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『若おかみは小学生!』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。またこの作品は書籍版漫画版アニメ版あるけれど、それらは横に置いといて映画の話します。
これは120点っすな。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、「見れて大満足! もうちょいお布施したい」でした。
演出とは裏腹に内容的にはかなりヘビー(というのを見越して爽やかで明るい演出を用いていた)なので、児童文学原作でお子様向け痛快娯楽活劇とは言い切れないんですが、個人的にはクオリティさえ伴えば子供を思いテーマや悲しい作品でぶん殴ってもええやないか、いてもうたれ、子供ってのは子供なりに受け取るんだ派なので、クオリティでぶん殴ればいいと思います。ふるぼっこだドン。
この映画に関してはTwitterで児童労働がどうのこうのという話もちらりと耳にした程度で事前情報収集もなく見に行ったんですが、そういう物語じゃなかったですよ。
じゃあ、どういう物語だったかといいますと、大きく2つの柱が絡み合うストーリーでした。それは大きなテーマで言えば「喪失を乗り越える」と「自分自身と居場所を見つける」という話。
初っ端から重いですが、主人公である女子小学生・関織子(通称おっこ)は、本作冒頭の交通事故において両親を失います。もうこの時点で軽い話になりようがないわけですよ。にも関わらず事故被害のシーンはグロカットされ、葬儀とそれに続くドタバタのシーンも描写はされず、おっこは新生活の場であるところの、祖母の営む温泉旅館「春の屋旅館」へと向かいます。トランクひとつ持って別に落ち込むわけでもなく、ちょっと大変なだなあくらいの顔色で一人旅をして、到着し、新しい部屋(いままでのマンションとは違う昭和的な和室)を与えられ、転校して新しいクラスメイトに挨拶をして、ひょんなことから家業である温泉旅館を手伝うことになります。
『若おかみは小学生!』って言うタイトルだから当たり前ですが、こうして女子小学生おっこの若女将修行生活が始まるわけです。
「春の屋旅館」がある「花の湯温泉」は歴史のある温泉街で、古都然としたまちなみに浴衣姿の観光客が歩く割合賑やかで、カラフルな町です。この辺音楽や美術の演出とあいまって、しみじみと明るく暖かく描かれていて雰囲気良いですね。美術のレベルは高かったです。
でも、この明るく爽やかなあたりが(とうぜんそれは演出意図に沿ったものなんですが)、ある意味ホラーでもあるわけです。
小学生の児童にとって、両親を失うというのは、最愛の家族を失うということであるのみならず、加護者も生活基盤も導き手も失うということです。もう、それは世界の崩壊とかいうレベルでの悲哀なわけですよ。
にも関わらずおっこはそこまでの苦しさを見せない。両親を思い出してちょっとうつむくことはあっても、笑うし、日常生活を送るし、新しい出会いにも前向きでいる。それはよく考えればとてもとても異常なことなわけです。
異常なおっこの新生活は、やはり物語後半に向けて徐々に破綻してゆきます。「両親がまだ生存していて自分と一緒に暮らしている」という幻想を何度もみてしまうおっこは、あるシーンにおいて事故の原因となった(もちろん別のですが)大型トラックを見て、事故のフラッシュバックから過呼吸になってしまう。おっこは、両親の喪失という悲しみを乗り越えたわけではなくて、ただ単に今まで封印をして日常生活を演じていたに過ぎなかったわけです。
あらすじなんかにおいて本作は「主人公おっこの成長を描く」なんてサラリと書かれているわけですけれど、それは不誠実な欺瞞であって、おそらくおっこの身になってみれば、それは成長じゃなくて引きちぎられてバラバラにされてしまった自己の修復というサバイバルなわけです。失った何かから目を背けて、決定的な破綻をしないようにごまかしながら疾走するというのが、この物語の前半部分でした。
