はてなキーワード: フラストレーションとは
決定的だったのは「仕事がなさ過ぎる」「他部署のBBAの行動が耐えられない」である。
朝出勤して、その日のうちに届いた資材の納品書を打ち込む(バカでも5~10分あれば終わる)⇒業務終了
そもそも、俺が採用された時の職種はクリエイティブ系だったのだが、
部署内で扱う物件が極端に少なくなったのと同時に、他部署の人手不足により、ここ半年ほど納品書の打ち込みしかやっていない。
5~10分で終わってしまうので、他にやることはないか上司や他部署の人間に聞いても「ない」と言われてしまい、掃除をしたり機械のメンテナンスをしたりしてやりすごすのに耐えきれなくなった。
もう一つの理由「他部署のBBAの行動が耐えられない」であるが、
他部署とうちの部署は一つのフロアで仕切りが分かれていないので、否が応でも毎日顔を合わす。
まずものに当たる。コピー機の蓋をバンバン音を立てて扱うので、それだけでフラストレーションが溜まる。
その上すべてのものの扱いが雑なので、後始末を一番下っ端である俺がやらされる。
またBBAが施工管理を担当しているため、外注費などを絞りに絞っており、外注や客との口論の電話を毎日横で聞かされる。
そもそも外注費を削るよりももっとやることがあるにもかかわらず、外注の施工内容に一々文句をつけて人工を減らしているのだから、外注が怒るのも無理ない。
仕入れ先のメーカーとも口論を毎回しているが、お前の一時の感情でメーカーを怒らせて材料が安く手に入らなくなったら、それこそ元も子もないとは考えないのだろうか。
それが彼女の仕事なのは理解しているし、あと8日なのだから我慢したいと思っているが(我慢すればその分給料は入るので)もう限界だ。
身体が丈夫な方だったにもかかわらず、ストレスで薄毛になり、毎月のようにストレス性胃腸炎をやっている。
心療内科に行って診断書を書いてもらおうか本気で考えており、そもそも求人に記載してあった内容と今現在やっている業務内容が全く変わっているのだから、即退職などは出来ないのだろうか…
母の仕事が忙しい。コロナの影響受けまくってて、ものがないー!こっちにくださーい!配送間に合いません!!!みたいなことになってるらしい。
更に、社内で使っているシステムが変わるっていうので練習やらリハが必要になり、本来休みである土日に出勤することが増えてきた。本来なら閑散期である。
コロナ自粛ムードのせいで、外出してパーッとストレス発散もできず、フラストレーションが溜まっている。しんどいのは当然だ。辛くて面白いことなんでなにもないとため息ついて鬱々している。頑張り屋で負けん気の強い母がこうもダウナーなのは余程のことなので、愚痴にはなるべく付き合ってる。本当にぶっ倒れたら洒落にならない。
でも私もそろそろ限界だ。長引く咳は治らなくて息がしづらいし、でも家事は母にやらせるわけにはいかないからがんばってキッチンに立ち続けるし、立ち続けるために平沢進聴いてアドレナリン出してこなしてやると音楽流せば「宗教みたい」って絡んでくるし。うるせえ水差すな。私だって何も楽しくなんかない。いやでも楽しいこともいっぱいあるんだ。毎週ジャンプの続きを楽しみに生きてるしDQウォークやってみたら日光浴びながらお散歩できて気分がよかったしスライムの装備かわいいし友人は推しグッズセットをプレゼントしてくれたし私の作るご飯はおいしいし舞菜はかわいい。がんばれ私。恋愛サーキュレーション聴いてがんばれ。
