はてなキーワード: 特質とは
優生思想の間違っている点
①当時の技術では、ある遺伝が「優生」かどうか判断できるわけがなかった。
アーリア人種が優越しており、ユダヤ人が劣等である、とかいうなんの根拠もない断言がメイン。骨相学のような初期の遺伝研究にも見られた間違いで、欧州人白人富裕層を意味もなく上に起きがち。
(注意:いまも出来ているとはとても言えない)
②ある遺伝を先天的に持つことからといって、その遺伝的形質を発現するとはかぎらない。
例えば数学的天才の遺伝子をもつからといって、満足な教育を受けずに高校レベルの数学を解くのは不可能である。泥棒の遺伝子をもつとしても、毎日満足なお小遣いがあるならば万引きをすることはないであろう。
遺伝があることは、その特質を発現することとは違う。遺伝のみでその後の人生と能力は判断できない。
③いまの社会に最大の利益をもたらす能力の人間は、20年後の社会に最大の利益をもたらすとはかぎらない。
プログラミングの天才になる遺伝を持つ人間は、50年前は凡人だったのか? 同様に、我々は根本的に未来について無知であるから、未来の社会に利益をもたらす遺伝的特質を知ることができない。
まとめ。
タイトル通りの話
至って平凡で弱い人間がいろいろがんばったけどがんばった方向性が違った話。
前提 : ステータス
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内向型について少し補足したい(最後らへんは定義から離れているかもしれない)
内向型とは下記性質を持っている
ぽしゃった話
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凄く無理があった。チャレンジはしたけど結果、無駄な時間を費やしてしまった。ただ辛かった。もう体験したくない。
小さい頃から内向型の性質は顕著に出ていて、遊びも外で友人と遊ぶよりも1人でおりがみで遊ぶような子供だった。
大学に入る頃あたりに、ふと自分のこの性質やいままでの行動を省みた。
「このまま内向型で1人でいることを好んで、人とのコミュニケーションが少ないままだと社会人になれない」という考えに至った。
その考えの元は色々あったと思うが大きくは家族の影響が大きかった。
社会人として生きていくには"みんな"と同じような大学生活をしたらこの内向性はましになって
社会に適応する力が養えるのではないかと思った。内向型という特質は社会では受け入れられないとその当時も思っていた。
内向型は俊敏な判断に欠ける。その場で考え発言することが苦手。チームでの共同作業が苦手。
社会のなかで価値あるものとされていることに関してコミットすることが内向型は難しい。
社会では劣等生だと思った。変わらなければならないと思った。
みんなと同じ大学生活(=社会に適応できるようになる行動や在り方)は下に思う
- バイトやサークル、ボランティアに積極的に参加する → 共同作業の苦手意識払拭
- リーダー職を経験する → 発言する苦手意識払拭、俊敏な判断力向上
- 空気を読む、協調性を大事する → 共同作業の苦手意識払拭
自分には上記のうち上二つはやる前から苦手意識があった。自分には向いてないという自覚があった。なんとか変えたいと思った。
何も予定のないOFFの日は大変な時で2ヶ月に1日位しかないくらい忙しい生活をしていた。充実感を感じてはいた。けど大変な時期を通り過ぎて少し時間が空く期間になったときに徐々に色々なコミュニティに行こうとする度に心の中に黒いもやもやがで始めた。漠然としているけど言語化するなら「嫌」という一言になると思うが、当時は「困難に目をそらしてはいけない、現実をみて立ち向かう、いつかきっと良い結果になる」と思って頑張っていた。
ベッドから起き上がれなくなった。
心療内科にかかり、自律神経失調症と診断された。サークルとバイトは行くことが困難になり休みを経て辞めた。まともに学校に行くことができなかった。1週間の授業の半分以上は欠席した。
このときはかなり辛かった。
朝起きようとして、指を動かそうとしてもピクリとも動かなくて、普通のことができなくて、弱い自分が情けなくて、惨めで、泣いた。泣くのはできるのかよ、と思って余計に泣いた。
実家ぐらしのため、家族にも申し訳ない気持ちと、 おそらく家族からみて「つらいことに直面して何もできない、弱い人間」と思われているのだろうと勝手に思い、これまた辛かった。自分で自分を追い込んでいた。
