はてなキーワード: 良心とは
二週間ほど前に傘が盗まれた。
ビニールではないが、ブランド物というわけでもない。せいぜい2000円程度の傘だ。ただし、目立つ傘で、職場には同じ柄を持っている人はいない。
盗まれた場所は仕事場の更衣室の傘立てで、間違いなく内部犯だ。
私は一週間待ってみた。盗まれた日は雨が降っていたから、つい出来心で持って行ってしまったのかもしれない。そう考えた。ただし憤りは隠せなかったみたいで、同僚の何人かに心配されてしまった。
そしてついに傘は返ってこなかった。私は諦めた。盗んだ人間は良心なんてない、ただのクズだと納得した。その翌々日も一日中雨だったが、傘立てには戻って来なかった。庶務に確認したところ、この日は全員出勤であり、傘立てにある傘が全てと見て間違いない。結局、目立つ傘だから帰りの電車でわざと置いていくなどして証拠隠滅でもしたのだろう。ちなみに、仕事場の一階にはコンビニがあり、そこの傘は盗まれた当日には売り切れていなかった。つまり、そいつは傘代150円も払うのを惜しむクズだというわけだ。
一応書いておくが、盗まれた事自体は取り立てて何か不満があるわけではないのだ。なぜ人の傘を、見知った顔の傘を盗んで平気なんだ。手癖が悪すぎるにも程がある。そんなヤツと同じ職場に居合わせているという事自体虫酸が走る。まして五年ほど使い、それなりに愛着もあった傘。絶対に許さない。
びっくりしたことがある。
いわゆる現代文や小論文の分野あると思うんだけど、あれを教えるにあたる授業が、ない。
古文や漢文はがっつりあるんだよ。ミミズみたいな変体仮名をひたすら読解するだけの授業とか、漢文をみっちりやる授業とか。
でも現代文は、ない。ここでいう現代文ってのは、読解力とか論理的思考とか、基本的な現代思想(これは倫理でやるからスキップされてるのか、いやでも倫理って選択制だよな)とか。
強いて言えば日本語学くらいだろか。これは現代日本語の文法が中心で、「てにをは」とか修辞とかそんなん。
あとは模擬授業をやる授業で「その教え方だとわかりにくい」とか指摘されるくらい。そこでも論理についてとやかく言われることはなく、テキストの内容がうまく伝わってるか、が判断される。
で、これで何が起こるかというと、だ。論理性とか読解力の教育に関して、完全に先生個人の感覚にまかされることになってしまう。
つまり、未だになくならない「現代文はセンス」みたいなナンセンスな考えが地味に拡散してくわけだよ。
いやね、仮にも国語の先生になろーなんて人が「現代文はセンス」とかナンセンスなこと言ってるわけねーよwwwって思ってたんだけど、教育実習に行って、その考えはガラガラと崩れ去ったよ。
皆、自分が得意だった科目で先生になるもんね。それと教師になるのに学力制限はないものね。
難しいことはわかんないけどとりあえずそこらの私大入って、そのまま先生(公務員)になって……って妥当な人生設計だから、こりゃまた多いんだよな。
勉強家で修士とかもってる先生もいるけど、「company(こむぱんわいと発音)ってどういう意味?」「俺英語嫌いだからワカンネwwだから国語にしたしw」「だよねーwww」みたいな会話が実習仲間で繰り広げられている現実もあるんだよ……。
国が、生徒にはこんなこと教えてね、って方針がまとまってる指導要領には、はっきりと読解力とか論理的思考を育てる、みたいなことが書いてるんだわ。
でもこのままじゃ先生の良心と向学心に祈るしかなくて、真反対な教育が野放しになってる……。
これは、やばいと思うんだ。
しばらく前に図書館業務をCCCに委託し、T-ポイントカードの提携を行うと発表した。それに対して図書貸し出しの守秘義務などを理由にネット上で反対意見が起き上がった。図書館業務の民間委託は既にあったが、その情報処理については、思想信条に関する機微に触れるとの事で、外部に安易に渡すべきではないという話だった。
また、市長自身の不手際で住所などの情報が流出した。この時はさすがに落ち度を認めたが、その後、情報管理体制の変更は外部には告知されていない。そして、市長は相変わらずいろんな情報を外部に積極的に公開するなど、プライバシーについて却って無頓着になるばかりだった。つい数日前には、市の情報の生データを提供するという発表があった。もちろん大いに非難されたが、撤回する気配はない。
なぜだろうか。なぜあれだけの意見が出ているにも関わらず、市長は態度を変えないのだろうか。
