はてなキーワード: 一神教とは
おっさんが飲み会で真実の愛について延々語るだけなので、哲学書の入門編にいいんじゃないかな。楽しそうにしてるおっさんはいいぞ。
どうしてフィクションで人は感動するかについて述べた本の走りで、後半は散逸しているんだけど、カタルシスについてはなるほどなあ、とは思った。作家になりたいんだったら普通にハリウッドの三幕構成の本を買ったほうがいいかもしれないが、この読書リストを読んでいる人は実用的な知識よりも読んでいて楽しいかどうかを求めている気もする。
読もうと思ったまま長い時間が過ぎてしまった本で、まだ読めてない。アウグスティヌスが若いころややりたい放題やっていた時期のことも書いてあるらしいので、宗教書として以外にも楽しめるんじゃないだろうか。
塩野七海がエッセイですごく推していたから読んでみたけれども、普通に面白い。例えば、中途半端に生かしておくと復讐されるから、いっそとどめを刺しておけ、みたいなことが書いてあって、優しいと人から言われてしまう自分には大いに刺激になった。ところで「孫子」もそうだが、戦争や政治学について書かれた本はたいてい「そもそも戦争は大悪手で、戦争になる時点で何かやらかしてる」という趣旨の言葉があり、全くその通りだと思う。
未読なんだけど、結婚とはある種の契約なんだから、まず処女と童貞がお互いに裸を見せ合ってからだ、みたいなディストピア的な描写もあるらしく、ディストピア文学好きの人は楽しめるんじゃないかな。あとは非モテ界隈の人とか。実際、完全な平等な社会を目指そうとするとどっかしら歪みが出るもので、それについて考えるのにも使えそう。
自然科学的な考え方、ロジカルシンキングのマニュアル。長くないのですぐ読める。得るものがあるかどうかはわからないけど、逆に普段している論理的思考がそもそも存在しない時代があったことは、実感しておくと歴史を学ぶ上で面白いかも。
平凡社の上巻を読んで挫折。純粋な理性っていうけれども、ヒトの心にはデフォルトで時間とか空間とかの枠組み、基本的な概念が組み込まれているよね? 的な話をやたら細かく述べていく内容だったように記憶している。長いので三行でまとめたくなる。
この本に限らず、いくつかの哲学書は「この本さえあればあらゆる哲学的論争をおしまいにできる」「この本からあらゆる結論が導き出せる」的なスタンスで書かれたものが多い印象。
エヴァヲタなら読まなきゃという謎の義務感から読んだ本。要は、どうすれば自分を信じることができるか、について語った本であったような気がする。自分は救われないだろうという絶望から、それでも神を信じるという境地に至るまでの道筋を延々と語ったようなものだった、はず。
自分は特定の信仰を持たないが、どうせ自分なんてと己を見捨てた境地から、まあ自分は自分だよね、的な気分に至った経験がある人が読むと楽しめるだろう。
「善悪の彼岸」と「ツァラトゥストラはかく語りき」なら読んだ覚えが。自分はカトリックの中高一貫校出身であったせいか、キリスト教思想にある欠点を指摘したこの本を面白く読んだ。キリスト教になじみがなくても、たとえば来世があると考えることで現在を生きることがおろそかになるといった指摘は、興味深く読めるんじゃないだろうか。あとは、増田で定期的に出てくるルサンチマンがどうこうとかいう話が好きな人にもおすすめ。マッチョぶってるところはあるが。
新潮文庫の「夢判断」「精神分析入門」「トーテムとタブー」「一神教の起源」なら読んだ。フロイト自身はヒトの心を脳から探りたかったらしいのだけれど、当時はMRIやら何やらはまだないので対話式の治療法を導入したらしい。
彼の理論は今となってはツッコミどころがたくさんあるのだろうけれど、クラインだとかビオンとかについて触れるなら頭に入れておきたいし、心理学特にパーソナリティ障害について読むなら知っておきたい。自分はフロイトやアドラーよりもユング派だが。
ラブストーリーの「ナジャ」だけ読んだ。謎めいた女のあるある的な話だ。
「論理哲学論考」だけなら読んだ。これもカントみたいに「俺が哲学のくだらない争い全部終わらせてやる」的な立場で書かれている。定理がずらずら並んでいるだけで、余計な表現がなく、簡素。
ただ、言語の限界について今の人が持っている感覚ってのは大体この時代の人が言っていたことだった気がするし、そういう意味では面白いんじゃないかな。この辺は数学ともかかわっていて、ペアノとかゲーデルとかヒルベルトとかその辺興味があったらいかがでしょう。
ちなみにウィトゲンシュタインがポパーとの議論でキレて火かき棒を振り回したヤバいやつだというのは哲学界隈では有名らしい。
シン・ウルトラマンの予告編でちらっと映っていたので読んだらいいかもしれない。
この本そのものは未読で「悲しき熱帯」ともう一冊なんか専門書を読んだことは覚えている。面白かったエピソードの一つは、ある民族は身分を入れ墨にするんだけど、入れ墨のない人間(白人たち)を見て面食らう。要するに身分証明書を持ってないようなものだから。
定期的に異民族と共に暮らすドキュメンタリーが読みたくなる性分なのだが、それはたぶん、自分のやり方や考え方が絶対じゃないってことをよく教えてくれるからで、これも本を読む効用の一つだろう。趣味なので効用なんて本当はどうでもいいが。
