はてなキーワード: 実際的とは
作品は作者とファンの共有財産です。しかし実際的な権利のすべては権利者にあります
なので権利者が沈黙を貫くのであれば、日本国の法律と利用するプラットフォームの規約に反していない限り、
"嫌なら見なければいい"のです
ですが、原作への敬意が感じられないポルノを発表する自由があるのと同様に、
これこそが腐女子が大っっっっっ嫌いな理由、腐女子が嫌われる理由、
書き連ねたい、けど面倒、けど書き連ねたい
いいえ、違います
ただし、原作に敬意を払わないという点ではセクシャルに言及があるキャラのセクシャルを変えるのと同じです
作品は作者とファンの共有財産です。しかし実際的な権利のすべては権利者にあります
なので権利者が沈黙を貫くのであれば、日本国の法律と利用するプラットフォームの規約に反していない限り、
"嫌なら見なければいい"のです
ですが、原作への敬意が感じられないポルノを発表する自由があるのと同様に、
>「嫌い」であることを言えない世の中より、お互いの「嫌い」という意見を許容しあえる世の中のほうが自由だと思います。
これは互いの関係性によって決まってくることでは?
(多くの人は、親しい人からでも見知らぬ人からでも「嫌い」と言われたら、不快を覚えると思う。)
もっともと言えばもっともな意見に聞こえるが、ちょっと実際的ではないと思うな。
>コメントでもいくつか見られるように「嫌いと言われるのはかまわないけど、言われたら反撃する」という考えが許容されていることにどうしても疑問が残ります。
疑問を敷衍した方が良いぞ。
「反撃」の定義についても述べてほしいな。
>社会的多数派に対してであれば「嫌い」と公言する自由は制約されないのでしょうか。
誰に対しても、法令等に違反しない限り、または判例に示されない限りは制約されないと思うが。
>究極を言えば、差別的イメージによって「嫌い」と言われることも許されるべきだと思うんです。
>もちろん、表明するだけで、それによって不利益が生じることは良しとしないとした上で。
それは無理だと思うよ。それって、ある意味、コミュニケーションを放棄してるのではないかな?
お前の考えが、他人に何ら批判されたくない、何ら反撃されたくないとする考えであるならば、それは、俺は間違ってると思うよ。
>わたしがいいたかったことは、どちらの立場であっても、お互い心理的安全を約束した上で、「嫌い」という言葉を堂々と言い合える世の中のほうがいいよねということです。
それは、記事の冒頭に掲げるべきことだったな。
あと、先にも述べたが、理想論としては結構だが、実際的ではないと思うよ。
「嫌い」という言葉の意味が変わるか、人間同士の関係性が変わらないと、それは多分実現しない。
>お互いにどこが「嫌い」なのかを素直に言い合うことによって、はじめて異なる存在自体が歩み寄れると考えているからです。
それは、お互いの関係性が深まって、親密になった先にある段階じゃないのかな?
