はてなキーワード: 定量的とは
最近モラハラ気味の妻から車の維持はコスパが悪いから売れとの指示がきた。
そういった話はよくあるだろう。
最近は平日に車に乗ることはなくなったので、確かに金銭面からみたコスパは良いとは言えない。
都内では、タクシー、レンタカー、カーシェア、電車、レンタサイクル、キックボードシェアと交通手段はたくさんある。
駐車場と保険、車検を月平均に鳴らすと3~4万はするであろう維持費は、上記の交通手段で移動した場合、上記交通手段での移動の方が安くなるだろう。(あくまでうちは週末に使うことがメインだったから)
そしてこう "コスパ" という言葉をしきりに使う人(妻含め)がいるが、コスパってなんだろう?とふと疑問に思った。
コスパとは、コストパフォーマンス(cost performance)の略で、支払った費用に対して得られた効果や満足度、つまり「費用対効果」を意味する言葉です。 「コスパが良い」とは、支払った金額に対して期待以上の成果を得られたときに使います。たとえば、お手頃な価格でバッグを購入したときに、想像よりも使い勝手が良かった・丈夫な作りだった場合などは満足感を得られるため、コスパが良いと言います。 「費用」は金銭だけでなく時間・労力・精神的負担なども含まれ、「パフォーマンス」は、作業なら結果、工業製品なら性能、食べ物なら味、ファッションなら材質・デザイン性、人間関係なら他人から得られるものなど、様々なことに使われます。
表示される。
確かに支払った費用に対して、週末にのみ使う金額だとコスパは悪く感じてしまうことはわかるだろう。
ただ、「費用」には、金銭だけでなく時間・労力・精神的負担も含まれてるということに気がついた。
だが、苦労や精神的負担という面からみると、コスパはとても良いんじゃないかと思った。
電車移動での待ち時間・急な雨での予定変更・カーシェアを予約できない時・カーシェアを予約できたけど、急に使えなくなった時などの精神的な負担やそれをカバーする労力・自転車では遠いけど、電車・バスでは行きにくく、カーシェアやレンタカーなどでは、駐車場に置いとく時間が長く勿体無いというところに行く時の時間、そしてそういうところに行くことの体験は、圧倒的に車を維持することのコスパは良い。
これを妻に説明しても理解できないだろう。なんといっても自分で運転しないんだから....
最近よく聞くコスパは、金額面だけみている傾向が強い。しかし、車が本当にコスパは悪いのか?一旦考えると金銭面ではコスパが良いとは言い切れない面もあるが、
精神的には心を貧しくしているのではないか?と考えるようになった。
心の貧しさが、節約していきたいという発想になっている可能性もある。
(月の固定費(駐車場や保険などの維持費など)に対してその金があれば他のことに回せるじゃんとの意見も言っていたので)
モラハラ気味だから、表面的なことしか見てないので、とりあえず攻撃したいだけかもしれない。
定量的に妻に伝えるのは難しいだろう。人の仕事道具すら売ろうとする人だから心に余裕がないと思う。
そもそも妻は私が正しい的な人で何を言っても聞かないから、車を手放す方向でさっさと済ませた方がこちらの精神的な負担も少ない。
でも、色々しらべてコスパという言葉の定義からは決してコスパが悪いとは言えないというのは自分の中では認識をもてた。
子供に対しても、色々な体験をさせるには車がないと行きづらい場所もある。そういう体験・経験を月3~4万できるのはお得ともとれる。
と、コスパって便利な言葉だなと思いつつ、車を売るための査定している。
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若干背景を書いとくと
ご指摘ありがとうございます。以下、より具体的な数理的な観点から反論を試みます。
例えば、南丹市の産業別就業者数の推移から、単純な循環率では捉えられない産業構造の変化が見て取れます。これを踏まえ、以下のような動的モデルを考えることができます:
dE_i/dt = α_i * E_i - β_i * E_i^2 + γ_i * ∑(E_j) - δ_i
ここで、E_iは産業iの就業者数、α_iは自然成長率、β_iは飽和効果、γ_iは他産業との相互作用、δ_iは外部要因(例:高齢化)を表します。
このモデルを用いて、各産業の変化を同時に追跡し、より現実に即した分析が可能になります。
経営者の行動データを用いてより具体的に分析することは可能です。
