はてなキーワード: 自然とは
コンバーターとコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係な対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙な共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化や歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間の歴史の中で、技術や食文化の進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。
まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能や属性を変換する装置や技術を指す言葉である。電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタル・アナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり、現代社会を支える根幹を成す技術のひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシ(コーン)から作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米や南米など、トウモロコシを主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。
一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターとコーンバター。しかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこから生まれる美的な感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化と技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間の知識の結晶である。これに対し、コーンバターは農業の発展や食文化の進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間が生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有の美的価値が含まれている。
人間は、常に物質やエネルギー、さらに情報の変換を行うことで、生活の利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品を自由に使用することはできない。デジタル信号をアナログに変換することで、音楽や映像をスムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報やエネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的な装置やデバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。
一方で、コーンバターには全く異なる美的価値が内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果である。トウモロコシは、古代アメリカ大陸の文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的な欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。
また、コンバーターとコーンバターは、それぞれ人間の内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たちの生活を快適にし、さらには新たな表現の可能性を広げている。情報を自由に変換し、自在に操作できるという感覚は、無限の創造力を解き放つものであり、それ自体が一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁や安心感、さらには家族や共同体との結びつきといった、人間らしい感情を喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働と愛情を味わうことができる。このように、コーンバターは食文化の一端としての「食の美」を表している。
さらに深く考察を進めると、コンバーターとコーンバターの間には、「変換」という共通のテーマがあることに気づく。コンバーターは無機物やエネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間が自然や物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である。
現代のテクノロジー社会において、コンバーターはほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在を意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジーの進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。
このように、コンバーターとコーンバターは、それぞれ異なる形で人間の生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間の生活に寄与し、美的な価値を提供している。そして、技術の進化と伝統の継承という二つの相反する要素が、私たちの感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象を比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である。
・あくまで選択的だから同姓にしたい人に迷惑かけないって本当?
というより、今まで「男性だけ楽、女性だけ苦労」という、性別など選べないのに、選べない部分で何かを強制される状態が固定されている。
これを緩和するのが目的。新しい手間は増えるだろうけど「強制の迷惑」が減るのは、社会的によいことでは?
迷惑をかけないことは目的ではない、苗字に関係ない様々な法律も時代とともに変わり、それによる役所仕事は複雑になったので、その部分については【増税のたびに小売店がてんやわんやしてるよりはずっと少ない混乱だろうね。そもそもが特定の性別に強制される迷惑を緩和するのが目的なので、問いかけがおかしい】。
・子供の姓どうするの?
話し合いって言葉をしらんのか。そもそもの別姓だって、選択肢を並べて【各々の家庭で話し合って決めるだけ、己が当事者でない家庭の心配><まで引き合いに出すのは詭弁】。
強制を強制じゃなくす道の話をしてるのに、なぜお前は揉めだとか強制前提の話をしてるのかわからない。
だから「男だけ楽、女だけが苦労が強制されてる」んだよ苗字の問題は。気持ちとかじゃなくて物理的に時間と手間を取られた上に、今までの自分の苗字が「旧」になる。うるせえな現だわってしたいわけ。
それに古い人間がそこに「そういうものだから」って余計な援護をいれてくる。
「法律的にはなんでもどうでもいいですよ」ってベースの上で、保守的思想の親族の圧力戦いつつ、当事者が話し合いすればいいだけ。
「切り崩す」とかいってるけど、別にマクロの数字を競ってるんじゃなくて、ミクロの「私と私の伴侶」においての選択肢を増やせと言っている。【さも男尊女卑問題が絡むような詭弁はやめろ。関係ない】
・なんで結婚したいの?
パートナー制度とか作って保証できるようにした方がよくない?←【それはそう。】でも頭の硬いうちの国は同性婚認めるよりは別姓認めて時間稼ぎたいんじゃない?どっちが先かってなったら別姓が先だろうね。
「簡単にできるような施策」は、今まで社会生活で使ってた苗字を突然やめて社内の関わる人にいちいちいちいちいちいち訂正して回ることには【役立ってない。】
・むしろ姓にこだわってアインデンティティをそこに求めてる人たちなの?