高木のコメントの特徴は、丁寧に言えば率直、悪く言えば口汚さにある。いざとなれば、「黙れクソが」などと、中学生でも言わないような罵倒を平気で言う。事態が進めば進むほど口汚くなり、どんどんと説得から遠ざかっていく。最初はいいでしょう。でも、それが進むと、幼稚さが目立つようになり、話を聞く方は気力が失せてしまう。要するに、途中からは事態を悪化させるエンジンにしかならないのだ。
そして、もっと面倒なのが、その取り巻きである。高木の言った事を再度繰り返すだけの幼稚な取り巻き。これが事態の悪化に拍車をかける。
途中から、彼らは自分たちが何をしたいのかわからなくなり始める。事態を改善したいのか、悪化させたいのか。もう単なるイジメの集団でしかなくなる。
もちろん、きちんとした法的、技術的見地から説得を試みる良心のある人たちもいる。でも、高木と取り巻きの暴言によって市長は耳を塞いでしまった。それどころか、FacebookやGoogleに招待されたおかげで、彼は自分のやったことに自信を持ってしまった。もうこうなったら、取り返しは付かない。
じゃあ、どこで、どうすればこの悪化は防げたか。早めに上位の官公庁(たぶん総務省?)に注意を促して、より上位の立場から説得する必要があったのではないか(実際、そういう立場の人が全く説得に動かないのは、疑問もある)。それをせずに罵倒を浴びせるような真似を続けた事で、事態は悪化するばかりだ。
twitterとかで有名人に言及すると突然本人からRTされたりするが、本来これは非常に失礼な行為。
でもこういうことを言うと、「公開されてるから反応されて当然」「嫌ならチラシの裏に書け」とか言う反応が出るが完全に的外れ。
普段の日常生活で外出中に周囲に他人がいる状況で有名人に関する話をすることはあるが、
だからといって割り込まれたりはされないし、逆に自分がそういう人を見かけて何か突っ込みたくなったとしても割り込んだりはしない。
にもかかわらずネットだと平気でそういう迷惑行為をする人が出てくる。
WEB上では法律にさえ反しないなら何をしてもいいという風潮があるが、
各国で法律がばらばらな全世界とやり取りできるネットで法律を行動規範として持ち出すのはナンセンス。
人としての最低限の良心が有れば何をしてはいけないかくらいはわかるはずだ。
面識のない人にいきなり話しかけるなど正気の沙汰じゃないということは民族人種に関係なく誰でもわかる。
・だから、私は信じない。「昔嫌な奴だった奴」が「いい奴」になることを認めない。そんな事はありえない。
・悪者はずっと悪者でいればいい。
・彼女をつくらないのかと言われるのが辛い、だってもうそんな事思えないわ。
ただ、今度の娘は、一体いつ、どんな風に自分を乱すのか、ただただ怖くてしかたがない
だが、こんな事は情けなくて身内には言えない、親友にもいえない
親友が私の声に感化されるのがまた恐ろしい
・いじめられていたワケじゃないけれど、一時期スクールカースト下位でピエロ役を演っていたことがある。
・女がいるのはいつも笑う側だった。いつもいつもいつもいつもいつも。
・勉強が出来れば、心無い言葉を吐くような奴も女にもてはやされた。
・人格破綻者も環境が許しさえすれば、そういうレッテルも貼られない。
・出来る限り、私はそういったことを重んじた、無駄だった。
・そんなものなくても、いわゆるワンマンが皆好きだった。能力があれば傲慢であっても何故か好きだった。
・私は調和が好きだったので彼らの事が大嫌いだった。が、仕方なく仲良くした。
・結局、能力があれば何やっても許されるのだと思った。これは真理だと思った。
・彼ら彼女らがどういう風に私を評価していたかは知る由もない。
彼らからはピエロか、馬鹿か阿呆か、それとも誰とでも分け隔てなく接する陽気な男か
彼女らからはいい人とは名ばかりのただの「自分にとって都合のいい男」か、キープ君かイエスマンか
・敵意を忍ばせてご機嫌伺い、煮え湯や辛酸を少なくとも6年味わい、理不尽を他人の倍は請け負った結論。
・酷い人が多すぎる、その中から善い人を見つけるなんて到底、無理だ。
・こと、異性に限ってはなおさら難しい。
昔サイバーエージェントが些細な事をやらかしたぐらいで烈火の如く「クソ」呼ばわりしてたくせにねー。
http://b.hatena.ne.jp/entry/mala.nowa.jp/entry/24af50df17 (元記事は消失)
で、自分の勤務先がLINEがらみでCAとは比較にならないぐらいやらかしちゃってるのに「俺は担当してませんから」(http://togetter.com/li/326127)と言葉濁すってどういうこと?おかしくない?
