はてなキーワード: リリー・フランキーとは
女の為に努力するのが嫌いなオタクさんは女は強引にデカチンはめれば言いなりになると妄想してるけど
現実に女食ったり貢いでもらえるのは吉田岡田リリー・フランキーみたいなどしたん話聞こうかねっとりクンニおじさんや三億円いただきおじさんみたいにひたすら女を持ち上げて褒める男だからね
@yukitichqn
名古屋の3億円結婚詐欺の頂き男子、江尻容疑者(51歳)が作った女を騙すマニュアルだって‼️‼️‼️
○写真を貰った時に綺麗じゃなかったらパーツを褒める
○興味がなくてもたくさん聞く
○コンプレックスを褒める
〈名古屋・3億円結婚詐欺〉「結婚するから避妊しないでいいでしょ?」15人の女を手玉にとった刺青男のゲスすぎる色恋ノウハウ「キレイじゃなければパーツを褒める」 | 集英社オンライン
女だと「おばさんやブスは人気がない」と言われてもそうですねで終わる
男は医者や東大卒より遥かに少ない最大手事務所(旧ジャニーズ)の有名グループのメンバー他全国区の知名度の有名人や芸能人を根拠に「チビはモテる、おっさんはモテる」とわめき続ける
あれだけ金で色恋や身体を売る女を憎悪してるのに「金さえあればいくらでも女は手に入る」と強がる
性加害騒動前の一強ゴリ押しジャニーズでも170cm未満のタレントをヒット作多数の主演スターにできなかった現実を認められず、稲葉(学生時代の身体設定で171cm)やキムタクといった170cm台の大物を165cm認定し「165cmホビットでもイケメンで厚底靴履けば芸能界で覇権を穫れる」を連呼する
川島なお美、中川翔子、荻野目慶子、菊池桃子、山本リンダなど女の芸能人も子供産めないおばさんになっても上級男性と結婚してるくらい、芸能人という看板は特殊だが
女は男のように芸能人を例に挙げて「おばさんでもモテる」と主張しない
女は推し活やペットなどの趣味で満足する上に、夫と息子と推し以外の男に路傍の石並に無関心、未婚売れ残りおっさんそのものを視界に入れない
そして女は初対面の知らない男を避ける本能故に、世間的な知名度や地位で男を評価する
しかし男は独身の女を見ただけで「高慢で身の程知らずで高望みして売れ残った嫌われ者の鼻摘み者女、必ず悲惨な末路を遂げる」と言う物語を創作して糾弾せずにはいられない
「結婚や出産の義務を果たさない女は守る必要がない」「孤独な男性を救済しないと無差別テロを起こす」との脅迫は日所茶飯事
知らない女相手でも射精できるので風俗やポルノ産業が盛ん、顔すら見えない盗撮動画が無数に溢れ返る
リアルでも窓口やレジの知らない女にしつこく話しかけてうきまとう、電車内でも知らない女相手にトナラーするのは男
vtuber相手はもちろん、女の多いコミュニティや話題に潜り込んでエロネタセクハラネタ連呼したり、貧乳いじり、BBAいじり、独身いじり
果ては金持ちの男からも需要のある美人に対して「すっぴん陸上部JKの方が需要がある、地味ブス巨乳の方が需要がある」
風俗、水商売、AV、グラビアなど性的サービス業の経験のある女も「男に何をされても仕方がない誰からも信用できない人間のクズ」呼ばわり(もちろん男は孤独耐性がないので、得体のしれない不美人な売春婦に純愛や結婚をちらつかされただけで大金を貢いでしまう)
皆に嫌われてコミュニティから疎外されていじめられても誰にも助けてもらえなかった過去を持つゆえに「逆ギレしてパワハラやイジメ加害者を半殺しにした、暴れまくって周囲を巻き添えにして迷惑をかけた」という嘘松武勇伝を好み、低スペック男性や高齢未婚非モテ男性を選ばずアプローチを断る女を見るだけで逆切れして大挙して攻撃し同接30人のたぬかな配信を燃やすようなのは例外なく男だが、権力側の不祥事を指摘したり男からの誹謗中傷加害に反論・抗議する女を「ヒステリー」と揶揄(蓮舫ら野党の女性議員がいい例
男のように猥褻などの不祥事やトラブルを起こさず黙々と安い給料で福祉や医療分野を始めとしたソーシャルワーカーを担うのは女だが「女は楽な事務仕事ばかりしたがり、重労働を男押し付ける怠け者」と断罪
