はてなキーワード: 主観的とは
anond:20240506174540 に追記しようとしたら長すぎたので記事を改める。
私の短歌・俳句論について、異論は認めるのだが、この一句は反例とは思えない。むしろ私の認識を強化することにしかなっていない。
この句は一見情念のこもった句に見えるが、この句における一茶はあくまでも風景の一要素としてやせ蛙と並列されている。つまりは蛙ごときに向かい合って必死になっている俳人の描写である。一茶の句におかしみがあるのは、滑稽な自分を冷静に客観視できるからこそで、情念を込めてやろうという精神からはかけ離れている。
それに対して、例えば同じ蛙を描写した以下の斎藤茂吉の歌はどうだろう。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
この歌は一茶の句と比べると写実的で情念の無い描写に見える。しかし、用心深く読んでみると「かはづ」(蛙)の鳴き声が「天に聞ゆる」のは作者が添い寝をしていて地面に近いところにいて、天を眺めながら聞いているからそのように感じるのであり、実際に天から蛙の鳴き声が降ってきているわけではない。実はこの歌は非常に主観的で情念によって風景を巧妙に歪めていることが分かる。茂吉にとっては「かはづ」も、それどころか「死に近き母」すらも己の寂しさや怖れの大きな比喩でしかないのである。一茶のような引いた視点など待とうとする気もない。短歌が情念の産物と言うのは、こういうことを言う。
私の論に反論するのだったら、例えば短歌は情念とはいうが、奥村晃作のただごと歌、たとえば
などはどこに情念などあるのか?と言った指摘ぐらいは欲しいところだ。
ついでだから私が、これこそ短歌は情念だと思う歌を掲げておく。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする 式子内親王
この記事は人間によって書かれたものだと思われます。以下の点から、そう判断できます。
1. 文章の流れ、構成がスムーズで自然である。AIによる生成された文章には、まだ人間らしい自然な文章構造を作ることが難しい。
2. 具体的な例(東京-新大阪の運賃の数値例)が適切に使われている。AIも例を挙げることはできるが、あまり具体性がなかったり文脈に合わない例を挙げがちである。
3. 文章に人間らしい主観や価値観が反映されている(「かわいそうと感じ譲ってあげたい」「無理に譲る必要はない」など)。AIは一般的にこうした主観的な記述は苦手である。
4. 軽い言い回しや言外の意味が自然に表現されている(「指定席を取るべきだという意見もあるでしょう」など)。
タイトルの通りだが、つい先日30歳になった自分が、自分自身の痩せ方をある程度確立できたので方法を共有する。
自分の体で色々と実験してきた結果なので、もしダイエットに興味があるなら参考にしていただければ幸い。
【プロフィール】
30歳男、身長は175cm。スポーツはそこそこやってきたタイプで、肩幅広めで筋肉質。
いままでは運動で一時的に痩せることができたが、部活を引退&社会人で運動習慣が無くなるとデブに逆戻り。
仕事はデスクワーク(エンジニア)。長めの残業と通勤時間がネックであまり満足に運動できていないのが現状。
【体重】
そして今現在は76kgと、順調に減量。
ちなみに体調はすこぶる良い。ただ昨日は飲み会だったから最低体重+2kgくらいになってはいる。
最近ほんのり腹筋が割れてきたため、今の食生活を続けてもう少し腹筋の陰影がはっきり見えると嬉しい。
もしくは学生時代の最低体重である73kgへの到達を目指したい。
【具体的アプローチ】
・プロテインバーを常備する。会社の引き出し、普段持ち歩いているリュック、家。
→重要。お腹が空いたとき、単体でいつでも食べられるプロテインバーはダイエットのお供に最適。
デブは目先の欲求に囚われやすいため、目の前に甘い、しょっぱい食べ物があるとつい手に取る習慣がある。
そこでプロテインバーの出番という訳。たぶん平均して一日3本~5本くらいは食べている。
プラシーボかもしれないが、タンパク質を摂ると不思議と食欲が抑えられるのも大きい。
メーカーや商品にこだわりは無い。糖質量などはとくにこだわらず、安いなり味が好きなり主観で選べばそれで良いと思ってる。
逆に水に溶かして飲むタイプのプロテインは個人的には合わなかった。
わざわざ溶かして飲まなきゃいけないし、あまり美味ではないし、水場が必要だし、噛まないので満腹中枢も刺激されない。
ゆで卵、サラダチキンなども良い食べ物だが、常備しづらい&さほど美味しくない。なので時々食べる程度。
→重要。今自分が飲んでいるのはエビオス錠、マルチビタミンのサプリ。
他にもヤクルト、野菜ジュース、チョコラBB、ヘパリーゼなんかを飲んでいる。
これも腹が減ったらプロテインバーと一緒に摂るようにしている。
