はてなキーワード: ビジネスパーソンとは
一般人の俺らはつい「これぞ真の芸術性を問う問題!」みたいに賞賛しそうになるけど、実際ああいう問題って他の美術関係者からどう見られてるのか気になって調べたらこういう記事が出てきた
対談|戸川馨✕荒木慎也―元予備校講師と、藝大入試の歴史と文法を解く | ART DIVER
https://artdiver.tokyo/archives/13490
荒木 様式研究や作家研究はプロなら必須なので、それを否定するのはどうかなと思います。それに美大受験にかぎらず、世の中に「傾向と対策」があるのは当たり前ですよね。藝大がそれを避けるように入試を作成するのもおかしいと思います。
もっと言ってしまえば、TARO賞にだってヴェネツィア・ビエンナーレにだって傾向と対策はあるわけだし、文脈を踏まえた上で評価される作品をつくるのがプロの仕事じゃないですか。
戸川 ええ、僕もそう思います。これは、「作品とは何なのか」という議論に発展する問題。藝大の教授陣は「原石を見つけたい」という言葉をよく使いますが。
荒木 そこだと思うな、やっぱり!
戸川 教育を受けずとも素晴らしい絵が描けるような学生が欲しいのでしょう。しかし実際合格する生徒の大多数は、しっかりと訓練を受けて、技術力があり完成度の高い作品を描いている。
荒木 藝大側は、心のどこかで「情報に汚されていないピュアな才能」を入試で見つけたいと思っているような気がするな。
戸川 予備校も藝大の意図を汲んだうえで受験生の個性を尊重して真摯に無理なく対策をしているのですが、こういった対策を藝大側は好ましく思っていない。ここに藝大と美術予備校のギャップがある。
荒木 そもそも、「原石」とか「ピュアな才能」といった発想が古い。それが依拠しているロマン主義的な天才概念はさんざん批判されてきたことで、それにもとづいて国立大学の入試をするのはおかしい。
戸川 ここまで考えていくと、美大における入試とはなんだという問いが生まれます。藝大も入試に対して迷走してきた歴史がありますし、それは裏返すと、受験生が藝大に翻弄されてきた歴史でもあるのです。
この会話は「教授が良いと思って合格させた絵が、実は予備校で研究したマイナーな作家の画風だった」っていう事象に関するもので、「絵を描きなさい」に対する言及ではない。
このあと「絵を描きなさい」については一瞬言及されるのだが、上野動物園の試験の話にシフトしてしまいあまり深くは突っ込まれていない。
とはいえ、「絵を描きなさい」についても、「こういう原石見つけようとする奇抜な試験やめろよ」って内心考えてるんかなあと思った。
上野動物園、油性ペンについて触れたくだりのあと、こう言ってるし。
荒木 社会自体が藝大に対して過度に幻想を抱いているのではないでしょうか。『最後の秘境 東京藝大』という本でも強調されていましたが、藝大は常識では理解できない特別な人々の集まりだと思いたがる一般認識があるから、このような入試が肯定的に捉えられているのでしょう。受験生からすれば冗談じゃない話ですが。
これで思い出したのはGoogleの入社試験に一時期出てた難問奇問で、日本のビジネスパーソンに「暗記ではない能力を問う問題!」って持て囃されてた印象あるけど
Google re:Work - ガイド: 構造化面接を実施する
https://rework.withgoogle.com/jp/guides/hiring-use-structured-interviewing#avoid-brainteasers
難問奇問を避ける
かつて Google では面接の際、「ボーイング 747 の中にゴルフボールはいくつ収まりますか?」といった難問や、「もしあなたが 5 セント硬貨と同じ大きさに縮んで、ミキサーに入れられたとしたら、どうやって脱出しますか?」といった奇問を出題していました。