面白い。僕自身のスタンスとしては、日本人が海外で誤解されていることを批判するんだったら、自分も外国に対する偏見や無知を減らそうと努力するのが筋だと思っていて、それの理論的な補強をしてくれた本。身近に外国人の多い環境ではないが、すぐに役に立たないからと言って読まないというのはなんか違うんじゃなかろうか。自分はイスラーム世界やインドについて、どれほどわかっているのだろう?
どっからがいきでどっからが野暮なのか、直方体を使った図があった気がするが忘れた。
「遠野物語」しか読んだことがないし、それも「マヨヒガ」のことしか覚えていない。
自分が現代思想に出てくる名前がわからなすぎて最初に読んだ本の一つ。四コマ漫画だがかなり本質をとらえており、いしいひさいちの本業は何だったのかよくわからなくなる。素直に笑っておきましょう。勉強ってのは楽しみながらするもんだ。
上のリストでは省略した20世紀哲学者が実名で登場するミステリなんだけど、フーコーがサウナで美青年とイチャイチャしたり、七十年代の音楽を聞きながら薬をキメたりしているので、現代思想だのポストモダンだのをかじったことがあるならおすすめ。著者がやりたかったのは、たぶん上の世代の脱神話化というか、強すぎる影響の破壊なんだろうけれども、ここも素直に笑っておくのがいい。
以上。
特に一神教が日本でウケないのは日本人が基本的に正義マンやからと思うで。
キリスト教なんて生まれながらに原罪を負う人間の代わりにキリストが死んだことで原罪が許されたみたいな教えやから、人間が自らの努力で善人として生きるべきだと信じている人たちにはまるで何のことかわからず刺さる要素がないんや。
多神教では神々というのは超自然的な力を持つものの絶対的な力ではなく神それぞれに役割があって優劣があり、性格もどこか人間的で欠点もある。
日本人はよく無宗教と呼ばれるが、私はそれは当たり前だと思う。日本にキリスト教のような確固たる宗教が生まれるほどの素地もないし、その資格もないからだ。
宗教が生まれる素地とは、その宗教が生まれる土地の風土のことだ。風土とはその土地に住む人間の気質や文化の形成に関わる地理的、気候的環境のことである。
キリスト教のような一神教は自然の恵みの薄い中東の砂漠の風土から生まれた。そこでは神は人間の味方で、厳しい自然をも超越する。神の言葉である教典もその土地での生存戦略において合理的である。その信者は生活のありとあらゆる場面で神を拠り所にする。
一方で日本は伝統的にアニミズムという多神教の宗教観に依拠している。それは四季の変化や災害の多さ、生物種の多様さに起因していると言われる。そこで(沢山いる)神とはその様な自然環境の理由であり、アニミズムとはその中で人が生きる生存戦略である。故に日本において神とは必ずしも人間の味方ではなく、そこにあるだけの存在なのだ。神社が行う祭祀も神のご機嫌をとり、神と人間が共存共栄を図るための儀式である。
このような日本と中東の風土の差から、日本では信仰するに足る神様は生まれでてこないのだ。むしろそんな神が日本にいたらとんでもない憎き業を抱えた存在になるであろう(まあ、それを神と呼称することも無いであろうが)。日本には真の唯一絶対神は存在しえないのだ。それは仏教やキリスト教が伝来したときも変わらなかった。
無宗教というのは日本に外来の宗教が入ってきたときに、日本古来の習わしと共存共栄するための文化的産物であると思う。したがって無宗教は反宗教ではなく、むしろ宗教を維持する工夫であったといえる。そうでなければ仏教やキリスト教は今ごろ日本から排撃されていたかもしれない。
誤解なく言うと、私は日本において一神教の神を信仰することを否定したりとか、あるいは神道やアニミズム以外の信仰を認めなかったりするのではない。むしろ日本に住むどの人も何かしらの信仰を持つことを望んでいる。その時に同じ神を見ることは無いのだ。同じ所で安全に平穏に暮らしているその事実がより重要なのだからだ。
タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人は神様を信仰していない。私は神様ではなく自分に幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人を信仰している。
私の家系は日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家の仏壇を拝むときだけだ。クリスマスも初詣もするし、お守りを持つこともある。
このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如であると批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。
しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教の恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。
