はてなキーワード: 自由とは
この意見は、選択的夫婦別姓制度が導入された場合に「自由」という概念が実際に尊重されるのか疑問視しており、いくつかの指摘については妥当性がありますが、同時に矛盾や過度な推測も含まれています。以下に問題点と矛盾を示します。
選択的夫婦別姓制度が導入された際、「どちらを選ぶかは自由」とされながらも、個人が選択した結果に対する批判や圧力が生じる可能性があるという指摘は、一定の現実性があります。例えば、選択的別姓を支持する人が、他者が同姓を選んだ場合にその決定を「古い価値観」として非難することはあり得ます。これは、自由の理想と、個人が選択する際の社会的影響が必ずしも一致しないことを示しており、「自由」の解釈と社会の反応にズレが生じる可能性がある点は有効な指摘です。
年の差婚に対する批判を引き合いに出し、「別姓を選択する自由も同様に批判されるだろう」との指摘には、やや無理があります。年の差婚は、家庭内での力関係やパワー・ダイナミクスへの懸念からくるものも多く、夫婦別姓とは異なる社会的背景が絡んでいるため、同じように扱うのは難しいです。この関連付けは、意見の根拠として説得力を欠く一因となっています。
「選ぶ自由も批判する自由もある」という考えに対し、「批判がある時点で自由は侵害されている」とする意見は、やや一面的です。民主主義社会では、個人の選択の自由と、その選択への意見表明の自由は両立するべきであるとされています。例えば、ある選択に対して異なる意見が出たとしても、そのこと自体は選択の自由を根本的に否定するものではありません。批判や意見が自由を「強制」や「抑圧」に転じるかどうかは、相手に対する具体的な圧力の有無など、状況に依存する部分も大きいです。
4. 過度な推測による不安
この意見は、別姓を選択する自由に対する懸念が主張されていますが、仮説が強調されすぎている面があります。現状ではまだ制度自体が導入されていないため、将来的な社会的反応や偏見についての予測はあくまで仮定にすぎません。したがって、「自由は尊重されないだろう」と断定的に述べるのは、過度な推測であり妥当性に欠けます。
この意見は、選択的夫婦別姓制度に伴う「自由」の概念と、社会的な反応や批判とのバランスについて有効な懸念を含んでいますが、いくつかの矛盾や過度な仮定も見られます。批判と自由の関係については、どの選択があっても多様な意見が出るのが現実であるため、制度導入後の社会的意識の形成が重要であり、全ての選択肢が尊重されるような社会的支援や教育が求められます。
夫婦別姓の話題になると、必ず「選択制なのだからどっちを選ぶも自由なんだよ」てブコメがついてスター集めてるけど、本当に?
本当に夫婦別姓選択制が導入されたら、同性を選択した人も当事者の自由の行使として認める?
そうは思えないんだよなぁ…
女性側の姓に男性が改姓するならともかく、男性側の姓に女性が改姓したら非難轟轟になるのはほぼ確実では。
別姓選択制が導入されたあとで
「有名人が結婚しました、夫婦同姓を選び、妻が改姓して夫の姓になりました」てニュースが流れたとき、
今「どっちを選ぶも自由」と言ってるブクマカはじめ別姓選択制を主張してる方々が、「結婚おめでとう!」とだけ言って笑顔で祝える?無理でしょ。
今でも当事者の完全な自由である、成人同士の結婚に対して、年の差があったら「気持ち悪い」とゲロを吐きかける呪いのブコメが一番スター集めてトップブコメになってるんだぜ…ブコメ書いた屑はもちろん、スターつけた連中も酷すぎるだろこれ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/66993
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231115124241
では「まともな大人なら19歳から求婚されても断るべき」が上位ブコメになってる。「べき」だぜ。義務かよ。男は、年下の女から求婚されたら、年の差にならないよう断るのが義務なんだって。これが上位ブコメになるって…
(女性の側も成人した対等な立場の大人なのはずだが、なぜか女性の側に「年の差がある男には求婚すべきではない」とはならないのが面白い。女性は成人であっても男から保護されるべき存在って考えなのかな)
成人同士の結婚での年齢にすらこの反応なのだから、別姓選択制が導入されたあとで有名人が結婚して同姓を選び、妻が夫の姓に改姓してたら、ぜったい
「夫が妻に変えさせたんだ!」「夫の姓に改姓する〇〇(妻)さんに失望した!」「古臭いことをするな!」「意識アップデートしろ!」
え?「選ぶも自由、批判も自由」だって?詭弁をいうなよ。相手に見えるように批判してる時点で、それは相手の自由を認めてない、相手に自分の望む通りの行動をさせたいって欲望だよ。
選択的夫婦別姓は避けられないと思うのだけど、だからこそ導入前提できちんと議論してほしいなと思います。
このテーマって、ネットやメディアでは強い言葉ばかりが紹介されていますよね。
自民党が見向きもしなかったのが一番悪くて、状況を打開するためには過激な意見が必要なことや、当事者のつらさがあることも理解できます。
ただ、「同姓sage」をした上で「別姓age」というアピールの仕方ばかりしてきたから、このままいくと結構な軋轢があるんじゃないかと思います。
「選択的だから…」と言いつつ、別姓を選ばなかった人をなんとなく小馬鹿にしているように見えちゃっているということです。
