はてなキーワード: 大往生とは
私の願いはたったそれだけなのです。
風邪を引くことも咳をすることも筋肉痛になることすらない身体で暮らしたいのです。
そしてただの1秒も誰かに強制された行為をすること無く自分の思うままに己の人生の全てを使って生きていきたいのです。
かような暮らしをする上において必要とされるあらゆる資金を一切の労働や経済活動を行うことなく手に入れたい。
そうして無病息災酔生夢死のまま齢百歳を超えるかどうかの所である日電池が切れるように極楽浄土へ大往生させてくだされ。
たったそれだけの願いがなぜ叶わぬのでしょうか。
英雄になりたいとも願いません。
人に愛されたいとも考えません。
ただ一切の肉体的な苦しみのないままに一切の時間高速をされることのないままに生きていたいだけだというのに。
なぜこんな細やかな願いすらもこの世界では叶わぬのでしょうか。
君は最高のキーボード「Realforce」を知っているか。東プレ製の、1枚2万円近くする超高級キーボードだ。このキーボードは、とんでもなく高くて、とんでもなく打ち心地がよくて、とんでもなく頑丈で、そしてとんでもなく愛おしい、最高のキーボードだ。
俺とRealforceの出会いは、中学2年の夏だった。パソコンオタクでFPSをやっていた俺は、ゲームで強くなるために良い周辺機器を買おうと思った。ネットで情報を調べているうちに目に止まったのがRealforceだった。そのキーボードは地味な見た目で、特別な機能があるわけでも無ければ、デザインがいいわけでもなかった。しかし打ちやすくて頑丈だという評判だった。価格は2万円。中学生にとっての2万円は、大人にとっての20万円に相当する。とんでもなく高価な代物だ。しかし、地味だけど上質な道具というものは、時に厨二心をくすぐる。俺は悩んだ末、貯めておいたお年玉をはたいて通販でRealforceを購入した。選んだのは黒くてテンキーのない日本語配列のものだった。数日たってRealforceが家に届いた。始めて触る高級キーボードは、評判に違わない打ち心地だった。ザラつきのないなめらかな打ち心地。羽根のように軽いキー。指を動かすたびにコトコトと心地よい感触が伝わる。考えたことをそのまま文字にしてくれるような、体験したことのない感覚だった。今までキーボードを打つなんて面倒でしかなかったが、Realforceを買ってから、キーボードにもっと触っていたいと思うようになった。俺はタイピングゲームにのめり込むようになっていった。
パソコンオタクだった俺は、パソコンの勉強なら楽しいかなと深く考えず情報系の学科がある高校に進学した。高校の偏差値はべらぼうに低かった。俺自身、顔面の偏差値も低かったし、友達も少なかったし、スポーツも出来なかったから、自分に自信がまったくなかった。2年生になると、情報の授業でタイピングをやるようになった。コツコツとRealforceでタイピングの練習をしていた俺には、授業のタイピングは楽勝だった。周りの生徒が100文字打つ間に、俺は打ちづらい学校のキーボードで500文字打った。しかし、俺はクラスで一番タイピングが早かったけど、それは周りのレベルが低いだけでタイピング界隈では決して早いとはいえないレベルだった。だからそんなことでは自信はつかなかった。ところが2年生の時、俺のタイピングを見た先生に、君はタイピングが早いからワープロ部に所属してタイピングの大会に出ないか、と誘われた。部活なんて面倒くさかったが、大会に出るのは面白そうだと思って承諾した。次の日から俺は、パソコンオタクがひしめくワープロ部にRealforceを持って通うことになった。家に帰ってもやることはなかったし、友達も大していなかったから、俺は毎日放課後にパソコン室に行って、2時間くらいタイピングの練習をしてから家に帰る生活をした。Realforceで文字を打つのは好きだったから、練習はあまり苦にはならなかった。高校3年生のある時、俺はタイピングの県大会に出た。初めての大会だった。紙に印刷された文章をタイピングし、10分間で何文字打てるかを競う大会だった。キーボードの規定はなかったから、当然自分のRealforceを持ち込んだ。大会に出るといっても入賞する気なんて全然なかったが、なんと俺はその大会で優勝してしまった。ダントツの文字数だった。コツコツ努力し続けた結果、いつの間にか県で一番になっていたのだ。高校生だけの小規模な大会とはいえ、県大会で優勝するという経験は、自分にとって圧倒的な自信に繋がった。この自信を与えてくれたのは、紛れもなくRealforceだった。タイピングが早いからって飯が食えるわけではない。でも、Realforceは、ちっぽけな自分に自信を与えてくれた。