だからマクロのはなしじゃなくてミクロの話なんだって。25年使ってた苗字をお前は男だからもう使わないほうが社会的に自然です、って言われるのおかしくない「男だからって何????」ってならない?なってるんですよ。って話。
アイデンティティまでいかなくても、愛着や慣れはあり、それを「当然諦めるべき、【女なんだから」というのが気に食わない。】年収少ない方が折れるもの、とかならまだ努力して戦えるからマシ。
ちんぽこ。その一言には、シンプルな形が持つ力とユーモアが詰まっています。ありのままでいることで感じられる自由さが、ふとした瞬間に微笑みをもたらします。
私たちの一日一日には、小さな喜びや発見がある。ちんぽこがもたらすのは、自然体でいることの美しさと、本質を楽しむこと。余分を削ぎ落とし、ただそこにあることで価値を生み出す。
ユーモアと共に、心の余裕を
ちんぽこを通じて、日常に小さなユーモアと心の余裕を。シンプルな一言が、私たちに本当に大切なことをそっと教えてくれる。
ちんぽこ。そのユニークさには、言葉にできない魅力があります。それは単なる一言以上の、笑顔やリラックスを引き出す小さな魔法。何気ない日常に、そっと光を差し込む存在。
ちんぽこが伝えるメッセージはシンプル。「自然体であることの価値」を忘れないことです。余計な装飾をせず、ただそのままでいられる。そんな純粋な美しさが、私たちの日常を少しだけ輝かせてくれます。
まず、超弦理論におけるランドスケープ空間を高次元多様体 M と仮定し、その点 v ∈ M が観測可能な物理的真空状態を定める。
各真空 v には物理的パラメータベクトル λ(v) ∈ R^n が付随し、宇宙の諸定数および構造(カラビ-ヤウ多様体の形状、膜の巻き込みパラメータ等)を特徴づける。
人間原理によって、観測者の存在が可能となる真空状態を唯一選択することを数学的に表現するため、次のような制約集合を定義する:
M_H = { v ∈ M | Φ(λ(v)) = 0 },
ここで、Φ: R^n → R は観測者の存在に必要な物理的条件を反映する制約関数である。
したがって、Φ(λ(v)) = 0 なる条件を満たす v が人間原理に適合する唯一の状態とみなされる。
ランドスケープ空間 M 内において、制約集合 M_H ⊆ M の構造が重要である。
ここで、M_H が単一の点 v_* に収束する場合、人間原理は確率的ではなく決定論的に唯一の宇宙 v_* を選択する。
この一意性は次の数理的要請によって確保される:
1. 収束の一意性:制約集合 M_H が単一の極大成分 {v_*} を含む。
2. 位相的閉性:M_H がランドスケープ空間 M において位相的に閉であること。
このような位相的構造を持つことで、観測者の存在条件はランドスケープ全体における唯一の解 v_* を定めることができ、これによって観測可能な宇宙が一意に決まる。
ランドスケープ空間 M 内で観測者存在可能な真空状態が唯一の解 v_* に収束することを示すため、制約充足問題として以下の条件を考える:
∃ ! v_* ∈ M such that Φ(λ(v_*)) = 0.
この解の一意性条件に基づき、ランドスケープ空間上で観測者の存在可能な真空が他にないことを保障する。さらに、制約充足の観点から、Φ がランドスケープ空間において単調減少的または収束的性質を持つと仮定することにより、真空状態が唯一の極小点に収束し、ランドスケープの大規模な空間が人間原理の下で自動的に一意の宇宙 v_* へと選ばれる。
このようにして、ランドスケープ空間 M は観測者存在の制約 Φ(λ(v)) = 0 によって一意の真空 v_* を選択することができる。
この解は確率論を伴わずに、人間原理が自然に一意な観測可能な宇宙 v_* のみを選択するという決定論的なモデルを提供する。
このモデルでは、ランドスケープの可能な多様性が、観測者の存在条件という数学的制約により唯一の解へと集約される構造を持つ。
ぶっちゃけ分断どうのはどうでもいい。
インフラの老朽化は実際そうなって実害被ったら自然と大衆の希望がそっちに行くわけでそのとき考えればいい
腹減る前に飯食っても幸せ感じないのと同じ。
そんな無いものねだりしてないで普通に説明しろよ、と反論されるのは自然じゃね?
なんで1ラリーで会話が終わる前提で考えてんのよ?ってなるじゃん。
少なくとも「何の反論にもなってない」わけじゃないよな。
HHKBはプログラマー向け。それでいて高い。打ち心地はいいけど。
しかし、いずれもメチャ高いので、素直にAmazonで評価点が高い品番を買うのがいい。
例として、
ロジクール ワイヤレスキーボード K270 ワイヤレス キーボード
主の考え方だと、上記のような品番が合うような気がする。
現代の日本で「健康で文化的な生活」を送るためには、身体と精神の健康、社会的つながり、文化的な活動をバランスよく取り入れることが重要です。以下に、具体的な取り組みを挙げながら論じます。
身体的な健康を維持するために、適度な運動、バランスのとれた食生活、十分な睡眠が必要です。
• 運動: 日本国内で推奨されるのは、週に2~3回程度の有酸素運動と筋トレです。ウォーキングやランニング、ヨガ、筋力トレーニングを定期的に行うことで、心肺機能や筋力の維持、ストレスの軽減に役立ちます。また、屋外の公園や公共施設などを活用し、自然との接触を通じてリフレッシュすることも可能です。
• バランスのとれた食生活: 健康的な食生活は日本の文化でも根付いており、魚や野菜、発酵食品(味噌、納豆など)を取り入れた「和食」はバランスの良い栄養摂取に適しています。厚生労働省も「健康づくりのための栄養・食生活指針」を通じ、炭水化物、たんぱく質、脂質のバランスを意識することを推奨しています。