女と見ると手当たり次第、「男より劣った価値のない愚かな女」を一喝する疑似亭主関白仕草を行い女の反応を引き出したがる
夫の介護を業者に任せても残る額の遺産と優秀かつ面倒見のいい子供が残るのならいいが、大半は不可能
夫の介護で疲弊して金のない老婆と自分の生活で手いっぱいの子供が残る
異性への執着に男女差があるのも、男と違い女が異性をパーツではなく社会的地位で選ぶのも当然
リリー・フランキーが女の陰毛についてるティッシュカスをこれまでトイレットペーパー1本分は食べたと言ってた
女にクンニしてマンカス食べるくらい奉仕できるからこそあの顔と薄毛、わけのわからないエロ本ライター・イラストレーター上がりがこれだけ無数の女を食えるわけで
一方で黒人のようにデカいサイズはAV撮影現場でも嬢の膣が裂ける事故を度々起こしている
女がホモ並みに男のチンポと快楽に固執してるのなら発展場やアプリでアポ取ってサイズを確認してそこら中で乱れてるはずだし、出会い系や女向け風俗でも他のスペックよりチンポサイズを強調し、女向けの盗撮動画が商売になるはずだがそんな気配は微塵もない
マッチング率や成婚率は身長や収入と比例、音楽エンタメ芸人YouTuberなど、有名になると女が群がる
Q.ファーストコンタクトを扱った映画を列挙して。
A.ファーストコンタクトを扱った映画は、SFジャンルの代表的なテーマの一つです。以下にいくつかの例を挙げてみます。
「2001年宇宙の旅」(1968年) - スタンリー・キューブリック監督の名作で、異星人とのファーストコンタクトを扱ったSF映画の代表格として知られています。
「E.T.」(1982年)- スティーブン・スピルバーグ監督の名作で、地球外生命体と少年エリオットとの交流を描いたヒット作です。
「コンタクト」(1997年)- ジョディ・フォスター主演のSF映画で、異星人とのファーストコンタクトを扱った作品です。
「インデペンデンス・デイ」(1996年)- ローランド・エメリッヒ監督のヒット作で、地球外生命体の襲来と人類との戦いを描いた映画です。
「ワープロ」(1999年)- アキラ・クロサワ監督の作品で、異星人とのファーストコンタクトを通じて人間の心理を描いた映画です。
「アライバル」(2016年)- ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品で、謎の異星船が地球に降り立ったことから始まる、異星人とのファーストコンタクトを描いた映画です。
これらは、ファーストコンタクトを扱った映画の中でも代表的なものの一部です。
A.「ワープロ」は、1999年に公開された日本のSF映画です。監督は黒沢明(クレジットは「アキラ・クロサワ」として表記)で、主演は松隆子とリリー・フランキーが務めています。
この映画は、異星人とのファーストコンタクトを描いたSF作品で、異星人が送ってきた謎の文字を解読するため、主人公の女性研究者が「ワープロ」を使って翻訳を進めていくというストーリーです。
映画は、SF映画としては珍しく、異星人との接触シーンがなく、翻訳作業に主眼が置かれています。また、黒沢明監督の晩年作品であり、映像や音響に重厚なものが多く、哲学的な要素も含まれています。
コロナ禍で公開を約1年程度延期してたので、その「あなたは騙される!」系の予告編を結構見ることになったけど、
見終わった後に「いや、別に1年も公開延期しなくても…」と思う出来だったのが残念。
目当ては監督だったのだが前作も個人的に微妙だったし、数年前の映画で一気に貯まった「この監督は信頼できる!」という信頼度の貯金がそろそろ底を尽きた気がした。
いや、映画が面白くないというよりも、ただただ無難な作品になってしまったという意味では、前作よりもさらにダメな傾向なのでは…。
以下、気になった点。
・キャスティングの時点で、あいつがキーパーソンになるのが丸わかりなのはどうかと思う
・リリー・フランキー出しとけば何とかなるってのは安易すぎでは
・色々山場を作ろうとして、後半はどこがクライマックスなのかよくわからない盛り上がり方
・ところで騙しあいバトルってありましたっけ?