これでも2か月前に車道に飛び出ようかと画策したり、メンタルもともとボロボロなんですよ。自殺行為しそうになるくらいだったら入院っていう手段もあるよって言ってもらったばっかなんすよ。ひきこもりでごめんなさい。でももう普通に働くってどうやったらできるかわかんない。こわいよ。私も疲れたよ。でも私は母の痰壺になるくらいしか能がないからさあ。私までしんどいしんどい言ってたらドツボだろうからさ。いいことも全部消えちゃいそうだからさあ。私はまだ幸せを見つけようとする気概は持てているからさあ。
親から条件付きの愛情を受けて育つと、自分自身のことも条件付きでしか認められなくなる。素の自分に価値はない、うまく取り繕って初めて価値が生まれる、なにかマイナスの面が一つでも露呈すると全て終わり。そんな綱渡りの様な気持ちで日々を過ごすようになる。人の視線に過剰にアンテナを張って、その人におもねらないとならなくて、うまい返事が見つからないと何も喋れなくなる。
自分の場合は同じく20代の終わりになってようやく親から条件付きでしか愛されなかったのでは、と気付いた。きっかけは2chの生活版まとめサイトで、幼子を持つ親たちが惜しみない慈しみを我が子に向けるコメントを何度も何度も何度も読むにつけ、あれ?うちの親ちがくね?と。
そのうち、条件付きでしか愛されなかったこと、無条件に愛して欲しかった・話を聞いて欲しかったという気持ちと、失敗してはならない日々のフラストレーションが爆発して、あるとき半ばやけくそ気味に、もう!これはできない自分を認めてやらないと自分が不憫で惨めで哀れでしょうがない!と思い立ち、それからは不憫だな〜哀れだな〜でもそんなんでも頑張ってるのは知ってる世界中の誰も知らなくても自分だけは知ってる、と一人の時に口に出して言うようになり、言い聞かせてるうちに板についてきて、いつしか他人の視線は気にならなくなった(2〜3年くらいかかった)。できない自分を自責するのではなく、頑張ったねどんまいヨッシャまた次頑張ろ!と思えるようになった。
恋愛に関しては、いい人でいるときの自分は親から受けるような無償の愛を相手に求め続けてうまくいかなかった。今でも完全に解消されたとは言い難いが加齢もあり落ち着いた関係を過ごせている。自分は同性愛者なので結婚は無いが、パートナーと同棲し数年平穏に過ごしている。
親とはそのプッツンの時に着拒し一度も連絡していない。対決すべしとか気持ちを話すべしという本も多くあったけど関わらなければ平穏に過ごせるのでそれを優先している。死に目にあえずとも良いかな。産み育ててもらったが、心は通じ合ってない相性の悪い遠い親戚の様な感覚で、とにかく触れないことが(今は)良いことだと思っている。親からは時折手紙が来たが、この頃は音沙汰は無い。これが私と親の良い距離感なのかなと思う。今思えば両親とも外面は良いが人と深い仲になることが下手な人種だったなと思う。昔は激しく憎んだが、今はようやく無風になってきた。ただ今でも実家や親の顔を想像すると鼓動が早くなるし緊張する。実家は常に緊張の場だった。
他人の視線が気にならなくなってからの人生はとても快適だ。人の気持ちより自分の気持ちを優先できるようになり、行きたくない予定に渋々参加することがなくなり、愛想笑いで表情筋つらなくなり、素直な心持ちでいたら人間関係が豊かになった。
長くなったが、人から愛されるには自分を無条件に愛する(認める)しかない。これは無条件の愛情で育てなかった人にはとても難しくて、大人になってから身につけるには自分自身の一番認められないところを受け入れる必要がある。増田の文章を読む限り、そこまで内面を見つめられたのなら必ず辿り着いてより良い人生が過ごせると思う。あと少し頑張って!
