はてなキーワード: オッカムの剃刀とは
やらかし勢(町山智浩とか菅野完とか)が調子に乗ってて若干腹は立つけど、挽回に必死なんだろうな
最近ちっとも見かけなくなってた切込隊長の全力裏切りムーブには笑った
ひろゆきが合流してて更に笑った
いやー楽しい
オッカムの剃刀を適用したいところだけど、まるで説明つかんのよ
エプスタインか? 皇室絡みか? にしても関係者が多すぎて秘密が守れてるのはおかしい
逆に説明ついたところもあるんだよな
自民の異常だったところ、ほとんど全部統一教会の教義じゃんwwww
ほんとウケる
ウヨサヨ合流して陰謀論を体現してるようなカルトを追い詰めてる
当たり前だよな
なのになぜか日本の敵ってことにされて長い間分断されてた
それが今は日本をよくするために力を合わせてカルトを追い出そうとしてる
最高の気分だよ
がんばろうな
これに怒ってる人ちょくちょく見かけるけど、怒るの当たり前って感じの書き込みが大半で自分は理解できてない感じ
まあ言論の自由という主張が的はずれだなーっては思うけど、それにしてもなぜ怒るんだろうってのが正直な感想かな
言論の自由を盾に訴えるということは、言論を司る人間と市井の人間との間に命の価値の違いがあるっていう風に受け取るのかな
自分はそういうふうに受け取らなかったな。言論って言葉使ってる人ただ単にヒロイックな気分でそれっぽいふるまいがしたいだけで多分何も考えてないだけだと思うよって言う感じ
まあ何も考えてないからこそ、その当たり前に命の価値が違うという暗黙の了解を理解もしないでそういった思想を社会に押し付けてて、頭に来てるのかな
背景にそういう思想がはっきりと見えているっていう感じなのかな
多分そんなこと何も考えてないと思うよ&言論発言の裏に命の価値の線引とかを読み取ってしまうのはオッカムの剃刀なかんじがするかなぁ
まあでもそう感じるっていう人が一定数いるってことは、否定しないけど
少なくともブコメの大多数は基本的に何も考えないで「言論」発言してるだけな気がするな
命の価値の違いがあるなんて主張けしからん!命の価値を前提の発言許すまじ!って言われても無理かなぁ
俺は「言論」発言からそんなニュアンスは全く読み取れないから、読み取れる!って怒られても、まぁ読み取ったんですね。としか言えない
見当違いのこと言ってたらメンゴな
「生卵は水に沈むが、ゆで卵は水に浮く。これは浮力の証明であり、重力がない証明でもある。従って、地球は平面である」
→ ではなぜ、生卵は水に沈むのか?もし重力がなく浮力だけがあるのであれば、慣性の法則でゆで卵はそのまま空中にまで浮き上がり、障害物がなければ宇宙空間に到達する。したがって重力の存在を仮定するのが自然。また、地球が平面であるかどうかは、浮力の存在だけでは論理的には導きだせない。
「月の温度を測ると非常に低温である。これは光を反射しているのではなく、自ら発光していることの証明だ。従って、地球は平面である」
→ 熱放射・黒体放射を考えると、(同じ輝度であれば)光を反射している場合より自ら発光している場合の方が温度が高くなるはず。また、月が発光しているのであれば、クレーターの影などの説明がつかない。そもそも地球が平面であるかどうかは、月が発光の有無からは論理的に導きだせない。
「コップに浮かべた氷が溶けても、コップの水かさは増えない。これは温暖化で海水が上昇する主張がデマである証拠だ。つまり、温暖化はデマである」
→ 水の密度が最大になる温度は、3.98℃。つまり、水の温度がそれ以上でもそれ以下でも体積が増えることになる。氷が溶けても水かさが増えないのは、氷の体積が大きいから。温暖化では同じ理由で、海水自体の体積が膨張する上、陸上の氷なども溶けて海に流れ出す。現在知られている物理で、気温の上昇で海水面が上昇することは十分に説明が可能。当然、気温と海水面の高さの関係にかんしていくら語ったところで、温暖化を否定も肯定もできない。
オッカムの剃刀を振りかざす無学者は大抵大事な前提をも削ってしまう上に、論理的な飛躍が甚だしい。オッカムも天国で泣いていることだろう。
