はてなキーワード: 創作物とは
「創作物がたった一人の作者に拠って成り立つ」というのは別に嘘でもなんでもないだろ。
共著なんていくらでもあるだろ。
状況に応じて正しく表記すればいいだけだろ。
それに今回の問題は複数の嘘がからみ合っていて、程度を超えているのに普通に業界として通用していた。
という事であって。なんかもう、どうでもいいじゃん。
若干の嘘ならいいけど、ここまでの大嘘が大手を振ってまかり通るのであれば、なんというか、なんだろうな。
改善要望出して改善されるのか、それともその場しのぎなのか?って言われたら後者になるんじゃね?
だとしたら、なんだろう虚しい。
なんだか認識に違いがあるようだ。俺は嘘を撲滅しなければならないと言っているわけじゃない。創作において嘘が全くないことを証明するのが難しいのはこちらも承知している。俺は単に「創作物がたった一人の作者に拠って成り立つ」という幻想に価値を見出して、それを商売にする構造をどこかで変えたほうが実状に見合い、さらに新たな商品価値を生むことになるのではないかと主張したいだけなんだ。映画・ゲーム・テレビ番組など集団的な創作であることが受容されている業界では「何々の制作に関わったスタッフが再び集まった期待の新作」という触れ込みで注目されるものもある。俺は小説などの単一の著者を想定している業界でも同様になるほうが商品の営業になると思うんだけどね。
<hopelessness>
これは、どうにもならない。
</hopelessness>
少なくともある程度本を読む人間にとって、彼の代表作、評価、 その死後の受賞歴を長たらしく記す必要がない程度には。どうしようもなく。
それゆえに、ある種の人にはその逝去を悼まれる死者として、またある種の人には越え難い壁として、
そしてある種の人々には華々しい装飾品として扱われる。
更に法人からはSF業界に新しい息を吹き込む新鋭として、 また広告塔として。素材として。贄としてだ。
小松左京賞を逃した『虐殺器官』が早川書房へと持ち込まれ、ハヤカワJコレクションとして発刊される。
本作の評価、また出版のうえでの編集者との出会い等がなければ『ハーモニー』が生まれることはなかっただろう。
彼の死後、同社より、関連書籍の刊行が相次いだ。 『伊藤計劃記録』をはじめとして、ブログ及び個人ページに書きためていた映画評、
同人雑誌への寄稿が次々と出版され、多くの読者たちの手に渡った。
『記録』の主な素材は短編小説のほか、彼のブログに重ねられた書き捨ての文章である。その時既に彼の文章は死者の書物として上書きされていた。
だが、それらの文はインターネット上といえ、確かに人に見せるために彼自身の手により発信されたものだ。公開できるものとして。自らの分身として。
豚はその皮を食い破り、腸を捕まえる。裂け目から沸きだした臓物の汁の一滴まで啜り続ける。 その餌を与えたのもやはり同じ、早川書房である。
文庫化を機にベストセラーとなった『虐殺器官』には、解説という名の追悼文が録されている。
近しい知人のみに公開されたmixi日記に連ねられた彼のことばが、共有される感動の実話として金を集めていく。
豚たちにとってそれは飲み込まれるのを待つだけのコンテンツ、喪失という名の欲望を満たすために在るただの肉でしかない。
彼の最大の不幸もまた同社との出会いであった。
現在、ブックファースト新宿店では「伊藤計劃を超えろ!フェア」が実施中である。
新宿駅から西口方面に足を運んでみれば、きらびやかなポップ体の横断幕がきみを出迎えてくれる。