俺は高校を卒業し、大学に進んだ。俺は情報系の学科がある大学を選んだ。大学では部に所属してタイピングをすることも、大会に出ることもなくなったけど、タイピングの練習は毎日続けた。大学生になっても、Realforceは常に俺の手元で活躍してくれた。その大学も去年の春に卒業した。パソコンオタクの中学生が、今ではいっぱしの社会人だ。Realforceは、大したことない俺の青春の中で、常に手元にあった。
そんなRealforceが、3日前に壊れた。おそらくもう寿命だったのだろう。基盤が壊れてしまったらしく、文字が入力できない。かなりハードに10年も使ったのだ。改めて見てみると、消えにくいと評判のキーの印字がすっかり薄くなっていた。これだけ使ったのだから大往生なのだろうが、壊れてしまったのだと悟った時、涙が出た。始めてRealforceを触って感動したとき。FPSで敵キャラを撃ち殺したとき。タイピングゲームで良いスコアを取れた時。掲示板で相手を論破したとき。大会で優勝したとき。徹夜で大学のレポートを書いたとき。今の会社のエントリーシートを書いたとき。増田で仕事の愚痴を書いたとき。最高の道具として、最高の相棒として、Realforceは俺に付き合い続けてくれた。Realforceが無い人生は、どんなものだっただろう。想像もつかない。
昨日、新しいRealforceが届いた。見た目は相変わらず地味だった。見た目からは2万円もするキーボードだとはとても思えない。でも、俺はこのキーボードが最高の道具であることを知っている。黒くてテンキーが付いた英語配列の新しいRealforce。文字を打ってみると、同じ打ち心地の製品のはずなのに、まだ違和感がある。でも、すぐに気にならなくなって、新しい俺の最高の相棒になってくれるだろう。(所要時間7秒)
ある程度覚悟する期間があって、「よく頑張ったねぇ」「大往生だねぇ」と終始和やかな雰囲気だった。
久しぶりに会った人同士が、弁当をつつきつつ、ついでに骨も拾うか〜ぐらいのノリ。
祖父の人柄かもしれない。
でも、私は泣きわめきたいほど悲しくて、それを表に出せないのがすごく苦しかった。
祖父の死に顔は、生きてる時とは全然違って、気味が悪くて、マネキンみたいで怖かったのに、親戚のおじさんに
「やあ、安らかな顔してるねぇ」
なんて言われて、母も
「ええ、ほんとうに」
なんて言ったりする。
その横でビールを注いだりしていると、悲しい悲しいって思うのがひどく場違いなような気がして、そんな雰囲気がすごく気持ち悪かった。
別に参列者が祖父や遺族のことを蔑ろにしているわけじゃないってことも、祖父が涙涙のお葬式を望んでいないことは理解している。
けれど、参列者がみんな、悲しさを隠してニコニコしているのが異常だと思った。
自分の両親が死んだ時、「和やか」なお葬式だったらもっと苦しいだろうと思う。
母ぐらいの年齢になったら、割り切れるんだろうか。
よくわからない。
私が気づいていないだけで、「和やか」だったお葬式の後、母がちゃんと悲しみを発散できていたらいいなぁと思っている。
じいちゃんが死んだ。90近くまで生きて、死ぬ時もぽっくりの大往生で、ここまでは良かった。
大変だったのはそこから。火種なんて全く見えなかった我が一族にも相続問題が勃発した。
長男夫婦は、「長男として家を継いで欲しいと、昔からずっと父から言われていた。」と主張し、次男夫婦は「長男夫婦はたまに来てご飯を食べたり掃除したりするだけで、毎日世話をしてたのは近くに住んでいた私たち。それに実は死ぬ少し前に父から『やっぱり家はお前に頼む』と言われていた」と主張している。
