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2024-03-18

anond:20240318201243

できない理由考える人等ばっかりだからしょうがない。

しかもできる理由を考えることを精神論だと曲解するんだからさらにどうしようもない。

2024-03-17

牛タン50人前

かに客は食べ放題サービスを対価を支払い受けている。

ところが、牛タンを独占し、店の持続的なサービス不能にする権利までは有していない。

問題契約した客個人に引きつけるか、多くのお客とそれに対する店の持続的なサービスに引きつけるかで意見は変わる。

牛タン50人前頼んで何が悪いのか、と考える人はある程度社会集団から自立し、個で生きているタイプ

だめだという人は、社会集団の流れを想定して生活をしているタイプ

anond:20240317073034

いいえ、Study hard ではなく、態度(attitude)です

努力って語源はともかく現代では貴族欺瞞しか使われないからね

 

ついでに人を作るのは能力ではなく、態度

 

たとえば、自分の専門外に安易言及したり、陰謀論を唱える学者を賢いと考える人ほとんどいないでしょ

でも、能力(Ability)だけにフォーカスを絞った客観的事実は、高学歴で少なくとも低いIQではない

  

賢い人の振る舞い、穏やかな人の振る舞いをしていれば、周りの人はそのようにその人を認識するし、

長年にわたって積み重ねられた行動や習慣は、やがてその人の性質性格と呼ばれるようになる

誰が言ったか不明だけど、世界中で似たようなことが大昔から言われている(マザーテレサではないです。ウィリアムジェームズ?)

言葉に気をつけなさい、それは、いつか行動になるから

「行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから

「習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから

心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。

  

あとこれだな

>「乗り越えられる壁しか乗り越えてこなかっただけですよね」

https://anond.hatelabo.jp/20240317004939#

2024-03-16

anond:20240316204934

若者が張り合う心理はいくつかの要因があります。以下に、なぜ若者が張り合ってくるのかをいくつかの観点から説明します。

1. 負けず嫌いな人:

- 何かと張り合ってくる人の中でも、様々なタイプがいます

- 競争だったり順位がついてしまものに関しては、「絶対自分が一番にならないと気が済まない」と考える人がいます

- この性格は俗に「負けず嫌い」と言われ、自分よりも優れている人がいることを嫌います

- 例えば、スポーツ選手秀才などにも多く見られ、うまく付き合えれば大成する性格かもしれません。

2. 自己顕示欲の強い人:

- 自己顕示欲が強い人は、自分意見存在を周りにアピールしたいと考えます

- 他人よりも目立ちたいという心理があり、時には狂気となってしまうこともあります

- 自己顕示欲が強すぎると、他人を下げて自分が注目されることを目指すことがあります

3. マウンティングをする人:

- 張り合ってくる人は、自分の方が相手よりも優れていると示す行動を取ることがあります

- 例えば、高いものを買ってきて自慢するなど、自分が上に立ちたいという心理が働いています

- このタイプの人は、自分が不幸だったり精神的に満足できない状況にいることがあります

4. 優位な立場に立ちたい人:

- 張り合ってくる人は、自己顕示欲と似ていますが、自分が上の立場に常に立ちたいという心理が働いています

- 相手を下げて自分が群れの中で優位であこがれられる存在になりたいという目的があります

張り合ってくる心理は人によって異なりますが、ライバルとして高めあうこともあれば、足を引っ張り合うこともあります。注意深く対処することが大切です。

2024-03-15

差別するように見えるふるまいをすることと

差別することは

違うじゃん、と思うんだけどおそらくこの考えは歓迎されない

同じじゃん、と考える人の方が圧倒的に多い気がする

でも違うことだと考えなければならないんじゃないか?と思う

「○○が『差別する人』なんだと知って悲しくなった」とか言っちゃって

きちんと言うなら『差別しているように見える行動をする人』だと思うんだよ

することとするように見えることは違うと思うんだ

なんて言おうものなら

ハッ、そんなんほぼ一緒だし変わらないしいちいちこまけーんだよハゲ、と批判を受けるだろうと想像してる

そうだよね

実に些細な言葉の違いなんだ

でも私はそれが大事だと思うんだ

2024-03-14

[] 2024-03-14

箴言の「愚か者」に関する文を読むと、私自身が本当に愚か者に思えてきます

しかし「自身を賢いとみなす者」「軽率発言をする者」は愚か者以下の存在である箴言にはっきり書かれています

現代ソーシャルメディア時代をまるで言い当てているかのようです。

ソーシャルメディアSNSのこと)では、自身を賢いと思ったり、軽率発言をしている人たちがトローリングをしています

ある人は「匿名活動していたらそのせいで職を失ったので、実名活動するようになりました」と言っていましたが、匿名であろうと実名であろうと、口数が多ければ罪を避け得ないと言われます

