はてなキーワード: 祖先とは
子供ってのは自分の血を残すという意味で大昔から人間は、特に男は、力を持った後に多くの子供を残すといったことをしてきた。例えばチンギス・ハーンの子孫は全世界に1600万人いると言われているがこれは彼が自分のチンチンの力を誇示するために大量に子供を作ったことに由来する。そもそも現世の全人類のほとんどがアフリカに先祖を持ち遺伝的ボトルネックがそこで発生したことを考えるとアフリカにかつて最強のチンチンが存在したことが分かる。数々の遺伝子研究が特に男系祖先において共通の祖先を持ちがちであることを示しており、人類史はチンチンの歴史であったと言える。力を持った強いチンチンの戦利品・贅沢品として子供が作られてきた。全人類は平等であるといった考え方は比較的最近のものであり、みなが子供を作り育てるといった家族観も比較的新しいものであって、子供は人類史の中では贅沢品であったことの方が長い。資本主義がほころびだしかつてのように身分差が生じ出してきた近年、子供が贅沢品化していることはこの社会が以前のような状態に戻りつつあることを示している。子供が贅沢品であることは嘆いても仕方がなく動物であるが故の本来の姿なのだ。
東京で生まれて親の仕事の都合で子供の頃ヨーロッパに数年住んでた俺からすると興味深い話だな。
東京とは言っても23区外の多摩出身だけどね。ぶっちゃけ俺が子供の頃はネットもそんなに発達してなかったし、塾も行ってなかったから学校終わった後書店で参考書立ち読みしてるだけだったけど大学受験までなんとかなったけどな。でも書店が近くに無い、となると進学したり社会に出るための備えをする難易度跳ね上がるかもしれない。
田舎出身だからって格差があるのはおかしい、と書いてるけど、俺は全然そうは思わないな。
生まれた瞬間全てスタートラインは平等スタート、なんてのは出産した瞬間に赤子を政府管理化の施設に全員預けて一律同じ教育を授けるくらいしないと不可能な話だ。
世の中には自分一代でなし得ない大きい目的ってもんがあるんだわ。200年後に達成できる目標とかな。
東京で若い奴が外車乗り回して高級ホテルハシゴして遊んでる奴とかいるじゃん。
ああいうのは、もちろん本人の努力の成果じゃない。その何代も前の、父親の(母親の)、さらにその親の、親の親の親の…、が築いてきた成果の積み重なりが格差となって表面化してるってだけ。
子供や孫の世代のことなんか一切考えずに自分が楽しく生きてりゃそれでいいや、なんて家系の末端の子供なんて、そりゃあ何世代にも渡って着々と努力を積み重ねてきた家系の子供と平等なわけがない。
あたりまえだろ?
末端の子供一人で自分の親、先祖の出遅れを取り戻すなんてできねーんだわ。
家系図の中のどこかで誰かが自分を犠牲にして下の世代に託す、という大きな判断をしないといけないことだってあるんだわ
元増田の話聞いてると、そういった家系図上の祖先が下の世代がより強い人間になるために行ってきた犠牲や思いを一切無効にしろ、と言っているように聞こえてしまってまったく共感できない。
だって、自分が東京で下位の存在なんだとしたら自分の次の世代がより高い位置のラインでスタートできるよう努力すればいいところを、自分は犠牲になりたくない、次世代の捨て駒になるような人生は嫌だ、と言ってるんだもの。
やっぱり共感できないわ。
1:過去を変えたら、現在(恐らく過去改変の起点になった時点)で対象が変わるパターン。※鉄人兵団
2:改変後の歴史が、物語開始時点での正史だったパターン。※ジャイアンのツチノコ発見・スネ夫の祖先の手柄、竜の騎士など。
3:普通に過去が変わり、ドラえもん達以外の記憶が変わってるパターン。(1と異なり、「現在までの歴史」も変わっている)※パパとおじさんの柿の木の話、パラレル西遊記など。
増田が気になってる話は、恐らく3のパターンで、元のマンガは作者が頑張って考えて描いたのだが、ドラえもんが未来から戻ってネタバレした結果歴史が変わり、
あえてカッペと言う見下した言い方をするのは
やつらが「自分の価値観以外のパラダイムを認知するための脳の容量がゼロだから」な。
でさあ、
「あっふーん(察し) 相当貧しかったんだ?」みたいな反応が返ってくるわけ。
え?いや親父は慶応卒でいいとこ勤めてて年収はかなりだったよっていうと
