はてなキーワード: 嘲笑とは
日本の感覚だと違和感があったり、市場をみすみす潰すのかといった経済面で心配してしまうが、個人的には長期的に見た時にどうなるのか気になる。
中国政府のさじ加減で物事が決まる不安がある、という声もあるが、日本もグレーゾーンはあるし、
グレーゾーンを攻めて早期にスケールさせてしまえば規制緩められてビジネスチャンスを掴めるシリコンバレー流も持て囃されるので、多少の違いではないのか?
軍事力でまだ負けている中国からすると、ゲームで遊んで稼ぐのは労働人口減少が問題となってくる将来のことを考えると問題だろうし、
表現については、日米で落とし所がなく延々と多くの人を巻き込みながら論争している時間を抑えているとも言える。
社会が複雑になったらどうなるかは、Twitterで色んな方面に配慮が足りないと袋だたきになるというのは、既に日本が経験していることだ。
それによって表現の自主規制というか、空気で縛る日本も似たようなものではないのか?
また何事も政府の責任だと追求したい日本では、空気のような責任の所在がわからないものよりは、責任の所在がはっきりしている方がいいのではないか?
話が逸れた。
大阪府が発布した「男女共同参画社会の実現をめざす 表現ガイドライン」に対して、一部の表現規制反対派から批判の声が上がっている。はてなの反応を見ると何を大げさな被害妄想だと嘲笑する風潮があるが、実際このガイドラインの基準が曖昧で、過去の事例を思えばガイドラインが表現規制の錦の御旗に使われてしまうのではないかと憂慮もある。以下に自分の考えをまとめたい。
あくまでも大阪府の広報の為のガイドラインであり表現を強制するものではないと明記されているとは言えど、府民に対しても参考にすることも推奨しており、また過去に何度も表現規制を推進しようとする人々が、行政の広報ガイドラインを持ち出して民間の表現にさえも批判してきたことを思えば、大阪府の表現ガイドラインを恣意的に適用する人が現れることだろう、結果的に表現規制のお墨付きを行政が与えることを憂慮するのは当然だ。
ガイドラインの他の項目にあるような、男は仕事・女は家庭のような性別のイメージの固定化にならないか、複数いるモデルの人物の性別が偏っていないか、など客観的に明らかな基準であるならともかく、問題視されている項目は『若さや性など外見のみ切り離したアイキャッチーにならず、人格を持った多様な姿で、広報内容にあった表現』という基準は極めて曖昧だ。
さらには見る人が不快にならないように表現にするべきとのことだが、当たり前だがどんな表現でも受け取るメッセージは人によって異なる。幸せな家庭を描いた絵から、家庭的であれというメッセージを受け取る人もいることだろう、明確なメッセージさえも人よっては受け取れない。現在騒動の渦中にあるVTuberの戸定梨香に対しても美少女キャラと言うだけで、ステレオタイプだと批判する人もいるぐらいだ。一方でかつて性的だと批判されたセーラームーンはエンパワーメントの象徴のように扱われるようにもなった。人によって受け取るメッセージが異なり、変化していく表現について曖昧な基準で行政が策定することを憂慮する。
オタクの世界は一見すると分からない、前提となる認識が必要なハイコンテクストな世界が広がっている。この認識が足りない表現規制派が、描かれた人物の人格が読み取れずに批判する問題もある。
例えばガイドラインを発表した当の大阪府では今現在、アイドル育成ゲーム「アイドルマスター SideM」と「大阪府警察本部」がコラボして、犯罪防止のポスターを掲示しているが、そのイラストは描き下ろしでもなく、既存のアイドル衣装のイラストそのままで、一見するとなんでけったいな格好で犯罪防止の呼びかけしてるんだと違和感を抱くことだろう、だが起用されたアイドルたちは、元警察官・元自衛隊員・元消防士、という治安維持に関わってきた経歴がある。
