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2017-05-22

カジュアル英語は一番難しい

http://anond.hatelabo.jp/20170522214348

よく映画ドラマって言うけど、自分場合はただの苦痛時間しかなかったなー。日本語でもドラマ見ないし。ニュースTEDテックトピックなんかは面白く続けられた。ドラマとかで使うカジュアルな会話って、留学海外就業経験者でも最後まで問題になるくらい、難易度が一番高い部分なんだよな。リスニングの難しさで言うと、こんな感じ。

元増田はすごい才能あると思うけど、普通の人には茨の道だと思う。わざわざ挫折するために選択してるとしか思えん。

リスニングなら、ニュースと並行して英語耳とか単語耳とかやって、引き続きレクチャー系を試して、カジュアル最後にすべきだと思う。いきなり一番難しいとこに挑戦しても無力感が残るだけだ。

出会い系の女との不思議関係

俺はもうすぐ26歳。なんとか社会人として頑張ってる。

そんな自分にも支えになってくれている人がいる。彼女?いやそれもそうなんだけど、大きいのは出会い系で知り合った女なんだよね。

振り返ると高校時代まで遡る。

高校2年。受験シーズン前、自分は1年付き合ってた彼女に他の人が好きになったといい振られて初恋とい勉強も手につかない状態になっていた。

自暴自棄になって手を出したのが当時人気のある出会い系アプリである

そこで何人か連絡を取るも上手くいかない。そんな時、1人だけ相手してくれる人がいた。

の子は非常に見た目がかわいい。そして同い年。ただ住みが関東だった(自分関西)。

距離が遠くても心の支えになってもらおうと思い連絡を続ける。そしたら変に気が合うのよね。連絡先も交換することになった。

その日より定期的にその子電話する。女々しかった自分の話をたくさん聞いてくれた。そして相手相手受験の悩みを抱えており、自分はそれを日々聞いた。

その後というもの自分は都合のいい時だけ話を聞いてもらおうと電話する。そして向こうも都合のいい時だけ電話してくる。そんな関係になる。非常に不思議関係だと思う。ただ、どんな内容であっても全く不快でもなく、聞くのも話すのも楽しかった。

お互い大学合格し、新しい恋人ができる。そこで疎遠になるのかと思っていたが、連絡は続いた。

その時には

将来の話、今の恋人の話、大学の話などをしていた。お互いの写真も送りあう。不思議といやらしい話はしていない。

非常に仲が良かったのであろう。さすがに当時自分が付き合っていた彼女にもこの関係は言えなかった。距離も離れてたし会ったことも無い人なのだからいいだろうと思っていた。