しかしそれと同時に Google では、面接時のスコアとそれ以降のパフォーマンス スコアを比較し、難問奇問による予測能力を詳しく検証しました。その結果、このような質問に対して見られた能力は、好意的に解釈しても、訓練を通じて向上できるようなスキルであることを発見し、それからは応募者の評価に利用することはなくなりました。こうした難問奇問は最悪の場合、些末な情報または応募者側の深い洞察がないと解くことができず、その一方で面接担当者を利口になった気にさせ、自己満足させるのみで終わってしまいます。このような質問には、応募者が仕事でどのような業績を示すのかを予測することはほとんどできません。その理由の 1 つは、質問が的外れであるからであり(日々の仕事で飛行機の容積を見積もらなければならないことがあるでしょうか)、もう 1 つは一般的な認知能力と、難問奇問を解くための能力との間に相関関係がないからです。
結果こうなったという歴史がある。
Googleも藝大も、雲の上のような存在であるが故に無批判に持ち上げそうになるけど、実際はその試験をやったことで能力ある人を取れてるかちゃんと検証しないとダメだよなあと思った。
まあGoogleなら社員の人、藝大なら上のインタビュー受けてる人みたいな美術関係者がやってくれるから一般人には関係ないのかもしれないけど。
登大遊っていうけしからんおじさんが、日本とアメリカでは「エンジニア」って言葉の意味が全然違う、日本では「言われたものをつくる人」だけど、アメリカでは「ソフトウェアが使われるであろう全ての領域についてだいたいなんでもわかっていて、自分で決める人」だと言ってたのを思い出した。
https://www.youtube.com/watch?v=Uww1CZTXfXs&t=1459s
ITがつまらなくなったってよりは、ITなんてものはもともとつまんないよ。
ITがなんでつまんないかというと、(自分たちの課題がなんなのかもよくわかっていない阿呆な)顧客に要求されたものをつくるのが仕事だから。
それが90年代くらいからなんでおもしろくなったかというと、「IT」をやめたから。
コードを書ける程度に頭の良い人たちが、他人に言われた通りにコードを書くのではなく、自分たちで自らビジネスを営むことに目覚めたから。
「ビジネスパーソン」が試しもしなかった新しいやりかた + 動くコード で古いビジネスの習慣をどんどんディスラプトしたから、シリコンバレーみたいな面白いうえに儲かる世界ができあがった。
これは「テック業界」みたいな言葉で、(特にSIer的な意味での、顧客に要求されたものをつくることが仕事の)従来の「IT」とはやんわり区別されてることからもわかる。
つまりコードを書くことを「IT」だと思ってて、「IT」を一瞬面白いと思って、今は「IT」がつまんないと思うようになった元増田は、もともとつまんない奴だったわけ。
(余談だけど、ここ2,3年のシリコンバレーの崩落も、儲かった結果「ビジネスパーソン」の割合が増えちゃって、「他人の言う事を聞かず自らビジネスをやる、コードを書ける人たち」の割合が減っちゃったからかもね)
せっかくソフトウェアを書く能力を持ちながら、その能力を僅かな給金で他人に売り渡してしまうのは勿体ない。
だいたい、ソフトウェアについて知らないどころか、普通のビジネス日本語会話ですら怪しい阿呆な「ビジネスパーソン」の要求通りにソフトウェアを書くのって苦痛じゃない?(それについては元増田も同感のようで、マネーの虎だとか胡散臭いだとかさんざん馬鹿にしてるけど。このへんに関しては自分も結構同感で、最近はほんとつまんないtoB SaaS増えたなって思う)
最近では「つまんない「IT」」の象徴だったデカいSIerですら、「顧客に言われたとおりにソフトウェアをつくる」のではなく、「顧客と一緒に課題を深堀りして、新たな価値を創造する」を商売にするところも増え始めた。
かつてはスタートアップの専売特許だと思われてたリーン・アジャイル・デザイン思考を使いこなす大企業も増えてきた。
この先鋒にはみんなが馬鹿にしてるデジタル庁や東京都デジタルサービス局の姿がある。
つまり、かつて「スタートアップ的」とされてたツールやマインドセットが浸透するところには浸透してきて、世界が「大企業とスタートアップ」ではなく、デカい小さい若い年寄政府民間に関係なく、シンプルに「面白い奴とつまんない奴」って構造になってきたってわけ。
元増田の言う通り、つまんないものはつまんない。なぜならばそれは偽物だから。
比較すると一番ましな人だなとは思う
けど、彼の周り、世界が狭すぎん?
んで、そのことに無自覚すぎん?