一言でまとめると、コロナからサバイブして、ワクチン慎重派から反ワクチン過激派にクラスチェンジした。
知り合いの変貌ぶりを報告すべきかどうか少し迷ったものの、慎重派がコロナから生還した際のいちサンプルとして、ここに詳細を書く。
何かの参考になれば幸いだ。
コロナに罹った後、久しぶりに投稿をしてたので、見てみた。どうやら完治していたようだ。
1週間ほど38度前後の発熱が続き、今も続く味覚障害も併発。多少の息苦しさはあったみたいだが、肺炎などにはならずに完治したそうだ。
コロナに罹る前は、一度だけ「ワクチンが不妊になる」という典型的なデマをシェアしてたくらいで、基本的には反ワクチン的な言説はなかった。
しかしサバイブした後コロナは風邪だと確信したのか、連日の投稿内容がすごいことになっていて非常に驚いた。
そもそも完治報告の時点で、「電磁波を遮断したおかげ」とか「治ってすぐに人と会った」とかのたまっていて、ちょっと不安ではあった。明らかに14日も経ってない内から人と会ってる。
そして完治後は、日に3, 4回くらいぱっと見で分かるようなデマをシェアしはじめ、あからさまに反ワクチン的な言説が多くなった。
※ ぱっと見で分かるようなデマは、例えば腕がブツブツに腫れ上がってる出典不明のきもいショートムービーとか、「芸能人の誰々はワクチンを打ったのに死んだ」という根も葉もない噂とか、そういう類の投稿。
挙句、自治体などが若者に対してワクチン接種の機会を増やすといったニュースには、「なんとしてもワクチンを打たせたい政府ww」「ワクチンは仕込まれた薬害」みたいなコメントをつけている。
(どうでもいいが、政府が国民に意図的に害をなすのであれば、わざわざ周りくどい薬害より、もっと効率的な手段がいくつも浮かぶが…そういうことはイメージできないんだろうか)
一番最近の投稿では「ワクチンを打った人とは関わりたくない、触りたくない」とか、「ワクチンを打つと塩化ナトリウムを定期的に摂取しないと生きていけない。私は、塩化ナトリウムではなく、天然の塩が食べられるので幸せ」「突然死したいなら、ワクチンを打てばいい」「マスクもワクチンも、やりたくないからやらない」みたいなことが書かれていた。
まあ塩化ナトリウムを摂取しないと生きていけないところだけは間違ってないが。
完全にぶっ壊れた知り合いの投稿を見て、数分ほどなんともいえない気持ちになったあと、全てのSNSをブロックした。
前回の増田では、陰謀論者の知り合いの突き抜け具合が耳目を集めたようで、いくつかコメントを貰った。実は前回の増田では、その一端しか書ききれていない。
こいつはまだコロナには罹患していないが、都市部の繁華街で行われたノーマスク集会に参加した時の自撮りをシェアしてる。お前、あそこにいたのか…。しかし、とても元気そうだ。
今もコツコツと意味不明な投稿をシェアしているので、そのいくつかを紹介したい。
「生卵は水に沈むが、ゆで卵は水に浮く。これは浮力の証明であり、重力がない証明でもある。従って、地球は平面である」
「月の温度を測ると非常に低温である。これは光を反射しているのではなく、自ら発光していることの証明だ。従って、地球は平面である」
「コップに浮かべた氷が溶けても、コップの水かさは増えない。これは温暖化で海水が上昇する主張がデマである証拠だ。つまり、温暖化はデマである」
「これらの推論はオッカムの剃刀という、余計なものを削ぎ落とす科学的な考え方をすれば、すぐに導き出される。あなたたちも論理的で科学的な思考を身につけたほうがいい。世界の真実に早く気付くべき」
しかしこいつはノーマスクで人と頻繁に会ってるのに、全然コロナに罹らないのが本当に不思議だ。
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普段から感染予防に気を付けてたのにつけてたのに亡くなってしまった方、家族を亡くしたり、病院に行けずに流産した方のニュースを見るにつけ、反ワクチンの知り合い達とのコントラストで自分の中の煮え切らない思い、複雑な感情が増すばかりだ。
