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2022-08-09

清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう

前置きの前置き

この文書で何が批判されているか知りたいだけの人は、一番下の節「まとめ」までジャンプ

前置き

清水先生の講演についてここ一週間くらい悪口Twitterで書いてた江口先生に、それブログに纏めてよと言ったら気が乗らないと断られてしまったので

代わりにそれっぽいものを書いてみる練習

具体的には江口先生

うまい人びとは、前に書いた辞書定義約定定義明確化定義理論定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます

と最新のブログで書かれているのを、清水先生の講演を題材に自分なりにスケッチしてみる。

続き、というか中間にあたるのだが「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセルカルチャーってなんだろう」を書くかは未定。

まり、この記事は書き起こしで言う「Part1 〜学問の自由とその濫用〜 」の検討が中心だが

最後の方で全体を対象にする前に他のPartの検討を書くべきところ、途中で力尽きている。

とはいえだいたいPart1の検討とほぼ同じものを繰り返すだけ


前提

を先に見ていることが前提。

特に江口先生ブログに書かれている5つの定義

説明はほぼ書かないので、分からなければブログを参照するように。



学問の自由辞書定義

まず、清水先生スライド提示するのが

1998年 国際大学協会(IAU)声明学問の自由大学自治社会的責任」による定義です。

学術コミュニティ構成員、すなわち、研究者教員学生が、倫理的規則国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部から圧力を受けることなく、学術活動を追求する自由

これは明らかに 辞書定義 ですね。

人びとがその言葉をどう使っているか国語辞典の載っているような形で説明している。

そして次に清水先生は、

一般的には、〜〜、というふうに考えることができる。」

「従来はそして一般的には、〜〜、というふうに理解されています。」

自分言葉でも「学問の自由」を定義します。

世間一般用法という文脈なわけですから、当然、スライド引用の言い換えに相当する語釈が、聴衆には予期される、

同じく 辞書定義 が与えられようとしているもの解釈されます

実際に与えられた定義を見てみましょう。

ある種の公の定義であるIAU声明に対する言い換えとして、清水先生による定義を読んでみると一つ気にかかるところがあります

IAU声明では「外部から圧力」となっているところが、

と非常に具体的な形になっています

世間一般用法として紹介される割には、議論のあり得るところで

「こういうのは多数派も少数派もない、学問独立って話なんですが、多数派から圧力特に抵抗しにくいので」

というふうに説明するほうが世間認識とあっているように思える。

とはいえ、ここまでならば、代表的な「外部から圧力」を並べただけ、ただの例示ゆえに言い換えの範疇であり、辞書定義のままだと受け取ることもできる。

学問の自由」の濫用としての「学問の自由侵害」への説得的定義

次に清水先生は「学問の自由」の濫用の話を始めます

ただ、ここで私が書きにくくて困ってしまうのが、清水先生が「具体的に」何を批判されているのかさっぱりわからないことです。詳しくは後の節でも取り扱います

今は、とりあえず定義の話をしましょう。

現代の誰かが主張している「学問の自由侵害」とは、〜〜だ」と、清水先生定義していると読める箇所を、少し文言修正の上、抜き出します。

見事にすべて 説得的定義 ですね。江口先生ブログで挙がっている

中絶とは、罪のない子供の容赦ない殺人である

中絶とは、女性を望まない負担から解放する安全外科処置である

などと同じ形式となっている。

ただ、読みながら何を論じているのかわからなくなって辛くなってしまうのは、

中絶の例ならば、中絶辞書定義 は共有されているという前提のもとで、 説得的定義 を用いているのに対し、

清水先生は、この文脈での「学問の自由侵害」とは 辞書定義 学問の自由侵害とは全く異なるものだと論じていることです。


(下の2節は「どう論じているのか」という細かいレトリック解説なので

批判の要点が掴みたいだけの忙しい人は飛ばしても良い。

どう辛いのかについては、「批判対象曖昧さ、具体性の欠如」でページ内検索してジャンプ。)


辞書定義明確化定義として使用することを目的とした約定定義へのすり替え

最初の節辞書定義から

これらは学問の自由侵害定義として読むことができるものであり、

先に導入された説得的定義社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立て」とは対義の関係にある。よって等号で結ばれることはありえない。

