はてなキーワード: 過程とは
海水が塩辛い理由は、陸から流れ出る水に溶け込んでいるミネラルと塩が、川や川の流れを通じて海に運ばれるからです。これらの塩分は、岩石が風化したり、雨水が土壌を通過する際に溶け出したりして、川水に混ざり込みます。そして、川水が海に流れ込むことで、これらの塩分が海に集まります。
また、海水の蒸発も塩分濃度を高める要因となります。太陽の熱により海水が蒸発する際、水分だけが気体に変わり、塩分は海に残ります。この過程が繰り返されることで、海水中の塩分濃度が徐々に高くなり、海が塩辛くなるのです。
プログラミングを学ぶ際、初心者としての期間が長く続くことはよくある現象です。初心者の段階では、基本的な知識やスキルを身につけ、それを活用して実際に何かを作ってみる、というアプローチが一般的です。スポーツを例にとると、初心者はまず基本的なルールを学び、それから実践を通じてスキルを磨いていきます。しかし、スポーツと異なり、プログラミングでは初心者でも作成したコードが実際のプロジェクトの一部となることがあります。そのため、初心者であっても一定レベルのコードの品質を保つ必要があります。
最初は手探りで学ぶことも大切ですが、初心者のコードが重要なプロジェクトに影響を及ぼすリスクもあります。特に仕事でプログラミングを学ぶ場合、このバランスを取るのは難しいと感じるかもしれません。良い方法としては、最初は大規模なコードベースに参加するのではなく、小さなツールを作成することから始めることをお勧めします。また、初心者としての成長過程で受けるであろう批判やフィードバックに耐えられるメンタルの強さを持つことも重要です。このような心構えとアプローチが、初心者がプログラミングの世界で成長するのに役立つでしょう。
喋った内容をChatGPTで書き直してもらい日記にする試み。
自分で推敲して文章書くより格段に楽だし文意も普通に分かるのですごいと思った(小並感)
元の文章:
プログラミングについてなんですけど、プログラミング初心者というのが結構長い針と他の何回いろいろ初心者の私が何かある程度ざっくりと覚えてそれをやってみようみたいな学び方があると思うんですけど何かスポーツとかなったら初心者それだけよへ覚えておいて。ルール治寿覚えといてじゃあそれを見つけていこうみたいなことがあると思うんですけどまぁそれはスポーツやったらあの後に残らないので江頭間成果物としのぶやったらそれでは良いね。まぁなんですけど 雲がプログラミングとかだったら、初心者の私でもあの書いたものがコードベースになっちゃうわけですよね。なので、割と最初の子でもある程度コードベースの子温大大潤位の品質を担保していかなければいけないっていうことになってくるのではないかと思います。なのでまぁ最初は手さぐり変えてもらってもいいと思うんですけど、まぁ実際それが後力割とエビとか出木木に言われてしまうということがお風呂なるかと思います なので、それどうしようかなぁと言う考えがあります。 そこがまぁ仕事でプログラミングを覚えていくと上での難しいんじゃないかなと考えておりました。どうしたら良いのかって言う話ですけど、最初は大きいコードベースに入らない小さいツールとかを作っていくであるとかまぁそうですね。コードベースの 母杯やるとしたら円程度は気にせずに帰ってから。ビューされても無きにしないメンタルですね。そこが結構なかなか難しいかなと思います。
上記をいい感じに書き直して下さい。
これは何を意味しているのか?
おそらく多くの人たちはこれは一時的な措置だと感じているだろう。
今年の暮になればジャニーズ問題なんて忘れられてて紅白にジャニーズが復活すると。
果たしてそうだろうか?
