はてなキーワード: 薄っぺらとは
MARCHの商学系専攻に所属しているが、4年生になっても何も学んでない奴が多すぎる。そんな有象無象の勉強してない奴らの中には、500万円近く奨学金を借りている者も多い。
奨学金を借りているのに、「えー? マーケティング? 全然わかんなーい!」とか甘ったるい声で友達と談笑してるアホヅラ女を見ているとハラワタが煮えくり返ってくる。よくそんな空っぽの頭で「奨学金の返済つらーい!」とか言えたものだなぁ。まず勉強しろよ。
奨学金に関する問題を見かけると、こいつらの顔が浮かんで「ざまあみろ」とさえ思う。正直、奨学金で苦しんでいる人を見てもノータイムで「でも、勉強してこなかったんじゃないの?」と思うところまで来ている。勉学に励んでいる人も多いことは理解しているが、自分の視界に映る奨学金を借りている人は、全員バカばっかりだ。
ここまで怒りを噴出させておいて何だが、私は奨学金を借りていない。それでも、授業料を払っている両親への感謝を忘れたことがないし、食い扶持を得るために1年生の頃からコツコツと会計やマーケティングの勉強を続けている。就活もそのおかげで好調だ。
大学に入学する前は、「奨学金を借りている人たちは自分よりもっと必死に勉強するんだろうなぁ。俺も頑張らなきゃ」と考えていたが、蓋を開けてみればこの惨状だ。マジでこいつら、何のために大学に入学してきたの?
しかも、サークルで回ってきた過去問の答えをテスト前に丸ごと暗記したり、先輩のレポートを剽窃がバレないように部分を弄って、それを提出して単位を貰ったりしている。それで卒業していくのか? 無意味すぎるだろ。何のための大学だよ。
そんな奴らがいざ就活シーズンに入って、「将来なにをしたいか全然わかんなーい」とか言ってるのを見てると本当に腹がたつ。それも1人や2人ではなく、数十人、いや百人単位でそういうバカを見かける。実際はもっと多いかもしれない。
「大学は就職予備校」なんて揶揄されているが、実態はそれ以下。学問どころか、就職すら意識せずにボーッと生きてる奴らがほとんど。3年間も薄っぺらい活動のサークルでうわべだけの関係を築いて、気が付けば手元には何のスキルも残らず500万円の借金を抱える。そんなんで、本当に良いのか?
奨学金を借りてるくせに勉強しない奴は今すぐ大学を辞めて専門学校でスキルを身につけるか、改心して勉強を始めるか、大人しく国に帰ったほうがいい。親が汗水垂らして稼いだ金で、酒を一気飲みしたりS◯Xしたりする生活は楽しいか?
タイトルの通り。
FFX-2をクソゲーとして批判してる奴、ただのキモオタだろ。
だいぶ極端で偏見に満ちたことを言ってる自覚はあるが、大体上の一行のようなデカイ主語と偏見で書いていくので、お気を悪くされても知らない。
あとネタバレ注意。
「Xのユウナが好きだったのにX-2のユウナはキャラが違いすぎて嫌い」という意見が非常に多く散見されるが、そもそもXのユウナを本当に愛していればX-2のユウナも愛せるに決まっているのだ、という主張をしたい。
あんなに名作であるX-2がやれ「ストーリーが寒い」だの「ギャルゲー」だのボロクソに批判されていて悲しくなってしまったので、X-2がいかにXファンにとって無くてはならないゲームであるかを語ろうと思う。
Xでは「召喚士ユウナ様」としておしとやかに、言うなれば清楚に、落ち着き払って振舞っていたユウナだが、それは召喚士として周囲から丁重に崇められている状況であるから、そう意図的に振る舞っていたであろう節が見えた。
召喚士の使命(=いずれ死ぬ運命)が重圧となり、沈痛な面持ちだったユウナだが、そもそも当時17歳だったのである。
自ら選んだ道とはいえ、いつか死ななければならないという状況は17歳の子供にはあまりにも酷だ。そりゃあんな暗くもなるわ。
