しているのは徹底して同性の目線だ。
nananashi 藤沢氏はタイガー・ウッズやジョーダン・ベルフォートの文脈で読むべき人物ですし、堀江氏と同様にもはやビジネス界で立ちまわることが出来ない元ハイスペックネット芸人ですね。
一生、ビジネスの現場で活躍し続けられる人間がどれだけ居るのだろうか?
大半の人間は、年功序列の給与システムに守られ、自分の価値が上がっているかのように勘違いさせてもらっているだけで、
昔から加齢によってビジネス的なパフォーマンスは落ち、実態は職場のお荷物と化しているものなのでは。
老いると現場に居られなくなる。そして良い言い方をすれば「メンター」、
胡散臭く言えば「オセロ中島の占い師」のような形で、「現場」の空気にすがりつくようになる。
lcwin 藤沢さんのは幸福かも知れないけど無間地獄にもなりそうな怖さがある。それよかなんでそんなに世の中にフリーの独身女性を見つけられるんだろうか不思議
彼氏の目を盗んでつまんでるんだよ。
恋愛工学クラスタは「寝取れなかった身持ちのかたい女」の記憶をさっさと忘れ、
結果、経験人数の多くが寝取り体験になる。
つーか、「スペック」と「数」を狙い続けられるスペックじゃなくなるんだよね、自分自身が。
『ぼく愛』の主人公のスタート地点は、彼女持ちの26歳弁理士。
そこから始まれば「ハイスペックな女をたくさん食う」という場所も目指せる。
加齢するとスペックが落ちる。狙える女の質が下がっていく。
多くの男は「右肩下がりの自分」を受け入れられなくて病んでいく。
固定の女を作り、その女とのセックスの質を高める方向にシフトした方が、
自尊心を守れるし、安寧を得られるんだよな。
この記事にはやや異論があって、二村さんの恋愛論もやはりある種のスペック(藤沢さんとは根本的に異なる種類の)を要求していると思う
まず発達障害が無いことであったり、共感性が高いことが必要だよな。
この辺りは「人間性」だの「やさしさ」「思いやり」の文脈で語られがちだが、
生まれつきの脳の器質的な問題で、その「スキル」を身につけられない人間も居て、
そういう人間には二村の主張する理想的なセックスは得られない。
「やさしくない」とかじゃなく、 能 力 的 に 。
この藤沢氏によく似てる知人がいて、超いい男で魔法のようにモテてお持ち帰りしまくるんだけど、常に正常位で挿入だけして射精したら帰っていいよってなるという話聞いて以来、ヘテロノーマティヴィティも極まると「アブノーマル」になるんだなって。
そうなんだよなあ。
好みだのフェチだのが一切無いと、ファッションで言う「ノームコア」的なイカれた空気が出てくる。
過激なクリスチャンの行う、「政治的に正しいセックス」にも近いな。
噛み合ってないというか、議論としては噛み合ったからこそ、お互いの相違がクリアになったのだ!。 私はこの二人の思想的対立でいうと、7:3くらいで二村さんよりだと自己認識。
大学構内のTOP層で構築されていて、エリートになるんだろうなと周りの人たちは口々に言っているような人を寄せ付けない人間たち。
その人たちは気がついていないだろうけど、成績至上主義故に「周りから人が離れていていつもその人たちだけで動いている」のが手に取るようにわかる。
なぜか私の周りにはそういう「大学構内のエリート(笑)」が結構いる。
私はつい先週まで、彼らの思想にどっぷりと浸かっていたために、性格が豹変していた。プライドの塊、成績こそが正義という生き方しかしていなかった。
今考えると末恐ろしい。
もう一つの方は、教祖さまのような先生とその先生の信者の方々で構成された精神論の群れ。
大学構内に存在している「成績至上主義者」たちが嫌がる存在。成績は見ないで、能力だけを重視している人たちで良い人たちだが、全員が全員宗教にのめり込んでいるような人の性格と瓜二つである。宗教家のような性格で、冷静になるとそこが怖くて警戒しないとまずいのではないかと思いながら達観している。
その人たちは精神論でものを語る、というよりかは成績至上主義の人間たちからすると目の敵になるような発言をずっとしているような人たちである。
入学当初は彼らの思想にどっぷりと浸かってしまったが故に、宗教じみているのに「何て素晴らしい人たちで構成されていて何て賢い人たちなのだろう。賢明な考え方の方が多い。捨てたもんじゃないな。」と思っていた。今考えると怖い。
二つの思想の間に立たされている私、どちらの味方に付くべきか迷うところである。
