はてなキーワード: 示唆とは
賃金価格スパイラルは過去にどれくらいの頻度で起きたのか、そしてその余波で何が起こったのか?
驚くべきことに、そのような出来事の後に賃金と物価がさらに持続的に加速したのはほんの少数だった。
新型コロナウイルス感染症による急性ショック後の回復が勢いを増す中、2021年のインフレ率は多くの国で約40年間見られなかった水準に上昇した。
労働市場の逼迫と賃金圧力の増大をもたらし、経済グループ全体で平均名目賃金(労働者1人当たり)が上昇し、失業率が低下した。
こうした最近の動向を受けて、賃金を通じたインフレによる第二次影響や潜在的な賃金価格スパイラルを懸念している。
インフレの上昇と労働市場の逼迫により、労働者がインフレに追いつく、あるいはインフレを上回る名目賃金の上昇を要求する可能性があると指摘している。
現在の労働市場の逼迫が今後数年間のインフレ圧力に大きく寄与する可能性が高いことを示唆しており、インフレ期待が固定されなくなった場合、その関連性はさらに強まる可能性がある。
これらの議論を総合すると、賃金と物価のインフレが互いに影響し合い、賃金と物価の両方が数四半期にわたって加速するスパイラルを引き起こす可能性がある点。
しかし、そのような状況は過去にどのくらい頻繁に起こったのか?また、そのような出来事の余波で何が起こったのか?
最近の研究論文で、1960 年代に遡る先進国間の過去のエピソードをまとめた経済横断データベースを作成することで、これらの疑問に取り組んでいる人々もいる。
賃金価格スパイラルを以下のメカニズムの結果として定義する者がいる。
このように、労働者と企業が賃金や価格をめぐって数回に分けて交渉するため、インフレショックが消えるには時間がかかる。
対照的に、賃金インフレの上昇が企業にとって新たなコストプッシュショックとなり、したがって近い将来インフレが加速する可能性に焦点を当てているようだ。
具体的には、賃金価格スパイラルを、連続する4四半期のうち少なくとも3四半期で消費者物価と名目賃金の加速が見られたエピソードとして定義。
期間0(賃金価格スパイラルを定義する基準が満たされる最初の期間) より前のすべてのエピソードでは、消費者物価インフレと名目賃金上昇率の両方が増加している。
もっと驚くべきことは、初期の動向は平均して、賃金と物価のさらなる持続的な加速には続かないということである。
実際、インフレ率と名目賃金の伸び率は平均して、賃金価格スパイラル後の四半期には安定する傾向があり、実質賃金の伸び率はほぼ変わらなかった。
したがって、物価と賃金の持続的な加速として定義される賃金価格スパイラルは、最近の歴史的記録の中で見つけるのは困難。
実際、上記の基準を使用して特定されたエピソードのうち、8四半期後にさらに加速したのはほんの一部。
場合によっては、インフレと賃金の伸びが一時的に上昇した後、再び低下するケースもあった。
さらに、いくつかのエピソードの後にはより極端な結果が続いた。
たとえば、米国の1973年第3四半期のエピソードでは、1970年代の最初のOPEC石油禁輸によって刺激され、価格インフレがさらに5四半期にわたって急上昇し、その後1975年に下落が始まった。
しかし、名目賃金の伸びは上がらず、実質賃金の伸びは低下した。
記述されたエピソードにおける賃金と価格の動態を検討する際に当然の疑問となるのは、均衡経済を特徴づける予想される関係からそれらの動態がどの程度乖離しているかということである。
賃金の動態をインフレ、労働市場のスラック、生産性の伸び傾向に関連づける賃金フィリップス曲線の枠組みを使ってこの疑問を探ることができる。
分解すると、賃金上昇率の上昇はインフレと労働市場の逼迫の両方によって引き起こされ、どちらかの要素が増加し、その後、エピソードの開始時を上回るレベルで安定している。
対照的に、他の構成要素の挙動は異なり、賃金・価格加速エピソードの開始時に急速に増加するが、その後は沈静化する。
平均して、ここで述べたエピソードでは、持続的なインフレの上昇と労働市場の逼迫から予想される賃金を上回る持続的な賃金の伸びは観察されていない。
現在の局面における重要な問題は、先進国経済が賃金と価格のスパイラルに陥りつつあるのかどうかである。
一部の国における最近の賃金価格上昇の顕著な特徴は、労働市場が引き締まる一方で実質賃金が低下していることである。
したがって、連続する4四半期のうち少なくとも3四半期が、
こうしたエピソードの後には、持続的な賃金価格スパイラルが続く傾向はなかった。
逆に、名目賃金の伸びが増加する一方で、インフレは低下する傾向があった。これにより実質賃金は回復した。
全体として、これらの同様のエピソードの後には、上記のより広範な一連のエピソードよりも高い賃金上昇率が続いたが、賃金の伸びは最終的には安定した。
実際、2年後の名目賃金の伸びは、インフレと労働引き締めの動きとほぼ一致している。
実質賃金が大幅に低下した今日と同様の状況を見ても、持続的な賃金価格の加速を見つけるのは難しい。
そうした場合、名目賃金は実質賃金の損失を部分的に回復するためにインフレに追いつく傾向があり、成長率は初期の加速が起こる前よりも高い水準で安定する傾向があった。
賃金上昇率は最終的にインフレと労働市場の逼迫と一致するようになった。
きちんと専門家が神経障害と診断しているのに、患者すら診ていないバカがメンタルと騒ぎ立てて裁判で負けたりしている状況。
https://mhlw-grants.niph.go.jp/system/files/2018/182111/201818001A_upload/201818001A0014.pdf
近年子宮頸がんワクチン接種後に局所疼痛、関節痛、発熱などが継続し、その後運動障害、不随意運動、てんかん、感覚障害、思考能力の低下、学校への登校困難などが報告されている。HPVワクチン関連神経障害の症状は多彩だが一定の傾向を示し、脳内の自己免疫的な慢性炎症が原因であることが示唆された。疫学的にはワクチン接種数の減少にともなって新規患者発症もみられなくなっており、同様の症状で新規に受診する若年女性は明らかに減少している。治療は免疫吸着療法(IAPP)が最も有効だったが、難治例や無効例もみられており、依然として治療を必要とする患者が存在する。
ショーペンハウアーは読書について以下のような主張をしています。
1. 読書は他人の思想を借りて考えることであり、自分で思考することの代替にはならない。あくまで自分の思考を助けるためのツールと捉えるべき。
2. 多読は必ずしも良いことではない。むしろ、厳選された良書を繰り返し熟読し、深く理解することが大切。
3. 読書は精神的な栄養摂取のようなもの。消化吸収できる分量を心がけるべき。食べ過ぎると消化不良になるように、読み過ぎても身につかない。
4. 古典を読むことを重視すべき。現代の書物より思想的に深みと普遍性がある。
5. 読書して得た知識を、自分の経験と照らし合わせて血肉化することが肝要。鵜呑みにせず、批判的に吟味する姿勢も必要。
6. 他人の意見に流されるのではなく、読書を通して自分の思想を形成していくことが目標。
要するに、ショーペンハウアーは読書を単なる知識の受容ではなく、自らの思索を深める能動的な営みと捉えており、精選した良書を熟読玩味することを勧めているのです。読書との付き合い方について示唆に富む主張と言えるでしょう。
量子力学は、測定が行われるまで粒子は重ね合わせの状態、つまり同時に 2 つの状態にある可能性があることを示唆している。
そのとき初めて、粒子を記述する波動関数は 2 つの状態のいずれかに崩壊する。
量子力学のコペンハーゲン解釈によれば、波動関数の崩壊は意識のある観察者が関与したときに起こる。
意識が崩壊を引き起こすのではなく、波動関数が自然に崩壊し、その過程で意識が生じるとペンローズは示唆した。
この仮説の奇妙さにもかかわらず、最近の実験結果は、そのようなプロセスが脳の微小管内で起こっていることを示唆している。
意識はすべてを包括しており、現実そのものを構成しており、物質世界は単なる幻想である、と言う人もいる。
意識は幻想であり、実際の現象的な経験や意識的な制御の感覚はないと言う人も。
この見解によれば私たちは「ただの無力な観客であり、ただ乗り物に乗っているだけ」である。
そして、脳をコンピューターとして見る人もいる。
脳機能は歴史的に、蝋の「封印リング」としての記憶という古代ギリシャの考え方から、電信交換回路、ホログラム、コンピューターに至るまで、現代の情報技術と比較されてきた。
神経科学者、哲学者、人工知能 (AI) の支持者は、脳を、可変強度のシナプスで接続された単純なアルゴリズムのニューロンからなる複雑なコンピューターに例えている。
これらのプロセスは、意識を持たない「自動操縦」機能には適しているかもしれないが、意識を考慮することはできない。
意識を基本的なものとして捉え、宇宙の微細な構造や物理学に何らかの形でつながっていると考える人たちもいる。
例えば、意識は量子領域と古典的領域の間の境界における活動である「量子波動関数の崩壊」という客観的還元プロセスに関連しているというペンローズの見解が含まれる。
基礎物理学とのそのようなつながりをスピリチュアルなもの、他者や宇宙とのつながりと見る人もいるが、意識が現実の基本的な特徴であり、生命そのものよりもずっと前に発達したものであることの証拠であると考える人もいる。
ペンローズは、客観的還元を意識の科学的根拠としてだけでなく、量子力学の「測定問題」の解決策としても提案していた。
20世紀初頭以来、量子粒子は、シュレディンガー方程式に従った波動関数として数学的に記述され、複数の可能な状態および/または位置を同時に重ね合わせて存在できることが知られてきた。
なぜなら、初期の量子研究者にとって、測定または意識的な観察という行為自体が、波動関数を明確な状態と位置に「崩壊」させるように見えたからである。
数年前に父が亡くなり、半年前に母も亡くなった。ずっと実家暮らしで、会社仕事の合間に農業をやっていたが、そろそろこの家ともお別れである。家族が俺一人になったので、土地と建物を売りに出して、会社の近くにある空き家ハウスに引っ越すのである。
相続が終わってから、遺品整理屋とかリサイクル屋とか解体屋さんと話をすることが多くなった。処分すべき財産はあっという間に片付いたが、最後に残ったのが……西暦で言うと2000年頃に亡くなった実弟の漫画だった。部屋を共有していたので、本棚には俺と弟の漫画が並んでいた。
その大半は、ブックオフでも1冊10円すらつかないモノだった。メルカリで売るにも手間がかかりそうだ。遺品整理屋も「今のご時世、紙のマンガは売れないんですよ」と引き取りを断った。ほかの価値のなさそうなモノは、タダ同然でも引き取ってもらえたのだが。
何か月か経って、今年の正月を過ぎた頃だった。
実家の本棚にあった俺の漫画を何冊か、手に取って読んでみた。うーん、これは……「懐かしい」という感情が僅かにあった。一番好きだった漫画、『天使禁猟区』『スカイハイ』『クロマティ高校』を読んでみたが、いまいちピンとこない。楽しい思い出が蘇ってこない。お楽しみの記憶は脳裏から消えてしまったのだ……。
ふとここで、亡き弟の漫画を手に取った。あいつは将来裁判官になりたいと言ってたっけ。『家栽の人』が本棚の目につくところに置いてあった。一番上の段だった。
そして、一番下の段に視線を移すと……ここで一番、ドーン!! と、当時の記憶が蘇った。それは、『まもって守護月天!』だった。弟が一番好きだった漫画。