CAのHTTPレスポンスコードの件は確かにセンス無いなあとは思ったがさほどたいした事じゃない。LINEに比べればね。LINE酷いでしょマジで。あれだけ威勢のいい事を言っておいてそりゃ無いっしょ。社内でくだらないことやってる奴がいたらぶん殴ってでも止めろよ。担当じゃないとか知らんよ。あれだけ偉そうに他社に説教しておいて足下の火事は「ボク担当じゃありませんからー」じゃなえってんだよそういうの二枚舌って言うんだわ。何が技術者としての良心だよ。そんなにピュアな心を持ち合わせてるんならまず自分の会社のクソなサービス仕様を全廃しろってんだよこのポジショントーク野郎が。
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この記事は現時点で1000近く付けられている以下のブクメを要約したものであり筆者の個人的思想とは無関係です
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/mala/20120830/1346309790
実際経験した者ですが、
事務職って公務員や大手はともかく一般の中小企業の事務職って氷河期時代からずっと未だに女性優遇で男性お断りなんですわ
でもハローワークやリクナビに載ってる求人票やその紹介の際の連絡では、男性もOKにしてる所も多く希望を持って受けてみたら、体よく「うちの会社では女性しか雇わない」と断られて書類代や交通費が無駄になるなんてことがよくあります。
たとえば、ハローワークの場合だと最近は面接だけでなく書類選考を行い奮いに掛けます。
ハローワークでは原則として求人票に「女性だけ」と記載するのは法律違反ですのでただでさえ嘘だらけの求人票に更に嘘を重ねた物を出します。
当然、求人票を見た求職者はハローワークで紹介状を発行してもらいますよね。大抵は事前連絡をしますがその時に「うちは女性を・・・」となって断られるケースが殆どです。
それだけならまだ良心的ですが、面接選考のある会社(一般には面接のみの会社)では履歴書を見るまで男性か女性かはっきりしない(姓名にも女性名の場合があって会社も判断が付きにくいといった理由もありますが)ので、面接まで赴いて面接官から実は女性を希望してるといった旨が伝えられると、そこははっきりいって外道な会社と見えます。
それでも行き返りの交通費が支給されるならば、時間の無駄を除けば次の面接への足掛かりにもなるので予行演習と捉えることができるでしょうが。
さて、事務職は女性有利な職種ですが、男性は不利なのかというと、残念ながら不利です。この辺は男性差別の問題としてしばしば提起されてるようです。
男は営業、女は事務という考え方が中小では未だに一般的です。ハローワークの職員もそこは悪びれなく事務職希望の男性に営業転向を勧めます。
現在営業ははっきりいって業界全体が飽和状態に入っています。既に虫食い入れ食い状態のため、はっきり言って行くだけ無駄な職種です。
それこそ昔は需要が高く年収1000万を超えることもザラだったと聞きます。
けれど、それはバブル崩壊までです。それ以降は如何に工夫して営業するかが課題となり、それがやり尽くされ現在に至ります。
すなわち営業はルート営業や卸売営業、反響営業、店頭営業を除けば非常に難しく経験が物を言う職種であり、新卒如きが入ってすぐ勝ち取れる、アメリカンドリームではなくなったのです。
最近見かけるハローワークの営業の求人は、いわゆるブラック企業のそれと同じ謳い文句が目立ちます。それ以外にも「〇〇年以上の経験」を求めるのが普通の時代になりました。
要はハローワーク求人(営業)は新卒応援も含めて新卒お断りなのです。
それでも、女性優遇のため門戸の狭い事務職よりはかなり門戸が広い職種です。入り易さや経験を稼ぐという点では営業以外にないです。肉体労働の文字通りです。現在は体育会系と呼ばれるのが営業です。
結論を言いますと、事務職は中小に限って女性しか受かりません。男性で受かるのは経験スキルを持つハローワークを利用せずとも転職できる能力の求職者のみです。
それ以外の人(特に新卒男性。既卒も)は他業種職種へ行かれた方がマシです。事務一辺倒ではその年一度も受かりませんよ。駄目もとで他の職種も受けられた方が内定の道があります。例えば嫌われてる広告営業とか印刷OPとか介護とか飲食業界とか。入るのは簡単です。出るのが難しいです(笑)。
日経新聞にもこの間書かれてましたが、この夏が過ぎてからが勝負です。夏の間も就職活動するのはいいですが、一番の近道は無理をしないことです。
溜まっていた立替金精算してもらって懐が少し温かくなっていた帰り道
夏の日差しで頭がくらくらしたのでカフェに寄ってジュース飲んでいこうと
思って熊本の大通りを歩いていた増田はカフェの数個前のビルの入り口に置かれていた店名の無い看板を発見した
どうやら昭和の懐かしいおもちゃがたくさん揃えている店がこのビルの4階にあるらしい
階段を登ると3階付近に赤い小椅子と灰皿の置いてある汚い踊り場があって戸惑いながら
横を見ると更に急な階段があってこれが4階に続いていた エレベーター?そんなものは無い
登ると4階のドアの開いた屋根裏部屋みたいな部屋にドアからあふれ出しそうなほどおもちゃが見えた
いかにも昭和時代のコレクターっぽいおじさんが出てきたので探しているものを告げると探してきてドアの前の通路の床に直接置いて
みせてくれた(店内は床までおもちゃに埋もれてて足の踏み場はほとんどない)
「完品コレクター」が見たら卒倒するような扱い方だけど、状態にはあまりこだわらない性質なのでそこはいい