基本的に仕事ができるイケイケエンジニア・ベンチャークラスタのばっかりなのよ。価値観も、マニフェストも。
だから振り返り 【都知事選2024】チーム安野の選挙戦を振り返って〜メンバーのKPTを公開〜 に
女性メンバー(海外で活躍、子育て中など)、エンジニア、ビジネスパーソンなど多様なメンバーがいたことをもっと積極的に発信したかった
いや、別に「やるな」って言いたいわけじゃない。政治やるんだから多少のダーティーさも必要でしょう? でも、やるならばれないようにやれってのと、お仲間含めた無自覚な無謬性ちゃんと捨てな? ってハナシ
......おっと主題がずれた。
とにかく言いたいのは、あまりにも世界が狭いし、そのことに無自覚なのに「誰も取り残さない」とか言えちゃうのが良くないよってハナシ
AIで全部が全部解決できるわけじゃないし、そもそもITや技術で解決できない問題のほうが多いけど、そのためにはお仲間内にこもってないほうがいいんじゃない?
水瀬いのりという、声優がいる。この人に妻を泣かされた日のことは、忘れられない。
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お勉強のよくできる大学を経て、お利口な人たちが集う、そこはかとなく大きな企業で働く、平凡なビジネスパーソン。
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たまに、Apple Musicのシャッフル再生で流れてくるのを聞いて、なんだか落ち着く歌手がいるなあ、くらいの感覚。
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多少規模の大きい会社の勤め人ならわかるだろうけど、本社の中枢の経営のあたりに投げ込まれると、
それはもう、胃が痛くなることが多くなる。辺境の支社ののんびりびよりが懐かしいことこの上ない。
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じきに水瀬いのり氏の音楽の落ち着く効能に縋って、通勤時は「モーツアルト」「水瀬いのり」のヘビロテであった。
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同氏のおかげか、はたまた私の才によるものか、お作法にうるさい経営対応も、ちょっと神経質な霞ヶ関の対応も、
朝飯前とは行かずとも、まあなんとかなるようになった頃、今の妻と出会った。
妻はアニメもジャニーズもわからぬ箱入り娘であったが、私が運転中にやたら水瀬氏の曲を流すものだから、
自然と当たり前のように、やはり水瀬氏の音楽を聴くようになるのである。
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じきに妻は身籠り、さて人生も実に順調と言ったときに、またもや転機が訪れる。
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タイミングが悪いと言えなくもないが、今考えると、良かったとも言える。
とにかく、クリスマスから正月にかけて肺を摘出するために、入院することとなった。
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絶賛コロナ禍で面会もできず、妻は出産直前だし、何より手術日は妻と初めて出会った記念日・クリスマス。
実に申し訳ないことをした。
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同期の医者の計らいで用意してもらった、病院のVIPフロアの個室で、皮肉にも美しい夜景を見ながら、
年末で他の患者も家に帰ってしまい、あるいは静かな沈黙の病棟で、
水瀬氏のバラードが鳴り響いていたが、文句を言う人すらおらず(年末だから)
日も上らぬ早朝から叩き起こされ、手術の仕込みをされることとなるも、実に私は幸せな気分でいられた。
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とにかく手術は成功し、かなり異例の速さの回復具合だったようで、病院のいろんな医師が物珍しそうに見に来たのが印象的である。
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モーツアルトと水瀬いのり氏の曲がずっとそばにあったことは言うまでもない。
(ちなみに大きな手術するとき、患者は好きなCDを流せることが多い。私は「CDで」と言う記載を見逃していたので
主治医の趣味のデスメタルを聴きながら手術台に上がる羽目になった。覚えておいて損はないはず)
退院してまもない頃、これまた妻の陣痛が始まった。これまた妻を抱えるようにしてのせて、東京の真ん中あたりの病院に車を転がした。
妻は私の手術の話を聞いて、何を思ったか知れぬが、こどもが生まれる時は、水瀬いのり氏の「Happy Birthday」がいいと言うから、
私の娘は生まれたと同時に、水瀬いのり氏の歌声を聞くこととなる。
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さて、色々と落ち着いた頃合いに、Apple CarPlayから水瀬氏の新曲「While We Walk」が流れた。
その瞬間、東京の車の喧騒はピタリと止み、娘すら泣き止み、静寂が私たちを覆った。