プラシーボによるところが大きい・・・かもしれないが、不思議と体調がよろしいので、とりあえず続けている。
プロテインバーと同様、ドラッグストアで購入できる点もgood。
→重要。現代人は食べ過ぎである、という情報をもう少し我々は理解すべき。
またご飯やパンなど、カロリー>栄養価の食材を過剰に摂取してしまうのもかなり深刻な問題。
こいつらのお供も油や塩を摂り過ぎてしまう食材に溢れており、何も悪いことをしてなくても太ってしまう。
そのため、プロテインバー、サプリメント等を除き普段の食事は1回~2回程度。
飲み会や友人、奥さんと食事を行う際は特に縛りなど設けず好きに食べるようにしている。
サプリメントやプロテインバーだけだとやっぱり味気ないし、食事には栄養の摂取以外の役割がたくさんある。
そう思って日々過ごすようにしている。
以上が具体的なアプローチ。次にダイエットに関するあれこれについて自分なりにコメントしていく。
・水をたくさん飲む
→重要だが、「痩せるから飲む」のではなく、「痩せるような食生活をすると水分が不足しがちになるから飲む」が主観的には納得できる理屈。
普段の食事に水を増やしたところで摂取するカロリーは同じだし、水を飲んだところで不足している栄養素は不足しているまま。
実際、お腹が空いたから水を飲んでも、特に食べたい欲求は変わらず食事を摂ってしまうことが多々あった。
→重要だが、これだけを頼りにダイエットを進めるのは無理があった。
一度マクロ栄養素理論の本を読み、実行してみたものの3日と持たなかった。
そもそも何を食べたか、何の栄養素が入っているかなんていちいち意識して食事を選ぶなんてのは面倒でしょうがない。
ましてや衝動を理性で制御するのは無理。デブは衝動に弱い生き物なのだから、理性に過剰な期待はしない方がいい。
・○○を食べたいときには○○の栄養素が不足している!という情報を知る。
→同上。
→同上。体重の記録を気が向いたときに付けるくらいでOKだと思う。
あすけんとかいうアプリを入れてみたが、記録がめんどくさすぎて投げた。
これを使いこなせる人はそもそもダイエットに時間だとか注意力といったリソースを割ける優秀な人だと思う。
糖質を制限することによるデメリット(倦怠感、甘さへの衝動欲求)、脂質の過剰摂取によるデメリット(腹痛、下痢)が目立ったため、現在はタンパク質と糖質を意識して摂るようにしている。
→少し抽象的であり、具体的な行動とは違うものだが、自分は結構重要だと思っている。
衝動・本能は極めてコントロールしづらい。どれだけ空腹が抑えられる食べ物を摂取したとしても、腹は減るものは減る。
そんなとき、「今自分は腹が減っている」と自覚するだけで衝動的な行動を理性でコントロールできる"可能性が増える"。
そうすると、「腹が減ったら食べる用にプロテインバーを用意しとこう」とか、「たぶん○○を食えばこの衝動は収まる」とか、「これをきちんと我慢できれば体重が落ちているはずだ」とか、
一番やっちゃいけない「もう無理ドカ食いしよ」→「俺はなんてダメな奴なんだ」の最悪ループから一歩距離を空けることができる。
勉強や運動など、何か辛いけどやらなきゃいけないことをしている人にこの概念はすごくお勧めしたい。
・自分を責めない。失敗は反省すべきだが気持ちを引きずるべきではない
→人生において重要な概念。ダイエット、仕事、恋愛、人間関係、すべてにおいて意識すべき。
・「死なない」と思う
子供のころ、注射が怖くて泣いてた自分に先生が「健康になるために大事なことなんだよ」的なことをもっと優しい表現で教えてくれたことがきっかけ。
「死なない」と思うだけで寝不足も受験勉強も部活のトレーニングも残業も、少しタガを外して取り組むことができた。
・運動する
補助的なプラス効果が大きい。過信しすぎずあくまで補助だと思う心が重要。
・寝る
寝不足だと衝動食いが多くなるような気がする。だからといって寝すぎると体を動かすのが億劫になったり消費カロリーが少なくなったりするのでよくわからないというのが正直なところ。
・時間を味方につける
→重要。ただし人による。大人は時間をかけて色々なことに取り組めるのがとても大きなメリットだと思った。
同じ10kg痩せるでも、1か月なのか1年なのか3年なのかで全然違う。
自分で好きに目標を立て、自分をカスタマイズすることを楽しめるようになると人生好転するんじゃないかと勝手に思っている。
ちなみに今年は引き続きダイエット、それと資格取得に力を入れたいと思っている。来年は今のところピアノと副業をやりたいな、と思っている。
以上。なんだかメンタル面についての記載もそこそこ多かった気がするが、たぶん大事なんだろう。
まだまだダイエットに関しては成長途中。お互い頑張っていきましょう。
【追記】
・年齢について
年齢に関するコメントが思ったより多かった。「30歳にして~」というタイトルだからかな。