・衝撃の結末とは…?
◇
コロナ禍を言い訳に何ヶ月も先送りしている仕事があるので毎回びくびくしてる。
今回も何も指摘されずセーフ。
でも、そのやさしさが怖い。
とか考えだすと発作的に死にてーとなるので、脳を使わずにできる作業の、議事録作成とメール返信と請求書対応をして、あれ眠いじゃんと思って、ベッドに入る。
何かの弾みでpornhubを見てしまい、抜いてしまい、YouTubeでドラクエRTAを見ながら、気づいたら寝てる。
は、やばいお昼やん。
手作りカレーを食べ、さすがに飽きたぜ(ごぼうが入ってるから腸に良い。超腸活!)と思いながら、またベッドに戻って、2ちゃんねるまとめを見ていたら、北野のぞみがAV史上で一番かわいいといった内容の記事を読んで、おお、だよねだよねと思って、画像を見ているうちに気分が上がってしまい、FANZAを起動。また抜いてしまい、疲れて寝る。バカ野郎。
起きて2時。
あぶねえ。1時間のロスで済んだ。
強気のノーメイク写真で、女性にしては少なめの2桁前半いいね数の方から。
「日曜に会えるのを楽しみにしてるね。いま私は夢に向かってがんばってる」といった内容に、ちょっとピクリとなる。
アラフォーで無職の女が夢に向かってがんばるなんて、そんな社会は未来が明るい(時を戻そう)。
年とってからはやさしい男がモテるってしかばねみたいな面した俳優(リリー・フランキーとかいう)が言ってたし、俺はやさしさで世界を包みたい。
やっばーい、ぜんぜん仕事してなーい。
死にたーい。
ようやく、心の重荷になっている原稿のデータを開き、ゲロを吐きそうになり、そっとじ。
コンビニにモンスターを買いに走り、一気飲みして、おっしゃー仕事片付けてやんぜと気合いを入れて読んでみるが、まあひどい。
この原稿を書いたくそM氏に対するくそ罵詈雑言を口にして(幼卒かよくそとか)、疲れて、YouTubeでサンドリの違法アップロード放送を聞く。
もう中って、有吉みたいなボケまくるタイプの人と相性が良いみたいだ。
マンガ『ボボボーボ・ボーボボ』の世界のようで、終始意味のわからないボケとボケの応酬。
めっちゃくちゃ笑った。
「無人島に何か一つ持っていくとしたら?」に対するもう中の答え「おがくず」は天才の域だと思う。
腹減った。
もう気合い入れるために、今日はピザだ、ピザ食ったろと、ピザハットで注文。
キーマカレーの辛いの。
食べたらうまかったが、それで気合いが入るかどうかは別で、結局ほとんど仕事せず。
夜。
おーい、自己嫌悪で死にそうだよー。
殺せー殺せーという気分になりつつも、まあ、土日がんばって休日返上で仕事すりゃよくね?
と思い直して、ワインなんか飲んじゃって今に至る。
◇
さすがにダレてきた。
言い訳じゃないが、4~6月はめちゃくちゃ働いてた。
7月で緊張の糸が切れた。
8月ずっとこんな日々を送ってる。
お互いの気持ちを曇らせるために。
いろいろなものを捨てた。電話番号も写真ももらった手縫いのマフラーも。
ただ彼女のためにつくったSNSのアカウントだけは最後に残った。
開くまいと思いながら、数か月に一度、開いてしまう。
溢れるばかりのメッセージが目に飛び込む。
やがて彼女のメッセージの頻度は減っていった。そして返信もやめた。
あれから7年になる。
元気?
