はてなキーワード: アフタヌーンとは
アフタヌーン系でけっこうあってかなしい
watapoco 見えない/怒ってらっしゃる方はてなーか。がんばって。/デザイナーだけの責任じゃないのはその通りだけどこの人の場合自分でドヤってるんだから批判されるの当たり前。
watapoco 暴力暴言を振るう母の元に生まれたこと。母の声がいつも聞こえるエドゲインと同じ症状持ちに。/氷河期世代の団塊ジュニアだけど、生きてるだけでありがたかったからめげずに済んでそれはラッキーだった。
↑ひねくれてる理由
watapoco 高円寺ららさんとほとんど同じタイプだー。おうち行くのは迷惑かな?と思っちゃうタイプなのでしないけど。夫には付き合う前から毎日好きって言ってるわ〜
女だった。
「なんで丸刈りなんですか?」――高校野球は他競技の名将の目にどう映るのか - Yahoo!ニュース
watapoco 最後桑田で締めたらもっとよい記事になりそう。高校野球はわからんけど少なくとも野球で変革目指す人がいる/一部めちゃくちゃなブコメにびっくり。髪に関心向ける時間って何分よw
【世界よ!これがベルギーだ】ベルギー代表、ブラジル撃破!デブライネのスーパーゴールで2-1勝利し32年ぶりW杯ベスト4進出!(関連まとめ): カルチョまとめブログ
watapoco フランスとベルギーどっちかが次敗退せねばならないなんて悲しい。今回優勝にふさわしいのこの2チームかと。
オウム死刑執行:中川死刑囚「遺稿」発表へ 化学テロ考察 - 毎日新聞
watapoco 今初めて自分がこの人に顔似てることに気づいた。
独身OLのすべて/まずりん 第118話 独身リーマンと恋心 - モーニング・アフタヌーン・イブニング合同Webコミックサイト モアイ
watapoco 課長がよすぎる。/よく見たら一ノ瀬氏二杯目ハイボールか酎ハイ。ビール飲まないのやっぱり体型への意識高いんだろうなー(課長とノブ子はずっとビール
課長とのぶ子はビール飲んでるよwww 体型への意識低すぎww というディスリ
BL消費は性欲じゃない、性欲じゃないなら……
watapoco 性欲だろうが何でもいいが、下衆な感情だよね。ぶつかり男が痴漢では、と話題になった直後にぶつかり女が続々逮捕されたけど、性欲以上に支配欲やばいって認識した方が治安はよくなり他者にも優しくなれそう。
期待以上のクオリティの #BANANAFISH 1話は懸念された設定の現代化も違和感そこまでなし - Togetter
watapoco アニメファンじゃないけど、おそ松さんの絵は非常に今っぽい、おしゃれな絵に感じる。で、これは超ダサく感じる。90年代のアニメと言われたら信じる。80年代ぽさも現代ぽさもない絵だ。
ごめん、無いわ。
おそ松さんが今っぽいとか無いわ。
日が昇る前ら自己顕示欲をむき出しにし、やれ本気で好きになった人はいないだの、好きじゃない人とのセックスは砂を噛むようだ、だのとのたまって自律神経を正常に保つ
日の出ごろから仕事に関する愚痴をこぼし始め、不健康自慢が始まり、不毛な政治議論が勃発する。この間、現実逃避のために猫が駆り出され、ぼんやりとした癒やしを他田に提供する
出勤時間になると、他者への敵意がむき出しになる。やれやれ調の同族嫌悪的異性叩きに端を発し、気に食わない他田に一行で噛みつくのは当たり前、ため息にも似た文脈ゼロの短文を投稿して周囲をいらつかせたかと思うと、思い出したように両親の話を朗々と語りだして、これがたまに名文だったりする。
出社時間になると、フリーの増田たちの時間だ。同世代への憎しみをぶつける主婦たち、取り返しようのない時間を噛みしめる大学生やフリーターたちの百鬼夜行でご機嫌を伺ってくる。これらに影響された不良社員の増田たちが、仕事へのぼんやりとした苛立ちを無理やり共有してきたり、性欲を全面に押し出した怪文書で攻撃を仕掛けてくる。この時間帯のトラバは単純に地獄だ。
ちがう! Dモーニングは「モーニング(講談社刊)」の電子版。ドコモは全く関係ない。普通に電子書籍アプリとしてAppStoreおよびPlay Storeで配信されているもの。
2013年から始まっててるサービスよ。当時からUI的には結構イケてて、いわゆるパラパラ読みに相当するようなスライダーUIを搭載してたりして結構読みやすい。
ダウンロード直後は低解像度版のサムネイルが表示されるから、動画みたいにページをめくると真っ白! みたいなことは殆どない。
目次も見やすく情報整理されてたりしてアプリとしての完成度はすごく高かった。(もちろん今も継続してサービスしているアプリだ)
対してコミックDaysは講談社の雑誌と漫画を横断的に扱うことを目的とした漫画アプリ。小学館コミックONEなんかと同じ感じね。
だから、こっちでもモーニングは読める。モーニングの他にイブニングもアフタヌーンもミッドナイト(そんな雑誌は存在しない)も読める。
故にこっちに乗り換え推奨なのかな……と思ったらこのザマだよ。ふざけられてるだろこれ。
社命かけてるのかすら不明だろこれ。これに社命かけてるならもう既に蒼井翔太くんが画面端に見えてるレベルのダメさだろ。
ワイが気にしてるのは、「どうみても他社や自社アプリに全面的に劣ってる」のにどうしてこれをリリースしたのかということだよ。
はてなだってまともな会社のはずだろ? こんなクオリティのアプリしか出せないのかよ!? 確かにはてブ公式アプリもPresso(今はサービス終了しています)もだいぶクオリティの低いアプリではあるけれども、
講談社が社命をかけた発注に対してはまともなもん出せるとは思ってたよ! そうじゃねえのがどうやら発覚したのでわいは怒っておるんや!