国会ではこれを一度きちんとリセットして、別姓を選ぼうが、同姓を選ぼうがフラットな目で見られるような議論を展開してもらいたいです。
たとえば、今でも夫婦どちらの姓にするかは完全に自由ですよね。
でも、実際はほとんど女性が姓を変えていて、それが良くないと言われています。
「選べる」からといって本当に本心から選択できるとは限らないから、「選択的夫婦別姓」という仕組みが求められているわけです。
私は九州出身のひとりっ子なんですが、母が女きょうだいだったので父が姓を変えました。
ネットでの悪名通り、九州なので実家に帰れば家族からまだ結婚しないのかと言われます。
特に圧が強いのは祖母で、こないだも「姓は残さないかん」と説教されました。
「婿」をとってまで姓を残したのに、お前が絶やすなということです。
(祖父は7人きょうだいだったけど、弟が姓を変えた結果、男だった祖父1人だけが姓を継いだ)
なので仮に選択的夫婦別姓ができれば、私は別姓を「選ばないといけなく」なります(相手が同意してくれれば同姓もありえる)。
これって姓を変えるのはほとんど女性という構図と似ていませんか。
相手の姓になるという選択肢もあるし、姓の継続を強要されたわけでもない、ただ空気感でそうなってしまうし、拒絶するほどでもない。
どちらかというと薄っすら不満、みたいな。
別姓導入のための「選択的だから誰も困らない」みたいなクリシェを見せられると、なんだか自分が透明化されている感じがしてしまいます。
私は家族が嫌いなわけじゃないのでまだそれでも良いんですけど、たとえば親の影響下から離れたいと願っている人とかには結構きついんじゃないでしょうか。
また、そういう場合、子どもの姓をどうするかという問題が出てきます。
それから旧姓の問題。選択的夫婦別姓を推進する観点からは、旧姓では不都合が多いことが指摘されていますよね。
それはその通りだし、別姓で救われる人がたくさん出てきたら良いなと思います。
一方で少し疑問なのは、この手の意見は旧姓使用に不都合を感じている人が、みんな別姓になることを前提にしていないか、ということです。
経団連とかは戸籍姓とビジネスネームの二重管理によるコストを問題視しているみたいです。
そうなると選択的夫婦別姓になったら戸籍姓とビジネスネームの一致が求められますよね。
戸籍姓を選択できるのに、仕事で旧姓を使うのはそんなにおかしいことでしょうか。
選択的夫婦別姓の代表的な反対論に「家族の絆が壊れる」というのがあります。
私自身は実際には何とかなるんじゃないのという気がしますが、それでも「家族みんな同じ姓が良い」というニーズは他人に押し付けない限り、素朴で理解できるものです。
仕事では旧姓のほうが便利だけど、プライベートでは多少の不便さはあっても戸籍姓のほうが良いという要望は認められないのでしょうか。
あるいは結婚したばかりの人が、自分は望んで同姓派だけど、この会社にいる間は旧姓を使ったほうが便利だ、みたいな判断できなくなるのでしょうか。
繰り返しますが、私は選択的夫婦別姓に反対していません(消極的賛成)。導入は避けられないと思っています。
上であげた想定も、だから選択的夫婦別姓を辞めるべきだと言いたいから出したわけではありません。
私が望んでいるのは、導入することを前提に、本当の意味で個人の自由が守られるための議論をしてほしいということです。
選択的夫婦別姓と一口に言っても、その動機はさまざまですし、制度設計の方法も色々あるんだと思います。
でも、選択的夫婦別姓の導入が決まらない限り、いつもは弱者や少数派を大事にしている左派知識人は言及できません。
だから、導入を確定させた上で、そういう頭の良い人たちに、抜け漏れがないよう色んなケースをしっかり列挙してもらい、どうやったら解決できるかを検討してもらいなと思っています。
コンバーターとコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係な対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙な共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化や歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間の歴史の中で、技術や食文化の進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。
まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能や属性を変換する装置や技術を指す言葉である。電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタル・アナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり、現代社会を支える根幹を成す技術のひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシ(コーン)から作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米や南米など、トウモロコシを主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。
