社会人のパートナーがいるかと言う率は、あからさまに賃金との相関関係がある。相対と言うより絶対値で350万円あたりに閾値があるので、若い人の給料がそこを超えられるように社会構造を改善する。
特に以下の条件が重なると婚姻率が下がるとか
例えば、休日出勤が多くても給与が高いとか、給与が低くても平日夕方遊びに行けるような時間で終わるとかだと、婚姻率が良いという調査結果がある。
そこで、取り急ぎ、平日何日かはそのままどこかで遊んで帰宅できるような時間帯に帰れる日があるようなぐらいまで軽減すると恋愛しやすいと言う例がある。
以下の様な事実がある(数字は空覚え)
そのため、学生時代に恋愛をすることを推奨すると言う方法がある。
これは結局金の問題にはなるんだけど、一人暮らしができると恋愛しやすいのと言うのが明らかなのだそうで。ただこれは転勤を嫌がるとか家賃の高騰とか色々と逆風が布言えて現実的ではないかもしれない。
昔よりも地縁血縁が薄くなっている中で、さらに社内恋愛も減っている助教で出会いが無い。
そこで、地域スポーツクラブとか、趣味の団体で若者向けの出会いの場を作ろうという動きをやっている所はある。
結婚をしようと考える時に、経済的な理由が一緒に存在すると結婚しないまま過ぎてしまう、と言うこととがあるらしい。それも結婚式の費用とかではなく、同居するにあたっての引っ越し費用だとか、そう言う現実的な費用。
昔は、結婚した直後はお互い生活レベルが若干下がっても、一緒にいられるからいいよねみたいなところがあった。
しかし、現在は結婚によって生活レベルが落ち場合には、落ちなくて済む条件が整うまで待ちましょうということになって、そのまま過ぎてしまい分かれてしまう、と言うことがあるとのこと。
そこを支援してやると効果が高いのだとか。
そこで、新婚夫婦だけが格安で借りる事ができる安い住宅などを整備した自治体があり、それが結構な婚姻率と出生率を達成して話題になったりしている。
結婚すると言うことがどういうことなのか、リアルにイメージできない環境の人が増えている。例えば核家族化などで親戚づきあいが減っているとか。
一方で、特殊な事例ばかりがメディアなどで伝わり、インターネットでは離婚報告などは多く話題になる一方で、マジョリティの普通に結婚生活をしている人の情報が出てきにくい。
そこで、結婚を考えているカップルに、先輩夫婦をメンターとしてアサインして交流させるということをやっている自治体がある。
結婚するとお金が出る自治体や、転居に補助金が出るところ、婚活パーティーや結婚相談は実はかなり行われている。そんなに積極的に宣伝してないケースが多いけれども。
]]>地縁があるから貧困になっても助けてもらえるからホームレスまで落ちることはない
たぶんそういうことではないかと。
自分が生まれ育った土地で親族が近くにいるなら、ホームレスまではなかなか落ちないんじゃないかな。
あと、田舎でホームレスになってから都会へ大移動するんじゃなく、田舎から都会に出稼ぎ(日雇い)に出てきて、結果的にホームレスになるパターンのほうが多そう。
]]>それとも
田舎は基本的に地縁のある人しか住んでいない
という記述も考慮すると、地縁があるから貧困になっても助けてもらえるからホームレスまで落ちることはないってことなのかな?
]]>逆に田舎にホームレスがいないのはなぜ?
自分が思いついたのはこれだけかな
都内でもホームレスは繁華街の近くに固まってる
代々木公園、新宿中央公園、新宿駅付近の高架下とか
]]>それは運でしかないからお互い悪口とか「理解できない」とかいうもんじゃないとおもうよ
]]>近代国家よりは当然後世の研究者が国家と認めるうえでの要件が緩いはずなんだが。
アイヌ民族
・すくなからず大和朝廷や武家政権から対外的に独立してる時期はあった。
・一定の土地に一定の民族意識を持った人々が世代交代を繰り返していた(ある意味で領土人民が存在してる)
あれ?これってほとんど国家じゃね??