日本の上場企業の内部留保率の推移の変化を、回帰モデルで分析できます:
R_t = α + β_1 * GDP_t + β_2 * I_t + β_3 * U_t + ε_t
ここで、R_tは内部留保率、GDP_tはGDP成長率、I_tは設備投資指数、U_tは失業率、ε_tは誤差項です。
このモデルを用いて、マクロ経済指標と内部留保率の関係を定量的に分析し、政策立案の基礎とすることができます。
最低賃金と非正規雇用の関係については、データを用いてより詳細に分析できます。
日本の非正規雇用者比率の推移の変化を、以下のような多変量時系列モデルで分析できます:
N_t = α + β_1 * W_t + β_2 * GDP_t + β_3 * T_t + ε_t
ここで、N_tは非正規雇用者比率、W_tは最低賃金指数、GDP_tはGDP成長率、T_tは技術進歩指数(例:ICT投資額)、ε_tは誤差項です。
このモデルを用いて、最低賃金政策が非正規雇用に与える影響を、他の要因を制御しつつ分析することができます。
これらのモデルは、データに基づいた定量的な分析の出発点となります。
理論と実証の両面からアプローチし、現実の問題に対する理解を深めることが重要です。
また、これらの分析結果を踏まえつつ、現場の声や質的データも考慮に入れることで、より包括的な政策提言につなげることができます。
「B層」という概念は、消費者行動理論とマーケティングにおいて特定の消費者群を指す。以下にB層の定義、特徴、数理的アプローチを考察する。
B層は、消費者の情報リテラシー、社会的影響、意思決定プロセスに基づく分類であり、以下の特性を持つ。
P_i = (I_m * W_m + I_s * W_s) / C
ここでP_iはエージェントiの購買選択確率、I_mはメディアからの情報強度、W_mはメディア情報信頼性、I_sは社会的影響強度、W_sは社会的情報信頼性、Cは情報選択コストを示す。このモデルでB層の情報受容と意思決定を分析できる。
P(i → j) = k_j / Σk_l
ここでP(i → j)はノードiからjへの情報伝播確率であり、k_jはノードjの接続数を示す。このアプローチでB層消費者が社会的影響を受けるメカニズムを分析可能。
1. はじめに
本研究は、「バカって言うやつがバカ」という仮説を検証することを目的とする。この仮説は、他者を「バカ」と呼ぶ行為が、その発言者自身を「バカ」に見せるという現象を説明するものである。インターネット上の特定のグループを対象に、この仮説がどのように現れるかを実験的に観察し、データ収集および分析の方法を併せて考察する。
2. 方法
実験の対象としたのは、SNSや掲示板を主なコミュニケーション手段とするインターネット上のグループである。このグループにおいて、新たに「バカ界隈」という言葉を導入し、その言葉がどのように使用され、またどのように意味が変化していくかを追跡した。グループは、他者を「バカ」と決めつける傾向が強いコミュニティとして定義し、彼らのコミュニケーションパターンを定量的および定性的に分析する。
本実験では、言葉の使用パターン、意味の変化、そして言葉の伝播を追跡するため、以下のデータ収集手法を採用した。
キーワード分析: 「バカ界隈」という言葉がどのタイミングで使われ、どのような文脈で登場するかをテキストログから自動的に抽出し、その使用頻度を定量的に記録した。
時間経過による頻度変化: 言葉の使用頻度が時間とともにどのように変化するかを分析。これにより、言葉の伝播速度と影響範囲を把握する。
コンテクスト分析: 「バカ界隈」が使われる際の文脈を調査し、文脈に応じた意味の変化を追跡する。
ネットワーク分析: 言葉がどのようにグループ内で広がるかを可視化し、特にインフルエンサーとなるメンバーや、言葉の伝播経路を特定する。
3. 結果
実験の結果、当初「バカ界隈」は他者を軽蔑的に「バカ」と呼ぶ行為やその傾向が強いグループを指す言葉として認識された。しかし、時間が経過するにつれて、「バカ界隈」という言葉の意味が変化し、頻繁に「バカ」と言う個人を暗に指すようになった。興味深いことに、この意味変化が進んでもグループ内では「バカ界隈」を使用すること自体が「バカ」であるという指摘や批判は行われなかった。
「バカ界隈」は、グループ内で導入後急速に使用頻度を増加させた。特にインフルエンサー的なメンバーが使用し始めることで、他のメンバーへと素早く広がっていった。
3.2 意味の変化