並んでいるものを見れば何ということはない、ただの新人博覧会だ。
ただの博覧会であるからこそ、彼の名を据える必要がどこにあるのだろうと考える。
それは書店を出て左手に曲がれば見える、マクドナルドの壁に張られた新作商品の広告、
プリンタの限界まで引き延ばされた少女たちの、血色の粘膜をめいっぱいに広げ、バーガーにかぶりつこうとする笑顔と何も変わりはしない。
意味など最初からない。それは羽虫たちを惹き寄せるだけのためのただの明かりだ。
...そんな「人間の意識」だけが死んで、自分のように振舞う要素だけが、
これこそまさに、煉獄というやつなのではないか。
伊藤計劃はこれからもコンテンツとして生き続ける。言及は絶えず続き、没後の節目を迎えるたびこのような商業作戦は行われ続けるだろう。
「彼の本が」ではない。「彼が」でもない。そこに掲げられるのはもはや彼ですらない、幻想としての"伊藤計劃"だ。
"それ"は新刊をさばくための道具だ。士気を煽るための墓標だ。いつでも痛みを味わえる、簡単で都合のいい薄っぺらい擦り傷だ。
またはただの便利な、ブログやツイートの空白を「かんがえさせられましたにっき」で埋めるための装置だ。
伊藤計劃の『虐殺器官』『ハーモニー』といった大天才の大傑作があって、以後立て続けに批評家・レビュワーによる伊藤作品を踏まえた社会評が発表されて、
あーやべーSFスゲーじゃんめっちゃ社会語れんじゃん、俺が社会語れんじゃん!といった風潮ができて。
彼らにとっての社会はそこで閉じている。「知っている」「考えている」ところを「他人に見せる」ことで完結している。
だから少しでも話が小難しくなればWikipediaさえも読み通せはしない。
ただ彼を善く語ることで自分を見せることしか考えていない読書人を殺せ。
売れる本を売れるときに金に換えるためだけに存在するキャンペーン型書店を焼き倒せ。
故人をコンテンツにフォロワーを増やし、友達にくだらない話をすることばかりしか頭にないソーシャルクソ野郎を排除しろ。
創作物に死の匂いを振りかけて、クソ野郎のための新しい餌の在処を振りまくクソ書房はおとなしく無個性ライトノベルでも出していればいい。
派手な色彩の建物はまかりならん、と誰が法律で定めたわけでもないというのに、そこに広がっているのはひたすらに薄味で、
何の個性もなく、それゆえに心乱すこともない街だった。
どこまでも、ひたすらに、河の両岸を果てしなく。
彼らの漬かった沼を満たす泥は金だ。あるいは承認の欲望だ。
社会的であらねばならないこと。そのポージングが直結する意識下、無意識下のスタンドプレイ。同調圧力の強要。
彼が稚拙ともいえる比喩で、『ハーモニー』の作中、あからさまに批難したのはこのやさしさの窒息ではなかったか。
取り合う手と手に首を締められるその苦しさではなかったか。
『虐殺器官』に描かれた偽りの平和主義の破壊に、お前は何も思うところは無いのか。
自分が何を読んだのか、何に心を動かされたのか、少しでも彼の書いたもののことを思うなら、WiFiの電波をオフにしてもう一度考えてほしい。
墓の上のワルツを今すぐにやめろ。
彼は神ではない。
彼は救世主ではない。
お前を輝かせるための装飾品ではない。
お前はお姫様ではない。
ただの惨めで愚かな豚だ。
歌って踊るだけのこの世の屑だ。
臭い口を閉じろ。
彼が評価されるべき理由は「死んだから」ではない。
ブックファースト新宿店様ではただいま「伊藤計劃を超えろ!」フェアを開催中です!