値段も超良心的だったし
ネットはしないそうだ 探すときのわくわく感が無くなるから 口コミと店の前の看板が全てらしい
それは口コミでもなかなか広がらないわけだ 珍しいもの多いから教えたくなる人少なそう
熊本の大規模コレクターズショップはどこも割りと最近のアイテムしか置いていないからな
30~40代が喜びそうな昭和中期~後期のおもちゃがぎっちりでコレクターによるコレクターの為の店だった
自分で目的の物を探すのは不可能なほどコレクターアイテムが溢れているので素直におじさんに聞くのが一番
増田はおもちゃも気に入ったけどあのビルの3~4階の間取りも面白いなと思った
熊本にいる(行く)アラサー・アラフォーの増田達は探してみるといい
詳しい場所?教えな~い ああいう店は自力で遭遇するのが楽しいのでその楽しみを完全に取り上げるつもりは無い
月末の給料日にはあの店にまた行ってみようと思った
・マッチングしない者同士が出会わないように、きちんと住み分け出来ていればよかったのに。
・問題は起きてしまったので、双方にとって学びの機会となるように着地してほしい。
・どちらかが倒れるまで殴りあうのみっともないと思う。
・店主はブログに客のことを煽って書くというモラルの低さがあり、
妊婦は捨てブログをつくって保身しつつ、攻撃は他人にさせるという陰湿さがある。
・争いは、同じレベルの者同士でしか発生しないという格言を思い出した。
http://anond.hatelabo.jp/20120731083615
完全に同意
自分たちのミスを棚に上げているという点が説明してありすっきりしました。
http://anond.hatelabo.jp/20120731075005
時が経てばネット民はこんなこと忘れて、居酒屋さんだけにダメージが残るという構造に理不尽さを感じます
http://anond.hatelabo.jp/20120731095453
赤ちゃんを持ち出すことで妊婦に良心の呵責を呼び起こしたいですが、
この手の人種の人たちは良心の呵責という概念を理解してもらえませんよね…
返信
http://anond.hatelabo.jp/20120731120028
店主のモラルの低さは叩かれて仕方ないですよね
ただ、叩かれすぎたと思う
失敗から店主は接客とは何か学ぶべきだ、くらいじゃないかなと個人的には感じてる
こんなにいっぱい叩かれちゃ立ち上がれなくなりそうでネット民こわいなと思う
いま付き合っている人と、いわゆる恋人みたいな形での付き合いをやめようと思ってる。相手の人とはこれ以前に何年も交友のある友だちだった。友だちに戻りたい、というより、今の関係であると同時に、友だちであるということを失いたくない。
もともと私は他人に対して恋愛感情を抱くことができなくて(相手も私にこういう部分があることは多少知ってくれている)、でも、相手からの申し出と、自分の中にもぎりぎり家族愛かなにかに近いような特別感は確実にあるという自覚に基づいて、この人と付き合おう、と判断したんだけど、それはちょっといい加減な判断だったかもしれない。どんどん申し訳ないような気持ちと自己嫌悪が募ってきている。
私は、人間嫌い・人間不信とまではいかないが、そもそも男の人が苦手だ。男の人がより好意的に特別扱いしてくれると嫌悪が募ってくる。これがどんなに誠実で良心的な人でも、何かの瞬間にひどく嫌悪感を抱くことがある。異性に対する性的な目線や感情の発露が嫌というのではなくて、その人がまともに振舞おうとしていることがうわべだけの良識派を気取っているように見えてきて憎たらしくなる。まじめゆえに面倒ごとを後回しにするような平和主義もどきの発言をされたりするのがうっとおしい。彼とも、ただの友人であった時は許容できていたものが付き合い始めてからはすぐに許せなくなった。
とりあえず目の前から消えてほしいという意味で「死ね!」と吐き出したくなる位の衝動に駆られることがある。実際に死んだりいなくなったりしてほしいわけではない。冷静になるとどうしてそんな事くらいで「消えてほしい」とまで思うのか、ちょっと行き過ぎだと感じる。この衝動をはっきり表に出したことはないが、これに苛まれている時の私は、とても不機嫌でつっけんどんに見えるだろう。
私は友だちに対するスキンシップが好きで、ある程度仲良くなって相手のことを知っていれば、手を握ったりハグしたりなどがテンションあげずにためらい無く出来る。付き合い始めてからは、彼と並んで歩いているときになぜか体がぶつかってくるのがとにかく腹立たしい。ただ、これは彼とさほど仲良くない頃に密着されたときもかなり不快だったので、相手から意図がわからないまま触られることが嫌なのかもしれない。好意からなんとなくくっつかれるよりは、思い切り抱きつかれるほうが相手の感情がわかってまだ安心する。
両親の不仲と経済的な理由による離婚によって、私は小学生の頃から父親が不在であったことによって育んでしまった何かが、これらにどれだけつながっているかわからない。父親に対する期待など一切なかった分、引きずるような憎しみなどもない。本人から直接聞かされたわけではないが、父親のほうが私よりもいびつな少年時代を過ごしたのを知っているため同情のような気持ちは抱いている。でも父と私では時代も土地も性別も違っているので歪みや苦しみの質は多分違う。ただ、私も父も、身内をただのストレスのはけ口としてしまいろくに思いやりなどなくなるという点でそっくりだ。未だにファザコンだ、くそ。