この記事は29歳独身男性が正月に帰省して、家族とのやりとりから自分の生き方の癖の原点と、自分の慢性的な渇望を自覚した話を淡々と描くものです。過度な期待はしないでください。あと、部屋は明るくして、ディスプレイから3メートルは離れて読みやがってください。
もちろんフィクションですので実際の人物団体とは関係ありませんし一部フェイクいれてます。
今回帰省で1日目は母方の祖母の、2日目は父方の祖父を訪ねる日程だった。実家と祖母、祖父が住んでいる家はすべて関東圏内で、車で1時間程度の距離である。
今回祖父母の家を訪ねるにあたり、大学生の妹が練習のために運転して父が助手席で監督するというかたちだったのだが、運転席の後ろに座っている母が運転中に車間距離や運転速度、歩行者について大声で責めるような口調で口出しをするのがとてもいたたまれなく、つらかった。5分に1回以上のペースで「あぶない!!(どこに歩行者がいるのかなど具体性なし)」「(車間距離が)近すぎ!」「もっとスピード落とすようにしっかり指示しないと!(父に向かって)」と叫ぶのを聞くのが耐え切れなくなり、母に対しかなり強い口調で運転中に別々の人間から指示を出されるのは運転手にとってフラストレーションだし危険である、ということを伝えた。そうすると母はやや不満げにわかった、といいしばらくは黙っているのだが10分も我慢できなかったようで、またすぐに口を出すようになった。私が運転に慣れてなかった頃も同じように父に監督してもらったが、そのときも後ろに母が乗ると必ず口を出してくるためやめてほしい、と何度も伝えたのだったのが思い出された。
そこで私は、あぁ、母は本当に私や妹がどう思ってるか興味はなくて、自分の子が自分の思い描いた通りに動くかどうかに1番の関心があるんだな、と諦めがついた。この車のエピソード自体はまあ大したことではないのだけれども、私にとってコップから水があふれる最後の一滴だった。私は自分の感情や欲望というものに蓋をするのが非常に上手で、他人の顔色を伺い、自分の気持ちを表明せずに飲み込めば場がうまくいく予感がする場合、ほぼ必ず飲み込んでしまう。その原点のひとつがこの情緒不安定で話を聞き入れない母で、その対策として私の性格が形成されたんだろうな、と納得した。とても寂しいけど、とても腑に落ちる納得だった。
母は非常に心配性であるとともに、自分が正しいと思ったことは絶対に曲げない性格である。そして気分の波が激しく子供のころはそのことで随分苦しんだ。父は御三家中高→東大→大手銀行、母も御三家中高→名門私立大学首席と大変立派な学歴であり私が中学受験するのは生まれる前から決まっていた。(私が生まれる前の時点でマンションを購入するときの判断材料のひとつが御三家に私が合格した場合に通学しやすい駅であることだった、というエピソードから色々察してほしい)。3、4歳から公文を習っていて、宿題の計算プリントが終わらなくて家で泣きながらやっていたら強い腹痛を感じたため母にそのことを伝えたら嘘をつきなさい!と睨まれたのは今でも忘れない。自分のつらさを伝えても無視される無力感はいまだに生々しい。カリキュラムテストや公開模試の結果が返ってくることがとても憂鬱であったこともよく覚えている。専業主婦だった母にとって、私の中学受験、そして大学受験は一大プロジェクトだったのだろう、母のエネルギーと執着は私に注がれ続けた。
母の狂気、そして父の経済力のおかけで私は予定通り御三家に進み、国立医学部に進学、卒業し現在某県で四六時中働いている。普段はそこまで意識しないのだが、毎年年末年始はとくに情緒が不安定になる。愛し、愛されていますか?と周りから問いかけられているような被害妄想にかられてしまう。別に目の前で夕飯の具材を和気藹々と選んでいるカップルは私を追い詰めて孤独感をつのらせようとしているわけではないし、スーパーに鳴り響くクリスマスソングは今年も恋人と過ごせない私に意地悪して惨めな気持ちにするためにかかっている訳ではない。勿論そんなことはわかっている、わかっているが胸が締め付けられるし深呼吸できなくなるし、少しでも油断すると愛されない自分と、愛し合ってる幸福な関係を呪いたくなってしまう。こんなにも愛されたいのになんでこんな愛されにくい性格なのか、どうして愛されるのは私じゃなくてお前なんだ、と。