そういう意味で、おっこが若女将をやるというのは、児童労働とかそういうレイヤーの話ではないのです。両親を失って加護者も生活基盤も支えも失ってしまったおっこにとって「いまできるなにか」に必死に飛びついて自分を騙そうとしていたとも見ることができます。祖母である旅館の経営者(現女将)の後継者問題という、旅館側の都合があったにせよ、おっこが旅館の雑務に飛び込んで笑顔で充実していく背景にはそれがあるはずです。
事実おっこの若女将は雑誌に取り上げられて評判を呼ぶという広告的な価値はあったものの、従業員としてみたとき、お客さんに感情移入しすぎて夜闇の中に駆け出すなど(一般的な社会人の価値観からすれば)行き過ぎな面もありました。
でもそれも仕方がないと思うのです。両親という生活基盤を失ったおっこは、同時に目指すべき将来の自分像も失っています。「将来こういう自分になったらいいな」です。その空隙を、目の前に提出された安易な「若女将」で埋めてしまったわけですから、その意味では、おっこの若女将は労働としての若女将ではなく「若女将ごっこ」でもあって、つまりはある種の自分の居場所探しなわけです。
たとえおっこ自身がそれを言語化できるレベルで気づいてなかったとしても、まだ収入もなく住む場所も自分では決められない小学性にとって、他にできることなんて事実上ないじゃないですか。それはせめて居場所を獲得するという生存努力です。
おそらく祖母はそのおっこの悲痛に気がついていて、周囲が無責任に「若女将誕生!」とはしゃぐなかで、決して自分からは手伝え、継げとはいいませんでしたし、おっこの労働を危惧してた素振りも見えました。経営者として「子供に接客なんてさせられない!」と拒絶することもできたでしょうけれど、おっこから若女将をとりあげて、じゃあ不安定な彼女の精神に何をしてあげられるかと言えば何もない。だから黙認しかないわけです。
だいたい「自分自身と居場所を見つけるという話」なんてものは現代社会において、大学を卒業して就職して一年二年経った青年が、俺はどうやらこういう方面には我慢が効くがこういう方面は苦手だぞ、どうやらおれはこういう仕事とこういう人間関係の中でなら生きていけそうだ――みたいなのをやっとこさやるものなわけで。そんなものを、小学生が引きちぎられるような喪失を乗り越えるのと二正面作戦でやるのは無茶というものです。
そういう意味では、周囲の大人たちはもうちょいどうにかフォローしてやれなかったのかよ、とも感じるんですが、でも逆にそれこそ大人視点の傲慢な物言いであって、大人だろうが子供だろうがどんな人間でも自分自身の心の中の悲しみや未来とは、自分一人で向き合うしかないというのも一面の真実です。
おっこは画面上の軽やかさやおっちょこちょいさに隠されがちですが、実は誇り高い女の子です。特に自分が設定した自己目標に対しては愚直なまでに誠実です。だからこそ、宿泊客のために対立している真月に頭を下げて教えを請うこともします。その実直さが両親を失うという危地の中で彼女が孤立してしまった原因だし、それが巡って彼女の味方を増やす原因でもあったのは素敵だったと思います。
おっこは「喪失を乗り越えること」から逃避して、目の前のロールである若女将に飛びつき、そこで必死に働くことによって苦しかった過去をある意味塗りつぶそうとしたわけですが、その逃避が「自分自身と居場所を見つける」ことにつながってゆきます。
幾つかの出会いがあって、目指すべき未来のヒント、ロールモデルと出会います。たくさん登場人物がいるのですが特筆すべきなのは三人でしょう。
まずは旅館の女将である祖母。登場シーンは少ないのですが、彼女の個人人格と職業倫理が融合してしまったあの佇まいは、今は亡き母経由もふくめておっこの誠実さの根っこのように思います。職業倫理がついには人格化しちゃうって、昭和的な善人のあり方としてすごく共感できるんですけど、今の時代では流行らないのかもしれないと思ってちょっとホロリとしました。