かに彼は実名活動することによりたくさんのフォロワーに囲まれることとなりましたが、彼のマウンティングに傷つく人はたくさんいるようです。

私が嫌いなのは、知性で張り合おうと考える人たちのことです。

議論というのは、内容を見て判断するべきものです。それを、「低学歴が何を言っても無駄である」といったことを言う人がいます

まるで高学歴自分は賢いか議論する価値があるとでも言いたいような、そういう人たちがいるようなのです。

肩書が何であろうと、神の前ではみな一人の証人です。

その証人が正直なことを言っている限り、知性で張り合う必要はないのです。

ところで、私は最近、「ユーモア」というものがなんなのかわからなくなりつつあります

例えばちびまるこちゃんで、山田おちゃらけているときに、「ははは、馬鹿臭い」と笑うのは、嘲りに基づいています

あるいは芸能人ネタを見るときも、基本的には馬鹿らしさに対する嘲りではないでしょうか。

たくさんの「笑い」が、実は嘲りに基づいていたことを認識すると、何が良い「笑い」なのかわからなくなってきたのです。

一言えるのは、私が犬と遊んでいるときの笑いは嘲りではないということです。

そしてソーシャルメディア上の「笑い」の多くが嘲りに基づいていることを認識したので、「ソーシャルメディアを楽しむ」というのが、一体どういうことなのかわかりません。

単に情報を共有するのが目的であるなら、怒りを誘うような「おすすめ」も必要ないし、トレンドタグ必要ないでしょう。必要情報をくれる人をフォローすればいいだけです。

しかしこの「必要情報をくれる人」というのも厄介で、必要性に基づけば99%はノイズなのです。

すると、ソーシャルメディアの使いみちはもはや「仲のいい友人と連絡を取るためのツール」ぐらいで良いような気がしてきますし、知性をひけらかすために他人を煽る必要はないと思うわけです。

要約すると、「愚か者以下の存在」がソーシャルメディアユーザーには多くいますインフルエンサーがその例でしょう。

歴史的に培われてきた、箴言のような倫理観は、現代において軽視されているように見えます

ソーシャルメディアに保存された情報は今後何十年と経っていったときにどうなるのか。恥ずかしい黒歴史を溜め込むだけのものになっているかもしれませんね。

2024-03-13

anond:20240313160212

ゆーても秘密質問なんて最初に設定してから回答を求められることがまずないわけですよ

10年に一度あるかどうか

そんな質問を真面目に考える人間がそこまで多いかどうか、

真面目に考えなかった人間バカと切り捨てるのも違うと思います

2024-03-12

anond:20240312155405

私はオートクチュール制作現場に対する知識ほとんどないに等しいが、ステークホルダーの多さや切迫感は目を見張ったし、最終的に時間との戦いになるさまには共感できる部分もあった。私などが共感を覚えるなんて言葉選びとして軽率では?おこがましいのでは?という点は一旦脇に置くとして、スケジュールの甘さや時間管理の不備ではなく、自分名前成果物を提出するときに「もう少し、どうにか良くできるのではないか」と思えてしまい手を止められなくなった経験は、私に限らず、ビジネスパーソンとして経験したことがある人も多いはずだ。さらにそれが、オートクチュールコレクション!?その後のルックメディアなどで写真動画そしてモデル取材者の感想とともに二次三次と広がる。なんて覚悟のいる仕事だろう。「とりあえず自分の持っているボールをなんとかして、次の人に投げれば、なんとかしてくれる、そしてそれはとりあえず所属会社名前として世の中に出る」ような仕事のやり方と比較すると、全く異なる状況だ。自分名前作品を出す、誰も拭えない。そんな状況、いつまでだって試行錯誤したくなるに決まってる。これで完成だ、と手を止める瞬間はどう決めるのだろう?、あるいは降りてくるもの?そんなことも思った。

試写会では作品上映後にトークショーが行われ、WIRED編集長の松嶋氏が進行をつとめ、登壇者から話を引き出した。

松嶋氏はアフリカゴミ山で服が舞う様子や鳥が飛ぶ様子が美しかったというようなことをおっしゃった気がする。実際に美しい映像だと思った。嘘みたいに大きい鳥(そして実際にも多分、とても大きい鳥)が前後左右に悠然と歩いたり止まったりしている間でゴミを拾う子供女性映像洋服やその切れ端などが鳥とともに空を舞う映像。その映像を現地で撮影した関根氏と中里氏は、現地で風が吹いたり竜巻が起きたりした時は死ぬかと思ったと笑いながら話してくれたが、その裏側は本編に一切残さず、本編では映像として映すのみで、感想は見る側に委ねてくれたことを嬉しく思った。

全体を通して、感想視聴者に委ねるような仕上がりになっていたように受け取ったし、私はそれに感謝した。この映画で見ることのできる映像たちに、美しい、汚い、怖い、綺麗、綺麗事、すごい、面白い、行ってみたい、行きたくない、見てみたい、着てみたい、など、どのような感想を抱いてもいいし、自分の抱いた感想に対して、なぜそう思ったのか掘り下げたらいいだろう。白黒はっきりつけず、議論し続けるべき話題はたくさんある。WIREDで取り上げられる特集話題ほとんどがその類のものだ。人々は対話を続けなければならない。だからこの映画燃えるドレスを紡いで』への感想も、私のようにとても良かったと考える人もいれば、地球温暖化陰謀だとか、アフリカゴミが集まるのは当然だといった感想を抱く人ももしかしたらいるのかもしれない。自分あるいは他人が抱いた多様な意見に対して、なぜそう思ったのか、と対話を続けること、対話を諦めないことが日本にも世界にもファッション業界にも必要なのだろう。

