はてなキーワード: ユニットバスとは
出張のとき、ビジネスホテルでシングル+1000円くらいで部屋があればいつもツインの部屋を取っている。
理由は荷物を1つのベットに広げたままでももう1つの寝られるし、机が広くて仕事がしやすいから。
この前、出張直前にホテルを予約したら喫煙室だった。煙草を吸わないのにうっかりしてしまった。スーツも着替えもカバンも全部煙草臭くなってしまったが、こちらの落ち度だ仕方ない。
ふと部屋に残った煙草の匂いを味わっていると、初めてデリヘルを呼んだ安いラブホのことをおもいだしてしまった。自分にとって衝撃的体験だったので懐かしく思った。
一人でツインの部屋に泊まっているビジネスマンはホテルのフロントでデリヘルでも呼ぶのだろうと思われているのかな。
一度はツインの部屋にデリヘル呼んで激しいプレイがしてみたいものだけれど、小心者だからそんなことはできない。
ホテルに前泊なら大抵次の日の準備で大忙しだし、後泊なら先方と懇親会で具合が悪くなるまで飲まされてる。とてもじゃないがデリヘルどころじゃない。
ロクに部屋の掃除ができない。
フローリングの床が見えないワンルーム、大量に転がる飲みかけのペットボトル、埃と髪の毛ばかり溜まった薄汚いユニットバス、ゴミ箱から溢れる中身、異臭の漂う台所。
単位落とし過ぎて大学の卒業が危うい。ゼミの教授からは怒られ呆れられ見放されている。
バイトもそんなに入らないくせにクレカを使いまくった末停止される。
金が無い癖に痩せられない。
彼氏はいない。未だに処女。昔4ヶ月だけ付き合った彼を一方的に振った。
能力も無い癖に、他人に良く見られたいという自意識だけは一丁前。
どうして私はこんなに愚図でのろまで間抜けで先延ばしをして、追い込まれると分かってるのに目先の娯楽を取ろうとするのだろう。
能力が低いからそりゃ怒られて当たり前なのに、人から怒られることが何よりも怖い。
生きるのが下手。さっさと実家に帰って、細々と暮らして身の丈に合った生活を送るべきだというのに。
どうして家賃を払ってもらってる分際なのにこんなに金で追い込まれるんだ?
大学卒業にしろ辞めるにしろ、来年から奨学金も返さなくてはならないのに。
頭悪くて国公立の大学行けなかったから受けたFラン私立。裕福な家庭でもないのに。
バイトするよりも寝ていたい。お金は無いけどおいしいものを食べたい。
どう考えても全ては自分の自業自得なのに、私は悪くないと思いたがる自分がまだ心の片隅のどこかに居座っている。
さっさと死んだ方が楽になれるのに、まだ生きたいと思っている自分が情けない。
商品名は伏せるけど、
酔い止めの薬、ばっちりダウナーでキマってしまってクセになるのでOD癖のある人間は使わない方がいいと思った
これは別に注意喚起じゃなくて何もしないとまたやらかして死にかける自分用メモなんですけど
元々「用法用量」を守らない悪癖があるんだけどたまに市販薬でもラリっちゃってわけわかんなくなる
それを緩和するために唾を飲もうと思っても飲めない
多分筋肉が言うこと聞かないんだと思う
手足も異常に重い
ベッドが昔流行った低反発マットレスの分厚いやつになったような感覚で動けなくなる
遠近感狂ってるからトイレにたどり着くのが至難の技だしトイレットペーパー手に取るのが難しい
あれ うっかりしんだら確実におもらししてるんだろうな いやだな
うちはユニットバスなんだけど、トイレ行って浴槽に写りこんだ影が生き物に見えて腰抜かした
遠近感も立体感も狂ってるとよくある
視力ゴミなのにラリってると脳みそが勝手に補強しちゃうのかやけにハッキリ見えるんだよね
それでとんでもないものが見えた気がして一人で怯えるはめになる
あと幻聴
もともと小さい音で音楽ながしながら寝るから、その音をやっぱり上手く聞き取れずにへんに補完して
「たすけてたすけて」
どう考えてもいいことなしなんだけど、
同じ薬みるとまたやりたくなっちゃうんだよね
やめようね
てか「見える」系の人がみんなイッちゃってるのってこういうことなのかなとか思ったり
完全自殺マニュアル、読んだの昔すぎて忘れてたわ
お薬は用法用量をまもって正しくお使いください
どうにもならずムカつくときがある。
彼女が友人たちと飲むからいっしょにいこうと誘ってくれたが、おれが根っからのはてなーだから人付き合いが苦手で断ってしまった。ちなみにそういう誘いを断るのこれで三度め。