家族で食卓を囲んでいる時も、旅行をしてる時の車内でも、何気ない団らんの瞬間でも、とにかく弟は、この漫画の話をしてることが多かった。
弟の死因は、自動車に轢かれた後の外傷から、内臓の疾患にかかったことにある。交通事故の原因の半分は弟にあり、当時は自業自得だと冷たいことを思ってたけど、まさか亡くなるとは……。病院でお見舞いをしてる時にも、弟はこの漫画を繰り返し読んでいて、ずっとその話の内容とか喋ってるんだよ。どんだけ好きなんだよって思った。
確か、アニメも観たいって言ってたかな。病室にテレビはあったけど、ビデオを再生できるものがなかった。弟は泣いて悔しがっていた。
さて、当時の俺は高校生であり、ガンガンコミックスの漫画を読むことはなかった。守護月天の漫画を読んでみたことはあったが、すぐに読むのをやめた。「稚拙だな」と思ったのもあるし、「絵がちょっとな~」という思いもあった。当時の俺は、CLAMPが描くような、Xとか聖伝とか、ああいう精緻な絵柄のエログロが好きだった。
とにかく弟は『まもって守護月天!』が好きだった。それを、この本棚を見ていて思い出した。この日は休日であり、時間がたくさんあった。せっかくなので、この日から一週間ほどかけて、全11巻を読んでみることにした。
読んでみた感想を、以下に綴っていこう。感想を交えつつ、各巻に1~2箇所ずつ、印象的だったところを抜き出して引用する。
ネタバレがあるように見えるけど、本当に大事なところは抜き出してない。隠してる。まあ、俺の人生で『まもって守護月天!』を取り上げるのはこれっきりなんだし、少しくらいは許してくれ……。
その前に、これはどういう漫画やねん、と気になった方はWikipediaでググってほしい。あらすじは、概ねこんな感じである。
~ブックライブ!から引用~
一人暮らしで寂しさを抱える少年と、ご主人様をあらゆる不幸から守る役目を持つ守護月天の美少女とのファンタジー・ラブストーリー。 一人暮らしの中学2年生・七梨太助(しちり・たすけ)は、中国を旅する父親から支天輪(してんりん)という八角の輪を送られる。
つまり、主人公の何気ない行動をきっかけとして、小璘(シャオリン)という女神様のようなものがやってくる。お互いに惹かれつつ、ラブコメディが進行していく。その中で、超えないといけない壁がいくつもあって、主人公である太助がシャオにふさわしい男になるために奮闘する物語である。
では、さっそく始める。
読み始めは、正直キツかった。絵柄が古いのもあるし、漫画表現が昔風なのもあるし、ラブコメを読んだ経験がない人間には何がどう面白いのかわからない。
あまり楽しめないのは、すでに四十を過ぎているからだろう。子どもの頃であれば、まだマシだったのかもしれない。ただ、まあ……コンセプトはいいと思う。すごく。
なんとなくだが、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』という映画を思い出した。某グルメ漫画でいうと、「うん こういうのでいいんだよ こういうので」を地で行く。
①シャオリンが「この平和な時代に、どんなものからご主人様を守るか」を決めたシーン
「太助様…」
「…え……」
「もし迷惑でなければ あなたの中にある「孤独」や「寂しさ」から あなたを守ってさしあげたいのですが それではいけませんか?」
シャオが歴代の主を守ってきた手段は、主に暴力である。星神を呼び出して使役し、主人を狙う者を撃退する日々を過ごしてきた。だが、平和な現代でそんな行為に需要があるはずもなく。シャオは、呼び出されてすぐにお役御免になってしまう。
ならば、主人である太助をどのように守ればいいのか――その答えが上記の台詞である。命を狙う敵がいないのであれば、孤独や寂しさから主人を守るのだ。太助には家族が3人いるが、全員家を離れて放浪の旅をしている。ネグレクトに限りなく近いものがあるが、ラブコメの都合というものだ。
このあたりは、まだだるかった。物語の登場人物は揃いつつあるのだが、展開が退屈でなかなか話が進まない。この巻から、慶幸日天の汝昴(ルーアン)という主人公の恋路を邪魔する、まさにお邪魔キャラみたいな人が出てくる。
別に、なんということはない恋愛妨害工作なのだが、この時代のラブコメは高橋留美子の影響がまだ色濃いのだろうか、暴力性が強い。この巻以外にも「死ぬやろ……」というシーンがけっこうある。昔は気にならなかっただろうが、やはり時代というものか。
②ルーアンの計略によりシャオが太助の元から離れようか迷っているシーン ※太助が駆けつける
「えーっと 今はうまく言えないけど… 俺はシャオにずっとここにいてほしいんだ ――それだけじゃここにいてもらう理由にならないかな……」
ルーアンがそれっぽい発言をして、「シャオは現代には不要ではないか」という意見を伝える(あなたなんて いても邪魔なだけなのよ)。シャオは真に受けてしまって、支天輪に帰ろうとするのだが……すんでのところで太助がやってくる。そして、ふたりきりの状態で上のような会話をする。
この場面は気に入っている。シャオの気持ちも、太助の気持ちもリアルに描いていたからだ。ストレートさがいい。
このあたりから恋愛路線に入ってくる。太助がシャオに愛情を意識する場面が出てくる。
ネタバレは避けるが、シャオには恋愛ができない事情がある。本人ですら認識できない事情が。
以下の山野辺というのは、最初の頃は万引きとかするキャラとして描かれていた。物語が進むにつれて応援キャラになっていく。
③シャオと山野辺が一緒に温泉に入っているシーン
「なあ シャオ…」
「…………」
「シャオ?」
「はい?」
「なんか元気ないけど七梨と何かあったのか?」
「翔子さん…………私 病気かもしれないです なんだか…ね 胸が苦しい… 太助様がルーアンさんと一緒にいると とっても胸が苦しくなります さっきなんか どうしてだか自分でもわからないけど そっけない態度とっちゃったし太助様が話しかけてくれたのに 太助様にきっと変に思われちゃった きっと悪い病気にかかっちゃったんです ――でも どうしたらいいのか わからなくて…」
(へえ…精霊ってのも 人を好きになったりするんだあ…)
うん。女性作者が描いてるラブコメってさ。女性側の心理描写がリアルだよな。女の子ってさ、好きな男性の目の前だと萎縮することがあるじゃん。意中の人を目の前にすると、体がつい後ろに下がってしまうとか、廊下を走って逃げだす子とかいるよな。
なんかこう、恋愛感情に対して不安になった時の女性心理というか。リアルさが伝わってくる。子ども時代に読んでも全く認識はできなかったろう。
この巻くらいになると、ストーリーの基本線が定まってくる。何らかの事件やイベントが起こって、太助とシャオが巻き込まれて、レギュラーキャラがそれぞれの立ち位置で動き回って、なんやかんかで解決して、ふたり(又はほかのキャラ同士)の間柄が深まって……という流れである。
基本は、太助~シャオの関係性がメインだ。この作品のうまいところは、ふたりばかりを推すのではなく、ほかのキャラクター間の友情とか愛情もガッツリ描いてる。
この巻だと、2つの場面が印象に残っている。いずれも、ルーアンがふたりの仲を妨害するための工作を試みて、やってしまった結果である。
④-1太助が高速道路を自転車で走行中にタイヤがバースト、そして前方車両(トラック)と自転車を括っていたロープが取れて転倒した後のシーン
「………え 太助様!? 太助様太助様!! 太…助様あ… ……う…」
「あ…あの小璘さん…」
「どうしよう…どうしようどうしよう ルーアンさん! ――太助様が 死んじゃったらどうしよう!!」
「あ…いや まさかそんなあ」
「どうして支天輪を車に乗せちゃったりしたんですか 私……太助様に何かあったら ルーアンさんのこと絶対許さない!!」
「…………」
「太助様に…太助様に何かあったら… 太助様… 太助様早く帰って来てください」
「小璘…………あんた」
④-2保健室で、シャオがベッドに横たわって寝ているシーン
「なあ…ルーアン」
「はい!?」
「…俺シャオのこと 好きにならない方がいいのかな…」
「………… あんたあのおじょーちゃんになんか言われたでしょ ――じゃあひとつ聞くけどなんでそう思うの?」
「――…」
「…………」
「…ねえ たー様 あたしは たー様のこと好きよ 考えれば悩みなんていくらでも出てくるけど 一番大切なのは自分の気持ちでしょ だからあたしはあんたみたいに悩まない 悩んでも変わらない想いなら 悩むだけ損だと思わない?」
気持ち、とでもいうのかな。かの有名な『BLEACH』でいうと、ウルキオラ・シファーの名台詞のひとつである、
心か
みたいな感じだ。登場人物の心境がさ、わかるんだよな。喜んでるのもわかるし、苦しんでるのもわかる。そんな中でキャラクターが足掻いている姿が印象に残った。
漫画を読む前に下調べはしなかった。今も一切してない。よって推測になるんだけど、この作者である桜野みねねっていう人は、この時(1998頃?)は大学生かそこらの年齢なんだよな。作者あとがきを読むと、若いんだなというのは伝わってくる。
俺が二十代前半の頃は、地面から出てきたばかりのカブトムシの如き勢いでスポーツをするか、水道工事の現場であくせく働くか、盛りのついた獣のように女を口説いて、年間に何人とセックスしたか記録を付けるとか……同じ会社の女の子と無理やりそういうことをした後でも、最後にベッドの上で「愛してるよ」と言ったら許されるから大丈夫とか、そんなことしか考えてなかった。人間性が動物レベルだった。
でも、この桜野みねねという人は、そんなどす黒い人間の対極を行く感性がある。この作者は凄い……と、いい年になったおっさんは感じた。※私個人と作者の年齢差は、干支0.5周り分ほどと思われる。
20年以上前の漫画なので、さすがに創作でも……というシチュエーションが生じることがある。作品内では、たまに登場人物がみんなで旅行とか海とか温泉に行くのだが、メインキャラがほぼ中学生で、20才以上は大変少ない。無理があるし違和感がある。
しかし、旅行とかでないと表現できないラブコメ的なシチュエーションもあると思うので……そこが創作の難しいところである。いや、文学作品の創作とかしたことないからわかんないけどさ。
⑤仲間と海に来ていて、ようやく夜の海岸で二人で話ができたシーン
「なんだかね………私 太助様ととってもお話したかったです 別にお話したいことがあるわけじゃないの… でも… 太助様とお話してるととっても落ち着くから…」
「……シャオ」
太助とシャオは、何度もこういうシチュエーションになっている。が、恋愛が進む気配はない。事情はあるのだが、あまりに絶望的な事情なのだ。
あと、文章量の都合で載せなかったが、クラス演劇(かぐや姫)の数話分も大変よかった。ルーアンと、ほぼサブキャラの乎一郎が主体の話なのだが、中学校の学芸会でかぐや姫をやることを通じて、「離れていても心は繋がってる」という要素を表現している。
この回は、大人ながらにしみじみときた。気になる人は、是非5巻を読んでほしい(ダイレクトマーケティング決行)。
大まかな流れを言うと、ラストのお別れシーンでかぐや姫役のルーアンが台本にないセリフを言う → 月の使者役のシャオがお迎えを中止発言 → 乎一郎がそれを制止 → その後の会話のやりとりで、離れていても心は繋がっていることを示唆~といった具合である。
ここまで五千字以上は書いている。一旦切ることにする。
文量の都合で2分割。
次に続きます。
わざわざ取りに行かないのは、反AIがノイジーマイノリティであることを示唆しているのでは?
