はてなキーワード: テーブルとは
プログラマだけど、これに関していつも思うのはそもそもプログラミング言語が英語ベースなのがよくないということ。
機械語が人間にわかりにくいから自然言語をベースにしたんだろうが、そうじゃなくて「人間にわかりやすい機械語」を開発すべきだった。
自然言語だとどうしても害しかないイレギュラーな文法の弊害に遭う。たとえばモデル名は単数形・テーブル名は複数形みたいな規約が多いけど後者は単語によってsだったりesだったりそのどちらでもなかったりとルールが違ってややこしい。その辺自動で生成してくれるフレームワークとかあるけどそのためにわざわざ不規則変化する単語の辞書持たせてんだぜ。そもそも単数形・複数形って何だよそもそも言語に必要なのか?日本語にはないぞ。
こういう自然発生した事故みたいな自然言語のクソ仕様に振り回されながら機械に指令を出すってアホらしくない?俺はもう老害だから若手はこの辺21世紀内に解決しろよ。
Twitterより
「あ…水でいいです」というお客様に「有料ですがよろしいですか?」とお尋ねしたら「は?水にお金取るの?」と言われました
高いものをオーダーして下さいとは言いません
バーに来たならば何かドリンクをオーダーすることが店への最低限の敬意でありそれすら出来ない方はすでにお客様ではありません— Cafe&Bar DINGO (@dingo_kobe) April 21, 2019
テーブル席に座られた3名様のうち2名様です
「お飲み物は?」
「あ…水でいいです…あとガーリックライスできますか?」
という流れです— Cafe&Bar DINGO (@dingo_kobe) April 22, 2019
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他の人の言及に、焼肉?ジンギスカン?をガッツリ食べようとしている、バーのテーブル席写真
カウンター席しかない狭い店ならともかくテーブル席もあってガッツリ食事もしてる店で料理と水の注文が許されないのは違和感感じますね。
お酒を頼むのが店のルールだとしたら(ルールがマスターの頭の中にしかないとしても)ワンドリンク注文お願いしますの一言で済んだと思います。 pic.twitter.com/XpWFOHnWEQ— うどん (@6HiX75PnI4O8j0H) April 23, 2019
他の人の意見
100歩譲ってその客が常連で、毎回酒飲まずに飯だけ食ってて文句言ってるならまぁーわかる
それでもおかしい話しだとは思うけどw
もしあなたが初めて来た客に対して水は有料になりますがよろしいですか?なんて言ってたら完全なるサイコパス— 🇯🇵ちゃんずまつのり🍣 (@MATSUMOTOKUUN) April 23, 2019
フレンチ・カンカン、というかラインダンスとの出会いは、おそらくは文明堂のCMだ。それから「ドレミファソネットどしたらできるの」で有名なso-netのCMだ。なぜかこのCMではおじさんの脚線美を見ることになるのだがそれはさておいて、Youtubeで検索すると今でも天国と地獄に合わせて踊る動画を確認できる。
本題に移ろう。Can-can dressについてはウィキペディアではおおよそこのように述べている。ドレスは基本的に何層にもなった大量のフリルがついていて、当時の下着の上に縫い付けられていた。脚は黒いストッキングや網タイツで覆われていた。つまり、レオタード姿のソネットのCMはフレンチ・カンカンではないのである。足の動きの速さからしてまるで違う。
衣装ではなく、カンカンダンスそのものについては、日本語版のウィキペディアと英語版のウィキペディアで書いてあることが若干違う。おそらく英語から訳したときの版が違うのだろう。