初期段階では、他者を揶揄する言葉として使われていたが、時間が経過するにつれ、よりユーモラスな自己言及的な意味合いを帯びるようになった。
4. 考察
本研究は、「バカって言うやつがバカ」という仮説を、インターネット上のコミュニティにおいて支持される現象として確認した。特に、他者を「バカ」と呼ぶ行為が、その意味を変化させながらもグループ全体に伝播し続けることが観察された。これは、感情伝染と似たメカニズムで言葉が広まり、侮蔑的な行為が伝染する可能性を示唆する。
4.1 情動伝染との関連
「バカ」と呼ぶ行為が、情動伝染の一種である可能性が考えられる。情動伝染とは、特定の感情が他者に伝わり広がる現象であり、同様に侮蔑や軽蔑が伝染する新たな情動伝染の形態として捉えられるかもしれない。
言葉の伝播において、特定のメンバーがインフルエンサー的な役割を果たし、「バカ界隈」という言葉の流行に寄与していることが明らかになった。彼らの影響力が、言葉の意味の変化や使用の拡大に大きな影響を与えた。
5. 今後の課題
本研究の結果は、侮蔑的な言葉がどのようにグループ内で伝播し、意味が変化するかを示すが、これが他のコミュニティにおいても同様に発生するかはさらなる検証が必要である。また、侮蔑行為の伝染が一種の情動伝染である可能性をさらに探るため、感情分析を通じて、使用者の感情や意図をより詳細に理解することが求められる。
6. 結論
本研究では、「バカって言うやつがバカ」という仮説を、インターネット上の特定グループ内で支持される現象として確認した。言葉の意味が変化しながらも、侮蔑行為がグループ全体に伝播する様子を通して、他者を「バカ」と呼ぶ行為が容易に伝染する可能性が示された。今後は、他のグループやコミュニティを対象に同様の実験を行い、さらなるデータの収集と分析を進めていく必要がある。
その発想捨てない?
狩猟採集の縄文時代にその日のご飯の予定を立てるのは難しい。何が採れるか分からないからだ。最悪食事にありつけないまである。
冷蔵庫がなかった時代も難しい。生魚や肉はすぐに食べないと腐るし、野菜もそのままでは長期間持たないものが多い。専業主婦の割合が高く、毎日買い物をして毎日作るのが当たり前の常識だった。
でも今は違う。農家のように消費しきれないくらいの野菜が旬に大量に採れて計画に影響を与える人ならともかく、スーパーには1/2や1/4カットした食材が並び、冷蔵庫は冷凍庫が大きく使いやすくなってサブまで持つ人が増えている。
そんな時代に残った食材と新しい食材を組み合わせてできるものを毎日考えて毎日作るって工夫しなさすぎだと思わない?
技術屋さんはどんな分野であれ一般的に最初に作るものと量を決めて材料表を作って材料を買って調達して作る。今は料理でもそれができる環境が整っている。
働きながら家事もこなす人が多数を占める現代、買い物を毎日してその日食べるものを決めて自転車操業的に材料を回していく不合理なやり方は時代にそぐわない。冷蔵庫に食材を眠らせて置くことは釣った魚をクーラーボックスに入れておくことと同じ。その場で調理して冷凍するのと、放置した食材で作る作りたて、どっちも大差ない。
食材を生で持つから腐る。だから1週間分の計画を先に立てて買い出しは週に一回。肉や魚はその場で冷凍して冷凍できない野菜はその日に使い切る。食材を生で持たなければ腐る心配はないし、作り置きにしてしまえばあとは食べる日だけを管理すればいい。いちいち、冷蔵庫の食材でできるもの、足りないもの、飽きを毎日考えて意思決定するパズルを毎日解くのは仕事できない人よ。献立を考えるのは週に一日。特売で得する額なんか知れてるんだから最初から買うものを決めてその日に使い切る。余計なものも買わなくなるから特売狙うより結局安くつく。
料理の上手い下手は色々意見あるけれど、味を評価指標にしたら必ず最終的には好みの差に行き着く。でも食材を腐らせないという評価基準は定量的に測ることができてなおかつ良いという方向性にコンセンサスが確実に得られる客観的なもの。毎日考えるというクッソ無駄な作業にお別れして一週間の献立を全部先に決めてしまうのが令和の時代のやり方だと思うわ。
https://anond.hatelabo.jp/20240904005812 の感想と個人的な考えの羅列
自分を含む多くの男性にとって、スキンケアは日常習慣の一部に過ぎない。もちろん日焼け止めや化粧水、乳液は教科書通りに使っているが、それは風呂に入ることやヒゲを剃ることと同じ、日常のルーティンである。