多くの歴史的な変化も最初は「一時的な」ものとして当時の人々から捉えられていた。
それは序曲にしか過ぎない。
ジャニーズという一時代を築いた勢力が崩壊していく過程の最初のステップなのだ。
おそらく3年後にはジャニーズは見る影もない状態となっているだろう。
そして一部残ったタレントとそのファンたちは先鋭化しカルト化していることだろう。
しかし、これは悲しむべきことなのか?いや、これは始まりなのだ。
惜別の念は消える事がありませんが、
生まれてこのかたうまくいく人間関係がオタサーの姫しかなくても生きられるんですかIllusion
おい助けてくれよ!オタサーの姫(広義)にも類友というか女友達はできるんですよ、いや男しか囲えないならとっくに諦めてるから…
この暮らしの良さをよしとしてはいけないと思ってたんだけど、ほかは苦しいのによりよい人生を目指す過程でわざわざこの姫現状を否定する必要がある?っていうか…
なまじ顔評価基準が特にないから姫墜ちしやすい 男顔整いであっても興味なる基準特に関係ないし…
なまじ博愛だからこうなるんだよ、弱者ブス寄るなみたいなメンタルならこうはならない
なんなら弱者男性好きな節ある、下手にメンヘラ男を生み出して迷惑をかけるだけだからこの性癖の私もろとも世界は滅してください!
松本人志の一件で、ああこれはアウトかもなぁと朧げに思いながら今日になって、被害にあった?とされる女性側のツイートとかを見た。
深く女性側に傾倒するわけではないのだけど色々と大変だったんですねと思いながら、なんだかなぁと飲み込めない感情を抱いた。
第一印象に中高生の時にヒエラルキーの上位に位置しているグループ内のいざこざに似ているなと思ったんだ。
いつもイケている集団にいる自分が好きなんだけど、中心人物になりえていないという葛藤を抱えていそうだ。
でも、その集団にいないと何者かになり得ないから、過去の行動や考えを捨てることも離れることもできない。
そんな苦しみから離れればいいのに、何者でもない人には興味がない。何者かの人物のもとだから自分の人生に価値がつくと思っている。
そんな考えだから、自分で蟻地獄のごとくハマっていくのだろう。
それでも得るものがなく、次第に劣等感まっしぐらで、復讐心が生まれる。何者になれなかったのに、失うものばかりだ、と。
そんな人が定期的に生まれれば、有名人のトラブルは蒸し返されて、情報の新鮮味がないものが週刊誌の表紙を彩っていく。
とにかく皆は何者かになりたいけど、その枠は限られている。
だから、屍肉と思しきものには無関係の何者かになりえていない人物も群がってくる。
被害の女性も何者かを倒したいという気持ちだろうし、週刊文春も大物の背中を刺すその瞬間はオナニー以上に気持ちいいだろうし、
大物が撃たれるのはフセイン大統領の銅像が倒れる瞬間に似ていて世界が変わるんだという革命家気取りの人は高揚する。
みんな何者かになりたいけど、何者かになった人物は憎くてしょうがない。
みんな、自分の人生に意味があって、価値があってほしいんだろうね。
だからこそ、後出しジャンケンで被害を訴える人現れるし、寄り添うような素振りを見せる気色悪い専門家も出てくるんだろう。
湾岸ミッドナイトから人生を学べない悲惨な者たちを啓蒙してやる必要がある。
どうせ彼らも一度は湾岸ミッドナイトを読んでいるだろうけど、そこから人生について学べなかったのだろう。
そんな彼らにもう一度読めと言っても無駄だろう。
昔もそうだ。
だがここで私が昔通い詰めていた日記サイトの名前を10個上げても、そのどれもが分からないという人が大勢いるだろう。
何も変わってない。
それは裏に会社がいるとかなんかじゃない。
今だって「ずんだもんの動画」と言って頭に浮かべた動画の統計をとれば10人程度の投稿者の動画が全体の8割を占めるだろう。
だがずんだもんを使っている投稿者はその100倍も200倍もいて、その多くが誰からも「ずんだもんの動画」という言葉で真っ先に浮かばれることがないのだ。
これだって今でも変わらない。
ちゃんと新しいことをやれば注目される。
昔のネットではHPやブログを始めるだけで新しかったというだけだ。
HPを作るのにかかる労力が軽くなるに連れて、HPを作るだけじゃ注目されなくなった。
SNSを始めるのに勇気がいるうちは始めただけで注目されやすかったし、生成AIに早くに飛びついて続けている人は下手の横好きでも第一人者群に潜り込めてたりする。
レッドオーシャンになっていない領域に飛び込む勇気があれば、それだけで今だって注目される。
真っ赤になった海の上で昔と同じことを繰り返して注目されなくなったとボヤくのは、単に自分の分析力の不足に過ぎない。
warez全盛期だった頃と比べればずっとマシになっているとさえ思う。
本名で投稿してる癖に問題発言をしてリアルまで巻き込んで丸焦げになった人間。
匿名での悪ふざけから人生を壊してしまった人だって何人も居た。
老人会的には「小学校で小女子(こおなご)を焼きます」と2chに書き込んで警察を呼ばれたとい逸話なんか懐かしいのでは?