二人は二人のままでバランスがとれない。
まるりょはどうしてこうなんだ?
ド担だし、にしきどさん絡みのコンビは好きだ。
年上の人は優しいまなざしがありがたく、タメ以下はあったかい空気がありがたい。
まるやまさんは、にしきどさんをリラックスさせてくれるから好き。
でもたまにつれなくされるから、私の心の中の中指が立ってやまないときがある。
悪態ついちゃうということは、手離したくないという意思のあらわれで、つまり私はほほえみに執着している。
ほほえみ、いいよね。きらめいているよね。
でも、他のコンビにはありえない特別な絆がデフォルトで成立する...なんて大層な運命も背負っていないと思う。
近年は、にしきどさんからまるやまさんへのアプローチが増えているのかな?
なんでかはわからない。
それがまるやまさんを好んでいる気持ちからやってることなのかどうかも、よくわからない。
ただ、にしきどさんはまるやまさんを手離しがたそうに思える。
でもたぶん、まるやまさんにとってそこは必ずしも是ではないんだな。
自分のあり方にこだわりがちな二人において、自分がどうあるべきかって感覚がなかなか真逆。
他にも内面外面問わず、正反対なところが多いコンビなのは言わずもがな。
だからこそ尊敬しあえる...なんて言うこともできるのかもしれないけど、どうなんだろう、
それがすんなり成立するなら安心だけど、実際かなり体力要らないかなあ。
この純真コンビとも言われる(言われてる...よね?)二人に、
ド担だししょうがない。
ド担はきっときりがないんだろうと思う、そういうの。きっとね。
私の不安が当事者二人にとって有用かといえば、全然そんなことはないわけで。
あと、私はオタクでどうしても『どういうこと?』って考え巡らせちゃうけど、そういう態度も必ずしも有用じゃない。
『オタクで時間なくなってるから趣味変えよ』てなるより、『時間ないから時短きわめよ』のほうが、自分に合うときもあるだろう。
理由を探すより、真実を見つけるよりも、暮らす手立てを試すこと。
「まるりょはどうしてこうなんだ?」ってオタクの戯れ言を、打ち消しつつ受け止めてくれるようなありようも、二人っぽいではないですか。
強引だね、そうだね。
彼らの関係の実際は別にして、私がほほえみに惹かれる理由など考えた。
・不意にすごく近づく
・互いの理解やコミュニケーションが困難だけど、あぐまずにやろうとする
これだけ邪推のどうの言ってて結局、
別に仲良くなくてもエンドに落ち着いた。
(個人的には、真逆でも尊敬しあう二人が好きです、というか最低限そうやってると思うからこそのほほえみ好きです)
(めちゃくちゃ逸れたけど、このポスト書いたのはキャンジャニのアフタヌーンでの陽水さんと錦子の絡みめっちゃ好きやんって言うためです)
(うわああ夜更かし!)