良いね!その質問は、実に好ましい。なぜなら、統計学が意味をなさないことが多いのに、なんで勉強するか疑問だろ?そりゃ、統計学が『ノイズ』を除去するからだよ。統計学は N/A とかあるのに、P値だ言って誤魔化しているのに、いざ自分たちの理論が破綻したら「シックス・シグマ的にありえない!」とか言って逃げるだろ。バブルも、リーマンショックも、自分たちが都合の良い数値を適当に取り繕って、レバレッジをかけて破綻していった。そうだよ、大きく社会学といったら会計学も経済学も「左辺と右辺が一致する」という数学の理論を無理やり当てはめて、一致すると安堵するということを繰り返しすぎなんだよ。違うね。社会学においては「左辺と右辺が一致しない」ということに意味がある。例えば、昔の人間と DNA的には同じだろうが、社会は常に変化していくのだ。まさかだけど、資本主義があるから共産主義があるとか思ってないか?違うぞ。共産主義がおこって、資本主義というレッテルが作られたのだよ。マクロ経済学があるから、ミクロ経済学があるのか?違うよ。最初は、ミクロ経済学なんてなかったんだよ。なぜに、人は「反対のもの」を探そうとするのかね。おかげで、ミクロを積分するとマクロになるという研究に一生を注げてしまう人が出てきた。可哀想にね。今では、合成の誤謬とか言うがね。世の中は、シンプルじゃないんだ。今では、複雑系という領域が勃興したおかげで、(古典な)物理学や(過去のデータを扱う)統計学、そして数学のテクニックを社会学に応用して「未来を想定する」という学問は死に絶えつつあるのさ。間違っているのは、私立文系の教授たちであって、自分達の地位が規模に依存していて、学生を無意味なテキストを買わせるだけの私立文系と芸術学部(市井の画家とかは除く)がイキっているアホしかいないのに、拝めているのだよ。特に、日本銀行券にのっている「日本のボルテール(大爆笑)」さんの大学とかさ、みのもんたや石原慎太郎の子弟とか、統計学を使うと「慶應義塾大学の受験なんてしないと、有能になる」ということを「信頼区間的には、棄却される」としか出せないだろ。ウケるw。文系は無理して数学を使役しようなんてするのではなくて、本や資料、そして『リアル』に触れる機会を徹底的に増やしていくべきなんだよ。一橋大学に文学部を作って、早稲田と慶応は文系人員を減らして、国立の理工学のリベラルアーツ教育の復興を目指すべきなのだ。根拠は、私立文系は「既卒は採用されない」という現実に向き合うべきだろ。まだ、四十路で看護学部にいった方が就職があるって変じゃないか?あれだけ数学を否定して入学させて、あまつさえ本人たちも得意でない統計学やデータサイエンスを教えるなんて、教育者として失格だろ。ちゃっちゃと、似非・数学者はくたばってください、としか思わねーよ。閑話休題。最初の「社会学や心理学」で統計学が使えないのは何故かという疑問に答えるぞ。わかりやすい例だと、かの有名な「校長」という事例があるじゃん。世の中には「一騎当千の強者」がいて、そういう統計的には「ノイズ」として棄却されるような、通常は起きないけど「未知の未知」という人知を超えた「何か」がいるの。ほら、新型コロナウイルスは「1つの『①新型コロナウイルス』が『②武漢』に生じた」というだけじゃん。これを「①イエス・キリスト、②エルサレム」「①ポル・ポト、②カンボジア」「①スマホ、②シリコンバレー」「①自動車、②ドイツ」というのとどう違うのさ。①から②は成り立つが、②から①は成立しねーよ。そんなのは、「オッカムの剃刀」とかで徹底的に洗い出されているのであって、帰納法と演繹法では「世の中を描けないのだ」よ。つまり、人文系と人工知能のように社会学的な方向に、ベンサムを始祖として常に繰り返されてきた、物理学や数学のメソッドの応用は事故の元です。なぜなら、ヒトは「変わらない」が、社会は「変わる」のです。光の速さは(俺が生きている間は)不変ですが、社会は(テレビ・新聞・インターネットとか出てきたせいで)変わるのです。つまり、統計学のような「観測できなかったことを誤魔化す」「そもそもサンプルが全て出揃うのが不可能」「過去に起きなかったから、未来にも起きないと思い込む」ような、雑な『算数』で「数学を理解していると信じる私立文系ども」はオウム真理教で「サリンをばら撒いた高学歴」と何ら変わらないよー、って言いたいのですよ。天才の麻原がいなかったら、地下鉄サリン事件なんて高学歴の秀才どもが起こすわけないじゃん?(q.e.d)