もう「嘘だ!」ってブチギレて発狂してくるわけ。
何にキレてるのかさっぱりわからなかったけどなだめながら話を聞くと
「車を買えないならしょうがないが、車を買えるのに買わないということはありえない、認められない」
っていう話らしいのね。
当人も何にキレてるのか整理できてないんじゃないかってぐらいキレてくるんだけど
要するに車マスト価値観を否定されたことに対するショックがすさまじいっぽいわけ。
俺もさすがに
いやなんでそんなに怒るのかわからんし
特に不自由も感じずそれで育ったし(「休日に出かけるときに電車!?みじめじゃないか!」って言われた)
嘘だっていうけど顔も知らないあなたにそんな微妙な嘘をついてなんになるの
っていうんだけどまあ信じないし落ち着かない。
要するに田舎でしか暮らしたことがない人と首都圏で暮らしてる人間の断絶な訳よ。
俺は生涯首都圏だけど、地方で車がマストだし便利なんやろな―っていうのは想像は出来る。
震災後に福島に観光に行ったときはあーレンタカー借りればよかったんだなって思ったし。(まあペーパーだから知らんとこ運転する自信なかったけど)
首都圏だとあなたが日々実感してるような自家用車の有難味が全然感じられないし
駐車場代とかも田舎とは比べ物にならないし、かわりの交通機関も発達してるし、
ライフスタイルにもよるけど自家用車持たない選択も全然あるんですよ
ってことがどうしても認められない。
この「認められない」ってのが重要なんだけど、
単に想像できないって言うのを通り越した「認められない」の気配を感じたのよね。
車が要らないっていうのは別のライフスタイルの示唆をされるという以上に
自分の価値観や人生に対する根本的な否定として受け止めてるんだなって
何度かその種のカッペとやりとりするうちに段々わかってきた。
どっかの砂漠の民に「ラクダは持ってねえし要らないですね」って言ったら
「我々の生活と魂と祖先を根本から否定したな!」ってなるかもしれない。
カッペに自動車要らねえって言ったときのあいつらの激烈な反発はそういう感じの作用が心の中で起きてる。
https://anond.hatelabo.jp/20201017180336
こいつは俺が過去に遭遇した砂漠の民族的カッペよりは知識的には「外の世界」を認識してるんだけど
それでも根っこの部分で自動車に対する心理的な何かがあるよね。
こいつらのそういうぶぶんを察知せずに「自動車のツールとしての便利さ」「環境の違い」だけで話をしようとするとどこまでも荒れるのよ。
カッペが本当に認めてほしいのは自分達の車に対する愛着とその文化なので。
そこを自分で客観化も出来てないので一方的にこっちが察知・洞察して配慮してあげないといけないのがめんどいんだけど。
baikoku_sensei これだから 田舎のゲイは嫌いなんだ! 人口密度低くて ゲイ人口も少なくて 人と接する機会が少ないから コミュニケーション 能力が育ってない!
あれはむしろエスコートマナーや会話のとこでお前のそれ未熟やんてなってるだけだから
異文化コミュニケーションとしてはむしろ圧倒的に「通じ合えてる」方なんだよな。
同じ尺度や同じ欲望の中であなたはまだまだですっていうだけ。まるっきり同じ輪の内側。
ゲイという独自文化や男のチンポと言う強い目的が他の色んな差異を埋めてしまえてるんだ。
Tmr1984 都内乗用車めちゃめちゃ走ってるのに。さてはテメエ東京エアプだな笑
2020/10/18
テメエはまず日本語読めるようになれ。
Yutorigen 都会に住んでて車持ってない側だけど、この価値観と同一だと思われたくはない
あのさあ
俺自身は車に乗らない(必要としてないし車へのフェチズムや憧れも全然ないペーパードライバー)けど
自動車を持つことについて否ともなんとも言ってないよね
「田舎では自動車は必須だろうけど首都圏ではなしという選択も有り得る」ぐらいしか言ってない
俺の文章が偉そうなのは認めるけど何らかの価値観の話なんかしてねーのよ
mayumayu_nimolove 内容がひどくて3行読んでやめた。せめて読ませる文章作らないと誰も読まないよ。
読んどるやん
で、お前はカッペって言う差別用語に拒絶反応を感じたからやめたんだろ?