ゆえに、「従来から論じられてきた一般的な節(辞書定義)」学問の自由ではない、という論証。

しかし、これはIAU声明にはなく清水先生が付け加えた箇所のはずですね。

先程はただの例示と見ればという限定をつけて辞書定義と認めました。

逆に言えば、「そうでなかったら学問の自由でない」というふうに使うならば、もはや例示ではなく、清水先生独自見解です。

すなわち、この時点で辞書定義として導入された学問の自由という概念

学問の自由を〜と私は定義します!」という約定定義へとすり替えられているのです。

一旦まとめると、

「よくわからないものを」「なんか悪そうに定義して(説得的定義)」、

「その悪そうな要素にぴったり当てはまらない要素を、一般的定義の中に紛れこませる(定義すり替え)」

これが清水先生レトリックです。

定義を縦横に駆使するレトリック

付け加えていえば、ここですり替えられた約定定義根拠

学問の自由とは

「力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、 研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのもの

という説得的定義の導入も行っています

まさに、

うまい人びとは、前に書いた辞書定義約定定義明確化定義理論定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます

のものですね。

じゃあ、5つの分類の最後理論定義はどうか、

憲法23条保障する学問の自由

この一節は憲法学理論を援用しているため、少し強引ですが理論定義を示したものとも言えるでしょう。

実際、この定義根拠に「学問の自由侵害」を「なんか悪そうに定義した」説得的定義に対し

これは日本国憲法保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。

否定しています

なぜかけ離れているのかというのは詳しく述べられていませんが、

要は憲法学理論憲法原則としては国家権力監督するものであり、私人間効力の議論私人相互に大きな権力差がある場合の話である」という話でしょう。

権力差をどう捉えるか、例えば「学界から事実上キャンセルできたというのは、権力差があったといえるのではないか」というのが憲法上の論点になるわけですが、

そこを 説得的定義 から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図でクリアするわけです。

批判対象曖昧さ、具体性の欠如

ここまでいろんな種類の定義を用いたレトリックが使われてきましたが、

正直なところ、説得的定義から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図を用いた時点で

直感的にはそれは学問の自由ではないでしょうという話になります

ゆえに最も問題になるのは、そう定義されるのが具体的になんなのかです。


清水先生は「こういった言説が具体的にどう現れてきたのかご説明したい」と30分近く説明してくださっているのですが、

書き起こしを全文検索してもらえればわかるのですが「学問の自由」を直接的に濫用している例として挙げられているといえるのは、

Horowitzによる、Academic Bill of Rights (ABOR) のみです。

ほか間接的な繋がりとしては「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセルカルチャー」の事例が話されているのですが

これも抽象的な定義操作時間を割いていて、具体的な文脈はほぼない。学問の自由とどう関係するかも全くと言っていいほど書かれない。

詳しくはそれぞれをどう定義しているのか、という点を検討する必要がありますが、

これは別の記事「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセルカルチャーってなんだろう」に譲り、

記事「(1) 学問の自由ってなんだろう」では、直接的な例、ABORに絞ります

議論余地はない」ほど明らかなものだけ議論される

清水先生はABORを曲解して参照しているのではないか、という指摘もあるのですが、

とりあえずここは論点にせず、清水先生解説をそのまま採用します。

ABORの主張は、

ナチス政治哲学擁護であるとか、あるいは進化論否定であるとか、 そういうもの学術的に正当な主張の一つとして教えるべき」

「実際にそういうような授業になっているかどうかを、 授業内容を調査する仕組みっていうのを大学は作るべき」

学問の自由とはそういった環境で成立する。

ぶっとんでますよね。これ肯定する自由主義者いるんですか?

ナチス肯定論文を学問の自由擁護することはできない(マルコ・ポーロ事件)」じゃないですよ?