・マルクス・レーニン主義(一名に「科学的社会主義」とも)が放棄されていないこと
・党の体制として、民主集中制を採用し、及びそれが放棄されていないこと
・高齢の実力者が、未だに重職を占め、重大な意思決定に関わっていると見なせること
・1922年の22年テーゼ以降に採用又は確認された二段階革命論並びに暴力革命の企図
及び選択肢が放棄されていない、又は放棄されたと見なすことができないこと
・1961年以降に採用されたいわゆる「敵の出方」論が放棄されていない、又は放棄されたと見なすことができないこと
・日本国憲法を廃棄する意図等が全く無いと見なすことが困難であること
(例えば、二段階革命論)
・現在、日本国が採用する統治上の基本的方針としての、民主主義、自由主義並びに立憲主義を廃棄する意図等が
(例えば、二段階革命論)
・基本的人権を、日本国憲法及び法律に規定し、及び最高裁判例に判示される範囲から
確かに。
ただそれなら、人間は完璧なのかと言えばそうではない。フレーム問題を果たして人間自体は解決している存在なのか判然としない。しかし、人間は責任をとることはできる。少なくともその所在を法的に明らかにすることが出来る。翻って自動運転車両の場合はどうかというと・・・。結局①の論点に戻るね(念のため言っとくと自分は元増田ではない)。
オートクルーズに毛の生えた程度の機能で満足するなら別だが、思うに、完全にノータッチで走行される車両の持つ法的な責任は、結局メーカー側が持つことになるんじゃなかろうか。もし所有者の側が負わされるとすると、ただその車を起動し目的地を設定したという作為を持って訴追される状況を受け入れる、あるいはバカ高い保険といっしょに購入することになる。普通の車両+運転手雇用とどちらがコスパよいか、という話になってしまう。
そもそも自動車社会っていうのは、鉄道完備と天秤にかけてこちらの方がよいと判断して導入されたものなんだよね?そこに自動運転技術をさらに導入するというのは一周回って元の位置に戻ってきたようなパラドックスを感じる。
いっそ思想的に鉄道に戻って、道路側にビーコン発信機や、センサーが確実に反応するペイントを敷設して整備し直すとかすれば、高速に限ってかなり現実的なんじゃないか。高速だと歩行者がいないのでイレギュラーをかなり排除できる。でもそれだと一般車両が混在するのはむしろ非効率だよな。じゃ、一般車両は高速から排除するか。おい、これ鉄道と何が違うんだ?だいたいここまでやってせいぜい長距離トラックの運ちゃんをリストラできるだけじゃねぇか。
自動運転ってのはF1や超音速旅客機と同じで(原発もそうかもしれない)、ただの技術の祭典にとどまって廃れるんじゃないかね。技術的には実現したけど、実際的に運用するには危険すぎたり、オーバースペックすぎて採算合わなかったりして廃止されたロストテクノロジーとして。歴史上そんな技術はいくらでも存在するんだし。
整理したくなっただけなので、そんなこと皆わかっとるわいと思うかもだけど勘弁してね。
ある属性・集団の人間に対して、その属性であることを理由に不当な扱いをすれば差別である。
ある属性・集団の人間に対する偏見を語ることは、その偏見を持たない人からすると白い目で見られる。
例)男は××、老人は××、最近の若いのは××、関西の人は××、東京もんは××、金持ちのボンボンは××、貧乏人は××、高卒は××、院卒は××
偏見を語る対象の属性・集団が被差別を受けている実情・過去がある・被差別属性である
という社会的合意がある場合は社会的に糾弾される。差別的言動であり、差別意識が表出したと見られる。
例)女は××、○○人種は××、etc(あまり具体例だしすぎるのもよくないので)
上記において、その偏見を語る話者が制度を決定する、人を雇用する、採用するなどの権力者の位置に近い場合、
差別意識があるということはその意識が実際の人間・集団に対する意思決定に影響させたと見なされる場合がある。
・一切外部に表出しなくとも、差別意識を内心に持つ時点で差別者であると認識する人