嫁が帰宅してすぐ、なんでこなかったの?とか今日なら増田が話しやすいひともいたのに!とか、自分ではそれでも無理だってわかりきっていることを言ってきたので(責められてるわけではない)、あぁごめんねー人付き合いの勇気がでなくてね、ともんやり弁解していた。
人付き合いが苦手なのは申し訳ないし自分のウィークポイントなのでほんとうは直したい。しかしなかなか直せない。
ウィークポイントを付かれて嫌な思いがあったのかもしれない。風呂から上がった嫁が、素っ裸のまま布団でごろごろしていたので思わず「寝てんの?風邪引くよ」と冷ために言ってしまった。
字面にすると普通だが、トーンはほぼモラハラおじさんのそれと同じだった。「はだかでなにやってんだ、人付き合いだとか常識振りかざしてわーわー言ってたくせにおめぇ服も着てねぇじゃねぇか笑わせんな」くらいのトーンだったと思う。
嫁は当然むくれた。「うるさい!寝れば?!」と。
これにムカついた。
なにむくれてんだ!!と。
いやたしかに言い方が悪かった!ごめん!でもなにむくれてんだ!!と。
・かのっち☆
聯合経験10回のツワモノ。部屋が乱雑していたりオナニーを頻繁にする
頭の9割が戦果で埋まっていて自分が走ってないときでも他人のEOを把握してたりする戦果依存症。
平成の間童貞を貫くと思いきやソープランドで2発発射をする偉業を成し遂げた
・こば
しばらく単発聯合だったがある日突然day240とか入れて2回目の聯合を取った。
・ろけ
一時期は3群マンとして平凡なプレイヤーだったが、ある日突然発症をして少年兵叩きなどに加担するようになった。将来の夢は生活保護の受給。
ろけの艦これは参考にならないが一人暮らしテクは参考になるところがあった。ユニットバスのなかにプラスチックの椅子を置いてあるのは真似をした
今はイベントを丙でやる程度のエンジョイ勢だったが潜水マンで聯合をかっさらっていたころはタウイで嫌われていたのかもしれない。
基本的にしょーもないなれ合いには参加しないのでランコメが自由である
・ともなり
単発聯合。ネットでは猫かぶっているけど凄まじい性癖があるとの噂。ASMRにハマっていてキモい。
田村ゆかりの「春待ちソレイユ」というアルバムを持っていてEndless StoryとプラチナLover's Dayが好き
・さなたん
1群マン。普段は1群だけど聯合経験も多く1位の経験もある。筆者はこの人に憧れて聯合をはじめた。
レベリングオタクだったが2期になってレベリングスポットが減ったのでモチベが下がったこともあった。
シコ猿としても有名。5-4で潜水を沈めてクソハチとか言ってたしチンパンジーなのかもしれない
・nocua
パラオのまるゆ提督。僕の提督経験値の半分以下なので戦果はそれほどでもない。こば vs まるゆ提督という事件を起こした。
まるゆが好きというよりまるゆという弱い艦が好きっていう自分が好きなんじゃないという噂などがあり諸説ある
・でち
気づいたらなんか聯合に入ってた人。
表では強い言葉使わないけど実は陰湿ではないかと睨んでいる。ドラクエRTAのリスナーとかをやってたりした過去がある
提督名は魚に関するなにからしい。こばに接待をしたことで提督名がバレた。
キリスト教信者なのかもしれないしそうじゃないのかもしれない。
ある日ブロンやカフェインや睡眠薬の市販薬をODして病院に運ばれた。普通に心配だし市販薬ODは金がかかるのでロヒプノール+マイスリー等の睡眠薬遊びのほうがまだましなんじゃないかと思う
・小岡
除外マン。小岡のムーブ自体はまあこういう人もいるよねって感じでいいと思うが小岡キッズを生み出した意味では艦これ界隈に悪影響を与えたのかもしれない。
1期ではほぼ間違いなく単呂でオリョクルをマクロで回していた。今も1-3をマクロで燃料稼ぎをやってるんじゃないかと僕は勝手に思っている
単発聯合。会話が成立しない。関わらないほうがいい。
一時期は艦これにモチベがあったが今はあまり艦これのつぶやきをしない。
まるゆ提督にでち魚雷イキリでブロックされた。ちなみに僕のほうがでち魚雷の数は上
・TREK
最近また僕をブロックしている。ニートがイキって戦果稼ぐことを内心快く思っていないのだろう。
単純に僕が嫌いってのもあるが。睡眠時間を削って資材減らして聯合をやってる社会人からしたら僕みたいな人間を嫌いになるのはせやなって感じ
・R.D.