そのうち女は海外留学に行くという。

ここで連絡が途絶えるかと思ったのだが、今度は留学から連絡が来る。

彼女の悩みは尽きないようだ。しか自分も連絡がきたことが嬉しかった。

そして今度は相手が束縛がきつい恋人と付き合った。さすがにその時はブロックされた。もうこの関係も終わりだと思った、

しかし、約1年後別れたからと連絡してくる。泣きながら彼氏相談をしてきて聞いた。

その後もお互い話していた。自分も「入る学部間違えた。」とか「最近合コンの戦績」とかたわいもない話をするために電話かけたりもしていた。

お互いになぜか話すとホッとした。これは向こうも思ってたと言っている。

そして就職活動の時期。向こうが大手企業に決まり自分地元企業就職する。

そして今に至る。

ももちろん、、彼女からかなり電話はくる。「仕事がきつい。」とかね。

そして自分も定期的に彼女にかける。

人間関係がきつい。」「やめたい。」とか。

お互いボロボロになりながらも仕事に関して励まし合う。未来希望を話し合う。そしてなんとか仕事をここまで続けられている。

なぜここまで出会い系で知り合った女と連絡が続くのだろうか、、

やっぱり距離がある方がうまくいく関係ってあるんだろうと思う。お互いに今言っていることは「近くに住んでなくてよかったね」って話。

あくまで都合のいいこの距離感が心地いい。そして共通の知り合いもおらず現実

を知らないこの関係はすごく心地いい。

今は自分彼女結婚を考えている恋人がいる。しかし、この関係はやめられない。今後も続くのであろう。

ちなみにもちろんだけど9年間近く連絡を取ってきてまだ会ったことはないよ。

どちらも会おうとは言い出さないね

2017-05-21

否定から入る人

スーパーエンジニア職場に居た。彼は高い学歴留学シリコンバレーで名の通った企業での開発経験

バグも無く、誰もが認める美しいプログラム。彼のコードを読んでは勉強する日々だった。

チームのあるエンジニア心療内科に通い復帰すること無く退職した。

ダウンするまで、自分否定されるのが辛い。と上司に幾度もアラートをあげていた。

それを機会に、エンジニアが幾人も抜けていき、リソースが足りず派遣プログラマ頼りの現場になってしまった。

派遣プログラマに今年からプログラム始めたばかりなんッスよー、というウェーイ系な人がいた。

ホスト業がキツくなってなぜかプログラマジョブチェンジした彼は、

契約が終わる際、スーパーエンジニアのことを指摘した。

スーパーエンジニアさんって、何でも否定から入るじゃないっスか。

「これはクソプログラムだ」とか「設計ダメだ」を何百万回もききましたよ

あとオレって繊細じゃないっスか?だから、話したりすると人間否定されてる感じがガンガンして

あんな感じの人がマネージャーって肩書きだと、ぶっちゃけキツいっすね

きっと悪い人じゃないんスけどねーw

(だいたいこんな感じ)

そう、彼は悪い人ではない。ただそのキャリアから自然に何でも否定から入ってしま

それが受け手によっては人間性をも否定し壊していることに全く気づかないでいた、かもしれない。

何かの機会に彼に話をしようとしたが、そのスーパーエンジニアさんが先に心を壊ししてしまい、退職してしまった。

次は僕が否定から入る人になる順番かもしれない。

2017-05-20

http://anond.hatelabo.jp/20170520004908

辞めることだけ考えるなら、退職届内容証明会社に送ったら2週間後には自動的に退社できる。

それは会社がどう言おうが勝手に辞められる。

医療業界は対人サービスである

患者を世話するのは人でなければならない以上、その作業効率化することは難しい。

一人の看護師が何人の患者対応できるか?を考えると、今の患者数に対して看護師

いるかというと多分多くの病院で不足しているというのが現実だろう。

全然違う話だが保育士は4歳児30人につき保育士1人という配置規定がある。

(0歳児だと3人に1人など年齢によって異なる)

