「ショーペンハウアー」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ショーペンハウアーとは

2024-01-14

哲学者って

なんか洒落名前の猫飼ってるやつばっかでいけすかねェと思ってたらショーペンハウアーおじいさんはプードル飼ってたらしい。犬派は珍しいが、名前がおしゃれでいけない。なんだアートマンって。

2024-01-05

ドはトドロフのド

レはレヴィナスのレ

ミはミンコフスキーのミ

ファはファイヤーベントのファ

ソはソシュールのソ

ラはラカンのラ

シはショーペンハウアーのシ

さあ唄いましょう~

2023-09-11

自分言葉を語ることができない

よくTwitterで「言語化ありがとうございます」って言ってる人いるよね?あれマジで良くないと思う

自分はそれに依存してきたせいで何も考えられなくなった

自分父親は頭の回転が良いんだけど、いかんせん話を聞かないところがあって、夕食時の会話なんかでも父親講演会か?みたいな感じになっている

何か家族話題ピックアップして一言言話すとそれを父親が敏感に察知して独演会を始め出す また父親守備範囲が広いからどんな話題でも拾ってボールを投げ続けることができる

家族はそれを黙って聞いている そうしたら自分が何か考えている気になれるけど実際は何も考えていない そう、人の話を聞いたくらいじゃ何も考えなんて起きないのだ ショーペンハウアー読書は人にものを考えてもらう行為だと言っていたけど、それはこの種の人間との対話にも当てはまると思う

一度反抗期とき父親に「父さんは話を聞いてくれるようで聞いてくれないよね、ずっと自分が話してばかりだよね」と言ったらマジで怒られた。しかも両親二人から。「そんなこと言って許されるのは自分の子ども(つまり俺)だからで、赤の他人だったら鼻で笑って反論ガンガンぶつけて会話を断ち切るレベル言葉だ」って言われた

自分はその時、「あぁ自分って何も考えてはいけないのかなぁ、ちょっと相互的なコミュニケーションを取りたいだけなのになぁ」って思った。飛躍してるけど、そう思った

その後もガンガン話のボールをぶつけられて、「さぁ意見を言ってみなさい、反論してみなさい、出来ないでしょう」と言われて、そんな相手の陣地に無理やり引き込まれて無理に戦うんじゃなくて、もっと相手境界も守る、自分境界を守る、そしてその上で意見を交換したり、交換せずともお互いの領域を守りながら意見吟味して受け取るかどうか決めたり、そういうことがしたいだけだった

でも自分言葉を語るには幼すぎた 気軽に話せる友だちも居ないし(居たらこんなところに日記書いてない)内省をひたすら深められる才能も無い

結局父親の言うことを聞くだけの機械に成り下がってしまった 姉はまだ友だちが多かったから色々話すことは出来るが、自分は全くダメ

気軽に話せる友だちをTwitterのスペースとかで探した方が良いのかなぁ でもマジで頭に文章が浮かばないんだよなぁ

とにかく自分意見を交わし合える友だちが居ない人でインフルエンサーの呟きや長文ポストにうんうんって言って考えた気になってる人は一度立ち止まって欲しい

自分みたいな化け物が生まれる前に、もう一度「考えて話す」っていうことに気付いて欲しい

自分から何かを発信することで、自分の枠をもう一度固めといて欲しい そうじゃないとこんな自他の境界ゆるゆるの化け物になるから

2023-07-22

anond:20230720195854

生の否定=死の肯定、じゃないんだよ。

死がネガティブからこそ生がネガティブになる。

死と生は不可分で、生きてなきゃ死ぬこともないから。


人間はほぼ全員が死に本能的な恐怖を感じるし、できれば死にたくないと思っている。

また、死に近づきそうになると苦痛を感じるようにもできている。病気、ケガ、空腹、疲労などなど。

本格的に死へ近づくと、苦痛の度合いが耐えがたいほどになるのもわかっている。

まれしまったらいつか死ぬのは間違いないし、その途中で苦痛を感じる可能性もかなり高い。

死そのものも怖いし、その直前までの苦痛も嫌だ。


(死がそこまでネガティブでない場合に直前の苦痛を避ける手段として安楽死選択肢になってくるが、ややこしくなるので触れない)


まれいかどうか、生まれる前に本人に確認することはできない。

実際に何年か生きてみて生きるのが嫌だと思ったとしても、もうキャンセルできない。死ぬのは怖いし、苦痛もあるだろうから

この取り返しのつかない事態を完全に避けるには、生まれることを否定するしかない。


というのが自分なりの「反出生」に至る考え方。

気が滅入りそうなので反出生主義系の思想ちゃんと読んだことないけど、ショーペンハウアーに近いっぽい?

「反出生」なら思想作品歴史的に見ればたくさんあるよ(一つの時代多数派になることはないだろうけど)


反出生主義 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%87%BA%E7%94%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9

2022-07-20

教養」とは何か

教養を身に付けられる本を教えて欲しい。

anond:20220720124155


この問いに答えるには先に「『教養』とは何か」ということをクリアにしないといけないと思うが、これを抽象的に論じ始めると喧々諤々の議論となって、増田の「本を教えて」という望みにたどり着かない。

ブクマトラバがもうそんな状態になりつつある)

しかし、日本の「教養人」と言われる人/自称している人たちの中で「教養」の範囲は割と共通していて、だいたい以下のラインナップに自分の専門や好みを付け加えたものになるのではないかと思う。

ほぼ全員が「教養」と認めるであろう分野

(1) キリスト教

 これはもう間違いない。およそ西洋で発展した学問は深掘りすればすぐにキリスト教にぶち当たる。

ただ日本キリスト教について知識を身に付けようとしてもなかなか良い本が無いのが現状。(その辺で売ってる入門書は表面をなぞってるものばっかりなので読んでも誤解して終わりだと思う)

個人的には内村鑑三の一連の著作から入るのが分かりやすくて良いと思うが、古くて読みづらいかも。田川建三から入るのも面白いかもしれないけどどうかなぁ。

なお、「教養人」といえど聖書は誰も通読していないので、上記の本で引用されたところを拾い読みしておけばよい。

(2) マルクス主義

 ひと昔前までマルクス主義はすべての学問を包括する「グランドセオリー」と言われていて、どんな問題でも切れる便利なナイフのように活躍していた。

その残滓が今でもあって、社会科学においては今でも学生が知らず知らずのうちにマル経用語を覚えさせられていたりする。

むかしは手に入りやすくてわかりやす入門書不破哲三のものしかなかったが、数年前のマルクスブームでたくさん良い本が出ており、個人的にはデヴィッド・ハーヴェイ入門書お勧めしたい。(ただ抵抗が無ければ不破哲三著作は今でも分かりやすくてよい)

みんなの憧れ『資本論』も上記入門書の傍らに置いてちびちび読んでみると良い。そこらの難解な哲学書に比べればぜんぜん読める。

だいたいの人が「教養」と認めるであろう分野

(1) 歴史

 マルクスをやればみんな歴史がやりたくなる。マルクス主義史観学校で習った日本史/世界史に当てはめて、その切れ味を試したくなるからだ。

好きな時代や分野をやれば良いと思うが、「教養人」はみんな網野善彦と遅塚忠躬の著作が大好き(偏見)なので、ぺらぺらめくっておくと良いだろう(マルクス主義史観の多少の解毒剤にもなる)。

ウォーラーステインも読みたくなるが、長すぎて誰も通読していないので、川北稔のアンチョコを読んで、読んだふりをしておくと良い。

なお、第二次世界大戦については最近川田稔昭和陸軍全史』という誰でも読めるすばらしい本が出たので、知ったかぶりができなくなった。

(2) 文学

 文学となると何を読むか、ということになるが、サマセット・モーム先生が『世界の十大小説』というすばらしいアンチョコを出しているのでまずはこれを読むと良い。

そこで採り上げられている小説のうち、『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』は「読まなければ人ではない」という風潮があるので、せめて読んだふりはできるように。キリスト教知識がここで生きてくる。

