はてなキーワード: 血圧とは
40代男性ははてなのボリュームゾーンだと思われるので、ワクチン接種1回目の副反応など記録を。
普段はデスクワークが主だが、都内様々な現場にいくことも多い。
BMI30の肥満。若干血圧も高い。他の基礎疾患はないが、比較的ハイリスクではあると思われる。
接種券が比較的に早めに到着し、予約が取れた。
待っている間にも電話は鳴っていたが、現状ではもうこの医院は満席になっているとのこと。
なお、在住している区では個別接種については年齢や基礎疾患での予約区分をしていないので、基礎疾患扱いではない。
かかりつけ医は接種していなかったため、初めていく内科医院で接種。
体温は37.0度。若干高いが元々平熱が高いので問題なしということになる。
予診票のチェックをして、すぐに接種することに。
打つ腕はどちらでもいいと言われ、利き腕の反対に接種してもらう。
鎮痛剤は何か持っているかと聞かれ、ロキソニンがあるというと、痛みがあったら飲むようにとのこと。
なければカロナールを出してくれた模様。
また、今日はアルコールを飲まず、接種側での運動は避けるように言われる。
15分にセットされたキッチンタイマーを渡され、待合室で15分待機。
戻ってデスクワークを再開。
その段階では特に問題がなかったが、接種2時間後に接種側の腕に痛みを感じ、上がらないことに気付く。
とはいえデスクワークには影響なく、水分を多めに取りながら仕事を続行。
接種4時間後に、吐き気を伴う身体のだるさと太ももの筋肉痛を感じる。
痛みは昨日よりも増している印象。腕は水平以上に上がらず、シャンプーがつらい。
体温は37.2度で変わらず。
仕事をしていても倦怠感は変わらず。
早めに就寝。
やはりあまり眠れず。
しかし、腕の痛みは半分程度になった。腕はまだ上がらない。
倦怠感も昨日に比べると半分程度。ちょっと飲み過ぎた翌日という感じ。
筋肉痛はなくなった。
体温は37.0度。
夜になってだるさが増し、熱を測ったら37.7度。ロキソニン飲む。
よく眠れた。
腕の痛みがほぼ消え、頭をかくような動作の時に違和感を感じる程度に。
倦怠感もほぼ消えた。軽い頭痛はあるが、もともと頭痛持ちなので気候の影響などもあり得る感じ。
熱も36.8度に下がった。
↑
副反応によって仕事に支障がなかったが、もう少し重めに出ていたら休もうと判断しただろうという印象。
すでに接種した人を何人か実際に見ているが、様々な記事で指摘されているように、副反応は年齢と反比例すると思われる。
逆に言えば、この程度ですむので、ベネフィットを考えると接種して良かったなというのが正直な感想。
2回目は7/15予定。また記録を書く予定。
追記:
吐き気はあったが、嘔吐はなく、軽い吐き気と書いた方が良かったかと思う。
普段、胃に問題がない状態で吐き気を感じることはなく、これだけは初めての経験だったので、強めに書いてしまった。
※誤字直しました。ごめんなさい。
コロンブスやマゼランが大航海に乗り出した時、求めたのは富や名声だったか。
きっとそういった部分もあっただろう、ただそれだけで命を賭けられただろうか。
彼らを駆り立てたのはある種の狂い、前進する狂気のようなものではなかったか。誰も知らない土地、地図にない島、世界の果てに近い海の上で、人知れず朽ち果ててもかまわない、それよりも海の向こうに行き着きたいという衝動に勝てなかったのではないか。
いま自分の中で、高血圧対策で自粛しているラーメン、濃厚な豚骨ラーメンを、卵・海苔・チャーシュー・メンマ全部載せ、なんならダブル全部載せで食べたいという気持ち、これこそが彼らを海の向こうへ押し進めた狂気に他ならないのではないか。
【スペック】
基礎疾患は睡眠時無呼吸症候群とBMI超過、不整脈、高血圧など。予防接種でアレルギー起こしたことはなし。
【今回現れた症状】
・接種部位の痛み
・倦怠感、眠気
【当日の状況】
