はてなキーワード: 等閑視とは
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そもそも「そうなったら消防が呼ばれる」ことを等閑視していませんか?
訴える主体は?
1個開けとく
むしろ原発事故の「故障の木」をいじくり倒す風潮をおちょくってんじゃないかなあ > https://archive.ph/DXgGc
裁判って世の中がどうあるべきかを探り出す手段でもあるからある程度はこらえてほしい。
SLAPPやらなんやらを考えるとjuryが本来民訴にも必要なんだろな、と。
あとはかように言われたくない方々にも頑張って頂く、無論我らも頑張る、こらえる、しか。
かように言う割には「故意」に関する評価が自動車の運転に対するそれか?ってレベルで入れ替わってる、のが気になるなあ……。「業務上特別の義務がある者」って言葉の効果も等閑視している風味。
まあそれが酷いって話をするんだけど。
丸川珠代五輪担当相は10日の閣議後の記者会見で、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長が9日に東京・銀座を訪れたことについて、「不要不急かどうかは本人が判断すべきだ」と述べた。
加藤氏は、新型コロナウイルス対策について「大会関係者は入国後14日間は行動範囲が限定され、公共交通機関の不使用などがプレーブック(規則集)で定められている。一方、入国後15日を経過した者は適用を受けない」と説明。7月8日に入国したバッハ氏は行動制限の対象に該当しないとした。「不要不急の外出に当たらないのか」との質問に対しては「各人に、状況に応じて適切に判断していただく」と述べ、当事者に任せているとした。
ブコメでも指摘のある通りこれは既に同趣旨の答弁がある。田島麻衣子議員が緊急事態宣言中に「単身赴任をされている国民が家族に会うため、県をまたいで移動」、「ゴールデンウィーク、お盆、年始年末などに国民が帰省」することなどを上げ「不要不急の外出・移動」に当たるのかと聞いた質問主意書に対する答えである。
お尋ねの「不要不急の外出・移動」については、「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」(令和二年三月二十八日新型コロナウイルス感染症対策本部決定、令和三年二月二日変更。以下「基本的対処方針」という。)において、「医療機関への通院、食料・医薬品・生活必需品の買い出し、必要な職場への出勤、屋外での運動や散歩など、生活や健康の維持のために必要なものについては外出の自粛要請の対象外とする。」との考え方を示しているところであるが、お尋ねの行為が「不要不急の外出・移動」に該当するか否かについては、国民の皆様において、それぞれの生活状況等に応じて適切に判断いただくものと考えており、一概にお答えすることは困難である。
今回の発言はこの考えをそのまま踏襲したものだと考えられる。しかし、問題もある。
この質問主意書に対する答弁は一般論としての答えなのである。「それぞれの生活状況等に応じて」と答えているように具体的な状況によって何が不要不急に当たるか変わるのは当然だろう。ところが、政府にその細かい事情まで把握することは不可能である。単身赴任で家族に会うための県をまたいだ移動という条件を付けてもどういった事情で会おうとしたのかは分からず「一概にお答えすることは困難」だ。
もちろん現体制では「お願い」レベルに過ぎずこう答えざるをえないという解釈もできる。結局最終判断は個々人に権限があるのだというわけだ。しかしそれはどういった行為が適切か否かを例示することを妨げるものではない。実際「医療機関の通院…生活や健康の維持のために必要なもの」は自粛要請対象外だと示している通りだ。
ところで、バッハ会長の銀座散策については政府は事情状況様態全て把握できる立場にある。何なら国民の多くはバッハ会長の散策に不要不急の事情があったとは思っていないだろう。