付き合っている彼以外の人とお付き合いのようなものが出来る可能性など今後ないだろうし、彼は以前の関係を変えたいわけではないとも言ってくれた。代え難い存在でいてくれる彼には感謝しなくてはならないのだけど、私と付き合うことで彼の人生において不利益な時間や感情を費やさせているだけにしか思えなくなってきたし、覆し難い嫌悪から彼をむやみに叩くだけの存在になりたくない。彼が変わらないと言ってくれても、私は変わってしまう。
私は自分のことしか考えていなくて、相手を好きか相手が好きかなんてことは私の中で二の次以下のものだった。特別でなくていいから、彼の友だちに戻りたい。
一歩間違えると、表現を誤るんだけども、
全部一部では真実なんだなっていう発見なんだけど、表現がうまくいかない。。。
もう少し細かくだらだらと書いていくと、、、
他人を必要としてはいけなくて、自分で何でも出来なきゃいけなくて、
ただ、今ここに自分って結局絶対的で、比較出来ないものとして存在していて、
その上で存在しているのは他人との間にある「それ」なんだ。
「それ」を作り上げるメッセージを常に送受信しているのが自分であって他人であってものであって、
「それ」を共有していくから、人間は共感し合えるんだけれども、
共感はお互いの作り上げていく「それ」に自分が溶け込んでいるんであって、
「それ」に対して自分は本当はこうなんだって人に見せようとしても、
相手が興味なければ、「それ」は溶け合わない。
その行為は自分がこうだって相手に思って欲しいっていうだけで、
そう思う思わないは相手の自由なのに、相手に強制をさせているから。
相手に強制をさせて喜ぶっていうのは普通はない。
(SMに関しては「それ」の共有の土台、の観点から論理的矛盾は無い)
始めに書いた陳腐な人間不信の表現は、厳密に言うとこういう事。
・人を信じてはいけない。
→他者とは「それ」の共有は出来るけど、他者自身は絶対にわかりえないのに、なぜ信じられる。
・人を頼ってはいけない。
→人を頼れるのは、そうした「それ」の状態になった時だけ。わからないものに頼るのは占い、宗教と同じ。
→上記と同様。子育てを除く。
→上記と同様。子育てを除く。
→価値は他人が決めるもの。自分が他人をわかりえないのと同様に他人も自分の事を知れないため、価値の算出は不可。
・生きてる意味はない。
→他者のことはわかりえないため、わからないものに対して、他者から与えられる自分が生きている意味は嘘。
その上、自分で自分の生きている意味は、自分が二人いて同時に意識を持たない限り、絶対性があるため意味付け不可能。
つまり、他人を頼らず、今居る自分に価値の有る無しは他人にも自分にはわからないため、
肯定は無いけど否定も無いから、とりあえず自分を否定して苦しめる行為は止めましょうってこと。
肯定的人間不信っていう言葉を勝手に作ってみたけど、ちょっとしっくり来る。
ここから先に、自分を肯定する話や生きる気力は進化生物学や認知神経科学やポジティブ心理学に席を譲るとして、
「それ」ってなに?ってことをもう少し知りたくて、自分でひらめきを待っている所。
>M 先輩は決して悪人では無い
加害者である自分の息子を転校させ、いじめを全力で隠蔽し、さらには被害者遺族の感情を逆撫でするような発言までする人間の「正義感」ってなんだろうね。
ここまで卑劣な事をしておきながらなぜ悪人ではないと言い切れるのか。
>どちらかと言うと曲がった事が嫌いで、常に正義を信じる熱い人だ
曲がった事というより、反対意見や気に入らない人を徹底的に潰してきたんでしょう。
そして、周りの人たちにそれらを曲がった事と思い込ませる事がうまかった。
内輪の繋がりが強すぎる集団って外からの意見を聞き入れようとしない子供みたいな連中だからこいつもM先輩も何が正義かなんて考えなかったんだろう。
M先輩も十分曲がった根性してる。
>ある日突然加害者の身内になり得るという事だ。
まるで痴漢冤罪を訴えるかのような、無理矢理巻き込まれ加害者になってしまった、という考え方。
もし、子供が加害者になっても、すぐさま謝罪し加害者の親としての責任を果たそうすればこういう考え方も少しは理解できる。
しかし、謝罪すらまともにしていない。
原因は突然だとしてもM先輩の言動がM先輩を加害者たらしめている。
絶対に冤罪なんかじゃない。
>M 先輩にとっては大きすぎる不運だと言うしか無い
この親あってこの子あり。
そして、この先輩あってこの後輩あり。
>M 先輩とそのご家族の順調な人生がこのような形でズタズタになってしまう事を思うと、やり切れない気持ちになる。
そしてこの国の、良心のある人たちがみなやり切れない気持ちになった。
2007年から2009年にかけて、2年弱ではあるが、外資系金融で派遣社員として働いていた。
外資系企業で働くということは、私にとって、黒船到来とでもいうべきエポックメイキングな出来事だった。
日本のベンチャー企業で解雇の憂き目に逢い、1年以上ニートをやっていた30歳過ぎのキャリアもない女性に仕事などなく、
私は今でこそ「社畜」と形容される日本の会社の風土そのものに全く馴染めない社会不適応者であるのだが、外資系企業は、
そんな私でも馴染む組織であるということを働いてみて初めて知った。
日系大企業に見られる「社畜」の風習である、空気を読む、他者迎合、足の引っ張り合い、残業していることをPRするための
残業(残業自慢)、横並び意識、おべっか、滅私奉公、給料=我慢料、「あれをこうして」という抽象的で意味不明な指示、