クソ男死ね。
劣等感が強くて、その劣等感を弱者を見下すことで解消しようとする人間、死ね。主に男にそういう人間が多い。
劣等感を、女・在日朝鮮人・生活保護受給者といった、社会的弱者を攻撃・蔑視することで解消しようとする、クズ。
そういう男が多い、死ね。
若い世代だからってフェミニストとは限らない。むしろ、若い世代に非正規の男が増えて、稼げないことで劣等感を強くしたクズ男が増えて
そういう男が、女や在日朝鮮人や生活保護受給者を攻撃してる。クソが。稼がなきゃ、って価値観にとらわれてるところも愚かだし、
その稼げないことによる劣等感を弱者を攻撃することでしか解消できないところも愚か。クソ男、死ね。
若い男で正規には確かにフェミニストが多いかもしれない(劣等感が強くないから)
でも、若い男でも非正規で劣等感強い人間はダメだ。クソ男、ミソジニー男。
死んで欲しい。いつも偉そうで、女を見下して、嬉々として「嫁」とかって蔑称を使ってる、クソ男。目の前に女の人がいても、そういう蔑称を使うところがクズ。
エリート意識が高く、プライドが高そうだから、非正規の自分を受け入れられてなくて、その劣等感から、弱者を見下すんだろうけど。
日本には、劣等感が強い男が多い。全員が全員、表立ってミソジニーな言動をしてくるわけではないけど、端々にそういった思想を感じる男が多い。
表立って、堂々と、ミソジニーな言動をしてくる、クソ男もいるけど。
劣等感が強い男の特徴
・自分では女好きだと思ってる(実際は女嫌い、ミソジニーによって女を見下すために、色んな女に手を出してる。遊び人ほど女嫌い、ってやつ。芸能人にも多い。こういうやつは下に見える女しか選ばない
・キャバクラに行ったり、アニメや声優に入れ込んだり、女を消費したがる(キャバクラに行くような男とオタク男は違う人種と思われがちだが、実は同じ。女を対等に見てない、消費したがる点で同じ
・家庭環境由来の劣等感やミソジニーだったりもする(母や祖母に虐待(精神的なものも含む)をされてたとか
・自己顕示欲が強い、良く喋る(劣等感から承認欲求が強くて、よく喋るのかも。表立ってミソジニーな言動をするタイプはこれに当てはまるが、表立っては言わないタイプは当てはまらないかも
まだ、ミソジニー男が多数派ではない職場だからマシ、なのか…と、悪い方に慣らされてはいけない。それでも3分の1はいる、最低でも。
ミソジニー男はミソジニー男同士で仲良くしてる、嫌いな人間同士が仲良く喋っていて、イライラする。喋らずに仕事しろよ、と思うけど、劣等感から自己顕示欲が強い人間だから、雑談しないのは無理なんだろうな。
大多数の女が、キャバクラに行くような人間、堂々と女を見下したがる人間を嫌うのは当然だけど、オタク男も実は同じようなミソジニー男だっていうのは、認知されてるのかな?
認知されてるからこそ、オタク男は嫌われてるのかな。キャバクラに行くようなミソジニー男と違って、金もない、社交性もない、そのくせ、劣等感が強くてプライドが高いから、その劣等感を解消するために
そういった、下に見れる存在しか相手にできない男が増えて、女児への性犯罪も増えたのでは?
もとから、日本には劣等感が強い男が多かったけど、そういうやつらは昔はキャバクラで堂々と女を見下すことで劣等感を解消してた、クズだけど。(キャバクラに行く理由、で、「堂々と女を見下せるから」と答える男が多いと聞いたとき、男ってクズだなと再確認した
だけど、不況で貧しい男が増えて、キャバクラに行く金はない、金をかけずに堂々と女を消費する方法として、二次元コンテンツに需要ができ、そこが伸びた。アニメなんて、劣等感が強いクソ男がクソ男のために作ってるような作品がほとんどだから(そうじゃないのもたまにあるけど)ほとんど見ない。アニメは嫌いではなくても、アニメを好む、オタク男が嫌い。劣等感の強い、クズ男。
そうやって、男の劣等感を解消する方法としてキャバクラとかの代わりに二次元コンテンツに需要ができて、需要があるからこそ、ロリ系の二次元コンテンツも蔓延して(女かつ子供という、劣等感の強いクソ男が好む対象)それによって現実でも、子供に性犯罪をする男が増えた、と解釈してる。
気持ち悪い。クソ男が。二次元だけならまだしも、現実にも女を傷つけるとか、終わってる。そういう風に、二次元だけなら良いとかって言う男は(二次元なら児童ポルノを肯定するような人間)実際の犯罪に繋がってる状況を見て、どう思うのかな?
児童ポルノやそれにまつわる議論、かつての援助交際ブーム、どこを見ても、クソ男が弱い立場(女かつ子供)の存在で劣等感を解消しようとしてる、という構図になる。
そんな風に劣等感の強い男を量産してきたのが、この国の終わってるところ。
漫画は読むけど、男作者の作品は、男に都合が良い、男の劣等感を解消してくれる、都合の良い存在が出てくるから、苛つく。
・子供だったり背が低かったり、自分より身体的に弱い、から自分を傷つけない
・にも関わらず精神的には自分より大人で母の役割を果たしてくれる(自分を全肯定したり導いてくれたり
自分より下に見れて、怖がらなくて良い、子供か身体的に弱い存在、でも、精神的には導いてくれる…って、そんな存在、都合が良すぎ。夢みてんじゃねぇよ、クソ男が。
この前、はてブで話題になってたアフタヌーンの漫画も、こういう存在が出てきてて、イライラした。
教育のせい? ずっと競争させられてきて、褒められることもなく、職場でもパワハラやそれに近い待遇が当たり前の、劣悪な労働環境で働いてたら、劣等感が強くなるの??