政府が事情を把握しきれない出来事に当事者が適切な判断をしてくれと言うのと、政府が事情を把握している実際の個別案件について当事者が適切に判断することだと言うのではニュアンスの違いを生じることに留意しなければならない。つまるところ後者は具体的行為を追認しフリーハンドを与えたも同然である。それなら「個別事案にはお答えできない」とか言ってくれた方がマシだ。
どんな事情があっても不適切であると言えるような事象、例えば路上飲みに対して本人が判断することだと言った時の悪影響を考えてみてほしい。今回はそれと同様なのである。
ここからが一番書きたいことなのだが、政府は場当たり的でその場逃れなメッセージを発することをやめるべきだ。恐らくメディアにこういった質問をすると事前通告された時、官僚は過去の答弁をサルベージしてそのまま引用できそうなものを見つけてきたのだろう。だが文脈によって言葉の与える印象が変わることを等閑視している。確かに過去の発言の踏襲に過ぎないと言えば簡単にその場は逃れられる。しかしながら、今の状況ではリスクコミュニケーションとして国民にどういったメッセージを与えるかというのを第一に考えてもらわなければ困る。そうでなければ統一的なメッセージが発せられず政府見解の信用性は地に落ちる。まあ既に落ちてるとは思うが…、いずれにせよ負の「レガシー」ができてしまったことは事実だ。
「我々の本当の関心事は、不幸な事案を学びの機会にすることだからだ。」
今回の小林賢太郎氏への声明においても、SWCは決して解任を求めているのではなく、あくまで謝罪と教育が求められているのだと思っていた。
昨今の「キャンセルカルチャー」とは一線を画すものだと思っていた。
この数年で、趨勢が変わったのだろうか。
でもそのクーパー氏はかつて雑誌『マルコポーロ』がガス室否定論を掲載した時には広告出稿のボイコットまで呼びかけてるんですよ。
結局雑誌は廃刊に追い込まれ版元である文春の社長も辞任することになった。
もちろん「自主廃刊」であってSWCは事前には廃刊を求めていなかった。しかしそれを言えば今回も当初の声明では解任を求めてはいない。
だいたい、廃刊決定後にSWCと文春は共同記者会見まで開いてるわけよ。
本当に「我々の本当の関心事は、不幸な事案を学びの機会にすること」なら次の刊のマルコポーロで正しい内容の特集を組ませるとか色々あったでしょ?
しかしSWCは廃刊決定を受け入れて共同記者会見を行った。それが全てです。
もちろんマルコポーロ記事と今回の小林コントを同列に扱えるかという話はあるでしょう。
でもそれなら欅坂46やBTSの衣装がナチス風に見えるという話と今回の「虐殺ごっこ」を一緒にできるものだろうか?
加えて今回の件は外務省が談話を発表していて一見過剰にも見える反応をしているけど、
1. オリンピックという国際的な大イベント(しかもオリンピックでは過去ユダヤ系の選手がテロに遭った過去がある)で
2. ホロコーストやSWC関連という徹底的な糾弾が行われていた歴史的蓄積がある分野の問題
想像だが欅坂46やBTSは内容的差異もあるところ1の要素も薄く謝罪だけでOKになったんじゃないかね。麻生さんも未だに大臣やってるしな。
しかもアイドルを辞めさせるなんてことをしたら逆風待ったなしだし、「我々の本当の関心事は、不幸な事案を学びの機会にすることだからだ。」は過去のSWCの行いに鑑みればおためごかしである種の宣伝的アピールというかプロパガンダに過ぎずピュアに真に受けるようなものでもあるまい。
ところでこういう事件があると昨今の趨勢に引き付けてつい物事を語りがちだ。キャンセルカルチャーみたいな用語ができるとついその物語の中で解釈してしまう。
確かにネットが発達して過去の発言を拾いやすくなった影響は大きかろう。
しかしポリコレやキャンセルカルチャーという言葉が生まれるずっと前からホロコースト関連での糾弾・追及は凄まじいものがあったんですよ。
上で歴史的蓄積と書いたけど、例えば他のポリコレ事案で外務省が声明まで出すか?女性差別とかでは出さないよね?