業務効率化は十分か?というとそうではない気はする。しか患者は人であり、

それを世話するのは人である必要がある以上ここを効率化するのは非常に難しい。

看護師仕事医師の指示によって生まれものから医師が人である以上は

同じ病状の患者でもAとBの医師で指示が変わることがあるのが効率化を図れない

最大の要因だろう。

指示内容を異なる医師でも同じにするには、法律行政側が法律などルール

策定して義務化しないといけない。

しかし今の医師会はそういう柔軟性はなく、いか自分椅子を守るかで必死

東大医学部を出て、海外留学もしてッていう肩書の連中ばかりだから余計だ。

自分意思会社に伝えれば2週間後には辞められる。

でもこれはあなた一人の問題であって、医療業界は今後もっと大変なことになる。

このことについて国会行政積極的に動いていないことが懸案だ。

2017-05-19

新卒採用就職活動をしている若者たち

一部では内々定がではじめており焦っている人もいると思う。

わたしは某業界新卒採用面接10担当してきたおっさんなので、

幸いにも書類を通過し、集団個人面接まですすめた人にアドバイスをしてあげたいと思う。

何かのヒントになる人もいるのではないかと思う。

1)英語アピール無意味

留学してきた人(だいたい短期だ)、TOEICが850点ある人、インターナショナルスクールに行っていた人。

うそんな人は掃いて捨てるほど面接に来る時代だ。さらに、社内にもネイティブや社内通訳など

英語の「プロ」がいることが多い。なので若者たちの「英語力を活かして御社の○○にお役になりたい」

国際的活躍している御社で……」といっても、何もひびかないのでやめた方がよい。

ここはじっとがまんして、「英語アピールをしない」ことをおすすめする。

面接官があなたスキルに食いついてきた時にこそ、アピールすれば良い。

ここでも「ビジネス英語は分かっていませんので仕事では使い物にならない」

ということを分かっているアピール重要

2)簡潔に話をまとめる

せっかくの面接なので、あれもこれもアピールしたいよね。

わかるけど長くアピるほど印象は悪くなる。簡潔に相手に伝えられる能力ビジネスでは重要から

どうしても話したいことがいくつかある場合は、

わたしは3つあります」とはじめに数字をいってから

順番にいいたいことを言うのがよい。3つめはなんだろうとおっさんたちは期待しているから、

そこでうまく「オチをつける」ようになればなおよい。

3)勤務地は限定しない

これはどうしても地元しか働きたくないというのなら、そういった転勤の無い会社を選ぶべき。

そこそこ規模の会社場合、異動は当然あると思っていた方がよい。

「勤務地はどこでも大丈夫です」

うそでもそう言おう。

4)希望について

ありがちな質問。何社受けていて、うちは第何希望ぐらい?

これには「もちろん御社が第1志望です。」

と即レスしよう。

「うちが第1志望じゃない」ことぐらいは目の前のおっさん達も分かっている。

「とっさに平然と嘘がつける」かを見ているのだ。

もちろん、本当に第1志望なら猛烈アピールした方が印象は良くなる。

これは意外と顔に出る人が多く、また気がつきにくいので、鏡の前や動画撮影して訓練した方がよい。

5)みんながバイトリーダー問題

面接に来る人間がみんな「バイトリーダーである

20人ぐらいのスタッフを仕切って云々」

わたしがローテを組んで云々」

最後店長と同じような立場で云々」

もう面接に来る人全員が「バイトリーダー」と思っていいだろう。

ではどこでアピールするか。

それは「バイトの内容」かなと思う。

カフェ接客を3年やってまして、最後にはリーダーとしてシフトを組んで云々」もうこれだけで聞く気がしない。

「実は探偵アルバイトやってまして……いろいろと修羅場かいぐくってきました!」

この方が絶対面白そう。これだけで色々と聞きたくなるでしょ?

6)みんながスポーツ大好き問題

「中高ではテニスを、大学からサークルですが、、、サークルといっても真面目にやるサークルでして

週に3回練習をやっています

もう、このアレンジばかり聞かされる。

どいつもこいつも、サッカーテニスなど大好き野郎女子ばかりだ。

これは5)のバイトリーダーの応用で、少しは変わったスポーツをやっていることにしたほうがよい。

ボルダリング」「カバディ」「エキストリームアイロニング」など。


とりあえず思いついたところかいた。

またなにかあればつけたす。

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

1883年6月金玉均自身にとって3回目の日本訪問の途についた。前回の訪日で会見した日本政府の高官は、朝鮮国王委任状があれば借款に応ずることを示唆しており、朝鮮から留学生尹致昊の帰国に際しても大蔵大輔の吉田清成はかさねてそのことを金玉均伝言していた[5][注釈 2]。

しかし、高宗からあたえられた300万円の国債借り入れの委任状を持参して来日した金玉均に対する日本政府対応は冷たかった[5]。300万円は当時の朝鮮における国家財政1年分に相当しており、日本予算約5,000万円からしても巨額なものであった[5][7]。メレドルフの妨害工作もあったが、日本政府としても大蔵卿松方正義緊縮財政を進めているなか、財政力に乏しく政情も不安定朝鮮に対し、そのような巨額な投資をおこなうべき理由は乏しかった[5][10]。金玉均は、日本についで、フランスアメリカ合衆国からの借款工作にも失敗した[5]。

1884年5月金玉均は失意のうちに朝鮮帰国した。朝鮮では、以前にもまして大国清の勢力が猛威をふるい、朝鮮国の重臣たちはそれに追随し、開化派の活動はいっそうせばめられていた[5]。清とフランスの緊張関係の高まりから5月遼東半島に移駐することとなった呉長慶にかわって野心家の袁世凱が実権を掌握し、朝鮮王宮は彼の挙動に左右された[5]。これに危機感を覚えた金玉均らは国王高宗を動かそうと計画した[7][10]。高宗もまた閔氏の専横に心を痛め、朝鮮の将来に不安をいだいていたのである[7]。