日本人の宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教観である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界の因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様は人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀や信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教や儒家思想、キリスト教などが入ってきても変わらなかった。
このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系と災害の多さに求めた。日本人は古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国に植物や動物の息吹があまねく見受けられるのである。
こうした環境が日本人の精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米や中東のような一神教的な絶対神が日本を征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教の神の国の一部として取り込まれるのだから。
遠藤周作の小説「沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本に根付かず改変されていることを元宣教師のフェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなのである。
一方でキリスト教やイスラム教などの一神教が誕生したのは、砂漠の国の中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。
それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパの民族は合理的で従順だったからである。ヨーロッパは生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャ・ローマに代表される科学的合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。
ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本と一神教が人々を統べる欧米や中東の差異が分かる。そして、これが日本の無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。
一神教的宗教観は日本の無宗教を非難するが、それは無宗教が神様を信仰しないからだ。一神教の神は世界の創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教は非人間的な態度であり、シリアルキラーと同類の存在なのだ。先の私の小学校の先生も無宗教を人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由を無宗教に求めたのだ。
その上で私は一神教的宗教家の方々の私の宗教観への批判に反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。
先ほど私は日本の宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事の因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである。
私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本の土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。
「沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしまい申し訳なさで死んでしまいそうだ。
何か危機に陥ったときにかつては祭祀や加持祈祷に頼っていたであろうが、科学の時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。
今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置や医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。
では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなときに世界が沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。