・立場のある人間が差別意識を表出するのは具体的差別に限りなく近い、すなわち差別であると認識する人
・具体的・実際的な差別のみが差別であり、内心の偏見・差別意識の表出は差別そのものではないと認識する人
・その上で、だから表出して良いと認識する人と、表出すべきでないと認識する人
・差別と呼ばれるものは正当な評価であり、糾弾されるようなことではないと認識する人
ぐらいに分かれるのかな?当然グラデーションはあるとして。
なわとび:600回
ボクシング:159kcal
徒歩:227.9kcal/7639歩
3日連続
岩波新書の中国史の一巻を読んでみたらわりと制度史的な記述が中心でやや面食らった
確かに新書の紙幅で長大な中国史の全貌を一端なりとも描こうとするならばダイジェスト版をやるよりもウルトラロングスパンで歴史を眺めて、そこから見えるものを描いたほうが意味があるなあとは思う
中国、割と初期から官僚制が発達してきたので、富裕層はいても貴族と呼べるような存在はなかなか生まれにくいのが面白いところ
広大な面積を統治するには貴族制ではうまく行かないということだろうか
袁紹が名族を連呼するのは代々官僚を排出する家柄はあっても、貴族の家柄というのは存在しないからだったんだな
てっきり日本の九州みたいな九つの地域の概念があるのかと思っていたら、そうではなくて数千里四方(サイズは時代によって変わる)の正方形の土地を1州として、9個四角く並べた概念上の中国の範囲が九州なのだそうだ
そういう代物なので、九州は実際的な行政上の単位として使われるようなものではなくて、すごくざっくり中国全土を指す言葉らしい
そもそも女子スポーツの意義とはなんなのかって考えると、男子アスリートとはついてる内臓に差があって筋力や骨量で傾向が違うので分けられたカテゴリで勝負することにしたってことだと思うんだけど、トランス女性が女子スポーツで戦う意義はなんなんだろ。
もともと男子のポテンシャルがあるけど男子カテゴリでやりたくない理由はなんなんだろ?ホルモン量とかで勝てないからなのか、女性としてのアイデンティティを大事にしたいので女子のカテゴリでやりたいのか。
特に個人競技で、スポーツをやる上で性自認ってそんなに影響するんかな。
肉体的にさほど差がないなら別に男子カテゴリでやってもいいという女子はいると思う。永里優希みたいに、どうも私は女子スポーツでは物足りないんで男子カテゴリでやりますわという選手もいる。
昨年、小説を書き始めた。
なろうで更新すると、1日800人くらいだけど、確かに読んでくれる人がいて、嬉しいなーとか思いながら、ちまちま書いてた。
で、今度はちょっとエロ小説が書きたいな、と思ったので、正月休みを利用して書いてみた。
わたしは人に読まれるとうれしい。じゃあ自分がどんなウェブ小説を読むかというと、うん、エロ小説だな!という結論に達した。
あとやはり、自分にとって最もエロい小説を書けるのは自分なのでは!というごく当然の発想もあった。
そして13000字くらい書いてみたところで、一旦読み返してみた。
…13000字まで、ほとんど指1本触らない。
ほとんど概念と、関係性だけで推し進められる観念的エロ小説が展開されていた。
現にそれでめっちゃオナニーした。でも、そうやって1回落ち着いてから読み返してみたら、13000字の観念的エロがそこにあった。
いや、いいんだ、と自分に言い聞かせた。ウェブ官能小説をオカズにする女たちはきっと、たいていが概念と関係性とエモでヌいているんだ!と。少なくともわたしはそうだ。
SM調教ものなら、Mの方が葛藤の末屈辱に震えつつもひれ伏す場面がクライマックスであり、そのあとに繰り広げられるあれやこれやのプレイングや本番的行為は蛇足でしかないんだ!と
言い聞かせた…
でも、まぁ、そんなわけないよね。
ふつう、一般的にみんなは、このあとあれやこれやの実際的行為を期待するわけだよね。
でもわたしは電池が切れてしまった。そして少し不安になった。こんな観念的エロを理想のエロとしてヌいているわたしは大丈夫なのかと。
そこで質問ですが、みなさんは観念と関係性とエモでイけますか?