大阪府のガイドラインを教条主義に適用すれば「伝えたい内容と関係なく、興味を引くためだけに、若くてカッコいい外見の男性アイドルがアイキャッチーとして利用されている」と判断されそうなものだが、実は適格な人選なのだと、ハイコンテクストを理解してガイドラインを教条主義的に扱わなかった「大阪府警察本部」のような対応を支持したい。
そして件のガイドラインを巡る動きで興味深いのは、良くない一例として描かれたツインテのメイドっぽいキャラクターに対して、少なくない人がファンアートを描いたり応援メッセージを寄せている。生まれながらに規制される宿命に、ある種の同情そして応援したいと思い起こさせる人がいるようだ。あの僅かな描写からも特別な人格が生まれる。
もはやこの事例だけでも、安易な萌えキャラには人格を持った多様な姿がないなどの批判は通るまい。
ガイドラインの内容は本来の目的である男女共同参画社会という観点から離れて恣意的な表現規制が可能な、曖昧な基準を行政が担保することになる。
雛見沢大災害とは、繰り返す者たちが時間を繰り返し過ぎた為に神の怒りに触れ、時空が崩壊してしまう厄災だった。
愉快じゃ〜とその様子を見て嘲笑うエウア。
羽入覚醒、鬼狩りが発光し時空を切り裂く。
その穴に落ちていく梨花と沙都子。
貴様!何をした!
梨花や沙都子やみんなが好きだった雛見沢を消滅させることは許さないのです!!
ここは?
古手家と北条家はこれまで度々繰り返す者となり争い続けていた。
1000年前、全ての始まりの地点。
あれは…わたくし…?
Aパート終
Bパート
そこには沙都子がいた、しかし姿が違う。巫女服を着て角が生えている。
最初は些細なことだった。鬼ごっこで梨花ばかりが勝つとか、2人で悪戯をしたのに自分だけが怒られたとか。
いつしかそれが憎しみに変わり仲良しだったはずの梨花と沙都子の先祖はいがみ合うようになってしまった。
その絆の綻びをエウアに付け込まれエウアは力を貸し沙都子と融合した。
様子を見ていたはずのなのに、いつのまにか梨花と沙都子の魂が先祖の身体に入っていた。
再びバトルする両者。2人の背後にベルンとラムダの影が写るファンサービスも。
沙都子を返せ!!!
梨花の斬撃が沙都子の角に命中し角が割れる。羽入はそのカケラから産まれたのだった。
角がかけ力が不完全になったエウアは融合をときカケラの海への撤退を余儀なくされる。
全てを察するエウア。思いどおりにはさせぬと2人を永遠に苦しめる呪いを残す。
それが雛見沢症候群。
このルールが有る限り梨花は村から出る事は出来ず、やがて呪いが解けた時は沙都子との争いが始まる。
全てがなくなってしまいました。
もうこれしか…
だが梨花は受け取らない。
いいえまだ大切なものがここにあるわ…
羽入、察する。
ひぐらしのなく夕暮れ。
かつていた時間ではないがそこは間違いなく自分達の故郷だった。
久しぶりに訪れた2人の穏やかな時間。
沙都子「こうしていると、昔を思い出しますわね」
「2人ならきっと出来ます」
「嬉しいお誘いですけど」
「もしまた同じことになったらどうしますの?憎みあい互いを傷つけあうことになったら…」
「その時はまたここに戻ってくればいいのですよ」
「私達の未来を見つけられるまで…」
「何度も、何度も」
「そんなのまるで地獄…」
「いえ、きっとここが地獄なんですのね」
「業を犯したわたくし達の…」
「それは違うのですよ」
「?」
ここでひぐらしの鳴き声が止み、風が吹く。
梨花の声色が変わる。
「ふふっ、そうに違いありませんわね」