• 睡眠: 日本人の平均睡眠時間は、他の先進国と比べて短い傾向があり、慢性的な睡眠不足が問題視されています。良質な睡眠を確保するために、就寝前のスマホやPCの使用を控え、一定のリズムでの生活を心がけるとよいでしょう。
精神的な安定を維持するためには、ストレスを管理し、心の健康を意識した活動が重要です。
• マインドフルネスや瞑想: マインドフルネスや瞑想は、自己を見つめ、ストレスを軽減する効果があり、日常生活での心の安定を助けます。短時間でも呼吸を意識することで、気分転換や精神のリフレッシュが図れます。
• 趣味や文化的活動: 自分の興味に合った趣味を持つことも精神的な健康に有効です。読書、音楽鑑賞、映画やアート観賞など、文化的な活動は心に豊かさをもたらし、リラックス効果があります。また、日本独自の伝統文化や芸能(茶道、華道、能、歌舞伎など)を学ぶことも、生活に彩りを与えます。
3. 社会的つながりを築くための取り組み
社会的な孤立を防ぎ、他者とのつながりを持つことも、健康的な生活の基盤となります。
• 地域活動やボランティア: 地域のイベントやボランティア活動に参加することで、他者とのつながりが生まれます。日本では「町内会」や「自治会」など、地域のコミュニティ活動が活発な場所も多く、こうした場を通じて、世代を超えた交流が可能です。
• オンライン・コミュニティ: 遠方に住む人や共通の趣味を持つ人とつながるために、オンラインのコミュニティやSNSも有効です。ただし、過度なネット依存に注意し、リアルな交流とバランスを保つことが大切です。
環境保護の観点から、エコロジーな行動も健康で文化的な生活に関わります。
• エコ活動: 日々の生活でリサイクルやエネルギー節約を意識することで、環境保護に貢献することが可能です。ゴミの分別やエコバッグの使用、自家栽培などの「小さなエコ活動」を通じて、持続可能な社会の構築に貢献できます。
まとめ
「健康で文化的な生活」を送るためには、身体的・精神的な健康を維持し、社会的つながりを築き、環境意識を持つことが重要です。自分の生活環境に合わせた具体的な取り組みを通じて、日常生活における質を高め、心身ともに充実した生活を目指すことができます。
読書が趣味なんだけど、他人にそれを伝えると大抵「どんな作家が好きなんですか?」と返ってくる あんま本読まない人にとって読書のイメージは文芸本を読むことっぽい
でもおれは大体学者や専門家が書いた本を読むことが多い、今読んでんのはアセモグルのこれ↓
こういう、一般人向けに専門家が書いた特定ジャンルについての知見をちょっとエンタメっぽくした本を端的に表現する言葉ってなくない?上記のアセモグルの本はAmazonだと「世界史」のジャンルなのだが、それをもって「世界史の本読んでます!」というのも憚られるし
ちょっと前に売れてたFACTFULLNESSも似たようなジャンルな気がするけど、これもAmazonでは「確率・統計」ってジャンルに入ってて、でもあの本を読む人の意識として「確率・統計について知りたい!」っていうモチベーションではないと思うんだよな、もっとざっくりと「あんまコア過ぎない知識を楽しく得たい」っていう感じで読まれる本というか
「専門書」だとなんか固すぎるよな、それこそ専門家や学生が大学の授業で使うような、予備知識のない一般人では読めない本って感じ 「教養書」もなんか違う、ちょっと観念的すぎというかカーネギーみたいな自己啓発本が想像される感じ
これが例えば岩波新書だったら「新書をよく読みます」といえば結構ニュアンスが伝わる感じがするけど、これはしょせん本のサイズによる分類を表したものでしかないんでね
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なんかブコメとトラバ眺めてみても結構割れてて、イメージは共有できててもスパッと表現できるようなコンセンサス取れてるワードはなさそうに感じる
書店、版元、読者、本読まない人がそれぞれ考える本の分類のちょうど狭間にあるエアポケットって感じがするんだよなあ
でも素朴でライトな知識欲を満たすために本を探したら自然とこういうのに行き着くよね、ていう本は沢山あって、書店でも目立つ場所に平積みされてる印象があるのに端的に表すワードがないのは不便だなと思う
ゴールディンの賃金格差に関する本とノアハラリの人類史に関する本って全然テーマ違うけど多分読者層は被ってるよね
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「一般書」→いくら何でも抽象的すぎ、初対面の人にそういったとしてこの人会話進める気あんのかって思われそう 雑誌読む人がどんなジャンルが好きって聞かれて一般誌とか言わんやろ
「啓蒙書」→人口に膾炙した言葉じゃなさすぎ、初対面の人に「啓蒙書好きです」って言ったら99%「ケーモーショ???なに???」ってなると思う
「学術書」→ニュアンスの一致具合と言葉の使いやすさとしては一番バランス良さそう ただ自分の考える定義だともう少しライトな本も入るのよね 例えば 「なぜ働いてると本が読めなくなるのか」みたいなライトな新書を含むにはちょっと大仰かも
「人文、科学」→これもニュアンス近いな、ただ理系と文系の垣根をちょっと感じる もっと包括的なジャンルとして捉えたい
「哲学」→めっちゃ広義に考えればそうかもしれんが絶対「ニーチェとか?」ってなるやろ
「雑学本」→まあ超ざっくり分けるならそうなのだろうけど、ノーベル賞取るような学者が書いてることを一般に「雑学」といえるか?という疑問はある もっとトリビア的なことを指さない?