昔も今も、想像力が足りない人、リスクよりも目先の承認欲求を優先する人は炎上しているし、その過程で人を不用意に傷つけている。
リアル知人に言及して「Mさんがこんな馬鹿なことしててドン引きでしてよオホホホ」なんて全世界に知らしめようとする人間の割合に大差なんて無いと思う。
ウィルス入り広告を踏んでもアンチウイルスが反応してくれたり、そもそもポップアップはブロック出来るだけ今の方がマシだ。
悪質なブラクラ、危険なガセ情報、それらが飛び交っていながら自己責任が連呼された時代に比べれば、ネットに強い弁護士を探して訴えればいいという知見が広まった現代の方がまだ大人しいだろう。
エロ系の広告は昔から跋扈していたし、それを踏んで架空請求をされた人が大勢いてニュースで「払わないでください。カモリストに乗ります」と再三警告されていたはずだ。
ユーザーが悪質な広告になれるに連れてそれを掻い潜ろうとする新たな悪質広告は誕生しているが、そこにある民度の低さは今も昔も変わらない。
「そんな広告を平然と掲載するサイトが悪い」と人は言うが、昔のネットで悪質な広告が突然出てきた時、それが果たして全て怪しいサイトだけだったか?
まあそもそも昔のネットは怪しいサイトばかりだったと言えばそうなんだが。
昔のネットだって業者と金目当ての輩が作り出したものだっただろ。
古のインターネットを象徴する中心的スラム街たる2chだってひろゆきによって運営されていたもので、それは慈善事業なんかじゃなかったはずだ。
YahooやGoogleをハックするSEO対策はいつの時代も盛んで、ソースコードに無関係な単語を書き込んでアクセスを踏ませようとするサイトがいくつあったことか。
出版社が副業感覚で運営する情報サイトは無数に存在していたし、個人が大掛かりなサイトを運営するモチベにアフィリエイト収入の影響は決して小さくなかった。
そうじゃない単なる承認欲求や手慰みのために活動をする個人の数は現代にも大勢残っている。
何をどう比べた結果でこんな結論を出しているのか。
俺はこんなくだらん妄想にやり返すためだけにいちいち統計を出す気がないが、お前がそれでも言い返したいなら統計を出してくれと言いたくて堪らん。
インターネットは何も変わってない。
変わらずに楽しい。
変わらずにクソだ。
変わらずに金の話が飛び交っている。
変わらずに承認欲求で回っている。
そして、いつの時代も、オッサンが「最近の◯◯って分からねえんだよな」と言いたがるのも変わってない。
世は全てこともなしってことだな。
はてさて、神はどこにいましか。
いない┐ ┌───わからない
│ _..-ー''''''l'''''― ..、
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/ゝ、 l. | ヽ
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│ ゙''-、 .l,| l
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│ インターネットで見た ,!
