はてなキーワード: 倫理学とは
表現の自由には法学的観点と倫理学的観点の2種類があるんだが増田にしろTwitterにしろここをごちゃごちゃにしてる奴が多すぎる。例えばヘイトスピーチは法学的には一切問題なしで議論の余地もなく終わる問題なんだよ(ヘイトスピーチ規制法は国家に守るよう取り組ませるもので個人については何も言っていない)倫理学的観点から話してるやつに法律ではこう決まってるって言ったところで法律が間違ってますねで終わらせられるからな今後表現の自由について語るなら自分がどっちの立場で考えてるのか(ネット上の表現の自由論はほとんど倫理学的観点からの話だと思うが)相手がどっちの立場から語ってるのかくらいは見ておけよ
1 人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。「倫理にもとる行為」「倫理観」「政治倫理」
2 「倫理学」の略。
私は全人類が共通して守るべき倫理があると信じる者だが、それがどのような内容なのかは分からない。
キリスト教徒にはキリスト教の倫理があるだろうし、イスラム教徒にはイスラム教の倫理があるだろう。
同様に日本人には日本人の倫理があり、アメリカ人にはアメリカ人の倫理があるはずだ。
「倫理観のアップデートを」と書いてあるが、それはどの倫理規範を指すのだろうか?
それぞれがそれぞれの倫理を尊重する表現をするならば、それは現状と何ら変わりがないだろう。
安心してちょうだい元増田ちゃん。あなたは死ななくていいわ。誤解なのよ。
あなたがどういう道筋でその“正しいヴィーガン”にたどり着いたのかはわからないけれど、私の知る範囲で(倫理的)ヴィーガンの主張のなかにその結論を肯定するものは無いわ。早まらないで。
功利主義に基づく倫理的ヴィーガンの観点から、あなたの誤解についてお答えするわ。
功利主義的には「苦痛の総量を減らす、または苦痛と快楽の収支がプラス(快楽が苦痛を上回る)になる」のが倫理的に良いことなのね。最大多数の最大幸福。
細かく言えば「苦痛と快楽」とは別の指標を用いた功利主義もあるけれど、動物倫理の場合はもっぱらこれ。
したがって、畜産において“飼育、屠殺による動物の苦痛”が、人類の得る利益(快楽または苦痛の低減)を上回る場合、“畜肉を食すべきではない”と判断できるわ。
逆に、動物の苦痛が人類の利益に比して十分に小さい場合、それは倫理的に許容されうるわ。
同上
ただし、たまごや乳製品はそれ自身が苦痛を感じる能力を持たないため、畜肉と比べると倫理的ハードルは低いわ。
例えばジャイナ教は非暴力が重要な教義の一つなので必然的に菜食主義だけれど、苦痛を与えずに絞った乳は飲むわ(ラクト・ベジタリアン)。
同上
衣料品の場合、動物を苦しめずに済む代替品が豊富にあるならば、あえて動物性の衣服を着るのは倫理的に肯定しがたいわね。
医薬品の場合、主に動物実験に関する問題ね。この領域は動物倫理的にかなりホットよ。
功利主義的な動物倫理においては、動物実験は必ずしも否定されないのよね。まあ論者にもよるけど。
動物実験における動物の苦痛と、完成した医薬品による人間の苦痛の低減。これの比較で後者が十分に大きければ正当化され得るってわけ。
もたらされる苦痛や死が“意思に反して”いるかどうかは、功利主義的には必ずしも重要ではないわ。
“意思に反”することで、苦痛がより増えるのであれば考慮に値するといった程度かしら。
例えば、糧を得る唯一の方法が狩猟であり、それをしなければ(人が)死んでしまう場合、狩猟による動物の殺害は倫理的に正当化され得るわ。
植物は(少なくとも痛みが神経系によって発生するという生物学的知見を踏まえれば)苦痛を感じないため、功利主義的には道徳的考慮の対象ではないのよ。
ちなみに、倫理的な考慮の対象となる立場を「道徳的地位(Moral standing)」と言うわ。
「何が道徳的地位を持つのか」というテーマは分野や論者によって異なっているわ。功利主義の場合、「苦痛を感じる能力を持つ」ことが道徳的地位を持つ条件ね。
厳密に言えば動物でも苦痛を感じない、例えば海綿動物(きわめて原始的な動物群。神経を持たない)、も功利主義的には道徳的地位を持たないと言えるのね。
また、道徳的地位は持つ/持たないの2択ではなく、強弱も存在しているわ。功利主義なら苦痛を感じる能力の程度ね。