二番目には、おっこの同級生、秋野真月(大旅館の跡取り娘、通称ピンフリ)でしょう。この娘は小学生女子なのですが、広い視野で旅館業と湯の花温泉京の未来を見つめていて、顧客に対して誠実であろうという、幼いながらある種の達人系キャラです(傲慢な物言いをする残念キャラでもあるのですが)。この娘と同年代として出会うことができた、ライバルとして対立したり和解したりできた、というのはおっこを取り巻く幸運の中でも格別のものでした。彼女との交友は、悲痛から逃げ出して飛びついた「若女将ごっこ」に、その内実の精神性を加えて「本当の若女将」へ進化させてくれたと思います。
(余談&劇中では語られませんが、温泉郷に住まう子供の中でも誰よりも本気で町の未来について抱え込んでしまってる真月の孤独にとって、その孤独の闇に現れて、自分の高さまで登ってくれると約束してくれたおっこの存在は、想像すると涙がこぼれるものが有ります。真月からみてもおっこは救いであったと思うし、そうだと良いなあ)
三番目は宿泊客である占い師・グローリー水領です。長い黒髪をたなびかせたこの宿泊客は、都心部に事務所を構える凄腕の女占い師なのですが、私生活での失意から「春の屋旅館」で飲んだくれ生活をしています。
抑制的な演出で描写される彼女の鬱屈をおっこはどうにかして励まそうと、浴衣を着たことのないという彼女の着付けを手伝います。浴衣初経験のそんな彼女の艶姿におっこが感嘆した感想が「格好いい!」でした。
ものすごくさり気ないシーンだったのですが、それはおっこが喪失していた「自立した憧れるべき大人の女性像」を見出した場面だったんじゃないでしょうか?
私生活で辛いことがあっても他者に当たらず、それどころか宿泊先の幼い従業員おっこに気を使っておどけてまで見せる。グローリー水領はおっこ視点では「素敵な大人のお姉さん」です。その素敵な年上のお姉さんに、「可愛い」でも「素敵」でも「綺麗」でもなく「格好いい!」と小さく叫んだおっこに、少し泣けました。お洒落で(←女子小学視点では重要です)、颯爽としてて、自立をしてて、視線を合わせて話してくれる。そんなお姉さんはおっこにとってどれほど輝いて見えたことでしょう。暗闇の中で我武者羅に迷走していた、それでも笑顔だけは守っていたおっこにとって、それは小さな灯火で「未来の自分」「目指すべき形」です。
祖母の言う「誰も拒まない花の湯」、同級生真月のいう「客を癒やすレストスペース」、女占い師が自分の仕事を「他人を励ます仕事」だと評したこと。それらは全て本作テーマに重なるパラフレーズです。そしてそういう人々の輪の中に、自分も入っていける。癒やしたり癒やされたりしながら前へ進んでいくコミュニティの一員になる。「若女将」という「自分自身と居場所を見つける話」は、おっこにとっては生存努力であり逃避だったわけですが、それを誠実に、ごっこから実体にしていくのならば、結局逃げていた「両親の喪失という苦しみを越えていく」につながっていくのだ、という脚本はすごく良かったです。
ここまで触れてませんでしたけれど、おっこには霊感があるという設定で「春の屋旅館」にきてから騒々しい幽霊の少年やおませな幽霊の少女と出会い、励まされています。両親が今でも生存していて日常は壊れていないという幻想に悩まされていた頃おっこを支えていたこの幽霊たちですが、物語終盤でおっこから見えなくなってしまうという形で別れが示唆されます。
でもそれは、おっこが人間社会のなかで居場所を確立した――七つまでは神のうちといういわばまだ神様たちの一員であり神楽の主役でもあったおっこたちが、社会の中で着地して、痛みも悲しみも乗り越えていく季節がやってきたのだというエピソードです(おそらく魔女の宅急便の黒猫ジジが喋れなくなる、も同様の構造ですよね)。
見終わってから気づいたのですが、この作品の幽霊や鬼たちは、幼いおっこが空想したイマジナリーフレンズだとしても物語が成立するように設計されています。