最近ではお互いに「そこはやばい」と私にアドバイスしてくださるのだが、どちらも極端にやばいと思う。それは私だけが思っているだけだろうか。
私はどちらの肩を持って、どちらとつるんでいれば気が楽なのだろうか。
私にはわからない。
★先日はてブで「子供産むかどうか、わからない」なネタがホッテントリに入ってた。
これって、「女性は子供生みたくなるのが本能の筈だ!!」という「産経脳」な人々が、
産めよ増やせよ派って、「精神論」以外の、有効な洗脳テクニックを、何一つ持ち合わせていない。
★だから、「産めよ増やせよ」な産経学派は、皆で私財を投入して、
「出産育児に無関心な現代女性を、『出産育児脳』にマインドリセットするのに、一番コストパフォーマンスが優れた手法は何か?」
こういうのは税金では設立できない(フェミニストの猛反発を買う)
★田母神とか、アパホテルの元谷とかが、「私財」で「(仮称)現代女性出産心理研究所」を設立する分には、フェミニストも止められない。
その研究所が、「現代女性を、出産育児がデフォと思うよう脳に、マインドリセット」するための「科学的アプローチ」を研究する。
★今の「産めよ増やせよ勢力」は、「育児はツライもの」と信じきってる女性相手に、やたら精神論だけを振りかざすから、完全に逆効果。
「女性手帳」なんかを真正面から主張すれば、不評を買ってしまい、益々少子化する。
そうじゃなく、「女性が自ら進んでマインドリセットする」ような仕掛けを、産めよ増やせよ学派は工夫すべき
「妊娠中の女性は、幸福ホルモンの増大が認められ、無子女性より1.7倍幸福感がある」とか
「授乳中の女性は、幸福感を示す脳内血流の増加が確認される」みたいな「数値的・科学的エビデンス」の提示が必要。
★裏返して言えば、フェミニズム勢力からすれば、「産めよ増やせよな産経勢力」が、「洗脳手段が精神論だけ」という現状は、全然「恐れるに足らない」ですよ。
「産めよ増やせよ勢力」が、「精神論一本槍を放棄」して、「出産の脳科学的なメリット」など「科学的な理論武装」を始めたら、
フェミニズム勢力にとっては本当の危機になる
★多分、出産育児を経験した女性の9割が、「産んでよかった」と言ってる、ということは、
脳神経的には「出産育児がもたらす脳心理学的なメリット」が、存在してる筈。
高浜原発の再稼働を認めない判決が出たので、このタイミングで思うことを書いてみる。
リスクも考えてコストを見積もるのは経営では常識。事故は起こらないだろうという楽観的な考えで見たらコストは安いかもしれないが、もし事故が起こったときに賠償や投資した施設が使えなくなることまで考えて比較した上で「原発のほうがコストが安い」と結論づけている記事を探したがなかった。
「原発反対派は低所得が多い」みたいな論調が流行った時期があったが、それってつまり暴力団が脅すのと同じで、自分たちに正しいことが言えないから相手の人格に向けた攻撃になってしまう。「原発反対派は低所得が多い」みたいな調査結果や話題が出てくる段階でもう「原発賛成に足るロジックが組めない」ということ。
原発が動けば得をする人がたくさんいるのはよく知られており、「原発再稼働!」みたいな人を見ると「稼働することでこの人個人にどれだけ利益があるんだろう」と考えるようになってしまった。あまり政治に関心はなかったが、原発の再稼働に賛成と言う政治家には一生投票しないという軸ができて良かった。
バカは自分がバカだと認識できないので自分を頭がいいと思っている。
そう言う話があった。私がそうだった。
言葉を取り繕っても仕方がない。小学校、中学校と成績が良くて、受験も頑張って旧帝大に入ったのだから、頭がいいと思っていても仕方がないだろう。
人と議論をしても、議論をリードすることが多く、自分が頭が悪いとは思わなかった。
でも社会に出てから、複雑な現実の中から、解を見出すことが出来ない。精神論の話じゃないんだ。数式を作れなかったり、ここに問題がありそうと目算をつけたり、そういうことなんだ。
周りが当たり前にできていることが出来ない。頑張っても理解するまで時間がかかる。その間に周りは更に先を行っている。
ああ、私は頑張り屋さんだったんだと思った。頭がよかったわけじゃないんだ、頑張ってここまで来たんだと。
もうここから先は頑張りだけじゃどうにもならないんだと気づいた。
IQテストを受けてみた。きちんとしたやつ。平均的だったけれど、たぶん無理して上まで来てしまったから、周囲はずっと優秀なんだと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20150122024751