それはまともな感覚だけどその自分が何に拒絶を感じたのかっていうのを客観的に把握して正直に表現してほしいわけよ
nenesan0102 そういう人いるけど、あまりに想像力がなさすぎて会話が成り立たないよね…。増田大変だったろうな。都心部だと電車、たまにタクシーが一番安い
2020/10/18
この文の主旨は「カッペは自分の文化の外を想像できない」じゃなくて「カッペにとっての自動車はツール以上の精神的な何かだよね」だ
sakuragaoka 東京は自動車の運用が著しく不便な土地なので仕方なく公共交通機関使う場所、と思ってる。保有はしてたけど普段の移動はやっぱり電車が早いし。
そうね
東京で車乗る人は多かれ少なかれ車の所有とか運転体験とかなんかしら趣味性を持って好きっていうのはあるでしょ
そしてそれはたぶん田舎在住者の無いと死んじゃうツールとしての切実さや砂漠のラクダとしての愛着って言うのとは重なる部分はあっても全く異質な部分もあると思う
うん
そのうちにああこいつらにとっての車はなんか侍の刀とか牧畜民族の羊とかそういう市民権や豊穣を象徴する何かなんだなっていう気付きを得た話なんだよね
sangping 要するに都会暮らし自体が不便なんだよな。どう考えたってドアtoドアの車の方が便利だもん。自らの気の毒な境遇を自覚していない都会人の価値観が他者に理解されにくいのは当然だが、当人はその方が幸せなのかも。
ごめんそういう話はしてないし全然興味もないから賛成も反対もしないし勝手にやってくれ
俺自身はそんなに都会のメリット享受してないし田舎暮らしいいなーって思うこと多いよ
人間関係とかうざそーみたいな消極的理由で移住までは出来んけど
differential “俺は生涯首都圏だけど”都民じゃないのか笑(マウント)/うちは使用頻度低いから売ったけど実家(都心)も車持ってたし周囲も車持ってる人多いよ。通勤圏の県住みの人はもっと保有率高いと思う。
土地に対するコンプレックスとか全くないのでそういう感じの(笑)やマウントが全くわからない
それをやる人はかなりそういうコンプレックスがあるのねー、としか…
一番愛着感じてる町は小学生の時住んでた江東区だよ 夢の島(ゴミの島)とかに隣接する人気のない感じが好きで好きで
hyoutenka20 地方民も仕事や大学等で東京に行く人は多く、地方にいても東京マスコミの情報ばかりで東京の生活を認識できてる人が大半
東京の生活は東京に住まずにメディアの情報だけ見ててもやっぱりわからない。(逆も同じ)
なのに地方に居ながら東京の情報を見せられ続けてるとどうなるか?
完全未体験なのによくよく知悉してると勘違いするようになるんだよ。
これはどのジャンルでも恐ろしいことよ。
たとえばオタクって空手と合気道が戦ったときの相性について得々と語れる奴いるのよ。
どっちも自分でやったことすらないんだけど、刃牙とか格闘漫画でよく出てくる構図だから。
空手の打撃はこういう風に合気道にさばかれちゃうって「知って」るわけ。
そんな感じで格闘技とか筋トレに関する事って全く未経験なのに一家言持ってる男は結構いる。
漫画をはじめとしたメディアで変な情報は沢山載るので、それを見てるうちに「ちょっと、いや結構知ってる」って気分になるの。
バーベル触ったこともないくせにウエイトトレーニングのアドバイスしてくる奴マジでいるからね。
もっとすごいのだと、スポーツクラブでどこにも筋肉がない体の奴が明らかにやってる身体の人に何か助言してるのを見かけたりする。
何が言いたいかと言うとメディアの情報では実態を知ることどころか想像力すら養われないし
「何も知らないのに知ったような気になる効果」に自覚的で気を付けない人には小さくない害ですらあるということ。
土地に対するコンプレックスがある人も憧れがある人も、知らないんじゃなくて「中途半端によく知ってる」状態なんだよ。
俺はどの土地が恥ずかしいとかどの車が恥ずかしいとかそういうコンプレックスが全くないけど、それはそもそもあまりにも興味がなくて知識が全くないからなのよ。
そういう格付けとかを気にする奴は土地のランクや車のランクに滅茶苦茶詳しい。
住んだこともない土地や乗ったこともない車についてメディアから大量の情報を取ってる。
summoned 雑に広範に刺さる蔑称を使っておいて、「これはこういう意味で言ってるのでありまともな人には言ってません悪しからず」って面倒臭い注釈で反撃封じる言説は卑怯かつ放置すると本来の蔑称の意味で広まるんだよな
そりゃ俺だってリアルではこんな常識疑われそうな言葉は使わんけど
はてなはジャップだのマイルドヤンキーだの始めいろんな蔑称が常用されて許されてる治安の悪い場所じゃん何を今更って感じ