それにしてもエロ小説は(劣情的)電池が切れるまでしか書けないので1日13000字/6時間が限界ですね。大変な分野を志してしまった。。
寛容であれ、と他人をコントロールすることはできないし、他人をコントロールしようとするのは良いことではない(実際的には必要悪ではあるが)。
単に居心地の良いコミュニティにしたいのであれば、コミュニケーション方法が似ている人を集めることだ。コミュニケーションのコストは高いのである。人間の脳は基本的に怠け者だ。コストが低いほど心地よく感じる。
ただ、同質化をやりすぎると長期的にはコミュニティが発展しなくなり皆で不幸になる。今の日本の企業の大部分のように。長期的、あるいはコミュニティの視点からすれば多様性が有ったほうが望ましいが、短期的な個人の視点からすれば同質的な方が快適だ。
人間、合う合わないはどうしたってある。皆が仲良く幸せに、というのは実現が困難であるからこそ理想として語られる。
不和を為す人がいるのなら互いに物理的に離すことをお勧めする。互いに見えない位置になるだけで平穏はもたらされるであろう。
経験上、物理的に離す以外の方法はうまく機能しなかった。仲裁して一時的に収まっても長期的には無理だった(別の方法があれば教えて欲しい)。
熊本市電がこの9月14日より女性専用車両を導入したところ、15日朝までに「男性差別だ」などの意見が88件寄せられた、というニュースを読んだ。
こういうニュースを見るたびにもやもやした気分になるので、自分の意見を文章化して残しておきたい。
「女性専用車両が男性差別なのか」うんぬんはどうでもいい。そんな議論をいくら続けても徒労するだけで益がない。それよりもっと実際的な解決策を模索するべきだ。
私が毎度、疑問に思うのは「なぜ、鉄道会社は女性専用車両と同数の男性専用車両を作らないのか」ということだ。
今回のことだって「9月14日より車両のうち、1両を女性専用車両に、1両を男性専用車両にします」と発表すればクレームなんかほとんど来なかったと思われる。
女性専用車両にわざと乗り込むような男性もいるらしいが、そいつらだって女性専用車両と同数の男性専用車両を用意すれば「女性専用車両は男女差別だ」という活動根拠を失っておとなしくなるんじゃないか。
私の個人的な感覚ではあるけれど、女性専用車両にまつわるいざこざのほとんどは「女性専用車両だけ」が存在することに起因している。同数の男性専用車両を作れば、くだらないクレームやもめごとの数は大幅に減少するはずだ。
なのに、鉄道会社は頑なに男性専用車両を作ろうとはしない。ちょっとこの意固地さについては理解不能な域に達している(鉄道会社だってクレーム受けるの嫌だろうに、なぜそうしない)。
私はフェミでもアンチフェミでもないが、現在の女性専用車両関連の状況は客観的に見て「男女差別が行われている」と言わざるを得ない。
公共機関(私鉄であっても鉄道は公的なものだろう)に女性だけが乗れる車両があるという状況はやはりよろしくない。
もちろん、女性専用車両の導入経緯には様々な歴史的・社会的背景があるのだが、あくまで現状を形而上学的に見ると普通に男女差別である。
(それが理解できないという人は性別を入れ替えて、「男性専用車両だけがある鉄道」を想像するとよい)
鉄道各社は速やかに男性専用車両を作り、状況を改善すべきではないか。
鉄道はただの乗り物ではなく社会インフラである。鉄道会社は金さえ儲ければいいというものではなく、社会を安定させ正しい方向に導く社会的義務があるはずだ(もちろん鉄道会社だけでなく、本当は全ての会社がその義務を持つのだが)。
鉄道会社が社会の分断を煽ったり、人々の怒りの原因になるものを放置することは厳に慎まれるべきことである。
私は「男性専用車両を作る」という比較的安価で簡便な解決策があるにもかかわらず、男女の分断を煽っている一因である女性専用車両問題を放置している鉄道会社に強い違和感を感じるのである。
増田が人間はほかの生物とは異なる特別な存在と分類するのは自由やで。なぜなら趣味だからだ
前半の略した部分も貼っておくね
単なる趣味だから自由でいいんですけど、“人間は動物である” という当たり前の視点があってもいいのではと思いました
増田が行いたいことが「マーケティング」や「自身の印象管理」であるなら、“人間は動物である” という視点は不要で、