参考:https://www.uta-net.com/song/343412/
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妻は大泣きしてしまった。それは、水瀬いのりに泣かされたように。
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本当に、ありがとうございます。あなたのことばで、しあわせに近づけました。
全く関係はありませんが、娘には「いのり」と名付けました。
私はオートクチュールの制作現場に対する知識がほとんどないに等しいが、ステークホルダーの多さや切迫感は目を見張ったし、最終的に時間との戦いになるさまには共感できる部分もあった。私などが共感を覚えるなんて言葉選びとして軽率では?おこがましいのでは?という点は一旦脇に置くとして、スケジュールの甘さや時間管理の不備ではなく、自分の名前で成果物を提出するときに「もう少し、どうにか良くできるのではないか」と思えてしまい手を止められなくなった経験は、私に限らず、ビジネスパーソンとして経験したことがある人も多いはずだ。さらにそれが、オートクチュールのコレクション…!?その後のルックがメディアなどで写真動画そしてモデルや取材者の感想とともに二次三次と広がる。なんて覚悟のいる仕事だろう。「とりあえず自分の持っているボールをなんとかして、次の人に投げれば、なんとかしてくれる、そしてそれはとりあえず所属会社の名前として世の中に出る」ような仕事のやり方と比較すると、全く異なる状況だ。自分の名前で作品を出す、誰も拭えない。そんな状況、いつまでだって試行錯誤したくなるに決まってる。これで完成だ、と手を止める瞬間はどう決めるのだろう?、あるいは降りてくるもの?そんなことも思った。
試写会では作品上映後にトークショーが行われ、WIRED編集長の松嶋氏が進行をつとめ、登壇者から話を引き出した。
松嶋氏はアフリカのゴミ山で服が舞う様子や鳥が飛ぶ様子が美しかったというようなことをおっしゃった気がする。実際に美しい映像だと思った。嘘みたいに大きい鳥(そして実際にも多分、とても大きい鳥)が前後左右に悠然と歩いたり止まったりしている間でゴミを拾う子供や女性の映像、洋服やその切れ端などが鳥とともに空を舞う映像。その映像を現地で撮影した関根氏と中里氏は、現地で風が吹いたり竜巻が起きたりした時は死ぬかと思ったと笑いながら話してくれたが、その裏側は本編に一切残さず、本編では映像として映すのみで、感想は見る側に委ねてくれたことを嬉しく思った。
全体を通して、感想を視聴者に委ねるような仕上がりになっていたように受け取ったし、私はそれに感謝した。この映画で見ることのできる映像たちに、美しい、汚い、怖い、綺麗、綺麗事、すごい、面白い、行ってみたい、行きたくない、見てみたい、着てみたい、など、どのような感想を抱いてもいいし、自分の抱いた感想に対して、なぜそう思ったのか掘り下げたらいいだろう。白黒はっきりつけず、議論し続けるべき話題はたくさんある。WIREDで取り上げられる特集や話題のほとんどがその類のものだ。人々は対話を続けなければならない。だからこの映画『燃えるドレスを紡いで』への感想も、私のようにとても良かったと考える人もいれば、地球温暖化は陰謀だとか、アフリカにゴミが集まるのは当然だといった感想を抱く人ももしかしたらいるのかもしれない。自分あるいは他人が抱いた多様な意見に対して、なぜそう思ったのか、と対話を続けること、対話を諦めないことが日本にも世界にもファッション業界にも必要なのだろう。
この映画を見て、自分が買っている服、ひいては、自分の買い物という消費行動を見直したい、誰かに拭わせるような生活や仕事をせず自分の責務やその範囲を適切に見定めて、その範囲を広げたりしっかり守ったり、うまく守れた時は余力で周りを助けたりしながら自分と地球の関係性をよく考えながら生活したいと思った。
この作品はパリオートクチュールコレクションに2023年の時点で唯一参加する日本人ファッションデザイナー中里唯馬氏に密着したドキュメンタリー映画だ。これはファッション業界が地球に対してネガティブな影響が多すぎること、GHG排出量や環境汚染の大きな原因になっていることに対してファッションデザイナー自身が向き合い、コレクション制作に取り組んだ記録である。
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ここ以降、ネタバレ的な話、映画制作に関わったステークホルダーたちの発言の抜粋などにも一部言及する。そのためこれから視聴を控えていらっしゃり、なんの前評判も誰の感想も読まずにまず自分の主観で作品を視聴したい方は、ここ以降は念のため読まないでください。
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>Fashion production makes up 10% of humanity’s carbon emissions, dries up water sources, and pollutes rivers and streams. What’s more, 85% of all textiles go to the dump each year (UNECE, 2018), and washing some types of clothes sends significant amount of microplastics into the ocean.