人の言葉遣いに突っ込むよりも自分の口や自分のいる場所に注意力持った方がいいぞ
kamezo わかりあいたいなら「カッペ」とか言ってケンカを売るようなことをしなければいいのに/それでもわかりあえないこともあるが、それはまた別の問題よな。 コミュニケーション
分かり合いたいなんてどこに書いてんだ
本当に文章の読めない奴が多いよな
俺はこのエントリで「カッペの生態や精神世界はこうなのではないか」という観察所感を発表してるんだから
元々カッペに対して失礼な文章であってこれはカッペと言う言葉を「地方在住者の中の一部の我の強い方々」とかにしても本質は変わらん
つまりこの文章でカッペに語り掛けたり分かり合おうとしたりしてないわけだ
この文章でカッペと分かり合おうとしてるつもりだとか言ってたらそっちの方が傲慢なやべーサイコパスだと思うぞ
HEXAR 増田が都内以外の地域で車を所有している人たちの暮らしや価値観が分からないのはもったいない気がする…相手は決して見下す対象ではないし車があるとどういうところに遊びに行くの?とか聞いてみればいいのに〜
あのさあ
だからさあ
俺は車に乗らんけど車必須な人や車が好きな人や車がラクダな人の生活を否定はしておらんの
というか意味わからんぐらい車好きな叔父とかいてなんか有名らしいオープンカーに乗せてもらったりするの(けどそれの名前も全然覚えられん)
興味はないけど別に車を嫌ってはいないしただ運転には自信がないしそんなに車で出かけたい場所がない生活なだけだよ
誰が「自動車好きの奴うぜーわー 車なんか買う奴バカだわー」とかいう話をしてんだよ
そんな話は一ミリもしてねえわ
ちゃんと読んだうえで俺に突っかかってくる奴(こいつらには何の悪感情も持てない)とかよりはるかにウザいんだわ
お前みたいなのはほんと、ちゃんと人の話を理解する能力付けた方がいいよ?
俺の今回の話も「全く予想外なわけわからんキレ方をする異文化の人をなだめながら話を聞きだしてその人の背後の生活や精神世界を探って言語化してみた話」なわけ
お前はレベル3もねえよな
そりゃお前は表面的にはスマートで行儀も悪くないのかもしれない
けどそうやって攻撃的じゃないポジティブな感じの口調で飾ってたって
関心や理解のレベル3未満ならそれは無能だし、会話してて面白くねーし、もっと端的に言えばバカって言うんだよ
カッペみたいな差別語使う俺よりお前みたいな行儀がいいだけの無能の方が対人関係においてはよっぽど無礼だし見るとこなしだと思うのよ
あっ
これは全然違う
「えっ車がなかった…(察し) 貧しかったんだね」っていうのは
そのカッペ氏はほんとにそういう風に察してただけでこっちを気遣うニュアンスの発言だった
煽りだなんてとんでもないしそこまでは普通に和気藹々と会話してたの
カッペ氏が突如猛烈にキレだして険悪になったのは
俺が「全然貧しくはなかったけど自動車は持ってなかった」ことを理解してから
俺が別に貧しくはなかったよってのもただそれだけ言っても信じない(自動車持ってないのに貧しくないなんて!)勢いだったから
作り話では用意しにくいディテール付きでむしろ裕福だったよって言う説明をしたわけ
カッペ氏の様子が激変したのもそういう説明の中で「裕福なのは嘘じゃない」「でも自動車は持ってないらしい」ということを理解してからだった
そのキレるタイミングやキレかたが不思議過ぎたからなんじゃこれって印象に残ったし、なだめながらなんでキレてんのか探っていったのよ
その後似た感じの相手に数回遭遇して仮説を立てて確信を深めていった
…っていうこれもなあ
なんで家が裕福だとか言っただけで煽りだとかマウントだとかに直結するんだ
読解力がない上に発想の貧しい人達だな
dogear1988 この手の摩擦にはグラデーションがあってな。本当に一方的に発狂されたなら同情するが、車や地方の欠点を論った上で自分の文化圏を正当化する人間は都会側にもいるんで、そういう可能性を考慮すると何も言えない。
俺が「貧しくはないけど自家用車はなかった」と説明して、それが事実だと悟った瞬間にカッペ氏はキレた
つーか俺は車について興味も知識も全然ないから利点も欠点も語りようもない
よく積極的自家用車不要派が言う維持費がどうのこうのの話だって、いくらかかるのかとか全く知らねえんだからさ俺は
そういう車文化や土地文化の衝突に何の興味もねえって何度も何度も書いてんじゃん
dogear1988 価値観の押しつけなどへの反発には賛同するんだが、結論や追記で「車への愛着」自体を揶揄してるのはアンフェアじゃないかね。寧ろそこを認めないなら「ライフスタイルとしての尊重」とは言えんのでは。
えっ どこがよ?
そこを揶揄だと思うのはお前の自覚の方が足りてないだけだよ お前は武士やベドウィン族より何か進歩してるつもりなのか?