そんな中、同世代のティーダと一緒の時間、(割と寒いと言われがちなイベントの)ルカでの「笑顔の練習」の時に無邪気に笑うユウナこそ、本来の年頃のお嬢さんとしてのユウナなのではないだろうか。
そして2年後、問題のX-2。
シンという脅威は消え、召喚士として死ぬ必要も無くなり、その代わりにティーダやアーロンといった大事な仲間がいなくなった世界。
Xのエンディングで、「いなくなってしまった人たちのこと、時々でいいから…… 思い出してください」と残したユウナ。
そのユウナがあんなにお転婆になって、同世代の女の子と一緒になってはしゃいでいるのである。
いや、泣くだろ。勿論いい意味で。
前作のラストではあんなことになって、悲壮漂う面持ちだったユウナが、たくさんの物を失ったユウナが、数々の喪失を乗り越えてあんなに明るく仲間と笑っているのである。
「ほんと、よかったねえ…」と泣くしかない。
普通のメンタルだったら、一緒に冒険してきた大事な仲間(兼・好きな男の子)が急に目の前で消滅したとなれば、下手したら一生塞ぎ込んでも仕方がない。
それを、ユウナは(周りの助けもあって)乗り越えて、歌姫として、また快活なスフィアハンターとして空を飛び回る暮らしを送っているのである。ユウナは相当強い。いやあ、ほんと、よかったねえ……。立派になって……。
ギャルになったんじゃない。チャらくなったんじゃない。ユウナは強い子なんだ。
極め付けは語尾の「っス」だ。最早言わずもがなだろう。「いなくなった人たちのことを思い出している」のだ。
彼女がそれを心掛けるために、意図的に語尾に付けているのだとしたら本当に涙ぐましい(勿論、いい意味で)。
相当の精神力が無ければ、再び旅をすることなんてできないだろう。でも、ユウナは旅をすることを選んだ。
何故なら、成長したユウナが、喪ったものを取り戻すためのストーリーなのだから。
だから、X-2のストーリーは全然寒くなんかないし、薄っぺらくなんかない。
終盤のヴェグナガン戦の前、犠牲を出すしかないと判断したヌージに「納得しないで、却下です」ときっぱりと言い放ったユウナ。
召喚士の旅で、たくさんの犠牲を背に向けて進むしかなかったユウナ。
その誰かを犠牲にしなければならない運命に立ち向かうことができるようになったユウナ。
彼女は2年の月日を経て成長した。
そもそも、X-2で最も賛否両論分かれている、あのユウナの派手な服装。
あれも「リュックがこれまでの荘厳な大召喚士ユウナ様のイメージを変えるために、180度印象の違う衣装を用意してきた」という設定がある。
だから、ちゃんと理に適っているのである。ユウナがあんな服を着ているのには理由があるのである。スタッフがユウナのおっぱい見たかったからとかじゃない。いや分かんないけど。
確かにXのあの袴の衣装のデザインが完成されすぎているというのもあるけれど。
好きですよ、あのガンナーの衣装。似合ってるし。そもそも人間2年も経てばヘアスタイルも服装の趣味もガラッと変わるだろ。ましてや17歳から19歳だぞ。お洒落したい真っ盛りだろ。今まで召喚士として慎ましく振る舞っていたのから解放されたんだから、それくらい好きにさせてやれよ。
髪型を外ハネにしてティーダに似せているのも、「いなくなった人たちのこと(以下略)」なのだと思うと感慨深いものがある。
可愛いじゃん。X-2のユウナ可愛いじゃん。現代的だけど、ちゃんとFFらしいデザインだし。
何が「大人しかった清楚な子がギャル化した」だよ。お前らが陰キャすぎてギャルが怖いだけじゃねえか。
余談だけどX-2のリュックのデザインも好き。シンがいなくなって明るくなったスピラを端的に表している感じがしてとても可愛い。