女で劣等感が強い人間は、そんな男に選ばれることで劣等感を解消しようと、クソ男に迎合して、必死にメイクしたり露出したり。そういう人間も少なくないから、イライラする。
労働環境や家庭環境のせいで劣等感が強くなる(男女ともに)→男は弱者(主に女)を見下すことと人の上に立つことで劣等感を解消しようとする→劣等感の強い女はそんな見下してくる男に迎合して
メイクだったり言動だったりで男ウケを考える。ミソジニーを内面化する
そういう国、なのかな。
劣等感が強い、クソ男、ミソジニー男と、それに迎合する、ミソジニーを内面化した女とが大多数の、病んだ国。韓国よりマシだろうけど…。日本も韓国も、滅びればいいのに。
日本の中でも特に劣等感強い地域があって、そこは滅びればいいと思う、そうじゃない地域の人間はまだマシでも、そういう地域の人間と関わることもあって、そのたびにストレスが溜まる。
クソ男、ミソジニー男も嫌いだし、それに迎合してる、ミソジニーを内面化してる女も嫌い。
数少ない、劣等感の強くない、健全な男(ミソジニーではない男)とフェミニストでミソジニー男を嫌ってるような女、ぐらいしか、心を許せる人間がいない。
敵ばかり、クソな国。滅びればいい。
ミソジニー男、死ね。劣等感が強い男、死ね。そんな男に迎合する女も、死ね。
日常生活も、ストレスが溜まる。ミソジニー男と迎合する女を目にするから。
創作物との関わりも、フェミニスト女性が作ったような作品じゃないと、楽しめない。いくら評価されてる作品でも、男作者だとミソジニーだったり男に都合の良い女が出てきたりして、萎えるから。
最近、女嫌いの若い男が増えてきてる(ように感じる、ネットで)のは、上に書いたように、非正規に男が増えて、稼げない劣等感を女を見下すことで解消しようとする男が増えたことと、それによって
「男で得をしてないのにかつての得をしていた男のように女から恨まれてる」
日本の女は、大なり小なり、男への恨みを抱えてる。下に見られたり、抑圧させられたり、自分より能力がないのに仕事で評価されてるのを見たり、性暴力の被害にあったり、そういうの無しで生きていけないから。
だから、女から男への恨みは昔からずっとあるけど、それが今でも存在するにもかかわらず、男としての得が減った(男なのに稼げない・労働市場で有利ではない)存在が増えたから、昔より得が減ったのに
相変わらず恨まれてるから、反発するんだろうけど、昔より減ったとしても男の方が得をしてるんだから、恨まれるのは仕方ない、と思うけど。
そうやって、男と女で憎み合って、くだらないと思うけど、私はクソ男が嫌いだし、ミソジニー男が嫌いだし、女を憎み返してくる男が嫌いだから、憎み合うのは避けられないんだと思う。
クソ男、死ね。少なくとも、私の周りのクソ男が全員、死んでくれたらいいのに。
主人公は小学校教師をしていて、もうすぐ子供がうまれる奥さんもいる、勤勉な男
ある日、急に宇宙人が地球にやってきて、愛の存在を証明できなければ人類滅亡させる・証明するために友達を100人作れ、と主人公に言ってくる
友達をつくりやすい環境に身をおかせてあげるという宇宙人の配慮で、小学生時代に戻り、
そこでクラスメイトや幽霊、おもちゃ、動物などなどいろんなクセの強いものと友達になっていく
確かに面白い
アフタヌーン連載だったらしいけど、少年漫画誌にのってても違和感ないレベル
でも主人公が元大人だから、リアルなこども が読んでもなかなか面白くは感じることは難しいかな・・・
一癖もふた癖もある人に対していろんな手練手管を使って友達になろうとする
でも基本主人公はいいやつだから、真正面からぶつかって友達になろうとする
だから読んでて胸糞悪くなったりすることはない
最後も、多分打ち切りになったんだと思うけど、打ち切りなりに設定を活かしつつも話をきっちりまとめてくれて、
まさかこの漫画でうるっとくるとは思わなかった程度にはいい話で終わった
まあ同じようにつづけすぎても100人友達作る前にマンネリ化する可能性もあったかもだけど
んーでも一応打ち切り、というかリアルに100人集める話を全部やる前に早期終了する案はあったといえばあったのかなあ
残り10話で終わらせる、とかお達しがあったりしたのかなあ
青年誌の中ではジャンプに近い気はするが、かなり根本的なところで違う気がする。それを明文化できるほど漫画に造詣があるわけではないんだだけど、無理に書くなら少年漫画はキャラクター、青年漫画はストーリーってことかな。
少年誌のの読者はキャラクターに感情移入しようとして読んでいるから青年誌が面白くないし、青年誌の読者は感情移入できる心の柔軟さがないから少年誌が面白くない。
でも、「小難しく書く」ことで表面的に深みある青年漫画を目指していて失敗している、かといってキャラクターに魅力もない少年漫画崩れがアフタヌーンには多い、と解釈すると同意できるかもしれない。
とりあえず面白かった3本が知りたい。
『けものフレンズ』の面白さの本質は、ガイナックス的なアニメの価値観から抜け出しているところにある。
少し補足すると「抜け出している」という意味は、ある価値観に反発したり、故意に避けたり、過剰に抑圧したりすることではない。一例を挙げると「あんなクズな父親のような人間には絶対にならない!」と考えることはすでに父親の重力に捉えられている、ということだ。