我々はみんな刀やラクダの代わりの何かに執着して生きてるんだよ
でも現代ではそういうのはだんだん内面的な対象に引っ込んでっているから今回のカッペのように外部的なものに生活や魂や権利概念がこもってる感じの執着のあり方は予測がつきにくかったし面白かったわけ
お前もお前のラクダは何なのかを考えてみるといいよ
memoryalpha しょうもないマウンティングなんて頼まれてもないのに隙を見せてるようなもんだから可愛いもんです。愛でてあげましょう。ただしルサンチマンこじらせてるやつは相手してはいけない(´・ω・`)
違う
自分の生活や魂を根本否定するような異星人に遭遇して驚愕し混乱しキレてた
って、もう何回書いても無駄だなこれ
読めない奴はどう説明したって読めねえんだ
kyo_ju まぁ日本社会の貧困化がさらに進むと、公共交通が死んで自動車保有が必須な状況をいいことに"クルマにかかる金(税・保険その他を含め)を払うために1ヶ月働く"ようなところまで搾取が深刻化するかもしれない。
こういう「元からどんな話題でもそこから何も受け取らず自分の言いたいことを繰り返すだけ」みたいなidの方がよほどムカつかずに見れるよなそういうコオロギみたいで
りーんりーん あべしねー にほんしねー
みたいな
秋も深まってまいりました
俺はあいつ嫌いだったけどよく知ってみると確かに考え方は似てるかもしれない
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
わたしたちが子供の頃に読んだ図鑑には最古の鳥類として始祖鳥が載っていました。
ところが近年、中国から大量の羽毛恐竜が発見されたことで次第に恐竜と鳥の境目がわからなくなっていきました。
「小学館の図鑑NEO新版恐竜」をひらいてみるとかつて私たちが始祖鳥と呼んでいたそれは
アーケオプテリクスという名前となりドロマエオサウルスのなかまとして紹介されています。
(余談ですがのびたの新恐竜ではこの図鑑が参考にされたのかなと思っています。この図鑑は映画内にも出てきていて、もっとメタなことをいうとドラえもんとコラボをしているので)
新恐竜ではドラえもんの舞台を中国に移し、そこで発見された羽毛恐竜が・・・という話なのですが
最近の知見を取り込んだのだな、というのが私の印象でした。始祖鳥を無視したわけではないのです。
また、恐竜から鳥への進化の方向は一方向ではなくそして単純ではなかったようです。
長い歴史の中、鳥に近づいたり恐竜に近づいたり絶滅したりを繰り返していたんですね。
ジュラ紀にも鳥がいたし、白亜紀にもキューやミューのような羽毛恐竜がいたのです。
そして必ずしも鳥に似ているから鳥に近いというわけでもないらしく、面白いですね。
あのブログはお詳しい方のようなので、おそらくここまでとっくにご存知の上で
「白亜紀後期にたくさんいたはずの他の真鳥類はどうなったのか?」というご指摘だと思うのですが・・うーんどうなったのでしょうね?
いちおう、キューがなぜ特別視されていたかというのは映画の描写によると
キューが現生鳥類の直接の祖先(のひとつ?)で、キムタクこと未来の研究員さんがずっと追っていた研究対象だという話みたいでしたが。
どうも未来の古生物学の研究員さんは博物館ではなくタイムパトロールに所属して各時代に駐在して研究をしている?!みたいですごいですね・・あの人家に帰ってるのかな
話を単純にするために真鳥類や他の羽毛恐竜については映さないようにしていた、触れないようにしていたのかもしれません。
最後の「鳥がいなくなっていたかも」という発言は、あれ他の真鳥類は絶滅するの??と思いましたが「まあ未来人がいうことだからな!!」でわたしは流してしまいました。みなさんまじめですごいですね。
僕らの人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、僕らの祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。僕らは遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
僕らの中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。僕らはその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。僕らは、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。
人のルーツを辿る時、その歴史上最も古い霊長は(今のところ)七百万年前のサヘラントロプス・チャデンシスである。我々ホモ・サピエンスが分化したのは今から二~三十万年前とされており、我々はアフリカから世界の各地へと足を伸ばし、文明を伝えてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。
ここで言うところの「暴力」とは戦争や軍事力を媒介にした暴力の行使を指しているわけではない。
ごく身近に、あるいは、我々の中に存在している。
それは自明のことと言って差し支えなかろう。暴力が無ければ人間は生きて来れなかったからである。
例えば、鋭い牙と爪、そして圧倒的な膂力を持つ獣に襲われた時に、我々に最も必要なものとは暴力である。