人間の文化・社会を眺め、ある程度 確立されている手法に従えば、プロでなくとも限定的な効果は得られるとは思います
パソコンの仕組みを理解していなくてもパソコンを使えるのといっしょですね
増田やネットで自己肯定感がーとか承認欲求がーとか言うのをやたらめったら見るので
それをきっかけに “自己について” “生物について“ テキトーに雑に考えてみたんだけど面白くはあると思う
ごはん食ってうんちして寝て起きてをしている中で、それらを考えようなんてきっかけは発生し得ないからね
もし、わたしがコロナに罹患したら、職場は閉じるか開けるかの判断が迫られる、同僚たちも検査を受けなくてはいけなくなるかもしれない、クラスターになろうものならもっと大変だけど、もし感染をさせていなかったとしたって検査結果がでるまでの数日間は職場を閉じる必要がでてくる、そしてその判断のための労力や、もし閉じたとしたら実際的な損失のことを思うと、現実的に職場に対して迷惑がかかるわけで、なるべくそのリスクを減らさなくてはいけないというのが、まあ社会人として、組織の中の人間としての常識的な判断だと思う。でもしかし、現状いつどこでコロナにかかるかというのは全くわからなくて、正直いつかかってもおかしくないわけで、コンビニで、昼食で、満員電車で、毎日の買い物で、見えない菌を自分が完全に避けられているとは到底思えないのです。いま、罹らないでいるのは、たまたま近くに罹った人がいる、という状況がなかっただけで、それはもう運としか思えない状況にあって、正直なところ、わたしたちが気にしているのは、コロナに罹ることというよりも、罹ったときに、その行動を責められないようにすること、なのである。つまり、友人に会ったり、飲み会に行ったり、旅行に行ったり、観劇したり、といった、自分が楽しいことをして、罹ったときに、なんで我慢できなかったの?って怒られたりしたくないなーみたいななんとなくそんな気持ちが自粛のモチベーションです。まあ言葉としては怒られなかったとしても「やれやれ」みたいな冷たい目になっちゃったらいやだからね。世間からの誹謗中傷とか、生命の危機とか、あと医療機関の皆様に迷惑が掛からないようにとか、そんなだいそれたことじゃなくて、職場に迷惑かけたらやだなー怒られたくないなー、という涙ぐましい社会人としての性質、みたいなものです。
かといって、わたしは自分の感覚で、怒られたくないなっていう自粛をしてるけど、強制的な制限もあるわけではないから、あたりまえにそれは個人個人によって違うわけで、個々人の按配でやってくださいね、経済もまわしてくださいね、注意もしてくださいね、旅行もいってくださいね、でもかからないようにしてくださいね、かかったら注意が足りなかったんだと思いますよ、みたいに言われ続けるの、なんなんだろう。まじでなに。
わたしの世界には、仕事と仕事以外があって、勤務時間は仕事を一生懸命やるけど、正直なところは、勤務時間外は仕事にしばられたくないんですよね。勤務時間以外のともだちとの食事まで上司に指示されたり、管理されたりするなんて、これまでだったらありえないことで、やっぱりそこに居心地の悪さを感じてしまう自分がいて、ほんとうはそんなこと口出しされたくない、と思う。それに、飲み会に行ったり、旅行に行ったり、観劇したりという、もしそこで罹患したときになんとなく責められてしまいそうな「不要不急」と呼ばれるものだって、それを成り立たせるために、それを仕事としている人がいるわけであって、で、そのひとたちは現状収支が成り立たないくらいひっ迫していて、わたしが後回しにしているうちに、きっとどんどん失われて行ってしまうんだろう、お店も、舞台も。自分の好きなものや大切にしていたものをずーっと我慢してるうちに、好きなものはどんどん失われていく。
この生活がどれくらい続くのか、あと1年なのか、5年なのか、もしかすると一生?と思うと、はー、こんな無理ゲーみたいな世界で生きていかなければいけないことがつらい。政府って、国って、こういうときなにかしてくれるんですかね?助けてくれないんですかね?まじで。
■自己肯定感を分解する
> 自己肯定感が高い/低いと言いますが、そもそも自己肯定感ってなんでしょうか。
> とき、不運に見舞われてしまったときに、必要以上に落ち込んでしまう。
> 相互に作用しあってどんどん不幸になっていく(書いていて嫌になってきました)。