一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターとコーンバター。しかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこから生まれる美的な感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化と技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間の知識の結晶である。これに対し、コーンバターは農業の発展や食文化の進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間が生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有の美的価値が含まれている。
人間は、常に物質やエネルギー、さらに情報の変換を行うことで、生活の利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品を自由に使用することはできない。デジタル信号をアナログに変換することで、音楽や映像をスムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報やエネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的な装置やデバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。
一方で、コーンバターには全く異なる美的価値が内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果である。トウモロコシは、古代アメリカ大陸の文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的な欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。
また、コンバーターとコーンバターは、それぞれ人間の内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たちの生活を快適にし、さらには新たな表現の可能性を広げている。情報を自由に変換し、自在に操作できるという感覚は、無限の創造力を解き放つものであり、それ自体が一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁や安心感、さらには家族や共同体との結びつきといった、人間らしい感情を喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働と愛情を味わうことができる。このように、コーンバターは食文化の一端としての「食の美」を表している。
さらに深く考察を進めると、コンバーターとコーンバターの間には、「変換」という共通のテーマがあることに気づく。コンバーターは無機物やエネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間が自然や物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である。
現代のテクノロジー社会において、コンバーターはほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在を意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジーの進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。
このように、コンバーターとコーンバターは、それぞれ異なる形で人間の生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間の生活に寄与し、美的な価値を提供している。そして、技術の進化と伝統の継承という二つの相反する要素が、私たちの感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象を比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である。
虫って、よく見ると何かおかしいと思わない?
あの妙な姿かたち、異様な動き。
カブトムシやトンボみたいにちょっとカッコいい系もいれば、ゴキブリやムカデみたいに生理的に受けつけない系もいる。
さらに調べると、昆虫の生態ってまだわかってないことだらけなんだよ。
たとえば、ミツバチの「ワグルダンス」っていう踊りで情報を伝える行動、どこでそんな技術を覚えたのかも不明だし、何百キロも離れた場所から迷わず巣に帰ってくるカブトムシの帰巣本能とか、どうやって道を覚えてるのか、いまだに謎。
近年だとカマキリが星を使ってナビゲートしてるって話も出てきたけど、それもまだよくわかってないらしい。
そんな感じで不思議すぎるから、昆虫の先祖は宇宙からやってきたんじゃないか?って説もあるんだって。これは「パンスペルミア説」と言って、昔、隕石に紛れて地球に来た微生物が進化して、今の虫になったんじゃないかって考え方。
SFみたいだけど、地球にない化学物質が昆虫から見つかったりもしてるから、信じたくなる話なんだ。