たったそれだけだ。恐らく彼女は、ときおりオンラインになっている俺をみつけては、
ひたすら返信を待ち、オフラインになって三日、一週間と経つのを眺めているんだろう。
俺が彼女にとって最後の男になってしまっているのだとすれば本当に切ないことだ。
しかし、俺にとってもまた、セックスが特別なものになってしまっていることにうすうす気が付いていた。
見つめ合い、肩を抱き合うだけで浮遊する感覚になった。
彼女と長い時間かけて重ねた唇、時には激しく駅弁スタイルでしたときの滑る汗、あの日々を上回るセックスはもう人生で経験することはできないだろう。
その通りだった。
村西が愛した黒木香は今、一体どこで何をしているんだろう。
NETFLIXの「全裸監督」で描かれた黒木香は、虚実交えているだろうが、
ものすごいリアリティがあった。黒木の母親役を演じた小雪の存在感も鳥肌ものだ。
・・せっかくしんみりとしたことを書こうと思っていたのに、だんだんズレてきた。
駅弁といえば。。
「全裸監督」は、今少しずつさまざなまレビューが出てきているが、
近年まれにみる傑作だ。
あの同世代を一歩遅れて歩んできた俺は、社会に出たときにはすでにバブルは崩壊していた。
学生の頃に、友人が苦労して入手した流出裏ビデオがどういう経緯で世に出ていたのか、ドラマでは虚実交えて克明に描いていた。
また、ビデ倫の仕掛け、ヤクザの関わり方を生々しく描いており、80年代のアダルトビデオの黎明期をここまでねちっこく映像化した作品は今まで存在しなかっただろう。
当時、やたらとモザイクが濃いものと薄消しのものがあって、なぜなのか、疑問にすら思わなかったが、「全裸監督」には、その答えが暗示されていた。
また、この作品で再現された、当時の歌舞伎町の舞台セットが素晴らしい。
とりわけ、村西率いる「サファイア映像」のスタッフ軍団が集うスタジオが興味深い。
スタジオの前に目に入ってくる、カレーの店タバサの看板。大量に麺類をつくっては、中華の回転円卓を囲んでスタッフ全員で豪快に食らうシーン。てんこ盛りのポテトサラダ。実にセンスがある。
昭和と平成のはざまの昭和63年暮れから昭和64年1月の冬の雰囲気。
当時、警視庁がわいせつ物の取り締まりを強化する流れに大きく動いていた。
日々の天皇の病状の深刻化が取り締まり強化の動機付けとして、象徴的に語られているのが技巧的だ。
彼は業界の大物を通じて、すでにヤクザとズブズブになっていたが、警察幹部からは、ガサ入れの方針が打ち出される。
一方、黒木香は、こうして業界の闇が描かれながらも、後方馬群でひっそりと控えている差し馬のような存在感で、ドラマ前半で静かに描かれていた。
横浜国大に在学していた彼女は、イタリア留学を夢見ながら、母親から抑圧された存在として、じわりじわりとエネルギーをためてゆく。
この見せ方も圧巻だ。村西とおるへの思いがあって、あのパフォーマンスが生まれた、というのは、このドラマの村西と黒木に対する解釈であって、本当のところはわからない。
しかし、村西と黒木の関係を物語るものとして、ものすごい説得力を感じた。セックスは一期一会といった村上の原点がここにあるんだろう。
ガチンコのセックスに対するこだわりは、売れるからという動機を覆い隠してしまうほどに、リアリズムへの情熱であふれている。
疲れた、、
あとは寝てまた朝満員電車に押しつぶされる
その繰り返し
なぜこうなったのだろう?
なぜこれを選んだのだろう?
わざわざ東京に来てプライベートな時間を捨てて働いているのか?
俺の幸せって?