おっこは自分の中の勇気やかしこさと一緒に自分の悲しみと戦った。「春の屋旅館」はその舞台であり、若女将はおっこが戦うための姿だった。
すべてのフィクションはファンタジーなので現実視点を持ち込みすぎるのは野暮というものなわけですが、今後おっこは中学に入学卒業して、大学はともかく高校くらいは出るはずで、一人前になるまで十年近い時間があります。(このお話のおっこは絶対旅館業一筋だと思うのとは別に一般化するのならば)そのなかで、旅館業から離れるかもしれない。現実に寄せて考えるならその可能性は高い。
でもそんなことはおっこの戦いとそこで得たものとは関係がないわけです。おっこは若女将というコスチュームや身分を手に入れたわけではなく、戦いの中で手に入れた人間関係と自分自身がある。将来どこでなにをしようと、おっこの手に入れたものが曇ることは二度とない。それがこの映画の中心であって、それは児童労働とかそういうのではなく、もっとパーソナルで尊いものだったと思います。
最近、ラノベの表紙が卑猥やらゾーニングやら騒がれてる。ちょっと旬を過ぎた感はあるけど。中には「果たして子どもが見て影響を受けるのか」って意見まであった。いや、どこで見たか忘れたけど。影響を受けるんだよ。まじで。
というわけで、1つの例として私の幼少期の実体験を聞いてくれ。
私は20代女。
それでは、15年ほど前に遡ろう。
小学3年生の通学路、小学校のすぐそばに商店街があった。商店街にはアーケードがあって、その並びには本屋さんがあった。
本屋さんの外、アーケードの下には本棚があった。コンビニにあるマガジンラックと、平積みに出来る台がくっついたようなやつだ。マガジンラックには週刊誌が、平積みにはエロ本が置いてあった。そのエロ本は今のコンビニの片隅に置いてあるような分厚い漫画雑誌だった。
この本屋の前を通りこのエロ本を視認した最初の時、私は「見てはいけないものを見てしまった気がする!」と思った。見たことを友達に見られていないか周囲を見た。そして走って逃げた。それがファーストコンタクト。
次の日は、悶々としながら「(2日連続で見るのはやばい。たぶんやばい。)」と思って、向かい側のアーケードを通ることにした。
またその次の日は「(何か見たい、どうしてだろう…ドキドキするけど、なんで女の子なのに女の裸に興味があるんだろう、わたしっておかしいのかな…。でも見たい、……見たい!!!!!!!!)」と気持ちが爆発した。その日はその本棚を横目で見つつ、ゆっくり通ることにした。「(わたしの体、頭は前を向いている…大丈夫大丈夫)」と自分を勇気づけた。
それからは、たまに本屋の前をゆっくり通るようになった。時にはしゃがんで本棚に隠れるようにしてじっくりと表紙を眺める日もあった。ただ、言い逃れは出来ないだろうと思って、雑誌に触れることはしなかった。大胆な行動を取りつつ慎重になろうとする支離滅裂さ、今思うと小学生ってほんとばかって思う。
エロ本の表紙はむちむち爆乳のお姉さんだった。乳首が出ている表紙もあれば、濡れた浴衣から透けている表紙もあった。リアルめの画風だった。表紙は見ていたけれど、なにせお姉さんの裸を見ることに必死だったから雑誌のタイトルすら覚えていない。今では、濡れた浴衣で透けてるとか最高って思うけど、当時は「服着てるじゃん…」としょんぼりしたのを覚えている。
ここまでが私の幼少期。
それから高校生になるまで男の人の裸に性的興奮を覚えることはなかった。恋愛対象は男性、女性に恋をすることもなかった。中高生時代は、性的対象と恋愛対象がちぐはぐしていてすごく悩んでいた。今では、「女性の身体美しいもんな。しょうがないよな。」と開き直ることにしている。私は処女だからわかんないけど、すごく性欲が強いと思っている。小6の頃からオナニーを始めて今では週7、AV女優にも詳しくなってしまった。性欲の強さは今でも悩んでいて、男の人より強かったらどうしようだとか、みんなどうなんだろう、これっておかしいのかな…などと、うじうじしている。