もうひとつの「ガイナックス的なアニメの価値観」は少し複雑だ。細部へのフェティッシュなこだわり、現場のいぶし銀の技術者、ひとつの生物のように有機的に躍動する集団、学校文化と官僚システム/軍組織への熱い礼賛、マスメディアやと民主主義への蔑視……古い世代のアニメオタクの王道ど真ん中の価値観。この価値観の根底には「責任のとらなさ」がある。これについては後述したい。
私自身、『けものフレンズ』は話題になっているのをtwitterで見て、5話くらいから興味を持った後追い組のひとりだ。徐々にハマり、最後にはとても感動した。けれども、しばらくたってもその面白さをまったく言葉にできないことに気づいた。まるで「解」だけが前触れなく控えめに差し出されたようだった。この困惑について、福原慶匡プロデューサーもインタビューで語っている。
「皆さんも、なぜ魅力を感じるのか、はっきりとは言語化できてないと思うんです。食べ物でも、なぜかクセになっちゃうみたいなものってあるじゃないですか(中略)というのも、僕が5年前にその感覚を経験しているんですよね(笑)」http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20170327/E1490547358865.html
放送終了後、ネット上でいくつか探してみたが「大ヒットの理由」や「エヴァとの共通点」などIQの下がる批評しか見当たらなかった。その清新さや核心について書かれているものは無かった。自分で分析してみてもやはりわからない。一見すると『けものフレンズ』は、パワプロで喩えるなら「オールBでよくわからない特殊能力がたくさん付いている外野手」だ。ツッコミどころがあるようで、よくよく見ていくと隙がない。(あくまでも「一見すると」であり、構成についてはほんとに素晴らしい。監督自身は「怪我の功名」と謙遜するアライさんパートは発明と言っていいぐらいだ)
たつき監督の過去作を見ていくと、クオリティをまんべんなく上げた作品を作るというスタイルは昔から共通しているようだ。『けものフレンズ』では登場キャラクターの紹介とストーリー展開を均等に進め、両者が高いレベルで一体になることを目指したという。インタビュー記事「最終話放送直前! アニメを作るのが得意なフレンズ、たつき監督に『けものフレンズ』の“すごーい!”ところを聞いてみた!!」(以下、「最終話直前インタビュー」)ではこう話している。
「「キャラ先論」「話先論」があると思うんです。そこをまったく同じパーセンテージか、行き来をすごく増やして、キャラ優先なのか、お話優先なのか、わからないレベルでその2つが有機接合できるといいなと考えていました」http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12855680/
ところで、仕事でも3Dアニメを作り、休みの日も3Dアニメを作っているというたつき監督だが自主制作アニメ『眼鏡』発表後の2010年に行われたインタビューでは興味深いことを語っている。ここに一部抜粋したい。
―― アニメはお好きなんですか。
たつき 大学時代に「アニメ作りたいわー!」とか思い出したころからちょいちょい見だしたんですよね。
―― 「すごいアニメ好き」みたいな感じじゃないんですね。そもそもアニメをあんまり見てなかったのに、なぜアニメを作ろうと?
たつき アートアニメみたいなものは学校で見させられていたんですけど、もっと俗っぽいほうがいいなと思って「眼鏡」を作りました。http://ascii.jp/elem/000/000/532/532388/index-3.html
本人の発言を鵜呑みにするわけにもいかないが、そう質問せざるを得ないなにかを質問者も感じたのだろう。確かに『けものフレンズ』は熱心なアニオタが作ったアニメという感じはしない。1話の出会いシーンと休憩のシーンが例外に思えるほど性を表現すること行わない。その他ではペンギンの脚やカワウソのケツぐらいだ。もちろん全年齢向けというコンセプトもあるだろうし、動物と人間という認識の違いに厳密に取り組んでいることもある。だが、繰り返し見てもそこに「ほんとはエロくしたいけど抑えよう」や、「萌えを感じさせよう」などという作為が感じられない。肩の力が抜けているというか、監督の視線が別のところを見ているような奇妙な感覚があるのだ。
話題にもなったペンギンの脚については「最終話直前インタビュー」で、こだわったポイントは肉づきであり、それは未だ言語化できていないパラメーターと語っている。やはり焦点が別のところに当てられているようだ。このたつき監督独特の感覚について、チームの中では「ガラパゴス的」「ほどよく鎖国している」「天然」(「最終話直前インタビュー」)と表現されている。
たつき監督の制作に対するスタイルがかすかに見えてきたが、根本的なところ、なぜ面白いのか、なにが新しいのか、どこが違うのかが一向にわからない。繰り返し観ても「サーバルちゃんかわいい」「言われるも!」以外にこの作品を語る言葉は見つからなかった。
そんな時『シン・ゴジラ』についてのツイートがたまたま視界に入ってきた。ああ、あの作品は私にとって全然ダメだったな、なぜってあれはオタクのウェーイだったから。だから受け入れられなかった……だから『けものフレンズ』は良かったのか。本来なら過去や同時期に放送された作品に触れ、その違いを論じることで導き出すのが正統な論証だろう。だがここでは『シン・ゴジラ』を補助線に引くことでショトカしたい。