行政の集団接種で、「看護師」という名札を付けた方がファイザー製のワクチンを打つ。
体温は36.2℃。体調に変化なし。睡眠もいつも通り。
接種日は快晴で自宅から接種会場の公民館まで20分程度歩いたため、もともと発汗しやすいこともあり額や首が触ると濡れるレベルの発汗(直前の体温測定で高熱が出ちゃうんじゃないかと自分で心配する笑)
【接種当日の経過】
15分待機するよう言われる。
接種直後には、接種部位にかゆみ。皮膚が熱い感じなどの変化なし。待機中は、はてなを見て過ごす。
接種後20分。公民館から帰る途中から、普段あまり歩くことがないので、だるくなる。徒歩以外に交通手段がない。
接種から30分後、遅めの昼食を取る。ランチ営業の居酒屋でアジの開きの定食、サービスで冷ややっこか生卵が選べたので、迷わず冷ややっこ。食欲異常なし。
接種から2時間後、眠いのとだるいのとで寝る。夕方5時6時くらい。副反応なのか、久しぶりに往復で1時間も歩いたことからくる疲労なのか、判断ができない。他にやることもないので、CPAPをして、寝て過ごす。
夜7時くらいに一度目が覚める。CPAPを外してスマホのウイイレアプリ。レヴァンドフスキは本当に頼りになる。
UberEatsで海鮮丼を注文。届く前にトイレに行く。普通の便がでる。お腹は相変わらず肥満。その後、海鮮丼を食べる。うまい。
食後、別に異常はないが、夜12時を過ぎて接種部位がずきずきと痛み出す。何か思考なり作業なりをしていれば気にならない程度の痛みだが、特にやることも考えることもなく寝たいだけなので、痛みを意識してしまう。これが副反応なのか、そうなのかと思っているうちに就寝。
【接種日翌日の経過】
翌日10時に目が覚める。腕の痛い部分はすっかり気にならない、CPAPのおかげで眠りも十分。
腕の痛みは完全になくなっており、前日にワクチンを打ったことを忘れている。
体温測定せず。
朝食は食欲があるが、ちょっとダイエットなどを気にしているのでトースト1枚とゆで卵。あとビタミンサプリ。あとイグザレルトとタンボコールなどいつものクスリ。
昼前も予定はないので寝転がって過ごす。
前日シャワーを浴びてなかったので入ろうとするが、面倒なのでやめる。
坂道みる嬢のVRAVに手伝ってもらってオナニー。気持ちよくしてもらう。
体温は少し上がっていたと思う。
なんだこの人生は……と、吐き気が少しでてくる。この年まで親の遺した金が育ててくれた。
オナニーはティッシュ処理時間含め10分以内で終了。VRオナニーって客観的に見たらきっと気持ち悪くて、吐くかもしれない可能性を考えて自分の抜いている姿を想像しないようにしている。
昼も食欲があり、ラーメンを食べに出る。
夜7時に一度起きると食欲があり、夕飯はレトルトカレーに冷凍のとんかつでカツカレーにする。
トイレに行き水分をとってまたすぐ就寝。
体温測定は特にしない。
便通あり。お腹の出っぱりあり。咳なし。
【接種3日目】
翌日朝11時に起床。腕が痛くない。
食欲はあるので朝食がほしいと言うが、それに答える人間はいない。
カップラーメンを食べ、横になる。
普段から寝てばかりなので座ることもだるくてキツかったが、その日も座って作業できそうな気はしている。昼までスマホでウイイレとシムシティをやる。
昼。食欲があり何か食べる。
体温知らん。腕は痛くないし上げようと思えば上がる。
少し昼寝をしたあと、はてなをやる。
夕飯は寝てばかりなので食欲がなくて食べる気がしなかったが、食べないと人生を損した気分になるのでニチレイの鍋焼きうどんに卵を落として食べる。うまい。
寝る前、体温測定はしない。
便通あり。お腹の張りは昨日と変わらず、太っている。咳なし。
【接種4日目】
翌日の朝、起きたらやっぱりお腹が空いてる。
体温は知らん。腕は接種部位も痛くないしいつも通り上がる。
朝ごはんに白米とインスタントの味噌汁と目玉焼き2個を食べる。
その後、4日目の夜もいつもどおり何か食べている。5日目からもいつもと同じ食事量。