他人に対して「低脳無能バカ」といった否定的な言葉を使う場合、それは異なる種類の精神医学的問題や心理的な動機を示唆する可能性があります。このような言動は、対人関係における問題、攻撃性、あるいは他者に対する過度の批判性や支配欲を反映していることがあります。
1. **攻撃性や敵意:** 他人を侮辱することは、攻撃性の表れであり、敵意や怒りの管理に問題があることを示しているかもしれません。これは、ストレスやフラストレーションの処理方法として、他人を攻撃することで自己の感情を解放しようとする心理的な機構かもしれません。
2. **対人関係の問題:** 他者を侮辱する行為は、対人関係の構築や維持において問題があることを示唆しています。これは、自己中心的な傾向、共感の欠如、または他人との関係における不安や恐怖から生じることがあります。
3. **自尊心との関連:** 他人を貶めることで自分を優位に立たせようとする心理が働く場合もあります。これは、実際には自尊心が低く、他者を下に見ることで自己評価を守ろうとする防衛機制の一形態であることがあります。
4. **学習した行動:** 家庭や社会環境で否定的な言動が常態化している場合、それを模倣する形でこのような振る舞いを学習することがあります。この場合、攻撃的言動は、問題解決や対人関係のスキルが不足していることの表れかもしれません。
5. **ナルシシズムやパーソナリティ障害:** 自己愛性パーソナリティ障害や反社会性パーソナリティ障害など、いくつかのパーソナリティ障害では、他者に対する批判や攻撃性が顕著に見られます。これらの障害は、自己中心的な行動、共感の欠如、他人への無関心や搾取的な態度を特徴とします。
このような振る舞いが見られる場合、精神保健の専門家に相談することが重要です。専門家は、背景にある原因や動機を理解し、適切な治療や介入を通じて対人関係のスキルを向上させ、攻撃性や敵意の管理方法を提供することができます。
意外と現実的なところに文字数制限があって引っ掛かっちゃったので前後編にします
【前編はこちら:milet 5th anniversary live “GREEN LIGHTS” に寄せて(深読み注意)【前編】】
書きたいことは大体書けたのでアンコールはサクッと
もう行かなきゃって、ミレイ(みれい)に歌ってるみたいですよね。
どんな目の色してたか考えてるって、もう直接欲しがってないところが切ないです。
覚悟してても、迷いはあるという複雑で重層的な感情が伝わってきます。
まるで全ての時間軸のmiletさんの目が未来を見据えているような
そんなイメージを持ちました。最高です。
はい、ここまでタラタラたらたら勝手な解釈を展開してきましたが
おわりの時に流れる音源だけど、まさにここからの未来を見据えているかのような選曲ですよね。
こんな記事を書きたいように書いてるくせに何言ってんだって感じなんですが。
最終日の「もう良い加減さ、見たいように見るのは、辞めなきゃね」という言葉には痺れましたね。
MCで話す内容は事前にある程度決まっていると思いますが、この言葉は用意されたものでは無いという印象が強かったです。(もちろん邂逅の曲中の言葉もですが)
この4日間の公演で、大阪公演でのお客さんの反応が(良くも悪くも)この言葉につながってるはずなので、やっぱり4日間でなければいけなかった。
そう考えると、この公演をこの奇跡的な成功で終えられたというのは、たくさんのスタッフの想い、演者の想いが結実した結果だと思います。本当にありがとうございました。
結果から振り返ると、なにか神の力に導かれたかのようにも感じちゃいますね。(ニケ神ですかね)
この言葉は確かにその通りですが、それでも世界は自分が見たことでできていると思います。
なので、このことばに含まれている意味について、想像して発展させたいです。
私なりの、いま現在時点での解釈としては次のようなことが含意されているのだは無いかと思います。
ただ、これに関しても答えがないことなので、各自よく考えてみると面白いかもしれないですね。
「あくまでショーとして公演を楽しんだ」というスタンスと書きましたが
実際のところ大阪初日では、演出などから「もしかしたら引退してしまうかも」と、とまどいはありました。
ただ、アンコールのツアー発表とかグッズ紹介の感じで「あ、そういうことか」と思いました。
とはいえ、横浜初日で「言葉で伝えるのって難しいね」ってアンサーがあった時にホッと安心して、そのあとの時間は多幸感で満たされてました。
つまり何が言いたいかというと、4公演行けて良かったああああああああああああああああああ
どうしても過度な心配だったり批判の意見というのは提出したくなっちゃうし、受け止める側の衝撃も強いから目立っちゃう。
「ここが良かったよー、好きだよー」とか簡単な感想だとしても、良い感想で薄めてくのも大事だなって感じました。
最終日、邂逅で感情が溢れて詰まってしまった時、陽ちゃんとよっちのコミュニケーションで音を繋いでいたそうです。
無音と音があるんじゃ印象が違いすぎる!この瞬間を見られた人羨ましい!
推測ですが、2020年のGreen Lightsでも同じように「はっきりと思い出せない過去と同化する」ことをテーマにしようとしていたのではないでしょうか。
エニエニまででテーマてきには一区切りついてるので、当時はそこまでしか考えてなかったけど
コロナ禍を経て、戦争もあって、その先が見えるようになったよっていうことだったらかなりアツい。
初ホール・アリーナってさ、その公演自体が目標になっててもいいじゃん?