「きっと楽しくなるのですよ!」
手を繋ぐ。
「わたくし、負けませんわよ」
「ぼくだって負けないのです!にぱー☆」
まるで手つなぎ鬼で遊んでいた途中だったかのように。
2人は無邪気な笑顔を浮かべ手をつないだまま夕日に消えていく。
EDの途中のカットは様々な時間を生きる梨花と沙都子の今後を想像させる絵。
巫女服をきた梨花と沙都子が中央で手をつないでその端からは村人たちが数珠つなぎになっている絵が、校庭の絵のタイミングで写される。
ED終了
完
数々の悪行、身勝手な動機、結果あらゆる所に集約される彼女への憎しみ。それら全てがとても悲しい。
だがかつてあれだけ衝突や惨劇を乗り越え互いを大切に想う仲間達の一人であるはずの沙都子は梨花以外は見えていても見ていない事が何よりも悲しかった。
ただこのひぐらし業卒の沙都子はどうも自分の沙都子像と乖離し過ぎている、業の郷壊し編から既に違和感はあったけど卒で暗躍している様を見る度に「(誰だ?)」とずっと頭に?マークが浮かんでいた。
それは劇中でもちゃっかり描写されてはいるのだがぶっちゃけ「(解ってやってるとか質が悪いしだったら最初からそんな事やるなよ制作陣)」としか言えません。
私が業卒を楽しめない最大の原因がこれ。正直勉強しろとかどうでもいい、こっちはこの子が誰なのかが気になるんだ。
んでこの業条さんを考えている内にある事に気が付いた、この構造って所謂『成り代わり型の転生モノ』のそれに近い感じがあるのでは?と。
たまに漫画の転生モノを試し読みしては「(『誰々に転生した俺/私は~』ってその俺/私はまず誰なんだ!)」と読む度にモヤモヤしていたアレと同じ現象がこっちでも起きていたのだ。
個人的で物凄い偏見な見解で申し訳ないですが、成り代わり型の転生モノって何処の誰ともわからない奴がいくら悪逆無道でもその元になったキャラ像を否定しているのがとても苦手です。
で劇中の他人物は「あいつ変わったな~」程度で基本は良いこととしてスルーされるのでたまには文字通り変わってしまった事に気付いた他キャラが元の人格の行方について考えて欲しいなとは思うのですがそれは最早転生モノに要求される要素じゃないのでそこはまぁよいでしょう。
ただ悲しいかなこれ、元のキャラ像を視聴者が把握しちゃってんのよ。
転生モノだと概ねが劇中劇の作品なので気にはならないのですが今回の場合『ひぐらしのなく頃に』という作品の『北条沙都子』というキャラが現実に存在している結果、何処の誰かもわからない奴に北条沙都子が乗っ取られた悲しみは深いし人によっては
「誰だよお前!元の人格は何処へやったんだよ!」ってなってしまうって訳です。少なくとも私がそれ
こんな転生モノ超見たかったけどいざ体感するとクソオブクソですわ!
ついでに成り代わり型の転生モノだとヴィランが善良化されるのに対しこちらは仲間ポジがヴィラン化してるのでそこも胸糞ポイントですね。
後ついでにエウアさんに関して。
エウアさんはエウアさんでうみねこを知らない人からするとぽっと出も同然、知っていたとしても劇中では業条さんにキッカケを与える程度で自分はだらっと見てるだけ。
当人は「あ~面白れwww」って毎度愉しそうだけどこちらとしては動きが無さすぎてすぐ飽きたよ。
あ、ちなみに残りのメイン各梨花は14話のキレっぷりは酷いし「(な~にOPEDで聖人面してんじゃダラズ)」って思うけど上二人程のモヤモヤは感じてません。後神楽しの羽入は邪魔。
上記二つの見解を踏まえた上で考えたら結局のところ『ひぐらし業卒』って成り代わりの別キャラが無双してぽっと出のキャラが嘲笑ってるだけ、残りの人達はフレーバー程度。
ぶっちゃけこれひぐらしとか抜きにしてもあんま面白くないんじゃないですか?