例えば、そんな事態においては武器が必要になり、そして、獣を殺す為の殺意もまた必要になる。そこには、暴力を振るうための道具と、暴力を振るうための膂力と、暴力を振るうための意志が必要になる。
無論、我々に暴力を振るう可能性があったのは獣だけに限らない。例えば、同族である人間が暴力を振るってくることも大いにあったであろう。そのような人間に対して、暴力を振るわなければならない場面もあったであろう。
更には、そのような暴力が防衛や自衛のみを目的としていたと仮定することは恐らく不可能であろう。そこに積極的な暴力の行使の可能性があったことを、認めなければならない。
繰り返すように我々がホモサピエンスとして遺伝子を繋いできたのは今から三十万年程前からのこととなるのだけれど、例えば、我々の遺伝子のレースが百万年前に始まったと仮定して、そして、我々の世代の継承が十五年毎に行われていたと仮定する時、我々にはこれまで六万から七万の世代が存在したということになる。仮に、たった百万年前から我々にとっての遺伝子のレースが始まったと仮定してさえ、そこには膨大な数の関係者が存在することとなる。とにかく、我々は遺伝子のキャリアとして長い時間を旅してきた。
その膨大な関係者は、恐らく長い間暴力と共に遺伝子の旅を送ってきた。
そんな時、我々の振るってきたであろう暴力は――あるいは、我々が振るわれてきたであろう暴力は――どんな種類の暴力であろうか。
まず挙げられるのは、殺人。
強盗。
強姦。
傷害。
恐喝。
その他に何があるだろう? すぐには思いつけない。
何らかの種類の搾取があったかもしれない。詐取が存在していたかもしれない。
我々の祖先はそれを不断に行ってきただろう。恐らくそれを止めることはできなかったであろう。
それを止めることによって、周囲の遺伝子のキャリアに対する対抗手段を失ってはいけなかったからである。我々はそれを止めるわけにはいかなかったのである。それを止めた途端に、我々の遺伝子のキャリアは頓挫し、今日という日に辿り着くこともできなくなってしまうからである。
恐らく、ありとあらゆる種類の暴力の行使は、我々の遺伝子のレースにおいて切り離すことのできない要素だったであろう。
つまり、この文を通じて僕は何を言わんとするのか。
それはつまり、恐らくだけれど、貴方のかつての父親は、あるいは貴方のかつての母親は、誰かを殺したことがあるということである。
何かを盗んだことがあるということである。
その他の、無数の暴力を与え、そして、与えられてきたということである。
我々のかつての父は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての母は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての父は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
我々のかつての母は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
例えば、百万年前までの歴史を辿れば、我々一人につき六万から七万の世代が存在することになる。そして、当然そのような世代は必ずしも一人の人間が継承し続けてきたわけではなく、無数の兄弟や姉妹が存在していたことであろう。そのことも勘案すれば、我々にはおよそ無数の関係者が――無数の肉親が存在していたということになる。
我々には関係者があまりにも多すぎる。そう考えた時に、我々の関係者の内に、一人たりとも、百万年の歴史において暴力を振ったものなどいないと言い切ることのできる可能性は、どれほどあるだろうか。恐らくはその可能性は限りなくゼロに近い。我々は無数の暴力をはたらいてきたし、恐らくは無数の暴力に晒されてきただろう。
僕らの人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、僕らの祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。僕らは遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
僕らの中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。僕らはその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。僕らは、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。
人のルーツを辿る時、その歴史上最も古い霊長は(今のところ)七百万年前のサヘラントロプス・チャデンシスである。我々ホモ・サピエンスが分化したのは今から二~三十万年前とされており、我々はアフリカから世界の各地へと足を伸ばし、集落を作り、文明を伝えてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。共通の利益としての安全を求める性質が、かつての我々にあったことは否定しないが、恐らくそこには絶えざる暴力の連鎖があった。
ここで言うところの「暴力」とは戦争や軍事力を媒介にした暴力の行使を指しているわけではない。
ごく身近に、あるいは、我々の中に存在している。