私は他者に従順で、他者の顔色を伺うのがうまく、自己主張は激しくない。他の人が面倒がってやらない仕事もするため上の先生受けは悪くない(はず)し、患者や病棟スタッフからは優しい先生だとどこの病院に勤めても言われる。病院を移るときに泣いて感謝されて別れを惜しまれたことも数回ある。それは大変、大変ありがたいし私の数少ない生きる支えになっている。本当に感謝している。単に便利な駒と思われてるだけかもしれないけど、それでも身が粉になるまで働くね。が、一方で私の利他的な言動の根幹に自己嫌悪と人間不信が深く深く根付いていることに最近気づいた。
人を信じていないため、相手の利益になることをしないと自分に価値はないからすぐに捨てられるだろうという確信、強迫観念がある。素の自分に価値はないから勉強すべきだし、素の自分に価値はないから他の人がやりたがらないことをやるべきだし、素の自分に価値はないから他人のために生きるべきしそのために自分の感情や欲望に蓋をするのは当然だ、と。見せかけの自分を偽装することが年々上手くなり、幸か不幸かその評判が職場では悪くなく、ただ自分の気持ちに厳重に蓋をして他人軸で生きているため満たされなさ、慢性的な空虚感、欠乏感がある。正直今なにかの拍子に即死したらお、ラッキーじゃん?と思う気がする。この欠乏感はどういうときになくなるか自分の気持ちを必死で感じてみると、心を許せる人と時間を過ごしているときだけはこの胸の裏をカリカリ引っ掻かれるような気持ちがなくなることに気づいた。ただ一人に誰よりも愛されたい、受け入れてほしい、という普遍的な、しかし切実な気持ちである。
私はとにかく異性に縁がなく、人生唯一の交際していた期間は24歳のときの1年間で、それ以外は凪である。そのときの相手には今でも深く深く心から感謝していて、あの未熟でどうしようもなかった当時の私をいっときでも受け入れてくれたことは生涯忘れない。幸せにしてあげられなくてごめんね、幸せになってほしいといつだって祈ってるよ。その後職場や婚活で何人かに好意を示したが、私の空虚がバレるのか交際まで至ったことはない。みなさん大変見る目がある。おそらく私にとっては2人の時間のおかげで心が安定するが、相手にとってはそうではなかったのだろう。包容力、余裕のなさよ。私は貯金もあるし料理もするし水回りの掃除は好きで家事機能付きATMとしてはそれなりに機能するのだがそれを差し引いてもお断りされるのだから笑ってしまう。私がなぜ愛への羨望、渇望があるのかと考えると、無条件に愛されているという実感を感じたことがなかったからではないかと思い至った。父も母も私を愛し育ててくれたが、それは条件付きの愛ではなかったか。従順で手のかからない優等生"だから"愛していたのではないか。だからこそ勉強をやめようとするとじゃあ中卒でいいんだな、今すぐ家を出ていけと言われたのではないか。患者やスタッフから好意的に受け入れてもらえてるだけで本来は幸せであるべきなのにそれでは全く足りず穴が空いたバケツに水を入れるような状態になっているのではないか。
私の魂の深いところに自己嫌悪と人間不信があり、他人軸な生き方をしてきている。そのため満たされなさ、空虚さがあるがいままで自分の気持ちに蓋をしすぎて、自分の気持ちの詳細がわからなくなっている。様々なひとが私にうっすら好意的だが、私を誰よりも深く愛してくれる人はこの世界に1人もいない。親は私を愛してくれてはいるが、それは条件付きである。愛への強い渇望感があるが、渇望感があるため愛されない。