なぜ公共の場に出したいのか
「自慰ができる部屋以外の場所でエロいものを見たがる理由」は単純に、それが目に嬉しいからと考える方が妥当だろう。世の中は、目を楽しませるための装飾や、広告に視線を引くための表現が溢れかえっている。わざわざ、「シスヘテロ男性のその空間での優位を誇示できる」などというものを仮定して、余計な理屈をつけるほうが妥当ではない。オッカムの剃刀である。
この部分はちょっと違う。
性器を擦って性的絶頂に至ることが目的ではない、「ちょっとエッチ」な表現の中に、政治性と文化性・ファッション性を見出しているから、というのが妥当。
かつてLGBT的な文化が表に出てくると「性的でわいせつな表現を子供に見せるな」と叩かれたものだが、それに対するカウンターの形態の一つとして、「おう、性的でわいせつだけど何が悪い?」として、敢えて過激なファッションを表に出すという方法がある。それは今でもある。嘘だと思うならレインボープライドなどを見に行けば良い。
「ふざけているだけだから政治的表現などではない」と主張する人もいるが、そういう人は「政治的表現」をそもそも理解していない。昔から漫画や落語、演歌など、人類は様々な媒体の中にシニカルな笑いとアイロニーを込めて政治的立場を表明してきた。今でも「風刺画」とはそういうものだ。
二次元性愛というセクシュアリティが認められ、フィクトセクシュアルという言葉が社会学の論文にも顔を出すようになったのは、つい最近のことだ。
私たちはこれまで、その存在をずっと周縁化され続けてきた。そういう長い差別の歴史の末に今があるという文脈を考慮しなければならない。
以下の一連のTweetで、作家の王谷晶が表現の自由戦士を批判している。
https://twitter.com/tori7810/status/1427952640923631616
王谷晶『バ バ ヤ ガ の 夜』10月23日発売
@tori7810
ちなみに私は「徹底的にゾーニングしてモザイクを外せ」という公権力による性表現の検閲反対派なんだけど、自由戦士系の人で同意見の人あんま見ないね
「ギリギリの線」を狙った(たまにコースアウトしてるものも有り)性表現が公共空間に撒き散らされ、18禁のコンテンツにはモザイクかかってるってイビツでしょう。
表現の自由というより「公共空間に(シスヘテロ男性向けの)エロが巻き散らかされている、シスヘテロ男性のその空間での優位を誇示できる」という状況を欲している人たち、な印象。自慰ができる部屋以外の場所でエロいものを見たがる理由、他に何かあるかな
これは、偏見に満ちていて甚だ不誠実だと表現の自由戦士である増田には感じられた。また、このTweetに対するブクマも同じような感じのものが多く見受けられたので、批判をする。
王谷は「徹底的にゾーニング」と言っているが、これはどのようなものなのか全く示されていない。ゾーニング対象を設定するレーティング、次にゾーニングの手法があるが、それについて何も示されていない。
と書かれてはいるものの、その内容ははっきりしない。しかし、現状で、明らかに生々しい性交の描写が描かれているような男性向けのポルノは、自主規制である表示図書(いわゆる18禁)として、陳列方法などが条例で規定されてゾーニングされている。王谷は、現状について批判しているのだから、18禁とする敷居を下げろ、あるいは異なる基準にせよという指摘をしていると考えられる。しかし、この基準が示されていない以上、表現の自由戦士は「フェミのお気持ち」と想定するしかないし、実際にそうとしか解釈できないような批判にさらされ続けてきたと、こちらは認識している。