繰り返すように我々がホモサピエンスとして遺伝子を繋いできたのは今から三十万年程前からのこととなるのだけれど、当然そこに至るまでにシームレスに旧人類種のグラデーションが存在している。我々の遺伝子のレースはきっかり三十万前に始まったわけではない。あるいはそれは五百万年前かもしれないし、一千万年前かもしれないし、一億年前かもしれない。あるいはもっと前かもしれない。
例えば、我々の遺伝子のレースが百万年前に始まったと仮定して、そして、我々の世代の継承が十五年毎に行われていたと仮定する時、我々にはこれまで六万から七万の世代が存在したということになる。仮に、たった百万年前から我々にとっての遺伝子のレースが始まったと仮定してさえ、そこには膨大な数の関係者が存在することとなる。
そしてそこには必然的に、暴力の行使がまとわり付くこととなった。
それは自明のことと言って差し支えなかろう。暴力が無ければ人間は生きて来れなかったからである。
例えば、鋭い牙と爪、そして圧倒的な膂力を持つ獣に襲われた時に、我々に最も必要なものとは暴力である。
例えば、そんな事態においては武器が必要になり、そして、獣を殺す為の殺意もまた必要になる。そこには、暴力を振るうための道具と、暴力を振るうための膂力と、暴力を振るうための意志が必要になる。
無論、我々に暴力を振るう可能性があったのは獣だけに限らない。例えば、同族である人類が暴力を振るうことも大いにあったであろう。そのような人類に対して、暴力を振るわなければならない場面もあったであろう。
更には、そのような暴力が防衛や自衛のみを目的としていたと仮定することは恐らく不可能であろう。そこに積極的な暴力の行使の可能性があったことを、認めなければならないであろう。
そんな時、我々の振るってきたであろう暴力は――あるいは、我々が振るわれてきたであろう暴力は――どんな種類の暴力であろうか。
まず挙げられるのは、殺人。
強盗。
強姦。
傷害。
恐喝。
その他に何があるだろう? すぐには思いつけない。
何らかの種類の搾取があったかもしれない。詐取が存在していたかもしれない。
我々の祖先はそれを不断に行ってきただろう。恐らくそれを止めることはできなかったであろう。
それを止めることによって、周囲の遺伝子のキャリアに対する対抗手段を失ってはいけなかったからである。我々はそれを止めるわけにはいかなかったのである。それを止めた途端に、我々の遺伝子のキャリアは頓挫し、今日という日に辿り着くこともできなくなるからである。
恐らく、ありとあらゆる種類の暴力の行使は、我々の遺伝子のレースにおいて切り離すことのできない要素だったであろう。
つまり、この文を通じて僕は何を言わんとするのか。
それはつまり、恐らくだけれど、貴方のかつての父親は、あるいは貴方のかつての母親は、誰かを殺したことがあるということである。
何かを盗んだことがあるということである。
その他の、無数の暴力を与え、そして、与えられてきたということである。
我々のかつての父は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての母は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての父は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
我々のかつての母は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
例えば、百万年前までの歴史を辿れば、我々一人につき六万から七万の世代が存在することになる。そして、当然そのような世代は必ず一人の人間が継承し続けてきたわけではなく、無数の兄弟や姉妹が存在していたことであろう。そのことも勘案すれば、我々にはおよそ無数の関係者が――無数の肉親が存在していたということになる。
我々には関係者があまりにも多すぎる。そう考えた時に、我々の関係者の内に、一人たりとも、百万年の歴史において暴力を振ったものなどいない、と言い切ることのできる可能性は、どれほどあるだろうか。恐らくはその可能性は限りなくゼロに近い。我々は無数の暴力をはたらいてきたし、恐らくは無数の暴力に晒されてきただろう。
浦島太郎が釣りをしようと海辺を歩いていると、子供が3人、大きな亀をいじめているのを見つけました。
「おいお前達、亀をいじめるのをやめないか。弱いものをいじめて、恥ずかしくないのか」
「なんだお前!うるせーな!おいもう行こうぜ!げほっげほっ!」
去っていく子供の一人が、「今日はなんだか寒気が止まらない」と言っていたのがやたら印象的でしたが、浦島太郎はすぐに忘れました。
大きな亀は助けてもらったお礼に、浦島太郎を竜宮城に連れて行くと言いました。浦島太郎は竜宮城がなにかわかりませんでしたが、ぜひとも連れて行ってもらうことにしました。
浦島太郎は大きな亀の背中に乗り、海の中に入りました。不思議と呼吸ができて浦島太郎は驚きました。
深く深く海の中に潜っていき、しばらくすると、この世のものとは思えないきれいなお城が見えてきました。
お城の中に案内されると、いろんな魚たちが浦島太郎を出迎えました。
竜宮城の主人である乙姫というたいそう美しい女性が現れると、大きな亀を助けたお礼として、浦島太郎をたいそうもてなしました。
もてなされるままに竜宮で過ごすうち、2週間が経ちました。そろそろ帰らねば。浦島太郎はそう思い、竜宮を発つことにしました。