———
時は23世紀。技術が発達して、未来人たちは過去に行くための方法を見つけた。
とはいえ、歴史を変えるリスクがあるから、普通に人間が過去に行くのは絶対禁止されてる。
けど「過去を見てみたい!」って気持ちは止められないじゃん?そこで考え出されたのが、過去の地球に「遠隔操作型ドローン」を送り込むというアイデア。
昆虫は、未来の技術で作られた高性能のタイムマシンみたいなもんで、カメラやセンサーが内蔵されてて、未来の人たちはそれを通して過去の風景を観察できる。
普通のドローンだと、当時の地球環境や人間にバレるリスクが高すぎるけど、虫の姿をしていれば、誰も怪しむことなく地球上を自由に飛び回れるんだ。
虫の中には特殊なプログラムがあって、記録した映像や情報を未来に送り返すようになってる。
だから、たとえばアリが一直線に行列を作るのも、ハチがダンスを踊るのも、実は未来の人が「どうせ過去に行くなら秩序ある行動を見せたい」っていう趣味のせいだったりする。
アリたちはせっせと働いているように見えて、実はあれは単にプログラム通りに動いてるだけ。
つまり、昆虫の謎めいた行動や生態の数々も、全部未来の人たちの手の中にあるってわけ。
そう考えると、ちょっと虫を見る目も変わるよね。
今、君の肩に止まってるそのハエも、もしかしたら未来人が操縦してるのかもしれないし、君の行動をこっそり観察してるのかもしれない
お前が見たのが誰の話かはわからんが、俺も表現や創作は自由であれと思っている
同時に公の場や子供の目に入る場所になればなるほど制限が生じるのも当然だと思っている
フェミはちゃんと隔離された場所までやってきてけしからん!とか言うし
自分はロリと呼ばれる系統の絵柄が好きだけど、エログロは苦手だし、正直規制されてなくなってもなんの痛手もないしむしろ歓迎側の人間だ。
でも、創作は自由であるべきだと思うし、なんならこの話題でいつも思うのが何故ショタは挙げられないのかってところ。
それに実害のあるパパ活風俗の方は野放しにして、いわゆる男側のコンテンツばかり叩くような動きをしている人たちの意見には乗りたくない、というのもある。
リョナやグロ好きな人は気持ち悪い、関わりたくないもよくわかるし、ましてや創作とはいえ、ロリがそんな目に遭う描写は本当に耐えがたい。
だからメイドインアビスも正直苦手だなと思うことはある(でも話がとてもいいので読む)
気持ち悪いし不快な部分はあっても、それを全排除してはならないと、思ってる。
ただ、可愛いだけのロリが好きな自分にとって、こういう問題があがるたびになんだか悲しくなる
ロリ好きを一緒にまとめないで欲しいというのもあるし、お前らもショタやホモ好きでえぐいの書いてるじゃんという文句もある
というボヤき
毎日母親との嫌なことを思い出して辛いのでここに放流する。ネットに流せば少しは気持ちが薄れたらいいが。
ちなみに母親からまだ離れられていない。離れる計画の途中である。もっと早く離れればよかったと強く思っている。
母親に違和感を感じたのは10歳の時。クラスにプレゼントを渡したい男の子が数人いてその話をした。すると、○○君は遅刻するよ。○○君はテストの点数が悪い。など悪い点を挙げられた。余りにも驚いて混乱して何も言えないようになった。
それから人を好きになることは人に文句を言われる、評価されるものと思うようになった。
学校で異性と仲良くしてもし母親に何か言われたらと常に怯えていたし、恋愛話も興味ない振りをしていた。
勉強や趣味に打ち込んでいたが心の片隅では寂しい気持ちを抱えたままそのまま高校生になった。
それを見て母親と祖母はやった!うちで初めての快挙だ!これで玉の輿だ!と噂話していた。ものすごく恐怖を感じた。
今まで異性を家に呼ばなかった私はダメなのかとひどく落ち込んだ。
今思い出して書いてみるとすごく昔の考えに思えるが、筆者は平成初期生まれである。
母と祖母からは女性なんだから働かなくていいと言われたり、バイトが遅くなっただけでキレられたり、受験の合否をすぐしないだけでキレられたり(不合格なので悲しくて泣いていた)随分振り回されてきた。
しかし物は豊かだったため、学生の頃は周りからは親がおかしいとは気づいてもらえなかった。
社会人になり別に恋愛しなくてもいいかと思っていた。周りから恋愛してなくて変と言われるのは辛かった。だが、偶然にも同性を好きになることがあった。初めての出来事に自分でもかなり思い悩んだ。
その悩んでる最中に、祖父母に久しぶりに話をしたら会って1番にこの歳で結婚しないなんておかしいねえ!と言われ、何かが崩れていき祖父母の家には行けなくなった。
その後、祖父がかなり弱って入退院を繰り返して最期死ぬまで私は見舞いに行かなかった。
毎日母親から祖父の見舞いに行って。○○ちゃん(私)が子ども産むまで死ねないよって言ってるよ。と聞かされていた。
この時の私は一人暮らししようと転職した職場がブラック企業で鬱になり、家で休んでいるところだった。
苦しくなって情緒不安定になっている時、母親に部屋の隅まで追い詰められ、家が嫌なら出て行け!と怒鳴りつけられた。
もう何もやる気が出ない。希望も絶たれて家を出ようという気持ちも起きない。
鬱がどんどん悪化していき外に出れない食事も取れない日々が続いた。
貯金も減り親に相談した所、もしもの時や結婚した時のために貯金は使えない。と言われた。
今はもしもの時じゃないのだろうか?今生きることより結婚が大事なのか?