RTAをやる人で有名。社会人で経験値効率を重視するので捨て艦やバイト艦をほとんど使わない。
1-6の経験値もチリツモなのでそういう択も間違いではないと思う。強い艦の175を作ったり改修もしっかりしてるから穴がない印象。
5-5RTAは割と応用の効くRTAだからしょーもない海域のRTAやる人よりは好感が持てる
前述のともなりと戦果争いをして2位になった人。最初ともなりのことをボッターかみたいなことを言ってた。
生放送とかでクッサいコメントをするので一部からは嫌われているとかいないとか
・wara
だいたい2群マン。ドラクエRTAのリスナー(これを知ってる人は限られている)。艦隊晒しで生主と揉めてツイッターアカウントを作った。
艦これはかなりやってるからエアプと真逆ではあるが繊細な面があるので取り扱い注意。今はケッコン艦を量産しているらしい
・ひがむら6000
戦果すごいやつ、基本僕と戦果を稼ぐと彼の方が強いので強者だと思ってる。
しかし2018年9月22日にあやにゃんこさんクリアか戦果やべえ地獄やといってなぜか聯合を降りてくれたことがある。サブ垢(ツイッター)を持っていてそっちではやべーやつらしい
大鯨でイベント攻略をしたりする人。あやにゃんこと聯合争いをしたときにあやにゃんこに午前800を打たれ鰍さんのコミュで草枯れたとか言っててニヤニヤしたのは内緒
・nsk
2期で戦果稼いでるやつ。社会人だからか聯合きつそうだと割と降りてくれる優しい人。ランコメで馴れ合いはしないタイプ
・のむヨーグルト
会社の宿泊研修により、ホテルで一泊二日することになった。余計な荷物を運びたくなかったので、宿泊の用意としては着替えだけを持っていくことにした。ホテルの部屋には歯ブラシ・石鹸・ひげ剃り・タオルなど、宿泊に必要な物があるだろうと思ったからだ。この時点では、塩が必要になることなど思いもしなかった。
ホテルで用意された夕食の場は、会社の懇親の意味も込められた立食パーティー形式であった。様々な人から注がれ続けたビールをついつい飲みすぎてしまった後は、一人一部屋ずつあてがわれた宿泊部屋で一晩を過ごした。2日目の研修は朝食後に行われるので酔いを残してはいけないと考え、1リットルほど水道水を飲んでから眠りについた。およそ1時間後に小便がしたくなって目が覚め、用を足した後はまた大量に水を飲んでから寝た。
夢の中で私は何度も箸をしゃぶっていた。それも、塩が大量にこびりつき真っ白になった箸だ。しかし、舐めたりない。食卓塩を箸に振りかけて何度も舐めたが、それでも満たされない。募らせる焦燥感が、餓鬼界の夢から人間界の現実へと私を覚醒させた。そして気づいた。しまった、塩分不足に陥ってしまった。
熱けいれんと言われる症状がある。熱中症の一種であり、発汗と水分補給による血中塩分濃度の低下が原因で起こる四肢の筋肉のけいれんである。私は熱けいれんになったことはないが、夏場の肉体労働による発汗と水分補給により、目眩(めまい)のようにふらついてしまったことがある。そしてこの状態に陥った時は、塩分を補給すれば治ることも経験的に知っていた。しかし、まさか桜咲く時期に塩分不足に陥るとは思いもしなかった。
部屋に備え付けの冷蔵庫の中には有料のドリンクがあったが、水・お茶・コーヒー・コーラ・発泡酒しかなかった。畜生、なんでスポーツドリンクが無いんだ、と思い今度はユニットバス周りを調べた。アメニティグッズとして石鹸や歯磨き粉はあったが塩はやはり無かった。そんなもん無くても死なないけど、塩が無ければ死ぬぞ。時刻を見ると深夜2時だった。眠気は覚め酔いも醒め、私の舌は塩のしびれを猛烈に欲していた。その時の欲求を例えるのなら、人間の三大欲求が食欲・睡眠欲・性欲というのは誤りであり、塩・しょう油・ソースの三つが正しいのだ、と言われたら信じてしまうほどであった。
スマホで地図を調べたら、徒歩5分ほどの距離でコンビニがあることが分かった。塩分不足による目眩やイラつきの具合は歩けなくなるほどひどい訳ではなかったので、大丈夫そうだと少し安心した。ひとまず着替えてホテルのロビーへと移動した。時が止まったかのようにしんと静まり返った無人のロビーには自動販売機があったが、「スポーツドリンクよ、あれ」の願いは叶えられなかった。立食パーティー会場に忍び込んで卓上のウスターソースを飲めないかと考えたが、入口は施錠されていた。ホテルのフロントは不在で、「御用のある方はお電話してください」の立て札と固定電話があった。「ウスターソースを飲ませてください」と電話をしようとしたが、熱けいれんではなく別の病気を疑われて大ごとになってもいけないと思い、コンビニへ行くことにした。