コンビニ飯に毒される体と
また歳だけ食う
問うても問いきれない後悔と自責に追われながら眠りにつく
ヨレヨレのスーツを着て
彼女もおらず
なんのために生まれて
なにをして喜ぶかもなく
日々に追い詰められる
これを読んだブクマカ達は
趣味を持て
彼女作れ
外にでろ
本を読め
とか書くんだろ?
わかってるさ
、、っていうしがないサラリーマンのドラマを神木隆之介主演で観たい
、
まー、ベタに体を入れ替えて「101回目の東京ラブストーリー 〜君の名は〜」というタイトルでね。
ラスボスはシュワルツェネッガーで未来から来た設定。
永野芽郁がやられてスーパー地球人に覚醒した神木くんなんだけど最終的にシュワちゃん連れて火星に瞬間移動して一緒に爆発するのね。
星になった神木くんを小松菜奈が見上げて泣くと、会社の社長のリリー・フランキーが「僕は死にましぇん!!」ってプロポーズするんだけど、ギフハフが突然来てリリー・フランキーをさらっちゃうんだよね。
小松菜奈ポカーンなんだけど、そこに彗星が落ちてきて〜fin say yes we can〜
でいんじゃね?
「ホンモノの親なら子供を見捨てない」
「ホンモノの親になることに憧れていたんでしょう?」
カンヌで最高の賞(パルムドール)を約20年ぶりに獲得した邦画「万引き家族」では、警察によってこんな言葉が次々と主人公たちに投げかけられる。つまり、主人公たちが身を寄せ合って創り上げた家族は、血縁関係を持たないゆえに“ニセモノ”であり、紐帯の根底に打算的なものを含んでいるから、ちょっとした圧力ですぐに瓦解するのは当然、というわけだ。
杓子定規に主人公たちを攻め立てる警察はとても憎たらしく描かれており、観客は「お前ら警察が一体何を知っているんだ」とイラッとさせられる。だが、一方で我々は日常生活において、“ホンモノの家族”という思い込みに囚われている。
実は、現代のわれわれが当たり前に持つ家族のイメージ像は近代的な産物だ。例えば、E・バダンテールの著作「母性という神話」では、17~18世紀のフランスにおいて、子供の大半が産まれてすぐに里子に出され乳母に育てられる風潮があったことが示され、“母性愛”という概念が人類史において常に家族間に君臨してきたわけではないことが明らかにされる。統計によれば、同時代に毎年パリで洗礼を受ける新生児2万人のうち、約7千人が捨て子であった。日本でも一昔前の農村を思い出せば分かるだろう。子供は「小さな大人」であり、安価な労働力に過ぎなかったのだ。
歴史を遡ると、「血縁関係があるのだから、自分を犠牲にしてでも、親は無償の愛を子供に授けて当然」という考え方は、ここ100~200年特有の理念に過ぎない。ざっくばらんに言ってしまえば、家族という概念が「血の繋がりを契機として、様々な世代が身を寄せ合って互いに助け合うべき存在」から、「血が繋がっている以上は、無償の愛で繋がり合うべき存在」へと変化したのである。
言うまでもなく、現代に生きる以上、誰だって愛のない親より慈愛に満ちた親になりたいし、子供をこき使う親など御免こうむりたい。しかし、「打算抜きで、無償の愛で繋がり合う家族こそがホンモノだ」というとき、我々は家族に対して、実際にはありえそうもない“完璧さ”を要求している。
完璧さを家族に要求する社会は、その基準を満たさない親を徹底的に許さない。さいきん東京・目黒で起きた5歳女児の虐待死に対する、社会のいささかヒステリックじみた反応は、その証左と言えるだろう。もちろん、こうした社会の過剰反応で救われる子供もいるし、未然に防がれる悲劇もある。
しかし、そうした社会は同時に、血縁関係によって成り立っている家族こそを“ホンモノ”とするがゆえに「血の繋がった親が実の子供に愛を抱かないはずがない。なぜなら、親は無条件に子供を愛する存在だからだ」という循環論法的な前提に拠っている。残念ながら、これが近代特有の“神話”であることは、すでに述べたとおりだ。先に挙げた目黒の事件でも、日本特有の親権の強さが問題になったが、「ホンモノの家族」への神聖視と親権の強さは無関係でないはずだ。