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(´・ω・`) おあとがよろしいようで
cく_>ycく__)
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彡※※※※ミ 旦
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\ ドッ!! / \ ワハハ! /
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非常に長文なので誰も読まないかもしれないが、読んでいただければ幸い。
日本人の宗教批判は主にオウム神理教や創価学会あたりから根深くなったと自分は思っている。とにもかくにも「宗教はやばい」となり、それが「宗教的なものはやばい」となっているのではないか。たしかに新興宗教団体はやばかった。最近でも、自民党から膿となって出てきた旧統一教会の問題がある。
日本人全体で、なんとなく「宗教はやばい」というゆるやかな共通認識があると思う。
そこから「宗教について熱心に語る者は、なんとなく、やばい」とされていると思う。ごく少数の人間だけが宗教について深く調べる。多くは、ミイラ取りがミイラになることを恐れているとか、宗教的な人間とみなされることを怖がっていたり、単に無関心な可能性もある。
ほとんどの人は、まずその「ヤバい」「うさんくさい」「拝金主義」という外から見える性質に嫌悪感を感じているはずだ。実際に、古来から権力・権威・金銭などと結びつきが強いように思う。多くの人々に害を為すものは、それが宗教だろうがなんであろうが、どういう形をとっていようと敵対される。宗教に対するネガティブな意見は、おおよそこの表面に出てきた宗教のネガティブな部分についてのものが多いと思われる。
また「人型の何か偉そうにした超常の力を持ったジジイ」を幻視して「そんなやつがこの世界作ったわけないだろ」と直感的に思うのではないか。
宗教的なものがやばいの1つの例でいえば、ガチのドルオタはキモいというものがある。キモいというのは比喩的表現で、ドルオタクラスタの方には申し訳ない表現だが、周りからは理解不能なのである。アイドルという神を信仰することで「生きがい」となして自分の人生を全うしていく。しかしひとたびその信仰の前提が破壊されれば、一瞬にして生きがいを喪失する。
アイドルの推し活は「きわめて宗教的だ」と半ば冗談めいて表現されることが多いが、比喩でなくそのまま宗教といっても過言ではない。仮に江戸時代に今のアイドルの状態を維持可能な状態で放り込めることができるとすれば、瞬く間に江戸幕府を牛耳ることができるだろう。実際BTS外交などと言われるほどアイドルは脅威的な潜在能力を持っている。一向宗など目ではない。江戸の民たちはアイドルの存在を知覚することで、それに畏怖し、夢を見ることができ、人生に生きる意味を見出しやすくなることだろう。本居宣長も、古事記伝にて「それはさておいても◯◯ちゃんのかわゆしこと尊し」などと書くかもしれない。知らんけど。
宗教のはじまりはアニミズムだという。何か神聖視せざるを得ないものを発見しそれに畏怖し感動することで、その圧倒的な偉大さを見て、人はそれを「神」と名付けたようだ。
日本では現状「科学信仰」と「常識信仰」が主流であると思う(これは自分の主観による)。「科学的な権威がありさえすれば信用する」だとか「よく知れ渡っているから信用する」といったものだ。「長いものには巻かれろ」という日和見主義的な発想がそこにあるように見える。
そもそも「信じる」とは「実際に本当にあるかどうかわからないが『ある』と信じる」ことにある。
自分には本当にあるかどうかよくわからないものを『本当にある』と思い込むことを信じるという。そういう行為には、根拠など無いのではないか。少し古いが「アイドルはうんちしない」などがそうだ。
宗教が必要かどうかは置いておいて、その発生過程や宗教が果たしてきた役割は、歴史を学習すれば誰でもその関連性には嫌でも気付くだろう(重要性は別かもしれないが)。人は「たかが宗教ごとき」で人を殺し合い、憎み恨み、人生を捧げたり、幸せになったり、正しく生きようと努力したり、救われてきた。さまざまな血を流してきたのであった。これは事実である。現在の今の自分にとって宗教は全然必要でないと感じていたとしても、その自分が存在する羽目になった基盤に宗教がある。一体全体どうしてこんなものが人類の中で大きな役目を持つようになったのか。
真に必要でないのであれば、なぜこの世から抹消できないのか。たとえばガラケーは抹消されつつある。必要でなくなったからだ。しかし宗教はどうか。消せども消せども名を変えて復活しているように思う。
科学的であると自負する人であっても、古来から続く伝統的な宗教っぽいものをなんとなく忌避していて、その拝金主義的傾向や宗教の政治的利用による人間支配を見て、なんとなく嫌悪しているのではないか。
また「宗教が必要かどうか」を論じるとき、「実際になくせるかどうか」のその現実性について論じられることは少ない。宗教がなくなれば代わりのものが出てくるのみである。名を変えたそれが絶対視される。