> 私はもともと自分を自己肯定感の高い人だと思っていたのですが、最近自信がなくなってきました。
> あなたが自己肯定感の低い人間だと自分を認識してしまっているとしたら、自分を嫌いになれることは素晴らしい才能で、自己愛と共感力の豊かな人間であること。
単なる趣味だから自由でいいんですけど、“人間は動物である” という当たり前の視点があってもいいのではと思いました
増田が行いたいことが「マーケティング」や「自身の印象管理」であるなら、“人間は動物である” という視点は不要で、
人間の文化・社会を眺め、ある程度 確立されている手法に従えば、プロでなくとも限定的な効果は得られるとは思います
パソコンの仕組みを理解していなくてもパソコンを使えるのといっしょですね
しかし、実際的な手法についてはとくに記載はされていないかったので このトラバ 以外もつけてみることにしました
ググれば秒でわかるかと思いますが日本で振り回されがちなマズロー・フロイト・ユングなど 大昔の方々 が唱えたことは
既に化石になっていたりします。一部取り入れられいることも科学的な補強が入ってます
たとえば脳科学とかですね
(なお、いまは局在論ではなく全体論だと思います。また脳腸相関など単一でどうこうではないです。とりあえずヤクルト飲もう)
ストレスを感じる状況・幸福を感じる状況に対し脳がなんらかの反応を示している点については
もちろんそんなことはなくて、脊椎動物の脳や構造、遺伝子を調べると、人間も含めて、共通なものがあることがわかっています
そこで 行動神経科学 (Behavioral neuroscience)、生物的心理学 (biopsychology または psychobiology) なんて視点があったりします
日本でも もちろん様々な研究をやっているので 学生さんや親御さんなら目にする機会くらいはありそうな気がします
そのへんに転がっている科学読み物なんかでもよく出てくる視点ですね
彼ら(動物たち)は 親や同種から称賛を受けなければ 自分 や 行動 を肯定出来ないと考えますか?
あるいはアクション毎に自分自身のことを否定してる個体がいると考えますか?
そもそも彼らが “その瞬間、自分がしたいこと” をするのにそれらは必要になると考えますか?
セックス(性別) に進化の過程で有性生殖になった以上の深〜〜い意味を寄せがちな人がなぞ過ぎる増田でも書いたのですが、
世の中には、詳細については興味が無くとも、“経験から知っている” ことってあると思うんです
たとえば、負の経験の学習 (動物が嫌なことを避ける学習・死の危険を避ける学習) ですね
負の経験の学習についてはみんな経験して知っていると思うので、実は記憶って遺伝するらしいですよとだけ補足して、
まとめたいと思います
○ 関連増田
私は都内の理系大学に通う4年生だ。大学へは1時間半かかり、一人暮らしすべきか悩むラインなのだが、この距離なら実家から通う方が格段に経済的なので、実家暮らしのまま大学も4年目に突入した。
実家暮らしは快適だ。衣食住は保証されているし、幸いなことに両親の仲も良い。金銭的にも、一人暮らしだと毎月数万の家賃+光熱費+食費がかかるのに対し、実家暮らしなら毎月せいぜい1万円の定期代しかかからない。一人暮らしだとバイト代からある程度の生活費を補填する場合が多いが、それもしなくて良い。
実家暮らしは最高!と信じ続けていたのだが、去年あたりからそれのほころびに気がつき始め、このコロナ禍でいつにもまして自宅にいることが増えた今、確信するようになった。これは、茹でガエルになって腐っていくやつだ、と。
タイトルは、自分の状況を見て「理系男子+実家+一人っ子」という組み合わせにしてみたが、実家に住んでいればある程度は誰にも起こりうる話だとは思う。しかし、この組み合わせは特にたちが悪い。