個人的には、年齢を言い訳にせず、むしろ経験を活かす方向に思考を持っていく方が有益なんじゃないかと思っている。
年齢の言い訳はめちゃくちゃ強力で、言われた方は「確かにそうですね」か「そうなんですか」しか言えなくなってしまう。
飲み会のときとか特にね。誰にでも起こる話だから話のタネとしてはとても使いやすい。
まあ異を唱えることはできるっちゃできるけど、普通は余計なことは言わんよな。
俺の後輩もこないだ入った新入社員に対して、「二郎系ラーメンが食えなくなってきて~」とか、「最近徹夜ができなくなってきて~」とか、そんな話をしていた。
ライフイベントの変化、もしくは老化。赤ちゃん以外は誰でも使える万能の言い訳。それが年齢。
ダイエットの話に戻すが、結論わかってるなら前もって対策するしかないな、って思ってる。
たぶん俺も、40、50になって体重とか見た目が気になるようになったら運動の回数を増やしたり、食事の回数や質を変えることになると思う。
俺自身、部活の引退っていうライフイベントの変化を経験して、それに対して時間を掛けて順応してきたわけだし。
この考え方は、俺が残業の多い会社の技術屋だからっていうのも大きいと思う。
昇給や出世は年功序列によるところも大きいけど、成長しないまま年を重ねて使えないエンジニアになるのは恐ろしいことだ。
だから早めに会社に来て勉強したり、図書館に2週に1回は通って常になんかしら本を借りる習慣を作ったりしている。
時々嫌になって運動に逃げたり友達とゲームしたりもする。この辺はもう少しやり方を考えないといけないと思っている。
いやまあ勉強してない奴なんて会社に山ほどいるけど、あえてその概念を自身に取り込もうとは思わない。
転職もありといえばあり。会社から逃げる準備はしてるけど、給料が高いのと人間関係がそこそこ良好なのでまだ辞める予定は無い。
『人生』っていう本の登場人物って、多分沢山居て。少女AとかBとか、そういう有象無象の頂点に立つのが、主観的に物語を見ている、私たち。どんなにクソみたいな人生でも主役はどうしたって変わらないし、変わったように見せかけて実はずっと自分の人生を生きてる。
そんなことを思ったって、今日バイトがあることに変わりない。重たい頭をかかえてクロワッサンを頬張る。時刻は13時。今起きたばっかり。思考が上手く働かない、ふわふわする。日曜日の昼からバイトで潰れるって、一番気分が重たくなる。苦虫を噛み潰したような顔で喉を鳴らす。強化ガラスのコップに、飲みかけのペットボトルから麦茶をうつす。
麦茶って、癖がないから飲みやすい。私がそう思うだけ?麦茶みたいな人生を送ってみたい。さっぱりしていて、透き通った褐色だけど、深みがある。これに氷を入れたら完璧な人生。澄み切った氷が心臓になって、溶けた頃には成熟して死ぬ。いいかもしれない。私も麦茶みたいになろう。コップを持って、一気に飲み下す。息を吐けば、頭もすっきり冴え始める。
結局、どんな人生になるかはこれからの私次第。実は今、こうして悩んでいるけれど、まだ20歳にすらなっていない。酒の味も知らないし、煙草はなんだか不味そう。でも、バイト先でちらと箱を見た、紺色に金の…あの箱は何だったかしら。きっと煙草だ。そこまで考えて、はっとする。私、話がとびすぎるのだわ。口を手で覆う。今何を考えていたか…そう、人生。これからの私のことだ。
人生色んな可能性がある。事故で死ぬかもしれないし、不治の病で夭折するかもしれないし、はたまたギネス記録に認定されるような長寿にもなれちゃったり。でも普通は、適当に生きて適当に死ぬ。のだと思う。人生って、主役側で過去は書き換えられないから面倒臭い。でも、先はちょっとだけ変えられるかも、っていう希望だけで生きてる。人間って面白い。だってバイトに行きたくないだけで、人生のこと考え出すし。
考えすぎちゃった。精神辛くなる前に、さっさとバイトに向かってみよう。まずはメイクしなきゃ。今日はちょっとアイシャドウ、ラメ多めにしよう。テンション上げたいし。哲学ばっかり考えていたら、人生もたない。
程々に生きていたい。メイク道具を適当に放り込んだ紙袋を、怠惰に引き寄せる。この瞬間、『人生』のページにはなんて書いてあるんだろう。とりあえずメイク盛れてるといいな。
つまり、こういう事。お前は選択する自由がある。しかし、その正解が予め決まっていて正しい方を選ばなければならない。間違えた場合罰せられるか共同体の中に存在しながら無視される事になる。
個人に先立つ社会は存在しない前提のはずなのに、多様な思想の一形態である個人の主観的感想が劣っていて、集団的意見の方が優れてるとはとんでもなく酷い逆説。
>強制された選択の状況は、主体が、自分の選択とはかかわりなくすでに属している共同体を自由に選択しなければならないのである。