しかし、上記の記事に見られるスキンケアへの熱量は、異常なほどに高い。この熱量の背景には、肌に関わるルッキズム、社会的な要求、自己投資、官能、評価のあいまいさ、そしてコミュニケーションツールとしての側面があるのではないだろうか。
美しい肌は「中流」以上のコミュニティに参加するためのドレスコードの一部となっており、それが一種のルッキズムを生んでいる。
(この中流が何を指すのかは人によって異なるだろう)
スキンケアとは、その価値観に対する投資行為だ。しかし、この投資は常に変動し続けるものであり、スキンケアを続ける限り、終わりのない旅が続く。
スキンケアは単なる自己投資にとどまらない。自分の肌を観察し、手で触れ、歓びを伴う行為である。これはセルフケアの中でも最もフィジカルで、最もプリミティブで最もフェティッシュなものである。スキンケアを通じて、自身の肉体と深く向き合うことは自己肯定の行為にほかならない。肌に直接触れることは、他者の評価に依存せず、自分自身をケアする極めて個人的で感覚的なプロセスだ。
容姿に関する特徴のひとつは、その定量的な評価が極めて難しい点にある。美しさを完全に数値化することはできず、どのスキンケアが「最適」であるかを判断することも、無限に新しい製品が登場する中で困難だ。自分に合うものを見つけるには時間と試行錯誤が必要であり、その過程で「暫定的な解決」に達することはあるが、加齢や体調により状況は変わる。つまり、スキンケアとは常に変化に向き合う行為なのだ。
興味深いのは、スキンケアが単なる自己ケア以上の役割を果たしている点だ。スキンケアは女性同士の間でコミュニケーションの一部となり、容姿に関する話題を提供する。それは「機材談義」に似た、平和で楽しさを伴う話題だ。お互いの容姿レベルを直接的に評価するのではなく、グルーミングコミュニケーションとしてのスキンケアは、お互いを気遣いながら行われる。
最後に、肌は常に改善の余地がある要素であり、盆栽的な要素がある。
完璧な肌を手に入れることは難しいが、少しずつ改善していくプロセス自体が楽しみの一部なのだろう。(元記事の主張もそこにある)
結局自分の肌がどれくらい健康なのか、何が足りなくてなにが過剰なのかを知ることが慣用で、問題がある場合にはそれが緩和されるような成分を選ぶ、というのが成分との付き合い方かと思う。
成分を気にしないといけない、気にしたほうがいいのは、その製品の効能の主となる成分、製品のメインコンセプトに係る部分であり、おまけ程度に「XX配合!」とか謳ってるのは正直賑やかしにすぎないことが多い。
完全に同意。肌状態を正しく把握して理想的な状態に至るために何が必要かを知ることを抜きにしたスキンケアは、病気じゃないのに薬飲むのに等しい。そしてこの部分って正にスキンケアの話題において語られない部分であるように思う。
例えば医療であれば、素人が自分の状態を知ろうとする場合、医療機関での診察や検査を受けることで定量的なデータやそれに基づく専門的見解を得ることができる。自分は美容クリニックもそれなりに利用しているが、そういう抜本的な検査というのは一度も受けたことも提案されたこともない。無論、弊増田が単に無知なだけでそういう対応を受けられる機関はごまんと存在しているのかもしれないが。よく肌タイプが云々みたいな話を見かけるが、あれは何の根拠があって言っているのか、それ16personalitiesより信憑性あるのかな?と常々考えている。
俺は、俺たち彷徨える「清潔になりたい男」たちは、一体どうやって正しく自分の現在地点を知ればいいんだ。誰にそれを尋ねればいい? それが分からないからこそ、とりあえず細胞間脂質層の50%を占めるセラミドを塗布すればいいんだなと早合点してしまう俺のような哀れな羊が今も、ここが何処なのか、これから何処へ向かえばいいのか、何も分からないまま彷徨っているんだ。
ビタミンCとかビタミンA(レチノール)に関しては外用でのデータも多いけど、安定した形で化粧品に配合するのが難しかったりで、成分として配合されているといって効果が期待できないこともある。
通ってたクリニックの医師からビタミンCはイオン導入でないと殆ど浸透しないと教わっていたんだが、同時にそのクリニックでビタミンC配合の化粧品を販売していてどっちなんだよと思ったことを思い出した。ビタミンの外用に関するデータ自体は結構あるんだな。PubMedもarxivみたいに手軽に全文読めれば追従しやすいんだが・・・・・・
「その成分が実際効くかどうか」というのも、数字では表せないところがあって難しい
これはその通り。そのような領域が存在することは勿論否定しない。