しろ、何が相手だろうと自由である肯定する、過激自由論者ほど否定する内容です。

大学ナチス擁護を正当な主張の一つとして教えるべき」、自由でもなんでもないじゃないですか

まとめると、

最終的には、そして本質的には、清水先生は「学問の自由」について議論余地のないことしか言っていません。

じゃあなんで議論になるのか。

清水先生立場からすれば、「学問の自由」の濫用だと当然問題視しているであろう例が

ある意味辞書定義のように暗黙に共有されているからです。

千田有紀と呉座勇一

清水先生にとって非常に身近な例であるはずのそれは2例あります

このちょうどいい2人については講演では全く触れない。

特に後者の呉座先生については質疑応答で「学問の自由」を求めている人として名前が挙がったにもかかわらず、

ちょっとからない」「詳しくない」「法律専門家ではない」「裁判をはっきりきちんと見ているわけではない」「労働争議であって学問の自由ではないんじゃないかなぁ」

との返事。

「そうです。呉座さんの事例こそが私が批判した「学問の自由」の濫用です」ではなく「詳しくない」。

訴訟原告の1人であるからには詳しくないわけはないのですが、文字通り解釈するならば

この「学問の自由」の濫用批判において、呉座先生の事例は検討すらされていない、ということになる。


たこの回答の続きとして、呉座のことを言っているわけではないという注釈付きで、「学問の自由では擁護できない」例が出されました。

理論物理学者の性暴力学問の自由擁護することはできない」

何を当たり前の話をしているのでしょうか。関係ありますか?

せめて多少は「学問の自由」と文脈がつながるように「酷いセクハラパワハラを長年犯してきた超一流哲学者大学から追放されたことを、学問の自由擁護はできない(ジョン・サール事件)」くらいにしましょうよ。

まとめ

文脈がわかるくらい解説をつける具体的な例については、当たり前を超えてもはや関係のない例しかさない。

それでいて、批判対象に対して一般に共有されるような辞書定義には触れないで、

何を批判しているのかも厳密には不明確なまま、説得的定義に対する抽象的な定義操作を元に議論を行う。

暗黙の辞書定義説得的定義の関連は、聴衆が勝手勘違いしてくれることに任せる。

これが、学問の自由についての、清水先生の講演の構造です。

2022-07-26

anond:20220726195037

ダメ政権と印象付けたいために、雑に独裁国家認定する奴ってよくいるよなー。

政権批判するにしても、もっと印象付けに頼らずまともに言論勝負すべきだぞ。

そういう適当哲学者の話に載せられてるお前も適当性格してるんだろうな。

2022-07-18

東浩紀さんが批判されてるけどさ・・・

東さんってデリダ好きだったよね、たしか

それでこれ思い出したわ。

でも,あれは本当のところ一種哲学貧民窟だね.ラッセルウィトゲンシュタインフレーゲ時代あんなゆるゆるな論理構成の本が書かれるなんて,耐えられないよ.あれでやってけるのは,相手にしてる読者が専門分野で有能な哲学者じゃないからじゃないかな.彼らは文学理論みたいな他分野の人たちに向けて話してることが多いよね.それに,哲学はいつもこんなふうに考える一派がいるんだ,「いや,ぼくらは自分たちの専門だけを狭くやるばかりじゃいけない.こういう他のアイディアにも開かれてなきゃね」って.新しいアイディアに開かれている方がいいってのは全面的に賛成だけど,まともで高度な哲学著作と,知的に許容できない著作との区別はしないとね.

このことは前にミシェル・フーコーに言ったことがある.デリダに対する彼 の敵対心ときたらぼくすら上回るくらいだけど,その彼が言うには,デリダは obscurantisme terroriste(テロリズム的蒙昧主義)って手法実践してるんだって.ぼくらはフランス語で会話してたんだ.で,ぼくはこう言った,「いったい そりゃなんのこと?」 で,フーコーが言うには,「デリダはすごくあやふやな 書き方をして,何を言ってるんだかわからなくするんだ.これが「蒙昧主義」の部分.で,人がじぶんを批判すると,『あなたは私を理解していないよ.あた まがわるいね』とくる――これがテロリズムの部分だよ.」 これが気に入ってね.脱構築について文章を書いたときに,ミシェルにその発言引用してもいいかなって訊いたら,「いいよ」って言ってくれたよ. フーコーしょっちゅうデリダと一括りにされてた.でも,それはフーコー に対してすごくアンフェアだよ.彼は思想家としてデリダとはまるで器がちがう.

https://blueeyedson.hatenablog.com/entry/20111201/1322730931

以下が背景ね。

ジャック・デリダによるサールへの最初攻撃は1971年行われた。サールはタイプ原稿9枚の感想を書いた。その後サールは発話行為自然な発展的研究主題として志向性研究に専念し、1983年『志向性』を公刊する。この書評はその直後であるデリダは、アメリカディコンストラクション派の無名雑誌ジラフ」に、サールの感想文を引用して解体たかのような長大文章掲載し、1993年サールに無視され続けたデリダは「討議倫理」に関するさらなる文章をつけて『有限責任会社』を1990年公刊する。日本ではこの版のみが知られ「サール=デリダ論争」というものがあったという神話法政大学出版局によって広められた(邦訳2003年刊、『ジョン・サールとの会話』にて詳述)。同年サールはNew York Review of Booksに”The Storm Over the University