両者の記述を比べてみたが、フレンチ・カンカンにおける見せパンの起源はかなり曖昧らしい。足を思い切り上げてスカートの中が見えてしまう動きは、ショーの場では1820年代にアクロバット的な動きで知られるCharles Mazurierがバレエの大開脚を取り入れたことにさかのぼるようである。初期のダンサーは娼婦やセミプロの役者だけであったのだが、1890年代になるとムーラン・ルージュではトゥールーズ・ロートレックの絵で知られるLa Goulue(食いしん坊さん、的な意味)やJane Avrilなどの高給を取るスターが生まれた。La Goulueのページでは当時の衣装とセットの見せパンが確認できる。これらのスターの生活は華やかだが晩年は不遇であることもあった。この二人もビジネスの失敗や大恐慌で財産を失い、寂しく亡くなっている。
さて、カンカンは足を高く蹴り上げるので、当然スカートの中身が丸見えになる。しかも、それや当時としてはよりスキャンダラスであった。というのも、当時の下着であるpantalettesは衛生上の理由からクロッチ部分が開いていたからである。要するに性器が丸出しになるわけである。もっとも。そのあとにこんな記述がある。カンカンのための特別な下着を用いていたという記録はないが、ムーラン・ルージュでは下着の露出は禁じられていたことになっていた、と。どうもこのあたりの記録は曖昧というか[要出典]をつけたくなる箇所が多い。ウィキペディアは普段は自然科学の記事を読むことが多いが、そこよりも曖昧な記述が多い印象だ。文体もなんだか違う。
ところで、今のフレンチ・カンカンとして知られる、大人数の女性が10分以上高度な振り付けを続けるスタイルは、1920年代にアメリカで人気が出たスタイルを逆輸入したものでそうである。
実際、19世紀末からに20世紀初頭にかけては女性の脚部を見せるということでかなりスキャンダラスなものとしてみられていた。また、陰部を覆う白い生理用(?)下着と黒いストッキングの対照もエロティックだとして見られていた。さらに、体を折り曲げてスカートを後ろからまくり上げ尻を見せる動作もあったという。先述のLa Goulueはこの芸で知られていたとのこと。また、前の席の客の帽子を蹴り飛ばすほど近づいて、スカートの中身を見せることもあった。もっとも、顔を思い切り蹴られる危険もあったのだが。
結論から言うと、当時のフランスに見せパンそのものであったかどうかはわからないが、パンツが見えることは覚悟の上だった、ということになりそうだ。女性器が見えていたかどうかまでは根拠が怪しい。もっとも、今ほど表現が自由でなかった当時のこと、そんなことを文学や絵画で記録に残せたかどうかは怪しいものだ。ちなみに女性器を堂々と描いて当時の偽善的風潮に反発したクールベの「世界の起源」が1868年、ヌードでスキャンダルを生んだ「草上の昼食」が1863年である。
パリにはいくつも有名なキャバレーがあり、それは近現代の芸術や芸能に多大な影響を与えてきた。たとえば、ムーラン・ルージュで活躍した人物としてFrank SinatraやCharles Aznavourがいる。それらのすべてをここで述べるのは大変なので、地球の歩き方に広告が載っていたと記憶しているものをピックアップして簡単に述べる。子どもの頃、トップレスの女性が旅行ガイドに載っているのを見てドキドキしていたものだ。もっとも、その女性の姿はせいぜい五ミリくらいの大きさしかなかったのだけれども。
学生時代にパリを訪れたときには、そこには寄らなかった。一日中美術館で過ごしてぐったりしていたし、まだ女性経験がなくて図々しくなれなかったからだ。今となってはいい思い出である。
赤い風車で名高いキャバレーで、ここを舞台にした映画は数知れず。トゥールーズ・ロートレックの作品群でも有名。著名なダンサーも多く、全員を紹介するのはとても無理だし、別のキャバレーにも出演していて、キャバレー別に紹介するとややこしくなるので端折る。