この映画を見て、自分が買っている服、ひいては、自分の買い物という消費行動を見直したい、誰かに拭わせるような生活仕事をせず自分の責務やその範囲を適切に見定めて、その範囲を広げたりしっかり守ったり、うまく守れた時は余力で周りを助けたりしながら自分地球関係性をよく考えながら生活したいと思った。

あと、WIRED JAPANが大好きなので、これからも愛読し続けたい。

WIRED JAPANメンバーシップ試写会に参加して視聴した『燃えるドレスを紡いで』

この作品パリオートクチュールコレクション2023年の時点で唯一参加する日本人ファッションデザイナー中里馬氏に密着したドキュメンタリー映画だ。これはファッション業界地球に対してネガティブな影響が多すぎること、GHG排出量や環境汚染の大きな原因になっていることに対してファッションデザイナー自身が向き合い、コレクション制作に取り組んだ記録である

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ここ以降、ネタバレ的な話、映画制作に関わったステークホルダーたちの発言抜粋などにも一部言及する。そのためこれから視聴を控えていらっしゃり、なんの前評判も誰の感想も読まずにまず自分主観作品を視聴したい方は、ここ以降は念のため読まないでください。

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ファッション業界地球に与える影響は甚大だ。

>Fashion production makes up 10% of humanity’s carbon emissions, dries up water sources, and pollutes rivers and streams. What’s more, 85% of all textiles go to the dump each year (UNECE, 2018), and washing some types of clothes sends significant amount of microplastics into the ocean.

>ファッション生産人類二酸化炭素排出量の 10% を占め、水源を枯渇させ、川や小川汚染していますさらに、毎年全繊維製品の 85% がゴミ捨て場に送られており ( UNECE、2018 年)、一部の種類の衣類を洗濯すると、大量のマイクロプラスチックが海に流されます

引用:The Geneva Environment Network, https://www.genevaenvironmentnetwork.org/resources/updates/sustainable-fashion/

しかファッション業界も、企業ブランド毎に速度も歩みの幅も大きく異なるが、ネットゼロへ進みはじめている。2023年後半の時点で、NIKEadidasの靴やアパレルを購入した際には、この2ブランドについては、製品タグを付ける紐は紙製、靴の梱包材も全て紙製など生分解性素材への移行が見られた。近年adidasコラボレーションを発表し続けている英国デザイナーであるステラマッカートニーは、ステラ自身アパレル化粧品において早くから持続可能性を追求している点でも名高い。

それでも私たち人間が消費するファッションアパレルとしての服や靴それ自体が、最終的にゴミとして扱われ、それがアフリカへ、良い言い方をすれば「皺寄せ」、正確に言うと「ゴミ処理先」として送られる。

映画燃えるドレスを紡いで』では、中里馬氏監督関根光才氏がアフリカを訪れた。中里氏は自身が身を置く業界がうみだしたものたちが消費された結果どこにいくのかという点で、行き着く先のひとつとしてアフリカを選んだのだ。映画本編では、彼らがアフリカで過ごす様子を視聴したのち、中里氏の仕事風景を見ることができた。そしてそのまま、彼のオートクチュールコレクション映像と、それらへの評価メディアの反応などを見ることができ、映画は終わった。

ファッション業界とそこに携わる人間としての中里氏の考えなどについては、ここでは言及しない。それぞれが視聴した上で、それぞれの考えを抱いて欲しい。

私自身は、人間存在とその経済活動ほとんど全てが地球への負荷であると考えている。ファッション業界の影響が大きいにしても、私そしてあなた存在地球環境に負荷をかけているのだから、それをわきまえれば「特定業界が悪だ、最悪だ」なんて意見は軽薄ではないかと思う。気分によっては、2024年子供を産もうとしている人は、2044年や2064年の地球環境は確実に悪化するだろうことがわかっている中で、なんて酷なことをするのだろうと考えることもあるくらいだし、しかし、そう考えるが子供を産み育てる人を軽蔑や見下げたりすることは決してない。ファッション業界けが地球環境悪化させているわけではないと言いたい。

しかし、人間たちの研究開発と技術革新は進み、各業界既存業界課題技術ブリッジが続く中、ファッション業界においては、消費者意識とともにいろいろなことが遅れているのかもしれない。

映画燃えるドレスを紡いで』で中里氏がアフリカで過ごしている時の映像で、中里氏がたびたび自分の見たもの景色に対して「美しい」と口にしていたのが印象的だった。その形容詞が、多勢に同じ感想を与えるものかはわからない。実際、監督も「どのあたりが美しいですか」というように問うていた(言葉が少し違ったかもしれない。違いましたら後日修正します)。

アフリカ映像は、日本などの先進国とは全く違う環境で、雑多としたものたちに溢れ私たちゴミとして扱うものが最終的に行き着いたアフリカゴミ山や、雨が降らず乾燥し切った土地、そこを移動しながら暮らす遊牧民たちの生活などだ。

中里氏はここから美しさを見出したし、私はそれに感動した。キュレーションされていない場所に行って何を見て何を感じ、どう言語化するか?、これは人による。単純すぎる感想だが、美しさを見出せる人は美しいものを作る側にもなれるのかもしれない、と思った。