もう死のうと思い、首を絞めた。
結局死ねなかったが、首を絞めたことを医師に話すと入院になった。
入院中は母親は私の同級生に早く結婚して出ていって欲しいと言っていたらしい。
もう何が正解かわからなくなっていた。
高齢出産の年齢になった。
親の言う通りになるので、この先結婚もしたくない。
もし子どもができても、親のようになってしまうかもと恐怖がある。
ただ自由に生きたいな。
今は退院し、支援してくれる人が複数人いて一人暮らしへのサポートを受けている。
退院後は過去に言われて嫌だったことを母親に伝えている。例えば、突然お前は料理が下手だから餓死する一人暮らしなんて出来ない。など。
それを伝えても文句としか取られない。どうして謝って欲しいと期待してしまうんだろう。これが共依存なのかな。
ある人からこれからは自分の人生なんだから自由に生きよう!と言われるのだが、なんだかモヤモヤしてしまうのだ。励ましてくれていることはわかる。
でも私の今までの人生は自分の人生じゃなかったのか?制限されていたなりに、仕事や趣味は頑張ってきた。なんだかそれまで無かったかのような気持ちになってしまうのだ。
⇨
全く保守的ではないです。
宗教観みたいなもので、今のままがいいと思って同性婚にも別姓にも反対してる人は、特に年寄りには多いだろうね
⇨反対してるのは戸籍制度を日本伝統と思ってる保守派が多いが、お前は宗教観で保守的に考えてるレアケースなの?
お前がそう思うのは自由だけど、現状レアケースだし不都合は結婚制度を変えなくても求めていけるもので、結婚制度を変えることを目的にしてるようにしか見えない
⇨何回もいうが、日本のために税金もたくさん払い生産性あげたい少数かもしれない。しかし、それで婚姻制度を変えたいと訴えて何が悪い?
(もっと少数な人はマイクロソフトの代表などやったりして、不便も感じないだろう。そう考えると私は中間層である)
自分の都合に社会制度の方が合わせろってのは傲慢な態度だと思うよ
⇨それをいうなら、あなたの都合は、社会制度と相反せず、また、合わせてもらうことも金輪際ないということですね。
何のための選挙制度?
宗教観みたいなもので、今のままがいいと思って同性婚にも別姓にも反対してる人は、特に年寄りには多いだろうね
お前がそう思うのは自由だけど、現状レアケースだし不都合は結婚制度を変えなくても求めていけるもので、結婚制度を変えることを目的にしてるようにしか見えない
いつ理不尽な暴力に出くわすかわからなくて生きていて怖いです。
暴力に怯えてびくびくと自衛するコストを支払っていることを不平等に感じています。
何も迷惑かけません。
みんな銃を持つべきだとは言いません。
選べる自由が増えるだけでそのぶん幸福度が増えるだけで社会が大きく変わったりはしません。
選択肢は多くあった方がいい。
銃を所持する選択肢を私にください。
誰だこちらの質問に「なんだこりゃ」タグを付けてる恥知らずは。
政治家がたまに「丁寧な説明をしていく」と言ってるが、もし「反対派をバカにして同調圧力で制していく」と表明してたら、あなたは票を入れるのか?