それに対し長男夫婦は「そんな話は聞いてないし、そんな話があれば父が自分たちに言わない筈がない。次男夫婦は嘘つきだ。」と(心の中で)反論。(弱いww)
大した家柄じゃないので、家を継ぐ継がないっていうのはどうでもいいっていうのは分かりきってて、要は遺産の話。
じいちゃん普通のリーマンだったけど、先祖から継いだ土地が少しあるのと預貯金が数千万ある。(本当老人は金持ちでいいよね。じいちゃん戦争に行ってたし、公務員だったから年金40万近く貰ってた。)
まだ預貯金と、家以外の土地をどうするかの話し合いはしてないみたいだけど、葬式の喪主は押し切って次男が務めたし、じいちゃんの家も次男夫婦が継ぐことで確定してるみたい。
このまま行くときっと預貯金も次男夫婦が多くを持っていきそうな感じ。
結構すげーな、と思ったのがじいちゃんの葬式も長男が受取人になってたじいちゃんの生命保険金で挙げた
んだって。次男は「父にやっぱりこれはお前にやるって言われたからこれを使わせて貰う」って言ってたけど、それは流石に嘘っぽいかな。
自分としては自分が貰える訳でもないからあんまお金の行き先に興味もないし、兄弟で何やってんだよくだらねーなと思うけど、一つ言えるのはこんなんで兄弟の縁切れたらじいちゃんまじ悲しいだろうなー。草葉の陰で泣いちゃうよ、じいちゃん。
なんかこれを契機に出るわ出るわお互いの愚痴って感じでそれを聞くのも結構エグい。自分は長男夫婦の子供なんだけど、叔父さんも叔母さんもすっごくお世話になったし、大好きだし、いい思い出しかなかったから。
従兄弟の結婚とか将来お祝いしたかったけどなー。もうなんか笑顔で一同会することはないかもなって感がムンムン。
「近くに住んでて、どれだけ金持ってるかを肌で感じてたら人間何でもするかもね」って言ったのはまた別の親戚の人。「えっ、次男夫婦が金目当てでじいちゃんに良くしてたって言いたいの?」って聞いたら「悲しいけどね」って言ってた。
そんなことー、切なすぎるー、知りたくなかったー。
「じいちゃん、遺言書書いとけば?」って一言じいちゃんにやっとけばよかったな。
はてなーのみなさん、一回ちゃんと話し合いの場を設けとくといいよ!本当に。うちだってすっごくすっごく(表面上は)ずっと仲良し一家で、まさかうちが!ですよー!
hiruhikoando やっと死んだ。神聖な義務は絶対忘れない。 訃報 渡部昇一 5 clicks
リンク2017/04/18
Cunliffe 曽野綾子がさびしそうなんで早く連れて行って地獄巡りのお供にしてやって欲しい。
リンク2017/04/18
ksaitou 悲しい、もう反日トンデモ活動で躍動する渡部さんを見れないのだから。本当にご冥福をお祈りします。地獄から大川総裁の霊言に出て国民に最後の声をください。 訃報
リンク2017/04/18
kyo_ju 死後さばきに遭う 訃報
リンク2017/04/18
agricola なに自宅の布団の上で大往生してんだよ。6年前「福島には老人が行けばいい」とかほざいたクズどもには、ふくいちで重粒子線浴びまくる以外の死に様は許されないだろうが。 死もまた、社会奉仕
リンク2017/04/18
edo04 大西巨人に対する差別は忘れない。はっきり言う。やっと死んだか。日本に害悪しかもたらさなかったな。「平成27年、瑞宝中綬章。」←こんな奴に勲章とはさすが安倍。 トンデモ 80 clicks
リンク2017/04/18
日頃から日本は終わってるだの日本人は人権後進国民だの説教してるけど
自分等はこういう異常な憎悪や凄い言葉を漏出させて疑問も持たないんだもん
死んだ人の知能や人格をどうこう言うならあなたたちはどうなんですかということ
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.sankei.com/life/news/170418/lif1704180003-n1.html
http://www.sankei.com/life/news/170418/lif1704180003-n1.html
よく不幸だとか底辺だとか増田は問題にするけど、結局どうなりたいの?