コンビニでスポーツドリンクと食卓塩を買い、歩きながらスポーツドリンクを飲んだ。こめかみがぴくぴくと震え、脳への血流を感じると同時に目眩や焦燥感は消えていった。ホテルの宿泊部屋に戻り、食卓塩を混ぜて作った濃いめのスポーツドリンクを飲むと安心感から睡魔に襲われた。その時点で、塩分不足で目が覚めてから1時間近くも経過していた。もし、あらかじめ塩を持っていれば、ほんの1分で塩分補給ができたのになあと思いながら眠りについた。
翌朝はすっきりと目が覚めて、2日目の研修も無事終えることができた。それにしても、深夜のホテルのロビーに人が全くいなくてよかった。もし、自動販売機を見つめて落胆したり、パーティー会場内のウスターソースを見つけてドアをガチャガチャするなど、塩を求めてさまよう奇行をホテルマンや会社の同僚に見られていたら、「妖怪・塩くれ男」などとネタにされただろう。近くにコンビニが無ければ今の人生は無かったのかもしれないので、コンビニに感謝。ちなみに、コンビニ内ではごく冷静にふるまうことができたので大丈夫だ。
最後に。ホテルへ宿泊予定のみんな、塩はちゃんと持ったか。「妖怪・塩くれ男」にならないように用意したほうがいいぞ。ホテルマンへ、各部屋に塩を置いてくれ。上杉謙信のように敵に塩を送れとまでは言わないが、客には塩を送ってくれ。
うどんとかカレーとか食べる。今はそのままコンロで調理できる銀の容器に入ったうどんとかの「再利用禁止」って書いてるのを再利用してる。
そもそも、IH対応のやつ買ったらうちのIHでは使用できず、中身をフライパンで温めて移し替えて食べてた。洗って再利用して定期的に交換してるが、そもそも再利用前提ではないので洗いづらい。
冷凍のパスタが安いのでそれを食べる用にも。今はパスタはコンビニパスタの容器を再利用してる。
冷凍お好み焼き等。紙の容器に入ってる奴しか現状食べられない。容器無しの冷凍のほうが50円ぐらい安かったりする。
100均一でチリトリとホウキを買ったが使いづらい。やっぱり掃除機要る。
コンビニで貰ったものをある程度ストックしつつ洗って再利用しているので要らないと言えば要らないが、あると便利だと思う。割りばしほど入手機会がないから結構貴重。
【あって良かったもの】
3ヵ月ぐらい経った時に貰った。やっぱり必要だった。食費が格段に抑えられる。買いだめできる。
冷凍パスタ、冷凍お好み焼き、冷凍チャーハン等の主食とかから揚げとかのオカズ、スナック系などや飲料。
いるかもしれない
これを読まれている方の中で、屍臭というものを実際に嗅がれた方がどれ位おられるのか、ちょっと予想ができない。家族、友人等の死を経験し、その遺体が荼毘に付されるまで傍におられた方は複数おられるだろうと思う。しかし、そこに屍臭を意識させるような手抜きの仕事を、この国の葬祭業の方々がするとも思えない。だから実際のところ、そのような経験があっても、そこで屍臭を感じられた方はおられなかろうと思うわけだ。
私はこれまでに二度、強烈に屍臭を経験することがあった。あの臭いは、間違いなく、経験した者にとって一生忘れ難いものだ。不快だし、そう何度も体験したいものではない。そのことは体験する前から今に至るまで変わりはないのだけど、その臭いの向こう側にあるものまで体験すると、屍臭に向かう姿勢とでもいうのか……そういうものが確実に変わったような、そんな気がするのだ。人生観が変わった、などと大袈裟なことを言うつもりはないけれど、そのときの話を記録がてら書いておこうと思う。
初めてそれを感じたのは、高校に通っていた頃のことだった。私の通っていた高校は、太平洋戦争末期に空襲で焼かれるまで天守閣が建っていた場所で、四方を崖に囲まれた、自然の要塞のような高台に建てられている。登校するときには、深い谷にかけられた橋を渡ってすぐの正門を通るのだけど、学校の周囲の崖のあちこちに獣道のような抜け道があるので、授業時間中や放課後の時間には、その道を通って麓のコンビニに買い物に行ったりするのが日常だった。
時々、鉄道の駅まで出る必要があったのだが、本来のルートで行くと毎回かなりの回り道で、友人に面倒だとこぼすと、グラウンドのネットの破れ目から崖を斜行して下の道に出る抜け道を教えてくれた。春先でまだ雑草も深く繁茂しておらず、これは便利な道を教えてもらった、と、毎回のようにそこを通って駅に抜けていたのだった。
そして、夏が近付いてきたある日。一週間ぶりにその抜け道を通ると、何とも言えない厭な臭いがしたのだ。蛋白質の分解された臭い。それも、肉だけでなく、皮や毛や、通常なかなか分解されないものまで分解された挙句のような尋常ならざる臭いが、崖の獣道に立ち籠めている。雑草が結構な高さに繁茂していて、辺りにその源らしきものは見えない。日が経つ毎にその臭いはどんどん濃くなって、私の服や髪に染み付いてしまうのではないかというような粘着性すら感じさせる。私は確信したのだ。辺りの何処かの草に隠れて、何かの骸が転がっているに違いない。しかし、とにかく質・量共にそれまで一度も体験したことのない、凄まじい臭いだったので、小さな動物……鼠とか蛇とか……がただ死んでいるだけとは到底思われなかった。