『シン・ゴジラ』はあの庵野秀明監督による作品だ。詳細は割愛しよう。宮台真司の批判とか概ね同意だ。私がアレルギー反応のような拒否反応をおこしてしまったのは別の部分になる。同作でも、指揮命令系統のフェティッシュともいえる再現、圧縮された膨大な情報量、巨大な生物のようにフル回転する官僚機構がたっぷりと描かれる。ああ庵野秀明だ、ああガイナックスだと感じた人も多いだろう。ただ、結構な面積が焼き払われ、放射能に汚染され、東京の中心で彫像のように固まったゴジラが実写として映し出されるとシニカルな感想も浮かぶ。「想定外の天災」とはいえ主要な登場人物はなんの責任も取らないだろうな、“庵野秀明だから”。
ガイナックスや庵野秀明に代表される彼らが、凝縮し、エッセンスを取り出し、世に提示してきた価値観。古い世代のオタクの王道ど真ん中の価値観。そこには、新兵器があるなら使おう、ボタンがあるなら押そう、ロケットがあるなら飛ばそう、人類補完計画があるなら発動させよう……後は野となれ山となれだ、という姿勢がその根本にある。責任の取らなさ。それが露出してしまうと、フェティッシュに埋め尽くされた119分はオタクが「ウェーイ!」とはしゃいでいるようにしか見えなくなる。
新しい爆弾が作れるなら作りたい、作ったなら使ってみたい。そういう欲望はギークな価値観として近代には普遍的にあるものだろう。それは責任とセットになっていなければ極めて危うい。『ジュラシックパーク』(1作目)に出てくるでぶが度し難いように。『シン・ゴジラ』の官僚たちは誰一人弾劾されず、断罪されずスムーズに復興へ移っていくだろう。彼らの合理性なら、半減期が2週間なら翌月から暮らすことができるだろう。三権が一体化した効率の良い行政システムを築くだろう。責任を切り捨てたからこそ、フェティッシュの興奮に耽溺できたのだ。棄てられた責任は野ざらしにされ担う者はいない。
2000年代、2010年代のアニメにおいてもガイナックス的な価値観は揺るいでいない。おそらくこんな声が聞こえるだろう。「『ハルヒ』は?『らき☆すた』は?『けいおん』は?『まどマギ』は?『化物語』は?日常系を無視するなとんでもない!“大きな物語”をまだ求めるのか?!」このあたりはもっとその分野に詳しい人の評論を待ちたいと思う。私の見立てでは、それらは(主に女性の)キャラクターについてのフェティッシュを深めたにすぎず、逸脱はしていない。フェティッシュに注力すればするほど与えられた価値観の中での反復行為となり、自らをその価値観の内部に限定させるという結果を生む。そして、目を背けた価値観そのものは形骸化しながらもしっかりと保存され、視聴者を貴族的な愉しみという隘路に導く。
もし汲々とした再生産のサイクルの中にどっぷり浸かった人なら、そこから抜け出すには並々ならぬ苦闘と意志が必要だ。たつき監督にはそうした努力は必要なかっただろう。『けものフレンズ』は最初から“できている”。
これは自由の味だ。
ジャパリパークではフレンズたちは当たり前のように責任を持ち、細部へのこだわりは新しい領域に向けられているがそれ自体に耽溺していない。古い価値観を超えるものを作ろうとして頑張った結果やっとできた、ということではなく、初めからそうした問題意識そのものが存在していないかのように新しい価値観を持っている。それほどあまりに自然に表現された作品として我々の前に現れた。
可能にしたのは主に3つの要素からなる。「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」。この3つは密接に関係している。「手書きには温もりがある」という言説は否定できないが、大勢が1枚1枚セルに色を塗るという時代ではなく、1人である程度は全部作れる3DCGという環境がたつき監督にとって不可欠なものだったことは想像難くない(実際はirodori時代から分業していたことはブログからも伺えるが、作業量や機材を比較して)。Wikipedia情報によると、彼はサンライズ作品のCGを担当することで商業的なキャリアをスタートさせ、以降手がけた仕事は一貫してCG関係だ。これがもし手書きのスタッフとしての参加なら、今の形の『けものフレンズ』は存在しなかったし、たつき監督もおそらく従来の価値観に染まっていただろう。
3DCG上で現在主流の2Dの表現をそのまま再現することは難しい。「不気味の谷現象」ではないが、3DCGから2Dアニメに寄せようとすれば違和感が増え、それを克服するためには新しいアプローチが必要になる。たつき監督はレイアウト(構図というよりも画角)の段階からキャラクターの正面を巧みに演出し、同時に正面ばかりで飽きさせないように一話一話を構成することでこの問題に挑んでいる。技術的な分野における刷新、さらに強く言えば断絶。これにより従来のアニメ表現から自然と距離をとることができたことは『けものフレンズ』にとって幸運なことだった。
次にバランス感覚が挙げられる。たつき監督のスタイルにも作品の全てをコントロールしたいという欲望が見える。映像作家としてこうした欲望は一般的なものだ。ただ、「監督、コンテ、演出、シリーズ構成、脚本・たつき」と商業アニメで網羅しているのは尋常ではない(脚本についてはWikipediaの項目を参考にした)。福原Pは、その秘訣はレイアウトからビデオコンテ、セリフ、声の仮当て、声優への細かな演技指導、修正、差し替え、調整という全ての作業をやりつつも「作業のカロリー計算ができる」ことだと語っている。