また、ゾーニングの手法についても、疑念はある。現状は、棚の高さや目隠しの大きさなどを規定した区分陳列の手法が条例で規定されているが、当然にこれは、好まない人が絶対に目にしないということを担保できるものではない。また、少なくとも「ここにポルノがありますよ!」という表示は明白にする必要があることから、ポルノそのものに嫌悪感を持つ人たちにとっては、それだけで不快感を与えるであろうことは想像に難くない。また、売上が大きくなれば、当然に売り場が増えたり、宣伝が増えたりして、露出する機会は増えていくだろう。これらをどうにかしようとすれば、厳しい広告制限や売り場の制限などを加えるしかないから、当然に、売上が減少するだろうし、売れない商品は作られないということになるのは想像に難くない。
王谷晶自身がBLを書いていることなどを考えれば、BLを棚に上げているという批判は妥当するだろう。なぜならば、現状で、ゾーニングができていないことで問題になっている(=東京都の指定図書になっている)のはほとんどがBLだからだ。
もちろん、少なくない表現の自由戦士は、現在、東京都で多くのBL作品が指定図書に指定されてしまい、実質的な発禁に追い込まれている現状を憂慮している。しかしこれは、BLが表示図書としてゾーニングしていないから起きている事態である。
対して、男性向け作品はほとんど指定されることはない。これは、差別ではなく、過去、男性向け作品が大量に指定されたことから、グレーゾーンにあったソフトコアポルノ的な作品が淘汰され、ハードコアポルノを中心とする表示図書ばかりになった結果、そもそも指定されない状況になったためである。なお、ソフトコアな作風の作家は、女性向けのTLに活躍の場を移して、やはり表示図書ではない形で出版されている例が散見される。
さて、男性向けに対して、女性向けであるTLじゃBLは表示図書にしてしまうと、明らかなエロ本売り場に隔離されてしまうので、女性が買いにくくなったり、一般の書店で取り扱われ無くなったり、扱いが縮小するために出版ビジネスとして成立しなくなってしまう。なので、女性向けのほうがゾーニングが難しい状況である。
腐女子などに見られる認識で、「隠れる」ということがゾーニングであるという考え方があるように見える。王谷晶も「公共空間に撒き散らされ」と男性向けコンテンツの在り方を批判している。しかし、実際は、ゾーニングというのは「これはポルノである」「ここではポルノを売っている」と、明白に表示する事である。当たり前だ、ポルノが欲しくない人や買ってはいけない人が買わないようにすることがゾーニングだからである。ポルノの存在に気付いて不快に思う人は考慮されないし、考慮されるべきでもない。世の中に自分の嫌いなものが存在するのは当たり前だからだ。
「自慰ができる部屋以外の場所でエロいものを見たがる理由」は単純に、それが目に嬉しいからと考える方が妥当だろう。世の中は、目を楽しませるための装飾や、広告に視線を引くための表現が溢れかえっている。わざわざ、「シスヘテロ男性のその空間での優位を誇示できる」などというものを仮定して、余計な理屈をつけるほうが妥当ではない。オッカムの剃刀である。
そして、そもそも論として、公共の場というのは、むしろ明らかに害があるものでなければ排除してはならない、という性質の場である。たとえば、天皇制を批判する言説の表現は、少なくない人を傷つけたり、不快感を抱かせる可能性が高い。しかしながら、だからといってそのような表現を公共の場から排除せよというのは妥当ではない。
もしそれでも公共の場から排除すべきと主張するのであれば、公共の場からの何をどういう理由で排除するのか、一貫した理論を展開する必要がある。
当然に、表現の自由戦士は局部修正に反対の人がほとんどである。しかしながら、何か別の規制とバーターで局部修正を解禁しようと言うつもりも無い。