一人っ子だときょうだいがいる場合よりも家族から寵愛を受けて育つ、というような話は私には検証しようがないので分からないが、家庭内で近い世代の人がいないことで、家の外で同級生などとコミュニケーションを取りづらくなる、というのは実際起きることだと思う。親との接し方は、きょうだいとの接し方とは異なるわけで、一緒に遊んだり、時には争ったり揉めたり。一人っ子だとその経験が皆無だ。小学生の頃も、友達の家に遊びに行って兄弟喧嘩を目撃すると、これはマズいことになったな…と本気で心配したりしていた。そのような「雑な」コミュニケーションの取り方を覚えられずに成長してきてしまったのだと思う。例えば、友達に連絡する時もダル絡みのように、用件もなくLINEを送る、なんてことはまず考えられない。何かちゃんとした用件がないと連絡しても煙たがれるよな、と想像してしまう。(それでも、ありがたいことに何もない時でも比較的気軽に連絡できる友人が何人かはいる。本当にラッキーなことだ)その結果何が起きるか?LINEをほとんどしないのである。現代においてそれは、交友関係の狭さに直結する。
また、一人っ子で実家暮らしの際のもう一つの実際的な問題として、両親に行動をほぼ完璧に把握されてしまう、ということがある。例えば夕飯にしても、きょうだいがいれば毎晩ある程度の余裕を持って夕飯を作るだろうが、一人っ子だと毎日、今日は夕飯は家で食べるのかと確認される。そして現代の東京では、「遊ぶ」は多くの場合「食べにいく」「飲みにいく」ことを意味する。これだと突発的に友達と食べにいくこともなかなかしづらい。また、私はほぼ下戸である。「衆人皆酔えるに、我独り醒めたり」だ。テンションについていけない場合が多く、周りが酒の勢いで盛り上がっていても特段楽しくもない。
また、休日の行動も、友達と出かける場合は家にいないわけだから、どこかに行っていること自体は筒抜けだ。また、母親がやけに勘が鋭いのと人間関係の記憶力が良く、私がいくつか的確な質問に答えてしまうと、自分の周りの人間関係を如実に把握されてしまう。相手の性格やステータスなどについての評価を下されることも多く、居心地悪いことこの上ない。これも、きょうだいがいて親の関心が分散されていれば、実家暮らしだとしてもこれほどではないのだろうと思う。神経質な私は、交遊は無難な範囲に納めておこう、と無意識のうちに決めていたようだ。
そしてこのような状況は、恋愛関係の問題になってくると致命的となりかねない。
結局この4年間で、女性と正式に付き合うことはできなかった。まず、デートするための口実づくりのための心労が半端ではない。休日に出かけるとなると、大抵の場合、誰と会うの?などと親に聞かれる。そこで、「おんなのこと二人で遊びにいく!」なんて言おうもんなら、相手はどんな人か、どんな家庭か、写真見せてくれ、などと質問責めに合うことだろう。(実際に言ったことはないので分からないが。さすがに少しは気を利かせてくれるとは期待したいが、わざわざ確かめたくはない。)なので、デートの約束が取れた時は、親には適当な友達の名前を出しつつ、あまりにお洒落すると突っ込まれそうなので、友達と会う時にも着そうだしデートでも通用しそうな組み合わせの服を頑張って揃え、親に言うアリバイはどうしようかな、と考えながら家を出る。ストレスがすごい。そこまでしてもなお、勘の鋭い親にはデートに行っていることを見抜かれているのだろう。だったら自分から言えばいいのだろうが、この微妙なバランスを崩したくがないために、デートのたびにこういう流れになるのだ。
ところで、あまり口達者ではなくても、イケメンというわけではなくても頼れるテクニックとはなんだろう。そう、酒の勢いだ。酔いが回ってくれば、ちょっと恥ずかしい話だってできるし、そのまま話し続けて夜遅くなれば、じゃあこれからどうしよっか…ともなるだろう。しかし自分は下戸なのだ!そして、「今日は泊まってくる」なんて家に連絡できるわけがない。付き合えたところで、そういった困難がデートのたびに起きるのが予想できてしまうと、こちらも消極的になるわけだ。
単純接触効果というか、男女同士で定期的に会っているだけで好感が生まれ、好意に発展することもあるだろう。ところがどっこい、理系の学部はほぼ男子校なのだ。あいにく私は異性愛者なので、キャンパスライフを楽しんだところで恋愛的な出会いはほとんどない。いわゆるインカレ的なサークル活動もしてこなかったので、そもそも同年代の女性と会うことがほとんどないのだ。