腕の痛みは2日目以降弱くなり、その日のうちに消えた。
接種部位は初日から腫れることは全くなく、痛みがなければどこに打ったのか見た目では分からないレベル。
アセトアミノフェンを持っていたが、飲むことはなかった。
【周りの状況】
人に会わないのでわからない。腕の痛みは翌日から出る人が多かったかどうかも、腕は上がるので生活に特に困らなかったかどうかも、知らない。全く痛まない人もいるんだろうね。
打った日から異様な眠気や下痢があった人もいてもおかしくないよね。
発熱した人はだいたい腕の痛みが出た時からなる人が多かったのかもしれないね。
腕が痛くても発熱しない人もいそうだね。
去年の3月末に第一子を出産。首都圏住み故に立ち合いも面会もできず、孤独な入院生活を終え、遠方から来るはずの母の助けもなく新生児期を乗り切り、ひたすら散歩以外は引きこもった育休が、親にも祖父母にも子供を会わせてあげられないままこの4月に終わってしまった。と、思ったら今度は夫が5月から単身赴任になった。国内だが頻繁に帰ってこれる距離ではない。
しかし、悲しむ間も無く生活をまわしていかなければいけない。コロナのせいで遠方の実家は頼れないし、シッター系も頼りづらい。しかも頼れる物(ルンバや乾燥機など)にはすでに頼っている。買い物と料理の手間を減らすために生協や幼児食のサブスクも登録した。それでもちょっとした時に夫の手がないと困る。
例えばお腹が痛くてトイレに籠る時だとか、大きい荷物が宅配ボックスに入っている時だとか(幼児連れで運べないし、幼児を部屋に1人にしておくわけにもいかない)。疲れた時に5分だけでも子供のことを見てくれたら、その時間は神経を休めることができる。これが正気の回復にはとても効く。
完全ワンオペは正直きっつい。
神経が休まらないし、なんでこんな状況になったのかという怒りがとてつもない。休日に公園に行けばお父さんと子供連れがたくさん。なのに夫はおらず、二人で遊び、買い物に行ったらお腹が減ったと愚図る子を宥めながら帰宅。夫がいれば買い物の間、子を任せられたのに。荷物は重いし、子は泣くし、この状況に陥らせた夫の会社が心底憎くなってしまった。怒りで動悸が止まらないし、歯軋りもひどい。血圧もはかったら高くなっていると思う。
私の会社に理解があるのが余計に心苦しい。時差かつ時短勤務にしてもらったし、リモート勤務も増やしてもらった。上司(成人済の2人の子供の母)は、「子育て中はどうしても迷惑かけるの!しょうがないの。でも、そうやって子供を社会で育ててこなかったから、少子化になって人口が減るから売り上げも減るし、年金保険料だって上がっていく一方なの!」と言ってくれている。
問題なのは夫の会社で、意思決定権を持つ層がみんな子育てを配偶者に任せてきた人たちなので、この大変さが伝わらない。
結局、割りを食うのは私たち家族と、そして私の勤務先なのだ。弊社の子育てへの理解にフリーライドしてんじゃねーよ。
あと状況的にも年齢的にも第二子は諦めました。コロナで実家に頼れないのに夫もいない中、妊娠中の体で仕事して幼児相手するの、不可能。
東京駅まで(頑張れば)徒歩で行けるくらいの位置のマンションに住んでるけど脱出したい。
マンションは遺産相続で手に入れたヤツなので金はあまりかからない。管理費が月々数万くらい。
リモートワークしたいけど、流行りのノーコード的な仕事で実質ノースキルに近いくらいにニッチなアレなので在宅可とかリモート可の転職先がない。
東京は華やかだし便利だったが、コロナ禍になって以降東京住みのメリットのほとんどがデメリットに反転してる。
デルタ株はすれ違った程度レベルで感染するらしい。懐かしのすれ違い通信ってか。冗談じゃない。
肥満とか血圧とか持病のための服薬の副作用とか血縁の病歴から顧みるにとかそういう点で、感染したらかなりの確率で重篤な後遺症または死まで一直線なので何とかして逃げたい。ワクチン?接種券来ないんだが?