琉球王国は我々は琉球王国だと名乗ってる文献でもあったんだろうけど、別に現代のイスラミックステートがそうであるように名乗ってることは国家の要件じゃないからねえ。
自称がないのならば教科書等でどうアイヌ人の国家を指し示すかというのは議論の余地があるが、国家があったかどうかはまた別の問題なんよね。
指導者がいないから国家じゃないってところだろうか?でも直接民主主義ならそういうの不要だしなあ。
各々が家族規模で狩り等やっててその隣接する集団間で多少なりとも民族意識的な紐帯が存在してたなら国家ジャネーノと思う。
それならその紐帯を介して最小単位を親族関係等として可変的に集団の規模を変えることがありえる。地理的に隣接する集団、その集団にさらに隣接する集団と一時的な編成が繰り返されれば、一時的だとしても最大でアイヌの民族意識を持った人間全員の集団が成立しうる。イオマンテとかもそれなりに大規模な地縁で行われたんじゃないのか。災害等もっと重大な事態に際してはアイヌ人全体が連帯しえたのではないか。それは国家ではないのか。
dorawiiより
しかし、そこには人を孤立させず縁に取り込む温かさがあったことも否定できない。
自由な社会は、人々を価値で結びつける。
新卒は、縁もゆかりもない東京で、自らの価値を示して縁を結ぶ。
そこに無条件の縁はない。価値がなければそれまでという、自傷的価値観が育まれる。
人々は都会に寄り集まりながら孤立し、自己責任の名のもとにすり潰されていく。
]]>ホストに入れあげて大金つぎ込む女子は何が楽しいのか?
一見してホストの客が対価として得ているのは
キャバクラ嬢に入れあげる男連中と同じく
美形の異性が自分をチヤホヤ肯定してくれることだろう
つまりは人間関係を金で買ってるわけだが
一方的に貢がされているのとは少し違う気がしてきた
ホストは客に「店のナンバーワンになりたい」とか
あたかも自分の夢を叶える協力者になって欲しいように語る
そんで派手なシャンパンタワーとかやるとイベント気分が味わえる
要するに単に一方的にホストに貢いでいるだけでなく
「私がこの人を育ててやった」という”優越感”を買ってるのだ
このパトロンとか旦那の気分を味わえる商法を薄い水割りにすると
秋元康が広めたAKBその他の推し活になる
この手の商法のカモになる人々というのは
単に自分を愛してくれる相手が欲しいだけでなく
自分も相手の役に立っているという相互的な関係性に飢えてるのだろう
***
これを家族や身近な異性の愛が得られなかったからと分析するのは早計だ
もともと対等な男女の恋愛なんて貴族だけが味わえる嗜好品である
庶民の大多数は地縁血縁の共同体によってなんとなく結婚相手が決まってた
中級以上の階級でも政略結婚とまでいわんが婚姻は社交の手段だった
じゃあ親子や夫婦の間に愛はなかったのかというと
近代のラブロマンス物みたいな愛情はなかったろうけど
親や子、妻や夫がいてくれないと困る「必要性」はあったのではないか
何しろ近代まで数千年、世の多数の人間は農業や漁業や個人商店みたいな
「家業」に従事してきたから、親子兄弟夫婦はまず
田畑や自家商店で一緒に働く”職場の同僚”だった
そら愛情以前に仕事上のため必要とされる関係だわな
***
それが産業構造が変化した戦後昭和30年ごろから総サラリーマン社会になり
地縁血縁共同体のなかでなんとなく男女がくっつくお見合い婚は減り
恋愛して結婚して子供は学校に通わせる方が普通になった
でも人類の歴史からいえばこんなの100年そこいらの新習慣だ
その結果「必要性」もなく親子兄弟夫婦が同居する状態になり
愛情は義務になってそれが得られないと人格がねじれて
わざわざ金で関係性を買う世の中にまでなってきた
とはいえ無償の愛情なんて本来やはり贅沢品だと思う
金を払って優越感を買うのも淋しい行為としか思えない
だからといってホスト狂いになる女性やら
パトロン旦那気分を味わいたい男にもっと前向きな代案はあるか
俺程度の頭ではまだ考えつかない
]]>氏族文化の後進国はもちろん、アメリカなんかの多文化多民族国家のマイノリティも親族間の結びつきが強い
日本で親戚関係が希薄になってきたのは社会が安定して平和な時代が長く続いてるからだろうな
地縁血縁の相互扶助を公共福祉や民間サービスが代替するようになって「縁」を気にしなくても生きていけるようになった
]]>子供は自分からは言いたくないだろうけど、親は地域や子供の友達のことどれだけ知ってるか
