一歩間違えると、表現を誤るんだけども、
全部一部では真実なんだなっていう発見なんだけど、表現がうまくいかない。。。
もう少し細かくだらだらと書いていくと、、、
他人を必要としてはいけなくて、自分で何でも出来なきゃいけなくて、
ただ、今ここに自分って結局絶対的で、比較出来ないものとして存在していて、
その上で存在しているのは他人との間にある「それ」なんだ。
「それ」を作り上げるメッセージを常に送受信しているのが自分であって他人であってものであって、
「それ」を共有していくから、人間は共感し合えるんだけれども、
共感はお互いの作り上げていく「それ」に自分が溶け込んでいるんであって、
「それ」に対して自分は本当はこうなんだって人に見せようとしても、
相手が興味なければ、「それ」は溶け合わない。
その行為は自分がこうだって相手に思って欲しいっていうだけで、
そう思う思わないは相手の自由なのに、相手に強制をさせているから。
相手に強制をさせて喜ぶっていうのは普通はない。
(SMに関しては「それ」の共有の土台、の観点から論理的矛盾は無い)
始めに書いた陳腐な人間不信の表現は、厳密に言うとこういう事。
・人を信じてはいけない。
→他者とは「それ」の共有は出来るけど、他者自身は絶対にわかりえないのに、なぜ信じられる。
・人を頼ってはいけない。
→人を頼れるのは、そうした「それ」の状態になった時だけ。わからないものに頼るのは占い、宗教と同じ。
→上記と同様。子育てを除く。
→上記と同様。子育てを除く。
→価値は他人が決めるもの。自分が他人をわかりえないのと同様に他人も自分の事を知れないため、価値の算出は不可。
・生きてる意味はない。
→他者のことはわかりえないため、わからないものに対して、他者から与えられる自分が生きている意味は嘘。
その上、自分で自分の生きている意味は、自分が二人いて同時に意識を持たない限り、絶対性があるため意味付け不可能。
つまり、他人を頼らず、今居る自分に価値の有る無しは他人にも自分にはわからないため、
肯定は無いけど否定も無いから、とりあえず自分を否定して苦しめる行為は止めましょうってこと。
肯定的人間不信っていう言葉を勝手に作ってみたけど、ちょっとしっくり来る。
ここから先に、自分を肯定する話や生きる気力は進化生物学や認知神経科学やポジティブ心理学に席を譲るとして、
「それ」ってなに?ってことをもう少し知りたくて、自分でひらめきを待っている所。
つまり自立しろっちゅーことやな
木村敏『「あいだ」と「ま」の研究』おすすめ http://www.signes.jp/textes/index.php?id=671
っ「積極的ニヒリズム」http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/ccdbf655cffb519b30605ba7ae7f7796 …それを、今日的なネットワーク概念と結びつけてみたい、ということだろうと思う。言ってることは分かる...
元増田です。 能動的ニヒリズムというニーチェの概念をググりました。多分、ニーチェは大いに不満を抱くと思うが、これまでの俺の理解だと、今回の積極的人間不信の考えはある程度...
他者自身は絶対にわかりえないのに、なぜ信じられる。 他者とはわかり合えないことを互いに前提として踏まえつつ、信じ合える関係を築けるのが大人。