なお預金は定期とかを全部下ろしたとして400万くらい。
恋人・配偶者・子どもなどはなし。ペットもなしのガチの一人暮らし。
お前らならどうする?
娘を死産してちょうど1年が経った。
お互いに3人兄弟の末っ子で、子どもは最低でも2人欲しいね、なんて話をしていた。
でも子供は何年経ってもできず、不妊治療を始めることになった。
今は夫婦の3組に1組は何らか不妊治療をしているらしい。まったく珍しくもなんともないことだ。
不妊の原因はわからず、結局1年間かけても成果が出なかったので、高度不妊治療に移ることになった。
そして、本当に本当に運よく、1回目の体外受精で妻は妊娠した。費用は合わせて100万円くらいで済んだと思う。
不妊治療はゴールが見えない。何百万円もかけて、結果が出るかどうかもわからない。
多くの場合、不妊の原因すらわからない。あらゆる面で、つらく厳しい治療になる。
夫である僕も何度か同行したが、不妊治療のクリニックの雰囲気は形容しがたいものがある。
あれは本当に強靭なメンタルが必要だ。もしこれを読んでくださっている方で、奥さんが不妊治療をしている人がいたら、ぜひ1度でいいから一緒に行って隣に座っていてあげていてほしい。それだけでいい。
僕たち夫婦は、家族、ごく親しい友人数人に妊娠の事実を伝え、ひっそりと妊娠生活を開始した。
幸い妻にはつわりがなく、安定期に入った。安定期に入っても周りにはほとんど言わなかった。
あの不妊治療のクリニックの雰囲気を見てしまうと、簡単な気持ちで周りには公表できなかった。
少し奮発して、4D超音波エコーというのを撮影した。おなかの中の子どもは、一人の完全な人間の形をしていて感動したことを覚えている。
妊娠して5か月目に入り、妻が倒れた。
急に夜中に激しい頭痛で動けなくなり、タクシーで妻のかかりつけの総合病院の救急外来に向かった。
診察の結果、血圧がかなり高いとのことで、入院して様子を見ることになった。
病院の先生からは、夫婦同席の元、最悪のケースを想定した病状の説明がされた。
なんで医者はこんなに不安をあおるような言い方するのかな、なんて夫婦で話をしていた。
でも、入院して2週間経っても、妻の病状はよくならなかった。
医者から、妻の病状を専門で診られる他の病院のセカンドオピニオンを受けてほしいといわれた。
妻は、小さい頃からお世話になっているこの病院で産みたい、ほかの病院に移るのは嫌だと言った。
僕は、専門の先生に一度診てもらうだけだから、と妻を説得して、紹介された病院に向かった。
病院の診察室に入ると、大部屋に10人くらいの医者が待ち構えていた。
この瞬間、あぁ、妻の病状はかなり悪いんだ、と気付いた。
一番歳がいったベテランの医者から、妻の今の病状について説明があった。正直内容はほとんど頭に入ってこなかった。
唯一覚えているのは、赤ちゃんの命よりも、母体の命を優先する、という言葉だった。
診療が終わり、なんで医者はこんなに不安をあおるような言い方するのかな、と妻は話していた。
もしかしたら、ダメかもしれない、なんて僕の口からは口が裂けても言えなかった。
別の日に、改めて治療の方針について医者から話があった。また部屋には10人くらい医者がいた。
1日でも長く、赤ちゃんをお腹の中で成長させるために、できる限りの治療をする。
妻は泣いていた。
それから妻は、弱音一つ吐かずに、毎日注射をし、薬を飲み、手術までした。
会社の健康診断の血液検査で倒れる僕からしたら、本当に尊敬しかない。
かなり強い治療を続けたが、妻の病状は良くならなかった。
二週間後、主治医から、夫婦同席の元で今後の治療について説明したい、と言われた。
ついに来てしまったと思った。
妻には、一度外で待っていてほしいと伝え、僕が先に個室に入った。
妻が横にいると、僕自身が耐えられないと思った。
最初に治療の方針を説明してくれたベテランの医者は目をつむって部屋の端で静かに座っていた。