竜宮を発った日、乙姫はなにやら体調を崩したので、別れの挨拶もできずに去ってしまったことが心残りでした。
浦島太郎は地上に戻ると、大きな亀から玉手箱を授けられました。乙姫からの伝言です、そう言い大きな亀はこう続けました。
「玉手箱はあなたが竜宮で過ごした『時間』を箱に収めたものです。決して中を開けないでください」
浦島太郎はうなずき、大きな亀と別れました。
浦島太郎は村に戻ると、なにやら様子が変わっているのに気づきました。村に人が一人もいない。荒廃した家屋が雑然と残されていました。
浦島太郎は困惑しつつあたりをくまなく探していると、ようやく一人の男を見つけることができました。
浦島太郎はすがるような思いで男に尋ねました。
男も自分以外の人間がいることに驚いたのか、目を見開きました。
「祖先?一体どういうことですか?私の家族は、村の人たちはどこに行ってしまったのですか?」
「落ち着いてください。私は民俗学者で、この村に関係する人間ではありません。数百年前、この村で奇病が流行って、村は全滅しました。私はフィールドワークでこの村のことを調べに来たのです」
「そんな!数百年だって!」
どうやら竜宮で過ごした数週間は、地上では数百年経っていたらしいことに気づきました。
がっくりとうなだれた浦島太郎は、ふと持っていた玉手箱に目を落としました。
「そういえば亀は言っていたな。この箱には『時間』が収められていると。もしかしてこの箱を開けると、自分が暮らしていたあの時に戻るのでは」
浦島太郎はすがるような思いで箱を開けました。すると箱から、もくもくと、おおきな煙が現れて浦島太郎を包み込むと、浦島太郎は歳をとったおじいさんに変わってしまいました。
突如、浦島太郎を襲ったのは強烈な寒気でした。咳が止まらず苦しみだし、その場に倒れ込みました。
一連の様子を見ていた民俗学者の男はあまりの出来事に呆然としていましたが、苦しんでいる浦島太郎にはっとして声をかけました。
「大丈夫ですかあなた。一体何が起きたのかわかりませんが、すぐ近くに私の宿があります。とりあえずそこで看病をいたしましょう」
民俗学者の男はよぼよぼの老人となってしまった浦島太郎の肩を担ぐと、近くの国道でタクシーを捕まえて、観光地近くのホテルへと向かっていきました。
おしまい。
わかってるようならなによりだよ
増田が言っている通り、増田でよくみられるのはルッキズムではない、単なるコンプレックスで片付けられるものでしかない(ひどい状態なら精神病に分類されるので病院へ行こう)
なお、1点修正しとくと、突然金髪碧眼が生まれたりはするんだなぁ。これが。何度も書いてるけど
日本でもたまに日本人的特徴を持たない子どもや色素の子どもが生まれているよ。同級生にもいた
ただ色素が薄くても流石に碧眼では無かったけどね。日本人で金髪碧眼であればさすがにこんな感じでニュースになると思う
■白人を祖先に持たない黒人カップルにアルビノではない金髪碧眼の赤ちゃん
https://www.legit.ng/1090594-black-couple-birth-a-white-baby.html
ナイジェリア出身の黒人家庭に青い目をした金髪の赤ちゃんが到着した奇跡に、
両親も科学者も困惑している。生まれたばかりの白い(肌の)赤ちゃんは白人ではない。
両親は白人の先祖を持っていない。どのような遺伝子の突然変異が起こって、
黒い肌の両親に青い目の白い赤ちゃんを与えているのでしょうか?
遺伝子の運に頼らずとも、その因子を持つパートナーを積極的に選ぶはありそう
話題分けたやつは今書いてる
トランスレイシャル>自分の人種に違和感を感じる人たち
例えば、3世代全て白人でどう見ても白人なのに白人であることに違和感を感じて黒人のように振る舞う人のこと
Netflixとかでみれるよ。『レイチェル 黒人と名乗った女性』ね
レイチェルの件はともかく、「当人の見た目」と「遺伝的な人種が異なってしまう」という現実は発生する
■白人を祖先に持たない黒人カップルにアルビノではない金髪碧眼の赤ちゃん
https://www.legit.ng/1090594-black-couple-birth-a-white-baby.html
■「自分は白人だ」という思い込みが検査で覆された人々は、どんな反応を示すのか?
https://courrier.jp/news/archives/115565/
> 価格の低下もあって、興味本位で遺伝子検査を受ける人が米国では増えている。
>「ヨーロッパ系米国人」と自己認識していた14万8789人中、約3.5%にあたる5200人ほどに、1%以上アフリカ系の血が入っていることが明らかになった。これはつまり、「6世代以内の先祖に黒人がいる」ということだ。
だからといって、特定の人種に見えるように外見(身体)改造しましょうってなると「ええ〜?」ってならん?
それともむしろ、有色人種的な特徴が出た場合は肌ホワイトニングやブリーチを推奨する派かな?(ビヨンセやリアーナやニッキー・ミナージュのように)
あるいは有色人種の特徴は無いのはおかしいと日サロやメイクや薬剤で色を付ける?(レイチェル・ドレンザルのように)
もちろん、健康に重大な影響が無く当人の気が済んで晴れやかに過ごせるのなら、どうぞご自由にとは思うけど
○○人種はこうあるべきみたいなさ
性別も同じことだぞ