こんな育ち方のきっかけ、引き金を引いてしまったのはあの本屋だろう。引き金を引いてしまうタイミングはいつか来ることではあったけど、それにしても早すぎた。だから私に言わせてくれ。
と。
エロ本を本屋に置くのは賛成派だし、それを否定していないけど子どもの見える位置、行動範囲に置くのはやめようなって思う。普段誰にも言えない、言えないことを書き連ねることが出来たし、はてな匿名ダイアリーには感謝している。
書きたいこと書けて満足。じゃあね。
私は今、埼玉にある、一人暮らしをしている会社の寮に帰るため、中央本線を上っている。
――いや、正確には、明日の会社の出社時刻に間に合わせるために、帰っている。
※
金曜の夜、同期と終電間際まで飲んだ。一次会は和食のコース、二次会は適当な大衆居酒屋で騒ぎ通した。飲みすぎた後悔を心内にしまい込み、三次会へ向かうまだ元気な彼ら、彼女を見送った。今日はここまで飲むつもりじゃなかったのに…、まだ明日の準備ができていない。帰りの電車の中で日付が代わり、4時半起きという事実が、吊り革に掴まったまま立ち尽くしている、酔いの覚め始めた私の頭にのしかかってくる。
4時間眠ることができた。5時に起きて、まだうす暗い外へ目をやる。アルコールがまだ残る体を引っぱたき、すぐさま荷造りを始める。荷造りと言っても大した量じゃない。それからぱっぱとシャワーを浴び歯を磨き、合計して30分ほどで準備が終わった。
1泊分の着替え、タオルや歯ブラシを詰め込んだバックパックを背負い、青春18きっぷを手に握りしめ、まだ日が昇りきっていない外の世界へ繰り出した。
※
社会人1年目は、あっという間に6ヶ月が過ぎた。
生まれてから大学卒業まで、私は東京で両親と住んだ。入社と共に両親が自身の実家に帰り、私は埼玉で寮を借りて一人暮らしを始めた。
それから今日まで、特に苦も楽もなく、上り坂も下り坂もない平凡な毎日を送っている。
土日はたまに遠くに出かける。
完全週休二日制の、どちらかといえば優良企業の弊社に感謝をしながら、週末の旅の予定を立てるのがこの虚しい日々をやり過ごす唯一の楽しみだ。
周りの同期はみんな一生懸命に見えて、賢く見えて、社会人を楽しんでいるように思える。
なにが私と違うのか、最近考えているけれど、まだ答えは出ていない。
22、3歳、の同期、もしくはマスターならそれ以上。彼らと私の過ごしてきた時間は等価であるはずなのに。
劣等感だろうか。何に対する?わからない。きっとこれまで過ごした人生の重ね方だろう。
※
10時間も列車を乗り継いだ。小田原、熱海、沼津、静岡、浜松、豊橋、岐阜。
不思議とあまり眠気は襲って来なかった。やはり鈍行の旅は好きだ。途方もなく長い間に意識が引き伸ばされながら、少しずつ近づいていく。そして、気付くとそこにいるのだ。
浴衣に着替え、下駄に履き替える。温泉街をぶらぶらして、たまに気に入ったものがあれば食べ歩き、たまに宿に帰って酒を飲み、湯船に浸かる。この繰り返し。
一人はいいものだ。誰にも気を使う必要がない。もし私が、ふと道端に、使われなくなった昔の煙草の自販機があって、それをまじまじと見ていても、誰も文句を言わない。サビの具合や、今はもう売っていない銘柄に関心を寄せて、私が私自身で解決できる。
こんな調子で夜も適当にご飯を食べて、適当に酒を飲んで寝た。もちろん朝も適当に起きて、朝風呂に出かけ、朝飯を食べた。
※
正直、どこに行ったかなんてここに書くことについてはどうでもいいのだ。ただ単に、私が言いたいのは、"社会がひどく七面倒臭い場所であること"についてのみだ。
それに反して、旅とはどれほどいいものか。自由の象徴だよ、一人旅は。
きっと私は、縛られることになれていないだけなのだろうな。そしてこれから慣れていくのだろう、いや、嫌でも慣らされていくのか。
※
オレも一読して違和感を持った。たとえば男が女性の浴衣を「脱がせにくい」などと文句を言ってて女性達が「知ったことか」と反発、だったらよくある炎上風景だが、当の着る側が脱がせにくいやすい…? 脱ぎやすいではなく?