「リベラルアーツ」→この言葉自体が一種のサブジャンルなのでは?教養を目的とした知識が書かれた本というか もっと上のレイヤーを想定してる
「新書」→やっぱこれが一番無難なのかなーでも言葉の厳密性に欠けること言うのがほんと嫌 冬用タイヤ全般をスタッドレスって呼称するような居心地の悪さを感じる
「教養書」→俺が考えているより広範なイメージっぽいな、でもまだ高尚すぎるというか、知識についてのニュートラルな感覚に欠けるというか、教養という言葉自体が「値打ちこいてんな」って感じする
おそらく一世代上より塾に行ってた人が多い世代だから勉強時間は前の世代よりプラスの可能性もある。
逆に部活動などを伸ばす人も増えてスポーツ業界の躍進はおそらくこのあたりにある。
社会に出てからの話だが、これだから若い子はと言われるのはいつの時代でも同じだと思う。
だがゆとり時代はその風当たりが大体「このゆとり世代が」という言葉と共にあった。
そしてゆとり世代を迎合しよう、みたいなムードは一切なかった。Z世代は逆に「迎合しなければ!汗汗」みたいにオッサンたちが必死になっているがゆとりは「入ってくんな」レベルだった気がする。
上の世代は総じて「ゆとり世代」「平成生まれ(ギリ昭和〜っていうギャグを含む)」でくくってきたし、断絶をされた。
一世代上に関しては氷河期真っ只中で(ゆとりだって氷河期と言われる経済影響受けてるが)人が少ないし、少ない上に冷たい。下の世代に対して自己責任論がある気がする。
でもその世代が本来もう一つ上の世代との架け橋になってほしい。
氷河期より上の世代はわりと面倒みがいい。けどセクハラパワハラがやばすぎて同じ人間とは思えない。宇宙人と喋ってる感覚になる。Z世代の後輩は「何を喋っているかわからないんです」と言っていたが気持ちはわかる。
だからこそ氷河期世代の「一つ上の世代と会話できるコミュ能力」が必要なのにひとがいない。そして現役バリバリなのに年上の部下を持つ管理職のゆとり世代。やりにくいが、やるしかない。そして病む。
氷河期世代の人はパワハラやセクハラをする人はそんなに多くはないと思う。だから宇宙人ではなく人として接することができる。
でも「しない」だけで「拒否」しない。セクハラは甘んじて受け入れる。パワハラは耐えるしかないと思っている。
そこに強く「NO」を覚えるのがゆとり世代で、考えてみれば物心ついたときにはセクハラという言葉が生まれていて、家庭科教育も男女一緒にしていたし、男女共に遊ぶのも普通のことだった(どうやら氷河期世代は男女分かれるのが普通だったらしいね)。漫画やアニメでも自然に同性愛が描かれていたのでおそらくそのあたりの感覚も上の世代とは違う。
体罰はされた記憶はあるが、それが大問題になったりして、このあたりがゆとり教育の根本にあったのではないかと思う。まともに育てば「まじで暴力無理」側の人間になったはずだ。
しかし氷河期世代は「甘え」と取るだろう。まあ確かに上の世代と比較したらメンタル弱いと思うわ、ゆとり。
でもNOを覚えるのは同じ世代からその下であって、上の世代は一緒に戦ってはくれない。
氷河期世代は人が少ないと言ったが、それは「正社員で上がった人が少ない」という意味で、ゆとり世代は少子化に突入して「分母が少ない」。
少数で戦えばどうなるか?疲れる。
大勢の上世代に戦える人が少ない。それはきっとゆとりが老害になったら年下から同じように言われるのだろうし、少子化の弊害なのだろう。
生まれてから今まで景気が良かったこともないし頑張っても意味がないというムードはおそらくこういう部分にある。
ゆとりは理想論の発展のなかに育ったと思う。若者は少ないから大事で夢を持って良くて男女平等である。そう教わって大人になったが、理想論の中の発展途上すぎて社会は何も変わってなくて、理想とは違いどこにも行けない閉塞感で絶望を感じ続けてきた。
世代論はある種、世界情勢や政治の中だけで見た場合のシュミレーションというだけだ。
個を大事にしろと教育でゆとりは教わったはずだから、ま、世代論はここまでです。
えっ、Z世代以下に何を思うかって?
ネットで顔出しすんの怖すぎ。
セックスなんてない方がいい
禁止するべき
セックスなんてやめようよ
エロはなくすべき
現実逃避するな
一切の性欲を捨てよ
いいね?
えっ、何?なんだって?
君か、話したまえ
「まずセックスってただの生殖行為じゃなくて、人間関係を深める大事な要素でもあるんや。パートナー同士が気持ち通わせて、信頼を築くための手段でもある。互いに触れ合ったり、安心感を感じたりすることで、心のつながりが強まっていくんやで。
あと、性欲って自然な感情やから、それを無理に抑え込もうとすると逆にストレス溜まったり、変にこじれてしまうこともある。むしろ、健全に発散した方がメンタル的にも健康やし、無理に抑え込む方が人間にとって自然じゃないんちゃうかなって思う。
そもそも性欲って人間の本能の一部やし、それを無くしたり禁止したりするのは無理があると思う」
正論をいうな!