親も地元育ちだと引っ越すって選択肢はなかなかとれないだろうけど、地縁を頼って子供の状況を知ることができる
地域の事情も、学校に影響力を行使できる有力者も知っているだろう
簡単に引っ越せるくらいの地縁しかないなら、子供の情報取集も、いじめ対策もハードモードだから引っ越したほうがいい
簡単に引っ越せるのはある意味で強者といえる
]]>ユダヤ教の信者をユダヤ人と呼びます。
ユダヤ人が血筋や地縁ではなく精神的なものであることを初めて知って驚いた。もしワイ(日本国籍)がユダヤ教の信者になったらユダヤ人なんだろうか。
そんなイスラエル建国の背後にあるのが第二次世界大戦です。
追われていたユダヤ人達を匿ったのがイギリスなんですね。イギリスはパレスチナを占領していたのでここにユダヤ人の国作ればいいじゃんと勝手にどんどんヨーロッパからユダヤ人を呼び寄せたわけですね。そして第二次世界大戦が終わったらイスラエルという独立国家にしちゃったんですね。
なんとなく建国しちゃったイメージはあったけど、WW2とかイギリスの絡みは全然知らなくて新鮮だった。
ユダヤ人は昔から嫌われていたので金融などの汚いとされる職業に追いやられていました。しかし金融が重要になるにつれユダヤ人の力が大きくなってきたんですね。ユダヤ人ではないヨーロッパ人からしたら面白くないわけです。なんでユダヤの野郎どもが上にいるんだ、俺らの生活は苦しいのに!となったわけです。それがナチス・ドイツのホロコーストにつながったんですね。
ホロコーストの原因を初めて知った。学び。
中国のウイグルなんてものではないほど酷いことをしてるんですが世界の覇権を握っているのはユダヤ人ですから誰も口を出せないわけですね。
先住民迫害は知らなかった。
あとこういう場面でよく「ユダヤ人が世界の覇権を握っている」と言われるけど、ユダヤ人がどんなものかよくわかっていないし、生活の中でユダヤ人に覇権を握られている感じが全然しないので、いつも不思議な気持ちになる。
アメリカのインディアンを想像してみるとイメージがつきやすいんじゃないですか?
わかりやすかった。
アメリカを始めとする西側諸国はユダヤ人に操られた白人国家にすぎないので当然イスラエル側につくわけです
さっきと同じ感想になるけど、この感覚が全然わからない。ユダヤ人が自分の中で影が薄いので、覇権を握っている感じがぜんぜんしない。
]]>見た目同じで同じ地域に昔から住んでも、遺伝子的には余裕で混血してるから。
一方で、差別主義とかは宗教は、たぶん見た目の感覚とか地縁とかと結びつくんだよなあ。
だから、両者の相性は実は直観的に感じるほど良くはないんではないか。
]]>外から家に電話かかってきて親が謝り倒すってあたり特に
その頃は学校の権威も高かったし地元の地縁も強かったから親世代の同調圧力が強くて、とにかく他人様に迷惑をかけないこと、という風潮が強かった
(今でもそれなりに同調圧力はあるけど、同時に個人の選択の自由などの価値が上がっててそれらと比較衡量されたうえで判断される感じだ)
中3で徹夜雀荘ってアカギかよとは思ったが
]]>世の中には潜在需要があっても実現不能だった物は多い
昔は自由恋愛が少なかったのは個々人の意志以前に社会制度の問題
みんな農民や個人経営の商店みたいな「家業」だったから
個人の意志による恋愛以前に家の存続が重視されたんで
地縁血縁職縁によるお見合いやら異性紹介が成立してた
ところが第三次産業中心社会になって総サラリーマンしたら
代々の農地や店を継ぐ必要もなくなると家存続の義務感も低下するし
それまでの地縁血縁職縁の結びつきだって形骸化する
その結果世の中は自由恋愛のほうが主流になってった
すでに完成した第三次産業中心の総サラリーマン社会はそのまま
価値観だけ昔に戻すのは多分ムリ
]]>別に最近堕落したわけではない
]]>考えるのが面倒臭くなった時点で、手頃な何かを称揚して終わるわけだ。
昔の地縁社会とか。コラボとか暇とか。結局、社会を良くする上で何も意味有ること言ってない。
]]>「まずい個人店」がなぜ潰れず残ってるのか?
・
・美味かった昔から料理人の老化や交代等により劣化したものの、昔の評判を忘れられない客がついてる(衰退・地縁型)
・とにかく安い(廉価型)
・その地域の住民が外食の味のクオリティに興味がない(荒廃型)
大体上の3通りに分かれると思うがどうか
]]>だから地縁も何もなくて次当選してなくてもいい有田が出たんじゃないの?