しかし、であれば一定の再現性が確保できた段階になってから効果を謳うべきだろう。最悪、薬機法や景品表示法といった制約があるとはいえ、まだ解明されていないだけかもしれないからなんて理由である事ない事アピールしていたら早晩信用を損なうだろうし、リテラシーの高い潜在消費者に訴求することも難しくなるんじゃないだろうか。
そこは「これは統計的差別だが~~疑っている」とあることから分かるかと思うが、当増田による根拠のない憶測に過ぎない。勿論、賢明な美容品ユーザーの女性もたくさんいるだろうし、逆に男性消費者が多いであろうフィットネスやAGAでも怪しい商品は少なからず存在している。
あと追記だけど、官能検査については、例えば嗅覚信号そのものの効果を測るような場合は被験者側の盲検性を確保するのが難しい等の試験デザイン上の課題はありそうとは言え、留保を置いた上で定量的な評価自体は可能なのであって、官能検査だから誤解されやすいとか数値で測れないみたいな話はよく分からなかった。
それじゃあ、順繰りですから、本日は増田さんに発表してもらいます。任意のフィラー増田です。よろしくお願いします。任意のフィラー当番ということで私共の任意のフィラー事業部の取り組みについて簡単に任意のフィラーおさらいさせて任意のフィラーいただきますと、任意のフィラー匿名掲示板における維持管理コストとしての例外的リスクを定量的に評価してみようということで取り組んでいました、任意のフィラー取り組んでいます。この画面は見えていますかね、任意のフィラー当然ですがこの数式でお示ししておりますように、収益任意のフィラーこの場合は広告収入ということになります、が、任意のフィラー右辺つまりコストを上回るならば経営判断としてサービス継続ということになるかと思います。原則的にはということです。任意のフィラーここで右辺に着目しますと例外的リスクかけるピーつまり確率プロバビリティという項が特に難しいということで、任意のフィラーこれまで4つの方式を考えて来ているわけでして、
「誰かを犠牲にするなら補償を与える」という考え方は、経済学における補償原則と呼ばれるものです。これは、ある政策や制度によって一部の人々が損害を被る場合、その人々に対して何らかの形で補償を行うべきという考え方です。
「パレート改善」は、ある経済状態から別の経済状態に移行する際、少なくとも一人の人の効用が増加し、誰の効用も減少しないような状態を指します。つまり、誰かを犠牲にすることなく、全員がより良くできるような改善を目指す考え方です。
経済学は、このような複雑な問題に対して、様々な分析手法やモデルを提供することで、より良い社会の実現に貢献することを目指しています。
経済学は、単に物事を数値で表す学問ではなく、より良い社会を築くための指針となる学問です。
「誰かを犠牲にするなら補償を与える」という考え方は、経済学の根底にある重要な概念の一つであり、この考え方を踏まえて、より公正かつ効率的な社会の実現を目指していくことが重要です。
コミュニティノート:エビデンスの重要性とその過度な強調に関するいくつかの指摘は議論の余地がある点です。以下に挙げる主要なポイントには一定の根拠がありますが、その解釈には注意が必要です。
1. **数値化が困難な要素の軽視**:エビデンスに基づく意思決定が、数値化や定量化が難しい経験や文化的価値観などを軽視しがちであるという主張は一理あります。一部の要素は数値では捉えきれませんが、定性調査や複合的な評価方法を用いることでこれらも意思決定に組み込むことは可能です。
2. **主観の入り込み**:エビデンスの解釈には主観が入り込む余地があるという指摘も妥当です。データの収集方法や分析手法によって結果が変わることがあり、客観性を完全に担保することは困難です。しかし、科学的手法や統計的分析を適用することで、バイアスの影響を最小限に抑える努力はされています。
3. **イノベーションや創造性の阻害**:エビデンスに重きを置きすぎると、初期段階で十分なエビデンスがない新しいアイデアや革新的な取り組みがリスクを取ることが難しくなる可能性があります。ただし、エビデンスと直感、創造性のバランスを取ることが重要です。エビデンスが全くない状態での意思決定もリスクが高いため、判断には注意が必要です。
4. **短期的効果の重視**:エビデンスに基づく政策決定が短期的な効果を重視しがちであり、長期的影響や副作用を捉えきれない場合があるという点も考慮すべきです。長期的視点や全体的な影響を評価するためには、定量的エビデンスの限界を認識したうえで、補完する要素を見出す必要があります。