問題は、彼は実際にはけっして選択する立場にないというこである。彼はつねに、すでに選択したかのように扱われる。
しかも、こうした強制選択は全体主義的な〈権力〉が主体(人民)を捕らえるために利用する罠であるかのような第一印象を与えるにも関わらず、そこになんら「全体主義的」なところはない。━━スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』
誤った選択をした場合に精神障害者のレッテルを貼るところもファシズムそのもの。「そっち側」って言って自分から切り離そうと異化してるけど君も「そっち側」の人間だよ。直接明言しないだけで。
民主主義的自由は間違ってても尚当人がそれを支持できる愚行権が備わって初めて非-排他的社会を構成することが可能なんだから報復を超えた直接的実害性(ヘーゲルが歴史哲学講義で例に挙げた放火に類するもの)の伴った行為でなければ例え悪意に基づいていても民衆それぞれに主権が具わる共同体では許容される。(不能犯を不可罰にする判例等)
なのにその思想を持ったというだけで構成員である元増田を排除しようとしているってわけ。
根底の価値観は全く同じにも関わらずより効率的に排除するために慣習的常套句まで利用して排他的社会を推進しているのに、まるで民主主義の番犬のような顔をするからより質が悪い。共同体主義のドイツ的ファシズムを選択するぐらいなら『アルファヴィル』のような実証主義的管理社会の方がマシだろ。
つまり、こういう事。お前は選択する自由がある。しかし、その正解が予め決まっていて正しい方を選ばなければならない。間違えた場合罰せられるか共同体の中に存在しながら無視される事になる。
個人に先立つ社会は存在しない前提のはずなのに、多様な思想の一形態である個人の主観的感想が劣っていて、集団的意見の方が優れてるとはとんでもなく酷い逆説。
>強制された選択の状況は、主体が、自分の選択とはかかわりなくすでに属している共同体を自由に選択しなければならないのである。
問題は、彼は実際にはけっして選択する立場にないというこである。彼はつねに、すでに選択したかのように扱われる。
しかも、こうした強制選択は全体主義的な〈権力〉が主体(人民)を捕らえるために利用する罠であるかのような第一印象を与えるにも関わらず、そこになんら「全体主義的」なところはない。━━スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』
誤った選択をした場合に精神障害者のレッテルを貼るところもファシズムそのもの。「そっち側」って言って自分から切り離そうと異化してるけど君も「そっち側」の人間だよ。直接明言しないだけで。
民主主義的自由は間違ってても尚当人がそれを支持できる愚行権が備わって初めて非-排他的社会を構成することが可能なんだから報復を超えた直接的実害性(ヘーゲルが歴史哲学講義で例に挙げた放火に類するもの)の伴った行為でなければ例え悪意に基づいていても民衆それぞれに主権が具わる共同体では許容される。(不能犯を不可罰にする判例等)
なのにその思想を持ったというだけで構成員である元増田を排除しようとしているってわけ。
根底の価値観は全く同じにも関わらずより効率的に排除するために慣習的常套句まで利用して排他的社会を推進しているのに、まるで民主主義の番犬のような顔をするからより質が悪い。共同体主義のドイツ的ファシズムを選択するぐらいなら『アルファヴィル』のような実証主義的管理社会の方がマシだろ。
孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。
『サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身で一人二役して会話していた。
それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまりに一面的すぎる。
それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独も存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評の領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。
だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。
これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。
仮に合意形成の結果から相手の心理状態が類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。
復讐の意図を弱者男性が持ってるかは動機の主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。