]]>本人は高校中退で35歳年収300万なのに嫁さんは20代でモデル級美人で早大卒で法務局の常勤職員
とかそのレベルの格差婚事例が平気である。
格上の女性を見事に射止めている男達のほうに共通している点は
元不良だったとかお調子者だったとかで学生時代にクラスのカースト上位にいたということ。
どうやら、世のイケている強者女性のなかには
「社会的地位や経済力ではなく、小中学生時代の感覚のまま生物的な強さやキャラとしての魅力とかを重視して自分の番を選ぶ」
というタイプは結構いるみたいだ。
例えエリート階層の女性であってもだ。
ちなみに俺はそういうタイプの青少年ではなかったので独身だ。
そもそも底辺職なのにもかかわらず同僚達がそういう格上女性との繋がりを持てているのは弊社が目黒の地場企業だからってのもあるのでは?とも思ってる。
生まれ育ちが目黒、品川、世田谷という、
嫌でも小中学生時代に上級とも触れ合うエリアに地縁がある同僚が大半を占めている。
田舎だとこうはいかない気がする。
]]>>「昼間でも場所によっては強盗性犯罪当り前。地下鉄には独りで乗るな」「目立つ格好をするな」「アジアンは狙われやすい」
と書いてる通りに海外では見ず知らずの女性に対する犯行が多いのだろう
日本では痴漢のような行きずりケースを除くと
統計上レイプとかは圧倒的に身内の犯行が多いという
考えてみたら密室でないと犯行できないしね
相手を言いくるめて黙らせるうえでも
職場の上司とか年長の同僚とか年長の親類とかのほうがヤりやすいんだろうな畜生めが
セクハラの類も通りすがりの見ず知らずの人間相手には成立しない
仕事上とか地縁血縁とか何らかの力関係がある場で発生してる
だから見ず知らずの男(俺)に「私を襲うかもしれない」って目を向けんな
人口密度の高い日本の都市部でそんなリスクの高いことする阿呆は滅多におらん
(きわめて稀には家宅侵入して犯行する強行レイプ犯もいるけど)
そして職場の部下とか年少の同僚とか近隣の顔見知りの目下の若い娘とかなら
手を出してもなんとかできると思ってるクソ男全員金玉砕けろ
そういう奴らのせいでただキモいだけで何もしてないする気ない俺まで犯罪者扱いされる
]]>個人主義をこじらせるか、縁故主義をこじらせるか
日本は長らく地縁社会かつメンバーシップ型だから死ぬまで付き合いがあるって感じだったけど
今の若者は数年で雇い止めになったり会社がつぶれたりリストラされたりで、会社の同僚は仕事仲間であって、苦楽や生活を共にするような家族ではない、自己責任、自立が大事
という感覚なんだろう
]]>民間の非営利団体による社会的課題に対する(時には発見するところからの)アクションにはいろいろ細かい種類がある。管轄官庁の違いであったり。ボランティア活動とイコールではないが連続していたり。そのへんをひっくるめたズバリの一語がないので、ここではざっくり「非営利団体(の活動)」と呼んでおく。
日本で「NGO」と言うとなんか国際的に活動してるニュアンスがつくし。
非営利団体の役割は、行政による社会福祉の補完であるという。近い所で、官民パートナーシップとか新しい公共といった枠組みも近年提示されているな。
行政の補完的存在というのは勿論それはその通りなのだが、枠組みとしてはごもっともでも、補完という言葉のイメージから「安上がりな下請け」と捉えられかねない危うさについては注意喚起しておきたい。
ボランティア団体やってる人で「行政のしりぬぐいをしてやってる」みたいなことを言う人がよくいる。これは「下請け」の裏返しみたいなものだ。行政がやるべきことを自分が善意で肩代わりしてやってるという意識は活動の可能性・想像力をあらかじめ縛ってしまう。
行政に従属的でも対立的でもなく、必要な連携をとりつつ自由に動いた結果が相補的相乗的効果を生むというのが一番理想ではある。
もともとの出自として地縁による互助システムの後継的存在というのも無論誤りではないのだが、非営利団体の活動って別に「助け合い」的なことに限るものではない。それもまたイメージによる桎梏の一つではある。
自分としては、非営利団体活動とは単純に社会の中の余力的なリソースをかたちにする手段の一つであると捉えている。政治行動(投票とか)、経済活動(起業とか)に並列的な位置づけのものだ。
