はてなキーワード: いじめられる方とは
そんなことは一言も言ってねえよ!
無能でもチンフェの炎上の件に関わらなければここまでの事にはならなかったんだよ!!
「ネットの誹謗中傷は解決可能です」なんて言ってチンフェの炎上に首を突っ込んできた挙げ句炎上を拡大させたから今の今まで続いちゃってるんだよ!
ネットの炎上なんてもんはほとぼりが冷めるのを待てば沈静化していくものなの!
でもあいつはことあるごとにメディアに露出して新しい燃料が継ぎ足されてしまうからいつまで経っても炎上が終わらないんだよ!!
ハセカラの奴らはあいつの反応を見るために犯罪までして逮捕者が出ても勢いが衰えないキチガイの集団だっていうのがわかりきってるのにあいつはそいつらに自分からエサをやるんだよ!
俺はもう連中にエサを与えずに無視しろ、被害届を出して粛々と逮捕してほとぼりが冷めるまでメディアに露出するなって言ってるんだよ!!
でもあいつはむしろ露出を増やすばかりだ!!どうすりゃいいって言うんだよ!
それを無能と言わずになんと言えば良いんだよ!!教えてくれよ!!!
もはやチンフェは被害者なんだよ!!あいつが燃料を与え続けるからいつまで経っても風化しない!
どうすれば良いのか教えてくれよ!!
「いじめられることは恥ずかしいことじゃない」
いじめられていた頃、この言葉ほど自分を追い詰める言葉はなかった。
教師はそう僕たちに訴える。僕と僕をいじめていた人たちはその言葉を聞き、今やられていること、やっていることはいじめじゃないと思い込む。
何故なら僕が悪かったからだ。最初に友達だったクラスメイトを育ちが悪いと馬鹿にして笑ったのは僕だったからだ。
だから何をしても良いとクラスメイトの一部はエスカレートしていき他のクラスメイトは自業自得だと看做す。僕自身、自分が悪いから仕方ないと諦め自分が最低な人間であることを大切な両親にだけは露呈しないよう必死で隠す。
地獄だった。
だが、今は思う。いくら僕が悪くてもいじめられていいわけはないんだ。だって彼らは罰を与えたくていじめていた訳じゃなく、僕という人間がいじめても正義側でいられる人間であることを利用して徹底的に甚振ることを楽しんでいたんだから。
僕ほど分かりやすくなくてもいじめの大半はいじめ側に正義がある。空気を読まない、性格が悪いなど下らない理由でもそれを盾にいじめる。だからコミュニティ内では教師も含めていじめられても仕方ないという空気が形成される。
いじめはたしかに悪い事だけど、存在するだけで、周りの調和を乱す人っている。
そういう人に、どのように対処したらいいのだろうか。
例えば、昔、転校生がやってきた。小学4年生くらいだったと思う。
見た目はごく普通の女の子だったが、たったひとつ、ちょっと変なことをする女の子だった。
そして、それを食べるのだ。
衝撃的だった。あまりにも悪びれないでそれをやるので、みんなどうしていいかわからなかった。
この場合、たしかに大人の対応としては「人前で鼻くそをほじってはいけません」と本人に注意することが必要になるんだと思う。
とりあえず、陰で「あの転校生鼻くそ食ってるwww」って話題になる。
調子のいい男子が本人に聞こえるような声量で「鼻くそ」とか言い出す。笑いが起きる。教室に張り詰めた緊張がほぐれる。
先生は帰りの会で「いじめはよくありません」「いじめは犯罪です」という。
しかし、その女子がものすごい勢いで鼻をほじっているときに教室に張り詰めたあの緊張感。
そして、その緊張した雰囲気を破ってくれた、調子のいい男子の「鼻くそ」の一言。
こういう場合どうしたらいいの。誰が悪いの。
美人はいじめられない こっちん 2014年5月13日 17:59
悲しい現実ですが、条件が同じなら、いじめられる方はブサイクさんやおデブさんです。
「美」に嫉妬していじめる人もいるでしょうが、そんなのは少数で、
なぜか人は自分より劣っている人を虐げて、自分より上だと感じる人には媚びる傾向があるようです。
子供の世界もそうですし、大人の世界もそうです。(あからさまではないですが)
一番いじめられるタイプは、美人じゃないのに「また上司に誘われちゃったぁ」などと美人を装う人ですね。
男性なら、スポーツがイマイチなのに、「俺の走り注目されたぜ」と得意げに振る舞ってるヤツや、
学校が嫌だったが、親は休ませてはくれなかった。
図工で絵の具を使うようになった時、今みたいに筆洗バケツは売ってなかったから
空き缶で作って用意するように言われた。
工作が得意な父が、250ml缶6本を針金で繋いで 取っ手も作ってくれた。
みんなそんな風に作ってもらっていたから、自慢とかしてない
なのに帰り道、いじめっ子に取り上げられ どぶ川に捨てられた
小2が入って取りに行くには 少々川幅が広めで、泣きながら追いかけたが
人通りもなく 缶の筆洗(水入れと言っていた)は流れていった。
40年もたったのに、笑いながら見ていた その2人の名前も覚えている。
一人は数年後病気で亡くなったが、もう1人は知らない。
中学の時、イケメンで何かスポーツやっていて モテていたのだけ覚えている。
泣きながら父に「水入れをいじめっ子に取られて、どぶに流された」と言うと
父は果物の缶詰の空き缶が2つ用意し、新しい水入れを作ってくれた。
あのいじめっ子2人が、あの件以来私にちょっかい出す事はなかったのだが
今は黄色い筆洗バケツが主流となって、見かけると思い出してしまう。
クラスの男子達のいじめ自体は、3年に上がってクラス替えになるまで続いた
担任は?何もしてくれませんでした。
ブラック企業とは、一般的には、低賃金、長時間労働など社員に過酷な負担を強いる企業の総称をいいます。
WikiPediaによると、
とか、
解釈によっては、どんな企業もブラック企業に当てはめる事ができてしまうかもしれません。
また、「ブラック企業はブラック消費者が作り出した」という、いかにも企業側に責任が無いような意見もあります。
しかし、英語圏では、スウェットショップ(Sweatshop)と呼ばれている他、中国語圏では血汗向上とも呼ばれており、ブラック企業問題を抱えているのは日本だけではありません。
社会問題にもかかわらず、なかなか問題の本質が見えてこないのは、この「定義の曖昧さ」にあるのではないでしょうか?