ユウナは強い。強いからこそ、己を内側から変えたんだ。勇気がなければ、あの慎ましい和服を脱ぎ捨てて露出のある派手なあの服装に着替えることなんてできなかった。
2年前の、召喚士としての旅をしている頃のユウナだと決して似合わなかったと思う。
あの派手なパーカーにショートパンツ姿、ヘアアレンジは、ユウナが前に進むための決心の証なんだ。
それを「大人しかった女の子がギャルになった」とかいうくだらないニュアンスで片付けないでほしい。
そして、X-2の冒険の果て。コンプリート率100%を達成した先に待ち受けているもの。
あれは紛れもなくユウナや、Xのパーティーメンバー、ティーダ自身、そしてプレイヤーへもたらされた救済だ。
あのエンディングがあるだけで、X-2をプレイした価値があると言い切っても過言ではない。
「はぐれた時は、指笛で」をちゃんと覚えていたユウナとティーダ。
ご都合主義とかでもなんでもいい。ティーダとユウナが報われるというだけでなんでもいいのだ。
ティーダとユウナが再会した瞬間なんてボロボロに泣きすぎて画面が見えなかった。
本当に、X-2を作ってくれてありがとうと言いたい。
総括すると、X-2は「前作の喪失の悲しみを乗り越えて成長したユウナの物語」ひいては「今までシンに怯えていたスピラの人々の平和な日常」なのである。
正直、Xでボロクソに泣いてしょげた自分はX-2で救われた。
それでもなお、「X-2のユウナの変わりぶりが受け入れられない」とか「あの和装でおしとやかで清楚(笑)なユウナ様がよかったのに」とかいうキモオタは、所詮ユウナの顔しか好きじゃないのだと思う。
「和服で可愛くておしとやかで清楚なヒロイン」にしか興味が無いのだろう。X-2なんか触れずに一生清楚なユウナ様にブヒブヒ言ってろよ。
別にXのユウナをdisっているわけではない。Xのユウナが好きだからこそ、X-2のユウナも好きなのだ。
というか、XのユウナもX-2のユウナも、どっちも同じユウナだ。同一人物なんだ。
「あんなビ○チ、ユウナじゃない」って言うな。X-2のユウナは、紛れもなくXのユウナなんだ。
ようは、ユウナの本質とは清楚で大人しくておしとやかなところなのではなく、その内側に秘めた芯の強さや熱い心なのであると言いたかった。
あと、戦闘システムもX-2は全然悪くなかった。というか素晴らしかった。スピーディーで疾走感のあるバトルシステムだったし、ドレスフィアをチェンジする時に挿入されるムービーも美麗だった。
新キャラのパインも、シンがいたスピラの闇を抱えていた一人でとてもいいキャラだった。ぽっと出とか言われてて悲しい。
確かに100パー完璧なゲームではなかった。シューインとレンの設定とか、たった2年でユウナ様銃の扱い上達しすぎやろとか(まあFFだし…ガンナーだし…)、途中どうしても粗のある物語進行はあった。アンラ=マンユの理不尽すぎる強さとか。
けれど、「X-2のユウナはユウナじゃない」「X-2は寒いだけのオタクゲー」と批難している奴らは、お前はちゃんとXのユウナと向き合ってからそんなこと言ってるのかと、声を大にして言いたい。
これを読んで、少しでもX-2を見る目が変わる人がいれば嬉しい。
ただ、「Xの仲間を喪ってひっそりと悲しみに暮れるユウナ像を大事にしたい」という人がいたら申し訳ない。
Xが好きだけどX-2は受け入れられないという人も、X-2の成長したユウナに向き合う気持ちができればそれだけで嬉しい。
これは決して「X-2をやれ!」と強制しているわけではない。ただ、薄っぺらいクソゲーなんかじゃないということを言いたいだけだった。
あと普通に音楽が神。「久遠」もそうだし、倖田來未女史の「Real Emotion」「1000の言葉」は名曲。聴くべし。