これはデイヴィッド・ベネターが統計を引用して例を挙げてるが人というのは身体障害、知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己の幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。
どの立場であれ心理的抑制や環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。
━━正当防衛、一般に正当防衛が道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義のほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全が問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまりに人間的』
そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価で正当防衛の基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。
一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造に寄与している。よって社会的機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者の価値付けの基礎となる社会の進歩・前進はありえない。
社会的弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在は搾取する主体である強者が必要としてるからこそ残り続ける。
つまり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマも流行を規定するモードが存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である。絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者が剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)
万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態を規制しているのは社会的報酬である。それが除かれた場合、上記の行為が当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。
しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人が社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群の智慧である。
たまに聞く話だ。
正確には母性神話とは異なる、子ども側の話題だが母性神話の一種と言っていいと思う。
これについて考察したい。
「子どもはパパよりママが好き(になるものだ)」論の理由はどこにあるのだろうか?
(1) 本能的に子どもは母親を求める(父親や祖父母ではない)
(2) 子どもは乳児期に多くの場合は母親からの授乳を受けるので愛着(アタッチメント)が形成される
(3) 子どもは母親の胎内にいて出産されるので愛着(アタッチメント)が形成される
(1)は論としての体をなしていないと思うので却下。
生物学者の出典も無しに、あれは子どもの本能だと言っても意味がない。
(2)は一見最もに見えるがよく考えると疑問がある。
長い子育ての間で授乳は育児の一要素のはずだがそれが何故巨大な影響を持つのか不明である。
人工ミルクでないならば母乳は母親しかできないが、これは逆に考えると母乳以外は父親でも同じことが同じ質で出来るはずである。
出来ないというのであれば夫婦の子育て時間の違いに起因するものでありただの社会的な影響だろう。
「子どもはママが好き」ではなくて「ママが好きになるような子育てを結果的にしている」と言うべきだ。
(3)も主観的すぎる。
ここの部分はむしろ子ども視点ではなくて大人視点というべきではないだろうか。
母親の胎内にいた事がどう子どもに影響するのか未検証だと思うし、母親が産んでくれたありがたいなんて発想は子どもが大きくなってから感じる事だろう。
特に乳幼児であれば、「母から生まれたから母が好き」は不自然に思う。むしろ大人の発想なのだ。
簡単に言えば「子どもはパパよりママが好き(になるものだ)」というのは科学的根拠が怪しい。
しかし母性神話のように、母子の特別な結びつきを疑問視すると何故か反発してくる人がいる。