健康でいて、衣食住に困ってなくて、比較的暖かい気候の土地で木造の北欧住宅に住んでいて、近くに湖畔があって植物も豊富なの
陽は暖かく天気のいい日は外にテーブルを持ち出してそこで家族そろって食べる
俺と奥さんと息子と娘の4人で笑いながら食卓を囲んで飯を食う
俺の両親はもう死んでしまってるけど、大往生していて写真とか飾ってあんの
仕事行ってくるーっていって山で適当に薪を集めて街に売りにいくだけ、誰にでもできる仕事
家に帰ると家族が待っていてみんなで夕食を食べて満足して奥さんと一緒のベッドで眠る
きっと寝る前に神に祈りを捧げているんだろう
それ以上のものは必要なくてただ家族があってお互い愛し合って楽しく朗らかに健康的に暮らす
そんな暖かくて全てから許されたような生活が俺のイメージする幸福です
社会に出れば心の中で悪態ついたりあれが欲しいこれが欲しいと思っても
本当に欲しいものは手に入りません、一生
なのでもう諦めました
もし宇宙が生まれ変わったらこんなイメージの幸せな世界に生まれ変わりたいです
それくらいが唯一の希望です
とうとう婆ちゃんが亡くなった。
思えばここ10年くらい死ぬ死ぬ詐欺を繰り返してきたけど、今度は本当。残念だけど。
97歳、老衰、ホームで看取られての大往生、死に方としては理想だと思う。
でも先週発した(と教えてもらった)「まだまだ生きたい!」
という言葉の裏はどんな心持だったんだろう?なんてふと考えてみる。
だから今生切だと思えば、周囲の人間と別れるのが寂しく、といったところなのだろうか。
なんとなくそれが当たりだとは思う。
爺さんと死に別れて60年以上経っていて、あちらで再開といってもピンとくるはずも無く。
それでも振り返ってみれば、ひ孫を7人も見られていること、金銭的な不自由は経験していない、
と、事故で爺さんに先立たれたことを差し引いても幸せな人生だったと思う。
婆ちゃんの魂みたいなものは存在しなくて、もう完全にこれきりだと思うとやっぱり寂しい。
ここ1,2年は衰弱が激しくて、記憶の中にある婆ちゃんとはだいぶ違ってきてたけど、
もうそんなに長くないとは思っていたけど、いざその時が来るとやっぱり実感が湧かないや。
思い出そうとすると浮かぶのは、こたつで一人パズルに勤しむあの姿、
テレビを見て、あと俳優が好き、あの女優が嫌い、とぶつくさ文句をいう様、(基本イケメンが好き)
もうちょっと老成したら?なんて小学生の頃から思っていたりはしたけど、
そういうところもひっくるめて好きな婆ちゃんでした。
もしもあちらの世界があるのなら、いつかまた会いましょう。
nekoraがいなくなって、彼のブコメを忘れてしまう人もいるんじゃないでしょうか?
ですが、nekoraはかの名言メーカー野原ひろしのように数多くの名言を残しています。
改めてそれを振り返りましょう、みなさんも思い出したらブコメやトラバしてください。
「見つめてるだけじゃ、ノンノン、届かない」
「散文的に時には詩的に」
「そこに人がいなくちゃ街は空虚な箱さ」
「うまく言えない、うまくできないこと、夢中で睨みつけた鏡の向こう」
「開けた窓から空に尋ねた、俺たちこの夏どうなんだい、ねえ」
「君は隣に座った、当たり前のようにね、偶然であったから送ってあげるだけさ、仲の良い友達だと自分に言い聞かせてる、カーブきるたびに揺れてる君の長い髪」
「止めないで君の呼吸、時は戻せないけど、運命はこの手の中、動き出すから」
「昔の恋人のくれた目覚まし時計を何度言われてもずっと使ったの気にいらない」
「頭の中お花畑だとか少女漫画だとか、なんだってどうだっていい」
「河原の道を自転車で走る君を追いかけた、思い出のレコードと大袈裟なエピソードを、疲れた肩にぶら下げて、しかめつら眩しそうに」
「今じゃクラブも顔パスなの、ミニスカートがお気に入り、友情の輪って大事だから当然でしょ携帯電話、とても人には言えないバイト、頑張って手に入れたの」
「一人じゃない、僕ら繋がってるから」
「大きくなったならなんになる、たくさんあって迷っちゃうけど、やっぱり白いフリルのドレスをきた、可愛いお嫁さんでしょ」
「状況は悪いが、ただ逃げ出すんじゃ根性ないな」
「仲良し通し見せ合いっこ、少女雑誌の診断、それは恋の病です」
「口ずさむメロディーが思い出させてくれる」
「ほら君の今までが、僕の中にあるから、一人だけど一人じゃない、もう寂しくなんてないから」
「もしもこの世界が消えても、きっと君は、戦いが正義だと信じ走り続ける」