ところで、ウィキペディアだけからはヌードがどの程度ショーに盛り込まれていたかはわからないが、1893年の舞踏会に裸の女性がいたことがスキャンダルになったそうである。なんでもヌードモデルが活人画として周囲を歩き回り、裸の女性が深夜にテーブルに立っていたとのこと。一方、英国の劇場のように活人画、すなわち生きた人間で絵画を再現する目的としてならヌードは猥褻ではない、という意識もあったようである。例えば英国では劇場にヌードが現れたとき、当局が1930年代に裸の女性が動くことを禁じた。この禁令をかいくぐるために、モデルたちは活人画のように止まったままとなった(ストリップの記事を参照)。また、戦後日本でも「額縁ショー」と呼ばれるストリップのさきがけのようなものがあった。動かなければ猥褻ではないという謎理論がまかり通っていたのである。当時のGHQが何を意図していたのかはよくわからない。
これまたよくわからないのがゾラの1880年の小説「ナナ」では、ヒロインがヴェリエテ劇場でほぼ全裸を披露して観客を魅了するという場面があるのだが、実際のところどうだったのだろう? 本記事はカンカンについてなので劇場のヌードについては語りつくせないので、今後の課題としておきたい。
1889年開業、1915年に一度焼失するも再興し、ドイツ占領時代にも営業を続けて今に至る。
モネの絵画、「フォリー・ベルジェールのバー」の舞台としても知られる。また、黒人系の女性Josephine Bakerが活躍したキャバレーとしても知られる。バナナ型のスカート以外はほとんど身に着けていないエキゾチックな姿がオリエンタリズムの流行した当時ヒットしたのだが、後にその恰好が人種差別的だとされるようになり、そこからネグリチュード、黒人意識の発展にも寄与した。また、彼女は黒人の人権活動家としても知られている。最近、グーグルが彼女の生涯を記念するドゥードゥルをトップにした。
1869年に開業、1872年に今の名前になる。けばけばしい衣装で知られ、時としてヌードも披露されることで知られる。
映画「ファイアbyルブタン」で有名。セミヌードを含む映画の公式予告がyoutubeに上がっている。身体をやわらかな特殊素材のように扱ったショーは性欲やエロスの向こう側に行ってしまっており、すごいものになっているとしか言えない。リンクを貼ったら怒られそうなので検索してください。もちろん、そこまで独特なものではなく、もっとわかりやすいショーもある。
ユニークなのはそのショーの一部をyoutubeの公式チャンネルで公開していることだろう。かなり古い白黒のものまである。それと、公式ホームページ見ていたら驚いたのだけれども、リド自体には12歳以下の子どもでも入場できるそうである。ヌードやトップレスがないショーならOKなのか、それとも芸術のヌードならOKなのか。フランス映画、年齢制限がないやつでも割と普通におっぱい出てくるし、表現規制の国ごとの温度差を示す実例であるのかもしれない。
1946年開業。1920年代の人工的な砂浜をその前身とする。
「ストリップティーズ」の項目によれば1960年代に全裸のショーが行われた、とある。
現に、創業者であるアラン・ベルナルダンは芸術性を伴った女性のヌードショーを見せるという着想に至ったそうで、要するに最初から全裸である。
とはいえ、ただの全裸ではなく、巧みな照明技術により女性の裸体をキャンバスのようにとらえ、万華鏡のようなカラフルかつシャープな模様をダンサーの肌に映し出していることに特徴がある。ただ脱いだだけではないそうだ。1951年開業。
天国と地獄の曲を初めて聞いたのは文明堂のCMと、音楽ファンタジーゆめでだ。後者はCGの黎明期であったせいかサイケデリックな表現が多く、当時の感覚としても幾分薄気味悪いと同時に、今から振り返ってみると技術の未熟さ(失礼!)から来るアルカイック芸術のような独特の魅力があったように思われる。