その隣で、他の医者から今の妻の病状について説明された。医者も少し涙目になっていた。
もう妊娠を続けることはできない、一日でも早く子供を出さないと妻の命が危ない。
僕はわかりました、と言って、妻を呼びにいった。
席に座った妻に対して、医者が話し始める前に「やっぱり、赤ちゃんダメだって」と声を振り絞って、妻に言った。
これからの人生、こんなに悲しいことはもうないんじゃないか、と思った。
でも、妻がもしいなくなったら、もっと悲しい、それだけは確かだった。
妻に隠れて自分も泣いた。
正直、ここから先の記憶はかなり曖昧だ。記憶を消そうとしている自分に抗って、今思い出しながら書いている。
妊娠中断の合意書へのサイン、両親への連絡、会社への連絡、そして休むことなく出産の準備に入った。
この時期になると流産はできず、陣痛を誘発して普通に出産することになる。
違うのは、赤ちゃんは外に出ても自分の力で息を吸うことができない、ということだけだ。
数日後、予定通り娘を出産した。
夫婦と娘、3人で写真を撮り、短い時間だが3人で一緒の時間を過ごした。
息つく暇もなく、葬儀業者に連絡をし、両親を呼び、あっという間に葬儀が終了した。
妻の体調は、入院時の体調が嘘のようにみるみる回復し、1週間で退院できることになった。
妻は、命をかけて娘を産んでくれた。
死なんてものは世の中にありふれている。夫婦にとって特別な死も他人には関係ない話だ。
こんな話、誰かに知ってほしいとも思わない。
でも、妊娠には、あの時こうしておけば、何かしてあげられたのでは、なんてないことだけは伝えたいんだ。
誰も悪くないし、どうか自分を責めないでほしい。
こんな自分勝手なエントリを最後まで読んでいただいて本当にありがとうございました。
病気じゃないけど辛い。自分のポンコツっぷりが辛い。全体的に身体のスペックが雑魚ってか、ゲームキャラならHPが少ない感じだと思う。
低血圧は脳貧血起こしやすいんだけど、起こすと目の前にノイズがかかって立っていられなくなる。腹が痛くなるときもある。とりあえず動けなくなる。
脳貧血起こしやすいのは、ただ立ってるとき。1時間歩いても平気だけど、3分まっすぐじっと立っていられない。じっとしていると脳貧血起こす。電車とかよりかかれるドアか、足の体重移動を駆使する。やばいときは駅で降りてちょっと歩いて別の車両から乗り込む。
あと起き上がるときもやばい。朝弱いとか、覚醒できないというより、寝ていた状態から頭を持ち上げるのがしんどい。下手な起き方すると、脳貧血起こす。
あと、むくむ。私は指がとくにひどい。とにかく、常に、だるい。
高血圧は薬があるけど低血圧にはない。生活習慣変えろって言われるけど、三食ちゃんと食べて、運動もしてる。運動するとむくみはちょっとマシになった。
母、父、僕、妹
母は去年の春にガンが見つかったときにはすでに末期だったらしい。
らしい、というのは、僕は実家から新幹線で3時間の距離に住んでいる。
母の闘病を手伝えたのは最後の一ヶ月だけだった。
母のガンがみつかってからは、父と妹が母に付き添ってくれていた。
(妹は僕とくらべれば実家の近くに住んでいる)
母はとにかく明るく前向きで真っ直ぐな人だったため、闘病も最後の最後、一切の治療ができなくなった時まで緩和ケアという選択はしなかった。
昨今の新型感染症の影響で、最後の家族旅行に行くことができなかったのが悔やまれる。
(これに関しては抗がん剤治療で一気に体力がなくなってしまったため。行くなら抗がん剤治療を始める前のほうがよいのだろうな、というのが反省である)
感染症の影響もあり、母の病気が見つかってからは、去年の夏と、最後の一ヶ月の二度しか会うことができなかった。
今年の春になって、母の容態がさらに悪くなったと連絡を受け、しばらく仕事を休んで実家に戻った。
母はガンが全身の骨に転移しており、顔の形が変わってしまっていた。
去年の夏から半年でここまで悪くなるのか、と悔しい気持ちでいっぱいになった。