このデッドロックを言葉にできただけでもこの正月に意味はあったはずである。いくつかの本(※)を読むと愛されるのを目指すのではなく愛せ、自分を愛せない人は他人を愛せない、と書いてあった。さすがに交際している人全員が交際前から自愛できているとは思えないのでそうであったほうがより幸せだよね、と解釈しているが… …突破点として自愛が鍵になりそうな予感はある。自分を愛せるようになるにはまず自分の気持ちや欲望を言語化すること、自分の身体感覚を取り戻し快不快を自覚することだろうと信じてこの記事を書いた。書いている最中はやや気が滅入っていたが、書き終わった今、かなりすっきりした気持ちでいる。
あと以前親からは酷く嫌がられたので諦めていたが、内緒ではてブで有名な某結婚相談所に申し込んだ。万が一出会ってしまったら何卒よろしくお願いします。
いつかこの記事を笑って読み返せる日がくることを願って、そして自分だけじゃなく他の誰かの心の整理の一助になれたら。
※「愛する意味」上田紀行、「生きる技法」安冨歩、「アダルトチャイルドが人生を変えていく本」アスク・ヒューマンケア相談室 など。どれもよい本でした。
https://note.com/moaikids/n/n8d1d1813ee08
会社への満足感が低かったらブリリアントジャークみたいに振る舞っちゃうよね、ということを書く。
人間は社会でしか生きられないので、他者を攻撃することは通常マイナスにしか働かないんだけど、特定の条件下では「ブリリアントジャーク」のように振る舞ってしまうことがある。その特定の条件っていうことに私は心当たりがあって、自己肯定感などの満足度が不足している、または他人から軽視されていると感じた時だ。例えば、組織が大きくなる時に管理職が増えた時に、新人管理職はメンバーのパーソナリティへの理解が浅いので、古株の尊厳を無視した人事変更が行われることはよくあって、世渡りが下手な人はそのような出来事に対して態度を硬直してしまう。そして、自分の能力を誇示するために攻撃的な発言が増えてしまう。これってブリリアントジャークやん。
まあ、その心当たりは私が最近体験したことです。かなりつらいです。自分の心は能力をわかってもらえていないというフラストレーションで満たされている。自尊心が邪魔をして自己開示できずに、リーダーに対して建前でしかコミュニケーションができない。誰も自分の味方がいないような感覚。管理職との1on1はやっているけど硬直してしまった態度をほぐして欲しいというサインに気が付けない管理職に責任転嫁する自分。私はもっと仲良く楽しく仕事がしたいけど同僚が距離をあけてくるので会社に行きたくない。当然ならがら攻撃的で協調性が低くなってしまった私の評価を下げる管理職。LANケーブルを首に巻いておけって話なのは承知しています。さよなら。
今思うと、単に仕事として依頼されたからというだけでなく、こういう学習漫画を描くことで社会貢献して箔をつけようとしていたのかな。単に雑誌に大衆向けとして描くだけでは社会人的評価が得られにくかったから。あと、こういう漫画の執筆を通じて、漫画家自身も勉強になり、学がつくというのもあるだろう。最初から立派な監修がついてくれてるから安心できるだろうし。
かつて矢口高雄が、エッセイを教科書に載せたいという教科書会社の申し出に対し、「エッセイではなく1ページマンガを書かせてほしい、原稿料もいらないから」と頼み込み、マンガを初めて教科書に掲載させることに成功したという。
これはどういうことかというと、「音楽の教科書にビートルズ」と同じ。かつてマンガは俗悪な読み物として親や教育者から敵視されていたが、マンガを読んでいた子供たちが大人になり、その社会的評価も変わっていったということをあらわす象徴的なエピソードだ。矢口は子供の頃から敬愛する手塚治虫のマンガが大人から白眼視されることにいらだちを抱えていたというし、積年の思いを晴らしたとは言える。