妄想話と現実を切り分けられていない、っておねえさんは思ってるようだけど、そのマンガはエッセイ的に、現実の浴衣のイメージを語っていると思う。まとめにいる人達は「脱がせにくさ」で共感できている。考えたんだけど、彼女らは下心と言ってはいるが、実際に祭りの場で男と出会って脱がされることを期待しているわけではない、気がする。そうでなく浴衣を「脱がす着物」と考えているんじゃないか。服の価値として洋服などにはない、脱がす際のエレガントさを指して、そこにセクシーさを見出している。映画とかドラマとかで脱がすシーンを見たんだろう。脱ぐ側からはそれがどんな情景なのかわからない。だから「脱がす」側の視点で捉えていて、そのような表現になった。
ちょっと前にTwitterで「女性が浴衣の下に着る下着」について話題になったことがあった。
なお、話題の主=まとめ主は女性である。そしてこれを書いている私も一応女である。
これが私にとってはとてつもなく気持ち悪かったのだ。読んでいて気分が悪くなった。
素直に「どんな下着を着ればいいのか」という話題であれば興味深く読んだだろう。
夏場に浴衣を着たことがある人は分かると思うが、実は浴衣は着ているととても暑い。
その浴衣を「いかに涼しく」「いかに可愛さも損ねず」下着を工夫するか。という趣旨であれば、浴衣を着る人間であれば皆興味があると思う。
しかしこのまとめでの論点(まとめ主が主張するポイント)は常に「脱がせやすい」「脱がせづらい」という感じで
その後、性的な行為に及ぶこと前提であって非常に気持ち悪いのだ。
この方は漫画を描いている人であって「漫画のネタだから!」と言われてしまえばそうかもしれない。
しかし、実際に浴衣を来ている人は巷に溢れていて、別に必ずしもその後よいオスとハッスルするべくアピールするために着ているわけじゃないのだ。
私は少しこだわりが強い人間のようなので、客観視が出来ていないのかもしれない。
話の流れから、男4女2の6人グループで夏祭りに行くことになった。あの子の浴衣姿はとても麗しかった。
小ぢんまりした花火があって、急な坂と石段を登って、その先の神社で鑑賞した。
帰り道の下り坂、慣れない草履と浴衣とで麗しのあの子が少しずつ集団から遅れた。
一人置いてくわけにもいかず、僕はその子に合わせてゆっくり隣を歩いた。
皆は気づいているのかいないのか、わっきゃわっきゃ騒ぎながらスタスタ進んでいった。
だいぶ距離が離れて、暗い坂道は僕とあの子だけの空間になった。
遠くから夏祭りの賑やかな声が聞こえて、だけど、ここだけスポット的に全部の音が吸い込まれるように静か。
これって告白するシチュエーションかなと思い当たった瞬間くらいに、前を行っていた奴らが振り向いて叫ぶ。
「おまえら遅せーぞ!」
追いついた僕たちを冷やかすでもなく何事もなかったように迎え入れてくれる。
きっとこの先も僕たちは付き合うことはないと思うから、あの帰り道は2人がいちばん近づいた瞬間になるのかも知れない。
と思ったので増田に記録しとくわ。
大学3年生の頃だったか、サークルの同期を集めて30人ぐらいで東京から奈良~伊勢を旅行した。
幹事は私。女です。
伊勢にある「安土桃山城下街」っていう、日光江戸村みたいなやつがあって
それがとっても良かったから
私の無念をどうか聞いてほしい。
団体割引が強くて、通常だと5000円ぐらいなのが3000円ぐらいになるから、せっかくだし、大人数で行ける今こそ行くべきだと思って行ったんだ。
思った以上に閑散としてて、私たち以外のお客さんはほとんどいなかった。
最初に、
ルンルン!にんにん。
妖術屋敷だとか、
私のインカレサークルはすんげー頭良い理系大学の学生もいて、いつも麻雀ばかりしてる男たちは夢中で賭場に浸ってたんだけど、これもすごく良かったらしい。
みんな「~でござるよ!」って語尾にしてたり。おまけしてくれたり。
頑張ってるなあ、っていうのは違うかもしれないけど、最高だった。
でも私たちは帰りのフェリーがあって二時間しかそこに居れなかったんだ
断るのがつらい。
団体割引をするにあたって、何人で、何日に行きますよ、って電話をしていたから
きっといつもよりスタッフも多く投入したり用意してくれた(だってこんなガラガラだからさ!平日だったんだしかも)に違いない
二時間あれば十分でしょ!なんて思ってた自分を殴りたい。大後悔。
帰りがけ、お風呂も併設されていたからちらっと見に行ったんだけど、めっっっっちゃすごかった。
あんまり めっちゃ とか言うと、もし誰かがこれを見て行ってくれたときに「なーんだこんなもんか」ってなっちゃうとか思うからあんまり使いたくないけど、いや、でもそうならないと思うよ!!!