日本小説では、夏目漱石についての柄谷行人の論考を読んで、日本近代について一席ぶてるようにしておこう。

それと『失われた時を求めて』はとりあえず買って挫折するのが大事

(3) 哲学

 わが国では哲学について昔からデカンショデカンショ半年暮らす、あとの半年寝て暮らす」という有名な言葉があり、デカルトカントショーペンハウアーが昔の「教養人」の必須科目となっていたらしい。

ただショーペンハウアーがここに入っているのは少し不思議で、今ならニーチェが入るのではないかと思う。

どうせ正確な理解なんて無理なのだから適当アンチョコを読んで知ったかぶりができるようにしておくと良い。

なお、なんか知らんが日本人はヘーゲルが大好き(な割に誰も理解していない)なので、一応挨拶だけしておこう。

教養」として挙げる人が一定数いる分野

(1) 法律学

 「教養」として名前が挙がることが多い一方で、まともに条文を運用できる人がほとんどいない分野。

上述してきた分野と違って、本を読むだけではだめで、指導教官のもとで実際の事例にぶち当たってトレーニングを積まなければならないので難しいのだろう。

下手に基本書を読んでも本職に知ったかぶりをすぐ見抜かれるので、時折ネットで話題になる法律問題について法曹解説を読んで都度勉強すると良いだろう。

(2) 中国思想インド思想(仏教含む)

 ここまで挙げた学問はいずれも西洋で発展したものなので、「日本にはなんもねぇのか」という気分になってくる。

こうした「教養人」が抱えるコンプレックスについて内田樹が『日本辺境論』という本で書いているので、ちょろっと見ておくと良いだろう(Amazonで1円で売っている)。

ここらで本居宣長とか丸山真男とかを読み出す人も多いのだが、どうせ不毛作業になるので、視野を広げて中国思想インド思想辺りに目を向けるのが良い。

個人的には森三樹三郎の著作が分かりやすくて良い。

(3) 自然科学

 「教養人」というのは大概文系であり、自然科学についてはからっきしな奴が多い。

自然科学話題になると、トーマスクーン科学革命構造』をそれらしく引用して逃げ切りを図る人が多いのだが、本職に馬鹿を見抜かれるので素直に勉強しましょう。

ヨビノリをはじめとした学習コンテンツYouTubeに転がっているので、せめて高校数学物理ぐらいはやっておかないといけない。

人によっては「教養」として挙げる分野

(1) 詩

 上述してきたような分野をやっていると、唐突に詩が登場したりして困惑する場面が多々出てくる。

論理的(笑)な「教養人」の中にはこれを不得手として敬遠する人が多いのだが、どこかで対決しなければならない。

幸いなことに最近詩人渡邊十絲子という人が『今を生きるための現代詩』という詩についての分かりやすい概論を出したので、一読した上で適当な詩のアンソロジーでも買ってくれ。

(2) 映画

 なんか知らんが「教養人」は映画好きな人が多いので、ある程度は観ておかないといけない。

イギリスエンパイアという雑誌が「史上最高の映画500本」という特集をやっているので、上から適当に観ておけば良い。


 とりあえずこの辺を押さえておけば周囲からは「教養がある」という認定を受けるのではないかと思う。

ただ教養があったとしても「教養人」からマウントを取られる可能性が低くなるだけであり、「他人との会話が盛り上が」るなんてことはまず無いから気を付けて呉れ給へ。

2021-05-17

借金パクリ問題

借金玉のパクリ一覧

フレーズの流用や見解サンプリングはパクりと言えないかもしれないけど、借金玉がreiにしてるパクリ認定基準採用するとパクリ。また借金玉はパクるだけじゃなく、起源を主張して他人の流用を許さな領土化を行っている。パクリよりこちらの方が深刻な問題であり、発達障害当事者言論が不当に制限されるのみならず、当事者が積み重ねてきた言語自体強奪に他ならない。作家なら他人言葉に敬意を払えよ

フォロワー自分に向けられた銃口の数」→元ネタエターナル総書記の「フォロワー自分に向けられた銃口の数だよ」と思われる。本人は自分オリジナルと主張。本来意味でのパクツイに近い

お気持ち」→揶揄として使ったのはTwitterではむしが最古かつ界隈で使われていた。本人は自分オリジナルと主張

https://i.imgur.com/vzU2ghf.jpg

「会話を独演会にする」→昔からずっと使われてた比喩表現。また同表現を使った『一流の人の話し方 二流の人の話し方』はベストセラー。本人は自分オリジナルと主張

「やっていき」→界隈で普遍的に使われていたが借金玉が起源主張して領土化した為、ダサくなったのもあって使われなくなった。本人は自分オリジナルと主張

自己肯定感は塩水」→ショーペンハウアーの「富は塩水」を元ネタとして、精神科医高垣忠一郎が公演や本でよく用いていた表現。本人は自分オリジナルと主張

ポリコレ棒」→元ネタは砂鉄蛙の「ポリコレという棒を振り回してる」。本人は自分オリジナルと主張

発達障害安易ライフハックに頼る前にまず基礎生活を整えろ」→まくるめの借金玉に対する苦言を、その翌日に自分意見としてツイート

「奇妙な共感」→恒内

HSPASD関係」→reinote

身体にいいものばかり食べさせられた子供マクドナルドにハマる」→まくるめが教育者親族から聞いて借金玉に話した事であるが、本人は自分の見分としてツイート

大きな白紙アイデアを書く→心理学者トニー・ブザンが提唱し、シリコンバレーで広まったマインドマップという手法。本人は自分オリジナルと主張

茶番センサー→kentzが作り界隈で普及していたフレーズ借金玉が起源主張して領土化した為、ダサくなったのもあって使われなくなった。本人は自分オリジナルと主張

神棚ハック、本質ボックス、扉のない棚で視覚化&一覧アクセス→いずれも元財務省官僚野口悠紀雄の記したベストセラー『「超」整理法―情報検索と発想の新システム』に記載されてるライフハック。本人は自分オリジナルと主張。ここまで一つのから被ってるとなると本来意味でのパクリ可能性あり

机の上の物をザーッとやる→小説家スティーブキングが公演でよく言うジョーク。「小説の書き方」にて同じようなニュアンスジョークを多数載せている。本人は自分オリジナルかつ「ジョークである」と主張

生活では着る物を制限したして決断を減らせ→スティーブ・ジョブズがいつも同じ服装をしている理由として有名。本人は自分オリジナルと主張

見えない通貨、会話のプロトコル霊長類学者ロビンダイバーが「ことばの起源」で述べている考え方。ダイバー自身言葉の交換を形のない通貨表現。本人は自分オリジナルと主張

就活記事借金玉が就活記事案件を書けないので、まくるめが代理執筆していたような事をツイートする。また就活記事は大体本人の経験もしくは知見として語ったりTwitter宣伝

https://i.imgur.com/zY7znRk.jpg

https://i.imgur.com/EjQdfkn.jpg

https://i.imgur.com/9X0pqs0.jpg

https://i.imgur.com/SEuwqA2.jpg

2021-01-07

発達障害の兄

私には発達障害を抱える兄がいる。

から頭も要領も悪い兄だったが、高校中退した後、通信高校に入り直し、高卒認定試験合格し、専門学校へ行き、資格も取り、関東美容師になった。

元々仲が良い兄弟というわけでもなかったが、美容師になってから薄給かつ多忙ながらも、自立した生活を送っている兄を私は少なから尊敬していた。

田舎の何もない町で貧しい家で育った私も兄も、小中学校ともにイジメ抜かれていたが、私は兄のような人生を歩みたくなかったため、勉強だけはちゃんと取り組み、国立理系大学に進学した。