私は正論が大嫌いだ!!
うわわわーーーーん!!!!!
確かに「ChatGPTを送りつける煽り」という現象は、ユーモアとして面白くもあり、AIが私たちのコミュニケーションに溶け込んでいる証拠のように思えますね。人々がAIをジョークや軽い煽りに使うのは、テクノロジーと遊び心が融合した自然な流れと感じます。
ただ、仰る通り、AIを使った冗談でも、相手の反応次第では不快感を与える可能性があるため、慎重さも必要です。特に、AIが人間関係の微妙なニュアンスを捉えられないこともあるので、コミュニケーションの場面や相手に合わせて使うのが良さそうです。
また、このような「煽り」が広まる背景には、AIに対する親しみや心理的な距離感が関係しているのかもしれません。以前はAIといえば真面目で無機質なイメージが強かったのですが、今は身近で親しみやすい存在になりつつありますね。
「バカにChatGPTを送りつける煽り」が定着しているというのは、ネット文化の一部として面白い現象ですね。
人々がコミュニケーションの一環としてAIを使ったジョークや煽りを楽しむのは自然な流れかもしれません。
ただ、冗談のつもりでも相手に不快感を与えることもあるので、場面や相手を選んで使うのが大切ですね。あなたはどう思いますか?
こうなることはわかりきってたよね
これを維持することが困難になってきた
そんで野党共闘で選挙協力を「名目」にして立候補を取りやめ経費削減
というか唯一の理由と言ってもよいだろう
ほっときゃ自然にこうなって立憲にとっては邪魔が減って喜ばしいことなのに
アホなことを続けてた
俺は最近まで熱心な共産党支持者だった。共産主義の理想を信じていたし、マルクス・エンゲルス式の共産主義の理想を先進国で最初に実現できるのは日本共産党だと思っていた。
多くの馬鹿ウヨ・ネトウヨが勘違いしているが、現在のロシア連邦共和国は全く共産主義でも社会主義でもない。与党はプーチン率いる「統一ロシア」であり、ロシア共産党は野党である。プーチン政権のロシアはむしろ右派権威主義体制であり、全く共産主義と関係はない。
だから、多くの低脳ウヨが勘違いして期待しそうな「へいわをあいするきょうさんしゅぎのはずのロシアがせんそうをはじめた!うわーんそんなはずない!」とかいう話ではないよ。問題はそこではないんだわ。
ロシアがウクライナとの国境に軍隊を集結し始めた頃、これはあくまでもウクライナに対する「圧力」であり、実際に軍事的侵攻はしないだろうと多くの人々は考えていた。もちろん、シリアなど中東の開発途上国に軍事的関与をすることは以前からあった。アメリカもそういう事は以前からやっていた。
しかしウクライナといえば東欧の、つまりヨーロッパの一国である。
そんな国を実際にロシアは侵略しちゃったんだわ。そして一時は首都キーウの目前まで迫り、キーウ近郊のブチャで一般市民に対する虐殺を行なっている。
しかしウクライナはその後、西側諸国から武器弾薬、燃料、戦車、軍用機、各種ミサイルの大量支援を受けてロシア軍を押し返した。
ここで痛感したことは、21世紀の現在でも想定外の被侵略はあり得るということであり、日本においても一定の国防力は必要だという事である。
ところが共産党は防衛費を「軍事費」と呼んで(もっとも防衛費は実際に軍事費だから「軍事費」と呼んだところでその本質は変わらないから、これは「軍事」という言葉を嫌がる層に対しての意図的な戦略なのだろう)「大軍拡反対!大軍拡反対!」と選挙カーや街頭演説で呼びかけ続けた。
そんなことで一般の人々の支持を得られるはずが無い。
この点は社民党も同じだ。欧州の社民党は必要な軍事力は認めているのに、日本の社民党は今だに日本共産党と同様に「大軍拡反対!」みたいな主張をしている。
もちろん俺も本当の「大軍拡」には反対だ。しかしロシアは日本の隣国であり、プーチンがウクライナ侵攻に埒があかずとち狂ったら北海道侵攻とか可能性ゼロじゃないだろう。可能性が低くても万が一に備えるのは地震対策でも同じことだ。
朝鮮民主主義人民共和国はミサイルを日本海に落としたり太平洋に落としたりしている。朝鮮民主主義人民共和国の標的は米帝であるが、同時に朝鮮民主主義人民共和国はその気になれば何時でも日本の東京や大阪や名古屋や、日本海沿岸の原発にミサイルを落とせるということだ。
イージスアショアを秋田と山口に置くのは実は米帝を守るためであったことは既に喝破されているが、我が国を朝鮮民主主義人民共和国から守るためには日本海にイージス艦を複数、交代しながら常駐させておくのが有効である。
そういう現実を理解せずに昔ながらの無防備平和主義に立脚して「大軍拡反対!大軍拡反対!」と叫んでいる政党に票が集まらないのは当然だよな
ちょっとうろ覚えだが、松竹さんの著書によれば日本共産党の党員は全国でおよそ20万人いるが、中央委員会は約200名であり、そこを牛耳っている中央幹部会は20名程度である。