藤井太洋さんも含めた次世代SF作家の代表作がドバーッと網羅されています! 必見です! http://pic.twitter.com/soYpfhPPDn
恥じろ。 醜い。
http://anond.hatelabo.jp/20140305221004
俺が2次創作同人にいい感情持ってないのは、(親告罪であるのに著作権者が何も言ってないからおkだろとかそういう)著作権者の問題よりも社会的経済的な公平性とバランスの問題なんだわ。
もう一方は払わない
どちらが誠実な人間かといったら前者だろ。
銭ゲバ同人ゴロが気に食わないのは誠実な人間を社会に増やそうって作用なんだよ。
最近同人扱うショップとかいろいろ出てきて、流通力が商業と殆ど変んなくなってる状態だから同人許可マークってのもあんまりよく思ってないんだよね。
んでどうすればいいかって話になったら著作物から得た収入でもう切っちまうのがいいと思うんだ。
100万以上の売り上げがあったら徴収とかそんな。
同人ショップやイベントにはサークルごとの売上の提出を義務付け。妄想。
正義面して偉そうなこと言いやがってと言われるだろうけど。
正義感振り回していいことばかりとは思わんし自分の正義に自信もない。
ネットに垂れ流すだけで終わりだよ。
追記
「お前だよ!」と言われて思い当たらなかったら該当者じゃないってだけです。
俺が唯一もっていないアイマス関連CDであるジュピターのアルバムもアニメイトで買ってきた。
オタクしてて「○○は俺の嫁!」みたいなのを、本気でアホらしいと思ってたタイプなんだけど。
完全に同じ気持ちになった。
というか、俺はこんなにも男キャラに夢中になれるんだと、始めて気づけた。
今まで当たり前に女性キャラとの恋愛ゲームを楽しんできたけど、自分が本当に楽しめる場所は乙女ゲーやBLゲーかもしれないとすら思えてきた。
そう、当たり前に女キャラを好きにならなくちゃと思っていたけど、全然楽しくなかったというか、思い出が何も残らない。
箱マスからプロデューサーやってたけど、本当の俺はアイドル候補生の誰のプロデューサーではなかった。
ゲームの中だけでただ「プロデューサーさん」と呼びかけられるだけの、偽りのプロデューサーだった。
それは創作物を作っている作っていない、みたいな単純な二元論じゃなくて。
俺は本気で、彼らをプロデュースしたい。
ノベマスを作りたい、CDが出たらMMDでPV動画を作りたい、ホモマスタグのランキング動画を作りたい、SSを書きたい、Pixivに画像を上げたい、ラジオの構成作家がやりたい。
俺が彼らに出来ることが何かを探したい。
とりあえずモバコインを買えるだけ買うことと、既存のジュピター関連グッズを買いあさることしかできない自分が悔しい。
俺も彼らと一緒に「輝きの向こう側」をみたい。
「だって俺は天ヶ瀬冬馬だから」という言葉に説得力を持たせてあげたい。
愛してる、愛したい、過去も未来も、僕が君に言えたときがようやく来たのだ。
さあ、恋を始めよう!
http://b.hatena.ne.jp/rag_en/男女/
id:Mukkeは差別をなくそう! って言ってるだけじゃないか、表現規制をしようだとか、そういうSSをまとめアンテナに載せるなとか言ってるわけじゃないのに、過剰反応しすぎ。
だいたい、どんな理由があろうと、同性愛者であることを揶揄うような創作物を「おもしろーいwwww」なんて言って言いわけねえだろ。
匿名掲示板だからゲラゲラ言えるだけで、よく公の場でこんなこと言えるな。
焚書しようなんて言ってなくて「こういう作品は差別的表現があるから、注意しましょうねー」程度なのに、大げさにとらえすぎ。
表現規制だとか以前の問題だ。
はてな村の住人は分析や論理を重んじる。重んじ過ぎている、とすら言える。
先日、昔投稿していた小説サイトを久しぶりに覗いて、過去の自分の作品を読んでみたのだが、技術の如何はさておき、小説としては今はてなで書いている自分の文章よりはるかに面白い。
当時は自分の小説がそんなに面白いものだとは考えていなかった。プロの書くものにはかなわないと思っていた。
歴史ものを書くときには史料にしっかりとあたるように心がけていたが、それ以外のジャンルを書くときには、感性の赴くまま、理性のたがを外すようにして、心の隙間から生まれ出てくるものをそのまま創作物にしている感覚だった。