中里氏がアフリカから戻り、チームに制作のコンセプトなどを発表したときの様子が好きだった。

制作のコンセプトをチームに発表する、チームはそれに従う、でいい。それでいいのだが、そのときにチームメンバーがそれぞれ発言をして、その様子は「中里氏に完全に従う」といった様子ではなかった。語弊があるかもしれない、もちろん彼の名前で発表するコレクションであり、彼のチームメンバーは彼のコレクションのために働くことになるのだから結果的には従うことになる部分が大きいだろう。しかし、中里氏の決意や発表に対して、取り掛かる前に、チームメンバー各自発言ができること自体が、これができるチームは日本にある数多の組織の中でも意外と少ないのではないかと思えたのだ。とても良いチームに見えた。

私はオートクチュール制作現場に対する知識ほとんどないに等しいが、ステークホルダーの多さや切迫感は目を見張ったし、最終的に時間との戦いになるさまには共感できる部分もあった。私などが共感を覚えるなんて言葉選びとして軽率では?おこがましいのでは?という点は一旦脇に置くとして、スケジュールの甘さや時間管理の不備ではなく、自分名前成果物を提出するときに「もう少し、どうにか良くできるのではないか」と思えてしまい手を止められなくなった経験は、私に限らず、ビジネスパーソンとして経験したことがある人も多いはずだ。さらにそれが、オートクチュールコレクション!?その後のルックメディアなどで写真動画そしてモデル取材者の感想とともに二次三次と広がる。なんて覚悟のいる仕事だろう。「とりあえず自分の持っているボールをなんとかして、次の人に投げれば、なんとかしてくれる、そしてそれはとりあえず所属会社名前として世の中に出る」ような仕事のやり方と比較すると、全く異なる状況だ。自分名前作品を出す、誰も拭えない。そんな状況、いつまでだって試行錯誤したくなるに決まってる。これで完成だ、と手を止める瞬間はどう決めるのだろう?、あるいは降りてくるもの?そんなことも思った。

試写会では作品上映後にトークショーが行われ、WIRED編集長の松嶋氏が進行をつとめ、登壇者から話を引き出した。

松嶋氏はアフリカゴミ山で服が舞う様子や鳥が飛ぶ様子が美しかったというようなことをおっしゃった気がする。実際に美しい映像だと思った。嘘みたいに大きい鳥(そして実際にも多分、とても大きい鳥)が前後左右に悠然と歩いたり止まったりしている間でゴミを拾う子供女性映像洋服やその切れ端などが鳥とともに空を舞う映像。その映像を現地で撮影した関根氏と中里氏は、現地で風が吹いたり竜巻が起きたりした時は死ぬかと思ったと笑いながら話してくれたが、その裏側は本編に一切残さず、本編では映像として映すのみで、感想は見る側に委ねてくれたことを嬉しく思った。

全体を通して、感想視聴者に委ねるような仕上がりになっていたように受け取ったし、私はそれに感謝した。この映画で見ることのできる映像たちに、美しい、汚い、怖い、綺麗、綺麗事、すごい、面白い、行ってみたい、行きたくない、見てみたい、着てみたい、など、どのような感想を抱いてもいいし、自分の抱いた感想に対して、なぜそう思ったのか掘り下げたらいいだろう。白黒はっきりつけず、議論し続けるべき話題はたくさんある。WIREDで取り上げられる特集話題ほとんどがその類のものだ。人々は対話を続けなければならない。だからこの映画燃えるドレスを紡いで』への感想も、私のようにとても良かったと考える人もいれば、地球温暖化は陰謀だとか、アフリカゴミが集まるのは当然だといった感想を抱く人ももしかしたらいるのかもしれない。自分あるいは他人が抱いた多様な意見に対して、なぜそう思ったのか、と対話を続けること、対話を諦めないことが日本にも世界にもファッション業界にも必要なのだろう。

この映画を見て、自分が買っている服、ひいては、自分の買い物という消費行動を見直したい、誰かに拭わせるような生活仕事をせず自分の責務やその範囲を適切に見定めて、その範囲を広げたりしっかり守ったり、うまく守れた時は余力で周りを助けたりしながら自分地球関係性をよく考えながら生活したいと思った。

あと、WIRED JAPANが大好きなので、これからも愛読し続けたい。

追記

映画に登場する人々に、登場シーンでクレジット登場人物名前所属)を表示させた上で、もちろんエンドロールにも名前掲載する、という画面の作り方は、ドキュメンタリー手法としてめずらしくはないのでしょうか。この辺りの知識がないため滅多なことは言えないのだが、登場人物名前所属をその画面で明示する編集が好きだった。やはり、協力者の一人として自分が登場するシーンには、期待や嬉しさなどをもっているはずだ。私はこのような、協力者たちへ感謝を伝えるようなあたたか編集や画面作りに強く好感を持つ。1人ではできなかったことへ協力したくれたステークホルダーにできる限りの感謝を述べる姿勢を、私も忘れないようにしたい。

勝手民主主義

民主主義は完全なのだろうか?

安倍晋三元首相は統一教会支援を受けていたのは事実だ。

そして統一教会により被害を受けた人間がいるのも事実だ。

そして安倍晋三は撃たれた。

そもそも民主主義派とは完全なのだろうか?銀の弾丸としてもてはやされるものなのだろうか?

西洋で産まれたこ民主主義日本根付いているだろうか?

根付いていないのではないのか?