そういうずっと続いてきたものを最近の趨勢や運動での解釈に寄り過ぎてしまえば現象の一部分を切り取ってしまうことにはならないだろうか。
これまでの蓄積というか過去に行われた首級狩りを等閑視することにならんか。
それって昔もあった問題なのを忘れて懐古に浸るメンタリティとそこまで変わらなくないか。
世界的には昔からホロコースト関連は厳しく論難されてたし、SWCは昔も今もたぶん未来も強力な圧力団体(価値中立的な言葉です)として君臨し続けるだろうよ。
はぁ、
男なら(女も)だまってC定食え。
へんみ
大人数で行け。以上。
俺ここ大好き
晋香苑
運城飯店
食べ放題でとりあえずいい。
渤海飯店
コメントなし。
孔子餐店
孔子の子孫は奥さんの方な。北大界隈でしっかりしてるのはここ。
辛いの頼め。親父の釣り談義に付き合え。
深いこと考えるな。なんらかのセットを頼め。
これに関してはかつてススキノで宝来の系譜にやたら詳しい謎の親父に教えてもらったんだけど泥酔して忘れてしまった。
珠華飯店
マックスバリュというスーパーに車を停めていいのか? だめだ。
そんなことばかり気になってあんかけ焼きそばの味を覚えていない。
広龍
最近こういう店が少なくなった。出前をやってる。
進龍。
閉店になった店だが許してくれ。
平成軒。
秀円 ひでまる
聚宝
南郷通の雄。
北海楼
よく知らない。よく知らない名前の麺を食え。
元増田はおそらく札幌のかなり街中に住んでいるのではないだろうか。
街中だとブコメなどで言われる名店「香州」くらいしか出てこないのだが、実は札幌には以外にそれぞれの地域の顔というか雰囲気がある。
東区はざっくり下町だし、西区はハイソ。丘側が顕著。旭ヶ丘高校近くだと若者多くて華やか。
南はなんというかどっしり。その途中の澄川あたりも独自の文化がある。
北は北高あたりで一つのまとまりがあり、学園都市線沿線で文化圏があり、あいの里がその文化圏の周縁になる。
東は川渡った向こうで別次元で南郷通界隈はそれぞれ文化圏が違うし新札幌は一つコアになる。その向こうは昭和の新興住宅街でそれぞれ文化がある。
街中華はそのそれぞれに、それぞれの人々をお客として成り立っている。
ここに書ききれないお店はいくらでもある。
味は保証できないが。
一ついえることは、実は札幌は今述べてきたような各地域「レペゼン」の色はあまり語られてこなかったのだ。
当然、各地域の色はある。ところが、それを論ずる人はほぼいない。
これはおそらく伝統的に札幌市が博物館構想の中で歴史系を等閑視してきたことに関係があると思う。
札幌は市内でいろいろな地域性「レペゼン」があるのだが、ついにそれを客観的に論じようとする研究者を生む余地を作ってこなかった。
元増田です。お返事その2
最初の記事は増田さんのようなあくまでも個人として扱われたい方を等閑視した雑なものでした。申し訳ありません。
増田さんへのお返事としてはこれだけで終わった方がよいかもしれませんが、ご指摘を受けて考えたことを書かせてください。増田さんがこれ以上議論を望まないのなら、勝手ながら、この先は無視してください。
オタクは現実のモテより萌えの方に向かうのだという言説は、上野や非オタの誰彼が言い出したものではなく、オタク(の中のラウドマイノリティ)自身が本気で発したものだったと思うのです。『電波男』のタイトルは、(2chの書き込み群はともかく、映像作品などは)増田さんのご指摘どおりの「マイノリティだからこそ消費される」非オタ受けする脱オタしてモテるオタク像を描いて流行った『電車男』の向こうを張ったものではないでしょうか。同書刊行と同時期にサービスインしたはてなダイアリーとはてなブックマークでは、「私」ではなく「オタク」を主語にしてモテより萌え論がさかんに語られていました。これらは所詮変わりものの戯言として無視するべきだったのでしょうか。
増田さんは、十分な数とバリエーションの個人を深く掘り下げてからでないならばor掘り下げてすら、擁護であれ非難であれ放っておけであれ、ある群に群として言及すべきではないというようなお考えをお持ちに見えます。それは誠実で潔い見識だと感服しますし、この増田記事も個人に読まれているのだと念頭に置いて書いているつもりです。
ただ、偏見に対抗したり社会的なリソース配分の変更を求めるためには、群として主張することも時には必要。その主張を聞き入れたことを後出しで責めるのは、主張した群の信用や好意を大きく損ねるから悪手。という運動論よりの考えを私は私で持っており、その考えに基づいて発言した次第でした。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/hbol.jp/176755
morimori_68 第一の論点について言えば、まずもって責めを負うべきは、ヨウ素剤をきちんと配布・説明しなかった政府・自治体の側である。一事が万事、このあたりが全く等閑視されている。
quick_past 過去にやったことが、今を全否定できるくらい大きなファクターだと思ってるからこそ、日本に汚らわしい過去なんてなかったと言い始めるんだろうし、現在進行系の政権の不誠実さからも逃げるんだろうな>ネウヨ
kyo_ju まぁおしどりマコさんを理由に立憲に入れないと言ってる層はそれがなくても何だかんだ理由をつけて立憲に入れないだろう。そういう層に媚びようとしたのが民主や民進や希望の失敗なので立憲はこれでいいんじゃね。
mujisoshina この記事から分かることは、おしどりマコには迂闊さがあり批判にもなかなか耳を貸さないことと、マコを批判する側にもろくでもない奴が何人も居ること。私はどちらも人間として信用出来ない。
Cunliffe どこに大論争があるんだろ?ヒステリー起こしたニセ科学批判教団のバカどもがマッチポンプでキーキー言ってるだけじゃん。
Arturo_Ui 不正確な情報が流通していた当時の過去ログを批判するより、現在の認識を質す方が建設的。まして公党の候補者を一方的にデマ呼ばわりすれば、名誉毀損訴訟のリスクすら負う。公開討論など呼びかける方が建設的では?