それは謎を謎のままとして楽しんだり、不可解なものごとに理由を付けず、ただ気味の悪いものとしてそのまま恐れるような感覚を文章にしていたといっていい。
それに比べて最近の自分が書いている文章は、論理的で分析的かもしれないが無味乾燥だ。なぜこんなに心が乾いてしまっているのだろう。
2chやはてなで論争を繰り返し、理論武装するようになってからこうなってしまったように思う。
謎や不可解なものの裏側にある秘密を暴いて、構造を明確にしてゆくと、圧倒的なものに触れたときに生まれた表現への初期衝動は薄れていく。「セックスなんて所詮脳が生み出す電気信号のやりとりに過ぎない。脳の特定部位に電極を突き刺せば同等の快楽は得られる」などという、大脳生理学にかぶれた輩の物言いにも似た事態だ。
とはいえ、その物言いは、事実無根だと切り捨てられないのがもどかしい。たしかにセックスのときに人間が感じている感覚は、脳の反応を見ればただパルスが適当な部位にはしっているだけのことだろう。いや、そうではないのだ、といくら強弁したところで、科学的な根拠は提示できない。ネットの言い回しを使えば「ソースはない」ということになる。
学研の「ムー」という、オカルトの有名雑誌がある。どう読んでもネタとしか思えない。だがしかしひょっとしたら事実かもしれない。そんな虚実の入り混じった面白さを楽しむことが、かつての日本の言論状況では可能だった。しかし、はてな村以降の世界では、虚実の虚には完膚なきまでに論破され、挙句、あんな曖昧な雑誌はなくなってしまえばよい、という科学原理主義者の物言いが正当化される。
別に私もあんな雑誌がなくなっても日常生活に不都合はありはしない。しかし、日常を彩るエッセンスのひとつとして、タバコやコーヒーのように、害を知りつつもほどほどに付き合い、楽しむことが出来るものとして存在していてもいいのではないか、と思うだけだ。
都市伝説のひとつも存在しない、川口浩探検隊のような種類のエンターテインメントがまったくない世の中が、今よりも素晴らしいといえるのだろうか。
サブカルチャーの中で描かれる妖精や精霊は認めるのに、一方で、その源流たるアニミズム的な発想はくだらないオカルトとしてバッサリ切リ捨てるような状況には、矛盾したものを感じなくもない。
散漫になった。まとめると、創作に感動をもたらすのはうさんくさい「隙間」だ。隙間なくびっしりと埋められた世界からは、感動するものは出てこない。逆に言えば、感動は理由づけした時点で死に絶える。批評は重要だが、創作物には作者すら理性的には踏み込めない部分があり、そこは尊重する必要がある。
目に見えない可能性を潰して回っていると、人類の世界を見る目は皮相的な、浅いものになっていくばかりだ。何もファンタジーに限らない。全部理論的に何一つ矛盾なく説明できるSFは突飛さがなくつまらない科学読み物になってしまうし、予測不能の事態が起こらない歴史ものは教科書を読んでいるようであくびが出る。
この文章にも反論はあるだろう。論破しようとすればいくらでも出来るだろう。理屈と膏薬はどこへでもつくのだから。しかしひとつだけたしかなことは、隅から隅まですべてを認識し、理解し、分析しようとする態度は、感性を殺す。仕事のときならそれもいいだろう。仕事は感性と関係がない。しかし仕事と離れた場所で、つまりはてなブックマークや匿名ダイアリーで、仕事のように論理的な態度を崩さずにいることは、不健康だ。もっとはてな村は気楽になったほうがいい。クリエイティブな空間としてはてな村が再生されることを望む。
1年生の時にやったのは珍しい名字を持ったNというクラスメイトをターゲットにして、その苗字をいじってバカにするというものだ。はじめは自分1人でやっていたが、ムキになるNの反応がおもしろいこともあって、しだいに他の生徒も乗ってきてエスカレートしていった。ある時など「なぜこんなことをするのか」と自分に問うてきたNに「俺はNに強くなってほしいからやってるんだ」というトチ狂った返答をしたこともある。耐えかねたNが早退するようなときもあったが、いじめは長続きしなかった。新任だがやけに迫力のある担任の先生が加害者を集めて一喝したからだ(Nに謝罪したかどうかは記憶にない)。担任が止めなければ物理的な暴力などに発展して取り返しのつかない事態を招いていたかもしれない。なので担任には感謝しているし、一度の説教でいじめを止めるぐらいには自分や他の加害者の心のなかに良心のカケラが残っていたのかなと思う。幸い2年時、3年時のNは穏やかな学校生活を送れていたようだ。