このGW中に、花を手向けに来る人がかなり居ました。最初は良かったんだ。鎮魂的な意味合いが確かにあった。
それがいつの間にか、私の中に苛立ちと、呪いの気持ちが育つように。。
池袋まで自転車で通るルートなので嫌でも目につく。ルートを変えても、すれ違う人が花持ってて。。
最初に違和感を覚えたのが大きなカメラを持った人たち。純粋な気持ちで花を手向けに、来ている人に演技指導というか、こういう角度で〜、そこ止まって!と絵を作ろうとしていた。
またマスゴミかよ。。
まあ報道関係に対しては、嫌悪感を通り越して、蔑みや憐れみの感情を持つようになった現代では、もう慣れたものだよね。
自分のテリトリーというか、関係する所にに土足で入ってくる感というか、、つまりあの現場をスマホで撮影する人が多かったのと、家族連れやカップルがやたらと多かったんだ。
私達じゃなくてヨカッタね。この人達の分も幸せになろうね!というのが、私には透けて見えたんだ。
なぜか?と言語化するのは難しいのだが、、あえて書いてみる。
・高そうなベビーカー、派手な服装で、この後デパートへ行くかのようなの
・暑いし休みなのに家でゴロゴロしてたいのに、いい父親を演出する為に付いてきた感
・萎れた花を奥に退かして、自分が持ってきたのを一番目立つとこに置く
・周りは見えてません、今は祈りに夢中です(チラッチラッ
祈りを手向けるのは、良いとは思うが、何なんだろう。。これは自分の薄っぺらさを鏡としてみてるのか?
うーん。。
いつしか、あそこに車突っ込めばいいのにと、ひどい事が心に浮かぶようになってしまったのです。
なんなんだろ、これ?
この2人、コトの重大さに目を瞑るなら、これから起こるであろうことについてはよく似ている。鏡写しと言うべきか。
人が死んでるのにこんなしょうもない話と比べるなというのは至極もっともであるが、一増田の駄文としてどうか見逃して欲しい。
飯塚幸三は上級国民である。地位、名誉、財産を積み上げに積み上げ、勝ち組中の勝ち組として君臨し悠々自適の余生を送っていた。
ところがある日、車を暴走させて母子二人を殺戮するという大罪を犯してしまう。これに対して彼は上級パワーと当局の忖度をふんだんに用いて償うべき罪を免れようとし、それに不満を持つ一般国民によって激しく炎上した。
まだまだ事態は進行中であるが、ここまでの流れからすると不逮捕・不起訴・無罪放免となる公算は高まっており、一般国民の炎上も虚しく最後には上級が勝つという胸糞ストーリーで終わりそうな展開である。
夢見りあむはクズである。乳以外は何も持たず、積み上げたストーリーもないポッと出の新キャラ。アイドルデビューで一発逆転に賭けるしかない、負け組中の負け組である。
そんな夢見りあむが、大罪を犯そうとしている。全てのアイドルとプロデューサーの憧れ、シンデレラガールを、何の歴史も、何の物語も、何の実績もないクズが横から掻っ攫うという大罪である。
現状、これが近い将来に実現してしまう可能性は決して低くない。本当に起きてしまったらどうなるのか。
もちろん直後には大炎上が起こるだろう。古参プロデューサーの怨嗟と嫉妬が溢れかえり、それを見世物として嘲笑する野次馬が集まるだろう。ノリで票を投じたものは後悔を苛み、あるいは勝ち馬に乗ろうと結果を正当化するだろう。これ以上の混乱を望まない者たちは、内心で歯軋りしながら、薄っぺらなおめでとうの言葉を投げかけるだろう。そして選挙に疲れ果て、結果に呆れ果てた者たちは静かに去っていくだろう。
まあ、ソシャゲにはよくある典型的な炎上である。激しく盛り上がるのは間違いないが、長続きもしないだろう。プロデューサーたちは忘れっぽいのだ。今回は夢見りあむを含めてたくさんのキャラに新規ボイスが付く可能性が高いため、興味は自ずとそちらに流れていくことだろう。