yas-mal キクマコ先生、完全に確信犯だよね。巧妙に『嘘』を避けつつ、おしどり氏が言ったかのような書き方をしてる。(おしどり氏についてはまだ判断保留)
hapoa なんでこんなデマに乗っかるコメントだらけなんだ?自分で調べる頭も能力もないのかよ。恥ずかしいのはお前らの頭だ。おしどりマコを知らない時点で東電会見も見ない、原発事故に興味ないってことの独白でしかない
Ayrtonism EMって、ニセ科学批判界隈ではめっちゃくちゃ有名だけど、一般にはほぼ無名だと思うぞ。そして、細菌が土壌や水質の改善に寄与してる、ってとこまでは嘘でも何でもない。ちょっと冷静になった方がいい。
別に女性が俳優目当てで映画見に行ったって良いのに、それを腐すようなコメントがあるのに驚いた。
あまつさえそういう傾向がある、ってデータで出ているのに、その傾向をすら否定しようとしている人がいる。
あたらめて問うけど俳優目当てで映画見に行って、何が悪いんですか?
女性の方が映画を(集団で)みに行く傾向がある、というのは悪いことなんですか?
それでいいじゃん。
この辺り、はてなの女は堂々としていればいいのに、何かこそこそと「俳優目当ての女性なんて見たことない」「女でも監督で選ぶ人いますが?」みたいなかんじで女の中に線引きをしようとしている。
それ一番やっちゃいけないことなんじゃないの?
「俳優目当てで映画見に行く人も多いけれども、そうじゃない人もいます、色んな人が色んな目的で映画見ていますが現況はこういう状態でこういうスタイルの映画が多いです(が何か問題が?)」で、良いじゃん。
あるいは「女の方が映画見に行って金払うとるんだから少し男は黙っとれ、笑」くらいでもいいだろう。
俳優目当てで見に行っている女性を等閑視するはてなの女性の姿勢はダメでしょ、と言う話。
以前ブログにも書いたのですが、
人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い・・・
原発を肯定しているわけではなく、自然エネルギーに移行していくべきだという考えです。
悪いのは人間です。
意識の持ち方は大切です。
安倍昭恵の2012年のフェイスブックへの投稿が話題になっている。
スピリチュアリズムの悪いところが前面に出ている酷い文章だが、論理の飛躍が大きいせいか、誤解にもとづく非難や賛同も多いようだ。とりあえずスピリチュアリズムとしての解釈を示してみたい。
安倍昭恵の記事の最大の問題は、「人間」を一枚岩で捉えて「放射能(ここでは原発関連の放射性物質のこと、以下同じ)」に「一億総懺悔&総感謝」的に反省することで、現実社会の問題や被害と加害の関係を等閑視することにある。とはいえ、ここで書きたいのはまた別のことで、「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所についてだ。
この解釈として、安倍昭恵の弟の松崎勲はこの記事におそらくは賛同の意を込めて「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」とコメントしている。これは道徳的価値において人間と物質の関係を「非対称的」に捉える思考だ。善や悪という道徳的概念は人間の領域に限定されていて、「善悪無記」の物質(自然物)にそれを押し付けることはカテゴリー・ミステイクであるという発想だ。
松崎勲と類似のコメントは数多くある。しかし、これらは安倍昭恵の思想を根本的に誤解している。
そもそも記事の前半の「もしも私が放射能だったら・・・」という想定が「対称性」の思考そのものである。そしてスピリチュアリズムとは、人間とそれ以外(生物や自然)を霊の次元において連続的・「対称的」に捉え、それらの霊の交わりを説く思想である。百歩譲って放射能を人格化し、感情を想定するのは共感能力だけで可能だとしても、その感情にもとづいて現実になんらかの力が行使される(「嫌われ者はいじけて大暴れするかも・・・」)とまで想定するのは霊のはたらきを考慮に入れないと不可能だろう。
このような「対称性」のスピリチュアリズムが記事の後半にも貫徹されている。
「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所は、「人間が善悪無記の放射能を悪用した、すなわち人間社会にとって有害に用いた」という意味ですらない。安倍昭恵の関心は、人間社会そのものにはなく、あくまで「人間」が放射能にどのような心情・態度を示し、どのようにスピリチュアルな交わりを実現するか、にある。つまり、安倍昭恵が糾弾する悪とは、前半で想定されていた、人間が放射能を「人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い」することの悪に他ならない。