5. **時間とコスト**:エビデンスの収集と分析には時間とコストがかかるため、緊急時には迅速な判断が求められる状況でエビデンスを待つのは現実的でないという指摘も正しいです。緊急対策には、エビデンスに頼りつつ、迅速な判断を下すための柔軟性も重要です。
総じて、エビデンスは意思決定の重要な要素ですが、それのみでは全ての状況に対応できないことを認識することが必要です。経験や倫理的考慮、長期的視点なども含めた総合的アプローチが重要であり、その限界を適切に認識し、バランスの取れた意思決定を目指すことが肝要です。
まあ個人的には必修でなくてもいいよなというのは同意で。「英語以外の言語を通じて英語を相対視することが大事」的な話は後づけされた理由じゃないのかなあ……と。
ブコメでも書いたけど、20世紀初頭あたりまでは自然科学系でドイツ語やフランス語(特にドイツ語)が強くて、理系でも第二外国語としてこれらを抑えておかないと最新の動向を追うのがきつかった時代というのはあった(はず)なのだよな。"pH"の読み方が長らくドイツ語寄りだったあたりとか医師用語のドイツ語由来が多かったりとかもその名残り。
で、第一次大戦・ヒトラーによるユダヤ人迫害・第二次大戦という流れの中で欧州大陸から米国へ研究者が大量に流出し、さらに冷戦期のアメリカで学術振興策が当たった結果、現在のような「研究論文は英語で書くのが当然」な時代になった。
このあたりを定量的に検証しているデータは無いものかなと思って探していて見つけたのがこれ。化学での使用言語推移。
1961年からのデータなので上の流れがある程度定まったあとの情報ではあるものの、1961年時点でも英語の割合が43%程度なのだよな。あと冷戦期なのでロシア語割合が18%と高いものの、20世紀初頭のドイツ語圏のような「その分野での圧倒的な強さ」みたいな印象はあんまり無い(おそらく、東欧の研究者が論文書いたときに「まずロシア語誌に投稿」」みたいな感じの仕組みがあったんじゃないかな)。
そして1980年には英語割合が60%超え、1985年には70%超え、1995年には80%となり、「研究論文は英語で書くのが当然」 「研究動向を追いかけるには英語読めれば十分」が確立された(元のデータはあくまで化学だけど自然科学や工学系一般でも多分同じことが言えそう)。
話を第二外国語に戻すと、必修なのは、制度ができた当時(旧制大学時代?)に必要があったからでしか無いんじゃないかなと。これで思い出すのが「履歴書は手書き」問題で。
https://nordot.app/961097046650388480
戦前の履歴書は毛筆が当たり前だったのを「事務処理に必要とされるのは毛筆ではなくてペン字だろ!」という合理的な理由で改革したものの、手書きよりワープロなりPCなりでの書類作成能力が必要とされる時代になっても「ペン字でなければならない」という後づけ理由が発生した。第二外国語を必修する理由としての「英語以外の言語を通じて英語を相対視することが大事」的な話にも同じような印象を感じてしまうんだよな。
あと、「研究論文は英語で書くのが当然」 時代が将来的にいつまで続くかは分からないけど、この時代が終わったときの研究者サバイバルに第二外国語が効くか?というと微妙な。
コスパって概念だとタダの場合無限大に増大してしまう。じゃあ果たして0円のボロいママチャリと10円の新品のビアンキとで前者がコスパにおいて優位になるかって話で。そこまで極端でなくとも、フードコートの0円の水があるゆる有料の飲み物よりもコスパが優れてるって事になる。
0秒で完結する動作なんて無いし、金銭的なコストもまあそれを稼ぐのにかかる時間と考えれば無理矢理換算出来るし、タイパはそこん所に対処したものでもあるのかな。と思ったけどこっちはモノよりもむしろ体験や行為にフォーカスした概念なのかな。
まあそもそもパフォーマンスの定義は何なんだよって思う。パソコンなり車なりカタログスペックのあるものなら、少なくとも一面的には意味があんのかもしれないけど。
やれ映画が面白いつまらんだの、運動が健康に良いだの大して効果ないだの、定性的な概念を定量的な数量で割った所で何になる。経済学の入門で謎に数量化された効用なる概念を見た時にも思ったけど。
まあ選択を吟味する時に失うものと得られる満足感の比較衡量くらいは誰しもするんだろうけど、それって他人と共有するには難のある概念だよねって思う。