声をもらい、特別なカードをもらい、歌をもらい、コミュをもらい、プロデューサーや他のアイドルたちとの物語をもらうのである。
夢見りあむの躍進は、運営にとっては紛れもなく、長く中断していた新キャラ追加を再開した成果そのものだ。シンデレラガールとしての特典が終わった後も、夢見りあむは評価され、優遇され、中心キャラの一人として厚く育成されるだろう。
罪は償われないのだ。
夢見りあむが壊したシンデレラガールズの世界は、償われて戻るどころか、アイス・ナインが投げ込まれた海のごとく完全に別のものに変わってしまい、永遠に元には戻らない。
その責任は、誰も取らないのだ。
怒りをぶちまけても、拳を振り上げても、結果は変わらない。飯塚幸三はこれからも優雅に暮らし、夢見りあむは作り変えられたシンデレラの世界で勝ち組となる。
飯塚幸三と夢見りあむの周囲の人間、利害を共有する人間にとって、それは楽園である。
飯塚の楽園は忖度で作られた選ばれし者の楽園、夢見りあむの楽園は、壊れる前の世界に愛着のない火事場泥棒と勝ち馬乗りの楽園、作られ方は全く違う。
だが、出来上がったものは驚くほど似ているのだ。どちらも罪を負う責務を投げ捨てることで生まれた楽園である。そして、壊された母子の未来、壊されたシンデレラの世界を愛し、惜しみ、憐れむ人々の怒りでは、どちらの楽園も決して壊すことは出来ないという冷徹な現実である。
楽園は壊せない。
自分は人より優れていると思ってました。子供の頃からなんでもそつなくこなし結構うまくやれていたほうだと思っています。
勉強はやらなくても授業を聞いてるだけで上位5%くらいの成績は取れていました。運動はみんなで遊ぶとき上手い部類のグループでした。友達もいつも学校の昼休みには毎日みんなとグラウンドで遊び、学校が終わればいつもの奴らとゲームしたりサッカーをしたりして遊んでいました。
ただ、
いつからか運動は部活を始めると自分以上にできる人間がたくさんいることに気づきました、自分がやせ形な体質で太らない、筋肉がつかないこともあり周りとの差がどんどん開いていくのを感じました。いくら練習を積んでも埋まらない差に毎日悔しさを感じる日々を過ごすようになりました。
いつからか自分はみんなとそれなりに仲は良くても特定のメンバーで遊んでいるわけではなくその場にいる人間となあなあの関係になっていることに気づきました、いつもの奴らは別の知らないいつもの奴らと遊んでいました、周りを見るといつも同じメンツで遊んでいる仲のよさそうなグループ達があり、そこに自分1人だけ浮いているような感覚を覚えては空虚さを感じる日々を過ごすようになりました。
自分は朝が苦手でした、毎朝遅刻しては教師に「そんなんじゃ社会でやっていけないぞ。」という言葉を鼻で笑っていました。自分には謎の自信があったのです、他人より優れているのになぜそんなことを気にしなければいけないのかと、その気になれば平気でやっていけると本気で思っていました。
実際はみんなが当たり前のようにできていることをできていないだけのただの劣等生ということを自分は知ろうとしませんでした。今思えばただ目をそらしていただけでした、やろうとしてできていないことをやっていないだけと自分の都合のいいように解釈して、後回しにして逃げていただけでした。
やりたいことも無く漠然と用意されたレールの上をなるべく楽なほうへと進んできた自分は社会に出て気づきました。自分は落ちこぼれだと。
あまりに遅すぎました、会社では当たり前のことで叱られる毎日が過ぎ自らの首を過去の自分の過ちが締めるような日々が続きます。疲れて帰った先には疲れをいやしてくれる趣味も無く、労ってくれる友も無く、ただ周りに迷惑をかけ足を引っ張る自分がいて、自分が勝手に立ち、周りを見下していた台は張りぼてで出来ていました。本当の自分の立ち位置に気づいた頃には周りに手を伸ばそうにもとっくに届かないほどの差ができていました。