これだけならまだしも、かつての名作『ひぐらしのなく頃に』を利用した上であらゆる展開を踏みにじられているのでファンは原作レイプに嘆くしエアプはエアプで今作がノイズになって後に原作見てもスッキリしなさそうだしそもそもこんなの見て原作見ようとは思わないだろうから視聴者層は誰が得してんだ?!MAD製作勢か?
そんな訳で私の中で『ひぐらし業卒』は存在を忘却して封殺させた方が良いタイプの作品だと思いました。
長々な上に乱文で申し訳ございません。
最終回どんな展開でブーイングが言えるか楽しみです!
世の中には善人も悪人も性別に関わらず両方おり、一部のゴミの性別が男だからって、全部の男がそいつと同じゴミじゃないことは頭で分かっている。
だが先日、柏の通り魔に不運な男性数名が襲われひとりが殺されてしまったとき、被害者を素直に悼む思う一方で、間違いなく自分の心の中に闇があった。
「そんな暗い夜道を歩いていたからいけないんだ。殺されるようなお前に落ち度があったんだ」
女に産まれていれば腐るほど聞かされる、犯罪の被害に遭った女性を嘲笑い落ち度を責める言葉をそっくりそいつらに投げ返してやりたい衝動で胸が一杯だった。
被害に遭った男性がたはそんな酷いことを考えるような人たちではなかったかも知れないのに。
木島香苗の事件やそれに類する保険金殺人が起きたとき、人を騙して殺すなんて最低の女だと犯行を憎む気持ちの一方で、間違いなく自分の心の中に闇があった。
「そんな女に騙されて付き合う方が悪い。犯罪者だと見抜けなかった見る目の無いそいつがいけないんだ」
だってそうじゃないか、女はストーカーに遭って殺されようが勤めていた耳かき屋の頭のおかしい客に殺されようが女が悪いと言われ、場合によってはビッチに気を持たされた男性が可哀想だなどと加害者に同情まで起きるんだ。下心見え見えのアピールに簡単に引っかかって、ホイホイその相手に入れあげて殺される落ち度がもし女にあった場合、間違いなく男のそれの10倍は酷く言われるはずだ。
女が日頃から言われまくっている事に比べたらちょっと連中の言葉を借りて言い返す事なんか屁でもないはずだ。
(被害に遭った男性がたはそんな酷いことを考えるような人たちではなかったかも知れないのに)
あるサイトで、自分が男性不妊である事が分かってEDになってしまったという、とても落ち込んでいる男性の記事を読んだ。
「そこまで思い詰める事は無いのに。夫婦で話し合って子供を持たず暮らす道もあるじゃないか」という慰めの言葉の反対側に、間違いなく闇があった。
「こいつだって妻が不妊だったら掌を返して石女は要らないと捨てたり、マトモな嫁が欲しかったと被害者ぶるくせに」
「これが女だったら産めない欠陥品の上に便器としても役立たずだと言うくせに」
「女が原因ならどんなに苦痛だろうと当然のように治療をさせて金がかかると文句を言うくせに」
「嫁とそのご両親が可哀想だから早く離婚してあげろよ、我が子や孫の顔を見られない人たちの気持ちも考えろ(皮肉)」
「孕ませられない種無しの欠陥品になんて価値ないよね? 結婚してる意味ないよねこの男(皮肉)」
自分と同じことを考えている女が案外世の中にはいるものなんだなと思った。
(悩んでいるその男性は、妻に対してそんな酷いことを考えるような人ではなかったかも知れないのに)
暴力や浮気を受ければ女が至らない(見る目が無い)せい、犯罪に遭えば女の落ち度のせい、子供が出来なきゃ欠陥品、作れば迷惑な邪魔者、子育てに落ち度があれば母親失格、容姿が冴えなければブス、年齢が20歳を超えていればババア、共働きでも家事育児全てこなさなければ亭主を蔑ろにする無能妻、専業やパートは寄生虫、独身女は出来損ない、男の本能に従わない女は愛されないクズ、女はゴミ、家畜、劣等生物、産む機械、便器、