「君の瞳の中、生まれたばかりの、夢へのかけらを、強さに、変えてゆけ、時代に飛び込む勇気のダイバー」
「元気でねー、頑張ってねー、手紙書くねー、たまにあえるかよねー、なんでかな寂しいのに寂しいよ、と言えなかった」
「いつも探してる、みんな歩いてる、けれどまだどうにも見つからないことばかり、だけど探してく、だけど歩いてく、誰もがみなそれぞれ自分生きている」
「シフォンケーキにカスタード、スコーンにクロテッドクリーム」
「そっとファインダー覗いたら、想像よりずっと遠くに君がいる気がした」
「街の人混み肩ぶつかって一人ぼっち、果てない草原風がぴゅぴゅんと一人ぼっち、どっちだろう泣きたくなる場所は、二つ○をつけて、ちょっぴり大人さ」
「夜の加速度に背中押されて、糸が切れるように、ただ君を君を強く抱いてた」
「本当の私のこと、どれくらい知っている? これくらい、もーっとくらい、そんなのなんじゃたりないくらい」
「だから叶えたい願いには順番をつけて並べておこう」
「突然ふたり恋に落ちた」
「僕らはムチャもするけど、泣きたいときには泣いちゃってオーライ」
「この辛さをさあ、分け合いましょう、さあ!」
「私たち正義のために戦います、たとえそれが命をかける戦いであっても、私たちは一歩も引きません、それが帝国華撃団なのです」
「恋はよくばりだね」
「私じゃない私、真実は見たくない」
「たとえなにが、おきたって、決して負けない」
「目指せスーパーアイドル! 電脳風な見た目も人気があるみたい、もしかしたらオリコン一位も遠くないかもね」
「それでも人は愛のため何度滅びても生きる、この空の向こうに君がいるなら、この羽で飛び跳ねて、今あと少し君に届きそうな、指先を伸ばしているのに」
「忘れない優しい微笑み、悲しさ隠した瞳を、願うこと辛くても、立ち向かう勇気君にもらった、だから行くね」
「大好きなあなたの仕草を指折り数えて、立ち止まり星空見上げて、幸せに感謝しよう」
「いまね、マジカルハピネス、ドキドキしてます、君が大好きです」
「君の香りをずっと今でも覚えている、母の暖かな優しさに似てる」
「希望だけでは終わらせたくない、この弱さを超えていこう。けっして消えないトモシビを燃やし続けたい」
先々月に風邪をこじらせて肺炎で入院した際に、医者からはもう長くないと言われていた。
11月に入り危篤状態になりそのまま息を引き取った。齢90歳。大往生だった。
亡くなった後の手続きはめまぐるしかった。といっても喪主私の叔父が忙しかったのだが。
たとえば、
入院した病院で死亡診断書を貰い、死亡診断書を役所に提出して火葬許可証を貰ったり、
家系図を引っ張り出し祖母に近しい親類から順に参列する親戚の焼香順を決めたり、
叔父がはじめての喪主として慣れてない葬式の手続きを頑張って進めていたのを見て、自分も勉強になった。
普通に葬式が終わっていたなら、葬儀は高価で忙しかったって話で終わっていたと思う。
こっちの方が正しいだの、ああしろだの。弟親子は喪主なんて一度も経験したことはない、
何度か近所の葬式を手伝った程度なのに喪主すらやったことのあるような口ぶりで喪主である叔父に指図する。
そのくせ、喪主が一緒に親戚へのあいさつ周りなど、喪主の仕事をさせようとすると
叔父の弟は、日常でもたびたび自分が正しいと思っていて間違った他人を仕切ろうと、あれこれ指図するが、
葬式の時までそれをやられるとは、思わなかった。
正直、私も葬式の運営の手伝いより、喪主の弟の仕切りたがりを右から左に流すことに疲れた。
私が喪主だったら叔父のように笑顔で流すことができず、葬式の邪魔をするなと喧嘩になっていたと思う。
あんなわずらわしい親戚を呼ばず、自分の身内だけでひっそりと火葬だけする直葬にして、後で親類にはがきで知らせようと思った。
なお、葬儀は一般的な斎場で行ったので場所代と飲食費で100万。お坊さんへのお布施で20万程度でした。
小さめの葬儀とはいえ普通の葬儀って高いんだと実感しましたとさ。
90歳。大往生だろう。
今年の正月は挨拶をしていなかったから、1年ぶりに姿を見たのかもしれない。
久しぶりに見た祖母は魂のない、心臓の止まった冷たい肉塊であった。
我々家族がうまくいかなくなった一因は確実に祖母であったし、同じように亡くなった祖父であり、もちろん我々家族全員にあったとは思っているが、
亡くなる前の数ヶ月は介護している父とも大げんかしていたらしい。
それでも、報われなかったようである。
大げんかをするだけのエネルギーを持った人間はあまりにもぽっくりと逝ってしまったのだ。