非ロジカルな会話、議題のない長時間の会議、社内政治、客よりも組織内の利益を優先する、奴隷営業、就活の茶番、パワハラ、
セクハラ、長い物には巻かれろ、付和雷同、といったありとあらゆる理不尽を永遠に繰り広げる旧陸軍のような環境そのものが、
反吐が出るほど嫌いだった。
しかし、外資系企業では、これら当たり前だった日系企業の風習が、随分緩和された環境であるということを経験した。
もちろん、外資系企業といえど、日本人社員が比較的多い組織を渡り歩いたので、上述のような風習が全くないというわけではない。
それでも、日系企業の「社畜」に囲まれる空間より、居心地が良かった。
景気悪化により、2010年より、私は日系企業に再び戻ることになった。典型的なドメスティック企業で、旧態依然とした社風に
発狂しそうになった。それでも、自分の希望する職種であったため、社畜集団しかいないということは織り込み済みで働くことにした。
面接した当初、直接雇用を視野に入れているという言及があったものの、後にカモフラージュであることが判明。
勤務先の管理職より、先月6月の株式総会後、経営方針の変更等という上っ面の理由で、
直接雇用はしないという旨を暗に諭され、転職活動を真剣に視野に入れるようになった。
ダイレクトかつストレートかつ正直に現況を述べず、オブラートに包むやり方は、いかにも日系企業らしい。
会社から直接契約終了とは告げず、私が辞めてくれるのを手ぐすね引いて待っているような状況である。
自分たちは決して悪者にはなりたくない。。。
怒りすら生じなかった。
以前、就業していた派遣会社に問い合わせたところ、早速現在の仕事に類似した外資系企業を紹介された。
このご時世、このようなタイミングで希望する職種に近い求人があるのは非常に珍しい。
派遣といえど、リーマンショック後は、書類選考や面接を行い、スクリーニングするようになった。
誰でもできるような一般事務で、誰もが知っている大企業の求人になると、50人〜100人くらいの応募者が殺到することすらある。
企業の選びたい放題である。完全に買い手市場だ。現在の私のポジションも、3〜4人面接を行い、最終的に私にしたと管理職から聞いた。
この2年半で、外資系企業に再び戻って働きたいという渇望は募るばかりで、過去の経験に基づく事実が心の中で勝手に膨張され、
妄想になっているのではないかという懸念はあった。片思いの人に入れこみすぎて、リアルな人物像よりも勝手に素晴らしい人物像を
今回は、そんな妄想を打ち破る現実に直面するかもしれないという覚悟はしていた。同時に同業他社動向を知りたいという好奇心もあった。
■面接で聞かれたこと
全部で4人の方と面接した。
日本の会社のように「自己紹介をしてください」という決まり文句からはじまり、新卒から現在に至るまでの経歴を延々と述べることはあまりない。
外資系企業の多くは、予めレジュメ(履歴書)は閲覧しているので、気になる点をピンポイントで質問するというパターンが多い。
転職歴の多さ、年齢、既婚未婚、協調性、弊社を選んだ理由といった典型的な質問や、会話のあいまいさに起因する論旨の不明瞭さ
今回の会社では、直近に携わっていた仕事をどこまで踏み込んでやっていたのか、何ができるのか、という1点に絞られた。
私は具体的な数字を述べ、先方に業務タスク量が明確にイメージできるよう述べた。また、業務裁量に関しても、具体的に
どこまで自主的に仕事に取り組んでいるのか、先方に理解できるようPRした。
その後、現在の勤務先の取扱商品数と、取扱金額も質問されたので、明確な数字を述べた。
面接した企業と、現在の勤務先のビジネス規模は殆ど同様であるということが判明した。
そして、今後携わる仕事内容について、詳細な説明がなされた。
現在の仕事と先方の業務内容で、決定的に違うポイントをその場で端的に指摘された。
そして、その違いが、先方の業務の肝であるということが面接を通じてお互いに理解できた。
このような理解に至るのは、面接官が非常にロジカルに会話を展開するからだろう。
現在の勤務先で自分が携わっていることを詳細に質問するので、自然とPRに熱が入る。
日本の会社はどちらかといえば、圧迫面接に近い感じがするのだが、外資系企業の多くは、ポジティブに過去の業績をPRしたくなる雰囲気がある。
狙ったわけではないが、業務上最新の注意を払っていることについて、述べた所、何故か「オチ」のあるギャグになってしまい、周囲が笑いに包まれた。
久々に外資系特有の「会話のテンポやノリ」に触れることができた。
今回の求人は、携わっていた正社員が海外移住するとのことで、ポジションが空いた求人だった。しかし、本国のバジェットの都合等の理由で、
正社員のヘッドカウント(頭数)が正式に降りず、申請中との説明を受けた。ただ、打診は行っている最中であるとのことで、私のパフォーマンスと、
本国からのヘッドカウント承認如何では、そのまま直接雇用の可能性があるとのこと。その一方、私のパフォーマンスが悪い、もしくは、
本国のバジェットの都合で雇用は1年契約で見送る可能性もまだ残されているため、その場合、雇用契約は終了する可能性があるという説明も受けた。
要は、首になるというリスクを予め、面接時に開示している。会社の保守的な(悪くいえば都合の良い)防衛策でもあるのだが、
日本企業の期待をほのめかしながら、最終的に公約違反を平気でやってのける卑怯なやり方よりは、随分良心的である。
■業務内容のロジカルな説明について
業務内容の説明時に、一通りメモをしていた。現在の業務に関連する仕事ではあったものの、業務特性は異なることが判明。