そして今、問題は新たな局面に入った。感染症の蔓延により、自宅待機を余儀なくされているのだ。なに、「どうせみんな自宅待機なんだから、実家でも一人暮らしでも変わらなくない?」だと?甘い。世の一般的な一人暮らし大学生は、既に夜な夜な飲み会に出歩き、コロナなんて気にせず外出しまくっているのだ(私見)。コロナを広めにいくような行動はやめろよ、とは思うが、納得できるところはある。若者は統計的には重症化率が低く、感染しても軽症で済む場合がほとんどと知られている以上、一人暮らしで親と接する機会がなければ、普通に出歩くのもうなずけるのだ(大局的に見ると、重症化のリスクが高い人にまでウイルスの蔓延を広めているので、大いに賛成はできないが)。しかも、コロナで客足が減った飲食店や施設は空いているし、割引をしていることが多い。このチャンスを逃すのはもったいない、と思うのがむしろ自然だろう。しかし実家暮らしで生真面目な私は、自分から親にウイルスをうつすなど考えたくもない。そうなると、感染状況が落ち着くまでは、友達とカラオケや密な飲食店に行くこともしたくない。また、実家だと電話するにも家族に気を使わないといけない。深夜には話せないし、自室で話していても声が漏れるので、軽い雑談はできても、ぶっちゃけ話やゲスい話など、本当に盛り上がるような話は決してできない。
…………………分かっている。こう書いても、「結局はあなたの社交的な性格の問題でしょ?」と思われることは。性格がもっと外向的だったら、もっと要領がよければ、同じ環境でも全然違う状況になれるのかもしれない。しかし、環境が人を作るとも言う。この状況でどうしたら穏便に暮らせるか無意識に最適化した結果が今の性格、今の状況なのかもしれない。一人暮らしを始めれば、このような足かせから解き放たれるのかもしれない。
しかし、もう遅い。大学生活は終盤に差し掛かり、どうせコロナは年をまたぐであろう。実家引きこもり生活は卒業するまで続き、修士に進学するのでそのまま2年間続くかもしれない。今からでも、少し無理してでも一人暮らしをしてみた方がいいのかもしれない。環境が人を作るのだとしても、人が環境を作ることもできるはずだ。
もしタイトルに書いた条件があなたにも当てはまるなら、ぜひ私よりもマシな大学生活を送ってほしい。実家が近くても、一人暮らしができそうなら、ちょっと背伸びしてでもそうした方がいい。実家暮らしになるのであれば、自由度を増やせるように、早いうちから終電での帰宅などを繰り返して、自分が外出していても親に気にされない状態を作りだそう。そしてそして、女子と会える場をなんとかして見つけてほしい。
anond:20200609071250 はそのように書くべきだ。
何故なら、彼が(彼女が?)「子供を性的にみる内心の自由はない」と主張するための根拠として示される以下の事柄は、「子供を性的にみる」かどうかに拘わらず、すべての内心の自由に該当する事柄だからだ。
憲法19条で保障されている内心の自由は、国家が内心に干渉することを禁じる規定で、私人間では適用されない(三菱樹脂事件最高裁判決)
従って、「内心の自由は私人間では適用されない」事が或る内心の自由(子供を性的にみる内心の自由)が無い事の根拠になるならば、
「内心の自由は私人間では適用されない」事はこの世のありとあらゆる内心の自由が無い事の根拠にならなければならない。
これがいくら可笑しな主張に見えても、論理的に考えればそうなる。
では何故そうなるのか?選択肢は2つ。「直観と反していても「あらゆる内心の自由は無い」は真である」か、「前提が偽である(背理法)」か、どちらかだ。
その後の文は数値は出るものの結局は抽象論に終始していて余り意味が無い(ついでに言えば、増田に付いたブコメも同様)、そもそもあなた達は、具体的にどうしたいのだろうか?
児童性愛者であることが判明した人物は直ちに強制的な”治療”と”隔離”を受ける社会へと現在の社会を変えたいのか(「子供を性的にみる内心の自由はない」という強い表現が有意味である為には、その位しなければ成り立たない=そこまでしないなら「子供を性的にみる内心の自由はない」を成立させられない、と思うのだが)
あるいは児童型のラブドールの製造を規制したいのか、それとも児童性愛者に罵声を浴びせても正義である社会にしたいのか、イラストや虚構も含めて児童の性を思わせる表現(直接的でない場合も含めて)を規制したいのだろうか?
なんというか、具体的に何をやるのかを伏せて、「子供を性的にみる内心の自由はない」などと曖昧な事を主張して印象を上へ下へ動かしてみたところで、実際的には何も言っている事には成らないのではないかと思うのだが、どうなのだろう?