一生懸命やっても報われない様はしっかりと私が引き継いでしまったようで、なんとも遣りきれない。
思えば両親は我々兄弟を育て、さらにその後、祖父母の介護に当たっていたのだから40年間自分以外の人間の面倒を見てきたことになる。
順当にいけば間違いなく、次は彼らの番である。
果たして私は彼らがやっていたことを彼らにしてあげることはできるのだろうか。
すぐにまたこういった類の思いは風化してしまうのかもしれないが、
少しでも孝行してやらねばならないのだと感じ、ここに記す。
今日実家に帰ってきて、自分の部屋の隅にあったぬいぐるみを見てふと感じた。「怖い……」と。
ゲームセンターのUFOキャッチャーで取ったぬいぐるみを何体かつなげて、壁にぶら下げてあったのだ。
別にそのぬいぐるみの形相が恐ろしかったとか、そんなわけのわからないことをした自分が怖くなったとか、そういうわけではなかった。
そのぬいぐるみをつないで、壁にぶら下げた、その行為をした記憶はある。でも、そのとき自分が何を考えていたのか、どういう気持ちだったのか、それをしたあと自分が何をしたのか、まったく覚えていないのだ。
記憶が飛んでいたというわけでもない。単純に時の流れによって記憶から抜け落ちてしまっただけ。
でも、それが怖くなった。その時の自分の気持ちを覚えていられるのは自分だけのはずなのに、その自分すら忘れてしまっているのだ。ほかの誰が知るはずもなく、つまりは世界から完全に消え去ってしまったのだ。
この単純な事実が途方もなく怖くなった。時が経つにつれて確実に何かが失われていく。そしてそれは、長い宇宙の時間の中で、数限りなく行われてきたであろう喪失。いくら努力したところで、もう絶対に知ることはできない。
曾祖母は自分が中学生のとき、百歳の少し手前まで生き、そしてこの世の摂理に従って亡くなった。
それ自体は恐ろしいことでも、悲しいことでも何でもない。むしろよく長生きしたな、大往生だ、よかったよかった、ぐらいのものである。
事実、親族一同、悼むことはあっても、嘆き悲しむというようなことはなかった。
自分も別に必要以上に悲しむことはなかった。だが、ふと彼女の人生について考えたとき、途方もない恐怖を覚えてしまったのだ。
彼女の九十余年もの間、いろいろなことがあっただろう。大正に生まれ、学校に行き、祖母を生み、戦争を生き延び、戦後の経済成長を経験し、ひ孫の顔まで見た。
他愛のないこともたくさんあったであろう。その時々で、彼女は何かを見て、感じて、そして思ったはずなのだ。
しかし、それらを知ることはもう我々にはできない。数多の物語が、真実が、情報が、失われてしまったのだ。
それが、とても怖かった。
こういうことを音のない夜、ふと考えて眠れなくなることがよくある。
そういうとき、思うのだ。アカシックレコードさえあれば、と。この世のすべてを記憶していてくれる機械さえこの世にあれば。
好奇心や学問的必要性を感じてのことではない。ただひたすら、情報の喪失という恐怖から自分を守ってくれるものがほしい、そういう理由でアカシックレコードがほしくなる。
今日はそういう夜だった。
そうだよ
仕事に狂って死んでもいいからばく進し続けるそれも生きる意味だ
全部生きる意味がないからこそ臨んだ死に方に向かって望み続けることができる
俺たちは死ぬために生きている
そして例え叶わない夢があったとしたら
それを忘れられないとしたら
諦められないとしたら
敵わない夢にもがき続けること苦しみ続けることこそが生まれた意味だ
自転車にすぐに乗れた子どもが自転車をこぐことを夢に見続けるわけがない
出来ない事にあがいて、それでも敵わなくても目指すこと・失敗することどちらも必要なことだ
敗北して死ぬことが求められた結果だ
その結果、答えを手に入れられないままいるのはそいつ自身の否定・崩壊を招く
挑戦こそが生きている意味で、結果はおまけにすぎない
先週、父方の祖父が亡くなった。
85歳、大往生だった。
大層可愛がってもらったものだ。
合うたびに私の写真をとり、
私が小学生になるまでは生後○○日なんて、
リビングに飾ることもしなかった。
当初は気に入らなかったかな?なんて疑問に思ったが、
すぐにその疑問すら忘れていった。
祖父が亡くなったあと、
足の悪い祖母について、祖父の事務整理に銀行に行ったときのことだ。
「お孫さんですね、おじい様には大変お世話になりました」
なんて、話しかけてくるのだ。
私は思い切って聴いてみた。
「あの、どこかでお会いしたことはありましたか?」
80近くなった祖父は、