清仏戦争の直接原因となった1884年6月23日バク伏兵事件英語版

1884年6月ベトナム領有を意図するフランスベトナムでの宗主権を護持しようとする清国との間で清仏戦争が勃発した[10]。清越国付近バクレでの両軍衝突が引き金となったが、この戦いで劣勢に立った清国朝鮮駐留軍の半数に相当する約1,500名を内地に移駐させた[5]。独立党は、これを好機ととらえた[10]。日本もまた、壬午軍乱以降、無為にすごした失地回復の好機とみて清国勢力の後退を歓迎した[5]。井上馨外務卿帰国中の弁理公使竹添進一郎に訓令し、10月漢城に帰任させた。竹添は軍乱賠償金残金の寄付国王に持ち掛ける一方、金玉均独立党に近づいた[5][11]。

竹添進一郎

金玉均らは11月4日、朴泳孝邸宅日本公使館島村書記官を招いて密談をおこなった。集まったのは、金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範、島村の5名であった[12]。そこで金玉均島村クーデタ計画を打ち明けているが、島村はそれに驚きもせず、むしろ速やかな決行を勧めるほどであったという[12]。かれら独立党は3つのクーデタ計画案を検討し、同年12月に開催が予定されていた「郵征局」の開庁祝賀パーティーに乗じて実行にうつす案が採用された[12][注釈 3]。金玉均11月7日日本公使館をおとずれ、竹添公使クーデタ計画を打ち明け、そのとき竹添から支援約束を得ている[12]。

金玉均漢城駐在イギリスアメリカ合衆国外交官にもクーデタ計画相談した[12]。かれらは、金玉均のえがく理想共感し、清国よりも日本を頼るべきことについても理解を示したが、しかし、決行については清国軍事的優位を認めて、これに反対した[12]。金玉均さらに、それとなく高宗にも計画の内容を伝えて伺いを立てた[12]。高宗もまた、清の軍事力を考えると不成功に終わるのではないかとの懸念を伝えたが、金玉均はこれに食い下がり、フランスと連動して動けば充分に勝機はあると訴えた[12]。高宗は、これを諒とした[12]。

しかし、クーデタに動員できる軍事力といえば、日本公使館警備の日本陸軍仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊第1中隊の150名と、陸軍戸山学校留学して帰国した10数名の朝鮮人士官学生および新式軍隊の一部にすぎなかった[5]。この人数では、半減したとはいえ、なお1,500名を有する清国兵および袁世凱指揮下の朝鮮政府軍に対抗するのは無謀といってよかった[5]。

2017-05-18

http://anond.hatelabo.jp/20170518121859

単に「留学に関する意見交換会」=「出会いの機会を設けるための場」じゃなくね?って意味でしょ

それともICUだと意見交換会ってのは彼氏彼女が欲しい連中が集まる出会いの場ってことで認知されてたり

合コン隠語にでもなってたりするのかな?

http://anond.hatelabo.jp/20170518030349

私も2013年卒のICU出身者だけど、周りで合コンしてる学生なんて一人もいなかった。ましてやICU生同士で合コンやる必要性なんて本当にゼロ。同じ学年だったらなおさら飲み会とか授業とか何かしらの集まりで会おうと思えば会える。「留学に関する意見交換会」って報道されたときに私は本当にそういうのがあると思ったし実際あった。

増田が描いているジェンダーへの敏感さも、良く分かる。私が合コン初めてしたのは社会人になって会社の同期に誘われてからだっし。そしてそういう合コン一回もしたことない、っていうICU友達は滅茶苦茶多い。

あと、ICUは他と違うから入った、っていうのも分かる。特に沢山勉強したいから。って言う人が多かったと思う。本当に学生生活はすごく地味。みんな沢山勉強していたし、だからこそ合コンなんてちゃらちゃらしたもの…みたいな風潮もあった。