最近では、企業側が「ブラック企業」の記事を書いた記者を訴えるなど、本当に混沌とした状況です。
バブル崩壊の時期には、「リストラ」の名の元に、数々の非人道的な人員整理が行われ、社会問題になりました。
山一證券倒産の際には、高額所得者への色々な形の「いじめ」が行われたそうです。(幹部を配置換えと称して新入社員の下に配するなど)
住専(住宅金融専門会社)の倒産の際には、営業成績の高かったある個人をスケープゴートとして、社員全員で「ゴキブリ」などと言わせて、いじめぬいていたそうです。
また、人員整理に留まらず、企業同士のいじめとして、「拓殖銀行倒産」のきっかけとなった、コール市場での「総スカン」なんていうのもありました。
金融機関の中小企業に対して行われた「貸しはがし」が社会問題になりました
最近の長く続いているデフレでは、裁判も頻繁に行われたサービス残業問題。
また、昔から定番の、短時間労働、高収入がうたい文句の求人(これは分かりやすいので、気を付ければ引っかからずにすみます)
「規制緩和」の名のもと、非正規雇用形態が広がり、社員や企業同士の「悪徳」が日常化していると考える事ができそうです。
日本は法治国家です。国民は「法」に守られていますので、企業側は安易に「不正」行為をはたらくことはできません。
そこで、「法」に触れないギリギリの線で、個人なり相手企業を攻めてくるわけです。
これが、いうなれば企業の悪徳行為は「いじめ」と言えるのではないでしょうか?
ただ、「いじめ」と聞くと、「いじめられる方にも責任がある」と感じてしまいます。
これは、「いじめ」から子供のイジメを想像してしまうからだと思います。
企業の行うイジメは全く異なります。背景には利害が絡んでおり、明確な目的があるのです。
戦略も伴います。場合によっては興信所や暴力団を使うなど、お金が動きます。
「暴力」と聞くと相手を、叩いたり蹴ったりなど、物理的に力を加える事を想像しがちですが、精神的に相手を追い詰める事だって立派な暴力です。
そもそも暴力というのは、自分だけの都合により、相手を排除したり、相手の力を奪う時に、「相手に加える力」だと思います。殴ったり蹴っ飛ばしたり、暴言を吐いたりなど様々あると思います。
その「力」のうち、直接相手に加える力が、一般的に「暴力」とされていると思いますが、間接的に相手に加える力も「暴力」のはずです。
例えばリストラを考えた場合、相手が働きにくい環境を作り出して、自ら辞職に追い込む事は「暴力」です。
仕事に無関係な作文を何枚も書かせたり、ブライドを傷つけて社内での立場を奪ったり、或いは精神的にうつ状態になるまで追い込む行為、これ等全ては「暴力」なんです。
※相手を精神疾患に追い詰める行為は厳密には「傷害」(刑事罰)になりますが、立件が困難な為この手を使う企業も少なくないハズです。
「暴力」というのは、自分だけの都合で相手を排除したり、力を奪うわけですから、企業が「暴力」を乱用すれば、収益を上げる事が出来るのは、当然の事でしょう。
「暴力」というくくりで考えてみますと、直接的暴力、例えば、コンビニ強盗では、お金を払わずに商品を手に入れる事が出来ます。短期的に見れば、一番効率の良い物資の調達方法です。
間接的な暴力は多少効率が落ちますが、やっている事は同じなのです。
その企業に「暴力」があるという事は、逆に言えば、「安全、安心」が無いという事です。
「安全、安心」がトレードオフになっているのです。その結果、以下の現象が生じるハズです。
「暴力」の元では人は常に緊張状態に置かれ、落ち着くことが出来ません。
こんな環境では人は育ちません。
暴力をふるう両親の元で、ちゃんとした子供が育たないのと同じです。
当たり前ですね。
ただし、「どの人の下に付けば自分は安全なのか?」を絶えず気にして行動しますので、人の上下関係はきっちりします。
ヤクザと同じです。
社内で、地味かもしれませんが「暴力」が行われている事を目の当たりにするわけです。
そんな中では、誰も、一生懸命仕事をしようとか、難しい事を習得しようとかという発想にはなりません。
社内で出来る人がいなければ、派遣を安く使って、やらせればよいわけです。
社内では色々なノウハウも蓄積されません。
そうなると、経営陣は社員たちを追い出して社名を変えてまた会社をやり直すわけです。
技術大国と言われるほど、ものづくりが上手だったり、皆勤勉(識字率がほぼ100%)だったり、「絆」を大切にしたりなどの前提には、「安全、安心」が有ったからだと思います。
いやいや、心の歪みとか将来の犯罪者率とかそういうんじゃなくて。
むしろ病んじゃうのは圧倒的に被害者。いじめられっことかいじめっことかなんかソフトな言い方はたくさんありますけど加害者と被害者ですよ。
加害者は別に歪んでないんですよ。世間的に肯定されるのは、なんだかんだ言ってあっち側の人たちじゃないかな。
だってね、偶然なの全部。いじめが蔓延るのは悲しいかな必然としても、加害者と被害者の境目ってほんと曖昧。
男子事情はちょっと分からないけど、女子なんて立場逆転は一日あれば済みます。
容姿が整ってて目立つ子と仲が良かったとか、からかわれる原因を持っていたとか、全部たまたま。
誰が決めたわけでもないの。自分で選んだわけでもないの。
偶然自分がその歳でそういう人間になっていて、偶然そのクラスや職場に入って、色々な要因が重なって発症した暴力の被害者になっただけ。
悪いとか悪くないとかの話じゃないんですよ最早。
「いじめられる方にも原因はある」とかドヤ顔して言ってる場合じゃないって。原因と責任は違うって。