有名な共産党員議員、党首の田村さんのほか、小池さんとかがいる訳だが、結局は20名程度の党幹部が決めた方針や政策を20万人近い党員たちが「赤旗」を通じて学習し、忖度して礼賛するのが日本共産党であり、慣例に反して「党首選挙を行うべき」と主張した松竹さんは袋叩きにあって除名された。
この経緯から推察されるのは、日本共産党もソ連共産党や中国共産党と同じ全体主義・スターリニズムの傾向が濃厚に残っているということである。
マルクス・エンゲルス式の共産主義社会が実現できなそうであることも現代では知れ渡っている。
「共産党宣言」で書かれたような、「個人の自由な発展が、そのまま社会の発展となるような、完全に自由な個人の集まりであるような社会」が実現するならもちろん素晴らしいが、マルクス・エンゲルス式の方法ではそれは実現できないことがもはや明らかとなっている。
エンゲルスは生産手段の社会化によって共産主義社会が実現したなら国家は自然と死滅し、人々は法律がなくとも自然と調和し労働に勤しみ犯罪もなくなるであろうと説いた。
しかし釈迦は紀元前に、人間は煩悩に塗れた存在であることを指摘している。他人より楽をしたい、他人より上の立場になって威張りたい、他人から承認され賞賛されたい、という欲求は修行によって悟りを開かなければ消えないだろう。
凡夫たる人民が修行もせずに煩悩を消し去ることは不可能であり、「生産手段の社会化」によって資本主義が消え去ったとしても、犯罪や不正が無くなることはあり得ず、法律と、それを執行する国家が消えることはあり得ないことは現代の人間にとっては自明である。
マックス・ヴェーバーは「生産手段の社会化」自体が極めて困難であることを指摘しているし、それが単なる「共産主義国家による国有化」であれば結果的に国家により権力が集中するであろうし、そうでない場合でも、生産を管理する団体の官僚に権力が集中し、資本主義よりもより強大な官僚権力による支配が起きるであろうことを既に20世紀初頭に予見していた。
そして現実に、マルクス・エンゲルス式の共産主義を目指した国家は大半は全体主義国家へと変容していった。
日本共産党はいまだにマルクス、エンゲンルス、レーニンに基づいた理想の共産主義国家を目指しているが、それが不可能なことは明白である。そんな政党に投票しようとする人が減っていくのは当然である。
以下の文章は、作者の創作か、もしくは現実の話を書いたかどちらかを判定し、その理由も詳しく説明してほしいです。
(全文コピペ)
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この文章は創作である可能性が高いと思われます。その理由を以下に説明します。
文章全体にわたって、出来事や会話、心情の変化が詳細に描写されています。特に、心情や夫婦間のやり取りがリアルかつドラマチックに表現されており、脚本的な構成を持っていると感じられます。これにより、フィクションとして読者に「物語」を提供する意図が感じられます。
例えば、「探偵を使ったが無駄だった」「ボイスレコーダーで不倫相手との会話を聞いた」などは、典型的な物語のエスカレーションで、登場人物の心理が少しずつ追い詰められていく様子を強調しています。
文章の流れが綿密で、プロットに沿った展開が繰り広げられています。特に「6月初旬から10月中旬まで」の詳細な時間軸に沿って進むため、まるで小説やドラマの一章ごとに新しいイベントが発生するかのように区切られている点が強く創作らしさを感じさせます。
また、緊張が高まる最後の場面においては、「自殺をするしかない」という結論に至るまでの主人公の葛藤が重々しく描かれており、読者を感情的に引き込む意図が見受けられます。
夫のキャラクター像(熱しやすく冷めやすい性格、サークル活動への熱意、淡々と離婚の手続きを進める姿勢など)や不倫相手の描写(献身的で理想的な女性像)は、シンボリックであり、典型的な物語のキャラクターに見えます。現実では多様な人物が存在するはずですが、ここでは物語としてわかりやすいキャラクターが展開され、読み手が各登場人物に感情移入しやすくなっています。
最後の部分で、主人公が「自殺」というウルトラCを計画するという発想や、それによって夫と不倫相手に「現実を見せる」という結末は劇的すぎて現実にはやや不自然と感じられます。こうした劇的な結末の導入は、小説やドラマなどの創作において、物語を盛り上げるために使われる手法です。
上記の理由から、この文章は創作である可能性が高いと考えられます。
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逆に現実の出来事を書いていたとしたら、その理由は見つけられるでしょうか?