>ファッションの生産は人類の二酸化炭素排出量の 10% を占め、水源を枯渇させ、川や小川を汚染しています。さらに、毎年全繊維製品の 85% がゴミ捨て場に送られており ( UNECE、2018 年)、一部の種類の衣類を洗濯すると、大量のマイクロプラスチックが海に流されます。
(引用:The Geneva Environment Network, https://www.genevaenvironmentnetwork.org/resources/updates/sustainable-fashion/ )
しかしファッション業界も、企業やブランド毎に速度も歩みの幅も大きく異なるが、ネットゼロへ進みはじめている。2023年後半の時点で、NIKEとadidasの靴やアパレルを購入した際には、この2ブランドについては、製品タグを付ける紐は紙製、靴の梱包材も全て紙製など生分解性素材への移行が見られた。近年adidasがコラボレーションを発表し続けている英国のデザイナーであるステラマッカートニーは、ステラ氏自身のアパレルや化粧品において早くから持続可能性を追求している点でも名高い。
それでも私たち人間が消費するファッションアパレルとしての服や靴それ自体が、最終的にゴミとして扱われ、それがアフリカへ、良い言い方をすれば「皺寄せ」、正確に言うと「ゴミ処理先」として送られる。
映画『燃えるドレスを紡いで』では、中里唯馬氏と監督の関根光才氏がアフリカを訪れた。中里氏は自身が身を置く業界がうみだしたものたちが消費された結果どこにいくのかという点で、行き着く先のひとつとしてアフリカを選んだのだ。映画本編では、彼らがアフリカで過ごす様子を視聴したのち、中里氏の仕事風景を見ることができた。そしてそのまま、彼のオートクチュールコレクションの映像と、それらへの評価、メディアの反応などを見ることができ、映画は終わった。
ファッション業界とそこに携わる人間としての中里氏の考えなどについては、ここでは言及しない。それぞれが視聴した上で、それぞれの考えを抱いて欲しい。
私自身は、人間の存在とその経済活動ほとんど全てが地球への負荷であると考えている。ファッション業界の影響が大きいにしても、私そしてあなたの存在も地球環境に負荷をかけているのだから、それをわきまえれば「特定の業界が悪だ、最悪だ」なんて意見は軽薄ではないかと思う。気分によっては、2024年に子供を産もうとしている人は、2044年や2064年の地球環境は確実に悪化するだろうことがわかっている中で、なんて酷なことをするのだろうと考えることもあるくらいだし、しかし、そう考えるが子供を産み育てる人を軽蔑や見下げたりすることは決してない。ファッション業界だけが地球環境を悪化させているわけではないと言いたい。
しかし、人間たちの研究開発と技術革新は進み、各業界で既存業界の課題と技術のブリッジが続く中、ファッション業界においては、消費者の意識とともにいろいろなことが遅れているのかもしれない。
映画『燃えるドレスを紡いで』で中里氏がアフリカで過ごしている時の映像で、中里氏がたびたび自分の見たものや景色に対して「美しい」と口にしていたのが印象的だった。その形容詞が、多勢に同じ感想を与えるものかはわからない。実際、監督も「どのあたりが美しいですか」というように問うていた(言葉が少し違ったかもしれない。違いましたら後日修正します)。
アフリカの映像は、日本などの先進国とは全く違う環境で、雑多としたものたちに溢れ私たちがゴミとして扱うものが最終的に行き着いたアフリカのゴミ山や、雨が降らず乾燥し切った土地、そこを移動しながら暮らす遊牧民たちの生活などだ。
中里氏はここから美しさを見出したし、私はそれに感動した。キュレーションされていない場所に行って何を見て何を感じ、どう言語化するか?、これは人による。単純すぎる感想だが、美しさを見出せる人は美しいものを作る側にもなれるのかもしれない、と思った。
中里氏がアフリカから戻り、チームに制作のコンセプトなどを発表したときの様子が好きだった。