そんな言葉をネットに吐き捨てるのは心の歪んだゴミのやることだ。人生がうまく行っていない不幸な連中が、自分より劣っていると勝手に信じている他人を理不尽に攻撃して、その場限りでも強くなった気分に浸りたいだけの単なる戯れ言だ。
良識をお持ちのご立派な他人に今更言われなくともそんなことはわかっている。だからなんだ。黙っていたって反論したって汚い言葉で倫理の歪んだ言説を撒き散らすあいつらが、そう割り切ったら全員死んでこの世から消えてなくなるとでもいうのか。
何年もそうした奴らを黙って見ない振りして来た。やり返すのも同罪だから大人になろうと諌める理性的な同性に従った。それで何が変わったのかと言えば何ひとつ変わらなかった。増長してより一層汚らしい言葉を撒き散らすばかりだった。
増長し過ぎて幼女のマ○コ舐めたいだの女強姦して孕ませ家畜にしたいだのネットの隅で一般人にバレないよう隠れて言ってりゃよかった性癖を堂々と表で抜かすようになったものだから、とうとうPTAや教育委員会といった冗談の通じない方々の目に触れて表現規制問題なんて物が起きた。言論弾圧だともっともらしいことを言って被害者ヅラする連中に内心笑いが止まらなかった。ざまあみろなにが言論の自由だ。諌める声を片っ端からブスマンコ黙れだの幼女に嫉妬するババア乙だの罵って封殺して来たお前らが言うな。
ネットから離れてPCの電源を落とそうが、周りのまともな男女と話して現実を取り戻そうが、そいつらの言葉は心の中にわだかまっていつまでも闇を作ってきた。
だから男が酷い目に遭ったと聞くと内心胸がスッとする。
被害に遭ったのが何の落ち度も無い男性ならば本当にお気の毒だ。
だが、あるとき心の中にわずかでも「される女にも落ち度があったのだ」と被害者の女を安全なところから責め立てて悦に入った日があったなら。
人生がうまく行かなかった頃のある日にカッとなって「女なんか肉便器だ。全員家畜にしてやればいい」と過ぎた言葉をどこかに書き込んだ事があったなら。
心の底から指さしてそいつらを笑ってやれる。少しの良心の痛みも感じない。
かつて散々罵って来たそいつらの言葉を、堂々と投げ返してやれる瞬間のなんと気持ちがいいことだろう。
お前らに落ち度があったからそういう目に遭うんだ。ざまあみろ。日頃お前らが言ってることだろうが。自分が言われた途端に被害者ヅラなんて論理的な男性のすることじゃないだろ? 女みたいにヒスを起こして感情的になるなよ。冷静な男なら笑って受け流せよ。ははは。はははは。
まっとうな男性とまっとうな男性を身内にお持ちの女性には、読むに耐えない暴言を深くお詫び申し上げます。
どうせこんなもの書いたところで女叩きが大好きなキチガイ君共の脳に届くことは一生ないのだろうが、今日という今日は書かずにいられなかった。
増田の意見はいくつかの点で傾聴に値する。まず女性表象をめぐる問題ということをちゃんと踏まえて語ってくれている。表現の自由界隈では、この表象の問題、何かをなぞらえて表現することが、単なる表現全般とは違う、なぞらえたものとの関係において権力性や影響や責任を伴う行為であることを、正面から受け止めている人が少ない。そして「ただ、女性表象の批判は賛同者の増減に関しては基本的に分が悪い戦いで、基本的に負け戦を強いられるものだなと見ていて思う」という認識も個人的には同感だ。自分は日本での女性表象の独特な偏りや歪みが現実の女性をめぐる認識や取扱や社会的地位を左右していることを体感的に信じていて(ちな自分はシス男性)、だから女性の経済状況の改善などに比べて女性表象の問題を些末なイシューとは考えたくないんだけど、この感覚は決してメジャーなものではないことも理解している。