次の2年生のときにもやった。対象はKというクラスメイト。家が貧乏なKは風呂にも入れなかったらしく常に特有の体臭がしており、そんなKをクラスメイトは無視したり、陰で臭いと罵った。自分は首謀者ではなかったがフレンドリーに話しかけてきてくれたKを無視したことがあるので、五十歩百歩だろう。このいじめには担任の介入はなく、止まずエスカレートせずという状態で終わった。自分は謝っていない。Kもよく耐えたものだ。3年時のKは事情のある子が集まるクラスに入ったおかげか、傍から見たぶんには楽しそうにやっていたと記憶している。
そんなわけで、中1〜2年時の自分はどうしようもないクソ野郎だった。Nに対してもKに対しても本当に申し訳ないと思っているが、許してもらえるとも思っていない。そもそも上記のように謝っていなかったり記憶すら定かでなかったりする体たらくだ。いま目の前で謝れば許してくれることもあるかもしれない。だけど苦しんでいた当時の彼らに許してもらわなければ意味がないと思うのだ。なので、今もずっと彼らへの申し訳なさと自分の情けなさが入り混じった贖罪意識を引きずっていて、いじめのニュースやいじめを取り扱った創作物を目にすると暗い気持ちに囚われることがよくある(『3月のライオン』を読んだ時は自分が責められているようで、本当に情けなかった)。
ここに書いたのは懺悔のつもりではなく、自分も苦しんでるんですよと言いたいわけでもなく、今後も申し訳なさと情けなさを引きずって生きていくのだ、それだけのことをしてしまったのだという確認。ここまで読んでいただきありがとうございました。
本当に悲しいことがあったときって、マジで涙腺ぶっ壊れるのな。
その瞬間は逆に放心状態というか、全然何も考えられなくて、ダメージはあったけど全然そんな大ごとでもなく、覚悟もあったことだから普通に受け止められたと思ってたんだけど
寝て起きて、改めてそれを噛み締めた瞬間に、マジでむせながら泣いた。
27年生きてるけど声上げてしゃっくり上げながら号泣して吐きそうになるなんて初体験ですわ。
しかもそれしばらく引きずってて、別にそのことを思い出したわけでもないし、何かを見たりしたわけでもないのに、仕事中気付いたら涙がこぼれてたりして本当に引いた。自分に引いた。
思い出すと当然のように泣けるし、思い出さなくてもいつの間にか泣いてるし、それについて話そうとしようものなら当然のように涙ぼろぼろだし、もうどうしたら良いのか全然分からなかった。
こんなことあるんだな。
あとこんなわけ分からん状態になってても、時間が経てば普段の状態に戻るってのも分かった。
悲しいししんどいんだけど、急に泣いたりはしないし、普通にそれについて話せるようになった。
時が癒してくれるってこれか。
創作物の中の話じゃないんだな。
時間、体力、やる気リソースはかぎられている。決して無限ではない。若くないなら尚更。
そんな中、仕事以外で何かをやろうとする場合、リソース配分を調整しないと確実に潰れる。
●時間
残り5時間。通勤2時間、風呂、朝夜メシで2時間。1時間しかプライベートは無くなる。となると休日にかけるしかない。
風呂、朝夜メシ、ネット、テレビ、映画、読書、ゲーム、運動、いろいろやるとプライベート勉強の時間は取れない。
削るべきはネット、テレビ、映画、読書、ゲーム。やるなら通勤時間と休み時間に。
服もシンプル数着にしよう。
●体力
食事も大事。低糖質で腹6分。手間かけずにすぐ食えるカロリーメイト、イオン惣菜、コンビニ低糖質パン、野菜ジュースなど。
仕事帰りはすぐ寝よう。意外に疲れてる。気づくのは朝起きてから。
風呂は朝より夜の方が疲れが取れる。
●やる気
おそらく一番重要。体力にも関わる。
もはや部活動は児童虐待となっている。特に高等学校の部活動は、その傾向が著しく、実際のところ一時期よりはマシになっているのだが、現在も状況は続いている。