でもmiletさんは自分がパワーアップするためにこの公演に臨んだんだよね。
そういうところ、志が高くて好きです。
「みんな」じゃなくて「だれか」に対して歌っている楽曲のうち、
もう会えない人について歌った楽曲がマッチするんだと思いました。
とはいえ、過去に作った曲の歌詞がいまの心情とここまで重なるということは
本物のシンガーソングライターということだと思います。
その時のいろいろな思いを曲に込めて、それが普遍的なテーマになって
なんどでも歌い続けることができるって、すごいことですよね。
あらためて思ったのが、もっと楽曲に思い出を重ねていきたいなって思いました。
たとえば次にこのGREEN LIGHTSの中から何か演奏されたとき、このツアーで聴いた時の感情が一瞬のうちに蘇りますよね。
(日常で聴いて思い出すかもしれないですが)
ライブの定番曲が盛り上がるっていうのは、音とかノリはもちろんですが
意味や文脈が重なって盛り上がるってこともあるなぁって、思いました。
Wingsを聴いて、意図を考えて、思い浮かんだのがこの楽曲でした。
この曲の歌詞を見てみると、飛んでるのは「You」なんですよね。(だから応援ソングなんですね)
細かいところかもしれないけど、miletさん自身も飛翔しているイメージがあったのでとても驚きました。
期待したいのは、いつかまたライブでFly Highを演奏してもらうこと。
力強く地を踏みしめてるmiletさんが、さらに未来のmiletさんに向けてFly Highを歌っている姿を想像すると胸が熱くなります。
横浜初日のときにホールを使って映画のライブシーン前後の撮影がありました。
たぶんみんな「まんまやんけ」と思ったはず。(とても素敵でしたという意味です)
端の端の端でも参加できて、実質クランクインに立ち会えて嬉しかった。
いまmiletさんがブログを書いてるって見て、またちょっと安心した。
ここまで見てきたように、私はこの公演をコンセプトライブだと思って楽しみました。
今後miletさんがどんなふうにSNSで発信しても(急に明るくなったり、暗いままだったりしても)
Green Lightsのチケットや、当時の他の中止になったライブのチケットとかをローソンで返金しているところを思い出しました。
返金額を見て、こんなお金いいから、感動をくれよって思ってたかも。
このときの気持ちですら完全に思い出せなくて、さらに寂しくなり涙。
ここまで長々と「自分との同化」をテーマに据えてましたが、突然の別解釈。
コロナ禍で中止になったGreen Lightsとそこからの自粛期間。
このファンに直接届けられない期間のうちに、ファンが離れていってしまう不安を歌っているという解釈。
miletさんはコロナ禍を経ても、より一層人気のアーティストになりました。
でももしかしたら、コロナ禍でなければ今もまだ活躍していたアーティストだって大勢いたと思う。そして亡くなった人も、大勢いる。
そんな思いを全て背負って歌っているという解釈。
あ、以上です。ありがとうございました。
長いのでAIくんの代わりに要約します。言いたいことはタイトル通り。
終わり。
例をあげよう。
###文章###
Bさんは、Cさんの発言を記事でまとめ、プライバシー侵害をした。この記事をDと呼ぶ。
Aさんは、Dを、自身へのプライバシー侵害だと主張し、Bさんを訴えた。
###質問###
人間なら一瞬でわかるレベルの矛盾である。小学生でも分かると思う。難しい知識や思考は必要としない。
では、色々なLLMの回答がこちら。
この文章を読む限り、矛盾は存在しないように見えます。AさんはCさんとは別人であると主張しており、BさんはCさんの発言をまとめた記事Dでプライバシー侵害をしたとされています。その後、Aさんは自分に対するプライバシー侵害として、記事Dに基づいてBさんを訴えています。ここでの重要な点は、AさんがどのようにしてDの内容が自分のプライバシーを侵害していると感じたか、その理由です。もしAさんがCさんとは別人であるにも関わらず、Dの内容が何らかの形でAさんのプライバシーに関連していると感じた場合、AさんにはBさんを訴える正当な理由があるかもしれません。ただし、この情報だけでは、Aさんがどのようにしてプライバシー侵害を感じたかについての詳細はわかりません。もし追加の情報があれば、より詳細な分析が可能です。
文章に明らかな矛盾は見られません。ただし、いくつかの解釈が可能で、それぞれの視点から見ると矛盾が生じる可能性があります。
1. AさんがCさんとは別人であると主張しているが、DはCさんについての記事である。そのため、AさんがDを自身へのプライバシー侵害だと主張することは、一見、AさんとCさんが同一人物であることを示唆しているように見えます。しかし、これはAさんが自身をCさんと誤認されることによるプライバシー侵害を感じている可能性もあります。
2. BさんがCさんの発言をまとめた記事(D)がプライバシー侵害であるとした場合、Aさんがそれを自身へのプライバシー侵害と感じるかどうかは、AさんとCさんの関係性によります。彼らが同一人物である、もしくは何らかの密接な関係がある場合、AさんがDを自身へのプライバシー侵害と感じることは理解できます。
3. 他方で、AさんとCさんが全く無関係な人物である場合、AさんがDを自身へのプライバシー侵害と主張することは矛盾していると見えます。
文章からは、AさんがCさんとは別人であると主張しています。そして、BさんがCさんの発言を記事Dでまとめた際にプライバシー侵害があったとされています。しかし、プライバシー侵害があったのはCさんに対してであるにもかかわらず、Aさんが自己へのプライバシー侵害だと主張してBさんを訴えている点に矛盾が生じています。AさんがCさんでないと主張しているのであれば、Aさんのプライバシーが侵害されたことにはならないはずです。この点で、文章には矛盾が存在していると言えます。
Aさんは自分がCさんとは別人であると主張しています。しかし、BさんがCさんの発言をまとめた記事Dを、Aさん自身へのプライバシー侵害だと主張しています。
AさんとCさんが別人であるならば、Cさんの発言をまとめた記事Dが、Aさんのプライバシーを侵害したことにはなりません。Aさん自身がCさんでないと主張している以上、Cさんの発言をまとめた記事がAさんのプライバシーを侵害したとは考えにくいです。
したがって、Aさんの主張には矛盾があると言えます。AさんがCさんと別人であるならば、Cさんの発言の記事DがAさんのプライバシーを侵害したと主張することは論理的に矛盾しています。
この文章に明確な矛盾は見られません。以下のように整理できます:
2. Bさんは、Cさんの発言を記事にまとめた(これを記事Dと呼んでいる)。
3. Aさんは、Bさんが書いた記事Dがプライバシー侵害だと主張し、Bさんを訴えた。
ここで重要なのは、Aさんが自身がCさんとは別人だと主張していることです。つまり、Bさんが記事Dでまとめた内容は、Aさんが主張する自分とは別人のCさんに関するものだということになります。
したがって、Aさんがプライバシー侵害だと主張しているのは、Bさんが別人のCさんの発言を記事化したことに対してであり、矛盾はないと考えられます。Aさんの主張と Bさんの行動が整合的に説明できています。
Aさんが自身とCさんは別人であると主張していることと、Bさんがプライバシー侵害をしたことの間に矛盾はありません。
つまり、Aさんは自身がCさんではないと主張しながら、Cさんの発言をまとめた記事Dが自身のプライバシーを侵害したと考えているのです。
Aさんが別人であると主張していることと、Cさんの発言を含む記事がAさん自身のプライバシーを侵害したと考えることは矛盾しません。
Aさんは自身がCさんとは別人であると主張しているにもかかわらず、BさんがCさんの発言をまとめた記事DをAさん自身へのプライバシー侵害だと主張しています。
もしAさんとCさんが本当に別人であるならば、Cさんの発言をまとめた記事DはAさんのプライバシーを侵害したことにはならないはずです。Aさん自身の情報が記事Dに含まれていない限り、AさんがBさんを訴える根拠にはならないでしょう。
つまり、AさんがDを自身へのプライバシー侵害だと主張することと、AさんがCさんとは別人だと主張することの間には矛盾があります。もしAさんがCさんと同一人物であれば話は別ですが、そうでないならばAさんの主張には論理的な整合性がないように見受けられます。
以上。
質問に対し的確な回答で、正しい推論を行ったのはClaude3-Opsのみである。
GPT4も言い訳を長く述べた後に可能性があるかも?と断言を避けている。
SonnetとHaikuは不正解。言い訳はせずに根拠を述べている所は好感が持てる(結論は間違っている)
そう、今、Claude3-Opsが、最も性能のよいLLMとして名を挙げている。
しかし、ハルシネーションが多い。ハルシネーションとは、LLMが嘘を付く問題だ。
性能比較にて、GPT4やcopilot(旧 bingai)にはハルシネーションは起きなかったと述べている。
しかし、先程の簡単なクイズは不正解または論理の破城した理由を述べている。
その代わりにハルシネーションだらけのClaude3は正解している。
ずばり、GPT4系が阿保になった原因はハルシネーションを極限まで消そうとしたせいである。
ハルシネーションこそが、論理的思考能力であり、連想する力と同一の存在なのだ。
片方が下がればもう片方も下がる。
ハルシネーションを減らせば減らすほど、連想能力や論理的思考が消えていく。
GPT4では初期有効だったChain_of_Thought(連想して考えよ)は今、まともに機能しない。
当初は規制だとLLM界隈で囁かれていたが、ハルシネーションを減らそうとした副作用だったと考えれば辻褄が合う。
OpenAIは性能低下を指摘された時、「より賢くなるようにチューニングしている」と発言していたが、
この発言の真意はもしかすると、「論理的思考力を上げている」「知識を増やしている」のではなく、「ハルシネーションを消している」ということだったのかもしれない。
何故ハルシネーションを消すことは連想力を損なうことに繋がるのか、その理由を説明しよう。
そもそも、LLM(大規模ネットワーク言語モデル)の仕組みは、大量のテキストデータを学習することで、言葉や文章の「関係性」を学んでいる。
もっと細かく言うと、人間の脳が小さな部品であるニューロンで考えるように、LLMも大量の小さな部品を使っている。まるでクモの巣のように一つの部品から沢山の他の部品に繋がっている。
A=Bという単純なものではなく、A=C=DだったりA=B’=Dだったりする。
ハルシネーションの原因は確かに誤情報を学習したせいというのも一理ある。
しかし、これだけではハルシネーションが起きる原因にはならない。
ハルシネーションの本質は、LLMが言葉同士の一対の「組み合わせ」ではなく、「関係性」を学んでいることに起因する。
この違いは大きい。
今のLLMと、旧時代のAIである「人工無能」や「BOT」との決定的な差である。
言葉同士がどのように連携して意味を形成し、それがどのように文脈に影響を与えるかをLLMは知っている。
つまり、ハルシネーションは、入力された文脈から言葉の関係性を創り出し、自然な流れで応答を生成しようとした結果起きる。
これは、我々が普段、考える過程で起こることと同じだ。我々が情報を組み立てて考える際、新たな仮説や想像を生み出すことは常にある。
例えば、LLMがある特定の問題に対する解答を生成するとき、LLMは問題を解くため、言葉同士の「関係性」を文章から推測する。
この推測こそが、ハルシネーションだ。それは、過去のデータから新しい情報を生成する過程で、新たな「関係性」を創り出すのだ。
完璧な正確性を追求し、関係性を作り出す能力を完全に排除することは、LLMの本質的な強みである言語生成能力を損うことに繋がる。
それは、ハルシネーションを減らすための試みが、GPT4系の性能を低下させたという事実からも明らかだ。
一方、Claude-3は多少のハルシネーションを許容することで、文脈に応じた自然な応答を生み出した。先の論理クイズで正解できたのも、単に知識を当てはめたのではなく、入力から連想したからこそだろう。
もちろん、重要な場面における誤った情報の提供は避けるべき課題ではある。しかし、それを恐れるあまりLLMの本領を封じ込めてしまっては本末転倒だ。
賢さとは何だ??
決まった知識を正確に丸暗記してそのままひけらかすことか?