その話しの間に必ず私の自慢話をしたそうだ。
「毎回ね、おじい様は『たまたまカバンに入っていた』なんて言って写真を見せてくれたんですよ。嬉しそうにね、初孫がこんなに立派に育ったなんて言って。本当に嬉しそうに。だから私はあなたの顔を覚えてしまったんですよ。」
台紙に張ったものをわざわざ銀行の人に見せるなんてことは出来ない。
けど、たまたま書類を入れていたカバンに入っていたなら、ちょっと話してもかまわないだろう。
そう思っていたようだ。
孫の成長した姿の写真を、
いつも自分の側にあって、
人に自慢出来るようにするために、
祖父は私の成人式の写真を台紙に張りリビングに飾らずにいたのだ。
祖母はなかばあきれたような、申し訳なさそうな顔をしていたが、
私は目頭が熱くなってしまった。
祖父がそこまで喜んでいてくれたのか。
私にもいつか子どもができ、
孫ができるようになったら、
仕事は大変だし、
そんな風なおばあちゃんになれるなら
今の日常も悪くないかな、
なんて思いながら家路についた。
夕焼けがとても綺麗な帰り道だった。
ばあちゃんは今82歳。
現役時代は中学の家庭科の先生で、定年までしっかり勤め上げた真面目で優しい人だ。
私の名前は「芋子」としよう。
ばあちゃんの旦那であるじいちゃんは、私が高校生の時肺がんで鬼籍に入り、
婿養子だったじいちゃんが死んだことで、ばあちゃんは実の母である曾祖母と2人暮らしになった。
当時80過ぎの曾祖母はその歳まで仕立ての仕事を続けていたスーパーウーマンで、
一族の母たるそんな曾祖母に、ばあちゃんは頼りっきり。
一卵性親子かと思うくらい何をするにも一緒だった。
曾祖母はよく「あの子は優しいけどちょっとボケとるであかんわ」と心配していた。
けれど私はそんな優しいばあちゃんが大好きで、泊まりに行く度にわがままを言って好物を作ってもらっていた。
大きくて、サツマイモがゴロゴロ入ったモチモチの鬼まんじゅう。
甘くてホクホクの大学芋。
芋ばっかり好きだから、よく「芋子ちゃん。プーがでるよ。」と言われた。
一緒に買い物しに出かけたり、ご飯も食べに行った。
「また五目ラーメン食べに行こうね」がばあちゃんの口癖にもなっていた。
そんなばあちゃんは、曾祖母が亡くなった時から少しづつ元気がなくなって行った。
96歳の大往生だったのだけど、半身が無くなったかのような感覚だったのだろう。
忘れっぽくもなり、神経科に診てもらったりしていた。
そんな中、気分転換しようと親戚も集めて、一泊二日の温泉旅行に行くことになった。
社会人になって一人暮らしの私は、金曜の夜に前入りしてゆっくり過ごし、土曜の朝に集まる親戚や母を待つ事にした。
久しぶりのばあちゃんの料理で夕飯をすませ、ちょっと寒い風呂場でゆっくり湯船につかり、
広い日本家屋の座敷に布団を2つ並べて他愛のない話をしながら11時頃には眠りについた。
午前1時頃、何故か目が覚めた。
隣の布団にばあちゃんが居ない。
まだいない。
ばあちゃんが倒れていた。
床は糞尿で汚れていた。
「芋子ちゃん、立てなくて…ごめんね、ごめんね…」
気がつけば私は驚くほど冷静に対処していた。
怪我の有無を確認し、身体を拭いて着替えさせ、太り気味の体を支えてコタツまで運び、
若干潔癖性の私が、汚いとも臭いとも思わなかった。
ばあちゃんはその間ずっと私に話しかけている。
「芋子ちゃん、コタツの上に小さい兵隊さんがいっぱいいるわ…」
総てを処理し終えた私は一緒にコタツに入りそれに答えた。
ばあちゃんは私を見ていない。どこを見てるかもわからない。
「兵隊さんはどんな格好をしているの?」「わからない。これから戦争にいく」
「ヘビはちゃんと巣に戻るよ。安心して」「今度はスズメが入って来た」
「今度鬼まんじゅうの作り方教えてよ」「…お芋をね…ひいばあちゃんはどこにいるの?」
そのときの私は、何故かそれらの言葉を否定してはいけないと思い、
幻覚を受け止めた上で返事をしながら、必死に戻る道を探していた。
今、あっちの世界から連れて帰ってこなければ、ばあちゃんは私を一生見ないかもしれない。
「明日の温泉楽しみだねえ。久しぶりだよねえ」「そうだねえ……」
「五目ラーメンいつ食べに行く?」「……」
虚空に留まっていた視線は徐々に下がって行き、ばあちゃんは眠りについた。
夜中3時を過ぎていた。
自分の行動が正しかったかどうかも判らぬまま、疲れた私も眠りについた。
日がのぼり、疲れの残る身体を起こすと、すでに起きていたばあちゃんは私を見ながら
「おはよう芋子ちゃん」と言った。
よかった!戻って来た!!!