兄の様子がおかしいことに気が付いたのは去年のこの時期のことだった。

どうも地元に戻ってきたらしいが、どうやら仕事をしている様子もない。

家族に兄のことを尋ねると、兄が発達障害と鬱になったと返事が返ってきた。

職場でのミスが度重なり、怒られてばかりの生活精神的に参ってしまったらしい。

親は職業柄、精神疾患に理解がある人間であり、私も兄にとやかく言うような態度はずっと避けていたが、兄は発言挙動も不自然であり、コミュニケーションを取りにくいため、この頃から兄との距離感が掴めなくなってしまった。

兄は兄で状況を改善したいようなのだが、部屋は自己啓発本で溢れており、ネットで聞きかじった知識を引っ提げて話しかけてくるため、そんな兄を情けなく思っていた。

そんな兄の鬱も春先には回復し、地元で働き口を見つけたが、職場人間関係の悪化理由に、数か月足らずで辞めてしまった。

夏に帰省した際は、千円カットの店で働き始めたと聞き、また美容師として働いていることに一安心したが、この年末年始帰省した際は、また職場での人間関係の悪化により美容師を辞めてしまっていた。

現在、兄は朝五時から十時の早朝の間、スーパーの品出しの仕事をしているのだが、職場までの移動手段がないため、朝は親に送ってもらっている。暗い雪道を車で走らなければいけない親の苦労もなかなかのものである。それでいて、短時間しか働いていないため、当然稼ぎも少ない。それでも自己啓発本の数は去年よりもずっと増えたし独り言も多くなった。

大学院に進学した私は、研究活動就職活動で忙しいことを言い訳に、兄と関わることを避け、遠巻きに兄の様子を見てきたが、とても複雑な心境になっている。

現状を抜け出せるほどの稼ぎは無く、これからさら仕事人間関係から逃げた先に何があるんだろうか。親が亡くなった後はどうするんだろうか。兄が生きるために必要他者負担はどこから発生するんだろうか。どうして兄のことでこんなに悩まないといけないんだろうか。いろいろなことを考えてしまう。

偉そうにつらつらと書き連ねたが、忙しさを理由家族問題を全て親任せにし、文句だけは一人前なのも幼稚な話である

しかし、兄に自分の力で自立してほしい思いもあるため、自分から関わりに行くようなことはしたくないという気持ちもある。

ただ、むやみやたらに自己啓発本を買い漁るのだけは見過ごせなかったため、ショーペンハウアーの「読書について」を渡した。

今は渡した本を読んでいる途中らしい。

2020-12-16

苦痛っていうのはルール

 苦痛っていうのは一種ルールに過ぎない。

 例えば痛覚は怪我をしないための一種センサーである。割とよく聞く話ではあるけれど、神経の異常で痛覚のない人が、頻繁に骨折などの怪我経験するように。

 要するに、「このライン越えちゃダメ!」と厳格なルールを人に知らせてくれるのが苦痛なのである。「そんなに激しく○○しないで!」ってな話なのである。「うるさいですね……」いやうるさくないんですってって話なのであって、苦痛の呼び声を聞かないと人々っていうのは簡単ラインを越えちゃうんですね。例えば働きすぎて脳みそに異常を来したり、あるいは、誰かの訴える苦痛だってそうで、その声に耳を傾けずにひたすら苛み続けることで、誰かにラインを越えさせてしまったりとか。

 そういうルール違反を人々に犯させないためにありとあらゆる苦痛っていうのは存在しているのである。逆に言えば、苦痛存在するが故に人々は謙虚なのだ。誰も自分が鳥だと主張して崖から飛び降りたりはしないのだ(比喩です)。それもこれも苦痛というルールが「それアウトよ、違反よ」と知らせてくれているからなのであって、そういうルールを飛び越えないように人はできている。本来なら苦痛ってやつは単なるルールであり一種審判員に過ぎないはず、だ。


 そのはずなんだけど、実際のところ苦痛というルールは、ルールという範疇に留まることをやめて、生命のかなり奥深いところに食い込んでいる。何ならそれは一部生命同化していて、単なるルール以上のドグマとして我々に猛威を振るう。我々の中にある苦痛というドグマが、我々に対して「私は生命のものです」と語りかけてくる。いや違うやろ、という声は届かない。彼らは本来単なるルールに過ぎず、そして我々が何かを越権して催促しないように見守ってくれているだけの存在の筈なのに、どこまでも深い部分まで彼らは浸透し、食い込んでくる。だから、彼らは生命とは隔絶された単なるルールでありながら、あたか生命のものであるかのように振る舞っているのだ。「私は生命なんですよ?」と。

 しかしまあ我々が苦痛に対して敬虔に振る舞い、彼らに対する精一杯の誠意を示さなければならないことは間違いない。「苦痛さま苦痛さま。今日もお見守り下さい。大人しく見守るだけにしていて下さい。私はラインを飛び越えたりはしませんし、他人ラインを飛び越えさせたりもしませんから。だからお願いですから見守るだけでいて下さい」と。我々はルールに対して拝み倒す。そのルールルールのままであってくれるようにと願う。仮にそれが単なるルールであることをやめてしまったら? それが現実化してしまったら? あるいは、それが生命の核に食い込んだ状態のまま、現実化してしまったら? その時我々はとても困ったことになる。一度現実化した苦痛は中々消滅しない。本来単なる抽象的なルールだった筈の苦痛は、この世界の随所で実体化し、そして時に生命の核に食い込んで自身生命と同一視した状態実体化してしまう。「私は苦痛です。そして同時に私は貴方生命です。貴方生命苦痛です」と言わんばかりに。


 でも、だからといって苦痛をこの世界から排斥してしまうわけにはいかないし、そもそもそれは不可能なことでさえある。我々が苦痛をこの世界から排斥してしまえば、それはそれで困ったことになるだろう。崖の上から自分が鳥である人間であるかを確かめるべく、多くの人が跳躍することになるだろう(比喩です)。そういうことのないように苦痛ってものはある。彼らは我々を見守っている。誰も、みだりに崖の上から自身存在を確かめるための跳躍を行わないために。勿論彼らは必要なのだ

 とは言え彼らの存在生命に食い込み過ぎている。

 話がループしている。


 しかし、苦痛役割は本当にそれだけのことなのだろうか?

 僕自身はこれまで十年ほどの間、「苦痛は単なるルールに過ぎない」と思い込んできた。「確かに人々の生命苦痛は大きく食い込んでいて、苦痛本来の大きさよりずっと大きく見えている。でも、あくまで彼らはルールに過ぎないのだ」と。

 でも、本当にそれだけなのだろうか?

 違うな、と昨夜ふと僕は気付いた。

 苦痛は我々を繋ぐかすがいでもあるのだ。

 子供が両親の関係を繋ぐように、苦痛は我々の関係をも繋ぐのである。つまり苦痛人間一人一人の関係を繋ぐかすがいでもあるのである。いわゆるショーペンハウアーの言う「ミットライデ(同情)」ってやつだ。人間というのは、苦しさを媒介しかお互いを理解できないようにできている。人が誰かを理解するというのはとても難しいことだけれど、同じだけの苦痛を背負った人と出会うと、不思議なことに人はその人のことをたちまち理解してしまうのである。「この人は僕と同じように苦しんでいるんだな」って。

 苦痛っていうのはルールだ。でも、人が誰かのことを理解しようとする時、人は人の苦しみを通じてでしか人を理解することができない。

 だから苦痛っていうのはある部分ではルールを超えている。それは他者認識の、そして自己認識の基本単位として機能している。もし仮に我々から苦痛が消えてしまったら、恐らく我々は我々自身のことを理解することはできなくなってしまうだろうから

2020-10-01

最善を求めることでなく、最悪を避けることを優先すべきとする洞察

社会統治の仕組みとして、優れた絶対的権力者に率いてもらうことを目指すのでなく、独善的独裁者により地獄のような社会が現出することを避けるために、容易に衆愚政治に陥ってしまいかねない民衆による多数決によって社会意思決定が下される社会制度を、気の利いた人々は採用した。