実際にとりあえず「宗教は必要ないもの」と考えて、この世から排除することにしてみよう。つまりそれは逆に言えば「信教の自由」の剥奪である。仏教を信じてはならない、キリスト教を信じてはならないとされる。
ありとあらゆる宗教的なものは不要なので排除されなければならないとする。しかし、必要か、不要か。それは誰にとって必要なのか、誰にとって不要なのか。
宗教と宗教でないものについて、どこで、誰が、どのように、なんの権限で線を引くのか。これはもしかすると権力闘争の始まりかもしれない。受容するか・弾圧するかのどちらかを、ある人間の主観で決めることができるということほど恐ろしいものはない。異端審問のラベリング(【十分科学的でない】というラベル)を受けて生きなければいけない世の中は厳しいものになるだろう。反ワクチン派・反知性主義者が実際にそうした世の中を生きている。われわれから見れば彼らは狂っているが、彼らから見ればわれわれが狂っているのである。
宗教と科学はなんの根拠もなく二項対立されがちだが、これは一神教的な態度ではないだろうか。
つまり科学的であればあるほど宗教的でなくなるはずだという根拠のない「思い込み」があるのかもしれない。
いったいなぜ、科学的であることが正しいのだろうか。いったいなぜ、論理的であることが正しいのだろうか。これは唯物論的な立場である。いったんそういうことにしているという、あくまで仮説である。そのように考えるとうまくいっているだけなのではないか。
そして、自分にとって宗教が必要ないからといって、他人にとっても同様に必要ないとは限らない。つまり全体としては「まだ必要」というのが答えになると思う。
それから自分は、ロジカルシンキングや科学最強説を強硬に主張してその他の考え方を排除しがちな陰キャはあまり好きではない(自分はロジカルシンキングそのものや科学的思考は好きだが、論理的であることが正しいことを信じることは論理的ではない、という前提があると思うからだ)。
彼らは科学や論理というアカデミックな権威のおこぼれを欲しており、いわば虎の威を借る狐のように見える。そうした人間は、自分よりも科学的で自分よりも論理的な人間が宗教的なものを崇拝しているのを目の当たりにしたとき、考え方を転向するかもしれない。これを改宗(conversion)というのだろう。
Visual Studio Code等さまざまなIDEに組み込んでコマンド操作できるテキストエディタがある。これはVimと呼ばれ、世の中で広く親しまれている。入門はやや難しいが、Must-Haveでおすすめである。これは宗教以上に必要である。
もちろんあなたはVimを導入しないという選択をとることもできる。
こう言うと自分は旧来の宗教観を引きずっているように思われるかもしれないが、一方で自分は古来から続いておりただの慣習となっていて合理的ではない規則を、ただ自分の強権を保とうとせんがために信じている老害もまた好きではない。彼らは自分の保身を考え、自らの世界観の安定させ、外に目を向けない人間である。生臭坊主と言われる。
自分は、そうした既製品の宗教や、新興宗教の教祖というただの詐欺師をそのまま信じてしまう人は愚かだと思うが、そういうことも含めて現実でありなぜそういった事象がでてきてしまうのか、なぜ彼らはそれに縋りつくはめになったのかを単に否定することは科学的ではないと思う。それは現実を観察できていない。少なくとも彼らにとって、彼らを救ってくれるのは科学ではなかったということなのだろう。
宗教はおもしろい。とりわけ理系で哲学や文学や詩や宗教やヒトや精神や心というものから縁遠かった者ほど、大人になってから初めて知ることで、そのおもしろさに気付きやすいかもしれない。
ぶっちゃけドラゴン桜やカイジ持ち出されると、作品の「絵」だけで比較した場合手塚治虫や藤子不二雄と大差なく見える。むしろ前者の方が絵として味があると思う人がいてもおかしくないとさえ思える。
じゃあ手塚治虫は内容の部分で神様だの巨匠だのといわれるまでになったのかといえば、手塚治虫は絵がうまいという人が一定数いる。
それは手塚治虫の昆虫デッサンというバックボーンの情報があるからなのか、純粋に作品から絵のうまさが見て取れるからなのかよくわからない(まあ本人自身漫画は簡易化?して描くものだと言ってたぐらいなのでそれこそ作品から画力を断じるのは間違ってるのかもしれないけど)。
あと先のトラバには上手いけど抜けない絵と崩れてるだろうと思えるけど抜ける絵があると言ってる人いて、そのやり取りで俺が挙げた絵が前者を指してるなら、そいつは支援金だけで月40万円以上得てるんだよな。ホームページに3000円以上のプラン寄付してるアカウントが列挙されてるからそれでわかるのよ。商業エロ描いてるやつでそれ以下の収入で絵もそいつより崩れてる人も確実にいるだろうけど、果たしてどちらが「争い」に勝ってることになるのか。
とにもかくにも商業の世界での評価が優先されて、商業の世界では評価を受けてないけど同人でよく稼いでる人は、商業の世界で少数ながら評価を受けているだけの人に劣るなどと絶対的に優劣をつけれるのか?