あーん。
いまサイトみたら
面白そうなのやってるし。
いきたいなあ。
にしてもずいぶん空いていたから、みなさんもぜひ足を運んで賑わせて。
ちょっと高いけど、ディズニーに行くのより同行者とコミュニケーションが濃く取れると思うから、子連れさんにもおすすめです。
わたしが次に行くまでにどうか潰れませんように...
いわゆる夜のお店に遊びに行く。
すると1人くらいはお気に入りができ、連絡先を交換し、毎回色々な話をする。
たまには同伴もする。
先日は夏祭り・花火シーズンということで、お互い浴衣姿の同伴をした。
いつも以上に話が盛り上がり、彼女の過去の話や写真をたくさん見せてくれた。
「単なる客と割りきった相手ならさすがにここまでするだろうか」と。
都市部のようなギラギラ、ギトギト、ギスギスしたようなことがあるとは考えにくい。
一度だけ誘ったことがあったが、体よく断られたのでそれ以降誘っていない。
かといって積極的に営業等してくるわけでもなく、営業らしいLINEが来たのは片手で数えて指があまるくらいである。
つまり私は「単なる客ではない」ものの、「プライベートで会うほどの価値まではなく」、「積極的に営業するほどの相手でもない」程度の存在でしかないと言わざるを得ない。
彼女は腹が立つくらい徹底している。
何気ない雑談LINEは送れば返ってくることもあるが、8割方彼女の勤務時間中にしか返ってこず、彼女のプライベートな時間を使ってまで返してくることはまれ。
彼女はおいしいところをしっかりもっていくが、私は一番おいしいところは手に入れられないのだ。
今まで幾度となく邪な思いを抱いたが、常にそれを抑制して適度な距離感を維持することに努めた。
彼女が負担・不安に感じそうなことは極力行わないようにしてきた。
その積み重ねがあって、先日の浴衣同伴も快くOKしてくれたのだと思っている。
私は人としてはある程度認められているものの、『男として』はまったく認められていない。
また、『積極的に呼びたい客』としても認められていないのだ。
しかし不思議と諦めようとかは思わず、むしろ「なんとしてでも振り向かせてやる」と躍起になってしまう。
まあ、慌てずに今の関係を維持しつつ、虎視眈々とチャンスを伺うか…。
諦めたらそこで試合終了だ。
不謹慎だが美しいと感じた
たまに白い鳩が居るが多分アレみたいな感じだろう
友人と楽しそうにしていた
___
夏休み子ども科学電話相談のまとめ読んでたら「アルビノ」って答え書いてた
2万人に1人って意外と多い
めったに見かけないのはやっぱり陽の光の関係かな
お祭りの会場で見たからか、はしゃいでるアルビノはほんとにドキッとした
考えてみたら祭り会場というのは白は珍しいのか
浴衣はだいたい強い色だ
神社とかって、
目、肩、腰と部位によってお参りすると効くよってそれぞれあったりするじゃない。
昨今そういった感じの
そう言った具体的に細分化しても良いわよね。
と言うことで、
つながりが悪いBluetoothに効くと言うことで定評のある
繁華街の真ん中で今まで良く通ってた所の筋一つ違いで
こんな神社があるなんて知らなかったのわよ。
つながりが良くなるかは分からないけど、
お守りお受けしてきたから、
きっと効果は絶大だと思うわ。
その時は
窓に貼り紙してあって13時に戻りまーすってあって、
いないタイミングで1時間ルービーでとんかつ流し込んで食べて時間潰したわ。
そんでね、
その街一帯か分からないけど、
浴衣フェアやってて
パワースポットも巡れたし
そうそう思い出した!