この手の話をはじめると、決まって「継父の虐待」とか「シングルマザーの境遇では進学させられず...」とかの
キャッチーで酷い話ばかりになる。しかし実態はもう少し中庸だ。
まず、いくら劇的な離婚劇があったとしても、近年結婚した夫婦と子供の大部分は劇的に貧しくはない。
世にでる離婚サンプルは目に余るものばかりだが、国やコミュニティの自負自尊心をくすぐる例しかメディアに載らず
売文できる離婚例以外は基本表には出てこない。
で、
①慰謝料養育費のやり取りが(満額とは程遠くても)5~10年ぐらい続き
③両親の離婚過程を、ある程度余裕をもって観察することのできた子供は多く実在するが、
別に法的責任も道義的責任も果たす両親を見ているし、戸籍上断絶した祖父母や親類との繋がりが残ることだってある。
外のコミュニティを代替物にしてふんばるぐらいのリソースはある。キャリアを積み、家庭も築く。
~ここまでがギリギリ物語やメッセージとして一般人に通じるライン~
ここからがツライ。
引き続き、子供が成人するまでに両親とはそれぞれ緩やかな関係が残るわけだが、
下限がしれたものなら上限だってしれた程度のものにしかならない。
ミクロで見れば努力や精神論の入り込む余地があって、父母を反面教師にした自立への美しい物語ができあがるが、
マクロで見れば自身のルーツや幼年期の愛着を否定されて摩滅するしかない期間である。
特に両親の愛着関係を客観視したとき、そこには幼稚さを気まぐれと醜い打算ばかりが残る。
種々の責任を果たした両親を前にして取り付く島もなく、自身も成長し”こじらせた”子供として振る舞うことができない。
喜怒哀楽の大きな起伏を呼び起こすような局面は特になく、いい大人が長い期間をかけてすり減るのである。
そこには貧しさも激しい葛藤もない。
とりたてて筋が通った話にもならず冗長だから、ひたすら消耗する。
友人たちが何かというと男女同権無理かも云々のフェミニズム的なものを論じていてイライラする。何が弱者男性だ。ふざけるな。
夫婦レベルの男女関係において、精神論でどっちがどっちを経済的に支えるかという問題で、生物学的な問題を落として語ってるものは全部クソだと思う。持続可能な発展を見ていない。クソ。
まず子供を持つかどうかというところで納得のいくまで議論して、子供を持つつもりならそれをどのタイミングにするかを固める、というハード面を固めてから、格の違いとか精神面、ソフト面を論じるべきだと思う。
(まあ、ハード面をかちっと固めるというのは、それすなわちソフト面の激突でもあるんだけど。)
俺が生物学的な問題をまず検討すべきだと思うのは、それが一番タイムリミットの厳しい課題であるからだ。
まず女性側にとって、年齢が上になると妊娠はしにくくなるし、妊娠・出産時の母体のリスクも漸増する。
また、高齢出産は生まれてくる子供にも少しずつ染色体異常のリスクをかける。妊娠・出産に関しては、十数年にわたって議論を重ねて理想的な結論が出た時に実施するということは難しい。
理想を目指してディスカッションを重ねるうちに、手の中で氷を転がすようにして未来は失われていく。有意義な結論一つ残してそれらは行き止まりだ。
夫婦になる目的は何も子供を持つことだけではない。子を持たないというのも一つの選択肢だ。
しかし、何分タイムリミットのある問題だ。今はいいとなっても、後々欲しくなった時に、相手のために我慢した!ともう戻らない時を揺さぶるような喧嘩をするのはあんまりよろしくないだろう。少なくとも、消極的に選択して後悔の残らない道とは言えないのではないだろうか。
でも、養子をとるというのは
「何らかの事情で実の親から引き離された子供を家族に組み入れる」
ということだ。
実の親から離れなければいけない事情、親に対する思い、それを養い親であるあなたにぶつけてもいいのかという迷い、それらを含んで、その子のそういう気持ちも大事にしながら、それでも家族になるということだ。妊娠・出産というハードルを避けるための安易なブレイクスルーなどには、決してなりはしない。
では子供を欲しいとなった時には、必ず女性側に働けない期間は出てくる。それをどう織り込んで、働いて支えるかという論じてないのでは片手落ちだと思う。格とか気持ちとか、社会制度とかそういうことじゃないんだ。
現実を見ることは大切なものですよほんとに。夢見る少女じゃいられないわけです。
いま求められているのは、物事を総合的に判断できる人材です。分かりますか?