” 1990を掲載(未邦訳 http://www.ditext.com/searle/searle1.html )。ここで『社会的現実構成』に一部含まれポストモダニスト批判を展開した。1990年代社会生物学論争と「マーガレットミードサモア」による文化相対主義批判勝利さらに1994年アラン・ソーカルによる疑似論文投稿に始まるソーカル事件が起こり、以降フランス哲学者らの理論アメリカフレンチセオリー別称されるようになる。

https://freespeechact.wordpress.com/about/analyticphilosophy/searle/%E9%80%86%E3%81%95%E3%81%BE%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E8%A8%80%E8%91%89/

2022-07-15

anond:20220715031204

いや大学哲学者は信用に値するし、

文系といっても現代哲学論理学情報理論ベースにしてるのも多く唯物論無神論ベース)で説明できるようなものばっかやで

anond:20220715030133

まあ、日本哲学者なんてのは胡散臭い人間のばかりで信用ならんってことはよくわかったわ

さすが文系

2022-07-14

anond:20220714094742

30人いたら10人〜15人くらいはそうやろ。2,3人は少なすぎ。広とか宣とか正と入ってたら大体そう。

ブコメで「命名料高そう」って見たけど無料やで。まあバリエーションがそんなにある訳でも無いんですが。

ちゃんの好物やからやね。サッポロポテトとかのときもある。あれは高校倉庫在庫があって池ちゃんからの配布支持が出たら取りに行くんや。教員職員生徒会なんかはたまに賞味期限切れそうなお菓子もらえるで。

というか7月やねんからかき氷の話思い出せや。創価7月かき氷や。倉庫に置かれへんから大変やねんぞあれ。

たまにふらっと学校きたりしたらそりゃもうお祭りよな。原点認定されてお前らの人生この出会いを大切にしろーって言われる奴。

年何回かの幼稚園東西校結んでの中継で海外来賓招いて名誉教授授与式したりスピーチしてもらったりした後に池ちゃん独演会な。内容は増田の書いてる通りトルストイとかゲーテとかドストエフスキーとかホイットニーとか、まあその他諸々の詩人哲学者セリフ引用して勉強しろいじめするな平和が最高読書しろ親孝行しろ!って言う奴。お陰でちょっとその辺の人物には詳しくなったわ。

今はもうほとんど人前には出ないけど、東京校とか創価大学には現れるみたいな話は聞くな。ほんまなんやろか。

ちゃんの一番嫌だったところ。ピアノが下手。

なんか事あるごとにピアノ弾きたがるんだけど、左手がずーーーっと同じ位置なんよ!!!和音で一拍ずつじゃーんじゃーんじゃーんと弾くんだけどずーっと同じ。右腕の方は拙いけどまあ頑張ってますね位の引き方するせいで不協和音がすごい。何が創価シンフォニーだよ(ここ創価爆笑ギャグ)

創価といえば学会歌の指揮とかい扇子踊りだと思ってる人、本質ピアノですよ。


俺も似たようなネットで真実知ったアナーキー中高生活してたからなんとなくシンパシー勉強はできたか勉強会(創価の)で「池田先生は勉学第一って言ってるけど君ら全然勉強してないよね???」みたいな話して場凍りつくの好きやったわ。それでも同窓会行ったら有名企業とか銀行とか医者かいから中高時代勉強なんか当てにならんわ。

まあ良い学校だったよ。いじめ全盛期だったけど見聞きする範囲では無かったし。不登校はいた。

ブコメにあるような「家族破産一家離散!」みないなやつは別世界に感じる。

元首相の安倍晋三が殺された事件について~銃を持ち始めたルサンチマン

無敵の人」とは、失う人がもうない人のことで、資産家族仕事社会的地位など多くのものをもたず、なにをしても失うものがない人のことだ。

犯罪をしても何も失うものがないという万能感から「無敵」と名付けられたのだろう。

また、「ルサンチマン」とは、社会的弱者支配される側が抱く、強者支配者に対する怒りや憎悪嫉妬などの感情のことだ。

ドイツ哲学者ニーチェ道徳哲学を特徴づける重要キーワードひとつとしても知られている。

ルサンチマン」による犯罪をおこす人は、「無敵の人であるとよく言われる。

たとえば、小田急線殺傷事件や、京アニ放火事件京王線の「ジョーカー事件などが該当するだろう。

今回の元首相の安倍晋三が殺された事件もおそらくは、「ルサンチマン」に基づいた「無敵の人」による犯罪だろう。

そしてこのような事件が起こるたび、「無敵の人」を減らし事件をなくすためにはどうすればいいのかという議論になると、「無敵の人」にたいし、救済措置をとるべきだと言う意見が出てくる。