制作のコンセプトをチームに発表する、チームはそれに従う、でいい。それでいいのだが、そのときにチームメンバーがそれぞれ発言をして、その様子は「中里氏に完全に従う」といった様子ではなかった。語弊があるかもしれない、もちろん彼の名前で発表するコレクションであり、彼のチームメンバーは彼のコレクションのために働くことになるのだから結果的には従うことになる部分が大きいだろう。しかし、中里氏の決意や発表に対して、取り掛かる前に、チームメンバーが各自発言ができること自体が、これができるチームは日本にある数多の組織の中でも意外と少ないのではないかと思えたのだ。とても良いチームに見えた。
私はオートクチュールの制作現場に対する知識がほとんどないに等しいが、ステークホルダーの多さや切迫感は目を見張ったし、最終的に時間との戦いになるさまには共感できる部分もあった。私などが共感を覚えるなんて言葉選びとして軽率では?おこがましいのでは?という点は一旦脇に置くとして、スケジュールの甘さや時間管理の不備ではなく、自分の名前で成果物を提出するときに「もう少し、どうにか良くできるのではないか」と思えてしまい手を止められなくなった経験は、私に限らず、ビジネスパーソンとして経験したことがある人も多いはずだ。さらにそれが、オートクチュールのコレクション…!?その後のルックがメディアなどで写真動画そしてモデルや取材者の感想とともに二次三次と広がる。なんて覚悟のいる仕事だろう。「とりあえず自分の持っているボールをなんとかして、次の人に投げれば、なんとかしてくれる、そしてそれはとりあえず所属会社の名前として世の中に出る」ような仕事のやり方と比較すると、全く異なる状況だ。自分の名前で作品を出す、誰も拭えない。そんな状況、いつまでだって試行錯誤したくなるに決まってる。これで完成だ、と手を止める瞬間はどう決めるのだろう?、あるいは降りてくるもの?そんなことも思った。
試写会では作品上映後にトークショーが行われ、WIRED編集長の松嶋氏が進行をつとめ、登壇者から話を引き出した。
松嶋氏はアフリカのゴミ山で服が舞う様子や鳥が飛ぶ様子が美しかったというようなことをおっしゃった気がする。実際に美しい映像だと思った。嘘みたいに大きい鳥(そして実際にも多分、とても大きい鳥)が前後左右に悠然と歩いたり止まったりしている間でゴミを拾う子供や女性の映像、洋服やその切れ端などが鳥とともに空を舞う映像。その映像を現地で撮影した関根氏と中里氏は、現地で風が吹いたり竜巻が起きたりした時は死ぬかと思ったと笑いながら話してくれたが、その裏側は本編に一切残さず、本編では映像として映すのみで、感想は見る側に委ねてくれたことを嬉しく思った。
全体を通して、感想を視聴者に委ねるような仕上がりになっていたように受け取ったし、私はそれに感謝した。この映画で見ることのできる映像たちに、美しい、汚い、怖い、綺麗、綺麗事、すごい、面白い、行ってみたい、行きたくない、見てみたい、着てみたい、など、どのような感想を抱いてもいいし、自分の抱いた感想に対して、なぜそう思ったのか掘り下げたらいいだろう。白黒はっきりつけず、議論し続けるべき話題はたくさんある。WIREDで取り上げられる特集や話題のほとんどがその類のものだ。人々は対話を続けなければならない。だからこの映画『燃えるドレスを紡いで』への感想も、私のようにとても良かったと考える人もいれば、地球温暖化は陰謀だとか、アフリカにゴミが集まるのは当然だといった感想を抱く人ももしかしたらいるのかもしれない。自分あるいは他人が抱いた多様な意見に対して、なぜそう思ったのか、と対話を続けること、対話を諦めないことが日本にも世界にもファッション業界にも必要なのだろう。
この映画を見て、自分が買っている服、ひいては、自分の買い物という消費行動を見直したい、誰かに拭わせるような生活や仕事をせず自分の責務やその範囲を適切に見定めて、その範囲を広げたりしっかり守ったり、うまく守れた時は余力で周りを助けたりしながら自分と地球の関係性をよく考えながら生活したいと思った。
あと、WIRED JAPANが大好きなので、これからも愛読し続けたい。