そして美大卒で一般にも進出したような商業漫画エロ読んで目が肥えているとか自覚がある人は東方エロ深淵絵師(別に例にあげた絵師に限定してない)には見向きもしないが、逆に一度その深淵絵師の目に惚れてしまってその商業漫画家の作品は読んでない興味もないという人もいるだろう。
「商業の舞台で活躍できるとは思わない」とはさも商業の舞台が上位かのように聞こえるけど、果たしてそうなのか?作品の売り上げ数ないし儲けた額でどっちが勝ってるか比べる方がまだ客観性があると思うけど…(それだって手放しに肯定はしてない)。
しかも創作に対してこういう優劣のつけかたすると、その鑑賞者に対してすら劣ってるほうを好む側は正直審美眼がない、見る目がないと下に見てるようなことしてることになるからね。青春とか捧げて「努力した人の作品が好きな人の方が目が優れてるのかよってなる。大事なのは過程か。
「テレ東『アド街』で局アナが「サンタいない」発言、家族で見ていた視聴者から大ブーイング」というニュースを読んだ。
→https://www.cyzo.com/2023/12/post_360904_entry.html
こういったサンタクロースの存在可否について思い返してみると、90年代はそこまで世間は熱心ではなかったと思う。
精々「いい子にしてるとサンタさんがプレゼントくれるよ」程度であり、本気で信じ込ませる気概のようなものは無く、あくまでそういうイベント設定を楽しむような物であった。
00年代に入るとノリが変わってきて、大人が本気を出すようになっていった。
ベランダに足跡を付けて「サンタさん来てたよ!」と言ったり、正体を父と疑う子供のために太った友達にサンタコスで登場させたり、
といった話が「子供のために奮闘する大人って良いよね」という流れで消費されるようになってきていた。
それでもバレる時はバレるが、その時は「あちゃーバレちゃったw」と笑い話になるような緩さがあり、そういう雰囲気も含めて楽しんでいた。
「サンタは子供の夢であり、疑わせる行動を取るべきではない」 「子供にサンタの存在を信じ込ませることは大人の義務」
といった妙にクソ真面目な考え方を持つ大人が増えてきて、やたら息苦しくなってきたように思う。
そしてうっかり「サンタはいない」とでも言おうものなら子供の夢を壊したな!と怒り狂うのである。
何というか道徳の領域に足を突っ込み始めて異様さを感じるようになったのがこの辺りだ。
「サンタが居ないと知って悲しむ子供」という構図が「子供の成長過程あるある」ではなく「可哀想、同情すべき悲劇」として大袈裟に使われるようになり、ますます狂気じみてきた。
親戚の爺婆が悪気なく「正体はパパだよ」口を滑らせたりしただけで制裁として出禁にしたという話を聞いた時は驚いた。
正体バラしたら絶対に許さないというのは明らかにやり過ぎである。
最早そこにサンタクロースのイメージにあるような寛容で慈悲深い精神などどこにも無い。
そもそもサンタの存在などちょっと油断すればすぐバレる雑な嘘である。
真実を知って傷付く事がわかってるなら最初から嘘をつかなければ良い。
嘘が明らかになる前提なら、軽いノリでやればよい。
しかし近年のサンタ信じこませ界隈はどうもその辺分かっていないようであり
「サンタは信じ込ませるモノ」という目的不明の原理主義のようなものに従い脳死で動いているように感じる。
率直に言って最近のこの風潮は気味が悪く受け入れられなくなってきている。
クリスマスケーキ!箸で食べれる!