私は現在、編集土方として制作物をリリースしているが、外資系での仕事は、編集コーディネーター(執筆者とのリエゾン)
としての要素が非常に強い業務内容だった。
面接官の説明が、非常にロジカルだったせいか、メモの内容を友人に話すだけで、非常に明瞭な業務内容の説明になっていた。
私は人前で何かを説明するのはおろか、吃音なども多少あるので、基本的に会話が苦手である。しゃべることができない。
しかし、メモを読むだけで、誰にでも分かるような業務フローを述べることができた。
それくらい、面接官の説明がロジカルで明瞭だったのだろう。キレのある人達だった。
■業務プロフェッショナルとして
過去の私の経歴をざっと説明していたとき、面接官でトップの人が、法的専門知識に関することをポロッと余談のように言及していた。
その知識は、現在の勤務先の部課長よりも、明らかに深い内容であった。
非常に嬉しかった。
しかし、焦点は編集作業員から、編集コーディネータ要員という毛色の異なる業務に注力できるか、否かということだった。
結論としては、私は編集作業員(土方)としての経験がなかった時から、編集業務を全うできるだろいうという根拠のない自信はあったが、
コーディネーターとして業務を全うする自信はあまりないと判明した。
友人曰く、「コーディネーターとして采配を振るう仕事は、あなたが例えばマネージャー以上の権限のあるポジションだったら、
強く出ることはできるのでやりやすい仕事だと思うが、派遣という立場をあなたが意識してしまうと、調整業務に支障が生じる公算が大きい。
あなたは、力のあるポジションじゃないという理由で被害妄想を抱き、ひるんだり、やる気をなくしたりする弱さがある」と。
友人の指摘の通りである。
悩みに悩んだ末、今回は辞退させていただいた。
たった40〜50分の面接で知り得た断片的な商慣習、そこで働く人、カルチャー。。。
同じ日本人でいながら、黒船に乗った人々は、もはや、日本人の面をした、外国人なのである。
きっと、あの組織ならば、満足度の高い環境で仕事ができるだろう。
しかし、どんなに環境が良くても、不得手な仕事を長く続けられるかといえば、NOなのである。
そう思ったとき、現在の自分の仕事に、かなりの自負があるということに気がついた。
精神病を発症させ、毛嫌いしている日系企業で、社畜として猛烈な我慢と忍耐を強いられながら、
■熱病
できれば、一生おさらばしたい。
もう、こうなると、ただの熱病のような岡惚れといっても差し支えない。
私は熱病にうなされながら、次を目指す。
共依存の行く先は、ぐずぐずとした破滅に他ならない。エンターテイメントは、それが逃避という形であっても、最終的には現実と戦うためのものでなければならない、と思っている。それが作り手の良心であり、矜持であるべきだ。
「現実と戦う」ためのエンタメみたいのはもう厳しい感があると思うの。個人的には舞城王太郎がピークだった。
みんな正直既に疲弊してる。だからボカロ界隈の歌詞はあんなドロドロに暗かったり過剰に過激だったりみたいな感じになるんだと思う。
なんてったってボカロで現実と戦う系の歌は(知ってる限り)ひとつ残らず自己犠牲ネタ(悪けりゃ単なる自殺)だかんね。
『メアリーと遊園地』、『カゲロウデイズ』、『悪ノ召使』、みんな最後にグスコーブドリが火山に残るとこだけやりたがってる。
宮澤賢治の自己犠牲だってもやもや来るところが全くないとは言えないのに、ボカロはみんなして「誰かのために死ぬ」とこは嬉々としてやりたがるくせに「その誰かといばら道を生きる」方は誰もやらん。
「いばら道でも何でも切り開いてもがいてもがいてもがく」ようなのは誰もやらん。あるいは「やったけど無駄でした」くらいの描写に留めて省く。
もうみんな疲れてんだよ。うんざりしてんだよ物心ついたころからろくでもない未来像ばっか聞こえてきて。
自分の人生割とクソかもと思ってるし、そのクソ人生投げ出して「誰かのため」と等価交換できるんなら御の字だとか思ってんだよ。
それが現実とやらに報いる一矢たり得ると思いこんでいてそんなものまともな逃避以下の自己正当化だって事実からは目を逸らし続けてんだよ。ガキだから。
本当の「誰かのため」のためには自分が命捨てて済ますんじゃなくて困難てんこ盛りな道を寄り添い続ける覚悟がナチュラルに要るってことから逃げ続けてんだよ。
だって既にしんどいからこれ以上しんどくなるのってごめんだもの。
"どうしてこれが、これがハッピー?"♪、終わりも始まりも見えない道に寝そべって身体がグズグズに崩れていくのにゼイリブドハッピリーエバーアフターって納得なんてするはずないわってなものよ。
がんばってるみんな、がんばろうぜ。がんばるから。きっと現実は変わる。第一に、そう信じてなきゃ、まっとうなものをつくる方法なんて無いのだから。
頑張れるのはもう作り手だけだよ。
消費する側はもう現実が何をどうやったって変わんない気がしてるよ。
つーか消費するばっかり受け身ばっかりで「現実が変わる」なんて奇跡のようなことが起きると思ってる時点で頭があたたかい感じの人間だってことになるわけだけど、もうぬるい露天にぬるぬる浸かってたせいで肺呼吸でぜーはー言いながらのたうつようにして地を進むなんてできないんだよ。
もう頑張れるのは作り手だけだよ。マジで。
おれは頑張りたいからまだ作ってるけど。