「万引き家族」でもやはり、虐待から逃れニセモノの家族の元で幸せな時間を送っていた子供は、最終的に虐待を行っていた実親のもとへと返される。ホンモノの親は、ニセモノの親と違って“愛”を持っているはずだ、という社会の思い込みが、結果として子供を再び悲劇に追いやるのである。
さらに悲劇的なのは、親役を担っていた2人(リリー・フランキー、安藤サクラ)だ。彼らは事あるごとに「血が繋がってないからこそ、逆に絆が強いんだ」と述べるのだが、その実“お父さん”“お母さん”と呼ばれることに固執している。一見すると「ホンモノの家族」という社会通念から自由であるように見えて、やはり彼らもまた近代が家族に与えた役割を引き受けることから逃れられていない。
したがって、リリー・フランキー演じるニセの父親が子供を裏切って逃げようとした理由も、血縁関係が両者の間にないことに求められる。ホンモノの父親なら子供を裏切るはずがないのだから。こうして、彼は「お父さん」と呼ばれることを諦め、単なる「おじさん」であることを自ら認めるに至る。
ニセモノは決してホンモノになれず、ホンモノにはいささかの弱さも認められない。仮にその弱さがどうしようもない貧困に由来するものだとしても、この息苦しい社会において弱さはニセモノの証なのだ。
別に打算的だったっていいじゃない。弱い一面があったっていいじゃない。ホンモノ、ニセモノどっちだっていいじゃない。そこに幸せがあればさ。
是枝監督、リリー・フランキー、安藤サクラの3人が登壇する回。上映後の舞台挨拶回だったので客からの質問に答えるっていうタイプのものだったんだけど、質問者の半分くらいがそれもうインタビューで答えてましたよっていう質問をした。舞台挨拶付き回に来てネットで読めるようなインタビューすら読んでないってどういうことなんだよって内心思った。
一番最悪なのは「あの台詞ってどういう意味ですか?」って聞いた人。反則でしょ。
初めて質問が出来る舞台挨拶に行ったけど、質問者全員が質問の前に自分語りを始めたこともびっくりした。「私は今まで是枝監督の最初の作品からずっと見てるんですけどー」とか、「私はフランスに5年住んでたんですけどー」とか。これが普通なのかな。大阪での舞台挨拶回だったから土地柄なのかもしれないけど、いろんな面でカルチャーショックを受けた。
万引き家族を見てきた。
カンヌのパルムドールを受賞するのも納得の完成度で、芸術性、メッセージ性、エンタメ性を兼ね備えた邦画史上に残る作品なのは間違いない。
リリー・フランキーだしどうせお涙頂戴の感動ポルノだろうなんていう懸念は見事に粉砕された。
テーマは家族の絆の相対化と解体と再構築という、小津安二郎の東京物語に通じるものであり、舞台を戦後間もない時期から平成の終わりの今に移すとこうなるという感じだった。(ちなみに、山田洋次監督が東京物語をリメイクした東京家族という映画があるが、あれは小津安二郎がせっかく相対化した「家族」を再び戦前の古い価値観に巻き戻してリメイクするという糞以外の何物でもなかった。)
ただ、東京物語では血のつながらない人たちが自然につながっていたのに対して、本作は血のつながらない人たちが一緒に暮らしていくことがいかに困難かを描写しており、現代日本の息苦しさを批判しているともとれる。そこが日本批判を許さない人たちからは「反日的」に思われるのだろう。
また、本作で繰り返し描写される「貧困」の風景がリアリティを持ってしまっているのが平成30年の日本の現実であり、是枝監督は当然そこは意識的に作って、こんなのでいいんですかという疑問を投げかけていることも間違いないだろうし、そこも「反日的」だという愚にもつかない批判の的になっているのだろう。
とにかく、あえて言葉にする必要もないくらいの傑作なので、ためらいなく映画館へいくべき作品。事前にどれだけハードル上げまくっても軽々とその上を行く大傑作。