ところで、この曲は地獄のオルフェとしても知られている。タイトルからすると、ギリシア神話のオルフェウスが死んだ妻を冥界から取り戻そうするとする話のはずだ。なのに、なんでこんな軽快な曲なのだろうと思って調べたら、ギリシア神話のパロディ的なオペレッタだからだそうだ。なるほど。
こうしたレオタード姿のラインダンスはカンカンではないと述べたが、それではこれはいつからあるのか調べたい。おそらく日本国内では宝塚歌劇団と関係している。また、バーレスク的なものとの関連について知りたく思う。そもそもバーレスクとは何か、僕はよくわかっていない。日本語版のウィキペディアのバーレスクの記事には、乳首と陰部に前貼りを貼っただけの姿でパフォーマンスをする女性の写真がある。リンクは張らないが、鍛えられたきれいな体だなあ、僕も筋トレ頑張らなきゃなあ、とは思う。しかし、欲望はそこまで感じなかった。隙がないのである。
先週末、居酒屋で隣のテーブルで恋愛トーク的なことをしていた。
他人の話だし断片的にしか聞いてないからよくはわからないが、30歳前後の女性に男性の後輩(20代前半かな)が
相談しているような感じで、後半からなんか先輩からの説教みたいになってた。
女性先輩の方の声が結構シャキシャキして甲高い感じなのでめっちゃ声が通って聞こえてくる。
その状況がすでにいたたまれないんだが、その説教の内容がだいたいこんな感じ。
・「女性は性欲を全員有しているが、言わないだけ」
・「性同意を取ろうとしても女性は本当の事なんか言うわけないので、男性側が迫る必要がある」
それを熱心に聞いていた後輩男子は、今後どういう行動をとるのだろうかに思いを馳せて、
「女の敵は女」なんてのも存外本当なのかもしれないな、と少しため息が出た。
夫が天気の子のDVDを買って持っていた。夫は映画館で一度観てるらしい。せっかくなので一緒に見た。今更ながらに初めて天気の子を見る。
家のテレビは夫が独身時代に買ったもの。音響設備も夫が買ったもの。ソファ置いたテレビ部屋は夫のこだわり部屋だ。ほとんど使っていないので自分はいらないと思うが夫は譲らず。まあ、今すぐ空き部屋が必要なわけでもない、と流してた。
で、天気の子。
見た。映像は綺麗だった。あちこちに出てくるリアルの景色やら商品なんかが身近で面白かった。が、映画のストーリー自体は凡庸に思えた。わかりやすい青春譚、初々しいラブストーリーを楽しむにも、ちょっと共感度が低かった。家出少年保護のために主人公達を捕まえに来ている警察・大人を相手に主人公達が大立ち回りするシーンなんかは、大人側の視点で見て白けてしまった。子供を守るために働いている人たちを相手に、独りよがりの正義感で暴力振るって逃げ出して大人は分かってくれないとばかりの感傷ぶちまけて。迷惑で恥ずかしいったらない。
と自分はそんなことを思いながら見ていたのだが、夫は嬉しそうに見ている。見ていた。ので見終わってからの感想に困った。
夫が好きで買った作品なのだしと思い、なるべく褒めようと思うのだが、どうもうまく褒められない。絵が綺麗だったね、実在の景色とか物とか出てきて面白かったしリアリティあったね、若者がデートで見て楽しめる良い映画だね、などなど。でもあれこれ言ってたら、評論家か、と夫からは言われてしまった。うまく褒められなかったようだ。
じゃあなんて言うのが正解だったんだよ、とネットでレビューを読んだ。映画館の大画面と音響で楽しむのが良いとのレビューや、ストーリーは前作と比べて浅いというレビューなどあり、自分の感想もそう外れてなかったんだなとは思った。夫もストーリーは鉄板だから、と言っていた。じゃあなんて感想すべきだったのか。
有機なんちゃらだから黒が綺麗に黒いよ、と夫はテレビについて言っていた。夫は見ている途中でスピーカーを調整したりもした。夫はテーブルの上のゴチャゴチャも視界に入ると片付けた。…
おそらく
すごくきれいな絵で素敵な映画だったね、おうちの大きなテレビと音響、ソファのお部屋で、映画館みたいに楽しめたね!とっても楽しかった!