ベッドから起きれて学校に行こうと、外にもでて、電車に乗ったところで過呼吸と動悸と漠然とした不安と焦りで半泣きになって引き返したときもあった。
机の前に向かってなにかしようと思ってもなにも考えることができなくて焦って不安で時間だけが過ぎた。
バイトとサークルを辞めてから少しずつ回復はしていって、幸いにも半年くらいで服薬はなくなり、徐々に起き上がることは普通に出来るようになった。ほとんど寝たきりではあったのでリハビリがてら先ずは散歩から始め、徐々になにかに集中しようとして、ちゃんと集中できるようになった。
というのを経てぽしゃってから2年位で立ち直った。
以上が私のぽしゃった話である。
振り返る
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私がみて普通の人たちの大学生活は私にとっては苦痛の記憶が色濃く残った。
ただこうなったきっかけはもちろん私の「社会で生きるために内向型を外向型にシフトしたい」という判断による、つまりは自分せいだ。
きっかけは他者であったり、周りの環境からだが、当たり前ではあるが選んだのは私自身だった。
得たかった、社会に溶け込むワザは多少身についた。人当たりよい振る舞いもできるようになったし、
初対面の人でも奥せず話しかけたり、他愛のない話をすることができるようになった。今でも役に立つところはある。
が、それは本当の私が求めているものなのか。
という疑問を、大学生活の終わりごろから抱くようになった。気づくのが遅かった。
思い返すとたびたび大事な友人からは「もっと自由に生きていい」と言葉をくれていたけれど、
周りに流されて...周りの人の価値観を自分の価値観として生きていくのは、かなりリスキーだとぽしゃって知った。
自分の意見や意志を周りの人に否定されないか、それで独りにならないかという恐れから、
この生き方だとその場は安心できるし、考える必要もないから楽だ。
外向型社会であるとは今でも思うしそうだと思うが、それでも自分の幸せのために
自分の内向型を受け入れて、内向型らしく生きていこうと思うようになった。
今
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というので、自分と向きあって自分の特性を認めるように少しずつしていっている、現在進行系で。前より自信はついてきているが、それでも不安になり立ち戻ることも多い。
人と関わるのが嫌いなわけではないし、色々他のひとの考えを共有したいという思いがあるが、人と一緒にいるだけでどっと疲れるので、誘いは断ることが多い(次の日が仕事だとなおさら)。人付き合い悪いし嫌な奴と思われるかもしれない。が、あのぽっしゃったときには戻りたくないので、交友範囲であったり、人に会う頻度は自分でコントロールするようにしている。
なるべく休日は予定を入れないようにしている。
こんな引きこもりでこれから私生きていく力身につけられるの?というもう一人の自分の言葉がでてくることがしょっちゅうだが、なんとかやっていけると信じていくしかない。
今は今で職場のオープンさだったり、やっている仕事のカラーとして自分に合っていないのだが、それについては...またの機会に書こうかと思う。
内向型らしく生きていきたい。
1854年4月、日米和親条約調印を終わったペリー提督は士官を伴って横浜周辺に上陸して、土地の視察を行いました。その際、初めて見る日本の女性について、彼等の興味深い印象を遠征記に書き記しているので、次に取りあげてみます。
穏やかに微笑してルビーのような唇が開いていたので、ひどく腐食された歯茎に生えている一列の黒い歯が見えた。日本の既婚婦人だけが、歯を染める特権をもっており、染めるにはおはぐろという鉄の粉と酒とを含んだ汚い成分の混合物を用いる。この混合物は、その成分から当然に推察されるように心地よい香りもないし、衛生的でもない。それは非常な腐食性のもので、それを歯につけるときには、歯茎や唇などの柔らかい組織を何かで覆う必要がある。さもなくば、ちょっとでも肉にふれると直ぐにただれて、紫色の斑点が出来てしまう。いくら注意しても、歯茎は腐って赤い色と活力を失う。