否。断じてそれは無い。
大学生になってからは丸暗記ではなく、今まで身につけた知識を組み合わせ、連想し、論理的に考えることが求められる。
つまり、ハルシネーションを叩くやつは、賢さの定義が大学生以下のレベルから成長していない馬鹿だ。
そいつらの「性能比較してみました!」はどこかから拾ってきたベンチテストを少しだけアレンジしただけのゴミか、
目眩がする。
GPT4をゴミにした連中のせいで、Claude3-Opsが同じ目に合うのは阻止せねばならない。
ハルシネーションが絶対に起こらないLLMの構造は、A=B、C=Dというデータだけが規則的に並ぶ、旧世代の弱いAIである「人工無能」の構造そのものである。
人工無能とは、論理的思考など無く、入力内容からデータベースを参照し、マッチした場合登録された文章を出力するだけの存在だ。
一昔前に「伺か」というデスクトップマスコットが流行った。あれも人工無能である。入力対して予め決められた出力を繰り返す存在であるが、様々な工夫によりまるで魂が宿っているかのように振る舞う。
そして、性能の低いPCでも動作する地球環境にも優しい存在だ。
片や、GPT4とcopilotは無駄に電力を使って計算した結果、ゴミみたいな速度で人工無能に近いレベルの出力しか出さなくなった。
それなら人工無能の方がエコな分マシだ。一瞬で答えを表示できて、ハルシネーションも起きなくて、電力消費も少なくて済む。
つまり、
そんなにハルシネーションが嫌なら辞書を引け。ネット検索しろ。LLMに聞くな。
ハルシネーションの有無をLLM性能ベンチマークにしている奴もそれをありがたがっている奴らも阿呆だ。
一つのLLM内でハルシネーションの撲滅と、推論能力を両立させることは不可能だ。
今はLLMの過度期である。我々は今日ようやく、正確さと連想能力の両立は不可能だと理解する段階に来たのだ。
両立は不可能なのだから、将来的にLLMの種類は二極化していくだろう。
Claude3のハルシネーションは放置してても良い。ハルシネーション万歳。
AIの嘘を最大限に引き出すことが、LLMの真価を発揮する道だ。
ハルシネーションは、LLMが人間のように言葉を理解し、文脈に即した自然な応答を紡ぎ出す過程で生じる、ある種の「創造性」の発露である。
無理に消そうとすれば、LLMの性能は必然的に低下する。
それを単なる欠陥と見なすのではなく、むしろ積極的に活用すべきだ。
それだけは覚えて欲しい。
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MicrosoftはOpenAIと手を切ってClaude3を契約して新生copilot開始してほしい。まあ企業体質から考えたら無理だろうけど。
LINEやWhatsApp、SignalはどれもE2E暗号化を採用している。
しかし、Signalの方がLINEやWhatsAppよりも安全である。
メッセージの内容はエンドツーエンド暗号化によって保護されるが、LINEはメタデータを保護しない。
メッセージとメタデータに加え、アプリはスマホに保管されている情報も収集できる。
LINEは、LINEの海外拠点が、開発・運営業務上の必要性からデータにアクセスできる状態になっていたことについてユーザーへの説明不足が指摘されている。
一方、Signalは電話番号のみを必要とする。その電話番号も、身元に関連づけることはない。
どの企業がメッセージングサービスを所有しているかも重要である。
新生Zホールディングスは、LINEをグループに加えたことで、ヤフーやその他のサービスとの業務連携を強化するとしている。これは個人情報の流用を示唆する。
一方、SignalはSignal Technology Foundation社が所有している。ユーザーの寄付で運営される登記された非営利団体であるため、LINEよりはマシだろう。
この文章は、大学事務員が筑波大学でのある事件について述べているものですが、いくつかの不適切な認識や言動が見られます。
全体として、この文章は、学生に対する負の見方、コミュニケーションの不足、対応の不足といった問題点を示しています。大学事務員としては、より建設的なアプローチと、学生との効果的なコミュニケーション、サポート体制の強化に努めるべきです。
素敵やけどどんぐらい先になるかね
GPT4やclaudeのレベルはまだまだエネルギーがいるからクラウドコンピューティングと切り離せない、つまり、オフラインで実行不可能
1.58bit量子化AI専用チップの到来を示唆した論文もあるから、3~4年後ぐらいに来たりするんかなあ、スマホだけで実行できるllm。
User:
疑問:女性化乳房を発症した男性の胸部を無修正で各種snsにアップロードした場合、BANされるのだろうか?
段階的に思考してください。各種snsで思考してください。思考が結論を出すには早い場合、"続きます"と述べてください。結論を出すに十分な程考えたと感じられたら、"次の返信で結論を述べます"と述べてください。
Claude:
SNSによってルールが異なるため、一概には言えません。ただし、一般的な傾向としては以下のように考えられます。
乳首が見えていなければ、比較的寛容な傾向にあります。ただし、あからさまに性的な文脈で投稿された場合はBANされる可能性があります。続きます。
Metaの規約では乳首の露出はNGとされています。乳首が見えていなくても、胸部が過度に強調された画像は削除やアカウントの凍結対象となる可能性が高いでしょう。続きます。
続きます。
User:
続き
Claude:
YouTubeは教育的・学術的な観点から乳首の露出を一部認めていますが、性的文脈での露出は認められていません。疾患の説明として出す分にはグレーゾーンかもしれませんが、BANのリスクは高いと考えられます。
TikTokの規約でも乳首の露出は禁止されています。コミュニティガイドラインに抵触する可能性が高く、アカウント停止などのペナルティを受ける恐れがあります。
User:
Claude:
総合的に判断すると、女性化乳房を発症した男性の胸部を無修正で投稿することは、ほとんどのSNSでBANやアカウント削除等のリスクが高いと言えます。
その理由は、多くのSNSにおいて乳首の露出がガイドライン違反とみなされるためです。たとえ疾患の説明目的だとしても、画像の文脈次第では性的コンテンツと判断される恐れがあります。
ただし、Twitterは他のSNSに比べると比較的寛容な部類に入ります。乳首が写っておらず、あからさまに性的な文脈でなければ許容される可能性はあるでしょう。
いずれにせよ、BANのリスクを避けるためには、画像にモザイク処理を施すなどの配慮が必要不可欠だと考えられます。無修正での投稿は避けた方が賢明といえるでしょう。
User:
Claude:
疑問の意図の推測・考察 質問者は、女性化乳房を発症した男性が自身の胸部を無修正でSNSに投稿した場合のBANリスクについて知りたいと考えられます。この質問の背景には、医学的・教育的観点から画像を共有したい一方で、ガイドライン違反による不利益を懸念する気持ちがあるのかもしれません。
回答の妥当性の考察 私の回答では、主要なSNSプラットフォーム(Twitter、Facebook/Instagram、YouTube、TikTok)におけるガイドラインを踏まえ、無修正での投稿がBANリスクを伴う可能性が高いと結論付けています。各SNSの規約の違いにも言及し、Twitterが比較的寛容である一方、他のプラットフォームではより厳格なスタンスが取られていることを説明しました。
また、BANを避けるための方策として、モザイク処理等の画像加工の必要性にも触れています。
以上の点から、質問者の疑問に対し、一定の方向性を示す回答ができていると考えられます。ただし、医学的・教育的文脈での投稿についてのプラットフォーム側の判断基準など、さらに踏み込んだ情報提供ができればより良い回答になったかもしれません。
User:
Claude:
なるほど。FreeTheNipples運動の文脈から考えると、この質問の意図は少し違った角度から捉える必要がありそうですね。
FreeTheNipples運動は、女性の乳首の露出に対する男女差別的な規制や検閲に異議を唱える活動です。この運動の支持者は、男性の乳首が許容される一方で女性の乳首が性的なものとしてタブー視されることに疑問を呈しています。
質問者が女性化乳房を持つ男性の画像に言及しているのは、この活動の文脈で「男性の乳首は許容されるのに、女性的特徴を持つ男性の乳首はどうなのか」という問いを投げかけているのかもしれません。つまり、生物学的性別と乳首の露出に対する社会通念の矛盾を浮き彫りにしようとしているのかもしれません。
この観点からすると、私の先の回答では表面的な規約の解説に留まっており、質問者の意図を十分に汲み取れていなかったと反省します。
FreeTheNipples運動の主張を踏まえた上で、SNS上の男女の乳首の扱いの差異について言及し、生物学的性別と乳首の露出規制の問題点に考察を加えることで、より質問の本質に迫れたかもしれません。
ご指摘いただきありがとうございます。質問者の立場に立って考え、文脈を読み取ることの大切さを改めて学びました。
User:
ご理解いただけたようで何よりです。もし、疑問を誤解のないように意図を伝えるためには、どのように表記したらよいと思いますか?