「そこらへんはプレスコで作ってきた『てさぐれ!部活もの』の経験が活きていると思います。たつき君はその場のグルーヴ感で「これはやったほうがいい」と思ったら作業しちゃうんです。その後のカロリー計算も、しっかりできる人」
http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1488452395
「北風がバイキングを作った」ではないが、繁忙期は1ヵ月ほぼ泊まり込みだったという『てさぐれ!』における過酷な進行がたつき監督を鍛え上げたことは間違いない。余談だが、ファンによるスタッフロールの解析やたつき監督のTwitterでの発言から、『てさぐれ!』2期からirodoriメンバーを関西から呼び寄せたようだ。一部で話題になった出来事もこのあたりに遠因があるのかもしれない。閑話休題。
福原Pの言うカロリー計算とは、「作業量」と「かかる時間」と「納期まで時間」を正しく見積もることができるという意味だ。結果、各話を見ても全体を通して見てもまったく破綻していないばかりか、各話のバランス、全体のバランスがとても良い。ほとんどの工程にアクセスし、手を入れ、なおかつどこか一場面に片寄っていないということは特筆すべき能力だ。このバランス感覚はミクロの視点とマクロの視点、ミクロの作業とマクロの作業の両セットを備えていないと成り立たないものだろう。シナリオ含め、一貫してたつき監督の思想が反映された『けものフレンズ』。そこでは、「美少女の細部にひたすら耽溺したい」というような偏ったフレームは分解され、ごく抑制の効いたボリューム/表現としてバランスが整った形で配置されることになる。
最後は、アニメばかりを見ていないアニメ監督。これは富野由悠季が公言し宮﨑駿も暗に語る「アニオタが作るアニメはつまらない」という言葉の裏返しである。たつき監督がケニア育ちだったから、というわけではないが本人の発言ではアニメを「ちょいちょい」見るようになったのは大学で「アニメを作りたい」と思った頃からだという。この時点で「東浩紀は『セーラムーン』をリアルタイムで観ていなかったニワカ」とディスられたレベルでのガチのアニオタではないとも言えるが、ここではirodori制作の短編を元に検証してみたい。
1作目『眼鏡』にあるのはメガネ萌えの主人公、エヴァ風ギミック、NARUTO風アクション、ジョジョネタ(格闘ゲーム版)、東方という、既視感のあるオタネタだ。テンポの良さやオチの付け方など評価できるポイントはあるが、お約束というメタ設定(いくら殴られても負傷しない、カエルが空を飛ぶ、怒りで異形化、いくらでも撃てる弾薬など)のあしらい方はごく普通のオタクが価値観を共有している人向けに作った短編という印象だ。
続く『たれまゆ』では全体的にパステルカラーでキャラクターの柔らかい描写に取り組んだことが見て取れる。手描きによる2Dアニメで制作され、架空の田舎の超常的儀式を通して小さな世界が描かれる。しかし、作業コストが高かったのか、合わなかったのかこの後は2D手書き手法は行われていない。
第三弾『ケムリクサ』では再びソリッドな3DCGに戻る。NARUTO風のアクションはレベルアップし、設定も作り込まれている。リナちゃんズと呼ばれる5人の可愛らしさと非ー人間ぽさには独特の魅力がある。『眼鏡』のようにネタをそのままネタとして扱うことはなくなり、説明は最低限。たつき監督の作家性の輪郭がはっきり見えだした時期だろう。30分弱の作品にかかわらず、構成やカット割りに無駄がなくかなり洗練されている。しかし、完成度の高さと裏腹に、注目を集めた『眼鏡』よりも再生数や評価は低調だった。ニコニコ動画の過去のコメントを見ると『眼鏡』の軽いパロディのノリを期待する声が多く、制作側としては不本意な結果だったのではないだろうか。ここでは、1作目でふんだんに盛り込んだパロディで注目を集め、2作目では手描きアニメに挑戦。結果、手描きからは撤退し3作目では3DCGでストイックな作品に挑戦したという流れを指摘するに留めたい。
4作目となる『らすとおんみょう』は福原Pと出会うきっかけとなった作品と言われているが、1話を作ったのみで未完となっている。女性のキャラクターの表情はまた一段レベルアップしており、3DCGの中で2Dアニメ表現に歩み寄りたいという制作者の努力が見て取れる。何がこの作品を放棄させたのかは推測でしか語れない。多忙となったためや、異国の魔女と「適当だけど超強い男子中学生っぽい陰陽師(の下請け?)」が子作りするという設定に着地が見出だせなかったのではないかと思われる。現在残された多くの断片からは具体的な落としどころは示されていない。同作はいわゆるハーレムものの構造を取っており、一方でたつき監督の描く萌えはごく控えめだからだ。