この習慣は、夫婦間の幸福を導くことがほとんど無いと考えるべきであろう。また、当然、求婚時代の夢中なときに接吻してしまわなければならないことも推測されるだろう。しかし、未来の花婿は往々にしてこの報酬さえ失ってしまう。なぜなら、ある若い婦人たちは、縁談を申し込まれたときに、このお歯黒をはじめることも珍しくないからである。
この厭うべき習慣は、他の習慣、即ち紅で唇を染めることで一層明らかになる。赤くした口は、黒い歯と著しい対照をなすからである。「べに」と呼ばれる日本の化粧品は、紅花でつくられ、陶器の盃に入れてある。薄く一塗りすると鮮やかな赤色となるが、厚く塗ると暗紫色となる。この暗紫色が一番いいとされている。
(町役人宅の)妻や妹は、外国人の前ではいつも膝をついたままであった。このような不体裁な恰好をしていても、女たちは自分達の働きを妨げられるようでもなかった。なぜなら、銀の徳利をもって、非常に敏速に走り回っていたからである。盃が小さいため、酒を注ぐことがたえず必要であった。二人の婦人はいつまでも慇懃(いんぎん)で、玩具の首振り人形のようにたえず頭を下げた。また、たえず賓客に微笑をもって挨拶していたが、微笑しない方がよかったと思う。唇を動かすたびに、嫌な黒い歯と色のあせた歯茎が見えたからである。
日本の社会には、他の東洋諸国民に勝る日本人の美徳を明らかに示している一つの特質がある。それは、女が伴侶と認められていて、単なる奴隷として待遇されてはいないことである。女の地位が、キリスト教教義の影響下にある諸国におけると同様な高さではないことは確かだが、日本の母、妻、娘は、中国の女のように家畜でも家内奴隷でもなく、トルコのハーレムにおける女のように浮気な淫楽のために買い入れられたものでもない。一夫多妻制が存在しないという事実は、日本があらゆる東洋諸国民のうちで、最も道徳的であり、洗練されている国民であるという勝れた特性を現す著しい特徴である。この恥ずべき習慣がないことは、単に婦人の優れた性質のうちに現れているばかりでなく、家庭内の道徳が大いに一般化しているという当然の結果の中にも現れている。
既婚女性が常に厭わしい歯黒をしていることを除けば、日本女性の容姿は悪くない。若い娘はよい姿をして、どちらかといえば美しく、立ち振る舞いは大いに活発であり、自主的である。それは、彼女たちが比較的高い尊敬を受けているために生ずる品位の自覚から来るものである。日常相互の友人同士、家族同士の交際には、女性も加わるのであって、相互の訪問、茶会は、合衆国におけると同じように日本でも盛んに行われている。
提督とその一行の面前に平伏した女たちのとった態度は、彼女たちが隷属的であるという証拠ではなく、むしろ外国人に対する尊敬のしるしと考えるべきだろう。日本の大きな町々や都会には、大いに淫楽が行われているものと当然想像される、なぜならばこのようなことは、不幸にも、すべての大都会における普遍的な法則だからである。しかし、日本女性の名誉のために言わなければならないことは、艦隊が江戸湾にある間、時々、種々の海員たちと女性たちが交渉を持ったときにも、普通の放逸淫蕩なようすが少しもなかったのである。
スポーツ仲裁裁判所(CAS)は1日、五輪の陸上女子800メートルで金メダルを獲得したキャスター・セメンヤ(28、南アフリカ)の、男性ホルモンの値の高い女子選手の出場資格を制限する新規定撤回を求める訴えを退けた。
第1に、(おそらく)スポーツの世界で男女を分けることは差別ではないということ。
男女平等が重要な価値とされている現代で、なぜスポーツだけは男女が競わないのか。いうまでもなく男女の間に無視できない生まれながらの体力の差があるからです。上半身の強さに関して女性と男性の差は標準偏差が3です。つまり街で1000人の男性を無作為抽出した場合、998人は平均的な女性よりも強い上半身を持っています。平均的な男性の上半身の筋力は女性よりも80%多く、足の筋肉量の差は50%です。男性は女性よりも脂肪が少なく、骨密度が高く、持久力や痛みに耐えるために重要な赤血球も多い。女性は男性よりも骨盤の幅が広いため、脚の付け根から膝までの角度が男性よりも大きくなります。そのため走ったりジャンプしたりする場合に使われるエネルギーが地面に垂直に伝わらず、前進、上昇のためのエネルギー効率が悪くなります。男女差は上半身を使った競技、瞬発力を要する競技で大きく、それ以外ではより小さい傾向があります。