例示された漫画家は、そのようなフラストレーションを抱えた世代だろう。学習漫画を描くということは、彼らにとっては「子供たちのために漫画を描く」ということが世間に認められたことの一種の確認にはなったと思う。しかし増田の言う「社会人的評価のために箔をつける」は的を外してないように見えてだいぶズレている感じがするし、「漫画家にも勉強になる」って、まるで漫画家は勉強してないような言い草だな。この投稿で一番気になったのは増田の持つ漫画家への蔑視的偏見だ。
まあそういうメンタルの延長線上に俺らが現状でフラストレーションを抱える使えない会社のオッサンたちの開き直りがある気もする。
そういう開き直りメンタルの先に他者への雑さとか、年下への横柄さが生まれてきて
ああいうオッサンたちも馬鹿じゃないし若者たちのフラストレーションが見えてないはずないのに知らんぷり決め込んでる節がある一端にこういうオッサンたちの己に対する開き直りがあって、
それが他人にまで及んで「ま、どうせみんな死ぬしまあいっか」みたいな感じで自分をスルーするように相手にも雑に接する感じになるのでは。
そいつらが多数派になってきたらさらに、「ま、みんなやってるし問題ないか」ってなるし、「どうせみんな歳とったら同じだし」とかなるし。
あなたがそうだとは限らないし個人個人で自分がどうなろうと思おうと勝手だし尊重するし基本的には否定しないけど、今のこの日本の他人に対する雑さや開き直りに加担する真似だけはやめてくれよな。
文章を読んだり、書いたりする習慣がない人は、そういう事が多い。
最後までやらせてフラストレーションを溜めて爆発するか、さっさと手元に引き上げて、自分で書くしかない。
…という記事は山盛りあるけど、なにを綺麗事で良い人ぶってるのかと思うよ。
本当にできない人っているんだもん。
自分の中に「独特の正義」と「ある種の承認欲求」のようなものが強く存在していて、それを根拠として「カジュアルな感覚で他者に暴言を投げつけることが日常の一部になっていた」という点において、極めて親しい存在だったんだろうなと。
それと同時に、そういった行為がそれぞれのもつ「独特の正義」に反している側面があることにうっすら自分でも気づいていて、それゆえにたまったフラストレーションを暴言によって解消するというループから抜け出せなくなっていた。
ただし、一方はその暴言のカジュアル性により一部コミュニティで「面白いやつ」として認められており、もう一方はその暴言の単調さにより「つまらないやつ」として嫌われていた。
確かにその点ではまったくもって大きな違いがあり、「善悪はキモいキモくないとか、俺の仲間かどうかといったもので決まる」という視点で考えるなら両者はまったくもって別の立ち位置にいたわけで全く別の存在ではあるのだが……
内面に置いては親しいものを持っており、それ故に正面からぶつかりあった時エネルギーは逃げ場を失い暴走したのではないだろうか。
だから?
左翼思想でも右翼思想でもなく、かといってなにか確固たる信念があるわけでもなくて、ただただ極端な思想の人たちを冷笑し続けるだけの人。
思想を持つことが当然であるという差別主義を隠そうともせず、下記に自らあるように「思想に依存」することを恥ずかしいとも思っていない、そういう自分の活動が他人の迷惑になっているとは夢にも思ってない感じで素晴らしい
議論に首を突っ込んできてその都度矛盾点を指摘しては進行を遅らせるだけ遅れさせておいて
矛盾したまま進行していいと思ってるのか?現場猫が書いてるのか?「ヨシ!」って言ってみて
共通して言えることはとにかく責任を負わない。責任を負うようなことをしない。でも人の間違いは生き生きとあげつらうというところ。
現場猫が「ヨシ」っていって事故起こったら上司が責任取るんだろうなぁ・・・と思ったらなんか悲しくなりました。矛盾したまま突っ走る人の責任取りたい奴なんているのか?