筆者はこう書いてるのだから質問には素直に答えればいい、でなきゃスルーすればいい。
cinefuk 自分で「本当に知りたい」と思ったら、検索したら出てくる法務省試案を、反対派の誰一人知らないのである https://www.moj.go.jp/MINJI/minji36.html#Q8 混ぜ返して、それを知らん人を混乱させるのが目的の荒らしなんだよな 荒らし 全体主義 統一教会
選択的な自由は誰にも迷惑を掛けないというロジックを信じてるんじゃなかったんかい。
monomoti だから選択的やいうてるやん。質問は全部余計なお世話。みんな好きにしたらいい。もめるから選択肢反対というなら、民主主義など、いや思考こともやめちゃえ。
もめるのが民主主義なのに質問は余計なお世話 ? ……もう既に思考やめてませんか。
荒れるので反対、のコメントについてはどう考えるんだろう。
Ayrtonism ...後の問いも基本難癖。
回答の最後で罵倒するムーブ、とても善くないと思う。前半いい回答なのに… 俺は悲しい。
ちんぽこ。その一言には、シンプルな形が持つ力とユーモアが詰まっています。ありのままでいることで感じられる自由さが、ふとした瞬間に微笑みをもたらします。
私たちの一日一日には、小さな喜びや発見がある。ちんぽこがもたらすのは、自然体でいることの美しさと、本質を楽しむこと。余分を削ぎ落とし、ただそこにあることで価値を生み出す。
ユーモアと共に、心の余裕を
ちんぽこを通じて、日常に小さなユーモアと心の余裕を。シンプルな一言が、私たちに本当に大切なことをそっと教えてくれる。
ちんぽこ。そのユニークさには、言葉にできない魅力があります。それは単なる一言以上の、笑顔やリラックスを引き出す小さな魔法。何気ない日常に、そっと光を差し込む存在。
ちんぽこが伝えるメッセージはシンプル。「自然体であることの価値」を忘れないことです。余計な装飾をせず、ただそのままでいられる。そんな純粋な美しさが、私たちの日常を少しだけ輝かせてくれます。
障害者に限った話じゃないが、手助けしてくれないと喚くタイプは大体人間性に問題があると思ってる
・人に手助けして欲しいなら、きちんとしたお願いやフォローしてもらうための根回しする
これは人と円滑な関係を築く上で当たり前の事なんだけど、喚く奴ほどこれが出来てない
これをしないって事は「俺はお前を人として見てない」って意思表示なんよ
別に普段どんな態度してようが個人の自由だから好きにしていいよ?
ただ、そんな態度してて困った時に無償で助けて貰えると思ってるなら甘えが過ぎる
「夫婦別姓があるとお互い自由に選べて、どちらも納得できるのじゃなくて?」
「およよ、それはそうでおじゃるが、時間がな! どちらにせよ選択に伴う手続きが、およよ…想像しただけで日取りが狂ってしまうでおじゃる!」
「ふむふむ、君たちどちらかがネコの姓にすれば問題は解決だにゃ。ほら、ネコには姓も時間もいらないにゃ。呼べば来るけど来ないにゃ。」
「ちょん切りなさい!時間の問題などはあたしが解決してあげる!やはり同姓でよろしい、選ぶなど無駄の極み!」
「わがはいは茶会だけに時間を合わせておればよいが、姓にまで合わせるなど何と不便な…まて、わがはいなら『茶会帽』という姓にするぞ!」
「でもね、選べたら皆が自分のアイデンティティを保てて、無理に名前を変えなくても…そう思わない?」
「アイデンティティとはいったい何だにゃ?わたしなんぞはいつだってどこだって消える、あるときには足があってまた別のときには尾がない。姓があろうがなかろうが、ネコはネコでにゃ。」
「だからそんなたわごとを言うからすぐに混乱するのだよ!姓を選べるのならまず『お辞儀をしなさい』姓をつけて、権威を見せつけるのが先決!」
「おお!ならば『永久茶会』姓がよろしい!こうしてわがはいも世の中の姓をまたぐぞ!」
「待つでおじゃる…姓が永久というのは終わりがなくなるでおじゃる!時間の破綻で女王さまの怒りを買ってしまう…!」
「でも、どちらかの姓を取るのがいやなら、二つの姓をそのまま使えば?子供はどうするか、ですって?そうね、どっちかを一つ選べばいいじゃない。」
「二つだろうが三つだろうが関係ないにゃ!名前が二つあっても迷わないさ、どうせ誰も君を忘れないにゃ。むしろ誰も覚えていないのが一番楽しい。」
「首をはねなさい!選ばせるなど無意味である!皆が同じ名前を持てば済むことだよ!『あたしの命令を守れ』が姓でよいのだ!」
「では、わがはいは『あたしの命令を守れ』茶会と名乗ろうぞ!実に優雅でございますな、これでどんな帽子も迷わぬであろう!」
「およよ、終わりがない、時間がない、姓もない!もうどうすれば良いか、頭がぐるぐるでおじゃる!」
「…あたくし、こんな話になるくらいなら姓なんて名乗らない方がずっとましですわ。」