この児童虐待というのは体罰やいじめといった暴力事件の問題ではない。単純に現在の部活動は、その運用自体が虐待になっている。
一般の高校の場合、生徒は通常1日に6時間の授業を行うことになる。間に休憩時間を挟むがショートホームルームや掃除などを加えれば6時間程度になる。
そこに2時間も部活動をすれば8時間となり、これを5日間で労働者ならば法で定められる週40時間の労働に相当する。
大体朝の練習30分、放課後1時間30分も練習すれば丁度良い按配であり、その範囲内に留まる部活動も多い。
しかし大会で実績を残すような運動系の部活動では授業をあわせて8時間をゆうに超える活動が求められている。
相談に来る生徒の中には朝1時間半、放課に4時間、通学は自転車通学を部内規則とするため、学校から遠い家に帰るのは11時ごろという者もいた。
土日も午前午後の練習か公式or練習試合があり、1日の休暇もない部活動の相談もある。
企業ならば松崎茂と並べても完全にブラックといわれるような状況だ。だからこそ、運動部の経験がある人間はブラック企業に重宝される。
このような部活動の異常な活動時間が許されているのには一つの理由がある。
教育基本法など各種教育の法律には部活動を規定する法律の条文がほぼ存在しておらず、部活動は要約すれば『生徒が自主的な活動として課外活動をすることを援助し、教員が行動を監督しなくてはならない』といった趣旨のことが書いてあるだけだ。
つまり、部活動は本来「生徒の趣味」として行われているだけで、その援助をするため学校は場所を与え教員は事故や犯罪などのないように監督(指導ではない)するようにされている、ということである。
これは野球の甲子園などで確認できる。監督は審判に抗議してはならず生徒が行わなくてはならない、なぜなら生徒の自主的な活動だから。(どれだけ事実と馬鹿馬鹿しくかけ離れていてもだ。)
生徒の趣味であるのだから、どれだけ活動しようが学校による虐待に当たるはずもなく、教員も指導ではないのだから、そこに仕事としての給与や指導における特別手当が発生することは殆どない。(土日などの手当てはスズメが悔し泣きする位には出る。)
確かに部活動は完全に自由に選択でき所属非所属を選べる学校もある。だが当たり前のように部活動への所属が強制される学校も少なくはない。
部活動は指導の場ではないはずだが、部活動(特に運動部)を通して指導を行うことが期待されている現状は揺るがしがたく存在している。
部活動は教師の完全な指導と強制の下に行われ、自主的な活動が認められていない部も多くあり、退部すら許されず不登校になる生徒もいる。
部活動が生徒の趣味であり、教員は指導をするわけではないという建前があるからこそ、部活動は学校ごとに大きな不均衡をもたらす。(それが学校に利益をもたらすことにもなるが。)
まずもって問題なのは、教員には部活動を経営する教育は一切与えられていないということだ。
教員免許に部活動に関する必修講義は存在していないし、教員採用試験にも存在はしない。
現実の部活動においては教員が生徒を技術指導することが求められているが、その技術指導する教員が適切なスポーツ知識を持っているという前提はない。
そのため、公立高校ですらも部活動においては顧問となった教員によって生徒への教育成果に大きな差が現れる。
部活動は現実として、生徒への教育や指導となっており、その成果は後述するが生徒の進路にも大きくかかわってきている。
しかしながら、それは義務教育段階ですら機会も完全に不平等であり成果も完全に不平等である。
入試段階で学力偏重が問題であるならば、部活動の成果もまた評価の基準に含まれてよく、そしてその結果は生徒や学校によって偏りがあることは望ましくはない。
部活動が異常な拘束時間をほこっても行われるのには、これは誰でもわかることだが、そこに大きな利権が存在しているからだ。
学校の入学希望者は、その学校にどんな部活動があるかを明確に意識して選んでいく。ある部活動が全国的、県内でも有力であるかどうかは入学の大きな動機になっている。
部活動で大きな成果を出せば、(建前では成果の主体者ではないはずの)学校に大きな利益をもたらす。
プロになれば知名度は上がる。プロでなくとも実業団や有名大学に入れば、そこに企業や大学とのパイプができる。