道を教えてくれた友人にもこの話をしたのだが、彼は笑って取り合ってくれなかった。それに、と彼は言う。俺最近あそこ全然使わないからさ、調べる機会もないんで、まあそんなに気になるなら自分で調べればいいじゃん。ひどい奴だと思ったけれど、まあ自分からわざわざ積極的に屍臭の源を探しに行く奴もいないだろうから、彼を責めても仕方ないだろう。
もう季節は真夏になっていた。熱風と熱線が渦巻くような崖の獣道を通る度に、私は時々、わざわざ道沿いの茂みに踏み込んでみたりもした。しかし源は見当たらない。ただ、その酷い臭いだけが常に辺りに立ち籠めている。その臭いを我慢して近道をするか、遠回りして臭いを回避するか……その選択がある時点で逆転し、私はまた遠回りして駅に出るようになった。しかし、その源が何なのか、ということが、私の頭から消えることはなかった。
私は疑っていたのだ。その源が人間ではないかと。受験を意識する時期だったので、公営の図書館の勉強室にこもることが増えていたのだが、休憩を取ろうと勉強室の外に出ると各種新聞の閲覧スペースがある。行方不明者等の情報が出ていたりしないかと、必ず地方欄に目を通すことが習慣になった。成人だったら、あれ位では済まないかもしれない。女性の方が体は小さいだろうが、女性は脂肪組織が多い分屍臭もきついという話を何処かで読んだ。ということは、あれは子供なのではあるまいか……図書館で休憩する度に、私は新聞で子供の行方不明記事を探している。我ながら何をやっているんだろうと思ったけれど、もう新聞の陳列を見る度にあの臭いを思い出し、記事を探さずにおれなかった。
そして季節は晩秋になった。駅に出る日に、いつもよりも学校を出るのが遅くなった。ちょっと考えた。もう夏も過ぎたし、あの臭いも薄れているかもしれない。グラウンドのネットの破れ目は何も変わっておらず、そこをくぐって崖に出ると、あれ程繁茂していた雑草も、盛りのときの半分もない程に枯れてしまっている。私は崖の獣道を進んでいった。傾斜のきつい崖なので、スキーの斜滑降のような進路になるように道は形成されている。ターンする角に来て、ふと何気なく、いつもと違う進路の正反対、崖を斜め上に見上げるような向きに目を向けたとき。視野に初めて、あの屍臭の源が飛び込んできた。
それは一頭の犬だった。もう骨に皮が少し被っただけという外観で、その周囲には蛆なども見当たらなかった。大きな犬で、おそらくドーベルマンとかレトリーバーとか……それ位の大きさの骸だった。ドーベルマンとレトリーバーは全然違うだろう、とか言われそうだが、変色して干涸びたその骸からは、それ以上のことは分からなかったのだ。もう臭いはあまりしていない。私は急いでいたのも忘れてそこにしばらく立ち尽した。あの夏の頃、臭いの源を発見したら大声で叫んでしまうに違いないと思っていた。しかし、今のこの落ち着きは何なのだろう。本当に、自分でも驚く程に、心は静かだった。ああ、人じゃなかったんだ、それはそれで良かったけれど、こいつ、どうしてここに骸を晒していなければならなかったんだろう。野良犬というのもほとんど見ないようになった頃で、こんな大きな犬がそこらをそううろうろしているとも思えなかった。ひょっとしたら、飼い犬が亡くなった誰かが処置に困ってここに骸を捨てたのだろうか。死を看取るまで犬を飼っていた人がそんなことをするというのも変な話なのだけど、他に説得力のある理由を思いつかなかった。
あの臭いがし始めた頃から、こいつはここにあった。そして、あの燃えるような夏の間、道を外れて鬱蒼と草に覆われた中、あの強烈な屍臭を放ち、蛆等に組織をついばまれながら時間が過ぎていった。そしてその臭いも薄められ、ここにこいつはまだある。本当は埋めてやりたかったが、手元にその用意もないし、そのときにようやく自分が急いでいたことを思い出した。クリスチャンの私は十字を切り、天の国で平安と安息のうちにありますように、とだけ祈ってそこを去った。何日かして再びそこを通ってみたら、もう骸はなかった。誰かが気付いて、埋めるか他に持っていくかしたのだろうか。そこまでやってやれなかったことが心残りだったが、せめて祈ることができただけでも、少しはましだったか、と今も思う。
そして二度目。それは、ある自動車関連企業のお膝元である某県の地方都市に住んでいたときのことだった。私は単身者が複数入居している安アパートに住んでいた。よくあるプレハブ二階建の長屋みたいな造りで、外の階段で二階の並びに上がるような、室内は6畳とユニットバスみたいな、そんなアパートである。私にとってそこは家というよりただ寝る為だけの場所で、仕事が終わるとそこに入って寝て、朝はシャワーを浴びてそこを出る……そんな毎日を過ごしていた。おそらく、他の部屋に暮していた人々も、私と同じような日常を過ごしていたに違いあるまい。