まり無敵の人」がでるような貧困層経済的に助けるべきだという意見だ。

しかし結局のところこの社会は限られたパイを奪い合う競争社会である

から、十分なパイ(生きるために必要資源・食料、エネルギーお金人間関係など)を受け取ることができなかった人から、「無敵の人」になる人が一定数出てくるのはそもそも仕方のないことなのだ。

からといって競争社会でなくみんなが平等社会主義にすると、競争原理がはたらかなくなり、ソ連のように社会全体が成長しなくなってしまう。

そもそも、すでに日本社会主義的な政策が多い。(生活保護累進課税があり、消費税は低め。)

まり、限られたパイを奪い合う競争社会において無敵の人が出てくるのは仕方なく、だからといって社会主義のように、社会への貢献度に関係なく限られたパイ平等に分配するわけにもいかない。

となると無敵の人を減らす有効方法は一つで、「日本全体として獲得できるパイを増やす」ことだ。

まり日本経済成長か、あるいは無駄パイを浪費しないようにする効率性が必要だということだ。

そうすれば、パイを分配するとき社会への貢献度に応じてパイを分配したとしても全体のパイが大きいため、受け取れるパイ割合がすくない貧困層であっても、「無敵の人」が生まれるほど少ないパイにはならない。

ということで、社会を成長させながら「無敵の人」を減らす方法は、日本全体として獲得できるパイを増やす、あるいは無駄パイを浪費しないことだといえる。

補足

日本最近治安悪化していると勘違いする人が多いがそんなことはない。

日本では過去50年間、男性による暴力事件が急激に減少しており、東京は今も、世界で最も安全場所であり続けている。

事件報道によって与えられるイメージだけで考えずに、「数字」をきちんと確認するべきだ。

2022-07-13

こないだの人か。

https://anond.hatelabo.jp/20220702070421

庶民の「雑」な意見理解を、「間違い」って言い切る事は出来るのだろうか?

もちろん正しさなんてものは、人間である以上は、一義的に決められないが、

今の日本民主主義国家なので、「民主主義視点からの正しさ」はあると思うよ。

「それに反発する人間意見も封じ込めない」、ってのも民主主義だし。

間違いと思ったらお互いにいいあえるから平等じゃん。

「言い切る」ってことは独裁主義ってことになる。日本ではそんな状況ないと思うけど・・・

2022-07-12

■全員が「正しさを理解している」国って怖くないか

なんというか、具体例を挙げると

(左:一般大衆、右:専門家哲学者、〇〇キチ)

なにか八百長くさい・わざとらしいやり取りや行為を「プロレス」と呼ぶ → プロレスはそんな物じゃない!プロレスとはリングの上の神聖なうんぬんかんぬん

なにかふわふわした良く分からん文章表現を「ポエム」と呼ぶ → 詩を馬鹿にするな!ポエム蔑称で使うやつは教育を受けてないうんぬんかんぬん

こんなことはまあ良くある事だと思うしTwitterとかでも度々バズったりしてるが

もっと深刻なことでいうと

ある絵や映画とかを見て単純な感想をいう(あるいは性描写を単純に受け取る) → 日本美術教育実践的になっておらず無責任大衆大量生産しうんぬんかんぬん

不毛な議論を「宗教」「神学論争」と呼ぶ → 神学はれっきとした哲学の一分野でありその様な用法で使われることは日本の文化環境頽廃うんぬんかんぬん

なにかの独裁的な様子を「北朝鮮」みたいと言う → 諸外国を引き合いに出すのは差別日本なら日本の歴史で例えろうんぬんかんぬん

なにかの出来事に対して「どっちもどっち」「相対主義」をとる → 相対主義日本の悪癖で、ガンダムひろゆきの見過ぎの悪影響でうんぬんかんぬん

みたいな、用語その物への「雑」さによる、無数の人々の対立って常にあるわけだよな。

言葉狩りには至ってないが、用法が普及しきってしまっていて修正できない事への専門家のいら立ちとでもいうか。

相対主義漫画アニメで「理解」することとかはもっと深い問題だとは思うが。

でも実際、大勢人間が「なんかこの絵よくわかんねーけどおもしれー、うわーおっぱいだー」「相対主義ってのは、そういうもんだろー」「神学論争うぜー宗教くせー、もっと現場こいや」みたいな理解をして、そして毎年そんな人間再生産されている以上、