昨今のサブカルの問題は、「根が暗いこと」ではなくて、抱え込んでしまった「暗い根」に対する、処方箋が用意されていないことだと思う。根が暗いのは、作り手のせいでも、受け手のせいでもない。けれど、相互的なぬるい自己肯定のゲームに終始しても、現実的な解決は導かれない。耽溺と依存を前提としているということは、供給側の承認欲求を満たしやすいということでもある。「金になる」、ということでもある。だから誰も歯止めを掛けない。でも、カルチャーとしては不健全に過ぎる。共依存の行く先は、ぐずぐずとした破滅に他ならない。エンターテイメントは、それが逃避という形であっても、最終的には現実と戦うためのものでなければならない、と思っている。それが作り手の良心であり、矜持であるべきだ。
VOCALOIDに限らないけれど、今の音楽カルチャーは、アマチュア主導になってしまったが故に、この手のプライドが絶対的に欠落してるよなあと思う。恐ろしい勢いで、ラクで居心地がいいけれど、何も生まないような関係性に流れていく。人が集まれば、お金だって動くけれど、じわじわと閉塞していくばかり。かといって、特権階級に胡坐を書いて馬鹿なことばっかり言ってた挙句、アマチュア界隈での焼き畑と、カヴァーやベスト乱発で末期的症状を呈してるレコード業界に望みが持てるかっていうとそうでもないんだけど。片隅で生きている身として言えることとしては、がんばってるみんな、がんばろうぜ。がんばるから。きっと現実は変わる。第一に、そう信じてなきゃ、まっとうなものをつくる方法なんて無いのだから。
もう一つのトラバでは、人間の社会性及びそこから発生する良心なり倫理などといったうちなるものは後天的なものかもしれないって流れになったから興味深い。
ただウェイソンの実験の内容から見るに、「道徳的にふるまうことはある程度本能に根ざしている」かどうかは、まだ判別できない気がするなあ。
確かにあの実験では道徳的バイアスを通して思考したほうが正答率は高かった。でも、だからといって道徳的バイアスが本能に根ざすものかどうかは別問題じゃないのかな。
「存在からしてシステムに組み込まれている」というのは違うんじゃないかな。
そうなのかなあ。社会性と言う名のシステムと、人間という分類って切り離せいないものであるように思うから、後天的とか、学習の結果とか示されても納得しがたいなあ。
あ、でも狼に育てられた少年とか、保護された時の様子の記録を見るに、人間らしさは身体的な特徴ぐらいにしか見られないわけだから、なるほど社会性というシステムは後天的に学習されたものなのかもしれないなあ。
世代交代を繰り返して、システムはこれからどんな状態になっていくんだろう。
世代交代が大きな社会性を否定しているように見えるから、見当もつかないや。
あるいは、システムそのものが変化するのかもしれない。倫理やモラル、善や良心から解き放たれた、ロジカルで記号的な価値基準、精神構造へと人間は変化するのかもしれない。
その過渡期にあって、コミュニタリアニズムが脚光を浴びたのかもしんない。難しいことはわからんけども。
どうなんだろう。定義可能かはさておき、もっと追求したいって欲求はありそうかもしんないなあ。
少し時間が経ってしまったから当初の欲求とは違ってしまっているかもしれないけど、いま現在は倫理や良心といった概念の出自が気になる。
関係性の中に芽生えはあるのだろうけれど、ではその種はどこに、そしていつ蒔かれたものなんだろうとか考えてしまう。
この見解には全面的に賛同するんだけどもさ、その概念がどうして便利であると知っているのかとか、あるいは本当に便利なものなのかとか思ってしまうわけなんだ。
要は、なぜカンガルーの赤子が母体の袋へ向かってよじ登るのかとか、生まれたばかりの仔馬が立ち上がるのか、とかいった本能への疑問なのかもしれないけども。
でも、例えばこれを本能への疑問だと仮定すると、人間の良心や倫理といったものも本能であると捉えて考えることになって、それはまた違うなあと思うわけで。
それとも人間の本能と社会性って切っても切り離せないものなのかしらん。
人間には本当にうちなる倫理や良心なるものが存在しているのか。それらは社会性の中に育まれた、共同体としての幻想ではないのか。
9割9分はそうだろうね。
人間の尊厳って、その人の個人の存在に準拠するものなのかしらん。
あるいは倫理やモラル、良心や善といったものも、個々人のうちに存在するものなのかしらん。
当たり前のことだけれど、人間は社会的動物であり否が応にも社会との繋がりを断ち切ることはできない。
そのことは十分承知の上なんだけど、敢えて人間から社会性を切り離して考えてみたとき、個々人のうちに倫理もモラルも良心も善も存在しないような気がしてならないんだよね。
況んや尊厳をやって話で、つまるところそれらの芽生えというのは、他者の存在ありきであり、共同体意思ないし社会性の中にこそ見られるのではないかなと思うわけなのです。
んなこと当然で、そもそも社会性を切り離した人間という存在が果たして本当に人間と呼べるのかどうか甚だ疑問ではあるのだけれども。
ただ、芽生えこそ個々人の範疇を超えた事象であるにせよ、それらの概念を作用する主体が個々人にあるのか社会性に中に紛れているのかが判別つかない。
例えば人を殺すという行為は倫理的に間違っていて、人間の尊厳を傷つけるものだけれど、その間違っているという判断、尊厳を傷つけているという判断はどこで行われているのかが気になってしまう。
人間には本当にうちなる倫理や良心なるものが存在しているのか。それらは社会性の中に育まれた、共同体としての幻想ではないのか。
もちろん幻想であってもなんでも構わないのだけれど、随分とシステム化されている概念だなと感心するわけで。
あんまりうまくまとめられなくて嫌になるわあ。