具体的にいうと格闘技、投擲系で極めて大きく、跳躍系で大きく、走る競技でより小さく(なお走る競技は20メートル以上なら瞬発力のみではダメです)、もっとも小さな競技は長距離の競泳です(ある程度の脂肪が浮力の点で、丸みのある身体が抵抗の点で、広い骨盤が接水面積の点で、多少のアドバンテージになっているのでしょう。)。ハンマー投げの世界記録の男女差はハンマーの重量を考慮すると51%差がありますが、走り幅跳びでは19%、ほとんどのランニング種目で11%、水泳800メートル自由形では6%です。世界のトップ女性アスリートでも、記録はおおむね日本の中学男子のトップクラスと同レベルです。吉田沙保里も男子高校生と対戦したらあっという間にフォール負けでしょう。「そもそもスポーツで男女をわけること自体が差別である」という意見もあるのかも知れませんが、もしも男女でわけなければ、およそ半分の人は、女性として生まれた瞬間にアスリートになる道を事実上絶たれることになります。
第2に、テストステロンには明確な男女差があり、かつテストステロンの値がスポーツのパフォーマンスに影響を与えるということ。
95%が睾丸で作られるテストステロンのレベルは連続スペクトルにならず、女性が分泌するテストステロンは血液1デシベルリットルあたり75ナノグラム以下で、男性は240から1200ナノグラム(つまり男性の下限値は女性の上限値よりも200%以上も高い)、例外的に副腎等から高レベルのテストステロンを分泌している女性トップアスリートでもそのレベルは一般男性の下限に達しない程度であるとされています。また、スポーツのパフォーマンスの複雑さゆえにテストステロンがアスリートに与える影響を正確に説明できる科学者はいないものの、テストステロン値が影響を与えること自体はおそらく確実です。テストステロンレベルを下げて身体を女性に変えるホルモン療法を始めたアスリートのパフォーマンスが短期間で急激に落ちることが確認されています。テストステロンの人為的な投与は、典型的なドーピングの一種です。
第3に、第1、第2とやや矛盾するが、男女の差は実は相対的なものであるということ。
受精の際に性染色体がXYとなるかXXとなるか。XYなら男性、XXなら女性だが、これは遺伝的な性であって、性別はそれだけでは決まりません。胎齢4~5週で性腺が卵巣になるか精巣になるか。Y染色体があってもSRY遺伝子がなければ、あっても働かなければ卵巣が作られるし、Y染色体がなくても遺伝情報の特殊性で精巣が作られる場合がある。胎齢6~7週でミュラー管が卵管や子宮、膣になるか、ウォルフ管が精管、精嚢、前立腺になるか。精巣が作られてもミュラー管抑制因子がなければ子宮や膣が作られるし、テストステロンの分泌がなければウォルフ管が精管や精嚢に発展しない。外性器が陰核や陰唇、陰茎や陰嚢のどちらになるか。胎齢8週間まではどちらにも分化できるが、テストステロンが働かなければ陰茎や陰嚢は作られない。脳の性中枢がどちらになるか。胎生90日頃までテストステロンが少ないと視床下部は女性と認識する。それ以前の過程が女性でもテストステロンが過剰であれば男性と認識する。すべての過程で「男並みに」テストステロンが分泌されていてもアンドロゲン不応症ならそれが性分化のために働かない。さらに生まれてから男の子として育てられるのか、女の子として育てられるのか。親の教育方針や環境の問題ですね。男性と女性は確かに違うけど、偶然に左右されつつ、これだけ複雑な過程を経て分化していく。「女子と男子は違う」「テストステロン値は連続にならない」のは事実だけど、それだけで男女の差が説明できるものではないし、そもそも男女の差はそれ自体が相対的なものに過ぎないとも言える。だから「トランスジェンダー」と呼ばれる人がいるわけです。
第4に、これまた第1、第2の点を混ぜっ返すことになるが、生まれもった素質によりある種の公平さが失われるというのであれば、スポーツは多かれ少なかれそういうものであるということ。
女子であっても身長が180㎝以上に伸びなければリベロになる場合を除き世界的なバレーボール選手としての未来はほぼなくなります。陸上トラック競技も五輪や世陸の決勝のスタートラインをみれば、ほとんどの種目で人種的な特質が程度の差こそあれ影響しているのは否定できません。モンゴロイドがトラック種目で金メダルを取るのは不可能とまでは言えないけれども相当に難しいでしょう。将来にわたってピグミー出身のNBA選手は生まれそうにない。さらに障がいがあればほとんどの競技で障がいのない人とは競えません。