大学は厳しくなってきたが、それでも推薦枠がある。それはともすれば進学率就職率に大きくメリットとなる。
指導する人間には、その働きに対して金を払う必要はない。存分に働かせれば良い。
資金が出せず設備を整えられないが成果は出してほしいため、労働者(生徒)には労働時間を増やして成果を出させようとする。
私立で学費免除などで多いが、公立高校でも独自入試、つまり一芸入試のようなものなど、いわゆる入試に下駄をはかせる行為も未だに行われている。
確かに学力だけで生徒の可能性を測るのは良くないかもしれない、高校に入れるのが学力によって選抜されることは不平等かもしれない。
しかし学校の成績は学力でつけなければならないものが他の活動で評価される部分よりも多くあるのだ。
定められた教育内容を覚えたといえない限り、それを卒業できる学力に達しましたと認めることは難しくなった。
下駄を履かした生徒の授業を担当することになった教員も悲惨である。下駄を履かせてどら猫を追っかけさせればそれで優に出来るなら良いが。
下駄を履いていない生徒に定めた最低基準と同じだけの成果を出さないことには、成績に可をつけられない。特に公立高校では、明確に許すことは建前上できない。
授業は、その特待生に足を引っ張られ、入試を越せない人間にすら理解できる内容まで落とさなくてはならない。
その上、多くの生徒には授業によって良い大学を目指せる成績まで上げることを求められる。
そして特待生を抱えるような部活動はやはり長時間の活動時間を生徒に課す。
前記したように、夜遅くまで活動する部活動も多く、それによって予復習をする時間も余力もない生徒が多く現れる。
(部活動は特待生のみでは行われず、多くの一般生徒までもが、それによって時間を取られることにもなる。)
疲労した生徒は、授業中に集中することが出来ない。研究結果では睡眠時間が6時間と8時間の生徒には明確な学力の差が現れている。
学力の落ちた生徒は、テストで赤点を取り補習や追試を受けることになる。そのために他の教科すら更に成績が落ちていく。
ここまで問題をあげつらってきたが、しかし、部活動が多くのメリットを生んでいることも事実である。
部活動は日本の高いスポーツレベルを支えている大きな要因である。
野球が世界トップレベルであるのは甲子園という高校野球の大きな競争があるからこそだといえる。
文化系においても書の甲子園やロボットコンテストなど、生徒の育成に大きな力となっている。
また文化への影響も大きい。
複数の生徒が同じ活動することは交友関係を広げ、違う学年との交流を生むことで認識に大きな幅をもたらす。
そして、多くの生徒が共有の「部活動」という体験をしていることは、創作などで「部活動もの」と呼ばれるジャンルを生み出す要因となっている。
多くの人に共有体験があれば、それは一般に受け入れられる創作物の幅広げることになる。
問題なのは、そんな成果や影響の大きい部活動を何一つ政治的な援助も規制もせずに野放図となっていることだ。
一部の教員によって支配されている部活動が体罰などの問題を引き起こす。
それは教員が全て強制の無償活動で行っているからであり、そこに「俺がやってやっているのに」という感情がなきにしもあらずといえる。(実際にそういう声も相談に上ってくる)
育ち盛りで可能性のある若者が、知識のない指導者によって無理な運動を強いられ体を壊す事例もある。
特待生として入学した生徒が芽が出ずに、退学を強いられる問題も起きている。
野球でも度々問題となったが、人材を求める企業などとの癒着も未だに多く存在している。
部活動をなくすべきではない。しかし、現状の大人の建前と利益によって児童生徒が被害を受ける状態は改善されなければならない。
そして出来るならば部活動のメリットをより大きなものにするべきだろう。
部活動が生徒の教育に成果を生んでいるのならば、それを教育活動として認め労働としての対応をしていくべきなのだ。
運動部の指導を運動の素人である教員に任せず適切な指導者を雇い雇用を増やすべきであるし、
少なくとも自民党と日本ユニセフには、存在していない児童への性的被害を問題視するよりも、現実に存在している過酷な部活動を問題にしてほしいところだ。
面白いアニメやマンガ、小説、映画等の創作物というのは、大きなひとつの「異変」が物語を広げている。