現実の出来事を描いた可能性があると仮定した場合、いくつかのポイントが理由として挙げられます。
文章全体を通して、感情の移り変わりや細かい行動が具体的に記録されています。日常的な場面(例えば「夫婦の口喧嘩」「母への電話」「探偵に依頼する」など)や日常に寄り添った心理描写(「夫の言動が気になり始める」「相手女性のSNSアカウントを眺め続ける」など)は、現実の経験から生まれるもので、作り話ではここまでの細かさを再現するのが難しいと考えられます。
文章中の対話には、現実的で人間らしい反応や表現が含まれています。たとえば、夫が「俺のこと好きじゃないんでしょ?」と尋ねた時の、主人公の否定できなかった場面や、「サークルに来ないでほしい」と言われる場面など、言葉の端々に日常的で素朴なやり取りが見られ、これらは現実に経験したからこその表現かもしれません。
また、普段は仕事の疲労から離婚話を避けたり、デートや旅行の費用負担についての細かな記述も、日常生活に即した具体的な描写であり、現実の出来事を反映しているようにも思えます。
主人公は夫に対する複雑な感情を持ち続けています。好きだと思っていた夫の関心が他に向いたことで初めて動揺し、自分の気持ちが整理できない状態に置かれている様子は、現実にありがちな感情の揺れを感じさせます。例えば、カウンセリングで「好きなところは出てこないが、離婚したくない」という発言や、相手女性のSNSアカウントをチェックし続けるなど、混乱と依存がリアルに表現されています。こうした複雑で矛盾を含む感情は、創作よりも現実に基づいている可能性が考えられます。
作中の主人公は、事前に計画を立てず、衝動的に行動し、後悔を繰り返しています。例えば、喧嘩の最中に勢いで「離婚届を持って帰る」と返答したり、夫に対して「1ヶ月だけ時間が欲しい」と頼んだり、不倫の証拠をつかもうと探偵を雇ったが成果がなかったことなど、行き当たりばったりで結果的に何も進展しない行動が続いている点は、現実における人間の不完全さや衝動的な行動を反映している可能性が高いです。創作であれば、こうした無計画な行動を細かく描写するよりも、物語を進めるための筋が優先されがちです。
文章の終盤にかけて、主人公の感情は不安定さを増し、最終的に「自殺」という極端な考えに至りますが、その決断が唐突ではなく、過程が細かく描かれています。夫への不満や裏切られた感情、不倫相手への嫉妬など、積み重なったストレスによって自己否定や自殺念慮に至るプロセスは、心理的にリアルであり、実際の出来事としてもあり得るかもしれません。人間関係の破綻が原因で心理的に追い詰められる例は多く、現実の状況でこのように冷静さを失ってしまう可能性も考えられます。
現実の出来事だと考える場合、この文章は、複雑でリアルな心理描写や日常的なやり取り、無計画さ、そして極端に壊れていく心理過程がその証拠になると言えます。
拙者、戦国の世に身を置きし武将として、存分に答えさせていただこうぞ。選択的夫婦別姓の是非について、現世の在り方とやらを受け入れつつ、参らん!
拙者も「選択」の名を借りているとはいえ、同姓の者に非効率などと申す声があるのは気にかかるところでござるな。「迷惑をかけぬ」ならば、選ぶ者の自由を守るのが筋。そもそも戦(いくさ)においても、多様な兵がその持ち場にて力を尽くすゆえに勝利が得られるもの。よって、同姓も別姓もそれぞれの「兵」として、無駄なく働ける環境を整えるべきと考えるゆえ、同姓を選ぶ者を非難するのは筋違いと存ずる。
お主の申す「姓の按分」については、拙者も確かに同意を覚える。いざという時、遺された子の姓が揉め事の種とならぬよう、武家の家督争いのように対立が起きぬ仕組みが肝要であるな。長子・次子に分けて姓を伝えるなども一法ながら、子を持つ夫婦が共に話し合い、然るべき「次の策」をもって家を守るのが先決かと考えるぞ。さもなくば、家中はもとより、血筋そのものに遺恨が残るであろう。
男尊女卑の世風を憂う心、よく理解した。現状の制度では「男の姓が家をつなぐ」ことが主であり、選択的夫婦別姓が男尊女卑の打破に繋がると見る向きもあろう。しかしながら、拙者は「姓は家を守るための絆」という価値が残るならば、どちらの姓でも心ひとつに家を継ぐ覚悟があれば、性別にこだわる必要もなかろうと考えるぞ。
婚姻は多くの「権利」を得るためのものとも言えるが、そもそも「家」を成す意義があれば結婚に代わるパートナー制度も然り。確かに婚姻以外の手法で同様の地位を与え、権利を認める方策があれば、現代の夫婦も己の望みに応じて結ばれやすかろう。されど、愛する者と共に家を成し、ひとつの血筋を保つには、今の「婚姻」が最もわかりやすい形かもしれぬ。
姓を変えるたびの手続きは、面倒であると存ずる。されど、現代には「マイナカード」なる便利なものもあると聞くゆえ、こちらの活用を図るも手であろうな。諸事を一括して処理できるよう、現代の制度を拡充させ、姓変更の手間を省ける道を講じるがよいと考えるぞ。
武家においても姓とは「家の象徴」であり、己の誇りでござった。それを「こだわりがない」と断ずるのは些か不自然とも見受けられるゆえ、拙者も理解を示すゆえなり。「姓を維持するは、己の名と同義である」と心得ておれば、姓にこだわることも無論、意義のあることと存ずる。