問題の箇所をわかりやすく言い換えると、「放射能といういじめられる方が悪いわけではない。悪いのはいじめる方の人間です」となる。これは紛れもなく「対称性」のスピリチュアリズムである。(いじめる方といじめられる方の関係は非対称的だ、と思われるかもしれないが、ここでいう「対称性」とは「入れ替え可能性」のこと。)
要するに安倍昭恵はこの記事で一貫して霊の次元における「人間」と放射能の「対称性」を主張しているのである。したがって、スピリチュアルな感度のない弟の松崎勲の「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」というコメントは安倍昭恵への賛同どころか、アイロニーとなってしまっているのである。
安倍昭恵の記事を読んで、槇原敬之が2011年に発表した曲「Appreciation」(http://j-lyric.net/artist/a0005ff/l025b9d.html)を思い出した人は多いと思われる。この曲にあるのは「僕ら」の原発への態度の豹変を反省し、感謝の大切さを唱える内省の精神である。言うまでもなく、それは外部の現実から目を閉ざすことと表裏一体であり、発表当時に物議を醸したのも当然といえる。
一方、安倍昭恵の場合は、同じように「人間」の放射能への態度の豹変をなじり、放射能へ感謝を捧げるわけだが、槇原と違って単なる内省ではないところがポイントだ。安倍昭恵は「意識の持ち方は大切です」と文章を結んでいるが、ここにあるのは「(無意識を含む、思考や欲望などの)意識は(霊のはたらきによって)現実化する」、つまり「意識の持ち方こそすべて」という自己啓発と結びついた安直なスピリチュアリズムに他ならない。安倍昭恵は人間が放射能に感謝すると、それだけで放射能の霊が喜び、人間に良いはたらきをすると考えているのだ。
安倍昭恵にスピリチュアリズムというレッテルを貼って終わるといかにも安易でつまらないので、最後にスピリチュアリズムの内部から批判してみる。さしあたりスピリチュアル知識人として影響力のある中沢新一の議論を援用する。上で用いた「対称性」という言葉も中沢の大好きな概念であるが、中沢ならば安倍昭恵を批判するに違いないからである。『日本の大転換』の冒頭の内容を可能なかぎり簡略化して述べてみよう。
人間は地球の自然生態圏のうちに社会をつくりだし、生きてきた。地球の生態圏には、太陽圏からの(核融合の)エネルギーが植物の光合成によって媒介されて持ち込まれ、さらに動植物の死骸の分解という何重もの媒介メカニズムによって化石燃料はつくられてきた。しかし、原子力は生態圏に太陽圏の(核分裂の)エネルギーを無媒介にもたらすものであるため、生態圏そのものを壊す危険性をもっている。
中沢の議論にもさまざまなツッコミどころがあるだろうが、ここでは措く。たとえば中沢は原発を一神教の神に比してもいるが、要するに、「対称性」の思考は生態圏のうちでのみ働くものであって、その外部の無媒介な導入である一神教の神・原発・放射能には適用できないということである。
中沢の議論にどれほど説得力を感じるかは人それぞれだろうが、少なくとも安倍昭恵のような「対称性」が大好きなスピリチュアリストならば、傾聴すべきではないだろうか。
「原子力発電は生態圏内部の自然ではないのだから、それをあたかも自然の事物のように扱うことは許されない。……生態圏の自然と太陽圏の『自然』を混同することほど、危険なことはない」(『日本の大転換』39頁)。
原発卒業の道筋が見えてない/わかってない/ひとまず等閑視な主催者と手が出ちまった抗議者、てのがあるからなあ。
前者の意味で http://d.hatena.ne.jp/noiehoie/ / @noieheie あたりもちょっとヘンだし。
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20081121/grandchildren_japanese
要求される仕事がますます高度化されるため、人々は多くの時間を技術の学習に費やさざるを得くなる。そのため、そうした仕事に役に立たない芸術????就中、近代日本文学????は等閑視されるのが当たり前になる。
このエントリを読んでてふとある同僚の事を思い出した。
文学とか音楽とかスポーツとか、芸術というか娯楽というのか分からないけど、そういう物を一切解さない人ってごくまれにいるよね。同僚がそうなんだけど。
あれ脳の一部が欠損してるのかなぁ。それとも後天的なものなのかしらん。