「雑」とされる感性ってどこまで雑なのか、それこそ大衆理解がなんで間違ってるって言えるのかということになるよな。

もちろん用語の使い方が差別的だステレオタイプ的だとか個別問題にあるにせよ。

東大慶応早稲田の偉い先生よりも、アニメ制作自身がどう考えてるかは別)や、ひろゆきが影響を与えているとして、

この国が資本主義自由主義であり何を選んだり消費するかの自由がある以上、庶民の「雑」な意見理解を、「間違い」って言い切る事は出来るのだろうか?

相対主義ってそんなに悪か?相対主義が原因の直接的暴力ってものがあるなら悪いと思うけど、無いなら、まあ最低基準かなみたいにしか思えない。

相対主義のせいで人々が社会正義に参画せずー」みたいなことをいうなら、別に他にもいろいろもっと強力な参画しない理由がある訳だし。

というか全員が全員「相対主義の悪を理解してる」「正しい芸術見方を知っている」国(義務教育でそう詰め込まれる国?)があるとしたらそれはそれで怖くないか

anond:20220712175830

2022-07-12

全員が「正しさを理解している」国って怖くないか

なんというか、具体例を挙げると

(左:一般大衆、右:専門家哲学者、〇〇キチ)

なにか八百長くさい・わざとらしいやり取りや行為を「プロレス」と呼ぶ → プロレスはそんな物じゃない!プロレスとはリングの上の神聖なうんぬんかんぬん

なにかふわふわした良く分からん文章表現を「ポエム」と呼ぶ → 詩を馬鹿にするな!ポエム蔑称で使うやつは教育を受けてないうんぬんかんぬん

こんなことはまあ良くある事だと思うしTwitterとかでも度々バズったりしてるが

もっと深刻なことでいうと

ある絵や映画とかを見て単純な感想をいう(あるいは性描写を単純に受け取る) → 日本美術教育実践的になっておらず無責任大衆大量生産しうんぬんかんぬん

不毛な議論を「宗教」「神学論争」と呼ぶ → 神学はれっきとした哲学の一分野でありその様な用法で使われることは日本の文化環境頽廃うんぬんかんぬん

なにかの独裁的な様子を「北朝鮮」みたいと言う → 諸外国を引き合いに出すのは差別日本なら日本の歴史で例えろうんぬんかんぬん

なにかの出来事に対して「どっちもどっち」「相対主義」をとる → 相対主義日本の悪癖で、ガンダムひろゆきの見過ぎの悪影響でうんぬんかんぬん

みたいな、用語その物への「雑」さによる、無数の人々の対立って常にあるわけだよな。

言葉狩りには至ってないが、用法が普及しきってしまっていて修正できない事への専門家のいら立ちとでもいうか。

相対主義漫画アニメで「理解」することとかはもっと深い問題だとは思うが。

でも実際、大勢人間が「なんかこの絵よくわかんねーけどおもしれー、うわーおっぱいだー」「相対主義ってのは、そういうもんだろー」「神学論争うぜー宗教くせー、もっと現場こいや」みたいな理解をして、そして毎年そんな人間再生産されている以上、

「雑」とされる感性ってどこまで雑なのか、それこそ大衆理解がなんで間違ってるって言えるのかということになるよな。

もちろん用語の使い方が差別的だステレオタイプ的だとか個別問題にあるにせよ。

東大慶応早稲田の偉い先生よりも、アニメ制作自身がどう考えてるかは別)や、ひろゆきが影響を与えているとして、

この国が資本主義自由主義であり何を選んだり消費するかの自由がある以上、庶民の「雑」な意見理解を、「間違い」って言い切る事は出来るのだろうか?