以上すべてを踏まえて、今度のCASの決定をどうとらえるか。そもそもIAAFは正面切って「セメンヤ選手を標的にした」とは公言しないが、「400メートルから1マイルまでの距離」というターゲットからは、800メートルで「絶対女王」に君臨し、最近は1500メートルにも進出してきた彼女を想定していることは誰の目にも明らかなので、彼女を例に考えてみます。
一部の報道が正しければ、セメンヤ選手は、遺伝子はXXで、膣があるが、卵巣と子宮を持たずに精巣を持ち、通常の女性の3倍-平均的な男性の下限レベル-のテストステロンを分泌し、パートナーは女性です。彼女の持って生まれた一般の女性と異なる「男性に近い」特質が、競技者としてのアドバンテージになっていることはほぼ確実で、勝利をめざして彼女と競う他の競技者が不公平感を覚えるのは、理解できます。かつて彼女と競うことに不満を漏らした選手は世間から強い批判を受けましたが、例えばセメンヤ選手が、陸上800mの選手ではなく、ボクシングやMMAの選手だったらどうでしょう。同じ体重であっても圧倒的な体格を持つ女性が、典型的な女性選手を滅多打ちにしてノックアウトする凄惨なシーンが展開されればどうでしょう。強い選手だと喝采するどころか、感情的にはなかなか受け入れられない部分があると思います。
しかしながら、上記のとおり、生まれもった素質によりある種の公平さが失われるというのであれば、スポーツは多かれ少なかれそういうものです。とすると、いずれの性に分類するかの前に-セメンヤ選手はもしも男子の競技に参加すれば五輪の参加標準に遠く及びません。日本の高校生に混じってインターハイの決勝に残れるかどうか微妙、というレベルです-セメンヤ選手のみが生来の体質ゆえに希望する競技に参加できないというのは避けなければなりません。
スポーツは勝負事です。勝利を、記録の向上をめざさないスポーツは、スポーツの重要部分を欠いています。だがスポーツには公平さという価値があります。勝ちさえすればよい、記録がよければよいといわんばかりに、競争における公平な条件を無視する人も、優れたアスリートではありません。そしてスポーツは社会的な存在です。勝負と記録にこだわり、競技における公平さを追及するあまり、プライバシーの尊重や人種差別の禁止、個人の尊厳といった社会で認められた価値を軽視し、限られた人にのみ開かれ、あるいは一部の人の人権を傷つけるのも、正しいスポーツのあり方ではない。
ジャッキー・ロビンソンが人種の壁を打ち破る前のMLBのように、かつてスポーツには有色人種を閉め出した時代がありました。特定の種目について女子ゆえに参加を禁止された時代がありました。でも現在はこういう扱いはありえません。「黒人と競わされるなんて不公平だ」「女はこの競技をするな」などという発言は許されない。セメンヤ選手のような事例をどう受け入れていくのか、競技団体のみの判断ではなく、社会が彼女のような人をどう受け入れていくのかという問題として考えなければならない。
いろいろ考えるべきことは尽きないし、悩ましい問題で、今後考えが変わらないとも断言できないのですが、私はやはりセメンヤ選手は「女」として競技に参加すべきと思います。それは人は持って生まれた資質に規定されつつ自認する「性」で自己実現を図るべき権利があり、その権利を尊重することは、個人の尊厳としてこの社会においてもっとも重要な原理だからです。IAAFの決定、CASの裁定には賛成できません。
codingalone 良いまとめをありがとうございます。過渡期って感じあるよね
ありがとうございます。陸上中距離大好き、女子陸上も大好きのヘテロ男性です。自分も10年前なら鼻で笑っていたかも知れません。今でも悩んでいます。
追記2
「これは世界に喚起を促すための闘いで、競技やスポーツの枠を超えたもの。人間の尊厳と誇りの問題で、世界に喚起を促すためにやるべきこと」
市井の人間のたわ言なので軽く読んでほしい。
昨今世の中を騒がせている#metooにまつわる女性らと大体同じ世代で、20~30代。
おそらく同じような感性で、同じような考えを持って生きてきたはずだ。
ただ、いつも思うのだ。
彼女らの主張が代表しているはずの「女」に、私は含まれているのか?