より正確に言うと、一度提示された金額は世界がひっくり返っても不変だと信じてるって感じだけど、海外で勤務してるとホントだなぁって思う。
現地企業なんてのは成長著しいアジアでも成熟している欧米でもとにかく追加で必要になったコストは顧客に還元しようとする。
だって健全な範囲でインフレしてるから。モノもヒトも、家賃だって年に数パーセント上がったりする。
その上で現地の会社もしっかり採算を厳しく見てるからこそ値上げしたり、追加発生したサービスやら工数やらにはしっかり請求に反映させる。
だけども日系企業は一度提示されたコストが変わるという可能性を頑として受け入れない。
いや、そりゃコストが上がることを喜ぶ企業は少数派だが、マーケットの変動も含めたカントリーリスクを事業として背負うということをせず、口を揃えて「日本の市場は特別だから」とか「日系企業は厳しいから」と言う。
でもそれは、単に本土でのお客様気分に守られてるから、もっと言えば甘えてるからじゃねぇのかなとも思う。
今だって中国とかがいるけど、この先もっと金払いが良くて、注文もうるさくなく、何かあった時にしっかり協議のテーブルについてくれる新興国がバカスカ出てきたら、一体誰が日系企業の相手をしてくれるんだろう。
でもなぁ、そう言う俺だってその末端なんだよな。
私も今は暮らしてないけど実家がゴミ屋敷で片付けると母が怒ってしまうから困ってた。
テーブルや床には紅茶のパックとか色んな紙ゴミが散乱してて片付けると「あれは大切なメモ用紙だったのに!」食器洗いしても風呂掃除しても「私に対する当てつけか!」
なので床はよくわからんほこり、菓子クズ、壊れた道具、雑誌、ビニール袋(買い物したら物を冷蔵庫とか定位置にしまうじゃん。あれをやらないで必要なときに袋から出すわけよ。)だらけ、流しにはウジが湧いてるし冷蔵庫は生ゴミ入れだし風呂場は黒カビびっしり洗濯物は何年も洗われず山積み。あと廃車同然の車もあってさー。あれらを親の死後に片付けるとしていくらかかるんだろ。鬱!
しかしああいう家に住んでるとすべてがどうでもよくなるね。やる気なんか出ないわ。
増田風呂入りたくないのもたぶん風呂場が汚いからっしょ?私はもう風呂カビと心が共生しきってたから別に平気で入っていたが〜。
いやーしかし、こういうところから出る方法が今ん所就職か結婚しかないのまずい。
今日の帰り道、長い塀とその中にある高い木々に囲まれた屋敷を見かけました。随分昔からあるような雰囲気でした。大きな門のところにはぴかぴかの監視カメラがあって、そこだけちぐはぐな感じがしました。
私は散歩が好きで、気がつくと三時間くらい歩いていたりします。この街はくまなく歩き回ったと思っていたのですが、まだ知らない場所があったみたいです。こういうことがあると、物語の中に入ったようで少し楽しい気分になります。ここはそんなに大きな街ではないので、もう何ヶ月かしたらきっと、本当に行ったことがない場所などなくなってしまうでしょう。そう思うと少し残念でした。その時が訪れたら、人に迷惑にならない程度に少しばかり酒に酔って散歩するのも良いなと思いました。そうして、意識がはっきりしていない状態で歩き回ると、「猫町」に出てくるような遊びができるかもしれないと考えました。
小説といえば、昔に村上春樹の小説を夢中になって読んでいたことがありました。近頃はあまり読まなくなってしまったのだけど、日常から非日常へとシームレスに暗転していく感じが好きで、今でも地下鉄に乗っている時や、古いホテルの長い廊下を歩いている時などに小説の情景を思い出します。
どうして村上春樹のことが頭に浮かんだかというと、今横を歩いているこの立派な屋敷は「1Q84」に出てくる篤志家の老婦人が住む家の描写に似ていたからだと思います。塀の中にはほうれん草が好きなドーベルマンや、隙なく鍛え上げられた肉体を持つガードマン・タマル氏がいそうでした。思わず空を見上げましたが、月は一つしかありませんでした。
小説の内容は断片的にしか思い出せませんでした。ただ、タマル氏が語った木彫りのネズミを作る少年の話ははっきりと記憶しています。その少年はタマル氏が育った児童養護施設にいて、ネズミを彫ることの他に何もしませんでした。少年がネズミを彫る情景は、何故かわからないが心に残っていて、それは自分にとって大切なもののように思える、というようなことをタマル氏は言っていました。それが彼の心象風景なのだと。