そういえば、

苦痛なく退屈でもないならば、その人は地上における幸福の大部分を手にしているのだと洞察したショーペンハウアー

民主主義は最悪な社会制度だが、他よりもましだと評したチャーチルがいた。

2020-09-23

[] ショーペンハウアーエントロピー法則

認知から来る、ある類の非対称性を表したもの

例えば、樽いっぱいのワインスプーン一杯の汚水を入れれば、それは樽いっぱいの汚水となる。

しかし樽いっぱいの汚水ワインを入れても、樽いっぱいのワインにはならない。

2020-08-23

anond:20200823133014

凡庸な著者にかぎってだれでも、自分特有自然文体偽装を施そうとする。そのためまず第一に、素朴さ、素直さをすべて放棄しなければならないことになる。その結果、文章作成上のこの美徳は、常に、卓越した精神の持ち主、平生自分値打ち自覚して、自身に満ちている人間だけに許される。つまり凡庸頭脳の持ち主たちには考えるとおりに書くという決心が、まったくつかないのである。それというのも、そういう調子で書けば、書きあがったものがまったくつまらないものになりかねない、という予感におびえるからである。___ショーペンハウアー増田

2020-07-10

anond:20200708204059

富は海水に似ている。

飲めば飲むほど渇く。

名声についても同じである

ショーペンハウアー

2019-12-03

無職で暇なうちに読むオススメ本教えて

題名の通りなんだけど、実習に明け暮れた大学後半から就職して十数年、楽しむための読書習慣から遠ざかってた。仕事必要な専門書は読んでたけど、それにプラスしてネット文章読んでたら、それ以上いろいろ読みたい意欲が飽和して湧かなかったんだよね。

んで、先月退職してまとまった時間がある程度できて、ああそういえば、読書って仕事生活スキルを上げるためだけじゃなく、楽しんでするものだったよなあ、と思い出した。

せっかくなので、いろんな人に教えてもらいたい。

学生の頃は田中芳樹とか好きだった。某シリーズは途中から思う所はいろいろあったけど、とりあえず生きてるうちに最終巻を読むことができてよかった。自分感性が変わったからかもしれない。

名前だけ聞いたことあった十角館の殺人を先週図書館で見つけたので手に取ったら、昭和版のそして誰もいなくなったなのかあ、と面白かった。あれ?平成初期か?読みやすいもんだね。

高校生の時、太宰とか漱石とか、意外に面白いじゃんと思って図書館で物色してた流れでドグラ・マグラに手を出しだら頭がおかしくなりそうで挫折したんだけど、またトライしたらいけるもんなのかなあ。読めない人には読めないもの

さらっとしたのは忙しい間でも読めたんだけど。コンビニ人間とか、三匹のおっさんとか、factfullnessとかぼくはイエローホワイトでとか。忙しかった時トルストイ挫折したけど、今なら時間あるからいけるのかな。

チーズを探す話、関西弁のゾウの神様の話も面白かった記憶はあるけど、より良い生き方みたいなのを探しながら読んでた時期だったな。退職してスッキリして、より良く生きる方法は探さなくても楽しく生きられればいいや、と今は思う。

今のところ積んであるのは以下。

息子がバトルロワイヤル面白かったと言ってたから読んでみる。小学校卒業式の前の週に読んだからちょっと怖かったらしいけど自分がこの年で読んでも面白いのかな。息子のおかげでハリポタとダレンシャンと星新一を楽しめたから、きっと面白いんだろうな。息子にはお礼に火車を貸してやった。

娘の中学受験の教材にたびたび登場するから機関車先生トットちゃん読んでみる。

あとは、銃・病原菌・鉄と、ショーペンハウアー幸福論、アクロイド殺人事件十二国記新刊。ルドルフとイッハイアッテナの新刊がもし出たら、子供が成人してても自分が読むために絶対買う。あとはhomodeus。

まだ読んだことのない面白い本が世の中にはたくさんあるんだろうな。

他にもぜひ教えてください。

12/5 追記

気づいたらオススメあげてくれてる人がたくさんいて、面白そうな本リストがズンドコ増えてうれしい。

一人一人に直接伝えられないので、ここでお礼を言わせてくださいな。

みなさん本当にありがとう

2019-10-26

デヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』要約

本稿の著作権著作人格権は完全に放棄する。無断での利用・転載はむしろ推奨する。

○第1章『序論』

p.10 子供を産むことの決断には様々な理由があるだろうが、そこに存在することになる子供の利害が含まれているはずはない。

●『誰がそんなに幸運なのか?』

p.12 「生はあまりにも酷い。生まれしまわない方がよかっただろう。誰がそんなに幸運なのか?」(ユダヤ人格言

「決して誕生しないことは、死ぬ運命にある人間にとっては最善の事柄だろう。しかし、このことは十万人のなかの一人の人間だってほとんど生じない」(フロイトジョーク)…「非同一性問題」→私たちはたしか非存在がよりよい状態にあるとは言えない。しかし、存在するものについては、存在することは当人たちにとって悪いことだと言える。「これは哲学的ゲームでも冗談でもない」

p.15 生殖をするカップルは、苦しみを生みだす氷山の頂点にいる。遺伝的な起源責任。=デレク・パーフィット起源説」

●『反出生主義と出生を促進する偏見

p.16 反出生主義の偏見子供嫌い、子供を持つことによる自由財産制限

p.17 出生の偏見子供をもたないことは利己的で未発達→①子供は別の人間なのだから子供もつ動機利己的でしかありえない。②(1)子供もつことはしばしば不注意の結果でしかない。(2)生殖衝動原始的ものである

p.19 全体主義者の政治団体軍事的理由生殖奨励する。民主主義国家も、つねに生殖を支持する層が勢力の大半を占めている。…あらゆる国家移民より生殖により人口構成されている方が正当化される。

●『本書の概要

●『読者への指針』

○第2章『存在してしまうことが害悪である理由

●『存在してしまうことが害悪であるということがあり得るか?』

p.27 「非同一性問題」「未来個人パラドックス」…(ex)遺伝性の障碍

・『生きる価値のある人生と生きる価値のない人生

p.29 非存在存在比較できないため、存在することがしないことよりも「より悪い」と言うことはできない。…存在害悪は単に「悪い」というだけで十分だ。

 …誰かが死んだ方がマシだと考えるとき自分状態が良くなると考えるわけではない。存在しなくなる方が良いほど人生が悪いものである可能性と同じく、はじめから存在しない方がいいほど人生が悪いものである可能性はある。

p.31 誰かが存在していることとしないことを比較するのは、2つの状態比較するのではなく、まったく別の事態比較することだ。…障碍が耐えがたいにしろ人生を生きるに値しないものにするほどではない場合は、そうでない場合より難しいと考えられている。=生きるに値する人生において、存在するよりしない方がいいというのは矛盾だ。→これは「生きるに値する人生」という表現多義性が原因だ。

・『始めるに値する人生と続けるに値する人生

p.32 「生きるに値する人生」は実際には「生き続けるに価する人生」だ。だが、問題は今はまだない人生であり、これに「生きるに値する人生」という表現を使うことはできない。「始めるに値する人生」を始めない方がいいというのは矛盾だ。

p.34 道徳的問題に関わる意味で、人が存在するようになる過程は長く、段階的だ。

●『何故存在してしまうことは常に害悪であるのか』

・『快楽苦痛非対称性

p.40 非存在苦痛がないことはいいことだと言える。可能性において存在する誰かの利害で判断することができる。我々は、自分たちについて存在しなければよかったのにと仮定することができる。

p.42 人々を幸福にする積極的義務があると考えている人でも、幸福な人々を存在させる積極的義務があると考える人ほとんどいない。

p.44 非対称性思考実験「遠く離れた(異国の住民の)苦痛と、無人場所無人島・火星)」(…非対称的判断)で実証できる。

p.46 積極的功利主義者は幸福を増加させようとする。そこにも①人々を幸福にすること、②幸福な人々を生みだすこと、の違いがある。①は倫理要請だと言える。しかし、②を倫理要請だとすると、個人価値幸福価値から派生することになり、人々を幸福を生みだす手段だと見なすことになる。