ただ「生物学上の女性性」という意味ではないことは理解している。
性被害に遭いやすく、女性というだけで正当な評価を得られなかったりする。
女の全てを平均化した、一般的女性像(そんなものがあればだが)は
話は変わるが、「レンタルなんもしない人」が、女性にはつとまらなかったりつとまったり、
「女性は女という特質上、レンタルなんもしない人は務まらない」という内容だった。
性被害に遭いやすいし、性的なサービスを求められやすいし、危険。
ツイートを発信した女性も、そういう一般的女性像にあてはまる人なのかもしれない。
例えば、平均的な男よりも断然強い肉体を持っている女。
例えば、顔や体的に全く女性としての魅力がない人(本当にそうかはわからないけれど)。
例えば、乳房も膣も無い女。
そういう人たちは「レンタルなんもしない人」本当にできませんか?
一切想起しなかったのではないですか?
私は上の例には当てはまらないけれど、
正直に言って、物凄く女性的魅力が無い。
男性から言い寄られたこともなく、言い寄ると向こうから強くお断りされてしまう人間だ。
もちろんmetooで糾弾されているようなセクハラも受けたことが無く、
おそらく見た目のせいで職にあぶれたことはある。
だから私も、なにもしないだけなら、女性であっても務まるのではないかと思っている。
そう思ったときに感じるのは、じゃあ私は何なのかということだ。
生物学上は女性。でも、ネット上の自称フェミが語る「女」からは疎外されている。
「移民」「黒人」「高齢者」etc.を政治の俎上にあげるのと同様に
ただ、フェミニズムの根幹は、弱者が弱者のまま価値を認められるということにあるのではないか。
フェミニズムの内部で、平均ではない女性を(弱者ではないかもしれないが)無視して
私たち「女」を語るときに、一般的女性像にあてはまる女を語るのではなく
平均化していないすべての「女」の存在も
心のどこかに感じていてほしい。
私たち「女」は、という語り口で持論を述べ始める前に、
自分が「女」と女性を切り分けることで、そこから漏れてしまっている人、
ちょっと立ち止まって考えてみてほしい。
ブサイクのたわ言だとか、性的被害に遭ったことのない幸せな人間の言えることだとか
そんな風に思われるかもしれないけれど。
聞きかじった話ではあるが、昔は人間と対峙するのは動物だったので、理性的な言動が人間らしさだと思われていたらしい。
しかし今は人間と対峙するのはコンピュータなので、感情的な言動をすることが人間らしさだと思われているのだと。
では、今後人間の感情を模するアンドロイドが現れたとしたら、その時は何が人間らしさだと思われるのだろうか?
これは思ったよりも深刻な設題で、人間が定義できなくなったとき、人間だけが作り暮らすコミュニティは崩壊するのだ。当然、今当たり前だと思われている人権の概念も瓦解する。
人間らしさとは何か?
他の個体がストレス感じているとストレスを感じるのが標準的哺乳類やぞ
そこに理由は要らない
それを放棄しているのは、非・哺乳類か、超ストレス状態か、宗教の人か、サイコパス やで
▼「誰かを助ける」のに理由はいらない(哺乳類なら):シカゴ大学 研究結果
ラットは閉じ込められた仲間を見ると、その仲間に共感し、助け出そうとする。しかし、抗不安薬が投与されストレスを感じにくくなるとこの行動が見られなくなる、という研究結果が発表された。
「閉じ込められた仲間を助けるには、仲間と同じ気持ちになる必要があります。これはわたしたち人間の行動を思い起こさせる結果でした。わたしたちも、ラットと同じ哺乳類なのです」とメイソン教授は語っている。
「誰かを助けると、通常はいい気分になります。他者を助けることは、いわば一種の麻薬のようなものなのです」とメイソン教授は言う。「これは、おそらく進化の過程で獲得した哺乳類の特質なのでしょう。互いを助けることは、種の繁栄にもつながるのです」
■マウスに『共感』能力 (川崎福祉大学)
https://k.kawasaki-m.ac.jp/data/2473/media_dtl/
■ やさしいさや共感性に関する遺伝子も一部特定
極端に社交的なイヌでは、GTF2IとGTF2IRD1という2つの遺伝子に変異があることが明らかになった。一方ヒトでは、これらの遺伝子の変異は、妖精のような独特な顔つきや人懐っこさなどを特徴とする「ウィリアムズ症候群」と関連づけられている