この時、母はまともに食事がとれなくなっていた。
僕は気づかなかったが(どのくらいの食事量が正常が知らなかったため)、その異変を父が感じ取ってくれて、母を入院手続きするところまで実家で手伝いをした。
感染症の影響で、面会謝絶であったため、僕にできることは何も無くなった。
そして、母の容態も最後の状態になり、母は退院して実家に戻ってくることになった。
退院後、母は9日間、家で過ごして、そして亡くなった。
最初の4日ほどはまだずいぶん元気で(完全なる寝たきりではあったが)、実家にいたころの楽しみであったミステリドラマやipadでのゲームなどを楽しんでいた。
最後の3日は、毎朝計測していた血圧がちょうど10ずつ下がり、最後の日は聴診器では血圧を測れなくなったため、脈拍を指で確認しながら血圧を測ってもらっていた。
母が息を引き取った時、僕は母の右手を、妹が母の左手をさすっていた。
当時の僕は、母が亡くなる日が今日だとは思っておらず、また連日の看護でまともに眠れていなかったため、正常な判断力もなかったように思う。
母が呼吸をしなくなったことを、看護師さんを家の外でまっていた父に伝え、妹と、ちょうど来ていた妹の子供達とみんなで母に別れを伝えた。
妹の夫(僕からみたら義弟)もありがたいことに駆けつけてくれた。
看護師さんが来て、担当のお医者さんを呼んでくれ、お医者さんがやってきて、死亡診断書を書いていただいた。
そしてまた来てくれた看護師さんが母の体を綺麗に拭いてくれた。
今回の経験で、最後を看取るための医療にかかわる方々には、ただただ尊敬の念を抱いたことを覚えている。
葬儀社に連絡し、母の体をドライアイスと冷房で保たせるようにした。
葬儀は母が大好きだった花をいっぱい飾り付けしてくれるように手配した。
母が亡くなってから3日ほどは、僕はずっと泣いていたように思う。
3日目に、学生の頃の友達に最後の別れをしてくれるように集まってもらい、20年ぶりに心の底からくだらなくて楽しい話をしたことで、僕の悲しみはだいぶ和らいだように思う。
母は葬儀の都合で一週間ほど家で過ごしたため、ご近所さんが相次いで挨拶にきてくれた。
通夜、葬儀は母の兄弟の子どもたち(僕からみたら従兄弟にあたる)が、母の兄弟の代理としてきてくれた。
母と父の若い頃からの友人(僕も子供のころに大変お世話になった)も来てくれた。
母を棺にいれてもらい、花で満たし、そして火葬場へ向かい、荼毘に付してもらった。
最近の火葬場は、骨を拾いやすいように火葬場の人が丁寧に並べてくれるんだなぁという発見もあった。
母が亡くなったことの届け出を大量にこなし、遺産整理(金額は小さいがやることが細かくたくさんあった)をして、僕は自分の生活に戻った。
もうすぐ四十九日と納骨だ。
健康に不安を覚えるようになって、やっぱ運動しなきゃなーって思う年になった。だから血圧も気にするようになって減塩を心がけるって文脈なのか。
申し込み開始の朝にパソコンの前に貼り付いて重い画面をリロードし続けた甲斐もあって、27日の朝一番で摂取の予約ができた。
高血圧とか肥満とか、コロナになったら重症化リスクが高いと思っていたから、すんなりと打ってくれると言われたときは安心した。
テレビに踊らされて、コロナになったほうがよほどリスクが高いというのに小さな副反応を気にしていた。
どうせそんなことだろうと、本人の話は半分くらいにして、ところでワクチンを打っても感染は減らないらしいという話をした。
要するに自分はリスクを背負いたくないから打ちたくないだけで、他人が打ち終わればコロナが消えて元通りになると思っていたのだ。
無症状のままウィルスを持ち歩き、自分は症状がでないままに人にうつすようになる。
だから、突然自分だけ発症して、誰にもらったかもわからないままに重症化する危険性がある。
そんな話をしたら割とあっさりと観念してくれた。