・『存在することと決して存在しないことを比較する』

p.52 つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力もつ人を比較すれば、存在しないことの利点がつねに勝ることは明らかだ。回復するのは手段的な善であり、内在的な善ではない…という批判は成立しない。実在する人物について善がないことに「奪われていない」という判断ができるのは手段的な善のみだ。この区分意味がない。

p.54 楽観主義者快楽苦痛費用対効果分析…は「存在しない」場合との比較でなされていなく、無意味だ。…快楽苦痛の2倍以上の値がある場合、「存在する」ことの費用対効果分析は成立する。しかし、QOLを決定する快楽苦痛割合苦痛の下限の問題がある。何より、思考実験「つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力もつ人」はつねに相対的に前者が勝る。

・『別の非対称性

p.59 シフリン:より大きな害悪を防ぐために小さな害悪をもたらすことはいい。しかし(純粋な)利益をもたらすために害悪をもたらすことは悪い。よって、生殖は悪い。存在利益をもたらすとしても、あらかじめその存在の承諾を得ることは不可能だ。また、その仮想上の承諾を想定することもできない。…①存在しなければ害悪を被らない。②存在することの害悪は耐えがたいものでありえる。③人生という害悪を逃れるには大きな代償を支払わなければならない。④仮想上の承諾はその個人人格無視している。…そもそも、出生が利益もつことはない。

p.63 出生された人物権利生殖侵害するということは、その権利請負人間はその時点で存在していないためにありえない…という議論生殖特別な特徴を無視している。害悪を被り「得る」ということで、特別権利を認めるべきだ。なぜなら、存在しない権利がないということはありえない。…自律していない存在(=子供)にはより大きな利益をもたらすために害悪を与えていいというパターナリズム的な議論…は、子供とまだ生まれていない子供は異なり、出生は絶対に悪いということで否定できる。

p.64 フェーイゲ「反失望主義(antifrustrationism)」:選好が充足した場合も選好がない場合も等しくいい。悪いのは選好が充足しない場合だけだ。よって、出生は悪い。

・『生まれたことを悔いないことに逆らって』

p.68 自らの人生を楽しんでいるという理由で、存在してしまたことを良いことだと考える…もし存在してしまわなかったら、その楽しみを逃す人はいない。しかし、存在してしまわなかったことで、苦しみがなくなるのは良いことだ。

p.69 存在して良かったかどうかを間違うはずがないと考える…存在してしまった当人存在が良い/悪いということは、存在してしまたことが幸福/不幸ということと同じではない。

○第3章『存在してしまうことがどれほど悪いのか』

●『人生の良さと悪さの差が人生の質にはならない理由

p.72 人生の良さと悪さの差は、順番、強度・頻度、人生の長さ、閾値、で人生の質とは変わってくる。

●『何故人生の質の自己判断は信頼できないのか』

p.75 ①ポリアンナ効果:楽観主義人生の質を改善するらしく思われる要因のほとんどは、人生の質の自己判断にあまり影響を与えていない(例:体の各症状に対する自分健康状態への判断がほぼ一致するのに、幸福への判断とはあまり一致しない)。②適応。③比較幸福自己判断は、実際は相対的指標による。

●『人生の質に関する三つの見解のどれをとっても人生はうまくいかない理由

・『快楽説』

p.81 人間人生の大部分をマイナス精神状態で過ごす…空腹、渇き便意尿意疲労ストレス、暑さ・寒さ。前述の3つの心理学効果無視されているだけ。さらに…持病・加齢:痛み・苦しみ、眠気、挫折感。災厄:アレルギー頭痛挫折感、苛立ち、痒み、寒気、生理痛・閉経後の火照り、吐き気低血糖、発作、罪悪感、恥、退屈、悲しみ、憂鬱孤独無力感喪失感、その他、被害感情全般

・『欲求充足説』

p.84 精神状態について判断を間違うことはなくとも、欲求については間違うことがありうる(単に快楽を追求している場合は除く)。…欲求は当然、満たされていない時間の方が長い。また、欲求が満たされるのは一時的で、そもそも欲求が満たされないことも多い。現状維持欲求さえ、実現は不可能だ(老い、死)。

p.86 マズロー「つねに新たな欲求が生じる」。イングルハート人間永遠幸福を得ることができるなら、何ら行動しなくなる」。マズロー人間はおおむね幸福で、不満足は病的状態だと言うが、ショーペンハウアーは不幸こそ人生の当然の状態だと言う。

p.88 欲求の充足までに困難があった方が、あるいは充足の過程のものが良いという議論…は明らかに不条理だ。

・『客観的リスト説』

p.92客観的リスト」は「永遠の相のもとに」ではなく「人間の相のもとに」構成されている。…40歳死ぬことが不幸だとして、90歳でそうでないのは何故か? 「色んな芝生に生えている草を数えることに人生を捧げている男」(ロールズ)の人生無意味だが、その視点人類視点は大差ない。

p.93 人生の質は「人間の相のもとに」判断すべきである、あるいは、具体的な背景に応じて判断すべきであるという議論…は明らかに不条理だ。

・『三つの見解についてのまとめ』

p.98 害悪に満ちた人生を、①すでに存在している人のためでなく、②功利主義的な目的でなく(また、そうであっても)、生みだすことはできない。人生の質の判断は当てにならず、よって、人生を続けるに値するかは別論だ。

●『苦痛世界

〇第4章『子供を持つこと:反出生的見解

●『子作り』

・『子作りの義務はない』

p.103 子作りの義務…①射程:子供を(1)何人か、(2)できる限りたくさん、持つ。②正当化理由:(1)存在させられる人々の利害関心、(2)その他(他者の利害関心、功利性、信仰、等)。…存在させられる人々の利害関心によれば、子作りの義務はあり得ない。それ以外の理由ならあり得るが、それにしても相当に疑わしい。とくにできる限りたくさんの子供を持つべきだという場合は。

・『子どもを作ってはいけないという義務はあるのか?』

p.105 生殖衝動、子作りへの関心…「性交への関心」「親になることへの関心」と「子作りへの関心」を分ける。前2者に子作りは必要ない。

p.107 他者の関心…両親、部族民族国家しかし、こうした他者利益を適えることは、それによる当人利益を適えることと表裏一体だ。

p.109 子作りへの関心は…これまでの議論から権利制限されるべきだ。

●『子どもを作る自由

・『子どもを作る権利とされているもの理解する』

p.113 子供を持つべきでない道徳的義務があるなら、子供を持つ道徳的権利はあり得ない。よって、子供を作る権利は(愚行権を含む)法的権利だ。

・『子どもを作る権利自律性に根拠付ける』

p.114 法的権利道徳的義務対立する場合、そうした方が良いという仮説を必要とする条件付きのものとなる。そして、阻却可能条件(子供を作るべきでない)がつねに適合する場合、その法的権利妥当ではない。

・『子どもを作る権利無益さに根拠付ける』

p.115 政府子供を持つべきでない道徳的義務を認めると、施策としてあり得るのは①権利を与えず自由放任する、②禁止する、のどちらか。①は権利を与えず容認するというのは矛盾で、いずれも積極的な②を包含する。②はその道徳的代償が子作りの禁止による利益を上回ることはないと思われる…非最大化主義的非帰結主義者の見解

・『子どもを作る権利意見の相違があるということに根拠付ける』

p.116 法的権利とその正当化にはこのことだけで十分だ。危害原理必要条件:ある行為害悪であるかどうか意見の相違がある場合は、危害原理の射程の外にある(例:人工妊娠中絶)。…ただし、奴隷制のように、ある行為害悪議論余地があるだけでは許されないものもある。