本来自発的に考えて行動を行う者たちは全国民であると誰かが錯覚したせいで、投票する意思能力もない子供大人が国を動かそうとするが失敗なのではないだろうか?

金がないのに自民党にいれるのは変わる恐怖からか、無知ゆえか私には分からない。

なぜ日本ではこれほどまでに自民党が勝のだろうか?

それは血筋やだれだれの舎弟などを意識するからだ。

そんな人にしか投票したくないのだ。これはいわば自主的な封建体制である

ここで問題になってくるのは考えれる人間が辛くなることだ。

考える人間と考える人間が対立した時は確実に体制側が勝つ。

これを覆すには結局のところ暴力しかなく、基本的人権抵抗権を行使するほかないと思う。

そのあと大人子供をどするかは考えなくてならないだろう

さくらももこが死んだ時もいたけど漫画キャラクターセリフがそのまま作者の主義主張だと考える人ってマジでなんなんだ。このキャラクター性格ならこういう事言いそうだよなって思って書いてるだけで作者の主義主張じゃないよ。

風俗業で自分を取り戻した話

人生地獄はきっと誰にでもあるが、自分にとっては「健常な社会」こそが人生地獄だった。

「健常な社会」に適応するくらいなら犯罪を犯すか自死した方がまだ自分人生を手に入れられる。そう思う人間が生まれ必然は「健常な社会」を維持するシステムに組み込まれており、つまるところ何をしても堂々巡りな訳で、やっぱり世の中の未熟さと本能のどうしようもなさに揺さぶられながら、忘却を繰り返して日和見主義他人干渉しすぎず生きていくのが幸せなんだろうなという結論に達する。

自分虐待を受けて育った。

健常な社会が設けた「児童養護施設」というシステムは、内部で虐待が横行しており、児童の中でもイジメがあり、「何のための施設なのだろう」と気を病んだ私に何度も「そんなんじゃ社会でやっていけないよ」と声をかける健常な社会であるところの職員は、気を病んだ私から見てもキチガイであった。

養護施設では勉強時間が確保できないので勉強して逆転するような子は少ない。

施設規則に従って規律正しい生活を送れば、自由時間などほとんどないに等しい。

自分の部屋でダラダラ夜更かししてゲームしたり、本を読んだり、そんな時間個人の発達には必要であることも全く理解されていない。家畜囚人以下の扱いである。一般家庭の人間特権が羨ましくて仕方ない。

さて、こんなひねくれた性格であったせいか、基本子供嫌いな施設職員からも取り分け嫌われていた私は、さらに人に対する恨み辛みを募らせて、どんどん人格が歪んだ。

信頼できる人間に悩みや苦痛を打ち明けても、「辛かったね、大丈夫だよ」と声をかけられても救われない事は明白で、というかあの時の私にアドバイスをするなら「悩み相談をするなら優しい人間ではなく、態度が悪くても解決する能力を持った人間を見極めて選べ。それ以外は屑のようなもの」という事だろうか。こういう境遇人間は頷くと思うが、「人に優しくしよう」なんて考える人間にロクな奴はいない。

自死を何度も考えた。正直、世に生きる価値があるとは全く思わなかったし、自分より恵まれ人間から受ける説教ほど価値のないものはなかった。恵まれ人間に、人を救済できるだけの知性があればこんなことにはならなかった、肥えただけだろうが。頼むから今後、人命に関わる組織運営は全てAIかにやらせて欲しい。その方がまだマシな社会になるだろう。

普通人間」にアレルギー反応が出てしまった私は、行政福祉一般就労のようなものからなるべく遠い所で生きて行きたいと思い、案の定水商売を始めた。

あらゆる業種を転々としたが、1番面白かったのは性産業で、取り分け「客もキャストもどんな職種人間でも脱げば同じ」「美人でもブサイクでもどんな人間にも扉が開かれている」という世界が、私に人間性を取り戻させた。ここは誰に対しても優しく、最も平等で、寛容で、安心をくれる社会のものだ。

私の在籍していた店は多様で、子供に当たり前の生活を渡すために稼ぐシングルマザー奨学金を返すために働く高学歴大学生障害があるけど作業所で働きたくない女の子銀行に頼らず起業資金を集めたい50代の女性若いうちに好きに海外に行きたいアラサー女性など、あらゆる年齢の人が自分自由と自立のために働いていた。そんなキャストさん達と話す穏やかで豊かな時間が私は好きだ。

ネットでは風俗業の過激さに目が当てられがちな為、ふとこういう話もしてみたくなった。

死ねば同じ、脱げば同じ」

この仕事で体得したそんな精神は、私の人生にとって大きな慰めであり、今は生きる意味にもなっている。

私の指名客は官僚からホームレスまで様々だ。普通人間なんて、私の幻想だった。

幼い頃の痛みも恨みも悲しみも、きっと一生癒えることはないけれどしばらくここで頑張ってみようと思う。

来月で24歳になるので記念の投稿でした。

2024-03-10

anond:20240309171028

倫理的に考えれば社会的弱者の救済は当然行われるべきだが、はたして少子高齢化が進むこれから日本にその体力があるのだろうか

社会保障に力を入れたまま国ごと沈むくらいなら、社会保障を減らして若者産業投資したほうが合理的だと考える人が多いのも無理はない

anond:20240310064421

漫画家絵描き作曲家、その他色々→人気にならないと金にならないので論外

好きなら際限なく練習し続けられるというメリットがあるぞ

時間をかければ人気になるかはともかく上達はする

営業が好きで朝も夜も営業のことばかり考える人は中々いないから、上達までの道のりが辛い

2024-03-09

anond:20240307210157

正論だけど、人工子宮を作る側になろうとしたら学生の頃から研究者を目指さないといけない

学生の頃からフェミニズム(ここでは妊娠出産が大きな男女の差異から、そこを無くしたら平等になるという視点)を問題視した上で、将来の仕事にしたいと考える人はほぼいないと思う