で、集団にしこたま迫害された人間がどうなるかっていうと、人間が怖くなります。自分自身も含めて。
心因的な病気になったり引き篭もる反応のが正常だと思う。健全かどうかはさておきね。
自殺もね。見えないし、将来。自分以外の人間は全部自分を笑ってる貶めてる蔑んでるとか思うし。
身体ばっか大きくなって、親は信頼できないけど大事だから負担はかけたくないし、てゆーかもう起きるの無理、みたいな。
夜になって目を閉じるたびこのまま目覚めなかったらいーのになって。
自殺は後処理があるから嫌だな、存在そのもの消してくれないかな、とか。
そこで屋上とか昇っちゃったらもうね。首吊り縄とかふざけて作ったはずなのに、あれって。
一瞬じゃね?痛いのは。今までの方がよっぽど痛かったよなって。思っちゃったらたぶんもうだめ。
周りに相談があったら、とか学校側の対応は、とかそんな話じゃないんだよ。
「そうなるしかなかった」の。死んでみようかな、って考えちゃった瞬間から。
自殺だの自死だのこれまたソフトな名称出ちゃってますけど、いってみれば殺人ですからねアレ。
殺人者だよ殺人者。憎しみだけで呼吸するの。もう酸素なんて届いてないから。
今回の本題は、この憎しみが自分ではなく加害者に向けられた場合。
ようやっと話題になってきましたけど、報道番組観るたびいつも不思議だったのね。
加害者が被害者になる可能性もあるんですよって教えないのかなって。
憎しみとか恨みがあるわけですよ、人を殺すほどの。被害者がターゲットを偶然自分に選んだだけの話。
考えないの?
例えば小学校で熾烈な虐めにあったとする。どんどんエスカレートしていって、中学に上がるころには不登校。
高校通信行ってみたはいいけどモチベーション全然上がらないから勉強できないしそもそもコミュニケーションってなに?
親の定年なんてあっという間で、もしかしたら揃って事故死とか病気あって多額の医療費、も可能性はある。
で、なんやかんや一人ぼっち。食費なんてとっくに尽きたし光熱費もろくに払えないから寒い暗闇で包まる。
なんでこんなことに。どうしてだ。いつからだ。原因はどこだ。誰だ。
失うものは何も無いって気付かれたらそこで終わり。個人情報の溢れかえった現代で加害者のお勤め先なんて簡単に調べられちゃう。
もしかしたら自宅も分かっちゃうかも。加害者になる人は想像力が欠如してるので、そのまま成長してたら付近の写真とかバンバン掲載。
見渡せば母の遺した包丁が。指を切ってみる。血は流れる。
相手の血を見てからでも死ぬのは遅くない。汚い靴を履いて何ヶ月かぶりに外に出る。
極端な例ですけど、こういう話があっても何もおかしくはない。
悲しい事件はなくしたいよね、ひとつでも多くね。
タイトルは半分釣りなので、いじめ被害経験者も冷静に最後まで読んで欲しい。
「いじめられる方にも原因がある」と言われることがある。これは正しい。
私は中学でいじめを受け、そのトラウマを高校以降も引きずって、人間不信とコミュ障に苦しんだ。
社会人になるまでに表向き目立たない程度には克服したものの、今でも人知れず鬱々とした精神的発作のようなものを抱えている者だ。
それでも、この言葉は正しいと思う。
なぜなら、この言葉と「誰でもいじめられる可能性がある」という言葉は背反する、つまり片方がウソで片方が本当だからだ。
自分は、後者がウソだと思うので、前者は本当ということになる。
人は性格によって、どんな集団に居てもいじめられない奴、条件が悪いと一時的にいじめにあうことがある奴、継続的ないじめの対象になりやすい奴に分かれる。(学生時代、自分は一番最後のカテゴリ)
「いじめられる可能」というやつは、誰にでも均等ではない。これが現実だ。
可能性0.0001%と95%を一緒くたにして、「誰でも可能性がある」なんてのは、極めて悪質な詭弁だ。
なのに、そんな詭弁を恥ずかしげもなく撒き散らし、現に苦しんでる被害者や周囲を惑わして、問題の解決を遠のかせておきながら、「自分は弱いものの味方です」のような顔でいる奴には、腹の底から反吐が出る。
お前が綺麗なセリフに陶酔するためだけに、現実を糊塗隠蔽するんじゃねえよ、どクズ。
話が逸れたが、さて、人によっていじめられやすさが違うのなら、いじめられやすい奴は、いじめを引き起こす性格上の要因を何か他の奴より多く持っているということになる。
「何か」の中身は、ここでは趣旨が違うので踏み込まないが。
一方いじめる方の性格上の要因も、当然ある。偶然運悪くいじめ加害者になるなんてことはない。
いじめる方の原因と、いじめられる方の原因が、同時に成立したとき、言い換えると、いじめる側の性格の歪み(凸とする)と、いじめられる側の性格の歪み(あえて歪みと表現する。凹とする)の凹凸が噛み合わさったときに、いじめという現象は発生する。
この理屈に従えば、性格に凹な歪みがない奴はいじめられない、凹な部分を直せば、いじめはなくなるとも言える。
自分はこれまで、そういう性格の歪みを矯正するために、何度も恥にまみれて死にたくなるような思いをして、なんとかギリギリ社会に適応してきたのだ。
いじめられる側が自分から何とか状況を改善し、自己防衛をしようとする場合には、それなりに拠り所となる考え方だ。
しかしだからと言って、加害者や傍観者、さらには教育者(救いがたいことに実際に存在した)が、ドヤ顔で振りかざしていい理屈ではない。
凹があるだけでは成立しない。凹があり、凸があり、凸が凹に、その突起を刺し込もうとし、なおかつそれを抑止する力が存在しないときに初めて、いじめが起こるのだ。
さらに、凸を放置すれば、もともとは凹ではない奴の心を抉り、凹な性格に仕立て上げることさえある。
だから、凸の突起を折り、刺し込んだり抉ったりしないようにすることの方が、凹の歪みを直すより、よほど効率よくいじめを抑制できるに決まっている。
そもそも教育者の中に、凹の歪みの改善指導ができるプロの技術の持ち主なんて、ほとんど居ないだろうが。
いじめの原因は、確かに双方にある。
顧みるに、かつての所謂いじめっ子の面々に対しては、今はそれほどの憎悪や怨念は残っていない。単純に憎み続ける気力や時間が無くなったというのもあるし、正直、小山田圭吾のインタビューからも窺えるように、彼ら、彼女らはもともとバックグラウンドからして隔絶した別種の生き物、生来から人として基本的な何かが欠落したクリーチャーなのだな、ということで、もはや腹の立てようがない。目を付けられたのが不運だったのだ。
しかし、当時も、それ以降も、「それぐらいのことでギャーギャー騒ぐほうが悪い」「そんな性格だからいじめられるんだよ」「いじめられる方にも問題有るよね」とかとなんとか、上から目線でどや顔で言い放った連中のことは今でも、そしてこれからも心底憎む。目の前にいたら顔の形が変わるほど殴りつけてやりたいし、地獄に堕ちろと本気で願う。
元増田です。
うまい言葉がみつからなかった。警鐘とも違うし、明言でもない…
自分の語彙が少ないのが原因です。すいません。
これは米国だけかもしれませんが、スクールカーストなんてそのまんまいじめ社会だし、自殺がおきないだけで日本とやってることは変わんないです。
ハリーポッターでも少なからず他人を叩くという行為はありました。(あれはキャラクターとして描かれているので例としては適切ではありませんけれども…)
日本での村八分など排他的なコミュニケ―ションは、液体の社会だからこそ生み出されたものだと思います。
ぐちゃぐちゃに混ざり合い、どうしようもなくなったものを無理矢理外に出そうとする。
切腹という責任の取り方も強く根付いています。でも現代は武士のように責任をとるのではなく逃げ出すための自殺。
借金が返せないから自殺。仕事でミスをしたから自殺。人間関係に行き詰ったから自殺。すぐ思考停止し、自殺しようとする。
大人は『いじめられる方が悪い』『いじめを隠そうとした奴らが悪い』などと不毛な議論をしている場合でしょうか。
数日前にホッテントリに入ってた増田記事にレスしようとしてたら消えてったっぽいので改めて記事を書く。ついでに今議論になっている幾つかの考え方についても、僕が思うことを言う。
大きないじめが報道があるとこの話題が必ず大きくフィーチャーされる。今もTVをつければその話題で持ちきりで、くだらん話ばかりを延々と・・・TVにかぎらずSNSも増田もだいたいそんなもんだ。で、いじめ問題で誰が悪いのか、だいたい4つくらいの類型で語られるように思う。(1)被害者、(2)加害者、(3)傍観者、(4)大人 とこんな感じ。
さすがにコレを主張する人は今日TVでは見かけられないし、ネットでも相手にされてないことが多いんだけど。
ただ1つ述べておきたいことがある。事実として、いじめられっ子が転校して別の学校に行って解決する場合もあるが、引き続きいじめられる例というのは実際にある。しかも、「いじめがない」と思われていた学校に転校して、いじめが起こらないように大人たちが配慮した上で生活していて、再びいじめられることがある。
このとき、確かに「いじめられる原因」はこの子にあるかもしれない。全部の原因がその子にあるとは言わないが、ちょっとくらい、その子に原因があることも考えられるかもしれない。
しかし、「原因」があると認めたからといって、果たしてその子が「悪い」と言えるのか。
もしその原因があることで、いじめられることが正当化されるなら、同じ原因を持っていたら同じいじめを受けなければならなくなる。しかしながら、同じ原因、同じ人でも環境によっていじめられないこともある。
であるとするならば、「いじめられる原因」をその子が100%持っていたとしても、その子のせいとして「いじめの正当化」はできない。
ここら辺まで書いたら疲れたので省略されました。結論まで一気に飛ぶ。内容は気合で察してください。
これまで、いじめ自体が発生するのは自然であること、「いじめの過程」自体は悪ではないこと、しかしいじめ自体は止めなければならないことを述べた。また、いじめ議論の主眼が、教育者からは加害者側に、親や世論からは被害者に置かれやすくなることを指摘した。
総合して、僕達は自分の子どもたちが加害者である視点をもつことが大切だと言いたい。多くの場合、自分の子どもがいじめに関わるとすれば残念ながら加害者の側だ。当然被害者となった我が子を救ってあげることは大切なのだが、加害者となっているときに親に言い出せず陰湿ないじめが悪化するケースも多い。
「愛しい我が子がいじめなどするわけない」という感情を我慢して、ひょっとしたら自分の子どもが加害者になっていないか、そういった視点で子供を見てあげて欲しい。
いじめられた経歴を話すのは恐怖を伴う。
まるで原因がこちらにでもあるかのように。
ぼくは精神的ないじめはあまりうけてこなかったので、いじめ全体のなかから見ると比較的軽度な部類にはいると思うけど、肉体的な苦痛もそれなりに辛かった。ごくごく親しいひとにしか話せないので、記録としてここに書いておく。
記憶にある限りでは最初のいじめは小学生の頃。通っていたスイミングスクールでのこと。
いじめられるようになったのは小学校の高学年になったころだと思う。
プールに沈められるのはとても苦しい。あたりまえだが息ができない。
「これ以上もう無理だ。って思ったときにプハァーってできない」って思う恐怖がもの凄い。
行けば沈められるんだけど、プールそのもの、泳ぐことそのものは好きだったから、誰にも言いだせなくて通い続けた。
いま思えば死と隣あわせの状況だったとも思える。
スイミングスクールでのいじめは、いじめられている子が訴えない限り、スクールの先生が気づけることは少ないと思う。これを読んでいる保護者の方がいらっしゃいましたら、そのところは注意しておいたほうがいいと思う。泳いでいる子のフォームの指導をしている間に、待っている列で沈められている子がいても、まず気づかない。
次はサッカーの合宿でのことかな。宿舎でも試合中でも無視され続けた。これはそのときは、自分が下手だからと言い聞かせてやり過ごした。
それから中学校にあがって。一部のメンバーからありとあらゆる雑務を押しつけられた。彼らの機嫌が悪いときには羽交いじめにされたり、花瓶から水を飲まされたりした。3人がかりで、1人が鼻をつまみ、もう1人が顔の正面から両方の頬をつかむように握力を込めると、口をあけずにはいられない。そこに最後のひとりが花瓶からの水を注ぎ込む。これは苦しい。ムせる。あと、なぜか恥かしい。別に悪いことしてないのに、教室の真ん中でこういう儀式をされて、それをクラスの子に見られているというのが、とにかく恥かしかった。
高校に入ってからは多少の仲間はずれなどはあったものの、明確にいじめと呼ばれるようなものを受けることはなかった。ただ、いじめられていたことを知られるのは怖かった。新しい環境でもいじめが再発しそうで。
それから大学に入り楽しい学生生活を送るようになり、いじめは過去のものと思えるようになった。
だからサークルの先輩マネージャーから「松田くん(仮名)、高校のときいじめられてたんだってw?」と聞かれたときは飛びあがるほど驚いたし、黒い幕がおりてくるような感覚に襲われた。
いまでも、いじめられていたことを話すのはとても怖い。
どんな環境であっても、まったく身に覚えがなくても、突如ふってわいたかのようにいじめは発生する。
自分のもとにいじめが発生しないためなら、できる限りのことはしたいと、大人になったいまでも常におもう。
社会人にもなり家を出た後に、母親にいじめられていたことを話したら号泣していた。
あたりまえなんだけど、やっぱり知らなかったんだなあと思った。
僕は自分がいじめられていたのを、自分にも責任があるとずっと思っていた。だからどうすればいじめられなくなるか、もしくはどうしたら新しい環境でいじめられないまま過ごせるか、ずっと考えていた。大人になってから知人(僕がいじめられていたことは知らない)から、「いじめはいじめられる方は悪くない。理由もなくコトがおこる。いじめられる方にまったく非がなくてもおこるから怖いんだ」と聞かされて、なんだかスッと気持ちが軽くなった。
あれだけ環境が変わっても、そのたびにいじめられてきたので、自分にもいじめられた原因があるといまでも思っている。けれども、その知人が言ったように世の中にあるいじめでは「いじめられる側も悪い」という発想は絶対にしないようにしている。
社会に出て気づいたことがある。
いじめる側もそれがいじめだと思っていないかもしれないし、もしかしたらいじめられる側もそうとは認識していない可能性がある。いじめた経験や、いじめられた経験がないと、感度が高くないのかもしれない。けれど僕の目から見ると、超軽度なだけで、構造は完全にいじめだよなと思える現象がたくさんある。
ちなみにいじめを正義感の強い誰かが止めてくれたりすることは、まずないと思ったほうがいい。誰もいじめられたくないわけで、いじめを止めるのはハイリスクローリターンの行為としか思えないからだ。
先に断っておくが、このエントリでは当事件の事実関係や市や学校の対応、ネット上の意見などに一切関与せず、「いじめ」と「自殺」について個人的な意見を述べるものである。
滋賀県大津市で起きた男子中学生の自殺を巡って世間に様々な声が上がっている。
Twitterを眺めていても、数は少ないながらも多種多様な人たちが共存する僕のTL上ではこの件を巡って、「いじめ」あるいは「いじめと自殺」を巡って活発な意見交換が行われており、日々感服するばかりである。インターネット上において「いじめ事件」が大々的に取り上げられるのは何も昨今に限った話ではない。何年も前から日本の各地で痛ましい「いじめ」についての事件が起こるたびにインターネットではそれについて激しいレスポンスが生まれてきた。それらは基本的に「いじめ」について批判的な意見なのだが、時にそれらは過剰すぎるといっていい反応に発展し、自称「正義の味方」たちが暴走したりすることはあるいみネット界隈においては日常茶飯事であった。僕自身は事件の経緯や事実関係などとはまったく別に、それらの激しい反応が巻き起こるたびに辟易したことを覚えているが、ここ数年でその状況は大きく、とは言わずともかなり変化したと考える。一昔前なら、こういった痛ましい事件が起きた場合、インターネット上での反応はほぼほぼ一種類だった。すなわち、「いじめた奴をぶっ殺せ」である。もちろん、言葉や表現、論調や論点の違えど、その大体は「いじめた奴をぶっ殺せ」だった。もちろん、感情論で言えば、そうだ。だが、はっきり言ってしまうが、今回のような「自殺」というキーワードが俎上に上がるほど苛烈で、悲惨な「いじめ」の事例に関して言えば、そんな短絡的な方法では問題の根は解決しない。
それはなぜか?
答えは単純である。
たとえ「その子」をいじめた連中が全員死のうが、少年院送りになろうが、ネットで晒し者になろうが、
いじめられた「その子」はもう大概「普通の人生を普通に生きる権利」を奪われているからだ。
何年か前に話題になった「いじめられているキミへ」の寄稿文らしいのだが、思うところあるので引用させていただく。
死なないで、逃げて逃げて
あなたが今、いじめられているのなら、今日、学校に行かなくていいのです。
あなたに、まず、してほしいのは、学校から逃げることです。逃げて、逃げて、とことん逃げ続けることです。学校に行かない自分をせめる必要はありません。大人だって、会社がいやになったら、会社から逃げているのです。
次にあなたにしてほしいのは、絶対に死なないことです。
そのために、自分がどんなにひどくいじめられているか、周りにアピールしましょう。思い切って、「遺書」を書き、台所のテーブルにおいて、外出しましょう。学校に行かず、1日ブラブラして、大人に心配をかけましょう。そして、死にきれなかったと家にもどるのです。 それでも、あなたの親があなたを無視するのなら、学校あてに送りましょう。あなたをいじめている人の名前と、あなたの名前を書いて送るのです。
はずかしがることはありません。その学校から、ちゃんと逃げるために、「遺書」を送るのです。
死んでも、安らぎはありません。死んでも、いじめたやつらは、絶対に反省しません。
だいじょうぶ。この世の中は、あなたが思うより、ずっと広いのです。
あなたが安心して生活できる場所が、ぜったいにあります。それは、小さな村か南の島かもしれませんが、きっとあります。
僕は、南の島でなんとか生きのびた小学生を何人も見てきました。
どうか、勇気を持って逃げてください。
「いじめられる方に問題がある」
最早時代錯誤過ぎて目が泳いでしまうようなおサムい台詞だが、これはわりと最近まで(ここ重要)いじめられっ子に対する教師や親の言葉として一定の説得力を持っていたことは悲しいことながら事実である。
んなワケねーだろボケ!!
「いじめられる方に問題がある」
→まず、これは最も頭が悪い意見だ。が、実際のところ「なぜいじめが起きるのか?」という答えに対して、ほとんどの人間がこの馬鹿みたいな空虚な言葉を目を伏しがちに言うのである。いいか、それは断じて違う。なぜかといえば、この論理は、「いじめられる」と「問題がある」というふたつの出来事が、あたかも因果関係があるかのように触れられているという点だ。「あの子には問題がある」→「だからいじめられる」という理屈だ。だが、こんな馬鹿な理屈があってたまるだろうか。確かに、人間だれしも社会的な人間関係を営むに際して「問題」を抱えているものだ。「空気が読めない」とか「性格が悪い」だとか「ええかっこしぃ」だの、はっきり言って枚挙に暇なんかない。そして、その「問題」を抱えていない人間も、この世界には一人もいない。誰だってできる限息がしやすい場所、陽の光があたりやすい場所にいたいと思うし、少なからず利己的になることだってある。もしくは、そもそも人間関係を営むことについて不得手だったり、嫌いな人間だっている。それは「社会的な(笑)」観点から言えば問題なのかもしれない。気に入らない人間だっているかもしれない。はっきり言えばムカつくかもしれない。だが、それだって仕方のないことだ。どうやっても自分には受け入れられない性格の人間というのは存在するし、そういう人間とどうしてか同じ空間で過ごさなくてはいけない場合だってある。そういう場合はもう、仕方のないことだから、適度な距離をとって「うまくやる」しかない。それはもう、どうしようもないことだ。だが。だが、である。
「(自分にとって)その人に何らかの問題があったから」といって、その人をいじめていい理屈なんかこの世界のどこにもないんだよ。
仮に、ものすごく性格がよろしくなくて、みんなに鼻つまみ者にされている人がいたしても、それははっきり言ってしまえばその人の「問題」だ。
社会的な営みをする以上、共同体において「邪魔」な存在というのはどうしても出てくる。それも仕方のないことだ。
もっと具体的に言えば、共同体において「ぼっち」の存在が生まれてしまうのはごく自然なことであり、それ自体は何の問題もない。
何のことはない、単にその人がその共同体に「合わなかった」だけの話だ。その「問題」ということについてだって、現実世界側のインターフェースが引き起こしたバグのようなものだと考えればたいしたことはない。コミュ障? キモメン? んなことは別に「問題」じゃない。もしそれで自分にコンプレックスやルサンチマンを抱えている人たちがいるのならば、もう素直に意識を別に向けるべきだ。今はインターネットという素晴らしい道具があり、その他にも数えきれないほどの環境や世界がある。はっきりいって現実世界なんかあまたある世界の表層のひとつにすぎず、僕達が保持している肉体はたんなるいちインターフェースに過ぎないわけである。だから、「あ、ここ自分には合わないな」と思ったらさっさと身を引いて別のコミュニティなり世界なりを探すことが自分にとっても相手にとっても健全だ。
だから、もし「いじめ」られている子がいるのであれば、その場から黙って去ることが最善の索なわけである。
僕は、「いじめられる方に問題がある」とも、「いじめる方に問題がある」とも思っていないので、「いじめ」が起こりそうな状況になったらデウス・エクス・マキナよろしく「席替えたーいむっ!」とする方がいいと思っている。
ならばこそ、すべての「いじめ」は上記の引用文のように「逃げて逃げて生きる」ことをすればある意味解決するのではないかと思われる方もいるだろう。
だが、そうは問屋が卸さない。というか、そんなにこの問題が単純であればこんなに酒によった勢いでエントリを書いていないわけで、ここからが本題である。
問題は、「逃げて逃げて生きた」として、その子が「普通の人生を普通に生きる権利」は依然として不当に奪われたままであるという点にある。
確かに、いじめられて、その結果自ら命を絶ってしまう事例があったとしたら、そんな悲しい話はない。
だが、それにもまして「逃げて逃げて生き抜いた」としても、そんなものは「死ぬ」のちょっと手前くらいの選択肢であり、最後の手段なわけである。
一口に「逃げる」と言っても実に様々な手段がある。
不登校になる、引きこもる、グレる、転校する、引っ越す、留学する……いろいろだ。
だが、どれにも共通しているのは「確実に人生が狂った」という厳然たる事実だ。
もし「いじめ」なんかがなければ、「その子」の人生が外的要因によって狂うことはほとんど無かったはずだ。
自分の命に対する自衛手段として、上記のどの手段をとったとしても、その子の人生はその時点を以てルナティック・モードにとつぜんモードチェンジする。
不登校にしろ引きこもりにしろ、その延長線上にあるのは学校の中退であり、すなわち人生の落伍である。「学校を辞めたくらいで『人生\(^o^)/オワタ』だなんてとんでもない!」とおっしゃるかたもいるだろう。じゃあ逆に言ってやる。あなたも、今の仕事なり学校なりを今すぐ辞めてみろ。転職のあても、転校のあてもなく、たったひとり殺伐とした世界に取り残されたとして、「よーし! 人生これからだぜ!」と思えるというのか。ただでさえどん詰まりの袋小路に迷い込んだこの現代日本で、大卒の就職率が5割だとか6割だとか言われている時代に、無職の高校(中学)中退者が「普通の人生を普通に生きる」ことができるというのか? 立場を変えて発言しよう。僕が中小企業の採用担当だったのなら、昼食無職職歴なしの人間なんか、なにがどうあっても採用したくない。感情論なんかじゃない、ごく合理的な数理的な判断だ。
転校だって引越しだって、かなりハードルの高い「逃走手段」である。というのも、なによりもまず、家族の協力が必要不可欠だから。
親御さんだって、もしかしたら仕事を辞めざるを得ないかもしれないし、お金の問題だってある。少なくとも「普通の人生を普通に生きていたら」かかる必要のなかった負担を負わなくてはならない。要するに、この時点で「いじめ」というのは「いじめっ子」と「いじめられっ子」の問題ではなくなるのである。ちょっとした「ムカつき」や「面白半分」が、一人、ないし数人、いや、ともすればもっと大規模な人間の「普通の人生」を狂わせるのだ。これが「いじめ」が「普通の犯罪」なんかよりも数段質の悪い点だ。「窃盗」であれば、早い話盗まれたお金が戻ってきて、犯人が警察に検挙されればひとまずは解決する。「器物損壊」だって、家裁か何かで妥当な損害賠償が請求されればそれ以上の発展はない。被害者にとってはたまったものではないが、少なくともそれ以降は「普通の人生」を送ることは可能だ。だが、「いじめ」に関しては――はっきり言ってしまうが――いかなる手段をもってしても、すでに起こってしまった「いじめ」を、それが発生するより前の状態に復元するのは不可能だ。いや、これについては語弊がある。「いかなる外部からの干渉をもってしても」いじめの根本的な問題は解決などしないのである。教師がいじめっ子に謝罪をさせたり、クラス替えをしたり、退学や停学処分をしたとしても、「いじめっ子」が「いじめ」たという事実は消えやしないし、「いじめられた子」が「いじめられた」という事実だけは覆しのしようがないし、取り返しも、補填も、まったくできやしないのだ。
「いじめた側が、本気で反省して、その後の人生のすべてをかけていじめた子が『普通の人生を普通に生きられる』ように全力で奉仕する」
より陰湿化が進む現代のいじめにおいてこんな奇跡みたいなことが果たして起こるのかどうか、僕は知らん。多分、99%の確率で起こらないだろう。
世の中の90%のいじめは、「なんとなく」「特に理由なく」「おざなりに」して、審判のホイッスルなくして「終わったっぽい」感じで終わる。
理由は分からない。とりあえず、台風が温帯低気圧になって北海道の上の方に消えて行くように、いつの間にかなくなってたりする。
残りの9%は「いじめられた子」の自殺なり「逃走」によって終わる。なんとも救いのない話である。
もしあなたがいじめられていることに対して何か負い目を感じているのであれば、とりあえずそれは忘れてください。
自分がいじめられることに対して、「仕方ない」だとか決して思わないでください。
あなたも生きている人間ですから、人間関係について至らない点、至らなかった点だっていくつかあるでしょう。
ですが、はっきり言いますが、そんなことで、地球上の誰一人だってあなたをいじめていい理由なんかにはならない。
あなたが、あなたの人格や過去の行動、家庭環境や趣味嗜好、思想信条によって、いじめれていい理由など、これっぽっちも、ありません。
そして何より、あなたは、「普通の人生を普通に生きる」権利を持っています。
そりゃあ、誰もがオリンピックに出たり、アイドルになったり、東大に入ったりはできないのも事実です。
ですが、本当はそんなことはどうだっていいんですよ。
あなたは、学校帰りに友達とマックに行ってダベっていいし、家に集まってモンハンをみんなでやっていい。
絵を描いて褒められていいし、ご飯が美味しいと感じていい。かわいい女の子を、かっこいい男の子を好きになっていいし、告白して振られて泣いたっていい。
好きなアニメを見て、好きな本を読んで、好きな場所へ行って、眠くなったら寝て、眠くなくなったら起きて、生きて、生きていいんです。
普通に勉強して、普通に進学して、普通に就職して、普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に子供ができて、普通に生きて、普通に生きて、普通に死んでいいんです。
もし普通が嫌なら、人一倍頑張って、自分が特別だと思える人生を手にいいれればいい。
ですが、それ以前に、あなたは、およそこの国の人間が「普通だ」と感じているあらゆることを手にする権利を持っています。
だから、あなたは自分を責める必要などまったくない。あなたは何も悪くない。もっと言えば、あなたをいじめた人間すら、悪くないのかもしれない。
僕には起こってしまった「いじめ」を解決する魔法のような手段はしらないし、これから起こるであろう「いじめ」を未然に防ぐ奇跡のような手段も知らない。
だけど、あなたが、「いじめられて損なわれた」からといってあなたが「普通に幸せと感じられるような人生」を生きる権利を失ってしまったわけではありません。
だから、自分勝手なことを言えば、本当はあなたは「逃げて、逃げる」必要なんてないんだ。表面上は「戦略的撤退」をする必要があるかもしれないとしても、
あなたの人生が「嵐のような不運」によって損なわれ、汚され、失われる必要などない。
それどころか、あなたは、その「普通の人生を普通に生きる権利」を人一倍、もっともっと今まで以上に傲慢に、尊大に主張していいんですよ。
「いじめられた」ことを理由に、あなたが自ら自分の可能性を閉じてしまう必要なありません。
もっと自分勝手に、生きればいい。でも、引きこもってもいいことは「何も」ないので、何かしらのキッカケで外にでるといいと思うよ。
そんでいまいじめてるお前。
まー今のお前なんかには分からないだろうけど、お前のやってることはおよそ人間がなす行動のうち、もっとも悪辣で、非道で、無意味なことだからな。しかし人間ってのは残酷だよな。自分の利益にならないことでも、何かのキッカケさえあれば、人を嬉々として苦しめることができるんだからな。俺はお前のことなんか知らないし、お前の生い立ちや人生観なんか知らない。お前が何かお前の中で正当な理由をもって「それ(とあえて言う)」をやってるとしても、それも知らん。だが、結果としてお前はお前と同じ、一人の人間の「普通の人生を普通に生きる権利」を「奪いかけて」いるということを考えろ。今日お前が美味しいと感じた夕食、今日お前が面白いと感じたテレビ番組、今日お前が楽しいと感じた帰り道。その子のそれら全部を、他ならぬお前が奪おうとしているっていうことを考えてみろ。俺はお前なんかに同情しない。お前の中にどんな理由があるにせよ、それはお前が「それ」をやる理由にはなりえない。なんの妥当性もないし、なんの解決手段にもならない。だからといって、お前が考えてること、感じていることがまったくの間違いであるとも言えない。だが、「それ」と「これ」とは別問題だ。お前の中でいかなる繋がりを持っていたとしても、それは、本質的なところで無関係だ。だから、やめとけ。お前がそいつのことを嫌いならそれはそれでいい。だったら関わるな。何もするな。意識を別のところに集中させろ。暇だったら黙ってオナニーでもして寝ろ。そんで、もしお前がかつていじめられっ子だったのなら、なおさら、やめろ。お前にも色々な事情があるのか知らないが、それはもう忘れろ。許さなくて良い。ただ、忘れろ。それ以外は何もするな。そんで、自分の好きなことだけ考えてろ。好きな本だけ読め。好きな音楽だけ聞け。好きな場所にだけ行け。好きなやつとだけ絡め。だから、決して「それ」を生きるモチベーションなんかにするな。そんな人生、悲しすぎる。
どうか気負わないでください。それを自分のせいだと思わないでください。
自分を無力だと嘆かないでください。自分を卑怯者だと罵らないでください。
何か特別なことをする必要なんかないんです。ただ、黙って、普通に、普通に接してあげてください。
いじめられている子が何より苛まれているのが、「ひとりぼっち」という孤独感です。
どんな暴力や陵辱よりも、「ひとりぼっち」というのは辛いです。
誰も味方がいない、誰も自分のことを助けてくれない、そういう状況こそ、危険です。
過剰なことなど何も必要ありません。ただ、声をかけてあげてください。
人の目が気になるのであれば、メールでも、なんでもいいです。
とにかく、その子を孤独にさせないでください。その子が、そこにいていいことを、示してあげてください。
いだいて援助しようとせず、責任がないと考えれば同情し
て援助する傾向があるといいます。
無視、うわさの流布(るふ)、友人関係の妨害など、被害者に社
力者や賛成者を組織するために3段階の集団操作活動を行います。
[孤立化]
害者にあることを印象づけ、被害者を加害者に仕立てて孤立化させます。
[無力化]
力化させます。
[透明化]
強め、被害者にいじめを甘受させるよう仕向けて、いじめを透明化します。
いじめ事実が判明し、糾弾(きゅうだん)される立場になった加害
者は自己正当化のためにアピールをします。「あいつが悪いからだ」
「嫌がっていなかったから、いいのかと思った」「他の人もしていたから」
など。加害者の認知的工作活動や自己正当化により、周囲の人間は
「いじめられる方にも原因がある」「自業自得」と考え、被害者を助け
ようとしなくなります。
ごうまんで、自己特別視が強く、情よりも利で動くタイプを自己愛性
性格と呼びます。恥ずかしがり屋の人は、ペラペラと平気で嘘をつく
自己愛性性格性格の人とかかわれば間違いなく餌食(えじき)になります。
暴力のきっかけは、ささいなすれちがいです。自己愛性性格の人は、相手に
少しでも思いどおりにならない態度をとられたり、批判的なまなざしを感じ
ると、裏切られたように感じ、激しい怒りをおぼえるのです。
このタイプは、幼いうちはちやほやされたり、過度に甘やかされたりしてい
ますが、とちゅうから愛情や承認をうばわれる体験をして育っています(弟
妹が生まれたり、親の勝手な期待ほどの能力がないことから、親から十分に
関心を持ってもらえなかったなど)。そのため成長してからも幼い顕示的欲求
(けんじてきよっきゅう・目立ちたい欲求)を持ち続けています。
とにかくでしゃばりで、どこにでも出ていきたがり、なんでも威張りた
い人です。自分が中心でないと気がすみません。その自分の立場を脅か
す者には猛烈な憎しみを持ちます。ヒステリー性格の人は、人を傷つけ
ることに快感を持ち、スキャンダルをつくりあげて、人を失脚させよう
とします。
自分の利益だけを考えるので陰口が多いし、人の間に入ってそれぞれに
違うことを言って人々を攪乱(かくらん)します。しかし表面的には親切で
、社交的です。冷酷なエゴイストなのに、演技がうまいから、いい人と間
違えられます。
「私は恥ずかしがり屋の人間である」と思ったら、生きていくうえで
もっとも注意することは、自己愛性性格の人と深くかかわらないことです。
参考 『境界性パーソナリティ障害』 岡田尊司 幻冬舎
あんなにいじめられっ子に対してひどい目にあわせているのに
どうしてそういうことが言えるのかというと
「お前さえいなければ自分はいじめっ子にならずにすんだのに」といういじめられっ子に対して理不尽な感情があるからじゃないだろうか。