例えば、局部修正が解禁されても、厳しいゾーニングで商業的に成立しなくなるとか、同人誌即売会が公共施設から追い出されるとか、ロリコン表現や侮辱的な表現が禁止されるとか、ポルノではないがフェミニストが批判するような描写を一般誌から排除するとか、そういう条件が付されるならば、当然に許容できないだろう。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/tori7810/status/1427952640923631616
id:zyzy 自分もこれだが表現の自由戦士たちはチキンレースで悪ぶりながら周囲に嫌がらせするのが目的なので、どうもこれには反対らしいんだよね。
他人の内心を勝手に想像して目的とするのは妥当ではない。そして、あえて言えば、チキンレースは悪いことでは無い。ギリギリの表現を狙うことは、全く自由であるし、それは表現の可能性である。
id:akakiTysqe https://twitter.com/jenaiassez/status/1427970782584467456?s=21 同意見なんだけど、彼らはむしろ刑法175条を守るからゾーニングはいらないという人たちなんだよ。
まず、刑法175条には反対である。しかし、実際に処罰されるリスクがある以上、従わざるを得ない。また、ゾーニングやレーティングが全く不要だとは言わないが、少なくとも、その妥当性は厳しく吟味されるべきだし、その範囲は最小限であるべきだと考える。
id:cinefuk (無意識の)加害欲求を度々指摘されてるけど、否認するばかりなんだよな『公共空間に(シスヘテロ男性向けの)エロが巻き散らかされている、シスヘテロ男性のその空間での優位を誇示できる』
「(無意識の)加害欲求」があると主張するならば、その存在を証明すべきである。また、よしんば加害欲求があったとしても、加害行為でなければ問題はないと考えられる。
id:nowa_s 公権力に全て委ねるのか、表現の作り手と受け手とその輪以外の人々の合意による自治を図るのか、だよね。/合意形成って、議論は論破ゲームだと思ってたり、「価値観は人それぞれ、以上」の文化で可能かは知らんけど
公権力は素晴らしいとは思えないが、「自治」という名前の学級会で、非道徳的なポルノを楽しむ悪い男子が吊し上げを食らうことが明らかであるならば、そんな人民裁判への召喚状は破り捨てるしかない。
自治や合意形成なるものを、人民裁判に貶めているのは、フェミニストやキャンセルカルチャーの成果ではないのか。
id:HanPanna 表現の自由戦士は「お上の規制なら従う」って態度の人が多くて、公権力による規制を最も警戒する(民主主義のため)表現の自由とは真逆のスタンスなんだよね。彼らが守りたいのは表現の自由じゃなくて権威だと思う。
はっきり言えば、フェミニストよりも「お上」のほうがいくらか信用できる。東京都の青少年健全育成条例は、決して素晴らしいとは言えないが、少なくとも出版側の意見を出す場があり、明確な基準の無いお気持ちで運用されているわけでもない。少なくとも、憲法擁護義務のある公務員は、ある程度謙抑的に振る舞ってくれることが多いが、学級会で吊し上げをやってきたような連中が暴走する様は嫌と言うほど見てきた。
id:tvxqqqq 男女とも同じ基準でゾーニングした上でモザイク外すというのは同意。レーティングは女性向けに甘いと言われてるようだけど(BL興味ないから実際は知らん)、公共の場での表現物についてはヘテロ男性向けだけゆるい。
「ヘテロ男性向けだけゆるい」というのは根拠が薄い。女性向けの欲望に即した広告表現は珍しくないし、具体性に乏しいためにする批判である。
id:quick_past 何を持ってしても、より良い選択肢を目指すより、とにかく相手を叩きたいだけの連中だし、さんざ投げかけられた返答も無視してるからな
その「より良い選択肢」というのが「(フェミニストにとって)より良い選択肢(もちろんクソオスの利益なんかしらん)」と区別ができない。何かしらの提案、特に誰かの自由を制約する提案をするのであれば、自由を制約される側の利益を考慮していることを積極的に証明しなければ、悪意が推認されて当然である。