まどかマギカにすれば、ごくごく普通の女子中学生が「魔法少女になったら」というひとつの異変。
そのひとつの異変が数々の変化を生み出し「普通」の世界をみるみるうちに変えていく。
どうして魔法少女は生まれ、何のために生み出されたのか、魔法少女になったらどう生きていくのか、周りにはどんな人がいて、どんな性格をしていて、その人たちも魔法少女になったらどうなってしまうのか…
ごく普通の日常にうまれるひとつの異変から生み出される数々のストーリー。
映画でも、ごく普通の世界に突然「怪獣」が現れたら人類はどんなストーリーを辿るのか…というのがパシフィックリム。
パシフィックリムの中ではイェーガーが各国で作られた。
ちょっと裕福なおうちにスラム街に住む頭は良いが性格のねじまがった子が養子に来たら…というのがジョジョ。
大阪のミナミに金には汚いが人情に厚い闇金がいたら…というのがミナミの帝王。
殺人鬼同士か夫婦になったら…というのがナチュラルボーンキラーズ。
実際に反抗する部下がいたら…というのが半沢直樹(見てないけど)
田舎で将来海女になるのが当たり前にそだられた女の子がアイドルを目指したら…というのがあまちゃん
ヤクザが次元を超えた戦いをしたら…というのがデッドオアアライブ
なんて書いたらキリがないけれど、何かのひとつの非現実的な異変によって変わっていく世界を作り出すような人間になりたいなあ…
実は創作物、何を指しているか分からないが、絵や立体物、シナリオなど何でも良いが、確立された技法というものが存在する。
人からパクったものをオリジナルっぽくカスタマイズする方法だって、パターン化されているし、少し勉強すれば創作だなんて凄い楽だよ。
サブカルに関わらず、現代美術、現代音楽、彼らの創作物のほとんどはオナニーじゃないか
客なんてそっちのけで逝っちゃってるだろ
実際、逝ける奴も居るらしいぞ
いくら積み重ねたところで根拠とするには弱すぎるものをあげつらいすぎ。
元トピ職人の釣り解説 • [コラム]釣り分析"「歌い手」だった私にかけられた魔法が解けた
http://topisyu.tumblr.com/post/48442003797
ということらしいが、体験記は私小説みたいなもんなんだから小説言葉を使ってもおかしくないはずだ。この人の理屈だと2chの創作文化に影響を受けた文体で本当のことを書いたとしても創作認定されてしまうことになる。小説っぽい文体の人なんていくらでもいると思うんだが。そもそも「血の気が引いた」や「私の子供でもおかしくないぐらい」なんていう普通の強調表現を小説表現と断ずるところも納得出来ない。
元トピ職人の釣り解説 • [コラム]Facebookで大人気"バスの中で言葉の暴力を喰らった"の釣り解説
http://topisyu.tumblr.com/post/45845841112/facebook
なお、”ムカついたらしく”という相手の感情を表現しているのは、その後の言葉の暴力からすればその人に不快感があったのは明らかに分かるわけで、事実ならばあえて書く必要はありません。小説のように状況を説明する必要がある創作物で見られる、相手の心象を読者に理解させるための表現です。
ここでもまた小説論法だが、この程度の冗語は普通の表現であって釣りか事実かと関係があるようには思えない。
もはや言いがかりにしか思えない。釣りの証拠として何の足しにもならない。よっぽど砕けた口語じゃない限りいくらでも小説表現認定されそうだ。
この記事では、「フェイクによって釣りと同じような矛盾が出てくるのでフェイクと釣りの判別は慣れていないと難しい」という旨のことが書かれているが、自分が釣りだと認定した読み物についてはちょっとした矛盾も突付いて印象操作するので中々のダブルスタンダードだ。
ミシュランの星がついたレストランで同棲中で婚約中の彼女と食事をした
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20131015001328
これはとぴしゅじゃないけど、ちょっと前話題になったこの記事には、ただのパークアンドライドかも知れないのに「電車で運転?釣り?」みたいな反応をしてる人がブコメ・増田共にいる。この人たちはとぴしゅよりも杜撰。