相対主義ってそんなに悪か?相対主義が原因の直接的暴力ってものがあるなら悪いと思うけど、無いなら、まあ最低基準かなみたいにしか思えない。

相対主義のせいで人々が社会正義に参画せずー」みたいなことをいうなら、別に他にもいろいろもっと強力な参画しない理由がある訳だし。

というか全員が全員「相対主義の悪を理解してる」「正しい芸術見方を知っている」国(義務教育でそう詰め込まれる国?)があるとしたらそれはそれで怖くないか

2022-07-08

サイゼリヤ番号化問題について

qyosshy 誤注文がなくなって客にも店にもやさしいシステムしか思えん。聞き間違いだの頼んだ頼んでないだのが発生する仕組みを倫理的に正しいと思える感覚理解できん。/ 労働者側の視点が無いんだろうなあって思う。

yP0hKHY1zjyP0hKHY1zj 何十年も前からバーコードという形で生が番号化されているのだが、それを当たり前のように受け入れてきてファミレスの数少ないメニューの3桁の番号化で急に危機感を持つところがかわいい

akutsu-koumiakutsu-koumi 気に入らん人は騒いでおれば良いと思いますよ。でも銀行ATMを導入して倫理が損なわれましたかセルフレジの普及が人の機械化を推進しまたか自分漠然とした抵抗感を尤もらしい言葉に置き換えているだけでは?

slimebethslimebeth この手の人が下らないのは文中の老婆のような上の世代が嫌がってたことはあっさり受け入れてる点だな。文明の利便は享受したい、若い世代感覚は受け入れられない、我々世代情緒けが真っ当!てのは老人の我儘だ

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/anatatachi_ohno/status/1544470962011115521



このブクマ連中の言っていることは一応は正しい。しかし、人間機械産業システム論理に組み込まれて、人間が取り替え可能部品のようになっていくことへの抵抗感や違和感は、マルクスウェーバーアーレントフーコー主題でもある。大野さんを老害断罪するのなら、これらの偉大な(とされる)哲学者老害断罪されなければならないだろう。

「新しい便利なモノ」に対して、何も考えずにさっさと適応できてしまう人と、違和感抵抗感を覚えながら少しずつ適応していく人と、どちらが人間としての主体性を持っているかと言えば、やはり後者であろう。前者の人は、今の中国のような独裁権威主義体制にも「便利だからいいじゃん」と、あっさり順応できてしまうに違いない。


ただもともとの最初エピソードサイゼリヤという、主題の大きさに比してあまり卑近な(個人的意見では不適切な)事例だったので、誤解を招きやすい面があったのは確か。また前後文脈大事なので、切り取られるのが宿命Twitterでは、論じるのに最も向かないタイプ議論でもある。GAFAのような事例で、字数を費やして活字で論じるべきだろう。

2022-07-06

千葉雅也氏を擁護してる哲学者達、同じくサイゼリヤを見下してるんだけど哲学者ってサイゼ親でも殺されたの?

anond:20220706202745

シュレディンガーおまんこが哲学に与えた影響】

おまんこに中出しされた女性が、妊娠している状態としていない状態の重ね合わせの状態にあり、観測を行うことでどちらかの状態収束する」といった量子力学記述は、哲学者プッシーシュタインによって、彼の哲学問題意識と深く結び付けられた。

プッシーシュタインは、人間が「おまんこ」について考えることは、自分の心について考察することと同じであるとした。プッシーシュタインによれば、人間は「おまんこ」という言葉を使って、自分自身の心の中にあるもの表現しようとする。「おまんこ」について考えることは、自分が何者なのかを考えることと等しく、極めて重要意味を持っているのである

また、プッシーシュタインは、人間にとって最も大切なのはおまんこ」であり、それは、人間の知性や道徳性を超越した領域にあると主張した。人間が「おまんこ」について考え続けることは、理性を超えて存在する真理を探求し続けることである。そして、そのようにして探究される真理こそが、すなわち神だと信じた。それゆえに、プッシーシュタインにとって、シュレディンガーおまんこは神の存在を揺るがす重大な問題点として認識されたのである

プッシーシュタインは、シュレディンガーおまんこについて次のように述べた。

「もし『シュレディンガーおまんこ』が真実だとしたら、われわれ人類は、自らの心を理解できなくなってしまう。しかし、そのような事態に陥ってもなお、われわれは、おまんこのことを考えて生き続けるだろう。なぜなら、それを考えることこそは、我々の生きる目的からである。我々は、神から授かったこの素晴らしい知恵を駆使して、永遠におまんこを探究し続けなければならないのだ。人類よ、チンポコ勃起させよ!」

anond:20220706125651

哲学者ってのは「よせてあげる」みたいな言葉をクソ難しく「止揚」とか言ったりする連中だからな。そのくせ科学みたいな厳密な定義ではないという。言葉で虚勢を張っているだけのやつらさ。