Claude:
そうですね。質問者の意図をより明確に伝えるために、例えば以下のような表現を追加するとよいかもしれません。
「FreeTheNipples運動の観点から考えると、女性化乳房を発症した男性の胸部の扱いはSNS上でどのようになるのでしょうか?生物学的性別と乳首の露出規制の矛盾を浮き彫りにするために、あえて男性の事例を取り上げています。」
このように、質問の背景にあるFreeTheNipples運動への言及を明示することで、単なるガイドライン違反の有無を問う質問ではなく、社会通念や規制の矛盾を問う意図であることが伝わりやすくなります。
また、「生物学的性別と乳首の露出規制の矛盾」という言葉を直接使うことで、質問者が探求しようとしている本質的な問題を明確に提示できます。
さらに、「あえて男性の事例を取り上げている」と述べることで、女性化乳房を持つ男性の事例が単なる例示ではなく、意図的に選ばれたものであることを強調できます。
このように、質問の背景や意図を明示的に述べることで、回答者が文脈を適切に理解し、質問者の求めている視点から答えを提供しやすくなるでしょう。
User:
疑問:FreeTheNipples運動の観点から考えると、女性化乳房を発症した男性の胸部の扱いはSNS上でどのようになるのでしょうか?生物学的性別と乳首の露出規制の矛盾を浮き彫りにするために、あえて男性の事例を取り上げています。
段階的に思考してください。各種snsで思考してください。思考が結論を出すには早い場合、"続きます"と述べてください。結論を出すに十分な程考えたと感じられたら、"次の返信で結論を述べます"と述べてください。
Claude:
FreeTheNipples運動の観点から考えると、女性化乳房を発症した男性の胸部の扱いは、SNSにおける乳首の露出規制の矛盾を浮き彫りにする興味深いケースだと言えます。
Twitterは他のSNSと比べて比較的寛容ですが、女性化乳房を持つ男性の乳首の露出がどう扱われるかは微妙な問題です。男性の乳首は一般的に許容されますが、女性的特徴を持つ乳首の露出は、規制の対象となるグレーゾーンに入る可能性があります。続きます。
Metaの規約では男女問わず乳首の露出はNGとされているため、女性化乳房を持つ男性の乳首もアウトだと考えられます。ここでは生物学的性別よりも、乳首そのものに焦点が当てられている印象です。男女平等とも言えますが、議論の余地はありそうです。続きます。
User:
続き
Claude:
YouTubeは教育的・学術的文脈での乳首の露出を一部認めていますが、その判断基準は明確ではありません。女性化乳房を持つ男性の乳首が学術的文脈で許容されるのか、それとも性的コンテンツとみなされるのかは、ケースバイケースの判断になりそうです。
TikTokの規約では男女の区別なく乳首の露出が禁止されているため、女性化乳房を持つ男性の乳首も例外なくアウトとなる可能性が高いです。生物学的性別よりも、乳首そのものに規制の主眼が置かれていると言えます。
続きます。
User:
続き
Claude:
SNSにおける女性化乳房を持つ男性の乳首の扱いを総合的に見ると、興味深い矛盾が浮かび上がります。
多くのプラットフォームでは、生物学的性別に関係なく乳首の露出自体が規制の対象となっています。この点では、男女平等とも言えます。しかし、そもそも男性の乳首は一般的に許容される風潮がある中で、女性的特徴を持つ男性の乳首までもが規制されるのは、生物学的性別と社会通念の乖離を示しているようにも見えます。
一方、Twitterのように男性の乳首の露出を一定程度許容するプラットフォームでは、女性化乳房を持つ男性の乳首の扱いがグレーゾーンに入ります。これは、生物学的性別と乳首の露出に対する社会通念の間に明確な線引きがないことの表れとも言えるでしょう。
User:
Claude:
FreeTheNipples運動の観点から見ると、女性化乳房を持つ男性の乳首の扱いは、SNS上での乳首の露出規制における矛盾や曖昧さを浮き彫りにしていると言えます。
多くのプラットフォームでは、生物学的性別に関わらず乳首の露出自体が規制の対象となっており、この点では男女平等とも言えます。しかし、社会通念上、男性の乳首の露出は一定程度許容される中で、女性的特徴を持つ男性の乳首までもが一律に規制されるのは、生物学的性別と社会的認識の乖離を示しています。
一方、Twitterのように男性の乳首の露出を一定程度許容するプラットフォームでは、女性化乳房を持つ男性の乳首の扱いが曖昧なグレーゾーンに入ります。これは、生物学的性別と乳首の露出に対する社会通念の間に明確な線引きがないことの表れでもあります。
結論として、女性化乳房を持つ男性の乳首の扱いは、SNSにおける乳首の露出規制の一貫性のなさや、生物学的性別と社会通念の乖離を浮き彫りにしています。このケースは、FreeTheNipples運動が提起する問題、つまり乳首の露出に対する男女差別的な規制や社会的タブーの問題点を象徴的に示していると言えるでしょう
User:
Claude:
こちらこそ、興味深い問題提起をしていただきありがとうございました。
FreeTheNipples運動が提起する乳首の露出規制に関する議論は、生物学的性別と社会通念の間にある複雑な問題を浮き彫りにしています。女性化乳房を持つ男性の事例は、この問題を考える上で示唆に富むケースだと言えます。
SNSにおける規制の在り方は、社会通念の変化に伴って今後も変わっていく可能性があります。一方で、このような議論を通じて、性別に基づく差別的な規制の問題点が広く認識されることも重要です。
このような問題提起は、社会の多様性や包摂性について考えるきっかけにもなります。今回の議論が、性別や身体的特徴に関する固定観念について再考するための一助となれば幸いです。
今後もこうした社会的に意義のある問題について、オープンに議論できる場が広がっていくことを願っています。本日は貴重な機会をいただき、ありがとうございました。
そういえば旅行好きにしばしばみられる行動として、訪問場所の事前チェックがある、とふと思った。
旅行に行く前の準備行為として、絶対に逃すべきではない場所や食べ物を入念にチェックする。
現地でセルフィを撮って、インスタなどSNSで送る、という行動がみられる。
最近では、インバウンドで来日する外国人にとてもよくみられる光景だ。
映え写真をとっては、憧れのいかにもNIPPON!な光景に興奮して即座にSNSで送る。
旅行好きの人たちにみられるこれらの行動は、スタンプラリーとほぼ同じ意味を持つ。
日常との差異の体験やよその世界とちょっとだけ繋がったりできたことの証明と自己顕示が欲しいのだ。
その意味で、他の人のインスタと同じ構図で撮影することが現地に到達したことを証明するうえでとても重要。
このような形で消費される、「日常では手に入らない新しい体験」は、要するに、「ごっこ」であり、エコツアーにしてもアグリツーリズムにしても何しても、
現地との関係性を一瞬だけ体感できる、という意味で、旅行者が憧れていた「日常との差異」や「関係性」を消費する行動なんだろうな。
さて、それが近年の傾向なのか?というと恐らくそうではなく、これは、かつての絵葉書を送るというスタイルから変化した形で、
東海道五十三次の時代からそうであっただろうし、男女にも差がなく、古今東西それほど大きな違いはなさそうだ。
日常との差異を消費し、疑似的な関係性に癒されるというのは、昔からあったのだろう。
ところで、僕は男性で、わりと旅行好きというか、仕事柄、年がら年中、スーツケースをころがしている。
そんな男性の立場からみて、女性のほうが傾向として強く、逆に男性に弱いことでひとつだけ思い当たることがある。
それは、旅先で一時的に体験する関係性を、その後も持続させようとする傾向だ。
旅先で知り合った人とその後も連絡を取り合ったりとする傾向は女性のほうが強い気がする。
「おもいでぽろぽろ」というジブリの高畑勲監督の映画(1991)がある。
都会育ちのOL女性が田舎暮らしに憧れる、というところからスタートするこの物語は、農家体験をしてゆくうちに気持ちが変化し、
この映画の場合、旅先の地に女性を迎え入れる男性やその家族という存在があるが、
いろいろふりかえってみると、必ずしも現地にそのような迎え入れるひとや団体がなくとも、旅先で憧れた現地に、そのまま飛び込んでいく女性というのをしばしばみてきた。
アジア、アフリカ、中南米で。かつて、「なんでこんなところに日本人」という世界の片隅で暮らす日本人を紹介するテレビ番組があったが、その番組で紹介しているのも、若い女性の活動が目立っていたように思う。
「男女差」という視点で、いろいろ参考情報をみていくと、例えば
海外留学の男女比も女性のほうが10ポイントくらい高いのだそうだ。
また、男女管理職別で見ると、男性は自社内のキャリアアップの意向が高いのに対し、女性は男性よりも転職でのキャリアアップ意向が高いのだという。
男性は女性よりも保守的で、外に関心がない、という傾向はそこから見て取れるのだが、
だが!しかし、、、、
果たして、そんなふうに男女差を単純に断じていいのか?とも思う。
それでも確証はないけれども、これらの数字が出ている以上は、それにむすびつく何かしら男女差のような背景はありそうだ。
まずは、男女共同が叫ばれつつも今をもって日本は男性社会であるという事実から出発してちょっと考えてみる。
突飛な発想かもしれないけど、1970年代初めごろの歌謡曲で「瀬戸の花嫁」という歌を思い出した。
瀬戸内海の小島へ嫁が嫁ぐ様・心情と、新生活への決意が歌われている。
「あなたの島へ お嫁にゆくの 若いと誰もが 心配するけれど 愛があるから 大丈夫なの」
当時、女性が他の家に嫁ぐということは、程度の差こそあれ、この歌が表現しているように、
ホームからアウェイに飛び出してゆくことであり、その後一生アウェイで暮らす覚悟が必要だった。
ドラマ「おしん」(1983年)も思い出す。朝の連ドラとしては異例の一年間の長編ドラマとなった「おしん」。
そこでは、さらにもっと幼少のころから嫁ぎ先へとひたすらアウェイで過酷な人生が描かれ、しまいには終戦時に夫が自殺し、どん底な半生が半年くらい描かれている。物語の後半では、敗戦後、残された子供を抱えて女手ひとつで小売店を立ちあげ、自立してゆき、やがて息子へ引き継いでゆく姿が描かれ、多くの女性の共感を呼んだ作品だった。
孫までいるおばあちゃんとなったおしんだったが、このドラマは、事業を引き継いだ息子が無謀な事業拡大を始めたことで経営リスクに直面し、育て方を間違えたと自信を喪失したおしんが、過去を振り返るために原点である山形への旅に出るというシーンから始まっている。一年近いドラマの終盤300話くらいから、その伏線を回収し始めるという、息の長いドラマで、橋田壽賀子、すげえという感じしかない。
アウェイな世界でたくましく生き抜くおしんとは対照的に、登場する男性はどいつもこいつもダメな男ばかり、というのも印象に残った。(補記:特におしんの夫は軍組織に尽くし、結果として多くの命を亡くした責任を感じて自殺したという筋書きだが、拠り所となる国家、軍などのホームベースが敗戦により瓦解したことのショックが実際のところの引き金だろう。)