なりすましたがるやつもそのなりすました薄っぺらな属性をがんばって攻撃しちゃうやつも両方理解しがたいなー
いちいち逆上してんなよおまえらのことやないぞ、ひまなら働け
としか
敵がすごく長い槍を振り回すので、手も足も出せなかったのです。
この時に彼はとても悔しがりますが、それは攻撃が届かないからではなく、自分の正義が届かないからだと思いました。
しかし、そんな彼に「ジャスト・コーズ」という独特な能力が宿ります。
何でもできて便利な能力ですが、ヴェノラが「俺には正当な理由があります」と感じた時にしか使えません。
この上なく彼の正義感を表していると僕は思いました。
三章でも語られていますが、正義と力の使い方を工夫しているのでしょう。
特に五章でヴェノラが火と水の魔法を組み合わせて温かい水を作り出し、それを拳にエンチャントした場面はすごいと思います。
そんな発想がなかったので、読んだとき思わず「なるほど」と声に出してしまいました。
正義の有り方だけではなく、色々なことを学ばせてくれる『ヴァリアブルオリジナル』はとても良い作品だと僕は思いました。
「はい、読んだ時の感動がダイレクトに伝わってくるようでしたね。マスダくん、ありがとう~」
その音は俺に向けられたものですらなく、ただ手を叩いているだけのように聴こえた。
なぜそう聴こえたかというと、俺の読書感想文はあと半分くらい残っているからである。
「たくさん書いてくれたのは結構ですが、原稿用紙5枚までに収めることも条件に出したでしょう。短いのもダメですが、だからといって長々と書けばいいというものでもありません」
先生の理屈は分からなくもないけど、どうにも腑に落ちなかった。
頑張って書いてきた生徒に対して、ちょっと冷たい気がする。
「あと、本の種類を問わないとは言いましたが、マスダくんが読んだの……漫画じゃないですか?」
こうなったら俺も簡単には引き下がれない。
「漫画だって立派な読書だ。図書室にだって漫画はあるし、絵本だって漫画みたいなもんだ。だけど俺はそこから色々なものを学んでる。だから感想文だってこんなに書いてきたんだ!」
「マスダくん、あなたがその場しのぎの詭弁ではなく、本当に有意義な議論がしたくてそう言っているのなら放課後に話しましょう」
「はい、じゃあ次はツクヒ君どうぞ」
先生の奴、扱いが慣れてやがる。
たぶん、俺みたいな生徒が毎年いるんだろうな。
「まあ、仕方ないよ。サブカルを基盤に人生や社会を大真面目に語るのって結構キツいからね。よほど上手くやらないと、大抵は薄っぺらい自分語りになっちゃう」
隣の席にいたブリー君が、俺にだけ聞こえるよう小声でそう言った。
嫌味にしか聞こえないが、彼なりにフォローしているつもりなのだろう。
一言で言えばまさにインスタントラーメンのような作品だった。
気軽に食べられるいつもの味。決してまずいわけではないが飽きるのも早い。そう言えば化調の臭さも鼻につく。そんな朝ドラだった。
今回に始まったことではないのだが、朝ドラにおける男性キャラというのは、だいたい描写が薄っぺらである。
話の都合上、女性の主人公を活躍させないといけないので、どこかに明らかな欠点を作らないといけないのはわかるが、それにしても今回の立花萬平はどうなんだというレベルでひどかった。
「自分の興味の向くことにはとことんのめり込み実際に優秀だが、その代わり世渡りがヘタクソで融通も利かない」という、まことにカビの生えたようなキャラクター類型に貶められてしまっている。
これもまた今回に限ったことではないのだが、やはりさらに加速している。