Vtuberの身体性についての指摘も面白いと思う。ダナ・ハラウェイとかの問題意識から言えば、vtuberというのは身体性とジェンダー・エクスプレッションを任意に切断したり接合したりできる一種の文化的達成なわけだし、フェミニズムにとっては前進だともとらえられる。フェミニズムの女性表象論は、形式それ自体よりも、その文脈、特に任意性・主体性・当事者性といった要素が重要になってくると思うけど、女性として表現されたvtuberの「中の人」が女性で、vtuberをその「中の人」の自己表象ととらえた場合、フェミニズム的にはストレートな批判が困難になってくる構造がある。レースクイーンやグラビアアイドルのように「本人達には責はないが、そうした表象・価値を求める男性社会の犠牲者(攻撃的な言い方をする人達からすれば、迎合者)」的な位置づけに落ち着いていくかもしれない。
一方で自分は「今回の件が華々しい(無惨な)負け戦」だとまでは思っていなかったりする。フェミ議連を批判する人々はおそらく「勝利」して何かを得たという感覚は乏しく、フェミ議連側も「成果」を上げたことで勝利感を得ていて、そして大多数の傍観者は「どうでもいい」と思っているように思う。いわゆる社民的な活動や地道な女性運動をしてる方々から、件の増田議員が結構問題あるというか、方々で暴走して「味方」に迷惑をかけている人だという話を伺って、今回の脇の甘いムーブについてある程度納得が行ったんだけど、批判側がその脇の甘さをきちんと突けてクリティカルヒットしてるか?というと、そうでもないような。
山田議員については、彼が守ろうとする「表現の自由」とあまり関心を示さない「表現の自由」の間には明らかにセレクティブなバイアスがあるけれども。おぎの他オタ側を自認する他議員に見られるような、フェミニズムやその他PCな価値観への嗜虐的・嘲笑的な態度はこれまであまり見せてこなかったし、そこは本人の矜持なんだろうと信じている。逆に後者のような感覚が強まって勢力を拡大していくと、むしろ山田議員は「オワコン」化してしまうかもしれない、とも思った。
https://twitter.com/GoodBad_Balance/status/1439547613166985218
この手の無理解な意見は無数にあるんだけど、「親ガチャなんて言葉を使う奴の言う当たりなんて妄想に過ぎない」はそうした人たちの心情をかなりよく表現してくれているようで衝撃的だった。
俺にとっての「当たり」は、殴ったり、蹴ったり、生まれて来たことで罵ってきたり、寝込みを襲ってきたたり、心中を持ちかけてきたり、自殺を求められたり、狂言自殺をやったり、俺がしたわけでもない他の家族への苛立ちを解消するために罰してきたりとかそういう事が無い、俺の心身の安全を脅かさない親だったよ。
言葉は足りないけど言いたいことは今までバズった言説や、フェミの言い分から読み取れるだろ。
>女がエロい格好をして練り歩き【それに性的な視線を向けたら】エロい女が愛している男以外、男の腕や足が粉々になる
てことだろうが~~~
いきなりわからないふりすんなよ…。
じろじろ見るのはNG
※ただし、本人が性的にみられたいと願ってることが明確な関係や、許される信頼があれば例外的に可(友人の立場から「きみの恋人は幸せだね」というイイネ的反応等)
言葉が足りない相手を嘲笑してスッとしたいのならまだわかるけど
一つ一つ例を挙げる必要はないよな。
もうとにかくそこいら中に、発達障害やコミュ障と呼ばれる存在への蔑視が広まってる。
アスペルガーの時もそうだった。ほんの少しの間にアスペ、アスペ、アスペ。「アスペを採用しないようにはどうする?」「彼氏がアスペかも!」「アスペは犯罪気質がある!」みたいな記事だらけになった。
今度の「ケーキが切れない」とやらもそうなりつつある。そして社会は発達障害と向き合うことなく、排除と嘲笑と腫れ物扱いのやり方だけ上手になるんだよな。
何を怖がってるんだ?