倫理的に反対も多い分野だし

そう思うと

大人は稼いで、事業投資する

理系女学生に薦める

が筋なのかな

2024-03-07

死後の世界があってほしいと思う?

Xにて「自殺した人に感想聞いてみたい」というポストについた「死後の世界があるとしたら希望がある」みたいな返信見て驚いた

そんな風に考える人いるのかと思ったけど、宗教でそういう話してるから多数派なのかな

自分は今幸せだけど、ずっと生きていきたい(=自我意識を持っていたい?)って考え方はいつも理解できない

マジで無に帰したい

みんなの理想の死後の世界はどう?

書店の在り方について頭がかたい人が多い

書店を街の必要施設としておく、ということだが

それもう図書館がやってる役割なんだよな。

まあみんな気づきながら言ってると思うけどさ。

残したいならもっと具体的に本屋の在り方を変えていく必要があると思う。

まず「紙の本は最高!」とか言うのが宣伝になると思ってる奴は単行本の『ハンチバック』で後頭部から殴ろうと思う。紙の本は鈍器にもなる。

まず書店はあまりにも長く姿を変えていない。一因として書店はこうあるべき、という形にこだわってる人が結構多いようだ。

一方、蔦屋書店宗教上の理由で嫌いなんだが(失敗しているTSUTAYA図書館参照)あの探しにくさの中でよく賑わっている。

単純にでかいから置いてる本も多いし、なんか混雑してても関係ないオシャレなスタバみたいに思ってる人も居るんだろう。エンタメ施設としての成功は認めたい(TSUTAYA図書館は最悪だ)。

日本書店海外を見ればもう少し色んなことができるはずだ。

専門性を高めた書店大衆書店差別化もそうだが、

例えばもう既に導入されている買う前に読めるカフェの併設。

海外図書館では普通にある光景なのだが、拒否感を覚えている人も多いようだ。

まあカレーパン食いながら本触られたらたまったもんじゃ無い。海外は不潔だ……という話ではなく、海外カレーパンは置いていないか問題ないのだ。クリームパンとかメロンパンもないし。ドイツパンみたいな、かったいパン食ってるだけだから…かったいパンカフェを併設することを薦めたい。頭はやわらかく行こうぜ。

また日本では売れ残った本を返品できるような仕組みなのだが、ヨーロッパなどでは新品の本を半額セールで売ったりする。ワゴンセールだ。

大体電子書籍ポイント還元や%引きが多いのに、紙の本はいつまで定価で戦うつもりなのか…。

文化拠点と言うのなら安く本を買える仕組みというもの書店出版社は協力して作っていくべきじゃないのか。

返品できたほうが本屋は助かるじゃないかとは言うがリスク取って攻めないと商売死ぬ役人仕事みたいになってはいいか

なによりもセールってとても楽しい普段買わないものまで買ってしまう。セールで手に入らなかったら結局は定価で買っちゃったりもする。

セールもなければチラシを撒く必要もないので宣伝もない。本屋のチラシって見たことないよなー。書店企画出されてもなにをしてるのかさっぱり知らない。

そういう『商店』としての楽しみを、発展を止めた本屋は見事に失っていると思う。

そうは言っても書店の店主は歳を取っている場合も多い。そういう人を保護すべきだという訴えなのはよくわかる。

しかしだ。それでも国が支援すべきは「書店の発展」を考える人に対してであろう。そんな人はいない?いやこれはもう10数年前から業界大学等で言われてることであるから専門家も居る。

うっかりTSUTAYA図書館なんか支援しようとしないで、書店に協力していくことは急務ではないかと考える。

まあパブコメ案件だと思うね。

追記

その歴史のある再販制度も触る案件なんじゃないの今回の議論

2024-03-06

anond:20240306085555

こう言う効率化を第一考える人は、そう言う社風の会社に行った方が幸せになるだろうな。

実際、大半の中小零細なんて、効率よりも熱意、顔合わせ、会話ベースしか物事が動かないんだよな。

どんな高性能・高効率ツールを導入したって、「熱の伝わらない」インターネット経由じゃ何も動かない。

手間のかかる電話FAX会社訪問、顔つき合わせての会議しか、週の計画も決まらない会社なんてザラ。

めんどくさい手順で手間を時間共通して消費することの方が重要で、内容自体は全く求められていない。

そう言う企業が滅んでいけばいいが、大抵、その手の会社取引先もまた、同じような体質だったりするのでどうしようもない。

アメリカ最先端IT企業にでも転職すればいいんじゃないですかね?