トラブルが発生したり、何かに行き詰まったりすると、決まって主人公が出しゃばってきては無双し、問題が解決するというのが毎度のパターンと化してしまった感がある。
繰り返すが、過去の作品でも同じような状況は少なくない。なぜか現代的感覚と並外れた先見の明を持った女性主人公が作品世界でやたら持ち上げられるというのは、朝ドラにおける一種のお約束である。まずそれを許容しないと始まらない。
しかし、いくらなんでも限度と言うものがある。『まんぷく』ではほぼ全ての場面で、だいたいこの展開に終始するのだ。ここまで来るともはや安易すぎて、異世界転生を笑えないレベルである。
と、ここまで腐してみたが、「いや朝ドラって元からそういうものでしょ?」と言われてしまえば、正直返す言葉がない。
主要な視聴者である主婦層は、時報代わりに気楽に観られて、ほどよく感情移入できてほどよくスカッとする、そういうものを求めているのだから、いちいち突っ込みを入れる方が野暮と言えば野暮である。
実際、『まんぷく』は朝ドラの文法からすれば、極めて無難であり保守的であり手堅い。どっかのアレみたいに、尖ったものを狙いに行って大ハズレするよりはずいぶんマシだ。
だが、そうであるが故に、常に過去作の影がちらつき、新鮮な要素がまるで見られなかったのも確かである。
これなら別の誰かにこのテンプレを当てはめればそのまま別の朝ドラ(大河でもよさそう)ができるし、チキンラーメンの物語である必然性も全くない。
例の記事は要約すると「富裕層に生まれて何不自由なく育ったお嬢様の私がホームシックになった件について」みたいな話だ。こう書くとラノベみたいだなと思うが本当に創作かと疑ってしまうような、こちらとしてもある意味カルチャーショックを受ける記事だった。
まず断っておきたい。自分は記事に対して批判的な立場ではあるが同意できる部分もある。知らなかったということを内省する姿勢──所謂無知の知というやつだ──や、田舎特有のネットワークについて。二点に関しては最早何も言うまい。
「親のステータスを自分のステータスと誤認し歪みきった価値観」
"まず今までの人生で親の所得の話になったことが一切なかったことに気がついた。"
"遊ぶ時にかかるお金は、その思い出に対して支払うものであり、いくらになろうと楽しければ構わないし、やりたいことをしてきたと思う。"
"地方都市なんだからデパートくらいあるでしょうというが、私は新宿伊勢丹で先行発売の化粧品を、エムアイカードのポイント10%還元を利用して購入したいのであり、そのついでにフェラガモの靴を物色したり、グッチの新作にケチつけたりしたいのである。"あたりだろうか。
純粋に聞きたくなった。
「誰が稼いだお金ですか?」と。
当たり前ではないことを当たり前だと思い込んでしまうのはかなり恐ろしい。教育に費やす金銭に関しては未来への投資だから理解できるのだ。
しかしどうだろう、親の金を感謝もなく湯水のように使うことが「当たり前」であると彼女は思っている。本当にあった怖い話、だ。
よくもまあ大きな顔をしてそんなことが言えるな、と思ってしまうわけで。
薄っぺらい。
また、他人の靴を貶す神経は私にも理解できないが「『トリーバーチすら知らない』ことに驚く」彼女の思想に驚いてしまう。
狭い。狭すぎる。大体靴を貶すことに田舎者も貧乏人も関係あるはずがない。
彼の態度を貶すのも結構だが自身の無知を貶す態度も貶されて当然のものと思う。彼女が忌み嫌う「田舎者」「貧乏人」の思想は誰でもないあなたが持っているのだと、誰か教えてあげてほしいのだ。
知らないことは罪ではない。知ろうとしないことが罪だというのに。
少しだけ自分の話をさせてほしい。