だが、それは私が世界とのコンタクトを放棄しているからである。世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである。
私は長々とここまで語ったが、私は他人の宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。
私の記事は以上だ。
あああああ…すぎる、ありすぎる…
身に覚えがありすぎるよぉぉ…
さすが八百万の神がいる国、ニッポン。神の存在に慣れている。増やす事になんの違和感もない。一神教だったら神作家なんてなかった言葉かもしれない、ここに生まれてよかった
とりあえず神作家とは跪き崇めて奉る存在なのだ。エンペラーである。強者である。ああ意のままにしてください
お題サイトや写真素材サイトが流行りだし、簡素化した作りのサイトが増えた頃だった
真っ白な背景に神作家が描いたバナーのような小さな画像。シンプルなサイトだった。画像の下に二、三個のリンクがあり、そこから神のサイトの概要と作品と日記、リンク集に飛べるようになっていた
懐かしいが溢れ出して止まらない…相互リンクとか、今の若者知ってんの?大量すぎる○○同盟とか、GIFバナーとか、キリリクとか、コスプレサイトはめちゃくちゃ入り口厳しかったとか…ああああああ語彙失いそう
そんな懐かしい話は置いといて、神は本当に神だった
まず絵がヤバい。めちゃくちゃ上手いし色配置最高だしそもそもレベル高すぎて見てるだけで心がキュウ…ッとなる
文章もヤバい。語彙力消える。跡形もない。(白目)とかめちゃくちゃ打ちたくなるくらいヤバい。作品ごとに変える字体やカラー、そして大きすぎる明朝体のタイトルがスタートラインなのに私の心を掴んだ
神の文章もしかして聖書かなって思ってた。中学生だった私には神の存在という刺激が強すぎて、内容はほのぼの系がほとんどだったのに私の中の映倫が非公開を望むレベルだった
引き込まれる文章と鮮やかな描写、力強い絵、すべてが世界観をしっかりと作り上げていた
そんなに好きだったのに、私はその神のサイトを今は知らない
悲しいかな、高校生でオタクは恥ずかしいという気持ちでサイトを開かなくなり、そのうちにURLも何もかもなくし、同盟やランキングも404エラーになっていたのだ
ペンネームで検索したこともあったが名前がどこにでもいるようなものすぎて見つからなかった
私の中の綾城さん、今も神活動をしているだろうか
きっとまた探したとて見つからないだろう
でも、数年後きっと私は私の中の綾城さんをまた思い出すと思う
systemic racismとか制度化された差別とか言われてるよね。
一方でオコエ瑠偉が日本で差別され続けてきたってtweetのブコメ読んでたら,
> 『こういう根が違う差別をどう解消するかは難しいな。ここにあるのは「奴隷階級への身分差別」じゃなくて「異分子への排除的差別」だから。この差別は日本では白人の子も受けるからね。』
というのがあった。そういえばそうだよな。
まるで一神教でシステム思考でMBAなアメリカに対して、多神教で空気の文化でインパール作戦な日本の状況をよく表してるなー、
と思ったけど、部落差別とかはsystemicだな。もう少しうまく論じられそうなまま放り投げてみる。だれか論考してほしい(他力本願)。
私が大学生に入りたての頃、勧誘に乗って極右サークルに入ってしまった悲しい過去がある。
表面上は教師志望の学生が児童と交流するためのサークルを装っていたが、その実態は児童に極右思想を植え付けるという恐ろしいサークルであった。
サークルと繋がりのある児童クラブや養護施設(OBが関わっていることが多い)に訪れては、天皇の偉大さをひたすら説いていた。
「天皇のおかげで日本の平和は保たれている」「日本が世界から羨まれるのは天皇のおかげだ」といった天皇万能説を延々と説き、大東亜戦争はアジア解放の嚆矢となったのだから日本人は偉いなんていう始末だった。
もちろん彼らは今でも天皇を現人神、もしくはそれに近い存在だと考えていて、明治政府の権威付けのために天皇が担がれて、国家神道なるものができたなんてことは毛頭信じていない。
そもそも神道なんてものは、多神教的でシャーマニズムやアニミズム的なものを含んだ比較的おおらかな宗教であったはずだが、政治的理由で天皇のような一介の神主が絶対的権威を持つ一神教に改悪されてしまった。
それをさも昔から信じられていたかのように喧伝する奴輩には今でも腹が立つ。
サークルのOBの中には天皇機関説を激しく非難する奴もいて正直言って頭おかしいと思った。
当時の私があまりにも愚かだったために、やむなく2年ほどそのサークルにいたのだが、このサークルのせいで私の大学生活の6割は無駄になったと言っていいくらいひどいところだった。
どこの大学も規則上、政治的団体に関わりのあるサークルは創設してはならないのだがこのサークルだけは黙認されていたようだ。全くもって恐ろしい大学である。
付け足して言っておくと、海外の人権意識は俺からすれば馬鹿の一言。
白人が発展したのはひとえに凶暴性、キリスト教などの一神教からくる自分への盲信と他教徒への迫害観念。
そこはフェミニストとほぼ同じ。