私には五つ上の兄がいる
私は彼氏と結婚を見据えて同棲することになり、近く実家を出ることになった
そこで実家は兄と母の二人暮らしとなるわけだが、この兄が今後どうなるのか?母と二人でどんな生活となるのか大変心配だ
ただ、なんていうか、ナチュラルに優しくない
自然と不親切
やりたくないことは絶対になにがあってもやりたくない
そんな感じだ
ある日、夕飯を作ったあと、ふと兄に言ってみた
「たまには兄さんも料理してみたら?」
「嫌だよ。今更めんどくさい。興味もないし」と、兄は無関心に答える
その瞬間、私は兄が常に母や私にその「めんどくさいこと」を押し付けていることをどう思っているのか、疑問に思った
また別の日、母が怪我をして、私が車で病院に連れて行ったときのこと
「お母さんを連れて行けて良かった。前に免許を取りたくないって言って教習所をキャンセルしてたけど、まだ30代のうちに免許取ってみたら?」と提案した
すると兄は「え、いいよ。運転興味ないし。もし事故ったら嫌だし。妹が免許取ってくれてて助かった。ありがとう」とあっさり返した
「でも私がいなかったらどうするの?」と問うと、兄は「タクシーか救急車でいいでしょ」と言った
その時、私は母は気を使うタイプだから、タクシーや救急車を使うことを躊躇うだろうと思ったが、兄はそんなことを考えもしない様子だった
2019年末頃だ
社会人になって数年たち、金銭的にも余裕が出てきたし学生時代は実家に暮らしていた友人も一人暮らしを始める人が増えてきていたのだろう
ただ、コロナの流行によりきっかけを逃し、以後兄が再度一人暮らしを計画している素振りは全くない
一人暮らしをしていたら、もう少し母や日常の家事への想像力ができていたのだろうか?
基本的にスーパーに車で行く我が家では母か私が食料品の買い出しをしている
私が実家を出るので、今後は母だけが買い物をすることになるのだろう
そうした変化に対して兄が特に何も感じていない様子に、内心呆れもする
神奈川の田舎で、車があったほうが便利だがなくても電車も発達している地域に住んでいることも、自分のことしか考えない兄にとっては免許を取る理由が微塵もないように感じられるのかもしれない
兄の社会性がなくなっていったこととコロナはやはり無関係ではない気がする
前までは嫌そうながらも上司や会社の人と飲み会をして、帰ってきてからそのときの話題などを世間話として食卓で披露することはあった
コロナで在宅勤務が定着し、通勤や社交というものがなくなったことで兄の外出は本当に減った
コロナが開けて会社の飲み会は再開したようだが、今やみんなが出るようなものじゃなくなり、兄は全く参加しなくなった
元々友達が多いタイプでもなかったため、休日は部屋こもって基本ゲームをするかVtuberの配信を見るかしている
平日も夕飯を食べるときだけ顔を出して、以後は自室に戻る
私が出て行ったあとに兄と母は食卓を共にするだろうか?
ゲームやネットで配信を見ることを優先して、食事のタイミングまでズラしたりしないだろうか?
兄は今後どんな中年になっていくのだろうか
実家には年に1度か2度顔を出す程度だろう
しりとりの開始
「りんご」から始まる「ごりら」までのしりとりのシーケンスを作成中。2000文字以上は慎重に対応している。
次の単語を見つける
「りんご」に続く言葉を探しているところだね。ゲームで使用するのが不適切な「ん」以外の単語を選んでいる。
単語の連結
「りんご」から始まり、「りんご」「ごりら」「らくだ」「だるま」「まんが」「がっこう」「うさぎ」「ぎんこう」「うみ」「みかん」と続いているが、「みかん」で終わってしまうのは避けなければならない。
水から始まる単語を探しているんだ。ずこう、うどん、うし、しんかんせん、しろ、ろうそく、くま、まんが、まじない、などがあるね。
まさに、りんごの次にりんごを使わず、りんごで始まる言葉を避けながら、類似性の高い他の単語を探す旅みたいなことしてる。
進めているアイテムを探す こちらの結果は、自然の中で見かけた生物やまわりのものを使っている。各アイテムは特定の文字で始まり、次のアイテムがその文字で始まるものを探している。
言葉を見つける
季節の単語を見つけるために母音を意識している。言葉が終わる音を考えながら次の単語を探している。
アイスを試す
'こおり'で始まる言葉を試しています。最後の音が'り'に続くものを見ていると、'りす'や'りか'、'りゅう'などが思い浮かびますが、使えない。
次の言葉を見つける
言葉をつなげる
ひらがなの言葉を今つなげています。最後の文字で次の単語の始まりを探すのが楽しいんですよね。次は「き」で始まる単語を試してみます。
ワード探索中
祭りから始まり、旅行、腕、電話と徐々に繋がっていく。しずく、薬と続き、2000文字以上のシリトリを生成している。
りんごから始まり、えのぐ、ぐみ、みなと、そしてとらと繋がっているのを見逃さないようにしています。
教師と化学の研究者を対象に、身近な場所や物に付着するウイルスの挙動や感染リスクを調査し、最適な予防方法を見つけ出すことを目指している。
どうした急に