私は「田舎者」「貧乏人」でもなければ「都会人」「金持ち」でもない、ごくごく普通の中流家庭に生まれ育った、彼女と同年代の子供だ。
ただ単に「金持ち羨ましい! ムキー!」と腹を立てていると思うのであれば間違いであると言わせてほしい。
近くにはコンビニやデパートがある。街を歩けば知人に会うことはしょっちゅうある。それなりに中途半端な土地に生まれ、それなりに普通の暮らしをしてきた。世間のこともそれなりに知ってはいるのだと思う。少なくとも知ろうという気概は持ち合わせている。
"たかだか地方の医学部に、賢い人間なんていないのだ。本当に賢い人は、理三だの、ハーバードだの、そういうところにいるのであり、医者になるとか、ならないとか、そんな次元のところにはいない。"
彼女はそう言う。
賢いとは何なのだろうか。「勉強ができる」それ即ち賢いということなのだろうか。
確かに、具体例は一つあるようだ。
テンプレート的に凝り固まって歪な価値観をいつまでも、アップデートすることなく大事に大事に抱え続ける、お世辞にも賢いとは言えないお嬢様が。
"生まれ育った土地が自分には一番合っているというだけなのに、田舎と東京の話に置き換えている私はきっと性格が良くないのだと思う。"
地元が嫌いで東京に出てきたクチなので前半については何も言わないが、後半に関しては、確かにそうだ。
私達は歪んでいる。
だから私達は互いに、もっと広い世界を知らなければいけないのだ。
敢えて批判的に書いたが序盤に記したように当然称賛に値する箇所はある。どこの誰とも知らない人間のちょっとしたモヤモヤを吐き出しただけだと思ってもらえれば幸いだ。
>都内御三家卒トリーバーチさんみたいに、いわゆる東京の消費文化にどっぷり浸かっているひとを見たときに、「なんだか人として薄っぺらいなあ」と感じたね。
>それは、そういった人達が、自らの意識じゃなくて、営利企業の広告・周りの人々の目線・マウントといった外部の刺激に翻弄され踊らされ、自己を見つめる機会が少なく、モノを消費させられているかんじがするからだとおもう。
これはどっぷり漬かっている人がマウントを取る奴ならわからなくはないが、ここまでの愚か者は少ないと思う。
大体の都会人は知識の浅さはあるかもしれないが情報の少ない田舎者と比べて幅ひろく情報を持っていると思う。
そして、マウントマンも今は愚か者だが時間がたつにつれ賢者に代わっていく可能性もある。
これは田舎者も同様に今後どんどん伸びていく可能性があるが、慎みをもった賢者と比べるとやはりスタートの位置で田舎者と差が生まれるから結局は差が出てしまうのではと思った。
この感想の地方出身者さんもトリーバーチさんも理解でき辛いです。
何故なら私は、この地方出身者さんと似たような経歴で、娘はトリーバーチさんのような経歴だからです。
私は18年間、ど田舎で育ち、大学進学とともに上京し、23区内に地盤を持つ夫と結婚し、娘を、山手線圏内の自宅から圏内の私学に通わせました。
娘は現在、海外で勉強しているのですが、トリーバーチさんと全く同じような不満を呟き長い休みには飛んで東京へ帰って来ます。
私が得られなかった物を娘に与えられ、満足している一方で、娘の人間的な薄っぺらさに辟易します。
地方では医師は裕福なイメージでしたが、娘の生育環境では、一般的な開業医は、ごく普通の職業で、経済状況なんて様々なイメージです。
医師のイメージの違いだけでも社会構造の違いが分かりますよね…
トリーバーチさんが、田舎の不満を言っているのは、地方の狭い社会で医学部という頂点に立ったと思っている人に、うんざりしているからだと思えます。自分たちはエリートと思ってるかもしれない彼らの世間知らずさにうんざりしているのでは無いでしょうかね…だって彼らの世間って、彼女が書き連ねた田舎な訳ですよ…