また、返答は無視していない。理解できないか、理解できても配慮を要するとは考えられないかだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210825220838
id:brightsoda "実際に処罰されるリスクがある以上、従わざるを得ない。" これがアリなら表現規制派に火炎瓶を投げ込まれるリスクがあるから従うでも怪獣がインクの匂いに怒って襲うリスクがあるから焚書でもアリになるじゃん
もし仮に、北朝鮮や中国、アフガニスタン、あるいはシンガポールのような表現規制派が牛耳っているような国に住んでいるならば、多くの人は従わざるを得ないと考えるだろうし、そうするだろう。表現規制派が、時々火炎瓶を投げる程度であれば、少なくとも私にとっては許容可能なリスクなので、従うことはないだろう。また、怪獣は居ないので怪獣の脅威を理由に焚書をすることもないだろうし、もし、怪獣を信じて焚書をする連中が他人の財産を破壊しているならば、警察に通報するだけである。
id:mogmognya おおちょうど良い、増田はちょっと前に話題になった秋葉原のエロゲーム広告はアリと思う?ナシと思う?あと、演者が痛がる様子を笑うお笑いはアリ?ナシ?
話題になった秋葉原のエロゲー広告程度の表現は、「屋外広告として」「法的に」規制しうるかギリギリのラインだと思う。このぐらいの、際どいグレーゾーンに対する公序良俗の判断は、むしろ関係者が納得できる公正な判断の仕組みを担保することが望ましいと思われる。このような表現を批判する側と擁護する側を概ね均等に含む、有識者、利害関係者による付属機関を設置すること、その議事録を公開すること、当事者の異議申し立ての機会を担保する教示をすることなど、そういった関係者が納得できる仕組みを予め用意することができれば良いと思う。
また、演者が痛がる様子を笑うお笑いは、まず、その映像を放送することが、直接に法的に規制しうるものではない。チャンネルを変えることは簡単である。しかし、放送は規制産業であり大きな影響力を持つことから、高度な自主規制を行うことそのものは妥当性があると思われる。その意味で、現状のBPOは完ぺきではないにせよ、それなりに妥当な形で機能しているように見えるので、BPOが慎重に判断していくことそのものは、私は妥当性があると考える。
増田の個人的な考えは、単なるポジショントークだから、「規制に反対」としか言えない。
私の価値観の話をすればお気持ちでしかない。しかし、それは、他の誰もが同じことである。
その上で、ゾーニングをしろと言ってくる以上、その公正さをいかに担保するのか、あるいは担保できるのかということを問うている。
id:HanPanna いや、増田が誰を信頼するかしないかの話はしてないよ。表現の自由は「民主主義の維持」に必要不可欠なものだから他の人権よりも優越的な地位にある。権力と学級会では民主主義への脅威が全然違うのに馬鹿だねって話
実際、その学級会で潰される側から見れば、権力も学級会も大差は無い。
アメリカの権力と、非正規のタリバン、どちらが民主主義にとっての脅威か問われれば答えは明らかだろう。
id:fourddoor おお、レスくれる系増田だ。JK痴漢エロ漫画の本編抜粋広告看板を停車中の電車から見える位置に掲示するとか、小学生レイプ漫画の広告を通学路に掲示するとかはどうですか?なお局部は隠れているものとする。
屋外広告条例は、都市計画や建築の分野になっており、意匠については「景観風致を害する」程度の基準でしかなく、実際に問題になるのは、広告の内容などよりも大きさや派手さ、手続きの話ばかりなので、これといった基準がありません。
が、これは、表現の自由の問題であるとともに、公序良俗の問題であるとすると、基準は「普通人が耐え難いか」程度のものになると思われます。