そんなある日。部屋を出たときに、ふと厭な臭いがした。ゴミのせいか……と最初は考えた。私の部屋は一番階段に近い二階の部屋で、階段の真下のスペースがゴミ置き場になっていた。仮に凄まじい悪臭を放つゴミが捨てられていたら、そういう臭いを部屋のドアの前で感じることもあるかもしれない。鍵を締めて階段を降り、ゴミ置き場の前に立ってみたけれど、そもそもその日はゴミの収集日ではなかった。そこまで行く経路上に、ゴミから出た汁等がこぼれたような形跡もなかった。気のせいか、あるいは自分が臭いの源なのか……服などをチェックしてみたけれど、どうも自分ではなさそうだ。
翌日、そしてその翌日、と、その臭いは更に強くなっていく。深夜近くに帰宅して、周囲の住人の迷惑にならないように注意しながら二階の並びを歩いてみると、どうも自分の部屋から少々奥に行った辺りでその臭いが一番強くなっているような気がする。隣か、そのまた隣か……しかし、どういう生活をしていたらこんな臭いがするのか。それにしても、この臭いにはどうも心当たりが……と、そこでようやく思い当たったのだった。これは、あの臭いだ。高校の獣道で嗅いだ、あの臭いだと。明日になったら管理会社に電話しようと決めて、部屋に戻って寝た。
そして翌朝。出勤の支度をしていたらチャイムが鳴って、ドアを開けると警官が立っている。
と訊かれ、実は何日か前から……という話をして、
「あの、何かありましたか。私もここの住人なので、差し支えない範囲で教えていただけませんか」
と言うと、警官は言いづらそうに、この部屋の二つ隣で、住人の女性が亡くなられていたんです、何かご存知のことはありませんか、と言う。しかし、隣室の住人の顔もよく知らないような状況で、その更に向こうの住人のことなど知る由もなかった。
職場でその話をすると、皆さん興味本位で色々と仰る。うわー気持ち悪いねーもう引っ越した方がいいんじゃない?……まあ、よくあるパターンだ。そりゃあ、家の近くで人が亡くなっていたというのはそれなりにショックだったわけだけど、私は違うことを考えていたのだった。自分と同じように独りで暮していた人なのだろう。あの部屋のドアは結構密閉性が高いので、ああいう臭いが出てくるまでには相応の時間がかかったに違いない。その間、その人はずっとそこに骸を晒していたわけだろう。これはその女性ではなく、自分に起きたことだったかもしれないのだ。その間にはおそらく何も違いはあるまい。ひょっとしたら、私が骸を晒し、あの臭いを発していたのかもしれないのだ。そう思ったら、興味本位の人と一緒に騒ごうなどと、考えられるはずがないのだ。
皮肉なものだ。屍臭の向こうに、かつてあった生とその現状があるのを思い知らされ、そして私がそのときたまたま傍観者だったというだけで、いつ私が骸を晒す側にならないとも限らない、ということを思い知らされたのだ。私はその晩、帰宅してからその部屋の方を向いて、あの犬のときと同じように祈った。それ位しかできなかった。調子の悪いときに出喰わすことができていたら、とも思うけれど、それはもうどうしようもない。ただ、高校のときの体験に、同じ人間という更なるリアリティを裏打ちされて、私の中に今でもこのときの記憶は強烈に残っている。去年は有名人でも亡くなる人が本当に多かったわけだけど、誰かが亡くなる度に、私はこれらのことを思い出すのだ。
☆はじめに
・滅茶長いです。数えたら4000字ありました。3000字のレポートの課題は一向に進まなかったのに、皮肉なものですね。
・フツーに、私達のことを知ってる人が見たらああアイツ等のことか、と分かるんじゃないかと思います。気づいても、出来れば、自分の心に留めておいてくれれば幸いです。とはいえ、あの人はきっとこれを見ても怒ったりしないだろうけれど。
__________
あの人は違ったけれど、私にとっては初めての恋人だった。1年2ヶ月の記念日に喧嘩して、1年2ヶ月と2日目に直接顔を合わせて、話し合って、2人で決めたことだった。心残りはなかった。
…はずなのに、気付いたら、私はゆうちょ銀行でありったけのお金をおろしていた。そしてその足で駅へと走り切符を買って新幹線へと飛び乗った。行き先は実家の最寄駅。正直何も考えてなかった。ただただ本能の赴くままに、私は帰省してしまっていたのだ。
新幹線の中で父に「急にごめん、今から帰ってもいい?」とラインしたら、すぐ既読が付いて、それから10分後くらいに「分かりました。駅まで迎えに行きます」と返事が来た。母親にも同じようなラインをすると、「おにぎりと味噌汁ならあるよ」と返ってきた。