学問の学際化も進んでいます。これからは生物物理化学なのです。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%89%A9%E7%89%A9%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6
世の中正しさよりも目先の利益が優先されてきたわけです。その場逃れの手っ取り早い方法ばかり重宝される。
でもそれは付け焼き刃にすぎないですから、その限界が出てきた時代と言えましょう。
人間のあらゆる価値判断がそうなのです。例えば人物評価を考えてもごらんなさい。
あの人はすごい人だ。あの人は優秀だ。あの人は人格者だ。そんな評価があてになりますか?
「お賃金」とタイピングしたらGをTと押し間違えて「おちんちん」になった。修正するでしょう?
でも人物評価には正解がありませんから。おかしいと言われても「常に」修正しないわけです。これがいけない。
物事には両面性があるでしょう。賛成と反対に分かれて議論しても建設的な答えは見つかりにくい。
なぜなら、賛成派は賛成派に都合の良い事実と論理だけを用いようとし、反対派もまた同様だからです。
両面を見て判断する人間がどこにもいない。これが社会システムのセキュリティホールなのです。
冒頭に述べたように人は生きていく上で現実を見ないといけません。そうですよね?
同様に、社会システムも存続する上で現実を見る必要がございます。
そして、現実理解があってこそスムースにシステムは成長するのです。
しかし、それはあくまで個人的な見方です。よく考えてもみてください。
システムが未知の解決すべき問題に直面するのは経済問題に限りません。
ありとあらゆるシーンで、成長は必要とされるということです。視野を広く持たねばなりません。
ですから、成長のために「あらゆる」現実理解が必要なわけです。
狭い範囲ばかり観測しても仕方ない。少ない変数ばかり観測しても仕方ない。
目先の利益だけを追っている人に足りない視座はこれなのです。
さらに言えば、「夢」の扱いにも若干の語弊があるように思えます。
曰く、「夢は叶わないから夢なんだ」「夢より目標を持て」「でもないよりはあったほうがいい」。
じつに巧みな言葉遊びです。結局、「夢」が何を指しているのか、それは有耶無耶なままです。
言葉の上で明晰判明だからといって、あくまでそれはモデルです。理論です。
現実が理論通りにいけば苦労しません。どんなに美しく正しそうな理論でも現実とのズレがあるものです。
dankogaiはさまざまな事態にそなえ仕掛品を作ることを推奨しています。
当然仕掛品の有効性はテストします。じつにプラグマティックです。さすがは私たちのヒーローです。
加えて言えば、さまざまな事態にそなえたtipsも見つけておくべきでしょう。
こういった芸当をやってのけるには、夢ばかり見ていては駄目。現実ばかり見ていても駄目なのです。
もちろん夢や最終目標の設定は大切かもしれません。現実を見ることは間違いなく大切です。
ですが、それのみでは根本的な成長は見込めないことでしょう。
現実を見た上で、その一歩先を見つめ続ける必要があります。それも、目先の利益にとらわれずに、です。
それが、さまざまな事態にそなえた仕掛品やtipsの作成という1つの思想なのです。
株式投資をやり始めた人が、勝ち組へと成長していくかどうか分かつターニングポイントがそこなのです。
理想主義や現実主義の人にはこう言っておあげなさい。「現実的成長は見えているのですか?」と。
自分の言葉で成長を語れない人間にはやはり、現実的成長が見えていません。
それでは、現実的成長の広い可能性から、独創的に現地味ある「夢」を見いだしていくことも叶わないわけです。
夢がない、やりたい仕事が見つからないと嘆いている人が沢山いますね。
素朴な疑問。
いわゆる「はてサ」の歴史観は自虐的だの現在の価値観で過去を裁いているだのとさんざん批判されるわけだけど、「はてな右翼」のみなさんは先の戦争をどのように理解しているのだろうか。「近隣諸国に迷惑をかけてなどいない。攻め込まれるほうが悪い」「朝鮮半島で日本は良いことしかしていない」「詫びる必要などなし」という点で合意はありそうだけど、それ以外でもすべてを全肯定するのだろうか。