バナナ!箸で食べれる!
ハンバーガー!箸で食べれる!
パスタ!箸で食べれる!
食パン!箸で食べれる!
カレーライス!箸で食べれる!
ごめんね、失敗しちゃった・・・
🐳「いいんだよ、結果より過程だよ!」
「い抜き」言葉、つまり「やっている」を「やってる」と言ったり書いたりする例は、文法的には間違いとされて(い)ますよね。こういうことは先に話すことのなかで起こるのでしょうか?
つまり、動詞の終止形を連体形と同じ形で書くのはもともと文法的には間違いだったわけですが、これが正しいとなる過程のなかでは、連体形と同じ形で表現することは、書くことにおいてではなく話すことにおいて先に始まったのでしょうか?
それで話しの中での使われ方に押されて、書くときにも使われるようになり、なし崩し的にそっちの方が文法的に正しいということになっていったということなのでしょうか?
い抜き言葉が話し言葉の中でいくら多数派になったとしても、それだけでは文法的に正しいということにはなりませんか?必ず書き言葉の世界でも圧倒的に多数派になる必要があるのですか?
どうにも「文法的に正しい」という表現自体が腑に落ちないのです。誰かなんの権限でもってなにを基準に正しいとか誤りとか断じられるのかと思ってしまうわけです。
文法=母語話者の表現のなかに見いだされる法則、なら、「い抜き」言葉はすでに法則と呼べるレベルに通用してると思うのですが。それを「いや、文法に即していない」といえる根拠ってなんなのでしょうか?たぶんその根拠に立つと、終止形を連体形で表すことだって「文法に即してない」ということになるように思えるのですが…。
○ご飯
朝:なし。昼:牛丼。サラダ。豚汁。たまご。夜:袋ラーメン。タマネギの生姜ニンニク炒め。間食:なし。
○調子
○ 刑事J.B.ハロルドの事件簿 マーダー・クラブ
1986年に発売されたコマンド選択式ADVの Switch版リメイクを遊んだので感想を書く。
根幹は80年代に発売されたゲームから変わっておらず、とにかくコマンドを総当たりで試していき、容疑者達に聞き込みを繰り返していくゲームだ。
20人以上の容疑者が街に点在しているので、ひたすらに彼らと何度も会話していき事件の概要を少しづつ浮き彫りにしていく。
殺人事件の犯人を追う王道のミステリだが“謎解き”の部分は主題に置かれておらず、推理よりも聞き込みで情報を足で稼ぐ過程がゲームになっている。
この辺は、かまいたちの夜以前とか、逆転裁判以前などとADVの歴史をそれらしく語ることもできるが、そもそもこの辺は近似ジャンルである本格ミステリ小説やパズラー小説が本格ミステリ冬の時代(この用語の是非についてもそれはもう語るべき内容が山のようにあり、あたかも自明のごとく使うことはよくないのだが、あくまで近似ジャンルの話題なので勘弁して欲しい)と呼ばれていたことと無関係ではないだろうし、エンタメとして包括した考察が必要なので大仰な歴史の話はやめておく。
そんなわけで、ひたすらに聞き込みを繰り返しながら事件を捜査していく。
大勢の登場人物に加えて、動機のラインが複数本あるのでそれらを整理しながら徐々に情報が集めていく。
情報が積み重なっていけば容疑者を重要参考人として取調室へ連行できるので、そうやって少しづつ街から容疑者が減っていき情報の整理が目に見えてわかるのが楽しいポイントだった。
しかし繰り返しになるが解くべき謎が提示されるわけではなく、淡々と情報収集を繰り返していくと、容疑者たちが自発的に口を割っていくので、読み物としての物足りなさは否めない。
登場人物も写実的でフィクションらしいキャラクタの肉付けもないので、本当に淡々と進んでいく。