新幹線に乗っている間、私はずっと車内の電光掲示板を眺めていた。色んなニュースが流れていたけれど、ひとつも内容が思い出せない。ただひたすらに、駅名がひとつずつ西にずれていって、目当ての駅がくるのを待った。
2時間半くらい過ぎた頃、新幹線はやっと駅についた。父から駅前の牛丼屋の横に居るとの連絡が来て走ってそこまで行ったのに父がいない。ついたよと送るともうすぐ着くと返事が来た。"居る"の意味知らないのかな、父。
3分くらい待っていたら父の車が見えた。父は何も聞いてこなかった。ただ嬉しそうに、明日は上司と競馬に行く予定だったけど無くなりそうだということを教えてくれた。私からは最近車校で路上教習に突入したこととか、最近急に寒くなったこととかを話した。
駅からは45分くらいで実家についた。チャイムを鳴らすと母がドアを開けてくれた。お風呂沸いてるよと言われ半ば強制的に風呂場に連行された。ひとり暮らしの家は狭いユニットバスで、いつもシャワーで済ませていたから足を伸ばして浴槽に浸かるのは久々だった。足先から体が温まっていくのを感じた。
30分くらいで風呂から上がり、居間に行くとおにぎりと味噌汁とからあげと餃子とゆで卵が用意されていた。昆布のおにぎりを半分と味噌汁を少し飲んだらお腹がいっぱいになってしまったから、残りは朝食べることにした。父は知多をロックで呑んでいて、「知多?珍しいね」と言うと「中身は違うけどね」と言われた。本当の中身は過去にツイッターで不味すぎると炎上した伝説を持つトップ●リュのウイスキーだった。
そんなこんなしていると夜中の1時を回ったから、父におやすみを告げて2階の寝室に上がった。キングサイズのベッドに横になった。5分くらいすると、母が部屋に入ってきた。ベッドに座って私に一言、「頑張ったね」と言った。
その瞬間、私の両目から噴水のように涙が溢れた。元旦のデパート開店直後みたいに、ものすごい勢いで色んな感情がとめどなく流れて来た。辛い。寂しい。苦しい。悔しい。なんでこうなっちゃったの。もう前みたいに遊べないの。もう好きだよって抱き締めてもらえないの。もうどの街に住もうか?なんて戯言を言い合えないの。もう、2人で添い遂げ合う人生は遅れないの。
母は、ひたすら「頑張ったね、もう充分やれることはやったもんね、辛かったね」と私の背中を撫でてくれた。そのあとに、「でも、色んな楽しいこととか初めての経験とか素敵なモノも沢山貰えたんだから、嫌な思い出にしちゃ駄目だよ。」と言った。
19歳の秋だった。
私とあの人は、同じサークルでひと夏を過ごした。かなり厳しいメニューをこなす日々で、春には名前も顔も知らなかった私達が夏が終わる頃には家族よりよく会う存在になっていた。
夏が終わるとサークルの活動も一段落し、私達は顔を合わせることが減っていった。そんな時、あの人からディナーに誘われた。
他の同期も来る筈だったのに、何かと来れなくなり、2人になってしまった(これがあの人の策略だったのか、本当に偶々だったのかは結局分からずじまいだった)。2人でやっすい店に入って、色んなことを話した。好きな音楽、好きな作家、高校生の頃の話、過去の恋愛話。私が中高ヒエラルキー最下位大学デビュー女のため恋愛経験0の喪女であり、その当時自分にアプローチしてくる人がいたのだがどう交わせばいいか分からないと相談したら、フフッと笑って「ぶっ飛ばしたいなあ、そいつ」と言われた。一瞬ん?と思ったけれど、「ホントそうだよね~」などと軽く流した。
正直、全く意識していなかったのだ、恋愛対象として。ひと夏を共に過ごしたかけがえのない大切な同期、という認識だった。だったのに、やっすい店から出たあと、そんな私達の思い出の練習場で、告白された。午前2時くらいのことだった。
その時も、急に涙が溢れて止まらなかった。信じられなくて、嬉しくて、少し申し訳なくて、何より私が本当は心の奥でずっと惹かれていたことに気付かされてしまって。
あの人はそんな私の手をずっと握っていてくれた。「でも私、多分中学生みたいな恋愛しかできないよ?」と震えながら言うと、「ロミジュリのジュリエットだって中学生なんだよ。」と笑って更に強く握りしめてくれた。その温もりがとても気持ち良くて、私達は手を繋いだまま眠った。
朝の6時頃に目が覚めると、夢じゃないんだと隣から聞こえる寝息に心臓がバクバクした。そうしているうちにあの人が起きて、不意に抱き寄せられて、キスをした。それが私にとっての、ファーストキスだった。
その日から私達は、所謂"恋人同士"になった。数え切れないほどデートをして、旅行も行って、一緒に大学の授業を受けて、お互いの家にも行き来した。
デートは、本当に色んなところに行って色んなことをした。映画を見たり公園でピクニックしたり気になる飲食店を片っ端から当たったりショッピングモールで服やコスメを吟味したり美術館で考える人の真似をしたりディズニーに行ったり(私にとっての初ディズニーだった)、割と付き合いたての頃古本屋に行ったらエロ本だらけで少し気まずくなったこともあった。