なので、仮に「JK痴漢エロ漫画の本編抜粋広告」があからさまに痴漢行為、性交又は性交類似行為に及んでいることがわかる意匠、乳首や陰毛が露出しているような意匠であれば禁止されると思われます。また、「小学生レイプ漫画の広告」も同様に、その意匠がそういう意味で問題あるかという判断になろうかと思います。逆に言えば、LOの表紙、あるいはクジラックスの単行本「ろりとぼくらの。」の表紙のような意匠であれば、屋外広告としては問題無いと思われます。TENGAやirohaのような路線の広告も問題無いでしょう。
また、逆に、いくら胸を強調しているとしても、宇崎ちゃんの表紙や、スカートに影できているといってもラブライブの高海千歌のPOPスタンド程度の表現もまた、普通人を基準としてそれほど耐え難いとは思えませんから問題無いと思われます。
オッカムの剃刀をしらないのかな。特に悪意のないところに、悪意を見出して悪し様に言うべきではないよ。
配信者のガッチマンさんが言ってたんだけど、昔はゲーム配信者が企業のCM案件みたいなカネ儲けしようとすると袋叩きにあっていた。でも近年の Vtuber の文化ではむしろそういうのは賞賛される傾向がある。
俺が思うに、twitterをはじめとするSNSの情報網の発展でブラック企業などが糾弾されるようになって、人間の経済活動の側面が隠すべきものからケアし合うべきものに変わってきたんじゃないか。この変化がどうしようもなく急激だったから、元増田の説のように、過去の文化に触れていた人は今現在とのギャップに混乱してしまうんだ。
Vファンとして元増田の好きでなくなった理由を考えたが、それは元増田自身が言っているとおり、彼が初々しさを知っていてそれに重きを置いていたからだと思う。最近では Vtuber が不意にクシャミをライブの配信にのせてしまったとき、視聴者が「助かる」と反応する文化がある。これはキャラクターを上手く演じているスキに生じた微かな綻びに、彼・彼女が現実に存在してる証拠を見つけて、ありがたがる仕草だと言われてる。かつてのファンは商業上持続可能なバーチャル的存在に変身していく様を眺めていた。今のファンは脱商業的な瞬間に喜ぶ。奇しくも、元増田が求めた「初々しさ」のちょうど逆のプロセスになっている。
学問はフィクションだ。それなのに、無加工なまま偉そうな顔をして現実に居座り続ける「歴史」というものが大嫌いだ。
だって、2次方程式の解が、実数で2個存在するとか存在しないとか心の底からどうでもいい。
虚数と重複度を適切に定義したフィクションの中では、常に解が2個存在するのだから。
つまり、歴史は現実のイベントに引っ張られてしまう。そのイベントの繋がり方は、論理的でも公正でも、ましてや最良でもないのだ。
フィクションであれば、その繋がりを必要な形に変形して、その結果を想像することができる。そこから教訓とすべき事項がわかる。
それなのに、単なる偶然の産物でしかない「歴史」から学ぼうとする奴らは、むしろ、オッカムの剃刀で斬り捨てたいその人名や年号の情報量の多さに比して、与えられる教訓の少なさに不満を言うべきだ。
そういった、こなれてないという点で、歴史はまさに「雑」学であり、学ぶにはコスパが悪すぎる。歴史を学ぶと言わず、歴史を趣味としています、とこれからは正しく呼称すべきだろう。
私が違和感を覚えたのは、こんなに重たいシーンを描きながら、物語のラストにほとんど関係ないことだった。
例えば、「この世界の片隅に」の場合は、天真爛漫なすずさんが…となるのをターゲットにしてその伏線として話が進んでいくが、「若女将は小学生!」では、ラストが成仏する前の幽霊と一緒に舞うというシーンなので、小学生が親が死んだ事故の加害者を赦すというあの重たいシーンは、単なる成長の一挿話としてしか機能していない。つまり、あの重すぎる赦しは、なぜ物語に必要だったかわからない幽霊以下の扱いになってしまっている。
だから私の場合、赦しのシーンそのものよりも、単なる挿話としてあんなに重たいシーンを描いてしまう、そのこと自体に強い衝撃を受けたのだった。「オッカムの剃刀」的に不適切というか、重要度に比して内容が重すぎる。