恐らくある程度頭の良い人なのだと思うけど、結局なんの役にも立ってないんだよね。
「自分は無条件で役に立っている」という素晴らしい自己是認感。いいね。それどうやって手に入れるのかな?迷惑を掛けたらその分を認めないことかな(民主党政権時の「桜を見る会」は野党は知りません!名前が変わったからです!!みたいな?www)ツイッターとかでもアカウント取り直せばオールリセット!と思ってそう
そんでもって結局糞の役にもたってないってことを自覚させて成仏させたい。
たぶん、ネトウヨとパヨクがクソ役に立たないどころか迷惑極まりないことを自覚して成仏すれば勝手に消えると思う
自分の中では無敵の人予備軍って呼んでる。
私個人の活動理由は、「復讐」ですね。パヨクが親で虐待されて育ったので。ネトウヨはどうでもいいから矛盾指摘して遊んだりしないけど、まあ似たような理由なんじゃない?ああいう人たちが独自の正義で虐待してても全然驚かないし。
ある程度頭がいいから思想に依存する必要はなくて、でも自分では何もしないから現状が改善していかなくて、それを周りにいるバカのせいにして気がつくとフラストレーションの塊になってるから。
あなたみたいな人が自分のクソ活動に疑問を持って、一人でも減ってくれれば「現状が改善」してるんだよなぁ。
失うことを恐れて何かを得る活動をしなければ失うものがなくなるのは当たり前だよねってこと。
左翼思想でも右翼思想でもなく、かといってなにか確固たる信念があるわけでもなくて、ただただ極端な思想の人たちを冷笑し続けるだけの人。
思想を持つことが当然であるという差別主義を隠そうともせず、下記に自らあるように「思想に依存」することを恥ずかしいとも思っていない、そういう自分の活動が他人の迷惑になっているとは夢にも思ってない感じで素晴らしい
議論に首を突っ込んできてその都度矛盾点を指摘しては進行を遅らせるだけ遅れさせておいて
矛盾したまま進行していいと思ってるのか?現場猫が書いてるのか?「ヨシ!」って言ってみて
共通して言えることはとにかく責任を負わない。責任を負うようなことをしない。でも人の間違いは生き生きとあげつらうというところ。
現場猫が「ヨシ」っていって事故起こったら上司が責任取るんだろうなぁ・・・と思ったらなんか悲しくなりました。矛盾したまま突っ走る人の責任取りたい奴なんているのか?
恐らくある程度頭の良い人なのだと思うけど、結局なんの役にも立ってないんだよね。
「自分は無条件で役に立っている」という素晴らしい自己是認感。いいね。それどうやって手に入れるのかな?迷惑を掛けたらその分を認めないことかな(民主党政権時の「桜を見る会」は野党は知りません!名前が変わったからです!!みたいな?www)ツイッターとかでもアカウント取り直せばオールリセット!と思ってそう
そんでもって結局糞の役にもたってないってことを自覚させて成仏させたい。
たぶん、ネトウヨとパヨクがクソ役に立たないどころか迷惑極まりないことを自覚して成仏すれば勝手に消えると思う
自分の中では無敵の人予備軍って呼んでる。
私個人の活動理由は、「復讐」ですね。パヨクが親で虐待されて育ったので。ネトウヨはどうでもいいから矛盾指摘して遊んだりしないけど、まあ似たような理由なんじゃない?ああいう人たちが独自の正義で虐待してても全然驚かないし。
ある程度頭がいいから思想に依存する必要はなくて、でも自分では何もしないから現状が改善していかなくて、それを周りにいるバカのせいにして気がつくとフラストレーションの塊になってるから。
あなたみたいな人が自分のクソ活動に疑問を持って、一人でも減ってくれれば「現状が改善」してるんだよなぁ。
失うことを恐れて何かを得る活動をしなければ失うものがなくなるのは当たり前だよねってこと。
左翼思想でも右翼思想でもなく、かといってなにか確固たる信念があるわけでもなくて、ただただ極端な思想の人たちを冷笑し続けるだけの人。
なにかの議論を見ていて、どちらかから「冷笑的」という言葉が発せられたら末期だなと感じます。
相手が冷笑的であると言い出す人は別に相手が冷たく笑っているのを視たわけではなくて、
要するに自分の主張に賛同してくれない人を「冷笑的」と言っています。
「あなたの主張にはこれこれこのような問題があるのでは?」という反論や質問を受け取ったのに、
きちんとした再反論や説明が出来ず、代わりに「冷笑的な態度だ!」と言って怒りだしたり。
別に偉そうにするわけじゃないから一見実害がなさそうなんだけど、議論に首を突っ込んできてその都度矛盾点を指摘しては進行を遅らせるだけ遅れさせておいて、かといって自分の意見を求めても何かを言うわけでもない。
矛盾点を指摘されて、何故不機嫌になるのでしょうか、
つまり論理が壊れてるとか前提が嘘ソースであるとかの議論はそのまま進めても有害無益なので、
矛盾点を指摘してもらったなら喜ぶべきです。
改めてその議論をブラッシュアップするなり放棄するなりできるでしょう。
そこでただ不貞腐れた顔になるというのは恐るべき低知能仕草です。
ネットで延々政治議論してるような連中のうち誰が責任を追うような仕事をしてるというのでしょうか。
まず、彼等の御政道談義なんぞ誰にも顧みられないので政治に影響を与えません。
主張はすれども説明から逃げ、議論を避ける人間が多いのは反論を受けて立つのが怖いからです。
自説の矛盾を指摘されることにすら憤慨するあなたもその手合いではないですか?