・『子どもを生む権利妥当意見の相違に根拠付ける』

p.118 危害原理例外となる意見の相違は妥当/無条件のどちらか。奴隷制アパルトヘイトは明らかに妥当ではない。

p.120 少なくとも反出生主義が最も優れた反論比較して十分に検討されるまでは、妥当判断のできる理性的な人々によって、意見妥当に違えることができるかは結論付けられない。

p.121 少なくともリベラル社会において子供を作る法的権利撤回されるのには長い時間がかかり、そのときにはその意見は広く認められているだろう。それまで、新しい人間存在させてはならない道徳的義務を認めつつ、子供を作る法的権利を認めることはできる。…実際、テイサックス病やハンチントン病のような遺伝性の病気エイズのような感染病など、他の場面では許されないほどの害悪を与えることが、子供を作る場面では容認されている。

●『障碍とロングフライフ(望まずに生まれた命)』

p.123 障碍…障碍は社会構成されたもので、実際には障害(disability)ではなく不能(inability)だ。また、障碍の出生前診断政治的に悪いメッセージとなるという「表出主義者」の議論…障碍が不能ということは、「より悪い」ということを否定するものではない。健常者と同じQOLを持つ障碍者も、さらなる障碍についてはQOLを低く見積もる。また、反出生主義はむしろ平等主義だ。

p.132 ロングフライフ訴訟は①子供を持つ法的権利に関する妥当意見の相違。②QOL評価個人的なものだ(とくに現在のロングフライフ訴訟代理人によることが多い)。もし判例ができれば、もうQOL評価個人に独特なものではない。の2点の課題がある。

●『生殖補助と人工生殖

・『生殖倫理と性倫理

p.135 セックスは子作りの目的でなされる場合のみ道徳的容認されるという多くの反論がある見解オーラル・アナルセックスレイプ不倫不妊症)を、反出生主義は「性倫理の反生殖見解」として完全に退ける。

・『誕生悲劇婦人科学(gynaecology)の道徳』…『悲劇誕生』と『道徳の系譜(genealogy)のもじり。

●『将来生まれてくる人間を単なる手段として考えること』

p.140 1人の子供を救うために新たに子供を持つという場合は…(a)自分たちの関心(interest)を満たすため、(b)今存在する子供に弟妹を与えるため、(c)家族部族民族種族を大きくするため、(d)何の理由もない、という場合よりはるかに良い。これらは、他人手段として扱ってはならないというカンティアン命題によりいっそう当てはまる。

デヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』要約

本稿の著作権著作人格権は完全に放棄する。無断での利用・転載はむしろ推奨する。

○第1章『序論』

p.10 子供を産むことの決断には様々な理由があるだろうが、そこに存在することになる子供の利害が含まれているはずはない。

●『誰がそんなに幸運なのか?』

p.12 「生はあまりにも酷い。生まれしまわない方がよかっただろう。誰がそんなに幸運なのか?」(ユダヤ人格言

 「決して誕生しないことは、死ぬ運命にある人間にとっては最善の事柄だろう。しかし、このことは十万人のなかの一人の人間だってほとんど生じない」(フロイトジョーク)…「非同一性問題」→私たちはたしか非存在がよりよい状態にあるとは言えない。しかし、存在するものについては、存在することは当人たちにとって悪いことだと言える。「これは哲学的ゲームでも冗談でもない」

p.15 生殖をするカップルは、苦しみを生みだす氷山の頂点にいる。遺伝的な起源責任。=デレク・パーフィット起源説」

●『反出生主義と出生を促進する偏見

p.16 反出生主義の偏見子供嫌い、子供を持つことによる自由財産制限

p.17 出生の偏見子供をもたないことは利己的で未発達→①子供は別の人間なのだから子供もつ動機利己的でしかありえない。②(1)子供もつことはしばしば不注意の結果でしかない。(2)生殖衝動原始的ものである

p.19 全体主義者の政治団体軍事的理由生殖奨励する。民主主義国家も、つねに生殖を支持する層が勢力の大半を占めている。…あらゆる国家移民より生殖により人口構成されている方が正当化される。

●『本書の概要

●『読者への指針』

○第2章『存在してしまうことが害悪である理由

●『存在してしまうことが害悪であるということがあり得るか?』

p.27 「非同一性問題」「未来個人パラドックス」…(ex)遺伝性の障碍

・『生きる価値のある人生と生きる価値のない人生

p.29 非存在存在比較できないため、存在することがしないことよりも「より悪い」と言うことはできない。…存在害悪は単に「悪い」というだけで十分だ。

 …誰かが死んだ方がマシだと考えるとき自分状態が良くなると考えるわけではない。存在しなくなる方が良いほど人生が悪いものである可能性と同じく、はじめから存在しない方がいいほど人生が悪いものである可能性はある。

p.31 誰かが存在していることとしないことを比較するのは、2つの状態比較するのではなく、まったく別の事態比較することだ。…障碍が耐えがたいにしろ人生を生きるに値しないものにするほどではない場合は、そうでない場合より難しいと考えられている。=生きるに値する人生において、存在するよりしない方がいいというのは矛盾だ。→これは「生きるに値する人生」という表現多義性が原因だ。

・『始めるに値する人生と続けるに値する人生

p.32 「生きるに値する人生」は実際には「生き続けるに価する人生」だ。だが、問題は今はまだない人生であり、これに「生きるに値する人生」という表現を使うことはできない。「始めるに値する人生」を始めない方がいいというのは矛盾だ。

p.34 道徳的問題に関わる意味で、人が存在するようになる過程は長く、段階的だ。

●『何故存在してしまうことは常に害悪であるのか』

・『快楽苦痛非対称性

p.40 非存在苦痛がないことはいいことだと言える。可能性において存在する誰かの利害で判断することができる。我々は、自分たちについて存在しなければよかったのにと仮定することができる。

p.42 人々を幸福にする積極的義務があると考えている人でも、幸福な人々を存在させる積極的義務があると考える人ほとんどいない。

p.44 非対称性思考実験「遠く離れた(異国の住民の)苦痛と、無人場所無人島・火星)」(…非対称的判断)で実証できる。

p.46 積極的功利主義者は幸福を増加させようとする。そこにも①人々を幸福にすること、②幸福な人々を生みだすこと、の違いがある。①は倫理要請だと言える。しかし、②を倫理要請だとすると、個人価値幸福価値から派生することになり、人々を幸福を生みだす手段だと見なすことになる。

・『存在することと決して存在しないことを比較する』

p.52 つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力もつ人を比較すれば、存在しないことの利点がつねに勝ることは明らかだ。回復するのは手段的な善であり、内在的な善ではない…という批判は成立しない。実在する人物について善がないことに「奪われていない」という判断ができるのは手段的な善のみだ。この区分意味がない。

p.54 楽観主義者快楽苦痛費用対効果分析…は「存在しない」場合との比較でなされていなく、無意味だ。…快楽苦痛の2倍以上の値がある場合、「存在する」ことの費用対効果分析は成立する。しかし、QOLを決定する快楽苦痛割合苦痛の下限の問題がある。何より、思考実験「つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力もつ人」はつねに相対的に前者が勝る。

・『別の非対称性

p.59 シフリン:より大きな害悪を防ぐために小さな害悪をもたらすことはいい。しかし(純粋な)利益をもたらすために害悪をもたらすことは悪い。よって、生殖は悪い。存在利益をもたらすとしても、あらかじめその存在の承諾を得ることは不可能だ。また、その仮想上の承諾を想定することもできない。…①存在しなければ害悪を被らない。②存在することの害悪は耐えがたいものでありえる。③人生という害悪を逃れるには大きな代償を支払わなければならない。④仮想上の承諾はその個人人格無視している。…そもそも、出生が利益もつことはない。

p.63 出生された人物権利生殖侵害するということは、その権利請負人間はその時点で存在していないためにありえない…という議論生殖特別な特徴を無視している。害悪を被り「得る」ということで、特別権利を認めるべきだ。なぜなら、存在しない権利がないということはありえない。…自律していない存在(=子供)にはより大きな利益をもたらすために害悪を与えていいというパターナリズム的な議論…は、子供とまだ生まれていない子供は異なり、出生は絶対に悪いということで否定できる。

p.64 フェーイゲ「反失望主義(antifrustrationism)」:選好が充足した場合も選好がない場合も等しくいい。悪いのは選好が充足しない場合だけだ。よって、出生は悪い。