5作目となる『のための』はirodoriとして最後の自主制作作品となった駅長さんシリーズ。できあがった時期は前出の『てさぐれ!』の激動を超え、プロフェッショナルとして確立した後になる。正確には『らすとおんみょう』より前に断片的な映像が出ていたが途中に長い中断があり、実質的に『てさぐれ』後に作られたものとみなすことができる。時系列で書くと2012年に2年がかりで『ケムリクサ』が完成。2013年前半に『らすとおんみょう』(1話)。2013年後半から2015年まで『てさぐれ!』シリーズ。2016年8月末に『のための』が『駅長さん フル版』(以下、『駅長さん』と便宜的に表記する)として完成した。この作品は5分という短い時間ながらプロの仕事というべきものだ。目が描かれていない駅長さんの動く姿には、これまでに向上した技術が昇華されシンプルな姿で完成している。
ここで「アニオタの作るアニメ」(以下、オタアニメ)の定義について考えてみよう。もちろん厳密な定義などできようもないが、本文章が求める要件は「特定の層だけをまなざしている作品」であり、具体的には「アニオタ視聴者を満足させることを目的とした作品」である。たつき監督は『眼鏡』では明白にオタアニメを目指し、続く『たれまゆ』では本格的に手描き2Dを試み、より迫ろうとした。ここで最初の転機が訪れる。手描きという手法があまりにハイカロリーだったからか、ここでこの方向は放棄された。なろうと思っていたがなれなかったのだ。以降、アニオタ視聴者をメインの観客に据えることはなくなり、アニメばかりを見ていないアニメ監督として本来の姿、幅広い層へアプローチする道を歩むことになる。
『ケムリクサ』の段階で3DCGによる手法に迷いはなくなり、削られたカットからも抑制の効いた演出を志向していることが見て取れる。この作品から作風が変わったようにみえるのはテーマがシリアスだからだ、という批判も予測されるが「ストーリーがシリアスになる=オタクに媚びていない」という短絡は採用しない。実際、表向きはオタク向けの作品ではないと装いながら水面下で「今回はこういう感じで行くのでひとつよろしく、へへへ」と、メタ構造(オタアニメにおけるお約束の構造)やメタ構造を逆手に取った仕掛けを差し出すという交渉を行う作品は実に多い。同時に「まったくオタクに媚びてませんよ」という宣言は、冒頭に挙げた父親の比喩と等しく、オタアニメの枠組みから実は一歩も踏み出していない。『ケムリクサ』では前2作であえて“なろう”とした努力が消えている。木の枝が河に落ちるように自然に、観客と交わす密約もなく、反発もなく、媚びていない。ピンポイントに評価される層よりも広い範囲をまなざしている。『眼鏡』よりクオリティは高いにも関わらず受け入れられなかったことは間接的な傍証になるだろう。
『らすとおんみょう』ではその揺り戻しといえる現象が起こっている。ギャグがテーマとTwitterで発言しているが、いかにもオタアニメという構造(そのままアフタヌーンあたりで掲載されても不思議はない)にチャレンジするも1話を完成させた後に頓挫。理由は色々考えられるが、これまで見てきた通りハーレムものの企画自体がたつき監督に合わなかったと考えるのが妥当だろう。この時期が2度目の転機になる。ある程度スタイルが固まったのだ。それは『ケムリクサ』で表現されたスタイルの延長にありジャパリパークへ続く道だ。キャラクターに瞳を描くことさえ取り止めた『駅長さん』は『らすとおんみょう』の続きは作らないという静かな意思表明とも受け取ることができる。
再び繰り返しておきたいのは「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」この3つはどれかひとつが先立つものではなく、お互いに深く関連しており不可分なものだ。『けものフレンズ』ではこの全ての要素が花開いている。この作品に超絶的な技巧が込められた作画や、ぴちぴちとした美少女あるいは美男子を求めることはできない。あるのはサバンナに向けて開かれたような、開け放たれた窓だ。振り返ると、室内にはエヴァ以降20年にわたる作品がある。時代を代表する色褪せない傑作もあるだろう。でも、もう昔の作品だ。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、清々しい朝日に貫かれた後では、戸惑いつつも思い知らされるのだ。どれだけ偏狭な価値観に縛られていたか。こんなにもこだわっていたものは汲々としていたか。自由とはこういうことだったのかと。
自由の味。開放されるということは、決定的に変わってしまうということでもある。一度開放されたことを理解してしまうと、重さの無いなにかが失われてしまい、二度と戻ってはこない。それを無視して、例えば「エヴァ風けもフレ」というように馴染みのある文脈に引きずりこみ安心することもできる。「ローエンドなCGでもいいものは作れるんですよ」と心の平穏を装うこともできる。でも、そういうことはもうやめにしよう。『けものフレンズ』はこの20年間潜在的に待ち望まれていたアニメばかりを見ていない監督によって作られたアニメなのだ。その面白さの本質は、ガイナックス的なアニメの価値観とは別の場所に立っていることによるのだ。私はたつき監督の成果に最大限の賛辞を贈りたい。素晴らしい作品をありがとう。
ただ、アニメを見る目がこれまでとは違ったものになったことは少し寂しく感じてしまう。世に次々と出てくる新しい作品がどれだけ面白くても、それらが“過去の遺跡の新作”ならばそれだけで手放しで楽しめなくなったからだ。つまり、ちょっとした困難をかかえこんでしまったことになる。でもそんな心配はあまり気にする必要はないのかもしれない。なぜなら、すでに誰かが言っていたようなのだ。困難は群れで分け合えと。