負けたことも含めて大東亜戦争に反省すべき点など一切存在しない。対米戦にしても自衛戦争でしかなく、負けたという事実は結果論にすぎない。われわれがなすべきは当時の指導者層も含むすべての先人の苦労に感謝の念を示すことだけであり、いかなる批判も許容されるべきではない。亡くなった方々についてあれこれ言うのは日本人の美徳に反する。
(2)負ける戦争を仕掛けたという点では失敗を繰り返さないようにしたい
戦争をせざるえない状況に追い込まれたという側面はあれ、米国相手に負ける戦争を仕掛けてしまったという点においては、同じ轍を踏まないようにしたい。それ以外の面では中国への進出や戦術も含めて反省は不要。
(3)兵站を軽視し、大量の犠牲を出したという点では失敗を繰り返さないようにしたい
精神論に傾斜するあまり、兵站を軽視し、特攻のような非効率的な戦術を実行することで大量の犠牲を出してしまったという点までは肯定できない。中国人や捕虜がいくら死のうが知ったことではないが、多くの日本兵が病死や餓死してしまったという事実は重く、その点について軍首脳部の責任は免れない。ただ、特攻という戦術はクソだが、それに自発的に参加した若者たちの愛国心は素晴らしい。
はてサがギャーギャー言うのがうっとおしいだけで、本音を言えばもう昔の戦争のことなんかどうでもいい。自分が悪いことをしたわけでもないのに、なんでいつまでも文句を言われねばならんのだ。
意外に(1)は少なく、(2)や(3)、もしかしたら(4)が多数派で、外国からごちゃごちゃ言われるのが腹立たしいだけなのかもしれないとも思う一方、やっぱり(1)が多数派で「歴史に反省なんぞ不要」という発想なのかもしれないとも思う。辻政信氏も牟田口廉也氏も含めて腐れ反日サヨクに比べればみんな素晴らしい方々という感じ?なのだろうか。
この手の話をはじめると、決まって「継父の虐待」とか「シングルマザーの境遇では進学させられず...」とかの
キャッチーで酷い話ばかりになる。しかし実態はもう少し中庸だ。
まず、いくら劇的な離婚劇があったとしても、日本の80~00年代で結婚した夫婦と子供の大部分は劇的に貧しくはない。
世にでる離婚サンプルは目に余るものばかりだが、国やコミュニティの自負自尊心をくすぐる例しかメディアに載らず
売文できる離婚例以外は基本表には出てこない。
で、
①慰謝料養育費のやり取りが(満額とは程遠くても)5~10年ぐらい続き
③両親の離婚過程を、ある程度余裕をもって観察することのできた子供は多く実在するが、
法的責任も道義的責任も果たす両親を見ているし、戸籍上断絶した祖父母や親類との繋がりが残ることだってある。
外のコミュニティを代替物にしてふんばるぐらいのリソースはある。キャリアを積み、家庭も築く。
~ここまでがギリギリ物語やメッセージとして一般人に通じるライン~
ここからがツライ。
引き続き、子供が成人するまでに両親とはそれぞれ緩やかな関係が残るわけだが、
下限がしれたものなら上限だってしれた程度のものにしかならない。
よほどの人徳者でもなければ、父母同士がその後直接連絡を取ることはない。
それに離婚したからといって枯れて生きるわけでもないので、職場での自己実現や再婚といった手段が視野に入ってくる。ありふれた話だ。
しかし、1対1でのコミュニケーションで繋ぎ止めていた関係性がにわかに崩れはじめるのである。
問題はそれが10年から20年といった長いスパンで起こることだ。
ミクロで見れば努力や精神論の入り込む余地があって、各々が自立する美しい物語ができあがるが、
マクロで見れば自身のルーツや幼年期の愛着を否定されて摩滅するしかない期間である。
種々の責任を果たした両親を前にして取り付く島もなく、自身も”こじらせた”子供として振る舞うことができない。
喜怒哀楽の大きな起伏を呼び起こすような局面は特になく、いい大人が長い期間をかけてすり減るのである。
こういった具合でゾンビ状態にある大人を多数相手にしてきたが、
日本人はこの手の長い時間をかけて消耗するような、自意識の強度を試す命題にとんと疎い。
なので、今日も彼ら彼女らは年一で会った親から全く知らない人間関係の話を滔々と聞くことになる。
そこには貧しさも激しい葛藤もない。
とりたてて筋が通った話にもならず冗長だから、ひたすら消耗する。