別にからICU最高なんて思ってないし、今にして思うとなんであんなに恋愛とかにかたくなな姿勢だったのかな、もっと若いうちに遊んだりしておけばよかったかなとか思うこともあるけどね。

2017-05-17

眞子様婚約あそばされた小室

法律事務所勤務で一橋大学院に通学しているなんて言うから

すわロースクール未来同業者かと思って今のうちに精神マウンティングしておこうかと思ったけども、

どうやら違うらしい。よかった。

司法試験皇族関係者からと言って忖度されたらかなわん。


ICU卒でビジネス法務、勤務先は渉外やってる法律事務所、となると将来的にはアメリカ留学して、向こうの資格でもとるんですかね。

夢が大きくて何より。

しかしその留学費用のおおもとは我々の税金なんだぞ、と黒田清子様の時のご持参金の例から考えてやはりマウンティングしておく。

2017-05-16

ICU生同士で合コンはしない

ICUって狭くて人数少ないか同級生だいたい把握できるし渋谷出るのもそこそこめんどいからICU生同士で合コンする文化ないと思う。

1年の夏に4人に1人ぐらいが海外留学行くんだけど、同じ大学に行く人達が仲良くなる目的飲み会とかやるからそれだと思う。意見交換会。

プライドのために死ねる気がする

プライドなんてくだらないもののために生きるのは良くないという意見もある。

でもやっぱり現実的に考えるとプライドを捨ててまで生きていけない気もする。

例えば、親に頼み込んでスタンフォード大学留学までしたとして、巡り巡って土方をすることになって小卒の中に混じりながら年収200万で生きていけって言われたらどうだろう。

たぶんプライドに負けて死にたくなる。

例えとしては極論だけどそういうものだと思う。

たぶん自分プライドのために死ねると思う。

2017-05-13

http://anond.hatelabo.jp/20170513130613

バブルのころに日本ドラマタイに輸出されて人気になって、タイ人日本人美男美女だと思ってるって話があって、日本人白人を美しいと思うのも同じ原理なんじゃね?

↑みたいな説を言ってみたら「俺はドイツ留学してたけど一般人白人は美しい」みたいな反論がきたから、やっぱ白人コンプでなんだろうな。

このネット時代ブサイク一般人白人なんていくらでも見れるのに。

2017-05-12

やぁ、旧帝大ブロガーだよ!

http://www.gu-none.com/entry/rohnin

こんなエントリブコメを読んでなんだか気になる部分があったので増田に書くよ!

普段ブログを書いているけど特定されるのが嫌だから増田だよ!

あと、文体でバレるのも嫌だからテンションアゲアゲで行くよ!👍

まず、私は現役生だけど、はっきり言って浪人がどうとか気にしている人ほとんど見かけないよ!

サンプルが私の身の回りだけだし、そもそもお友達が少ない私なので、いろいろ偏っていると思うけど、

そんなこと気にして生きている人は見かけないね!というか、そんなこと気にしている暇が無いよ。単位くれ。マジで

ただ、浪人生の方が優秀という話は、本当かも知れないと思ったよ!

というのも、研究室配属で人気がある研究室へ配属された学生の中に浪人生がたくさんいるからだよ!

私が聞いた限りだけど、人気ある研究室へ配属された学生のうち半分程度が浪人生らしいよ!結構だね!

この指標個人が何を研究したいのかに依存しているから、これが浪人生が優秀だという証拠にはなりえないね

でも、個人の目から見る限りではみんな自分を持っているというか、適当に生きていない感じがあるよ!

そういう浪人生と遭遇し続けているからかもしれないけどね!

そういえばブコメ旧帝大ブログやっている人少ないみたいなコメントがあったね!(正直ここからが一番言いたいことだよ!)

はっきり言って、わざわざブログで「私は旧帝大卒です」とか「私が有名私大卒です」とか言う意味がわからいね

なんでブログを書くとき自分出自を明かす必要があるのかわからないよ!身バレの原因だし、驕っているようにしか見えないよ!

社会的自分学力保証したいような場面ではもちろん学歴を示すほうが有利になるだろうけど、

そうじゃない場面で学歴を示すのは基本的マイナスなんじゃないかな!

私もブログをやってもう2年ぐらいになるけど、旧帝大であることを示唆するようなことは一切書いていないよ!

だって自分記事の一番最初に「※ これは旧帝大卒の学生が書いた文章です」って書いているようなもんだからね!

それだけで燃えやすい原因になり得るし、自分が書いた文章を色眼鏡かけて読まれたくないからね!

ブログ書くんだから、素の文章で殴り合いたいよね!それで読んだ人が興味持ってくれたり、面白かったりしたら私の勝ちだからね!

そっちの方が楽しいでしょ!とか言いつつこ記事ガッツリ旧帝大とか書いているんだけどね!矛盾しているね!ごめんね!

あと、これは本当にどうでもいい話だけど、勉強ができる人ほど大学名前無視しているよ!もっというと人を、その人の現在を見ていると思うよ!

うちの研究室にも、東大どころか海外大学に余裕で留学できるぐらい超絶優秀スーパーハイパー博士課程学生がいらっしゃるけど、

自分がやりたい研究を考えてうちの研究室に来ているからね!分野的にもっと上の研究室海外にたくさんあるけど、

それでもうちに来るのはそれだけ特殊な分野の研究をやっているからかもしれないね!すごいね

過去という意味では、最初にも書いていたけど、浪人がどうとか誰も気にしないね!逆に、今その人が何ができるかばかり考えている気がするね!

要するに、能力がどれぐらいあるかを見ているんだよね!よっぽど実力社会だと思うよ!今私もその中にいると思うと生きるのがつらいよ!みんな超優秀だもん。私も頑張りますはい

なんだか長くなっちゃったね!ごめんね!興味深いところが一つでもあったら嬉しいな!

最後に、私自体はインターネットの何処かで小さなブログをやっているよ!ふつうだったらここでURL貼るところなんだろうけど、もちろん貼らないよ!

理由はみんな分かるよね!でも、見かけたら声かけてね!あ、でもわからいから無理だね!ははは!

2017-05-10

ポロ留学

陰陽師くんが強ゲスなのよかった

話も割とスッキリしてるし元々この長さで終わらせるつもりだったのだろうか

恋活アプリ年収

人達結婚していく。遊んでくれる人が減っていく。

結婚なんてしなくていいと思っていた。しかし、友人達幸せそうな姿を見て、婚活とやらを始めてみることにした。

しかし当時23歳。婚活ハードルは高かった。

結婚相談所に行くも「27歳以上の男性を望まれる方が多いです」と。

街コン合コンに行くキャラでもない。やむなく恋活アプリを始めることにした。

年収記載していいのは会社から収入だけだろうか。他人に打ち勝つためには年収を水増しするしかない。

記載した年収、株の配当やら地代やら何やらを合わせて1500万円以上。約十年取り組んできた投資という趣味に救われた。

登録した瞬間、くるわくるわ「いいね」の通知。「投資勉強をしたいです」「一度お会いしてみたい」

おびただしい数の「いいね」とマッチングサクラを疑ったが、どうやらそうではないらしい。

実際に会うことができたからだ。

しかし、実際に会うと強い違和感を感じた。

素敵だけど、とても自分の身の丈に会わないような華やかな人ばかり。しかも、会って数回目には必ず、

大学学費自分で出さなきゃいけない」「整形したい」「留学のためのお金が欲しい」

などと切り出される。

こっちはプロフィールに「真剣出会いを探しています」って記載してるのに。

年収記載額を会社から貰っている額だけにした。投資という趣味も隠した。

もらえる「いいね」とマッチング数は激減した。

でも、会ってみると相変わらず素敵な人ばかりだ。

パパ活目的の人たちのような華やかさはないけれど。

特定相手とよく会うようになった。告白しようとしている自分がいた。

でも告白するのが怖い。相手がこんなどうしようもない自分なんかに魅力を感じる人だったら嫌いになってしまいそう。

お金をねだってくれないだろうか。学費でも整形費用でも留学費用でも何でもいい。あなたがこのままそばにいてくれるのなら、いくらでも出すから

2017-04-29

http://anond.hatelabo.jp/20170429100156

id:lli さん

どうもです〜〜〜〜

西側陣営である韓国籍を敢えて選んだご両親や祖父母様が

現代では北朝鮮の影響下にある朝鮮学校に通わせることに対して葛藤とかは感じないのだろうか、という疑問がありました。

Eizo0000さんがアメリカ留学された際にされたように、韓国籍のほうが単純に利便性が高いだろうと判断されたのだと推測してますがあってますか?

先のを書いてるあたりで、あれ?なんかズレてるかもってなりつつ"経緯というか朝鮮学校に通う韓国籍がいる理由ってかんじになっちゃってるけど。"ってなってましたね。。。

西側陣営である韓国籍を敢えて選んだご両親や祖父母様が

現代では北朝鮮の影響下にある朝鮮学校に通わせることに対して葛藤とかは感じないのだろうか、という疑問がありました。

ふーむ、これはどうなんすかね。人それぞれかと思いますが、朝鮮籍韓国籍わず通わせる両親側に多少葛藤はあるんじゃないですかね。まぁでも通わせてるのは最初増田に戻って親の意志ですからねぇ。で、そこからエスカレーターってのもあり。。。

少子化ってのもあるかと思いますが、まぁ年々生徒数減ってるっぽいので、そういうところに葛藤というかまぁなんかそういうのは表れてるかと思われます〜〜

子供いないので直接わからないですが(できても通わせるつもりはない)、通ってる親戚に対する葛藤はありつつ、高校まで行くつもりは無いって言ってるので、お、受験がんばれ!ってかんじです。

で、経緯ですね。まぁわからないんですが、と前置きしつつ、

ちと書きながら経緯というかメカニズムについて考えて、超単純に言うと、朝鮮学校に通った親は子供朝鮮学校に通わせるっていうのがあるかと思われますー(日本学校に通わせる「朝鮮学校を出た親」も当然います)。逆に言うと、日本学校に通った親が朝鮮学校に通わせるのはいないことはないけど少ないかと。

ってことで、今4世〜5,6世ぐらいかと思いますが、なぜ朝鮮学校に通わせたかってのは1世まで遡るんじゃないかな。

1世2世タイミングか、1世のおじいちゃんが存命中におじいちゃんの意志も汲みつつ2世3世タイミングで、子供朝鮮学校に通わせて、その親がその子供に通わせるってかんじ。

なので、その時にどういう意志があったかはちと聞いてみないとわからんすね。

「通わせる」ってところでは、パスポート上の国籍あんまり関係いかも。ちょい当時の情勢とかまわりにどういうのが集まってたコミュニティ要素とかもあるんじゃないかな。同族同士で助け合ったりみたいなコミュニティの繋がりはたぶん強かったのかと。想像ですけど。

韓国籍のほうが単純に利便性が高いだろうと判断されたのだと推測してますがあってますか?

利便性は確かに韓国籍のほうが高いかと思われますが、それが1世段階でどうだったのかは謎すねぇ。

おれみたいに3〜5世ぐらいで朝鮮籍韓国籍に変えるってのも結構いるかと思いますが、完全に利便性かと思われますー。まぁなんかパスポート取るとき兵役免除許可がどうとかで時間かかったりめんどいのもあるんですけど。。。

ってかんじっす〜〜

http://anond.hatelabo.jp/20170428131558

id:Eizo0000 さん

複雑な背景をドラマチックかつ丁寧に書いて頂きありがとうございます;-)

自分が誤解しているかもしれないのですが、戦後自動的(?)に付与された元々の朝鮮籍のままでなく、

西側陣営である韓国籍を敢えて選んだご両親や祖父母様が

現代では北朝鮮の影響下にある朝鮮学校に通わせることに対して葛藤とかは感じないのだろうか、という疑問がありました。

Eizo0000さんがアメリカ留学された際にされたように、韓国籍のほうが単純に利便性が高いだろうと判断されたのだと推測してますがあってますか?

国籍とどこに通わせるかはあん関係いかんじ。」というのが答えかもしれませんが。

2017-04-28

http://anond.hatelabo.jp/20170415211005

俺、この増田の「男友達」の方だ。

俺は彼女いるし、俺の女友達には彼氏はいない。

恋愛はしたいみたいだけど、男性不信みたいなところはあると思う。

色々と妄想はしてるみたいだし、たしかメンヘラだ。

ネットで知り合った男と付き合ってたみたいだし、

その「彼氏」の言う「俺は良家の出で金持ちで、今はニューヨーク留学してるから会えない」

って嘘をまるっと信じてるみたいだったし。

女友達とは一日遊んだりするけど、手を繋いだこともない。

男女の友情だとは思ってるけど、SEXしたい気持ちがないわけじゃない。

でも、こちらからそれを持ち出すと今の良い関係が壊れそうで嫌だ。

誘われて、断りきれる自信はないけれどとりあえずは断るつもり。

2017-04-27

日本って結構危ういじゃないかなーと思ったこと

「危うい」というのは国家としての存続ということ。

政治とか歴史とかについてあまり理解はない方だと思うのだけど、私自身が中国留学就労経験があることもあり、私のfacebookには日本帰化した中国人だったりという人もいる。

日本語が非常に堪能で名前さえ明かさなければ中国人だと分からないし、日本高等教育機関で働いていたりする。

facebookタイムラインを見てきて分かったのだけど、これらの人たちは日本左翼活動家をすごく尊敬していてシェアいいねコメントをしていろいろ励ましているし、

自身日本批判するコメントを繰り返している。

基本的日本だめだー、政治家だめだー、歴史認識だめだー、とか。

いろんな文献に基づいた客観的分析ならまだ学びがあったりするのだろうけど、最近とくに主張が薄っぺらい上にいろんな人に絡みだして立ち悪い感じになっている。

日本批判報道内容はシェアするくせに、自国メディアにおける捏造報道だったりには目を背け、中国称賛ニュース拡散したりしている。

(私は中国ニュースを読解できるくらいの中国語レベルはあるので、よく中国ニュースウォッチをしているのだけど、たまに酷い捏造記事拡散されたりしている)

そんな元中国人を眺めながら思うこととしては、

これだけ日本に対するヘイトを繰り返しているのに、日本政府から何の制裁もなく今日も頑張ってヘイトできることを保障してくれている日本政府感謝はないのか、ということ。

もし、こういった活動母国でやったら瞬時にスパイ容疑で逮捕されるだろうに。

最近中国スパイ容疑で逮捕されたというニュースがあったけど、この元中国人たちによる日本での活動は目に余るというか、もうすでに日本教育機関にまで入っていて社会的地位、影響力を持っているというのが本当に恐ろしい。

この人たちの教え子もすごくこの人たちを慕っているようだし。

私という一小市民facebookでもこういう現状が浮彫になるくらいだから日本全体、日本中枢まで目を向けるともしかしてもう取り返しのつかないところまでいっているのではないかとすごく危惧してしまう。

日本は本当に甘い。この点は中国を見習うべきではないのだろうか。

最近日本右傾化している、とか言われているけど、こういった背景も結構あるんじゃないかと思った。

2017-04-23

自分の設定

オンラインゲームの顔を合わせない相手向けに自分の設定を考えている

[

独身、男、年齢不詳オヤジ

ゲームアニメが好き

英語がそれなりに得意

飛行機の操縦とかもできる

外資系IT企業勤務で過去10年の海外出張は200回近い

柔道初段

合気道初段

剣術:FF14に例えるならLv20くらい

[

いい年して未婚なのには訳がある。

長く付き合った初恋相手がいたが、当時25歳のアメリカ留学中に「日本へ帰ったらプロポーズするんだ」と

フラグを立ててしまったために、オレが帰国する前にその人は死んでしまった。

それ以来誰も本気で好きになったことがない。

[

設定なら女子大生とかにした方が楽しそうな気もするがネカマは無理だった。自分が混乱して疲れるだけだ。


なんかトラックバックが付いてる. . 。そういうときは追記でいいのかな?

増田のやり方よくわからん

[

この設定をそのまま話そうとは思ってなくて、こういう背景で話をするのですよ。

ファンタジー抜きの、物理的に可能中二病的願望を追求したらこんな感じになった。

ボロを出さず、照れもしない自信あり!

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