母親は孫に会いたいという。しかし、小学生の子どもたちはいつ無症状感染していてもおかしくない。
毒ガス感知の小鳥のように、自分がセンサー代わりになるしか気づく方法はないのだ。
幸いながら今の所、発熱などの症状が出た試しはないが、それでも学校の先生や通っている塾の講師が陽性だったという話は絶えず聞こえてくる状況だ。
それでもしつこく連れてこいというのだから、最後は自分の選んだ死に様だと連れて行くようにはしていたが、その心配もようやく終わることができる。
わかっているよ。それでも連れて行かないのが子どもの責任なのだということは。
しかし母がいうには、孫に会えないならば死んだも同然だと、目をうるませながら本気のトーンで詰めてくるのだ。
それで死なれでもすれば寝覚めが悪くなることはわかりきっているが、それでも死に方くらいは選ばしてやりたいという気持ちが勝ったのだ。
これも早い段階で、何をしようと人に会わないのが一番の対策だと口を酸っぱく言い続けてきたからだ。
社会人二年目というので二十代前半とするとあーまぁそりゃそんなにかわらんやろとしか。
むしろ心肺だけヤリすぎて心臓肥大化すると、のちのち、ちょっと面倒なことになる。
心肺機能だけの話ならコロナにかかって発症しなきゃどうやってもそこそこいける年代なのよ
ほかに鍛えようとおもう場合、「バランス感覚とか精密なタイミングとり(こう球が来たらこう打つとか)」は若ければ若いほうが効く、
ある程度つくったら満足してそれはそれでいいとおもう
日に当たる習慣としては有効だがあえて歩くでなくてもよい。夜勤でなければ通勤通学で10分も日中外に出れば鬱予防としてはそこそこイケる。
歩くのでは上半身が鍛えられない。室内クライミングとかやってみろ。腰痛、肩こりにめっちゃ効く。
ストレッチもかならずしろ。のちのち五十肩になるかならないかがここで決まるとおもえ。
栄養学がんばれ。脂肪をへらしてプロテインと野菜を自分なりにうまく摂取する自分なりのやりかたをみつけろ。
女性なら鉄分。便秘ぎみなら食物繊維とマグネシウム。ダルいならビタミンB群。野菜嫌いはビタミンC。魚嫌いはDHA。
子作りがんばりたいなら女性は葉酸、男性は亜鉛。高血圧家系はカリウム。低血圧はナトリウム。
もちろんサプリでもいいぞ(面倒なら全部入ってるのが売ってる。のみ忘れたりするな)。
最近ちょくちょく買ってるが、8割くらい特段なにもおいしくない
・ ソフトサラダ … 表面塩辛くておいしい。禁輸品にしたほうがいい
・ 堅ぶつ … 硬くてダシの味がしておいしい。あと高い。これも禁輸品にしたほうがいい
・ サラダうす焼 … 最初の1パックだけおいしい。残り2パックは輸出してもいい
・ えびうす焼 … 2パック目までおいしい。残りの1パックは輸出してもいい
・ 新潟仕込み … 青のりの塩味の薄パリせんべい。レアな味がする。塩味はフリスビーに。醤油味はおいしい
・ ぱりんこ … ソフトサラダの取り扱いがない店でしかたなく買う。いつ見てもなんかたくさん入ってる魔法のせんべい
トレーニングといっても筋トレとか有酸素運動とかそういうものじゃない。
自分は身長185m。115kgから84kgまで落とした。31kg減。太っていた時に心筋肥大したので血圧は高めだけど、それ以外は良い数字。
練習を始めたのは30半ば。今40近く。5年くらいで31kgを落とした。
体感として、115kから110kgに落とすのが一番難しかった。楽だという人もいるが、それは代謝が盛んな若いうちだけか、短期的に太っただけの人だ。
健康目的の減量というのは、はっきり言って依存症からの脱却と全く同じだ。中肉中背から痩身を目指す美容目的とは違う。
他人から際限なく馬鹿にされ、理解を得られず、あきらめてまた依存に戻る。これを繰り返してしまっているのが肥満の人だ。
大前提として、俺たちは依存症に向き合わなきゃいけない。ダイエットと考えず、依存症と考える。