・『生まれたことを悔いないことに逆らって』

p.68 自らの人生を楽しんでいるという理由で、存在してしまたことを良いことだと考える…もし存在してしまわなかったら、その楽しみを逃す人はいない。しかし、存在してしまわなかったことで、苦しみがなくなるのは良いことだ。

p.69 存在して良かったかどうかを間違うはずがないと考える…存在してしまった当人存在が良い/悪いということは、存在してしまたことが幸福/不幸ということと同じではない。

○第3章『存在してしまうことがどれほど悪いのか』

●『人生の良さと悪さの差が人生の質にはならない理由

p.72 人生の良さと悪さの差は、順番、強度・頻度、人生の長さ、閾値、で人生の質とは変わってくる。

●『何故人生の質の自己判断は信頼できないのか』

p.75 ①ポリアンナ効果:楽観主義人生の質を改善するらしく思われる要因のほとんどは、人生の質の自己判断にあまり影響を与えていない(例:体の各症状に対する自分健康状態への判断がほぼ一致するのに、幸福への判断とはあまり一致しない)。②適応。③比較幸福自己判断は、実際は相対的指標による。

●『人生の質に関する三つの見解のどれをとっても人生はうまくいかない理由

・『快楽説』

p.81 人間人生の大部分をマイナス精神状態で過ごす…空腹、渇き便意尿意疲労ストレス、暑さ・寒さ。前述の3つの心理学効果無視されているだけ。さらに…持病・加齢:痛み・苦しみ、眠気、挫折感。災厄:アレルギー頭痛挫折感、苛立ち、痒み、寒気、生理痛・閉経後の火照り、吐き気低血糖、発作、罪悪感、恥、退屈、悲しみ、憂鬱孤独無力感喪失感、その他、被害感情全般

・『欲求充足説』

p.84 精神状態について判断を間違うことはなくとも、欲求については間違うことがありうる(単に快楽を追求している場合は除く)。…欲求は当然、満たされていない時間の方が長い。また、欲求が満たされるのは一時的で、そもそも欲求が満たされないことも多い。現状維持欲求さえ、実現は不可能だ(老い、死)。

p.86 マズロー「つねに新たな欲求が生じる」。イングルハート人間永遠幸福を得ることができるなら、何ら行動しなくなる」。マズロー人間はおおむね幸福で、不満足は病的状態だと言うが、ショーペンハウアーは不幸こそ人生の当然の状態だと言う。

p.88 欲求の充足までに困難があった方が、あるいは充足の過程のものが良いという議論…は明らかに不条理だ。

・『客観的リスト説』

p.92客観的リスト」は「永遠の相のもとに」ではなく「人間の相のもとに」構成されている。…40歳死ぬことが不幸だとして、90歳でそうでないのは何故か? 「色んな芝生に生えている草を数えることに人生を捧げている男」(ロールズ)の人生無意味だが、その視点人類視点は大差ない。

p.93 人生の質は「人間の相のもとに」判断すべきである、あるいは、具体的な背景に応じて判断すべきであるという議論…は明らかに不条理だ。

・『三つの見解についてのまとめ』

p.98 害悪に満ちた人生を、①すでに存在している人のためでなく、②功利主義的な目的でなく(また、そうであっても)、生みだすことはできない。人生の質の判断は当てにならず、よって、人生を続けるに値するかは別論だ。

●『苦痛世界

〇第4章『子供を持つこと:反出生的見解

●『子作り』

・『子作りの義務はない』

p.103 子作りの義務…①射程:子供を(1)何人か、(2)できる限りたくさん、持つ。②正当化理由:(1)存在させられる人々の利害関心、(2)その他(他者の利害関心、功利性、信仰、等)。…存在させられる人々の利害関心によれば、子作りの義務はあり得ない。それ以外の理由ならあり得るが、それにしても相当に疑わしい。とくにできる限りたくさんの子供を持つべきだという場合は。

・『子どもを作ってはいけないという義務はあるのか?』

p.105 生殖衝動、子作りへの関心…「性交への関心」「親になることへの関心」と「子作りへの関心」を分ける。前2者に子作りは必要ない。

p.107 他者の関心…両親、部族民族国家しかし、こうした他者利益を適えることは、それによる当人利益を適えることと表裏一体だ。

p.109 子作りへの関心は…これまでの議論から権利制限されるべきだ。

●『子どもを作る自由

・『子どもを作る権利とされているもの理解する』

p.113 子供を持つべきでない道徳的義務があるなら、子供を持つ道徳的権利はあり得ない。よって、子供を作る権利は(愚行権を含む)法的権利だ。

・『子どもを作る権利自律性に根拠付ける』

p.114 法的権利道徳的義務対立する場合、そうした方が良いという仮説を必要とする条件付きのものとなる。そして、阻却可能条件(子供を作るべきでない)がつねに適合する場合、その法的権利妥当ではない。

・『子どもを作る権利無益さに根拠付ける』

p.115 政府子供を持つべきでない道徳的義務を認めると、施策としてあり得るのは①権利を与えず自由放任する、②禁止する、のどちらか。①は権利を与えず容認するというのは矛盾で、いずれも積極的な②を包含する。②はその道徳的代償が子作りの禁止による利益を上回ることはないと思われる…非最大化主義的非帰結主義者の見解

・『子どもを作る権利意見の相違があるということに根拠付ける』

p.116 法的権利とその正当化にはこのことだけで十分だ。危害原理必要条件:ある行為害悪であるかどうか意見の相違がある場合は、危害原理の射程の外にある(例:人工妊娠中絶)。…ただし、奴隷制のように、ある行為害悪議論余地があるだけでは許されないものもある。

・『子どもを生む権利妥当意見の相違に根拠付ける』

p.118 危害原理例外となる意見の相違は妥当/無条件のどちらか。奴隷制アパルトヘイトは明らかに妥当ではない。

p.120 少なくとも反出生主義が最も優れた反論比較して十分に検討されるまでは、妥当判断のできる理性的な人々によって、意見妥当に違えることができるかは結論付けられない。

p.121 少なくともリベラル社会において子供を作る法的権利撤回されるのには長い時間がかかり、そのときにはその意見は広く認められているだろう。それまで、新しい人間存在させてはならない道徳的義務を認めつつ、子供を作る法的権利を認めることはできる。…実際、テイサックス病やハンチントン病のような遺伝性の病気エイズのような感染病など、他の場面では許されないほどの害悪を与えることが、子供を作る場面では容認されている。

●『障碍とロングフライフ(望まずに生まれた命)』

p.123 障碍…障碍は社会構成されたもので、実際には障害(disability)ではなく不能(inability)だ。また、障碍の出生前診断政治的に悪いメッセージとなるという「表出主義者」の議論…障碍が不能ということは、「より悪い」ということを否定するものではない。健常者と同じQOLを持つ障碍者も、さらなる障碍についてはQOLを低く見積もる。また、反出生主義はむしろ平等主義だ。

p.132 ロングフライフ訴訟は①子供を持つ法的権利に関する妥当意見の相違。②QOL評価個人的なものだ(とくに現在のロングフライフ訴訟代理人によることが多い)。もし判例ができれば、もうQOL評価個人に独特なものではない。の2点の課題がある。

●『生殖補助と人工生殖

・『生殖倫理と性倫理

p.135 セックスは子作りの目的でなされる場合のみ道徳的容認されるという多くの反論がある見解オーラル・アナルセックスレイプ不倫不妊症)を、反出生主義は「性倫理の反生殖見解」として完全に退ける。