「もしも自分の子供が発達障害者と知らずに結婚したら…」とかか?自分が知らずに発達障害かも知れないのにか。
「職場の習慣とかをかき乱されたら…」とか言うのか?コロナに散々乱されてるのにか。
「コミュ障にキモく言い寄られたらどうしよう」とか?自分のコミュニケーションもいつかはキモかったかもしれないのにな。というか正常なコミュニケーションてなんだよ。誰が決めてんだそんなの。
俺は定型社会こそぶっ壊れるべきだと思うから、どんどん発達障害の社員が面接をすり抜けて会社の「慣習やマナー」を滅茶苦茶にすればいいと思うし、どんどんキモいコミュ障が「正しいコミュニケーション」を破壊してくれればいいと思ってるよ。今こそ青い芝の会を参考にするべきだな。全てを参考にするわけではないにせよ、発達障害と定型社会の対立軸が揃いつつある今、根本から発達障害者とされた人々が社会を問うていく必要がある。
頑張ろうぜ。
松戸警察署Vtuber問題について、アンチフェミニストに腹が立ったのでここに書く。
警察署の玄関に水着女性のポスターが貼ってあったら、「女性の裸を公共の広告に用いるのはTPOに反しているし、女性差別的ではないか」という批判には、ほとんどの人が共有するだろう。同じように、萌え絵も水着のポスターと同じカテゴリーで公共広告に相応しくないのではないか、という違和感に基づく意見や感性の人は一定数存在する。そしてその違和感を公共的な声にして、政治を通じてを変えていこうとする運動が起こることはのまったく正当な権利であり、まさに日本が自由で民主的な社会であることの証である。
いうまでもなく、自由で民主的な社会である以上、フェミニストの抗議を「誤解」「無理解」として批判する声は当然あってしかるべきである。しかし批判者はなぜか、公共広告に対する批判を「表現の自由の否定」などと批判してしまうので、根本的に議論が間違った方向に進んでしまう。しかも「価値観が古い」とか、「古い」ことがただちに間違っているかのような、その人の主観を無根拠に絶対化した論法を多用している。どうやら批判者たちは、「古い価値観」なるものは尊重に値せず、みんなで否定して嘲笑し合うような社会がいいと思っているようだ。百歩譲ってそうした主張を認めるとして、そんな社会が自由で民主的な社会であるとは到底思えない。
公共的な表象として国旗という分かりやすい例を出せば、「日の丸は日本の国旗に相応しくない、変えるべき」という主張があってはならない、という人は(一部の極右以外は)いないだろう。それは表現・言論の自由である。ところが、なぜか批判の対象が「萌え絵」になった途端に、この原則が完全に無視されて、同様の性質を持つ主張が逆に「表現の自由の否定」と批判されている。そして、表現の自由を行使しているフェミニストたちを、表現の自由を否定する人々として批判し、SNSで大炎上させている。これはとんでもないことであると思う。公共的な広告物や表現に対する批判を萎縮させる効果を持つものであり、表現の自由を毀損するものに他ならない。
「蘭厳しめ」とはコナンの毛利蘭のヘイト創作だが、なかでも胸糞悪いのはこれらの話だ。
http://haruharu786.blog11.fc2.com/blog-entry-1629.html
http://haruharu786.blog11.fc2.com/blog-entry-2296.html
http://haruharu786.blog11.fc2.com/blog-entry-2306.html
「清純派失格編」では「性格を改悪されて露出高い格好をした毛利蘭がモブ男に貢がせて、『奢ったんだからヤらせろ』と男から下着に手を入れられる性被害を受けて空手で大怪我を負わせた蘭が、一方的に加害者扱いされ誰からも味方されず、自業自得だ奢られたならヤらせるのは当たり前と言われて発狂する」という胸糞悪い話なのだが、