喜んだ私は布団から飛び起き、卵入りのみそ汁が食べたい、とお願いした。
台所でばあちゃんが支度をする間、私は母に報告のメールを送った。
夜中に私が送ったメールを確認して、慌ててこちらに向かっているとの連絡が来ていたからだ。
『何とか大丈夫そう。足腰立たなくなってただけで転んだわけではないらしい。ちょっと寝ぼけていただけかも』
親戚にも連絡を取り、お腹がすいて来た私は台所に向かった。
台所の扉を開けると、ばあちゃんがまたどこかを見ていた。
そして私の後ろを指して言った。
「芋子ちゃん。そこにおる兵隊さんに、アンタにやる味噌汁は無いと言って!!」
ギョッとして振り向いたが、誰もいない。
「アンタにやる味噌汁はない!」
駄目だった。連れて帰って来れなかったんだ。
そう思いながらダイニングに座らせる。
「お味噌汁はできた?」
「うん」
火にかけられた鍋のふたをあけた。ただのお湯だった。
それから数年、ばあちゃんはゆっくりと確実に違う世界の住人になっていった。
今では体重は半分近くになり、動かなくなった身体を車椅子に預け、目はほぼ虚空を見つめたままだ。
それでも帰省する度に施設に見舞いに行き、色々な報告をすることにしている。
転職できたこと。
デパ地下で買う大学芋よりばあちゃんの大学芋の方が美味しい事。
応えはもちろん返ってこない。
後悔するとしたら、どこをすればいいのか判らない。
トイレで倒れてた日か、旅行の計画を立てたときか、曾祖母が死んだときか。
五目ラーメンをまた一緒に食べに行けなかった事か。
はてブで上がってたこのページを見て、俺も最近爺さんが亡くなった時に葬儀のお手伝いをしたので忘備録がてら書いてみる。
2週間前、飼ってたねこが死んだ。
もう16・7歳だしおじいちゃんだし、
もう数年あんまりはしゃいだりもしなくて、
階段の昇り降りもしんどそうで、
ここ2・3ヶ月くらいになるとよろけることも多くて。
最期は立てなくなって、食べれないし水も飲めなくなって
それでも
だけど、
さっき部屋でムカデ見つけて殺して思った。
こいつのせいかも?と。
こいつに噛まれて毒まわって死んでしまったのかも?と。
弱って立てなくなった時、病院連れて行けばよかった。
最期くらいうちで過ごしたほうがいいよな、とか思ってたけど、
ちゃんと連れてったらよかった。
ちゃんと連れてってお医者に診てもらえばよかった。
そしたらまだ、
生きてたかもしれない。
元気に、とはいかなくても、
定位置で寝てたり
かつおぶしの袋あけると即反応したり
風呂入ってると足拭きマットの上で張り込み待機してたり
ストローに挑んだり
寝返りうってベッドから落とさないように多少気を使って寝なきゃいけなかったり
パン屋さんのクリームパンを食卓に置いとくと器用にクリームたべちゃうから用心しなきゃいけなかったり
まだまだ一緒に暮らせてたかもしれない。
もう2週間前のことだし
ムカデかもしれないしそうじゃないかもしれないけど
また鳴き声聞きたいよ。
また眉間撫でさせてほしい。
本当にごめんなさい。
本当にごめん。