・『誕生悲劇婦人科学(gynaecology)の道徳』…『悲劇誕生』と『道徳の系譜(genealogy)のもじり。

●『将来生まれてくる人間を単なる手段として考えること』

p.140 1人の子供を救うために新たに子供を持つという場合は…(a)自分たちの関心(interest)を満たすため、(b)今存在する子供に弟妹を与えるため、(c)家族部族民族種族を大きくするため、(d)何の理由もない、という場合よりはるかに良い。これらは、他人手段として扱ってはならないというカンティアン命題によりいっそう当てはまる。

○第5章『妊娠中絶:「 Permalink | 記事への反応(1) | 21:07

2019-08-13

anond:20190812141826

知性の水準が周囲の人々と違いすぎると、理解できない理解されないと感じて苦しくなる。私も他者のいう常識理解できず苦労した。かなり長いこと自身を責め続けて苦しんだが、ショーペンハウアー著作に救われた。

2019-07-29

友達はひとりもいなかった

友達はひとりもいなかった

小学生のころ、友達はいなかった。中学校に上がっても友達はできなかった。気は弱かった。いじめも受けた。いじめられた悔しさは今も残っている。仕返ししてやりたいとも思うがそれは無意味であり有害と知ってしまたから何とか折り合いを付けていくしかないのだろう。

今にして思えば身体を鍛えて殴り返してやればよかったと思うが、そういう発想すらできないほどに当時は心身ともに弱っちい少年だった。

勉強はできた。成績はたいていクラスで1番。中学は1学年300人近かったが、まあ上位にあった。中学最後試験トップをとった。まあ田舎学校だが。

スポーツもそこそこできた。足は速い方だったし球技は大好きだった。

それでもやはり友達はいなかった。

友達ができないのは自分のせいだ、自分に何か大切なものが欠けているからだと自分を責めた。

40も過ぎた頃、ショーペンハウアーを読んだ。すると、知性の高い人間孤独になるものだというではないかもしかして自分はそういう類の人間だったのだろうか?たしか子供時代は周囲の子達と話が合わなかった。クラスの子達が笑って話している中に入ろうとしても、いったい何が面白いのか理解できなかった。自分が入ることで彼らはしらけてしまうようだった。

ひとりでいるほうが集団なかにいるよりもずっと楽しかった。

高校進学校に進んだ。そこで初めて学校にいることが楽しいという感覚を知った。友達と呼べる存在が初めてできた。

大学はいわゆる旧帝大に進んだ。大学さらに楽しかった。ここでも友達はできた。

社会人になって会社員を経て独立した。今が一番楽しい

なにが言いたいのかというと、住んでいる地域が一緒だからという理由でひとくくりにして小学校中学校に入れるのは、一部の子にとっては非常な苦痛になる場合があるということだ。

思うに、知性の水準が周囲に比べちがい過ぎると孤独になる。本当に賢い人間であればそれも理解して上手に周囲と話しをあわせ良好な人間関係が築けるのかもしれないが、そこに至らぬ中途半端な水準にあると、いっそう孤独を深める事になる。敵対的環境のなか苛まれることにもなりかねない(知性が高い奴なら低い奴にも合わせられるかもしれないと書いたが、低い思考レベルの人々の話に自分を合わせるのはけっこうたいへんである。なかなか辛いものであり苦痛でもある。かなり疲れる)。

学校にいること、集団の中にいることが正しいわけではない。そんなことは断じてない、ということをいいたい。

集団生活に馴染めないからといって障害か何かと考えるのは間違いであ場合がある。集団生活違和感を覚えたら、自身の知性の水準が周囲と異なるのかもしれないという可能性を考えてみるべきだ。

ところで、子供時代の辛い経験を思い返すと、その頃から格闘技を学んでおけばよかった、もっと身体を鍛えておくべきだったとは思うが、あえてそういう状況のなかだったからこそ何事かを学べたのかもしれない。こういう経験が(辛い経験ではあったが)必要だったのだろうと思うし、そう思う以外にない。

2019-06-12

他人の不幸成分が足りなくて発狂しそう

自分幸せになれなくてもいいから、他人の不幸を味わいたい。

同級生うつ病無職になったという話が聞きたい。公道で車をぶつける間抜けドライバーが見たい。

幸福曖昧だが、不幸は明確だ。だから他人の不幸は分かりやすエンターテイメントになる。

小学生の頃、同級生兄弟説教を食らっているのを見ると脳汁が出た。

犯罪被害ニュースなんかではダメだ。多少なりとも自分関係のある人物が、自らの能力不足によって不幸になる様子が見たい。

ショーペンハウアーは言った。

「だれしももっとも愛しかつ求めるもの他人が劣っていることである」と。

2019-03-01

anond:20190301152130

ショーペンハウアー

世界には喜びより苦しみの方が多い。数千人の幸福と喜びは、一人の人間苦痛を補う事はできない。そして全体的に考えると生命は生まれない方がより良いだろう。


ネタ

ネターは人口爆発問題について言及している。ベネターは地球上の理想人口ゼロであるとしている。


カブレラ

Julio Cabrera は出産人間危険で痛みに満ちた場所に送り込む行為だと述べている。生まれた瞬間から死に至るプロセスが開始される。Cabreraは出産において我々は生まれてくる子供同意を得ておらず、子供は痛みと死を避けるために生まれてくる事を望んでいないかも知れないと主張している


アケルマ

カリム・アケルマは、人生の中で起きうる最良のことは最悪なこと―激痛、怪我病気、死による苦しみ―を相殺せず、出生を控えるべきであると主張している。



ザッフェ

我々は満足させる事ができない欲望精神的な要求を持っている。人類がまだ存続しているのはこの現実の前に思考停止しているからに他ならない。 Zapffeによると人間はこの自己欺瞞をやめ、その帰結として出産を止めることによって存続を終わらせる必要がある


てめえが名前を挙げた学者の中に出産肯定してるやつはいないんだが?




四諦

ハリ・シン・ガウルによるブッダ解釈

Hari Singh Gourは彼の本The Spirit of Buddhismの中で、とりわけ四諦とパーリ律の始まり考慮し、以下のようにブッダの教えを解釈している。

ブッダ曰く、人生が苦しみである事は忘れられがちである。人が子供を作る。従ってそれが老いと死の原因である。彼らが苦しみの原因がその行いにあると気付いたならば、彼らは子供を作るのを止めるだろう。そうして老いと死のプロセスを止めるべし。

四諦のものは反出生主義とは関係ない上に、この解釈すら、出生否定してる。


マニ教

マニは悪から逃れることを説き、そのためには人間繁殖までをも否定した



キリスト教 マルキオン派

wikiのマルキオンに反出生主とあるだけで、実態に関するちゃんとした情報がわからなかった、あるんなら出してくれや

キリスト教 禁欲

これを反出生主義と結びつけて考えるような記述はどこにも見当たらなかった、が、

そもそも禁欲って、基本性交とかそこらへんに関するものであって、出生は関係ないだろ

ボゴミル派

マニ教的な善悪二元論を説く。人間の魂は、悪しき肉体に拘束されている、この世の物質的なものは全て悪魔(サタナ、ギリシア語サタンの意)の手で作られたものである、救いのためには全ての物質的なもの否定せねばならない。


カタリ派

おめでとう、これが唯一の反証だよ、つってもこれも、死ぬ間際に(生殖含む)禁欲すれば、天国行けるっていう

まれてくる子供の苦しみとかも関係ない、俺からしたら反出生主義って言っていいのかかなり怪しい代物だけどな


まあ、つまり現在生きてる学者でてめえの言うような

出産を控えるべきなのか?

出産を完全にやめるべきなのか?

問題となるのは出産かそれとも性交か?

みたいなこと言ってるやつは居ねえんだよ

つか、おまえ書き方からして、内容が少々違うってだけで、多様な解釈があるって捉えてんだろ。

恣意的解釈してんのはどっちだよ



まあ、カタリ派の例だけ持ってきて、ほら!条件付きで子供産める反出生主義者もいるじゃん!って言ってもいいけどな、まあ、そう言うなら、俺の負けでいいよ、俺はカタリ派が反出生主義だとは思わんし

もうカタリ派滅んでるけどな

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん