はてなキーワード: 白衣とは
薬品を扱う系の研究室なので、服装は足首まで隠れるズボンとスニーカーでなくてはならない。
3年生までの私は、めざましテレビのお天気お姉さんみたいな、ニットにスカートにタイツにパンプスといった格好をよくしていた。
別におしゃれするために大学に行くわけじゃないし、大体白衣で隠れてしまうし、同じように動きやすい恰好しかできない職場も多いだろうし、これをどうにかして欲しいと言いたい訳ではない。
安全性は最も大事である。またいつの世も女は制約された中でおしゃれを探求するのは好きなので別にいいのだ。
ここからが本題なのだが、割かしおしゃれに疎い私は、「足首まで隠れるズボン」というとスキニージーンズしか知らないのだが、毎日同じズボンも飽きるので、他に何か無いだろうか。ワイドパンツは裾がヒラヒラするのでむしろダメである。
普段好きだったオフィスレディ向け(多分)の雑誌はパンプスがデフォだから全然参考にならないよ。
長ズボン+スニーカ―でのおしゃれ特集とかやっている雑誌無いかなぁ。ググるスキルが無いのでインターネットでの探し方もよくわからないよ。
2012年頃、大人の発達障害者への治療薬が適用になったこと、発達障害が話題となったことがありました。その当時、ネットの発達障害チェックをうけると「その疑いが強い」の判断があり、
自分も発達障害であるのかど強く悩み、予約不要のメンタルクリニックを行くことがありました。しかし、そこの病院は大変に混雑していて、当時は相談することを断念しました。
そもそも冷静に考えてみたら当時の私にはいろいろな抵抗感がありました。
しかし、今年の1月末頃『宇宙よりも遠い場所』の主人公の玉木マリの「何かをしたいけど一歩踏み出せない」という人物像に共感を抱くようになり、次第に作品に嵌まるようになりました。しかし、彼女たちは南極へ行きたいという夢を実現するのに自分は余りに変わらない事に愕然として、次第に深酒をしないと眠れず、毎日耐えられない不安に襲われるようになりました。
しかし、最初はうつ病を疑ったこともあり、律儀に二週間様子を見ようと思ったことと繁忙期だったこともあり実際に病院への受診を決断したのはさらに一月遅れることとなり、2月20日頃病院に電話をして、5日後に受診の予約を取り付けました。
こうした状況になるおよそ半年前の昨年8月に遡らなければなりません。絵を描くことが趣味だったこともあり「1番目は時間配分を変える。2番目は住む場所を変える。3番目はつきあう人を変える」という経営コンサルタント大前研一の言を間に受けてSNSのフォロワーをがらりと変えたことがあったのです。しかし、彼らの素晴らしい実績を裏腹に自分は何も変わることも無く、ものすごい物をインプットし続けて次第に疲れていったのか、時間だけがいたずらに過ぎていく日々が過ぎ、夏コミの本を整理していると「もう半年経ったのか」という時間の経過に愕然とするようになりました。
先生は普通には白衣だろうと思っていたのですが、普段着だったことに驚きました。ただ、そこの病院は正直その先生の物腰は優しいのですが、しばしば話が噛み合わず「あった先生」とは言えませんでした。そこの病院は先生が一人で臨床心理士が居なく発達診断の診断は出来ないので他の病院を探してくれ(おいおい紹介しないのか?)と言われる始末で、自分で今度受診する病院を探し、二ヶ月後に予約を取り付けましたが、それでも、抗不安剤と睡眠薬で随分私を救ってくれました。
今回、精神科医療における一番のハードルは親でした。すぐにキレる。お前は生きる価値がない等の暴言を繰り返す親である以上、病気への理解が全く皆無であるとしか思えなかったのです。診療を秘密にして自分のお金だけで受診をすることを本気で検討したこともありましたが、治療費を考え断念したこともありました。先述のメンクリの先生に(親の説得材料に)「診断書出してくれ」といっても「紹介状あるんだからいいだろ」の一点張りで結局自分でカミングアウトすることになり、それが一番のハードルでしたが、もともと思い当たる節があったのか、案外優しくむしろ繁忙期に病院に同行する事へのいらだちの方が多かったのです。
結局、自分だけで悩むと1年以上時間を無駄にしてしまいました。生きるのは厳しいかも知れませんが、しかし手を差し伸べれば差し伸べてくれるだけの手はあるのです。もし、今後(治療方針や検査など)が不安というならまず近くのメンクリで抗不安剤だけ貰うというやり方もあると思います。検査は25日でまだ自分がどういう精神状態なのかが解りませんが、一人でも多くの人が救われることを願っています。
お元気でしょうか、先生。
友達はいたけどわたしのことをよく思わない子もクラスには一定数いた気がする。
とにかく人とうまくやれなかった。
たぶん嫌われてはいなかったと思うけど
神経質だし気にしすぎなくせに我儘だったり、自分のそういうとことうまく付き合っていけなくてつらかった。今もだけど。
そんな感じだったので親にカウンセリングに通わされていた。
市のセンターのやつとかスクールカウンセラーとかいろいろ。
その頃から市の大きめの病院の神経科、という名の精神科のカウンセリングにお世話になり始めた。
どんな話をしてたかは覚えてない。
月1回1時間弱、話すだけ。ただそれだけの時間が高校2年生まで続いた。
先生は割と自分の体験談も交えて話してくれるタイプのカウンセラーで、合う合わないはあると思うがわたしはそれで逆に安心した。
優しく聞いてくれるけど、だめなことはちゃんとだめって言ってくれる人で、高校に入ってバイトをし始めたわたしの通帳を親が管理していると知ったときに、それはよくないって止めてくれたのは覚えてる。
わたしは戸惑った。月1だけどここ以外にほんとのわたしを知ってくれている場所なんてなかった。
最終回。
今まで親にはずっと
いつもいい顔ばかりして
みんなわたしが爆発してもどうしてって顔をして
でも、先生はそれでも良いって言ってくれた
あれがあったからここまで生きてこれたと思う。
もちろんそれはわかっている、信用ならないと思っていた、けど
きっとそれだけじゃなかった。って信じたい。
今でも思い出すたびあったかい涙が出る。
うれしかった。とても。
心の奥の大切なものを入れている引き出しに、ちゃんとしまってある。お守りみたいに。
わたしもそんな人になりたくて、今進路を決めている
カウンセラーではないが
すべての人がそれぞれの輝ける道を歩けるように
理想かもしれないけど。
https://anond.hatelabo.jp/20180124221748 を読んで現場は大変なんだなと同時にそういうものを書き込んでくださった増田さんに感謝している。
大変そうだけれど、無理しすぎず、ほどほどのところで過ごして欲しい。
それだけじゃ何なので、掲題通りである。
一時期入り浸っていたことがあるので記憶のある限り書いてみる。
小学校は何回か転校していたため、正直各学校の独特の匂いとやけにじめっとした、あるいはやたら日当たりの良い図書室の壁に添って作られた本棚を思い出す。図書カードの置かれたあのカウンターだとか。おとなしそうな図書委員だとか。似たような雰囲気だなあと思っていた。
低学年の頃は授業時間に行く以外では寄り付かず、気が向けば学級文庫か自宅にある本を読んでいた。
その頃好きだったのは大判で、フルカラー写真が多く載っていたこまごましたものが特集されていた本だった。
ただ眺めているのが楽しかった。シリーズで何冊かあったが、色で分類されていたと思う。漢字で書かれていたテキストの部分も気が向けば適当に読んでいた。
不遜な子どもだったので、およそ感想文の類を提出したことがなかった。課題図書もふーんと眺め一度だけ気になったものを借りたか買ったかした程度だった。
自宅では主にオカルトに凝っていた時期だったと思う。魔女とか怪談とかそういうものを読み漁っていた。
なんとなく耳をすませばを思って、半年かけて図書室の本を全部読んでみた。伝統ある学校に比べたら冊数はそれほどでもないと思う。普通教室3部屋程度。読んでみたが読んだはずの本でもおぼえていない本が結構ある。
きっとその頃は読み切ることが目標だったのだろう。それでもいまだにその頃出会った作家で読み続けていたり、何冊も装丁違いで購入した本があることはひとつの宝物だと思っている。
あとすべり止めで受けた私立高校の入試で読んだことのある作品が題材だったのも愉快だった。
そこから高校までで多いときは一晩に文庫8冊。一番かかったのが篠田節子氏のハルモニアで2日だったと思う。
なんとなーく早く読めるようになったりもした。あの数年間は登下校時にも本を手放さなかった。
勉強はあんまりしなかったけれど、勉強せずに中学2年で漢字検定2級が受かる程度には知識も増えた。
当時は図書カードがあったので、誰がどの本を借りたのか分かるのも面白かった。天沢聖司にも月島雫にも出会えなかったけれど。
ここ数年で文庫化された書籍も当時はハードカバーで、月に10冊前後は購入されていた。それを片っ端から読みつつ、すでにあった蔵書も読んでいた。
多感なお年頃なので、性描写のあるものに出会うと成人指定の境界ってどこやねんと思ったりしながら読んだ。(し、本屋に行けば女性向けのBL小説は性描写があっても普通に買えた。謎だ。凝り性なものでそちらもだいぶ読んだがこちらは卒業したかもしれない)(コバルト文庫でも結構あると思う)(基準が謎だ)
野中柊氏のダリアとか、ドキドキしながら読んだ。今思えばかわいいものだ。
後宮小説なども読んで良いのかなと思いながら読んだ。
地元の公立高校で初めて、司書さんという存在を校内に認識した。いつも白衣をまとった女性で、図書館以外にもいるんだなと思った。その学校では希望があればCDなども購入していた。
アングラっぽい写真集や当時走りだったライトノベルを一式入れてくれたりもした。(その後、メディアミックスされた各作品の初版本が揃っていたため、数年後盗難にあったそうだ。嘆かわしいと同時に初版本に価値を見出す感覚がまだあるのだなと感じた)
同時に、遠野物語をはじめとする民俗学やら薔薇の名前やらを借りまくっていた。
学業に励む生徒にとっては、赤本がずらりと並んだ赤本専門の小部屋があるのも魅力だったかもしれない。
その頃は読んだなあというほどは読んでいないと個人的には思っている。
ただ、気になっていた本たちをするする入れてくださった司書さんには当時も今も感謝している。
森博嗣氏のシリーズもいくついれてもらっただろうか。講談社ノベルスがやたら充実していた。
お小遣いでは追いきれない本たちをあの時期に読めたことには感謝しかない。
ちらほらある小説もだいぶ前で時が止まっている。
大型書籍は比較的充実していたが、借りるには重いので閲覧のみとなる。
専門書も同じく時が止まっていた。
半地下で静かで独特の雰囲気が好きだったけれど、およそ学業のための空間ではなかった。
卒業後も利用できるということだったが、生憎地域の図書館の方が便利であった。
今につながる本の思い出。
急接近したり、離れたりしつつも、どんな格好であれ図書室・図書館は存在してくれればいいなと思う。
読む子は何をしても読むし、読まない子は読まない。
ひどいようだがそんなもんだよなと思う。
あるときブログで家族から勧められた本が という記事を見て、自分の家ではない習慣だなと思った。
家の中にある本は読みたいだけ読んだ。隔離されているような本も気になればこっそり読んだ。
教育機関にあったら驚かれるかもという本もリクエストして入れてもらえれば読んだ。
面白かった本を教えてと訊かれたら100冊くらい列挙できた(今はどうだろう?)
それだって、きっかけは耳をすませばだ。(個人的な気質はあるにせよ)
こういう本が読んでみたいなと思って書いたこともある。
作文はからきしだけど、幸か不幸かある程度蓄積があるので大学教員には高評価だったりもした。
もうちょっと器用だったら桜庭一樹氏のようにアウトプットにも使えたかもしれないが、そこに愛が足りなかった。
ルールのあるなか、大変苦しんでらっしゃる元増田さん越しに、学生時代、本を介してお世話になった司書さん司書教諭の先生方には感謝を伝えたい。
思えば、落ち込んで図書室にこもっていたような日もあったと思う。
期限通り返せなくてお手間を取らせたこともある。申し訳なかった。
強引につけたかつけていないかは話を読めば分かるでしょう。話が自然に繋がっているかいないかの話なのですから。
白衣性恋愛症候群の例ならこの作品を実際にプレイすれば分かります。
作品があるのに、何故それが「外からでは分からない」のか分かりませんが。ハッピーエンドが良いかどうかバッドエンドが良い(済みません、ここでは好きかどうかを意味します)かは人によって違いはあっても、
それを主観だというから、その論でいえば、ハッピーエンドが良いかどうかバッドエンドが良いかはそれこそ主観だと言ったまでです。
バッドエンドはシリアスなのでしょうか?そこに疑問を抱きました。
serious とは
https://dictionary.goo.ne.jp/word/en/serious/#ej-75884
フィクションにおけるシリアスとは下記のことではないでしょうか?
2 〈文学・演劇・音楽などが〉(内容において)堅い,まじめな,深く[深刻に]考えさせる,シリアスな;〈作家などが〉堅いものを書く[扱う](⇔light);〈学問・研究などが〉本格的な;((米俗)) まじめな印象を与える,体制に順応した
これを見ると、ハッピーエンドでもシリアスとか、バッドエンドだがシリアスではないという事も有りうると思います。
私が感じた例ですと、工画堂スタジオの白衣性恋愛症候群というゲームです。
このゲームはバッドエンドが衝撃的なことで有名です。
しかし、バッドエンドではどうも物語が繋がっていない・・つまり無理矢理だと思います。
雰囲気は重いけど、その内容は取って付けた軽いものというべきでしょうか。
旧2ちゃんねるの書き込みに、「バッドエンドは物語の整合性をとることよりもプレイヤーを驚かすことを優先したのだろうと思う」というような内容の書き込みがありました。
これこそ私が言いたかった事だと感じました。
結局、ハッピーエンドやバッドエンドを初めから求める事が奇妙であって、エンディングは(1)作風に合致し、(2)物語の整合性がある、(3)多少はリアリティがある事が大事だと思います。
おお、はあちゅう。君は僕のミューズ。美術館に囚われし姫。白鯨の住む大海原を優雅に泳ぐ人魚姫。清らかな、泉のような流れに逆らい、君を辿ればあたりは異臭。水は目に見えて濁りゆく。あたりは糞尿まさに下水。たどり着く先は便所小屋。きっとそこは、君が見たアンモニア香る素晴らしい景色が広がっているんだね。
おお、はあちゅう。君は知っているか。桜の樹の下には屍体、枝の先には熟れに熟れた実がたくさんたくさん実っていることを。傍ら君は、満開のサクラ色めくサクラ通りを、電気仕掛けの華やぎで演出することに勤しんでいたね。知ってるよ。その下にも屍体が埋まっているんだ。君はその屍体を、屍体たちの透明な苦しみを、海の巫女として色めく言の葉にして拡声器に載せ、またたく間に大海原をその言の葉の色で埋め尽した。ほんとうに圧巻だった。
おお、はあちゅう。君がその傍らで、手に取り玩んだのは、大海原に映った桜の実の影だろう。それが象徴する苦しみは限りなく透明に近いブルー。チェリーの記憶を持つものにしか真っ赤に見えない。おお、はあちゅう。僕はその色のない影に、色を、限りなく目立つ彩色を試みたんだ。おお、はあちゅう。君はやっぱり気づかなかった。僕は、君の知らないところで大海原に流れ薄れ溶けて消えていくその悲しみをぼんやり眺めていたんだ。
おお、はあちゅう。君は清らかな海の巫女。君を取り巻く警備員が、拡散された言の葉の色の濁りをたしなめたね。それは僕の、僕たちの悲しみの色だったんだ。おお、はあちゅう。君は眩しい。目を覆わんばかりさ。君と僕たちが生み出す摩擦は火花を放ち、みるみる海を漂う言の葉を真っ赤に染め上げた。
おお、はあちゅう。君は炎の歌姫。君の鎮魂歌は虹色の原油。おめでとう。君は油田を掘り当てたんだ。いつ海の奥底で地盤が動いたのかはしらない。たまたまそこから溢れたのが糞尿まみれの原油で、本当にたまたま君の真下だったんだ。君は、限りなく透明に近いブルーだったチェリーの悲しみが誰の目にもわかる熟れた警戒色に変わったのは何時?と歌う。コウモリのように、君を断罪する理由が黒い灰になって宙に舞い、空を覆い、世界は太陽の光を失いほの暗くなった。悲しみと怒りと煽りが雑じったショッキングピンクのグラデーション。超音波、高音波、波と波がうねりぶつかりくだけ、大荒れが君の歌声を掻き消す。灰色が充満する世界で炎に照らされた君。おお、はあちゅう。君は、もう、真っ黒。
おお、はあちゅう。クー・クラックス・クラン、ナチス・ドイツ。君もすっかり差別主義者。信じられるかい。君たちは、かつて私を悪から守るヒーローだったんだよ。黒人、ユダヤ人、童貞。その他、たくさんの悪を教えてくれたね。私は彼らを人間と思わず、ムチで打ち、十把一絡げに大量虐殺したんだ。でもね。海の底で地盤が動いたんだ。こくじんはにんげん、や、ゆだやじんのくるしみ、そして、どうていのかなしさ、は鮮やかに色づいたんだ。一方、クー・クラックス・クランの白衣は黒衣に。カッコいい正義の軍団ナチス・ドイツは糞尿まみれになった。はあちゅうは真っ黒。海の底の亀裂から海上に、吹き出した糞尿臭い原油の黒さは、君たち差別主義者を見分ける目印さ。
おお、はあちゅう。君は知っているか。ライトポリティクスのナイトが存在することを。誰かの祈りの言の葉に呼応して、どこからともなく現れて、海の底を伝説の棒でぶっ叩くのさ。おお、はあちゅう。君が悪いのさ。まさか糞尿くさい原油溢れる亀裂の真上に君がいるなんて思いもしないじゃないか。君もびっくりだろう。でも警告はした。そしてそれは君に届かなかった。おお、はあちゅう。でも安心して君をひとりにしないよ。今、君を嘲笑して、バカにして、消えろって言っている私たちの内の誰かも、人間を人間と思わず、無知でムチを打ち、大量虐殺を楽しんでいるんだ。でもね。またいつか海の底で地盤が動くんだ。きっとまた正義の騎士が軽い感じに(ライトのナイトがライトに)伝説の棒で海の底をぶっ叩いて、吹き出した原油と糞尿がそれまで高らかに正義を掲げていた誰かの頭に直撃するんだと思う。
ねぇ、はあちゅう。この現代アート、バカみたいで笑えるだろ。もし君がこの額縁の中に真っ黒、糞尿まみれで存在しないならば。でも、だからこそ笑えよ。君を人とも思わない未来の差別主義者である私をも。
最近家族そろって新しい歯医者に変えたんだけど、そこの受付の女の子がなかなか可愛い。
たれ目のおっとり系ですごく愛想がよくで院内に入ると毎回笑顔で挨拶してくれる。小林麻耶をもっと素朴にした感じで、そんな子が白衣きてカウンターで座っている感じ。
初めてその歯医者にいったときは待合室で待っている間に時間があったら一緒にいた3歳の息子の相手してくれて「かわいいねー」って奥から玩具もってきてくれたり、後日俺だけ歯の詰め物で検診したらその子が俺を確認したら「息子さん元気ですか?」「今日はお留守番ですかー?」とか愛想よく話しかけてくれる。こっちもすぐ彼女に好感をもってしまう。
いやー久々に見たね、あそこまで完成度の高いナチュラル童貞キラー。
おそらく女性に免疫のない男性だったら一発で「この子、俺に気があるのかな?」とか勘違いして恋に落ちちゃう感じ。ラジオ番組の相談コーナーとかで「〇〇病院の受付の子が好きになっちゃった」とかの男性からの恋愛相談に登場しそうな子。
実際にはああいう女性は誰にでも大してああいう接し方ができる子で、はじめと会う人とも円滑にコミュニケーション取るために相手から好感を得られる行動を無意識にできちゃう子なんだよね。
俺も学生時代はああいう子に片思いして痛い思いしたのが懐かしい笑
さすがに俺みたいに結婚して子供もできて立派なおっさんになると、ああいう女性の行動を客観視できるくらい痛い目にあってきたので変な勘違いもしないですむけど、それでもやっぱああいう子と(病院の受付といえ)話すのは楽しい。
https://anond.hatelabo.jp/20160822142254
1. 高部知子のニャンニャン事件をモチーフにした話。干されて「仕事をください。」って言いながらSEXしてた。
2. 処女を捨てたい女の子の話。昔はグループサウンズやっててモテモテだったが今は鳴かず飛ばずの歌手のおっさんと初体験をしてた。
3. 蒲田行進曲のパクリでアニキが病院に入院して看護婦に言い寄る。でも看護婦は見舞いに来ていた弟分が好きでアニキが毛じらみ持ちなのでアニキの下半身の毛を剃ってSEX。その後弟分と看護婦が井の頭公園でアハハウフフと追いかけっこしてEND。
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(参考/追記)いずれも1984年3月上旬封切りのようです。劇場は(中上健次も通ったという)練馬映画劇場でしょうか。僕は90年代半ばの一時期に高野台と光が丘で暮らしており、その頃、江古田文化劇場とともに、かつて存在した名映画館の名前を知りました。足を運んでみたかったです。
id:dusttrail さん にゃーん😺
退職するまで希望有給なんか使わせてくれたことなかった。3月いっぱいで退職させてほしいっていっても、「新人指導で人手がたらない」とか意味不明な理由で退職させてくれなかった。
新人も夏くらいにはある程度一人立ちするだろうから、それを目途に師長に退職希望の話をしたら、
は?
なに言ってんのこいつ。なんなの。
使わせられないと思うってなにお前。
わざとか。
退職金もロクにないくせに。
これまでも有給たまりすぎて消えていったのに。返せ。労基チクってやろうか。
病院ほど福利厚生クソな環境ないんんじゃないだろうかって思うくらい労働環境地獄すぎる。
こんなクソみたいな労働環境で誰が働き続けたいと思うの?バカじゃないの?
潜在看護師60万人くらいいるのに。
なんでみんなが臨床を続けられないのかってしっかりアセスメントしろよ。
賞与も減らして、何あほみたいに金かけて求人ばっかだしてんの?
離職率数字にしてみてみろ。匿名で労働環境アンケートとってみろ。改善点がクソほど出るわ。
サービス残業してね、
って、死ねって言われてるに等しい。ほんとにあちこち体も悪くなった。
看護師無理。続けれないわ。
一般企業ならあり得ないブラックさが当たり前すぎて怖い医療系。
給料もでない、休みだけ奪われる看護研究だとか地域ボランティアとかいうイベントもクソ。
二度と看護師なんかしない。
絶対しない。
自分より学歴の高く自分より年齢が低い者に説教することに悦びを見出す人たちがいる。彼らにとっての恰好のターゲットは医学生である。彼らは医学生に「良い医者にならなきゃダメだぞ」と説教して学歴コンプレックスの鬱憤を晴らす。
「彼ら」は医学生だけを標的にする。本当はエンジニアや官僚や教員や研究者や薬剤師やアナリストやクォンツを志望する学生にも説教をしたくてたまらないが、できない。それは、「彼ら」はエンジニアや官僚や教員や研究者や薬剤師やアナリストやクォンツが何をやっているか知らないからだ。高学歴者の就く職のなかで彼らが辛うじて理解できるのが医者だけだ。だから医師志望の学生に集中的に説教をする。
外来や臨床で患者と向き合う時間は医者の職務のほんの一部でしかないのだが、「彼ら」はここを攻撃してくる。先日入院したときの医者はとんでもないやつだった、患者の目を見ない、難しい用語で説明する、患者の話を途中で切る、親身さが感じられない、看護婦からも嫌われていた ( 「彼ら」はいまはもう看護師と呼ばれることなど知らないし、まして「パラメディカル」だなんて単語は聞いたこともない。病院にいて医者でない人間はみな「看護婦」なのだ ) だのと、礼儀上の不備をまくしたてる。礼儀に関することは、どんな学識のない人間でも一家言持てることである。「彼ら」の得意領域はここだ。礼儀正しいだけで病気が直るならば医学は要らない。全国の公立中学校の野球部員をかき集めてきて白衣を着せて医者に任ずれば良い。現実がそうでないということはやはり医師にとっての必須の素質はそこではないということだが、「彼ら」は気づかない。
病人はわかりやすい弱者である。だから病人に対する態度は道徳的文脈から非難しやすい。加えて、医者の給料は税金から出ているから、「彼ら」にとって自分も何か言って良いという認識を持ちやすい。