2024-03-04

anond:20240304163640

転職や失職自体を恥ずかしいと考える人もまだまだ根強いだろうし

anond:20240304113647

聖徳太子とか織田信長知ってるだけでも教養だと思うよ

教養がないと、漫画とか映画とかドラマとか観ても理解できない

もし、義務教育がなかったら、そういう歴史上の人物を知る機会がないまま大人になる人もいるかもしれない

教養があればあるほど、そういった元ネタ理解できるわけだから、楽しめるコンテンツが増える

それは英語数学も同じ

から、初代ガンダムネタ教養と言える

子供の頃にテレビを観ることを禁じられていた子供は、大人になって初代ガンダムネタが登場しても何が面白いのか理解できない

数学もある程度は理解してないと、人生で一度は訪れるデカいチャンスで数学必要だったとしたら、そのチャンスを活かせない

英語がある程度は分からないと、日本の曲の歌詞に登場する英語ですら分からない

ビジネス用語理解できない、もしくは理解しようとしない人になる

もっとも、義務教育の時点で脱落する人もそれなりにいる

そういう人は本当に、映画とか漫画とか音楽とか、すごく偏った限られた世界で生きていくしかない

でも、彼らは彼らでそういう自覚がない、自分教養がない、とすら思ってない人もいるおんで、それはそれで幸せなんだと思う

から教養がなかったとしても、それで困ったという自覚人生の中で一度もないのであれば、それで構わない

でも、後々もっと勉強しておけばよかった、なんて考える人は、後々になって教養必要としているわけで、

ぶっちゃけ、それはかなり手遅れということになる

だって教養なんてものにかまけてられるのは、子供ときだけだから

ぶっちゃけ教養社会的活動とか仕事にはほとんど役に立たない

ここぞというときに役に立つか、娯楽や趣味で役に立つか、ぐらいだ

でも、娯楽や趣味がない人生なんてつまらんじゃろ?

2024-03-01

数学必然性は実は人間言語分析能力によるものなので、言語能力が異なる宇宙人とは、数学的語彙が共有できない可能性があるんですよね~


なぜ数学言語能力関係するんだ?と思う人は、以下のノーム・チョムスキーの有名な、無意味な二種の文を見ればわかってもらえるかもしれませんね~

・“Colorless green ideas sleep furiously.”(「無色の緑の考えが猛烈に眠る。」)

・“Furiously sleep ideas green colorless”(「猛烈に」「眠る」「アイデア」「緑色」「無色」)

前者は文法的には正しいが意味が無い文で、後者文法的に正しくないか意味がない文、ということはわかっていただけるかと思います

しかし、上記二種の文は、両方とも経験的には何も想起させないがゆえに、経験的には同様に意味の無い文です。

ということは、経験こそが認識の基礎、基底である考える人にとっては、二種の文の違いを説明することができないのですよね~。

なぜならそのどちらも経験することができず、経験による理解が基底であると主張するのだから経験的基底において違いのない(意味のなさ、指示対象存在しないという点において同質という意味)上記二種の文の本質的差異(基底的差異)を指摘することができないのですね~


現代言語哲学、そして現代論理学の基礎を作ってきた哲学者たちは、数学必然性がどこから来るのかという問題について、

文の経験理解よりもに、文の文法的分析が先に行われる(そして数学必然性は、文法分析に基づく理解のものから正当化可能である)ことを示すことによって、

経験的(アプリオリ)論理数学必然性正当化可能であることを証明してきたんですね~

例えば上記二種の前者の文でいえば、経験できないにもかかわらず文法的に正しいことが理解できるのは、まず文法分析が先に行われ、その後意味解釈に失敗するから無意味なのであって、その逆ではないのですね~

そして数学で扱われる文、例えば2+2=4は、なんらかの経験を前提せずとも、形式的理解(つまり文法的理解)から正当化可能であるがゆえに必然的(=非偶然的、または前経験的)なのですね~

そして例えば上記二種の文とは別の有意味である文「無職緑色ジャージを着た男性が猛烈に眠る」であったとしても、まず文法的理解が先に行われたあと、その意味解釈を行うことができるがゆえに有意味なのですね~

プログラミング言語だって、まずどれが変数で、その変数に何が割り当てられているかといったセマンティクスよりも先に、シンタックス分析が行われますよね~


から数学必然性は実は人間の前経験的な言語分析能力によるものなので、言語能力が異なる地球外生命体と遭遇した時、数学的語彙が共有できない可能ももしかしたらあるのかもしれませんね~

なぜなら我々の理解する必然性とは、我々の言語分析能力に基づくものであって、よそから来た宇宙人にそれが期待される理由がないからですね~

2024-02-29

anond:20240228210533

ディスプレイが壊れたノートパソコンを安くかって外付けディスプレイつないで使うとか、不動部分があるジャンク品でも、その機能は使わないか問題ないとかあるじゃん

たとえば「体質的子供はつくれません」ってのは、結婚=子孫づくりって考える人からすると完全にジャンクだけど、子供いらない人にとっては問題ないでしょ

2024-02-26

女性専用車両差別だとすると女子寮女子トイレ差別なのか

まあ、どっちも差別ちゃうやろという話というか、それを差別とすることでどういう世界を目指すことになるのかという話をしてみます

1.差別区別

まず大前提として、今の社会は本人にはどうしようもない属性理由にしたとしても、別異に取り扱う場合があることを許容しています。例えば、18歳になる前の子供にどれだけ十分な能力があるとしても、民法制限行為能力者として扱われます。そのような属性による扱いが差別(=不当な扱い)であるかどうかは、結局は扱いを分ける目的と、その属性をもって分けることの合理性によるとしか言いようがありません。そして、この目的正当性手段合理性評価時代場所によっても変わるでしょう。身分制度合理的であった時代もありました。

