はてなキーワード: い抜き言葉とは
「い抜き」言葉、つまり「やっている」を「やってる」と言ったり書いたりする例は、文法的には間違いとされて(い)ますよね。こういうことは先に話すことのなかで起こるのでしょうか?
つまり、動詞の終止形を連体形と同じ形で書くのはもともと文法的には間違いだったわけですが、これが正しいとなる過程のなかでは、連体形と同じ形で表現することは、書くことにおいてではなく話すことにおいて先に始まったのでしょうか?
それで話しの中での使われ方に押されて、書くときにも使われるようになり、なし崩し的にそっちの方が文法的に正しいということになっていったということなのでしょうか?
い抜き言葉が話し言葉の中でいくら多数派になったとしても、それだけでは文法的に正しいということにはなりませんか?必ず書き言葉の世界でも圧倒的に多数派になる必要があるのですか?
どうにも「文法的に正しい」という表現自体が腑に落ちないのです。誰かなんの権限でもってなにを基準に正しいとか誤りとか断じられるのかと思ってしまうわけです。
文法=母語話者の表現のなかに見いだされる法則、なら、「い抜き」言葉はすでに法則と呼べるレベルに通用してると思うのですが。それを「いや、文法に即していない」といえる根拠ってなんなのでしょうか?たぶんその根拠に立つと、終止形を連体形で表すことだって「文法に即してない」ということになるように思えるのですが…。
なんちゃら抜き言葉、と呼ばれる概念は色々あるんだが、それらの根本的原因は何かと考えると、これは言葉のリズム感の変化なんじゃないか、って思うわけよ。
つまり省略された言葉というものに耳もしくは脳が慣れちゃった。これは適応と言ってもいいかもしれない。
たかが一音が抜けただけで細かい奴だなあ、と思われるだろうか。だけどリズムの世界において、「一つズレる」のはとても重要な変化なのではないか。
言葉が持つリズムが変化する時、その瞬間に生じる歪みに気付くか、気付かないか。そのセンサーがすなわち感性、リズム感というものだろう。審美感と言い換えてもよいが、時代と共に人のそれが変わりつつあるように思う。