コメント欄で作者達は「蘭ざまあw蘭が悪い自業自得!味方なんていませんよw」と集団で嘲笑っているのだ。
また、「園子のうつろいゆく友情」編では、新志前提で水着で痴漢にあった蘭が「あんな格好して誘ってるようなもの」と周囲からセカンドレイプを受け味方がおらず、園子もそれに同意する、という内容である。
これまた、コメント欄で作者達は蘭の自業自得wと嘲笑っている。
中年女性達が、架空の女子高生を性被害に遭わせ、集団で自業自得だと嘲笑う様は大変醜くてトラウマものだ。
蘭が好きとか嫌いとかそういう次元の問題じゃない。彼女達は、性犯罪は女が悪い自業自得だと思っているんだろうか…
「蘭厳しめ」の内容ってそもそも、よくある女叩きネタなぞってるのが多いしな…
余談だがこの雪月花桜は、引き寄せの法則だのパワーストーンだの「子供は叩かれるために生まれてきた」とほざく心屋だのに心酔しているらしい…
馬鹿な陰謀論者を見て、「俺はこいつらよりマシだな」と安堵した経験はないだろうか。
手軽に心に平穏をもたらす陰謀論ウォッチは、時に中毒状態に陥れられるものなのかもしれない。
俺は大学1年目にして留年した。メンタルに多大なダメージを負った俺は卑屈になり、枕詞に「学内唯一の1年次留年者である俺は~」を付けないと喋れなくなった。
相談できる相手も現実を忘れさせる趣味も持たなかった俺がネットを巡回して出会ったのは、ある1つの晒しツイであった。
俺は驚いた。陰謀論者という存在自体が蔓延っていることは知っていたが、晒しツイに載ったそれはまともな思考力の持ち主とは思えぬうわ言であった。
メンタルが傷つく前の俺は晒しスクショを嘲笑だけして次の話題に移っていたことだろ。しかし当時の俺は、晒されたアカウントのツイ垢に飛んでいたのだ。
するとどうだろう、出るわ出るわ妄言の数々が。俺はそのツイートひとつひとつに大いなる優越感を受けた。今まで感じたこともなかった精神の昂りがそこにはあった。
それからの行動は早かった。俺は陰謀論用のアカウントを作成し著名なあたおかをフォロー、自分は一切ツイートせず論者のウォッチを始めた。
つらい時や苦しい時は彼らの荒唐無稽な呟きを見ることが俺の唯一の楽しみとなった。
ウォッチから半年、アメリカ合衆国大統領選挙を控え陰謀論者の弁舌はピークに達した。この頃になると俺もスキマ時間のウォッチとは別に、一日に8時間はTwitterに張り付くようになった。
当然有名論者のツイなど全て読み終えているので、盲目にも信じ込む末端論者の反応ツイートをチェックし、新たな論者を求めて検索ワードを駆使する日々が続いた。再履修の授業が数コマしかなく、暇を持て余した俺だからこそできたことだ。
こうして4月を迎え、俺は2年生になった。共同作業を共にする新しい同級生と挨拶を済ませる。
ここで俺、とんでもないことに気がつく。趣味というか最近やったことで記憶に残ってるのが陰謀論ウォッチしかない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
これやばくね?
冷静に考えるとこんなもん時間の浪費でしかない_留年中の1年間という時間をなぜ有意義に過ごせなかったのだろう?
これにこりて金輪際ウォッチはやめてTwitterも消そう...
とはならなかった。あろうことか俺のウォッチ癖は加速し、オンライン授業中ですらTwitter巡回をやめられなくなってしまった。
これは多分アルコール中毒とかと同じで自分では直せない気がする。精神科にでも相談すべきなのか?
そんなことをウダウダやっている内に2回目の留年通知が届き、頭がおかしくなってこの増田を書いている。こうなってしまったのは全て陰謀論者が悪い