1Q84を初めて読んだときのことはよく覚えています。お金がなかったので本は買えず、図書館はずっと予約待ちでいつ読めるかわからず、でもどうしても読みたかったので、きっと責められるのでしょうが、隣町の図書館に行った帰りに本屋で立ち読みをして少しずつ読み進めたものでした。
その当時の私は、失意のどん底にいました。大学受験に2回も失敗したのです。高校を卒業して就職し、少し経って色々なことが見えてきて、大学に行きたくなって、仕事をしながら受験勉強をしました。そして失敗しました。頑張って溜めたお金もどんどんなくなって、やっぱり自分は馬鹿なんだ、甘かった、叶わない夢を見ていたのだと思い知らされて、本当に惨めでした。それでも諦められなくて、図書館の自習室に通って勉強を続けていました。
そんな折にウッカリ病気になり、入院して手術を受けなくてはならなくなりました。高額医療なんとかという制度でかなりの額が戻ってきたのですが、それでもやはりお金は減るし、大部屋だったので周りの病人になんやかんや干渉されるし、古い病院なので暑くて臭いし、とにかく最悪でした。
その日も最悪な気分でした。手術で受けた傷が痛みました。術後から数日間しか経っておらず、しばらくは風呂に入れないでいたので、自分が臭いのがわかって辛かったものです。
気分転換でもと思って院内を散歩しているうちに、見知らぬ病棟に入り込んでしまったようでした。エレベーターで一番上まで上がると、屋上に続くドアを見つけました。
屋上には誰もいませんでした。洗濯されたシーツがはためく耳障りな音と、やかましい蝉の声だけが聴こえました。季節は夏で、真っ青な空と真っ白な雲のコントラストが憎たらしいと思いました。しかしながら病院の屋上というのはなかなか絵になるもので、まるで自分が小説の中に入り込んだような心持ちがして少し気が晴れました。ですが、そんな雰囲気で柵に凭れたら、熱された金属が肌を焼いて飛び上がり、格好が付きませんでした。ため息をついてふと見下ろすと、ある病棟の窓から内部が見えて、目をこらすと病室から廊下に棺が運び出されているのが目に飛び込んできました。
私はますます憂鬱になりました。それで、とぼとぼと病室に戻ると、点滴を引きずりながら歩いたせいで血が逆流してしまったらしく、看護師さんに怒られました。
落ち込みながら、歩き回って汗をかいたので着替えて、脱いだTシャツを流しで洗濯していると、明らかに大掛かりな手術をしたと思われる包帯ぐるぐる巻きの人がやって来ました。その人は壺のようなものを重たそうに持ってよろよろと歩いていて、とても怪しい人物のように見えました。それを流し台に置いて居なくなったかと思うと、しばらくして綺麗な花束を持って戻ってきました。壺ではなく花瓶だったのかと私は思いました。
その人にとって、かがみこんで花を花瓶に入れることも、蛇口をひねることも、そしてその後に運ぶことも難しい状態に思えました。普段は、困っている人に親切な行為をするのに随分勇気が要るのですが、その時は反射的に声をかけることができました。
病室のテーブルに花瓶を置くと、その人は小さな板(何回でも書いて消すことができる子供用のお絵かきボードがありますが、それに似ているものです)のようなものを取り出し「ありがとう、とても助かりました」と書きました。そして、手術をしてもう喋ることができないのだと続けました。私はその時初めて、その人が今まで一言も発していなかったことに気が付きました。
私は何故かその瞬間、自分を恥じました。しかし、そう思ったこと自体もその人に失礼で、恥ずかしく思いました。
視線を落とすと美しい紫色の花が目に飛び込んできて、見たことがない花でした。とても綺麗な花ですねと私は言いました。
その人は花の名前を教えてくれました。名前は聞いたことがありましたが、こういう見た目の花ということは知りませんでした。
そう言うと、好きな花なんです。母が持ってきてくれた。と答えました。
それからもう10年が経ちました。あの夏を過ごした翌年に、私は何とか滑り止めの大学に合格しました。その後、機会にめぐまれて、大学院にまで進学することもできました。いわゆるロンダリングです。恥を忍んで正直に言うと、大学に入るまで大学院を存在することを知らなかったので、それを初めて知った時はなんだか謎めいた機関のように思えました。周りに院を出ている人などいなかったし、そもそも大学を出ている人も多くはありませんでした。今では、本の奥付に書かれた著者のプロフィールにX大学大学院X課程修了などと書いているのが目に入るようになりました。昔から色々な本をたくさん読んでいたはずなのに、きっと見えていなかったのでしょう。