anond:20190102214121 anond:20190129095639 anond:20190129112240 anond:20200208181649
なんか重たい話を見た
世の中は悪意では出来ていないよとだけ言える
▼「誰かを助ける」のに理由はいらない(哺乳類なら):研究結果
ラットは閉じ込められた仲間を見ると、その仲間に共感し、助け出そうとする。しかし、抗不安薬が投与されストレスを感じにくくなるとこの行動が見られなくなる、という研究結果が発表された。
「閉じ込められた仲間を助けるには、仲間と同じ気持ちになる必要があります。これはわたしたち人間の行動を思い起こさせる結果でした。わたしたちも、ラットと同じ哺乳類なのです」とメイソン教授は語っている。
「誰かを助けると、通常はいい気分になります。他者を助けることは、いわば一種の麻薬のようなものなのです」とメイソン教授は言う。「これは、おそらく進化の過程で獲得した哺乳類の特質なのでしょう。互いを助けることは、種の繁栄にもつながるのです」
ごく簡単にいうと、教育勅語は、「帝国憲法」によって形作られた近代法治国家を、
井上毅という。だから井上毅の目論見を考えないと教育勅語の本質なんて分かるわけないのだが、
だから、「現代にも通じる要素がある」とか、どうでもいい表面的な理解しかできなくなる。
当時の御用学者の多くは、「克ク忠ニ克ク孝ニ」だといっている。
忠孝一致、つまり天皇に使えることと、親に仕えることに「全く」矛盾はない。
これぞ万世一系の日本のみの特質、中国にも西欧にも日本が優れる所以だ、という主張になる。
わかっていってるならいいよ。それを、
「教育勅語は友達を大事にしろってかいてあるから、今も使える」とか
会社にて、
私(男)の隣のデスクにいる先輩(男)の電話の受話器を取る=触る事が(耳につける事が特に)嫌でしょうがない。
なぜ隣のデスクの電話を取らないかといけないかというと、内線の所為。
その先輩は担当業務の特質上、外出はしないが社内を回って、周囲の人間とコミュニケーションをとらないといけないので、席を外していることが頻繁にあります。
その為その先輩宛の電話がかかってきた場合席を外していて出れないということが多々あります。
つまり
その先輩宛の電話がかかってくる→誰かがとる→その先輩宛に内線がくる→私が代わりにとって離席している旨を伝える
他人が耳につけた受話器を自分の耳につけることが嫌でしょうがない。
(その先輩が嫌いというわけでは全くありません、寧ろいろいろ教えてくれるいい先輩です)
最初は内線掛かってきていてもスルーしていたのですが、周囲の人間に「~さん(その先輩)がいないときは内線取ってね」と強めに注意されたので、取らないわけにはいかない。
憂鬱です。
小さい時から、説明のつかないことは言わない。泣きわめいたりしない。という特質があった。
自分のstatusとしてすべて言語で説明してたらしいし、家族もそれを無意識に、私に求めていた(ちょっと事情があって)
結果。3歳でノイローゼになり、1年、家族からも完全隔離されて、ひとりで過ごした。
感情や思考がロックアップした結果、食がとれなくなり、眠らなくなり、内臓器官的にも自己消化まで起きたりしていた。
全身で、生きるのを拒否、この世から自分を消し去ろうと、身体のシステムが全力で突っ走っていった。
無感覚の生活に閉じ込め、自爆しようとする全細胞が沈静化するのを待つしかなかった。
その後も自分では解らないこと・説明できないことは、その場の文脈から推測して「説明」していた。
「説明」は状況に矛盾しないため、受け入れられやすかったが、実感には裏付けされてなかった。
そうして、自分の感情・感覚と言語野が、どんどん乖離して行き、自分で自分が信じられなくなる。
理由なく湧き上がる感情、そういったものを発現させることができないまま、進む。
演奏してる時間だけは、何かが一致している、と感じることが出来た。
こうしてさらに、社会性のない人格になっていくが、音楽で出会った人が、それに気づいて、深みにいる私を取り出した。
「お前は、お前の思っていることを、何一つ話していない」
以降15年以上をかけて、社会へ適応する訓練を続けて今に至る。
それがなかったら、とっくに、社会からログアウトしてただろうなーと思う。
賢い娘さんが、2歳をこえたあたりで、苦しんでいる。
ご両親も大変かしこいため…賢さの陰に、こんな可能性があるのを知らないな、と思う。
自分のあまりに個人的な事のため、これを「説明」として話すことが私にはまだ出来ない。