たとえばオープンソースのソフト開発、リナックスコミュニティみたいなのがまさにその代表例と言っていいだろう。政治の論理や商売の論理とはちょっと違うルールで、人々の持つリソースを結集させて社会に役立つ形にすること。
地域の助け合いとか「顔の見える活動」「心に寄り添う活動」とか、「非営利団体活動シーン」でよく言われるそういうものばかりが非営利団体のあるべき姿ではない。
さて、あなたは非営利団体が活きるフィールドの例として災害ボランティアを挙げている。
ある意味ではほんとうにそう。民間有志の力がうまく使われれば災ボラくらい非営利活動に「向いてる」分野はないだろう。でも実際のところ、言うほどうまくは行ってない。
めちゃくちゃもったいないことになっている。
現にあれやこれややってるじゃないか、みんなの骨折りを全否定するのかと言われればもちろんそういうことではない。リソースを活かすシステム(の不在)の話だ。神戸の震災時が本邦災ボラの黎明期だとしたらいまはせいぜいが中世の暗黒時代というところだ。
まあこのことについて具体的に詳論しだしたらキリがないので…。
非営利団体の情報公開のありかたについて、ネットの鵜の目鷹の目でやいのやいの監視するのがアホらしいのは全くその通り。
DX的なことだとかの、テクニカルなフォーマット作りの議論が必要というのも全く同意。
そういう具体的方策以前のちょっと理念的な話として、以前増田に書いた記事中で「情報公開は非営利団体活動の命綱」「コンプライアンスは足かせでなく指針とすべき」といったことを述べた。
https://anond.hatelabo.jp/20221206001603
例えば、ウクライナとロシアの「情報戦」「宣伝戦」の巧拙の格差を見よと言いたい。
ウクライナはまさに「情報公開」を命綱として支援を呼び込んで戦い続けている。
(もちろん後々色々と醜いものも明るみに出てくるだろうが)
一方でロシアは内向きの情報統制に終始している。
ウクライナはお涙頂戴で各国の慈悲にすがっているのではない。率直に要求を述べているし、率直さによって一定の信用を得ている。
ものすごく不謹慎な言い方になるが、ウクライナはコンテンツを生んでいるのだ。命を引き換えに、だけど。ウクライナが公開する情報は、我々にとって価値あるものだ。そこで我々は納得して支援の金を出す。
非営利団体は監視されていやいやながらに情報小出しにするんじゃなくて、攻めの姿勢で情報出しまくってそれを「売り」にするべきだ。
社会貢献的な活動に興味はあってもそれに割く時間や労力は捻出しにくいという人は多くいる。直接参加できない人が、実際の支援の現場でどういうことが行われているのかという情報を受け取った上で、活動に対する投資の意味で寄付をする。
そういう経路を作り出すことができたら「どうやって見張るのか」なんていう問題は問題ではなくなる。
個人の直接の寄付と公の補助金とはイコールではないけど、間にワンクッション入るだけで出どころはみんなの懐なんだし話の骨子はかわらない。
■ブコメ指摘「ロシアはデマ攻勢仕掛けてるだろうが!」あ、それはほんまにその通り。例え話として、持論を述べる上で都合がいい部分だけのつまみ食いになってる。ツッコミアザス
■追記
いわゆるソーシャルグッドな活動の資金調達方法としてクラファンがある。
そこで問題になるのがマスの「情」の力学である。
エモいストーリーがくっついてたりしてバズったものにだけ支援が集中するのではないか、そのせいで俗受け狙いのアピール合戦になり、活動そのものも歪んでいくのではないか。同情の集まりやすい「ウケる弱者」の取り合いやウソつき合戦になるのではないか。あるいは分断を煽ることである陣営からの集金を狙う、邪悪なハックが行われるのではないか。
そういう危惧は当然にあるし、実際そういう状況は生じている。
でも、マスの生理としてそういう(エモいものに殺到する)傾向があるからと言って、世の全員がそうなわけではない。
世間的にそこまで話題でなくても、自分の興味あるニッチな分野で、何をどうしようとしてるのか具体的によくわかる(情報公開がしっかりなされている)活動に支援したいという需要だってある。
情報にはそういう堅実な支援者を掘り起こす力もある。
ミーハー的な寄付と、堅実な長期的投資のような寄付とは並立・共存可能であると思う。
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