砂糖の依存性はヘロインの数倍ともいわれる。アルコール依存症からの脱却の方法がそのまま減量に活かせると思ってほしい。
周囲の理解のない言葉には惑わされないで。この投稿にも酷い言葉が飛んでくるだろうけど、彼ら彼女らは明確に敵で、悪魔で、人間ではない。
肥満は治療すべき病気だ。病人に石を投げるのは人間ではない。自分の病状を見据え、適切に段階を踏んで快復していくべきで、悪意に打ちのめされてはいけない。
エクササイズ、筋トレ、有酸素運動、それらは依存症からの脱却の過程で行われる行動であって、それらをすれば依存症から脱却できるという物ではない。
依存症からの脱却を目指す際に、いきなり運動をするのは間違っている。高確率で挫折をしてしまう。
運動の何が危険かというと、「運動への飽き」が「減量への飽き」と同化してしまって、運動と減量を同時にやめてしまうことだ。
減量しながら運動をするはずなのに、運動が先に来てしまう。短期で成果を求めてしまう。
体力づくりには運動は非常に有効だが、依存症からの脱却には運動は劇薬だ。依存症が薄れてきたら運動を楽しく行うべきだ。虫歯の治療をしてから歯磨きを励行すべきであって、虫歯の穴が開いているところに歯ブラシをねじ込んでもただ痛いだけだ。
そういうわけで、エクササイズの話はしない。カロリーの話もしない。
のどがカラカラな時でも、5分かけて水を飲むことができるか。
いつでも5分かけて飲み物を飲めるか。
肥満の人は異様に飲むのが早い。コップに口を付けたらそのまま3,4口飲む。
時間を計るのが煩わしい場合は、沸騰したてのお湯をカップ一杯用意して、すぐに一口飲む。当然大した量は飲めないが、この飲んだ量を覚えておいて、それ以降お湯が冷めてもその量を飲み続ける。
全部飲むのに5分以上は必ずかかる。
食前食後に飲み物を飲むのはOK。しかし、いただきますとごちそうさまの間は飲み物は飲まない。
飲み物を飲めないので、よく噛んで食べる練習になる。水で流し込むことはしなくなる。
喉が詰まらないよう、少量ずつ口に運ぶことになる。
ステーキを食べるときは、1cm四方の大きさに切って食べること。これはステーキを食べる作法でもあるようだ。
箸は危険。食べ過ぎる。昔から箸が普及している地域は水が豊富な地域だ。喉つまりを気にせず食べる文化が箸を生んだのかもしれない。
箸を使うくらいなら手で食べるほうがいい。実は手で食べ物を掴むと、上手く口に入れられない。必然的に一口の量を抑えられる。
子供ではないのだから、自宅で一人で食べるときに無作法をしても、外で同じことをする恐れはない。一度は手で食べてみることをお勧めする。人間はそんなに一口で物は食べられないとわかるはずだ。箸やフォークよりも指は太い。その分だけ食べる量を減らせる。
一度茶碗一杯のごはんを手で食べてみよう。口の周りを汚さずに。唇の中まで指を入れよう。
上記の方法を実践すれば、難なく達成可能だ。食後の飲み物を入れて、食事には30分かける。
30分かけて味わえるものを食べる。
健康にいいものを選ぶ必要は(最初は)ない。マックのセットを30分かけて食べてもいい。
麺類は「早く食べないと伸びちゃう」と急かされ、アツアツのものは「美味しいうちに食べなきゃ」と急かされる。
ぬるくても美味しいものを食べるといい。
そう思うかもしれない。
「再びドカ食いをし続けないための型稽古」だ。ドカ食いしてもいい。しかしそこから脱却できなくなるのはダメだ。
脱却するための型稽古がこれだ。もちろん他にもたくさんの型がある。全部は書ききれないけれど、まずは上記の3つの型をやってみてはどうだろうか。
そうすれば毎日の体重に一喜一憂することもなくなる。最初はとてもつらいが、それを目標にしよう。
運動に飽きても依存症の治療には飽きないように。いろいろと工夫をしてやっていこう。
痩せている人に言いたいことは、「あなたはアルコール依存症で苦しんでいる人にも同じ言葉をかけますか?」だ。
どうか見守ってほしい。