でも人の間違いは生き生きとあげつらうというところ。
・相手が生き生きしているというのはあなたの主観の可能性が高い。
・じゃあ人の間違いを指摘するときは死んだような顔でやればオッケーなの?それはマナー的な話?
そんなこと気にしてる暇があるなら自分の主張の矛盾チェックでもしてなよ。
恐らくある程度頭の良い人なのだと思うけど、結局なんの役にも立ってないんだよね。
ネトウヨはその人をパヨクだと思いこんでいて、パヨクはその人をネトウヨだと思いこんでるみたいなんだけど、そうじゃない第三勢力ですよっていうことを教えてあげたいので名前をつけてあげてほしい。
どうせあの頭あったかい人達は自分らに反対する奴・賛成しない奴は全部敵でまとめて変なレッテルで認識するわけでしょ。
その内訳がどの勢力かなんてどうでもいいじゃないですか。
って書いてるうちにまさにそういうブコメがもう有るんだけど
「自称中立」かなあ。ただこういう人、言動を追ってくと基本的人権の概念が現代先進国レベルから大きく乖離してることが多く、それを考えるとネトウヨと弁別する必要性はあまり感じない。
2019/11/15
ほらね?
こういう人にはなるべく単純な構造が嬉しいし、
「自分の主張に賛成しない奴はみんなネトウヨ(パヨク)」なら自分を反省しなくてすみます。
賛同されなかった→あいつはネトウヨ(パヨク)だから気にすることなし。
批判された→あいつはネトウヨ(パヨク)だから気にすることなし。
ね?ネトウヨやパヨクって何の責任感も思考力も無くても出来るでしょ。
思想に依存する人は頭が悪いですが(元はよい頭脳でもダメになるため)、
そういうものに依存する理由は頭の悪さより性格のだらしなさにあります。
でも自分では何もしないから現状が改善していかなくて、それを周りにいるバカのせいにして気がつくとフラストレーションの塊になってるから。
客観的に周りを観察してください(その冷静さがあるうちに)。
言うことが凶暴でいつもフラストレーションの塊なのは政治思想に深入りしている人です。
対照的に例えば趣味や仕事に打ち込んで集中している人は幸福ですが
そういう幸福なクリエイター業の人でもネトウヨやパヨクになったとたん
攻撃的なtweetが増え、いつも政治のことで怒っている不幸そうな人に変貌してしまいます。
あの人達は起きている間ずっとネトウヨやパヨクや気に入らない国や政治家のことを考えており、憎んで憎んでイライラする。
自分に同調してくれないだけの第三者のことすら「冷笑派」と言って恨みだすほどです。
役に立つ人というのは自分の生活をきちんと送っている人のことです。
日々自分なりの勤めを果たし、その時々の仕事に集中し、自分や周りを疎かにせず生きる人のことです。
政治思想で頭をおかしくしてネットで憎悪合戦をしている人のことではありません
必然的に「悪い奴をやっつけろ!」という単純なアウトプットになってしまった哀れな馬鹿の群れです。
馬鹿の癖に等身大の馬鹿として生きる人生を受け入れられなかった。
身の丈超えた偉大なものになりたくて政治思想ごっこした結果の常にイライラする役立たず人生です。