ラブホにだって、行った。勿論私にとっては初めてだったけれど、何気ない会話の中であの人は初めてじゃなかったことが判明してしまってそれはもう死ぬ程泣いたな。
デート以上に、私達は沢山沢山体を重ねた。週に1、2回くらい私の家に来てくれて、近くのコンビニまで手を繋いでお酒を買いに行った。気取ったジャズなんかをかけながらお酒飲んで、ほろ酔いでセックスするのが本当に大好きで幸せだった。
いつも一緒だったな、と思う。毎日のように好きとか愛してるとか言い合って、自撮りを送って褒め合ったり、記念日には詩を送り合ったりして、サイコーに幸せな日々だった。
…だったけど、会うごとに、知るごとに、着実に違和感が大きくなっていったのも事実だ。
最初は、私が話しているのにスマホを見ているとか、そんな程度だった。
けれど、それは次第に、私の話になった途端全くつまらなさそうになる(電話だったら寝られる)、私の誕生日を忘れる、逆に誕生日を祝ったら明日忙しいからと電話を切られる、ご飯を食べる約束をしていたのにやっぱり家で食べるとドタキャンされる、自分が忙しくなるとライン一つくれず放置される、そして私が貴方のこういう言動が嫌だからどうにかならない?と話しても自分はこうしたいからと全く歩み寄ろうとしない、というふうにどんどん根本的なところに及ぶようになっていった。決定的に考え方や価値観が違うことに気付くのにはそれ程時間はかからなかった。
けれど、気付いたときにはもう遅かった。私は、完全にあの人に依存してしまっていた。傷ついても、傷つけても、別れることが出来なかった。本当に毎日が辛くて、耐えられなくて、覚悟を決めて別れようと言っても、本当に別れたいの?と子犬のような目をして聞くあの人から離れることはどうしても出来なかった。
だから、最後の数カ月間はお互い深い話を避けるようになってしまっていた。悩みごとや将来の話はお互い他の友人に話すようになり、2人で話すのはこのツイートがどうとかおっぱいがどうとか、本当に俗っぽい上辺だけの話題だけだった。
1年2ヶ月の記念日にした喧嘩は、それ自体はそんなに重要なトピックではなかった。ただ、限界だったのだ、もう。お互いに、これまで少しずつ感じて来ていた"違和感"ゲージが、この喧嘩で満杯になってしまったのだ。
1年2ヶ月と1日の日、多分これは別れるな、と思った。頭では理解していたのだ。けれど、心が、それを受容しなかった。初めて付き合った人と結婚したい、要は一生一緒にいたいという典型的な少女漫画脳と、あの人とならそれが出来る!という付き合いたての頃の自分の幻想、そして何よりもまだ体験したことのない、失恋がもたらす精神的苦痛というものへの恐怖が決断の邪魔をした。
だから、1年2ヶ月と2日目に、決めきれずゴニョゴニョしていた私にあの人が「もう頑張らなくていいよ」と言った瞬間、スッと楽になる感覚がしたのだ。それからは驚くほどスムーズに、そしてお互い納得できる形で、私達は別れ話を終えた。最後の挨拶は「じゃあ、またね」だった。
何も後悔は無かった。あれほど恐れていた失恋の苦痛も感じなかった。むしろ、あの人と今までより素敵な関係性になれるのではないかという希望すら見えていた。
のに、私は、気付いたら、実家を目指して駅へと走っていたのだ。
多分、母は全部分かっていたのだと思う。父だって察していたのかもしれない。私が、初恋の人と結婚したかったことも、本気で恋人に一生を添い遂げようとしていたこと、そのために沢山沢山頑張ったこと、でもそれは結局報われなかったこと、依存や執着もあったけれど、私があの人を本気で好きだったこと。私が、本当は沢山沢山泣きたがっていること。
そう。好きだった。本気で好きなつもりだったんだよ、ずっと。ずっと一緒にいれると思ってた。だから、頑張った。初めてで、何も分からなかったけど、頑張れば一緒にいれると思ってたのに。あの人も、あの人と作り上げてきた時間も思い出も失わずに済むと思ったのに。
私はただひたすらに、思いっきり泣きまくった。そしてそのまま眠りに落ちた。母はずっと、私の横にいてくれた。
次の日、目が覚めたら昼の12時を回っていた。居間に下りると父が録画した吉本新喜劇を見ていた。母はお茶を沸かしていた。私は昨日残したおにぎりと新しいおにぎりと味噌汁とからあげとゆで卵を食べた。餃子は冷蔵庫から出し忘れていた。
その後、母と近所を散歩した。いつもより空気が冷たくて空が澄んでいた。公園について、木製の古いベンチに腰掛けた。「辛い経験や悲しい経験は全て未来の自分が幸せになるための布石だ」という言葉を思い出した。空を眺めがら、あのユニットバスの、小さなアパートに帰ろう、と思った。