ソクラテス「私は無知だ」

俺「単語知ってるじゃん」

世界中哲学者「俺はなんて無駄なことを学んでいたんだ」

哲学者なんて

人間線路に縛りつけてトロッコで轢かせるような連中だからな。

サイゼリヤ哲学者のあれ、病院で番号でよばれてブチギレて自殺した議員思い出した

2022-07-04

Living things need air, water and Wi-Fi.

古代ギリシャ哲学者ソクラテス曰く、人間にとって必要もの空気、水、Wi-Fiである

モバイルデータ通信がなくてもまったく不便を感じなかった(そもそもニュース見るまで気づかなかった)が、もしWi-Fi通信障害で使えなくなるとしたら、もはや我々は生きていくことができないのではないだろうか。

2022-05-05

中絶を巡る議論の前提知識

https://anond.hatelabo.jp/20220503215621

日本では中絶合法とされたことは過去に一度もない。刑法には堕胎罪規定がある。母体保護法(旧優生保護法)において、「やむを得ず堕胎が許認される例外的場合」の規定があるだけである基本的には心身的な理由母体保護する場合以外は駄目だが、後に著しく経済的不都合のために養育が困難な場合が付け加えられた。現在はそれが拡大解釈されている状態立法意図から敷衍した場合は、低所得者層への養育のサポートが充実した現在中絶の99.9%違法性がある状況。

・出生の定義は全身が母体から出た瞬間。それ以前の胎児は、人間ではないが厳密に物でもない。物であればそもそも堕胎罪規定などはない。中絶胎児生ゴミとして出したら違法になるのは産廃違反からではなく、死体遺棄罪に相当するからである。つまり胎児部分的人間であり、準人間的な扱われ方をしている。

アメリカには中絶関連の連邦法はない。州法レベルでかつて中絶違法化する法律があったが、それら州法違憲であるとの判断1972年連邦最高裁が下した。法源はこの判決であり、従って最高裁判断が変わる可能性はある。であるから裁判になるのを承知で、各州議会中絶違法化を進める立法がなされている。憲法中絶規定がなく、それどころか連邦法で立法化もされていないので、ほぼ永遠に連邦最高裁判断が繰り返されることになる。今回、連邦最高裁への上告を却下せず、最高裁判断が示されることになったと言うのは、従来の判例棄却すると言う意味であるから最高裁中絶違法化(と言うか中絶違法州法合法化)に転じることはあらかじめ予想されることであった。なぜ連邦法で立法化されないかと言えば、議会多数派民主党共和党でころころ変わり、変わるたびに中絶合法化、違法化の法律が出来、大統領議会多数派と反対党の場合拒否権を発動してカオス化するのが目に見えているかである。現状は、「実質的には中絶容認されている」と言う点で民主党を満足させ、「中絶合法化まではされていない」と言う点で共和党を満足させると言う落ち着きどころになっているが、連邦最高裁中絶違法判断に踏み切れば、逆に民主党立法化に動くかも知れない。

ヨーロッパ諸国でも中絶の許認は結構国によって差がある。フェミニスト的な女権のニュアンスが一番強い「ヴェイユ法」を持っているのはフランスで、基本的には中絶に関しては女性のみが全権を持っている。1975年に成立したヴェイユ法は女性政治家シモーヌ・ヴェイユ(著名な哲学者とは別人)の働きかけで成立した。カトリックの強いフランスでは「人間の選別はナチズムである」との批判も強かったが、ユダヤ人であったヴェイユアウシュヴィッツ収容所から生還者であった。2017年逝去では国葬されている。ドイツでは、例えばダウン症と分かってから中絶違法である。これは人間の選別に対する恐怖によるものであり、日本でも安易に行われているダウン症堕胎については議論があるべきだろう。

2022-05-04

anond:20220503200720

ヘルマン・ヘッセ

減るもんじゃあるまいし的な意味なのかデリヘル的な意味なのか…。

そしてヘッセとは?でっせ的な関西人ノリ?

さらに、そして科学者でも哲学者でもない。

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