20代前半で初めて東京に出てきて、育った環境の違いに打ちのめされたものでした。中高一貫の学校出身の人々に囲まれて、私が初めからこういう場所で育ったならどうなっていたかなと考えましたし、今でも考えます。奨学金の残りの返済額に憂鬱になることもしょっちゅうで、そういう心配がない人はいいなと思います。進学してから変な経歴を笑われたこともありましたし、ロンダだと陰口を言われたこともあって、そうした時は悲しくなりました。
でも、いつからか、自分で自分の人生をある程度コントロールできているのだという充足感があって、これは昔にはなかったものでした。ただ、これは、大学受験を乗り越えて「分断」を渡った(かもしれない)ことだけが原因ではないように思えます。
何かがあって落ち込んだり、何かなくてもふと悲しくなったとき、あるいはただ呆けているだけのときに、あの夏の病院で出会った包帯の人との出来事が、鮮やかな紫色の美しい花のイメージとともに浮かび上がることがあります。普段は忘れていて、そのとき見たものや匂いや状況などがトリガーになって出てくるのでしょう。この情景はとても印象的ではあるのですが、別に感動的ではないし、大きく感情を動かされることもなく、さして貴重な体験だったという訳でもないように思えます。
ただ、思い出したときに何となく心が凪いで、これは私だけが持っているものだと言う気持ちになります。多分ですが、自分にとって大事なものであるような気がするのです。そう思うと、タマル氏が言っていたことが理解できるような気がしました。
「俺が言いたいことのひとつは、今でもよくそいつのことを思い出すってことだよ」とタマルは言った。「もう一度会いたいとかそういうんじゃない。べつに会いたくなんかないさ。今さら会っても話すことなんてないしな。ただね、そいつが脇目わきめもふらずネズミを木の塊の中から『取り出している』光景は、俺の頭の中にまだとても鮮やかに残っていて、それは俺にとっての大事な風景のひとつになっている。それは俺に何かを教えてくれる。あるいは何かを教えようとしてくれる。人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きているという節がある。俺はそう考える」
洗濯物を干しに出たり取り込む時に目に入るのですがお昼休憩中の職人さんの行動が気になりました。
職人さんが寝転がっている感じだと8m×4mくらいだと思います。
7、8人いる職人さん、寝転がったり外壁にもたれてスマホいじってたり。
ピクニックみたいにウッドデッキに直接お弁当広げて食べてその後ウッドデッキでお昼寝されてたりします。
この行動が不思議でなりません。職人さんにとって家はいわば作品というか商品ですよね。
お客様の注文で作っている商品、それを使用しているということだと思うんです。
ダイニングテーブル作ってて、ある程度できて来たからとメモするときの台にしたりそこで食事したりなんて絶対しません。
椅子の製作でもある程度出来てきたから休憩の時に座るなんてことないです。
私が施主で、完成間近の家を見に行きウッドデッキで職人さんがお昼食べたり寝てたりしたら。
うーん、考えてみましたが嫌なような、職人さんとの関係によっては気にならないような。
ただ、同じ物を作る職人として商品をああ扱うのにはなんだか抵抗があります。
皆さんこんちは増田です。
本日初めてコメダ珈琲さんに行かせて貰いましたのでその感想をお伝えしますね。
前々から今日があったんですがなかなか行く機会がなくふとはてブを見るとコメ牛なる物が美味しそうに見えましたので行って来ました。
時刻は朝9時、ウォッシャー液が切れた車でコメダ珈琲の駐車場へ行くと既に多くの車が停まっていました。
中に入ると何名か尋ねられ一名と答えるとテーブル席へと案内されました。カウンター席はないのかな?
店内は家族連れやカップルが多く席は8、9割埋まっていました。
繁盛しているようです。
コメ牛を注文したいがメニュー表には載っていません。モーニングセットCを注文しました。
ドリンクを頼むとモーニングセットが無料で貰えるのですね。これは嬉しいサービスです。
コメ牛を探していると別のペラ一枚にコメ牛の案内がありました。
しばらく待っているとやって来ました。コメ牛!
[ここで写真]
これはかぶりつけないので有り難い。
味は濃いですね。濃すぎるので私にはキツい。パンじゃなくてご飯と食べたい味付けのようです。
満席待ちの人も5人ほどいました。
今回コメ牛肉だくだくを食べてみましたがモーニングセットの方が美味しかったですね。
以上増田でした〜☆またね