追記。
映画に登場する人々に、登場シーンでクレジット(登場人物の名前や所属)を表示させた上で、もちろんエンドロールにも名前を掲載する、という画面の作り方は、ドキュメンタリーの手法としてめずらしくはないのでしょうか。この辺りの知識がないため滅多なことは言えないのだが、登場人物の名前や所属をその画面で明示する編集が好きだった。やはり、協力者の一人として自分が登場するシーンには、期待や嬉しさなどをもっているはずだ。私はこのような、協力者たちへ感謝を伝えるようなあたたかな編集や画面作りに強く好感を持つ。1人ではできなかったことへ協力したくれたステークホルダーにできる限りの感謝を述べる姿勢を、私も忘れないようにしたい。
仕事上、最も重要なビジネスパーソンから誘いの声が掛かってしまったのだ。
断ってくれてもいいが、という前置きは枕詞の意味合いしかなかった。
でも拒絶するべきだ。
妻が他の男に抱かれている様子など見たら発狂する。
そこに生きる私達夫婦。
二人に子供は居ない。
年に2、3度ホテルに行く。
それだけだ。
妻から求められることはない。
常に私の方から。
最低限の夫婦の交渉がなければ、ふたりの関係が消えてなくなるんじゃないか?と不安にかられて。
外に女をつくったことはない。
(見た目だけ)きらびやかな世界に寄り集まる美しい人たちは多い。
その中から都合のいい女性を選べないわけでもない、と自惚れている。
妻は私が外で遊ぶことを容認している。
というか、私に対しての興味が薄い。
関心がない。
ひょっとしたら、もう私に対して愛情がないのか?と思うこともある。
ただ商売をする上でお互いにお互いを補完しあうスキルが貴重すぎて手放せない、
夫婦というよりもビジネスパートナーと思っているのかもしれない。
そんな風に考えていた。
妻が他の男に抱かれているところを想像するのは苦しい。
しかし、仕方がない。
これをしなければ商売は続けられないのだ。
それに今の生活を捨ててでも守るべき矜持などというものは、とっくの昔に捨て去ってしまっている。
妻も、もともとは生き馬の目を抜く業界で営業の第一線で働いていた女だ。
そして重要なことだが、一度参加すれば二度と三度と抜けれない蟻地獄のような誘いではなかった。
その乱パは参加人数は10人程度。
そのうちの半分はセクシービデオに出演している方々を高額の報酬で招いている。
主催者が見たいのは、素人の女性が初めてプロの男優に責められて狂う様子とそれをみて苦しむ夫。
そして夫が自分より若くきれいでかわいいセクシー女優とセックスするのを見て嫉妬に駆られる妻、
という構図だ。
だから一度参加すれば、次回、また次回と参加を強制される性質のものではない。
なぜなら何度も参加して慣れることで夫婦に感情の揺らぎがなくなるからだ。
主催者が見たいのは「セックス」ではなく「心のゆらめき」なのだ。
パーティは都内の某所、邸宅というより要塞と呼ぶ方が相応しい分厚い塀に囲まれた建物の中で行われた。
2人は素人(このパーティには常連の仕切り役の夫婦(今回私達がこのパーティに参加しなくてはならなくなったのはこの2人の誘いによる))、
まじかよ、と思って検索してみて、驚いた。
それでよく死なねーなと思う。
勤務日に使えるランチ代の変化を尋ねると、「減った」「やや減った」と答えた人を合わせると38.4%が「減った」と回答した。勤務日のランチ代平均は400円となり、2022年9月に実施した前回調査の平均436円から大幅にダウンしており、厳しいランチ事情が浮き彫りになった。
食べたいメニューがあるのに金額を理由に我慢したことがあるかを聞いたところ、「よくある」「たまにある」を合わせると69.3%が我慢した経験があると回答した。長引く物価高や値上げの影響を受け、食費を節約するビジネスパーソンが多い傾向がうかがえた。
勤務日にランチを食べないことがあるかという質問に対し、25.3%が「ある」と回答。食べない人に頻度を聞くと、週4回以上食べない人が26.7%おり、過去2年と比較し増加していることが分かった(21年15.3%、22年7.8%)。