奴らはフェミニストより狡猾でフェミのように幼稚ではないからそれを力関係や工作で広めて来た。
ただ、平和的で頭が良いだけでは駆逐されるのだ、平和的な人ほど進んでいるが、三すくみのように凶暴性には弱い。
スカートを履き化粧をする女のように振る舞う男が女より美しくてもヘテロでもいいのだ。
批判されるのは単なるルッキズムを理由にすべきであって、男女がこうあるべきという固定観念ではない。
日本は早くからそれを見抜いたから歌舞伎の女形、宝塚の男役が生まれた。
研究でもアジアの方が白人よりIQが高いと統計が出ている(IQは白人が黒人や黄色は劣っていると差別したいが為に作った指標というのを忘れてはならない、つまり自ら作った土俵ですら白人は負けてしまった愚か者)
個人的な見解として黒人とアジアは傾向の違いはあるが知能は同程度もしくは黒人の方が上。
理由は黒人の身体能力の高さIQや計算能力、運動の為の空間把握は関連がある、彼等は殆どが貧困なのに他の人種を圧倒する、IQはテストなので平均的に金持ちになり勉強する環境があれば上がる、白人は殆ど他の人種より凶暴性故に豊かなのに黒人に負け、お金を持ちちつつあるアジアにも負けつつある………恐らく知能の低さの証明である凶暴性以外は白人≦黄色≦黒人の順でスペックが高い。
純粋な白人国家より混血白人の多いアメリカの方がスポーツが強い事や、それなのに純粋なアジアである日本や中国に負けるジャンルも多くある事(その度にルール弄ったり勝てるように白人はしてきたが)黒人には殆ど勝てないジャンルが多くなりつつある事からもわかる。
敢えて黒人白人と言っているのは、黒人は人間が愚かでないなら近い将来に蔑称でなく敬称になると思われるからだ。
白人は天皇家と繋がって日本の愚民化にもかなり昔から力を貸してきた、神道=古代キリスト教(これは天皇家も認めている事実)として。
日本が今の惨状にあり、黒人が犯罪ばかり犯さないといけなくなっているのは白人のせいだ。
中国韓国は元より東南アジアの人々も白人より有能なのに抑圧されている。
人類学的な根拠として白人は美しい(これは白人のプロパガンダもあるが、人が人を見る時の美しいには本能も含まれるのでこれだけ見た目だけで好かれている白人は間違いなく遺伝子として美しい)が、美しい個体というのは遺伝子障害者を除けば『見た目以外に能が無く庇護してもらえる』ように進化してきたポンコツな遺伝子である。
原則として男が惹かれる人種や見た目は駄目なモノである(自分より下を無意識に選ぶ)
経済性もあるので補正をかけないといけないが、黒人男は貧困でも実はどの国に行ってもモテる。
白人が連れてる日本人やアジアの嫁はブサイクで白人はああいうのが好みなのかと思われがちだが違う、白人はWASABIを見た時に広末涼子など日本人から見ても美人を普通に美人と評価しており、白人が主催する世界の美人百人等には日本からはぐうの音も出ない佐々木希などの美人が選ばれる。
その他の如何にもアジアな顔ぶれは実はスタイルが良いので顔だけで選べばそれを選ばない事は明白なのだ。
もうおわかりだと思うが実は平等条件なら世界一モテないのは白人男だ。
で、ここまて白人が如何に下劣で劣等か書いたが、これは真実である。
つまり白人が言うマイノリティー問題解決法など間違っており、男女の壁を無くすのが本来の正解なのだ。
それを壊した後に、そこからやれ後から自分達の物と奪ったものを主張し始める、最近だとハーバード大が孔子孟子の考えを発見したかのように語り始めたり、黒人の音楽を奪っておいてロックなどと言うのだ。
今に白人は俺の言うような『白人以外が思い付いた画期的考え』を血眼になって探して自分達が発見したと言い出したがっているだろう。
奴等はそういう下劣だ。
『フェミニスト』などという英文、白人が言いだした時代遅れの周回遅れに心酔してるいる奴が増えたのは日本人が馬鹿にされてしまった証拠。
そして女である事だけで利権を産もうとしているフェミニスト(それに賛同しておけば理解ある男と思われると下心丸出しのバカ男とそれを利用する悪徳な男も含む)は厳しい現実に晒してやれ。
ロシア株のBCGだから感染しにくいって?ロシアの惨憺たる状況でその仮説は崩れた。では、東アジア諸国と欧米の、文字通り「桁違い」の死者数の違いの原因は何か。
死者数が多いのは欧米諸国の他、イランも多いし、イスラエルも健闘しているとはいえ東アジアからすると一桁多い。
共通点は、一神教(アブラハムの宗教)の国かどうかだ。イスラム教国のインドネシアも結構増えてきた。封じ込めに失敗したシンガポールもイスラム圏からの労働者が主な感染者だし、キリスト教が主流のフィリピンは東南アジア最多だ。
アブラハムの宗教を信じてるやつは、「最後の審判」をガチで信じてる奴がけっこう多い。日本人には想像つかんだろうが。で、今回感染して重症化してる連中、COVID-19の流行を「最後の審判」と勝手に結びつけて、逆プラシーボ効果で症状悪化させてんじゃねーか?「最後の審判」なんか単なるデッチ上げと承知している非一神教の人間は、ウィルスの実態以上にはこじらせてないってこと。
思い込みをこじらせ過ぎると命に関わることもある、ってことだ。気をつけろよ、オマエら。