古いゲームを少し古い言葉で評してしまうが、キャラ萌え要素は全くない。
決してそれが面白くないわけではなく、捜査と聞き込みの繰り返しがコマンド選択式ADVの魅力であり、動機のラインが複数ある中からそれを選定していくのは物語ではなくゲームとしての楽しさ、面白さにはなっている。
主人公のJBハロルドについても作中で人間性がわかるような描写はほとんどないものの、それだけにエンディングの一枚絵で酒とタバコを嗜む姿がハードボイルドな大人の魅力を感じられていいスチル絵だった。
歴史の雨風に負けない風化しない面白さの強度がテキスト重視のゲームは強い傾向にあるが、テキストの面白さをシステムと密接な関係にある今作は、やっぱり少しゲームの歴史のお勉強感というか、義務感というか、セールで安かったし感というか、そういう少し本筋とは外れた部分での満足感の方が強かったかもしれない。
(なお、完全に余談だが冒頭で書きかけた新本格の隆盛についてを小説ではなくエンタメとして包括したときに、名探偵コナンの存在を軽視する私の有り様を強く批判するもう一人の私がいるので、どこかで名探偵コナンの振り返りを行いたいと考えているが、これこそお勉強として読むコナンは面白くないだろうし、僕はミステリの歴史家になりたいわけではないので、うーむと思っているのだが、名探偵コナンの家庭用ゲームを追うのは有りな気もしており悩ましい)
よく日本の戦後の経済成長を「人口ボーナスのおかげ」と斜に構えて語る言説がありますが、人口ボーナスというのは別に、ぽこぽこ人間が勝手に生えてきて経済産業を成長させてくれるわけではないんですね。
すなわち人口ボーナスとは、よく教育されどこに連れて行っても共通の言葉で意思疎通ができる若者が大勢いるという、実現難易度が非常に高い状態を指すのであります。
なんとなれば清朝以前から多くの人口を抱え海外からの投資も活発であったはずの中国は、低い識字率と多様すぎる言語によって近代化に乗り遅れてしまったわけです。
一方で、低い識字率(清朝ほどではなかったとされるが、農民の識字率は高い地域で1/4)と多様な方言と地方や性別による極端な教育格差を抱えていた日本が見事に人口ボーナスを勝ち取れたのは偶然ではなく、近代化過程における戦略的教育改革の成果なのであります。
そしてそれを成し遂げた明治政府は適切に評価されるべきであり、明治政府の教育制度の象徴である「教育勅語」は誰が何と言おうと事実として戦後日本の経済成長の基礎になったんですね。
もうこんなこと抜かす女って生物は相手にするだけ時間の無駄だからいいよ
俺はもう諦めてる
オスメスの関係が歪だから少子化も経済格差も何もかも解決するわけがない
人類は失敗作なんだよ
それでも、諦めたつもりなのに女性を好きになりそうになったり、女性に関心を持ってしまいそうになる自分がいる
だから美味しそうな食べ物の写真を見たり、料理系YouTuberの動画を見たり、釣りの動画やGoProで撮った登山の動画を見て心を落ち着けている
たまに運悪く女性に優しくされて好きそうになったりした時は増田や発言小町、X、ガールズチャンネルをしっかりと直視して現実を認識してる
なんでもいいから無条件で生まれた時から女性から求められる一部の遺伝子の下駄を履いた男を除く大多数の男は女性への関心や興味を忘れさせるような何かを見つけてそれにハマるしかないと思うわ
どうしても…って場合は「その場限りのコミュニケーション欲や性欲発散の手段」と割り切れるならガールズバーや風俗もありだと思う
女性には他責を除く問題意識は一切ないし、世の中に不満を言っても仕方がない
まだ有史以前、どこかの進化の過程で人類は何かを間違えたんだよ
滅ぶべき生物