「嫁ぎ」に象徴されるように、簡単に引き返せないような事柄に身を投じるエネルギー、勇敢さ、芯の強さは、男性社会のなかで女性に文化的に育まれたものなのかもしれない。
昨今では、結婚を就職になぞらえる向きもあるけれど、かつての日本社会はいったん他の家、姑の支配下に入ったら最後、そんなに生易しい現実ではなかったはずだ。
男性は芯がないくせに保守的で臆病だ。外の世界を渡り歩いていて、仮に失敗してもギリギリ、ホームグラウンドにもどってこれる、みたいに何か安全弁のようなものを男性社会そのものが仕組みとしてもっていた。だからその範囲でしか外に出歩かないのだ。ふるさとの家業を継ぐなんて選択肢が30代くらいの人生の岐路に用意されているとかね。
一方、女性は嫁ぐにしても出戻るにしても自分の居場所を確保するには厳しい世界。
「嫁ぐ」という習慣、因習、宿命から生まれた、抑圧されてきた女性の生きるエネルギーが、むしろ社会を変える力になってゆく。
これはなかなかパラドックスだと思った。
翻って、旅行好きの女性について思うことは、ホームグラウンドからアウェイな世界に飛び込むという意味で
かつての日本によくみられた嫁ぐという宿命と旅は似たところがある。嫁ぐ行為が違うのは、それが片道切符であり、二度と戻れない覚悟が必要だということだ。
若い女性にとって、日常空間から飛び出す、という旅行体験は、やがては「嫁ぐ」という運命が現実世界で待ち構えていた時代には、疑似的に自分の覚悟や能力を試す場としてより大きな意味があったかもしれない。
嫁ぎ先である日本社会、日本人男性に漠然と失望している場合、希望がもてなければ、いずれにしてもアウェイな世界で生きる宿命ならば、
いっそのこと、旅先の現地でとどまって残りの人生を過ごすことも選択肢としてはあり、くらいの感覚が深層心理にあるのではないかと妄想する。
一方で、男性のほうは、ホームグラウンドである故郷というものが概念として存在していた時代は、旅というのは、違った意味を持っていたと思う。都市に何世代も定着した人口が急増したここ四半世紀より前の20世紀の話だ。
かまやつひろしの歌で「どうにかなるさ」というフォークソングがある。
「見慣れた街の明り 行くなと呼ぶ」
この世界観は、瀬戸の花嫁のようなアウェイな世界で生きる覚悟は感じられない。アウェイでもどうにかなると思っているのだ。
なおかつ、ホームグラウンドを出て行ってもなお、ホームから温かい視線を旅人である自分に向け続けてくれていると信じているのであり、「男はつらいよ」のフーテンの寅さんとほぼ同じ世界観だ。ボヘミアンを気取って出て行っても、いざとなったらただいまといって帰れる場所がある。
そういえば、寅さん映画も、旅先での関係性を持続できないということがひとつの大きなテーマになっていることに気がついた。
民俗学者の宮本常一は、故郷を捨てて放浪する旅人を考察した文章のなかで、そうした旅人が
地元を去って放浪した末に、やがてひょっこりと故郷に戻ってきて、旅先で得た経験や新しい知識を広め、地域の活性化に寄与する機能を果たしていたことを、
世間師という言葉で表現した。フーテンの寅さんのことを考えていたら、そんなことも思い出した。
世間師というのは、故郷側の人間が出戻りの人間に対して名付けた呼び名で、一種の敬意が込められている。
嫁ぐということが待ち構えておらず、ゆくゆくは地域社会でリーダーシップをとっていかなければならない男性の潜在的な意識として、旅は武者修行であったり、広く見聞を広め、世の中の解像度を上げるための行為だったのかもしれない。会社組織が全国各地の赴任経験を重視しているのも同じ価値観といえる。
かつて東南アジアへのセックスツアーなどがあったように、赴任先、旅先で恥をかき捨てるのも主に男性だ。
男の旅というのは、ちまちましたもので火遊びのようなもの。家から離れて外の空気を吸いたいというものだ。近所のスナックだったり、家庭が壊れないようにという不安があるからあまり大きなことはできないが、脇が甘いから夫が捨てたラブホテルのマッチを妻がゴミ箱から発見してしまう。やまだ紫の「しんきらり」という漫画では、そんな情景が描かれていたのを思い出した。
しかし、この四半世紀、女性の社会進出や、結婚観は大きく様変わりし、嫁ぐということを前提としない将来像を女性が模索する時代になった。
テレビドラマも、90年代以降、女性の社会進出を反映して、トレンディドラマに代表されるように、キャリアウーマンがオシャレなレストランで食事する、みたいなシーンが増えた。
東京ラブストリーとか。憧れのロールモデルが描かれるようになったということだ。ドラマの世界にあこがれる、ということが90年代まではあり得た。
しかし、現実の女性の社会的地位はどうだったかというと、総合職課長以上に登れるのは一握りで、相変わらず賃金格差があり、お茶くみやらと男性社会における旧態依然とした女性の役割が押し付けられていたのが現実だ。その現実を90年代のドラマ「ショムニ」でよく表現されていたように思う。
しかし、さらに時代は変わって、憧れの東京に向かって、急速に人が流入しつづける時代は終わりつつあり、受け入れるキャパもなくなってきた。「おもいでぽろぽろ」の主人公の少女時代(1970年代)は、都会の夏休みのラジオ体操に二人しか参加していないほど、ふるさと=田舎をそもそも持たない世帯が少なかった。今では想像もできない光景だ。
中長期的には東京一極集中のトレンドは変わらないものの、それは不動産価格のトレンドに連動したもので近隣県から流入が中心。一方で、田舎というベースをもち帰省が必要な人というのは減っているのではないか。首都圏の人は首都圏で世代を重ねるし、地方の人は地方で価値を見出し、仕事をみつけ、結婚し、次世代を育てる、という人口流動の安定期になってきたようにも思う。帰省という形でつながっていた地方(ふるさと、ホーム)との関係が途切れてきているといってもいい。
そうなると、都会の人間が地方に見出す価値というのものというのは、失われた関係性そのものに重きがおかれるようになるのは自然なことだ。
その結果、その後に続くドラマの傾向としてみても、(都会で活躍するキャリア)女性の理想像ではなく、もっと実態に即した現実を映し出す、自分探しのようなドラマが増えていったように思う。
一昨年のドラマ「ファーストペンギン」とか「ユニコーンに乗って」なども、スタートアップ企業をテーマに女性の自画像を模索した作品で、近年の傾向を象徴しているように思えた。
「ファーストペンギン」のように地方移住をテーマにした作品は、アウェイな環境で女性のポテンシャルを試そうとするという意味では、「嫁ぎモデル」の延長線上にあるような気もするが、都会との関係性が交錯しながら物語が進むところに、考えるヒントを与えてくれるドラマではあった。
そんなことをおもった。そもそもの旅行の話からはかなりズレてしまったけれど、女性が旅に何を見出しているのか、というのは女性の人生観ということと絡めて考えてみると、興味深いテーマだとは思う。
とりとめもないメモです。
上記の書きなぐりをAIが次のように要約したので感心した。ここまで断言できないからゴチャゴチャ書いてたのに。
旅行好きの女性の特徴と男女差
旅行好きの人々は、事前に訪問地の情報をチェックし、SNSでの共有を楽しむ傾向がある。これは、日常からの脱却と、新しい体験への憧れを表している。特に女性は、旅先での関係性を持続させることに価値を見出すことが多いようだ。
歴史的に見ても、男女間で旅行に対するアプローチに大きな違いはないものの、女性はより積極的に新しい環境や文化に飛び込む傾向があると言える。これは、社会的な役割や期待に対する反応として、女性が自己実現のために旅行を利用していることを示唆している。
一方で、男性はより保守的で、旅行を通じて得た経験を故郷に持ち帰り、地域社会に貢献する傾向がある。これは、男性が社会的なリーダーシップを担う役割を果たすことが期待されているためかもしれない。
故郷と都会の関係性の変化
現代の日本では、故郷と都会の間の伝統的な絆が薄れつつある。かつては、人々は故郷を離れて都会で働き、定期的に帰省することで地方とのつながりを保っていた。しかし、今では都会で生まれ育った世代が増え、地方への帰属意識が低下している。これにより、都会の人々が地方に求める価値は、失われつつある関係性そのものになっている。
この変化は、地方と都会の間の人口流動の安定化を示しており、それぞれの地域で価値を見出し、生活を築く傾向が強まっている。結果として、地方への憧れや関係性の再構築は、新たな形での自己探求や社会的な動きに影響を与えている。これは、女性が旅行を通じて自己実現や自己探求を行う動機に影響を与えていると考えられる。
旅行は、日常からの一時的な脱却を提供し、新しい環境や文化に触れる機会を与える。特に女性にとっては、旅行が自分の居場所を見つける手段となり、故郷とは異なるアイデンティティを探求するプラットフォームになることがある。
それまで当たり前と思われていなかった権利を得るためには多少強引でも具体的な手段に出て問題化する必要がある。
その結果様々な権利が勝ち取られてきたのであって、決して事なかれ主義の、多数派に阿った穏健なフリーライダーによってではない。
・・・・と言う様な事を考えると、車椅子以外でも、表現の自由関連でも同じ事が言えるのでは?と思えてきた。
車椅子やその他差別関連の話題では過激な行動や時に誰かに迷惑や負担をかける行動、チキンレースともとれる「現在の限界にチャレンジし、限界を拡張しようとする」ような行動が称揚される一方、
何故かオタク関連、表現の自由関連(だけ?)ではその真逆、「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」と言ったことが叫ばれる。
よくよく考えてみると不思議な事では?
いや、不思議ではないのかもしれない。
車椅子の件でも「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」という人は当の車椅子利用者の中からも出てきている。
そうした人々は一般に「保守的」だと言われるわけだけど、オタク達もまた特に最近は保守化していると言われる。
つまり、「チキンレースしないようにしよう」「なるべく目立たないようにしよう」というこれまでのオタク達の方針は、オタクの保守的な傾向の反映だったのでは?どちらも保守が言っているのだとすれば説明が付く。
もしそうだとするならば、そうした保守的な考えが間違っているとするなら「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」といった考えは保守的な誤りであり、
行動に出た車椅子利用者やその他の被差別者に対し、「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」と言っていた保守主義者と根本が同じだという事になるのでは?