2.男女を別に扱うことは差別

では、男性女性とを別に取り扱うことが差別に当たるでしょうか。いうまでもなく、男女雇用機会均等法など現代国家における男女の取り扱いについては、女性差別への是正を中心に、原則として同一化の方向に進んできました。しかし、社会には、風呂トイレ更衣室、男子寮女子寮男子校女子高、食べ放題価格女性専用DVシェルター等々、男女で扱いを別にすることが多くあります。これらについても、昨今は男女という生まれながらの性差で扱いに差を設けることの合理性に疑問を呈されるようになったことをきっかけに正当性合理性が問われなおしてはいますが、少なくともそれらがことごとく直ちに違法であるとか不合理であると認められているような状況ではありません。それは、社会が不合理だったり、不当な目的を維持したいから残っているわけではなく、一定価値観の下で正当性合理性が認められているためだと考えられます。こういったものについて、「区別」が「差別」になるかどうかは、結局は、どういう社会を目指すのかという理想像も絡んできます

例えば、育休は事実上男性にはほとんど認めらえてこない時代が続いてきました。その理由の一つには、男性女性とで子供を持つことの身体負担に差があることがあったと考えられ、そのことだけに着目すれば、育休に差を設けることの合理性は失われたわけではありません(期間の長さ等法律上も差はあります。)。しかし、育児には両性の親が関わるべきだという価値観社会に広がったことで、育休の扱いで差を設けることが不合理な面も浮かび上がってくるようになり、現在積極的男性に育休を利用させるよう厚労省などが呼び掛けるような状況に変わってきています。育休を男性が取れないことは差別になったと言えるでしょう。

3.女性専用車両差別だとする世界はどういう世界になるか

女性専用車両差別かどうかは、電車が混雑する時間帯に女性が優先的に乗ることができ、異性が原則として乗れない車両を作ることについて、正当性がありかつ一定合理性があるかどうかによることになります。その正当性としては、女性男性との間で、①異性から痴漢行為対象になりやすいかどうかという点で大きな差があること、②異性と身体が密着するような状況に対する忌避感や性的羞恥心に差があること、というあたりが挙げられるでしょう。現状の日本社会は、これらの目的正当性を認めていて、女性専用車両という仕組みで対応することも一定合理性があると概ね信じられているためこれが維持されていると考えられます

これに対して、現在女性専用車両への主な反論は、(1)男性犯罪者扱いするものである、(2)鉄道各社は満員電車という状況を改善するべきであるのにそれを利用者負担押し付けている、という二つが主であるように見られます。このうち、(1)は区別目的自体が不当であるという主張として、(2)は女性専用車両という手段が過剰であるという主張としてそれぞれ整理できます

これらの理屈が背後に持つ価値観を考えると、(1)は男女という性差だけで羞恥による忌避や防犯目的の行動をとること自体が不当だという社会を目指すものと言えるでしょう。これを貫けば、例えば、女子トイレ女子寮も、維持は困難になるでしょう。あるいは、女子更衣室すら、男女という性差羞恥心による別の取り扱いをすることは不当であり、男性女性も等しく我慢をすべきだという理屈で反対することも可能になりかねません。最近流行りの話で言えば、異性に家に誘われたときや異性と泊りがけで遊びに行くのを誘われたときは気を付けろというのも差別になるでしょう。これが白人黒人との関係であれば、羞恥心や防犯目的別離に扱うこと自体が不当であるという主張を貫くのは容易であり、むしろ目指すべき価値観であると受け入れられたために今があると言えますしかし、男女でその理屈に多くの賛成を得ることはおそらく難しいでしょう。これに対して、(2)は女性専用車両という不利益に甘んじるのではなく、ラッシュピークのない社会を達成するべきというもので、目指すべき社会の像としては、多くの賛同を得やすもののように思われますしかし、ラッシュピークが生じるような社会習慣は決して鉄道会社が望んで出来上がったものではなく、実際には鉄道会社だけでできることには限界があると私は考えますコロナ禍という大規模なショックを経験してなお、満員電車がなくなるには遠い現状があります鉄道料金、運転間隔、オフピーク通勤等の推奨等の対応を超えて、鉄道会社が努力すれば通勤ラッシュがなくなると考える人はおそらく多くはなく、その立場からすれば、結局、満員電車を解消する現実的な手立てがない現状で女性専用車両合理性否定すれば、また満員電車を避けたい女性負担を強いる社会に戻るだけでしょう。

こういった意味で、女性専用車両差別だと断定する主張は、基本的には極端な理想社会押し付ける非現実的な主張であると考えます。もちろん、そういう思想を持つこと、発信することは自由ですし、特に満員電車のない社会というのは真剣に取り組むに足る目標だとは思います。ただ、平和憲法国際社会に広めることで戦争がなくなると考える人が少ないように、女性専用車両に反対することでより理想的な社会が実現すると考える人も多くはないでしょう。

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