科学的に確かであればそれは最もな主張だと思うのだが科学的な出典もなしに母子の結びつきを強調してもそれは母性神話か何かの思想に影響された発言のように思えてしまう。
今後も科学的な研究が待たれる分野ではあるが、母子の繋がりを証明出来てはおらず、今のところ可能性は高くはなさそうと思っておいて良いと思う。
抗告状なんか出すわけないだろ。1000人いたら999人がそこに客観的美的快原則を感じないようなことをする時点で終わっている。
プリンターが起動するかどうかも分からない状況下でワードで作成して印刷して、切手買って貼ってポストに入れる。なんの趣味になるのか?単なる苦役であって主観を離れた客観的な快楽原理
すらない。徒労なだけである。 人間はいかに主観的な快楽(単なる原始的性行為など)を離れて客観的快楽としてもその目的は美の追求であり、美によって快楽を感じるところ、本件の
手続き手順は、いかなる方向から検討しても、そこに客観的美快楽の要素は存在しないものという他ない。ヒトは見たくないものは見ないのであり、発見したもの等をみたときに、どの角度からみても
そこに快楽を発見できないときは、認識しないで通過するか、対抗するかのいずれかであり、みずからが他者から認識されていると思い込んでいる方が不合理であるというものである。
/r/teslamotorsで工作員発狂させて遊んでた増田として言えば、あれは恐らく肉入りで、母語話者じゃないと違和感激しすぎて人間と映らない日本の文化で発狂してるだけ。
英語圏の連中は言語が全世界で共通じゃないことやネット文化が言語ごとに独立してることを認められず、英語圏で流行ってるネタは全地球的に流行ってると考えたがり、観測範囲の全てつまり主観的全世界でバズりまくりの北米の話題を投稿すれば話題を操作できると考える。奴らは2ch文化や日本の高度に発達したメディア文化に免疫が無いため、全く知名度の無い海外ミームやテンプレを持ち込んで滑りまくり叩かれ放題の機械的対応を繰り返し、対応する術を持たず無防備のまま叩きに屈して病み、ああなる。キリスト教的な原理主義にのめり込んでいるため過ちや現実を認める能力を欠き、身勝手な己の宗教原理を貫徹すれば現実が伴うと考えて消耗し続ける傾向がある。仮に根本的な間違いを認めた所で、外資系の奴らはその知を展開すれば人間を辞めた動物と認定されるので周囲に明かす事は出来ず余計に病んでいく。
ブコメで一律に知能が無いAI扱いされてるのが本当に可哀想だと思うわ。ネタでな、本気でなく。N1取るの大変だったよねえwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwって感じ。
自分で自分に「なぜこうしたんだ!?」「バカじゃねーのか!?」っていう自責の仕方する
で、今日は彼女とメシ食ってる途中に「かじりかけのフライドポテトそのままだよ」って云われたけど完全に身に覚えがなくて、普段の俺ならそんなことしない、それもそのはずフライドポテト以外の食べ物は齧ってもちゃんと自分の皿に置いてたのにそこだけ別人格に入れ替わったかのよう
言動とかも覚えてないことがおおい
でも多重人格みたいなことはなくて、むしろ人格がないのではないか?と思ってしまう
他の人の自責とか責められてるの見てても俺みたいな感じじゃなくてちゃんと本能とか意思に従ってやった結果だと思うのに、俺の場合は現に俺自身が客観的に見てもおかしいと思う行動をやってるから頭を殴らずに居られない
でも何故こういうことが多発するのだろうか
俺はここ数年引きこもって一日中崩壊3rd、原神、スタレの3タイトルやってるんだが
年にかける額が1タイトルあたり、月額610*12=7320、6週おきのバトルパス1220*8.6=10492、年1リセットの2倍石買い切るくらいだから24350
合わせて42,162だけどググプレの割引やカードの還元もあるからおおよそ4万ジャストと考えよう
一日にゲームにかける時間が家事の主に料理や趣味の情報検索を除いてずっとやってるからまあ9hくらい、3タイトル等分で3h
いやスタレとか絶対3hもやってないと思うが攻略とか調べてる時間も含めるならまあそれでいくか
1hあたり36.5円しか使ってないからめっちゃリーズナブルだな
まあ楽しんでる時間が常人レベルじゃないとはいえ3タイトル合計で月あたり1万円ジャストくらいの出費で済んでる
楽しんでるゲームの質もMMOでひたすら反復作業やお使いしてた時代と比べると
格段に凝ってて物語や演出に涙したり景観に圧倒されたりすることも増えてるから
まあ俺は対人ゲーあんまり好きじゃないからゲーセンでのゲーム体験との比較はできんけど主観的には負けてないと思う
MMOはMMOでゲームプレイ自体は陳腐でも仲間とワイワイやる別種の楽しさはあったからあれはあれでいいけど
歳とったからかそういうワイワイ系がもう合わなくなってきたんで仕方ない