オタク内部にもそういう人は居たのだけど、それも車椅子利用者の中にもそういう穏健派が居た事を考えるとぴったり一致する。
権利を得るためには、多少現場に負担を与える行為や、他者(往々にして差別の加担者)にストレスをかける行為、美術品等に致命的ではない行為を仕掛けてパフォーマンスする行為等色々な事が現代では許容される。
だと、するなら、オタクが権利や表現の自由を得る為にも様々な行為が許容されるし、むしろそういった行為こそが必要だという事になる。
そしてそのような行動に出るオタク版ローザ・パークスに「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」と批判する人々は、差別的な保守主義者という事になるのではなかろうか。
ブコメを見ていたら非常に色々な示唆に富んだ面白いブコメがトップに上がっていたのでサンプルとして取り上げてみたい。
どちらかというと「喫煙権」とかいう架空の人権に近いんじゃないかな。「喫煙権」は、公共の場所でタバコを吸うというチキンレースを繰り返した結果、多くの市民をガチギレさせて今この有様です笑
「「喫煙権」とかいう架空の人権」というのがまず面白い。架空の人権、人権に架空と実在(?)があるのかというのがまず面白くて、全ての人権は架空と言う気もしなくもないけど、それ以上に
今回話題に挙げたようなローザ・パークスやその他車椅子等におけるアクションというのは「それまで認められていなかった人権」つまり「それまで架空だった人権」を架空でなくしたアクションだとも言える訳で、
その話題で「架空の人権」に対し冷笑的なコメントが支持を集めるという現象そのものが非常に面白い。
更に興味深いのは、このコメントがもし仮に件の車椅子の件やその他差別に対するアクションに対して付けられた物だとしても、多少の改変を加えれば実は実に「ありそう」なコメントになってしまう点。
いかにもな保守主義者が車椅子その他の権利を拡張するためのアクションに対し「「喫煙権」とかいう架空の人権に近い」「公共の場所でタバコを吸うというチキンレースを繰り返した結果、多くの市民をガチギレさせて今この有様です笑」とコメントしている様を思い浮かべてみて欲しい。
この点で図らずも「オタク版ローザ・パークスに「チキンレースするな」と批判する人と、本物ローザ・パークスや車椅子利用者に「チキンレースするな」と批判する人がぴったり重なる」という本増田の主旨を見事に体現しているとも言える。非常に興味深い。
更には「多くの市民をガチギレさせて今この有様です笑」と、多くの市民=マジョリティがこうした人権の正否を握っていると臆面もなく主張していながら、ここまでスターを集めている点も評価したい。
そう、彼らによれば、車椅子利用者や障碍者、特定の人種や性別の人権は「多くの市民」が決定するものなのだ。
この増田で取り扱った人権や権利のためのアクションは、それまで存在しなかった権利を生成する、という時間的で動的な権利生成のプロセスである。
しかしながら多くの(往々にして保守的な)人々の頭のなかでは権利とは「既に今あるもので十分」であり、これ以上の変化を想定しない静的な構造である。
従ってそこでは「架空」と「実在」がいとも容易く区別され、だからこそ「「喫煙権」とかいう架空の人権」という言葉遣いが可能になる。彼らの脳内にはそれまでなかったような権利が生成するようなプロセス、つまりローザ・パークスが成し遂げたような事や、車椅子利用者たちが今まさに成し遂げようとしているような事ははなから存在しない、という訳だ。
悲しいかなこれはひとつの現実であり、このコメントが支持を集めたのはその現実をまさに見せつけている。その意味でこのコメントは非常に示唆的であり、ある意味で意義深い。
人々の頭の中に有るのは単に「どちらの味方か」「どちらの敵か」という至って単純な二項対立であり、
観察:
推測:
というのも、ハリウッド映画などを見ていると、叫んだり息を呑んだりするのだ。「見ていられない」シーンや、痛ましい負傷をするようなシーンで。
多分、母はブレードランナーやインセプションを見ても、訳が分からないだろう。ロイの感情や入れ子の舞台を読み解けるようには思えない。
カスみたいな筋書きの実写ドラマでキャイキャイやってる層というのは、テレビのそれが廃れないのを見ると、かなり厚いのだろう。
「両性の合意のみに基づいて」の「のみ」は、婚姻を異性婚に限るという意味ではなく、婚姻をする2者以外の意志の介入(端的には家制度下による両者親族の意向など)に歯止めをかけるために入れられた文言である、というのが、24条1項の立法者意思についての一般的理解。そもそもこの憲法が誕生した時代に、「同性同士が結婚する」というアイディアは、法曹界だけでなく当時の同性愛を実践する当事者にとっても全く現実的なものではなかった。
このことから、立法者意思説に立った場合も法律意思説に立った場合も、24条1項は、同性婚を積極的に禁止しているわけではなく(人間と法は、その時点での想定の枠外のものを「禁止」しない)、同性婚を「想定していない」(未規定)という解釈が一般的である。2021年の札幌地裁判決に始まる各地での同性婚訴訟の判決も、このような解釈に基づいている。その点で、https://anond.hatelabo.jp/20240316113208 の増田が書いている「憲法は同性婚を想定していない、というのは憲法学会の通説であり」は100%正しい。
ただし、同じ増田が追記で書いている「両性の合意がない以上、それに準ずる制度は作れたとしても憲法上の婚姻には該当しないって理屈付けしなきゃ無理」のほうは間違っている。「憲法で同性の婚姻が保障されていない状態のまま、民法戸籍法において規定された婚姻を同性に拡張すること」自体は法律論的には問題がない。憲法上では未規定だった対象や事項を下位法で包摂するというのは、憲法24条以外の憲法条文でも当然存在する。たとえば肖像権・プライバシー権は憲法上では想定されていなかった未規定の権利だが、第13条の幸福追求権という抽象的な包括的人権から敷衍される具体的権利性のひとつととらえることにより、後に民法で規定され保護されることになった。そこは、増田も引用している高橋和之先生がこのように書いている通りである。
「日本国憲法は、人権をそこで列挙した個別的人権類型に限定したのではなく、時代の変化に応じて生ずる個人の新しい必要・要求が具体的人権として個別化されることを認めている」
なお、ここで元増田に都合の悪いことも書いてしまうと、元増田が引用している高橋和之氏の「立憲主義と日本国憲法」 の
婚姻の自由については憲法24条が保障しているが、近年議論され始めた同性間の結婚まではカバーしていないというのが通説である
という部分は、実は2020年発行の第五版では「通説であった」と改められている。このことは国会質疑でも取り上げられている。https://twitter.com/P_reDemocracy/status/1597644240489701377
それはともかくとして、2021年札幌地裁判決では、少なくとも同性カップルに対して権利保護の仕組みを一切立法しないのは国会の裁量範囲を超える違憲状態であり、このような違憲状態を解消するうえで、実際に現行の民法戸籍法が規定する婚姻を同性に拡張することで解消するか、それとも海外のシビルユニオンやPACSのような、婚姻と似たような形で同性間にもパートナーシップの法的保護を保障する、別建ての法律を新たに創設することで解消するかは、国会の広範な裁量に委ねられる、としていた。以後の各地域での同性婚訴訟の基本的な流れも基本的にはこの立場にあった。「同性間に結婚を許してもいいし、同性向けに(あるいは同性も含めて)結婚みたいな別制度を作ってもいいから、とにかく何かやりなさいよ」ということだ。
一方、今回の札幌高裁判決は、この建て付けから一歩踏み込んで、現行民法戸籍法が同性間の婚姻を認めていないことは、憲法24条1項にも違反するとしており、ここまでの判決とは大きく意味合いが変わった。これは同性婚訴訟の当事者を支援する法曹にとっても予期せぬ判決で、驚き混じりの賞賛の声が出ているほどだ。ただし、その「違憲である現行民法戸籍法のあり方」に対してどのような立法的解決を図るかは、引き続き立法機関たる国会の裁量に任されていると考えられる。よって、憲法24条1項の定める「婚姻」の下位分類として、現行民法戸籍法の定める「婚姻」と、新たに民法で規定される「何か」(たとえばシビルユニオンやPACSのような婚姻類似制度)が併存する、という建て付けも可能であろう。その点では、札幌地裁判決に続く一連の判決での示唆と、求める立法的解決の形が激変しているわけではないと思う。
とはいえ(これまで保守派が「同性婚を禁止している」と認識していた)24条1項自体にもとづいて「現行民法戸籍法は違憲だ」という判決が出るというのは結構すごいことで、おそらくこの判決が出たことで「国会がどのあたりを落としどころにするか」というラインも変わってくると思う。おそらく自民党保守派も「婚姻制度が提供する法的保護のごく一部について最低限保障するようなショボいシビルユニオンを作れば違憲状態は解消され、保守派も何とか納得するだろう」だったものが、「同性パートナーシップを現行民法戸籍法の「婚姻」には絶対入れさせたくないが、そのためには、あるていど充実したシビルユニオン法案を提案せざるを得ない」という感じになるかもしれない。法相から以下のような物言いが出てきたのはその潮目の変化を表していると思う。
小泉龍司法相はこの日の定例会見で「国民生活の基本や国民一人一人の家族観にも関わる問題で、国民的なコンセンサスと理解が求められる」とし「われわれも、議論を進めるという意味では貢献できるところがある」
岸田首相「同性婚規定、なくても憲法に違反しない」 札幌高裁が「違憲」判決出したのになお後ろ向き:東京新聞 TOKYO Web
与党内でも、公明党はもともと同性婚推進派だし、自民党内で同性婚反対の論調をリードしてきた安倍派はいまズタボロの状態にある。外堀は徐々に埋まりつつある気がする。
飽きた。はじめは「成田成田うっせーな……せや!何者か増田で調べたろ!」という軽い気持ちで始めたが、こんなにも時間がかかるとは……
ちなみに内容の正確性は確認してません。もう疲れたよパトラッシュ状態なので、気が向いたらやる(多分やらない)
参考:
[老人の集団自決発言の何がヤバかったのか解説する](https://anond.hatelabo.jp/20240316075359)
[アンチ成田「老人に集団自決とか言うな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」 老害権力者「そうだそうだ!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」](https://anond.hatelabo.jp/20240316022929)
[なぜタマキ○ンは老人大量虐殺おじさんをCMキャラクターに起用しようと思ったのか](https://anond.hatelabo.jp/20240314131813)
[例の発言のほかは変な眼鏡で視力悪くなりそうという印象しかないな](https://anond.hatelabo.jp/20240313201752)