いつもそこに行ったら寄るつけ麺屋さんが定休日が日曜日に変更になってて
食べる気満々だったのになぁ!
うふふ。
昼間で頑張るわ。
1玉買って切って食べる切り立てスイカがやっぱり美味しいわよ。
やっぱりスイカも切り立てが美味しいのね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
数年前に彼女と別れてから夏祭りにはわざわざ行くことはなかった
思い出してしまうからというのもあるが、友人たちも祭りが好きではない
なにかあるかもしれない、いつもと違う行動を取ったらなにか変わるかもしれない
たこ焼きくらい買って食べたら楽しいんじゃないか?案外いい出会いもあるんじゃないか?
屋台の眩しい光が目に飛び込んできた
こんな雰囲気久しぶりだ
気分も高揚するというものだ
しかし、そこには何もなかった
正確には愉快に笑う家族連れや友人、恋人同士で楽しんでいる者たちばかり
いい歳をしたおっさんが1人で歩いているのを最後まで見かけなかった
俺、なにしてるんだろうなって気持ちになって
なんとはなしに昔のことを思い出しながら歩いた
過去を美化しすぎるのは良くないとわかっていながらも
二人で浴衣着ていったなとか色々思い出した
ジジジジ
急に足元でなにか音がしたと思ったら蝉だった
でもしばらくしたら蝉は動かなくなっていた
そうかお前一生懸命生きたんだな
踏まないようにそっと横を通り帰路についた
付き合って2年4ヶ月
付き合いはじめと生活スタイルも大きく変わって2週間に一度1時間だけとかしか会えない
一緒にプールだって花火だってお祭りだって行きたいけど、時間なくてなかなか会えない中で自分が行きたいところ言うのがわがままみたいで怖くなって言い出せなくなった
別にどっか出かけるんじゃなくても、一緒にクーラー効いた部屋でゴロゴロしたりどうでもいいワイドショー見てしょうもない話を繰り広げたり、私が別のことしてて相手の鼻歌が聞こえたりとかそんな日常を共にしたい
仕事ばっかで時間なくて平日は翌日の仕事のことを考えると会いに行く気にはなれない
私だって彼氏と手を繋いで出かけたいし恋人らしいことだってしたい
それが叶わないからここ最近はもうずっと漫画やアニメの二次創作の、カップルがいちゃつく様子ばかりをツイッターやピクシブで羨ましげに眺めるほかない
寂しい 仕事つらい
20代男。わりと好意的に接してくれる女性に、大事なところで、白々しくというかわかりやすく好意を示すことができない事例が最近何度か続けてあって後悔してる。
(1)浴衣を褒められない
会社の暑気払い的イベントを同僚と一緒に幹事して、われわれは浴衣を着た。ひと目見て大変麗しかったのに、それを口に出して褒めることができなかった。麗しかった。
(2)ケガを気遣えない
髪を切ってくれている美容師さん。序盤にバッツリ自分の手を切ってしまったようで、キャッと軽い悲鳴を上げていた。応急手当をして戻ってきた美容師さんに「大丈夫ですか」の一言すら言えずに、普通に世間話した。いくらでも言うチャンスあったのに。
会社の派遣さん。業務的には月1,2回会話するくらい。勤務時間中、自分が私用の電話に対応するために休憩室みたいのに入ったらその人がいてバッツリ目が合ったけど、目をそらしてしまった。
ちなみに、わりと女慣れしてる方なのに最近この有様。
有識者会議は、打ち水のほか、浴衣、よしずの活用など日本ならではの対策を盛り込み、観光PRにも生かしたい考えだ。
外国人観光客に快適に過ごしてもらうため、路上でオープンカフェを開きやすいよう規制を緩和することや、案内標識のデザインの見直しなども検討する。さらに、赤外線を反射する遮熱材を路面に施して温度を上がりにくくする舗装技術などの効果を検証する。
https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20150417-OYT1T50027.html
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