例えばエビ1匹を殺すより、ヒト1人を殺した方が倫理的に悪いと判断できるわけ。
これは個々の人間にも適用でき、健常な成人を殺すより新生児や重度の知的障碍者を殺す方が倫理的に悪くない(もちろん両方悪いが、比較すればそうなる)。
功利主義者がリベラリスト(の一部)、特に障碍者支援者などから嫌われるのことが多いはこれが理由ね。
同上
命を奪うかどうかにこだわってるようだけれど、功利主義的に重要なのは苦痛よ。死は苦痛の一形態たり得る資格を持つというだけ。
自然破壊につながる水道水やミネラルウォーターを飲むべきではない わかる
んー?ここら辺は倫理的ヴィーガンよりも環境主義的ヴィーガンの主張に似てるかしら。
でも環境主義的ヴィーガンの場合、畜産や養殖(の一部)による環境負荷を語ることが多いから、ヴィーガンの主張としてはあまり見ないわねこれ。
水資源の利用による環境破壊はあるにせよ、この書き方だと曖昧過ぎるのよねえ。元増田ちゃんもうちょっと具体的にお願い。
なお、功利主義的に答えるなら、その営為で発生する苦痛が人間の快楽(または苦痛の低減)を上回らない限りOKってことになるわ。
地球温暖化に寄与している二酸化炭素は化石燃料などの地下資源由来で、地上で吸って吐いてした分はほぼ無関係よ。
陸上の炭素循環は(長期的に見れば)収支が釣り合っていたのだけれど、地下に封印されていた(炭素循環の外側にいた)分の炭素が放出されたことで、プラスに傾いちゃったわけ。
家計で言うなら年収200万円(手取り)で年間支出が200万のご家庭に、月々1万円の副収入が加わって年12万円の余裕ができましたって話よ。呼吸は年収に含まれ、支出は炭素固定(主として光合成による)で、化石燃料が副収入。
ちなみに、畜産による温室効果ガス放出(主としてメタン)への寄与はけっこうな割合(確かCO2換算で全体の約14~18%くらい)。あなたが牛ならゲップをやめるのは倫理的かもしれない。
全部わかる
あら?もしかして徳倫理学の方だった?功利主義は結果主義の一分野なので“気持ち”なんてほとんど関係ないもの。
徳倫理主義は、雑に言うと「動機が善ならば善」というもので、良かれと思ってやれば善であるっていう素朴な倫理なのよね。
最近は見直しが進んでるって話だけど、あまり勉強してないから詳しくないのよ。この分野。
呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る者は悪魔だ
みんな死のう
死なない者は悪魔だ
功利主義からはまず導かれない結論なので、やっぱり徳倫理主義なのかしら。
でも、良かれと思って“呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る”なら、徳倫理主義的には善なのよね。
ここまでは功利主義の観点から答えてきたけれど、やっぱり本人の倫理的観点も考慮しなきゃ片手落ちよね。
でも困った。元増田ちゃんがどんな倫理的基盤でヴィーガンになったのか、わからないわ。
最初の方の考えは倫理的ヴィーガンに対するよくある誤解またはジャイナ教当たりの非暴力主義とPlant thoを混ぜこぜにした感じ。中盤は環境主義っぽいけど問題視する部分がズレてるし不明瞭、後半はさっきも言ったけど徳倫理学っぽいけどなんか違う。
うーん、ネットからいろんな主張(誤解や曲解を含む)を集めてきてパッチワークした感じなのかしら。
ヴィーガンへのバッシング目的で書かれたなら「藁人形乙」で済むけれど、真剣に悩んでいるなら誠意ある回答が必要よねえ。
けっきょく“正しいヴィーガン”が何なのかはわからなかったけど、変な結論から脱却するための私的おすすめ方法を3つほど挙げてみたわ。
良ければ死ぬ前に試してみてちょうだい。チャオ!
辛いならヴィーガンなんてやめちゃっていいと思うの。割に合わないわ。もし心苦しいなら減肉食主義(Reducetarian)くらいから始めてみたら?
私も環境主義的観点(スパイスとして功利主義も一振り)からSemi-vegetarianやってるけど、あまり縛り無いから楽よ?
ヴィーガンからは偽善だなんだ言われるかもしれないけど、まあいいじゃない。自分が納得すればいいのよ。
(2) 勉強する
ヴィーガンやるなとは言わないけれど、何かしらの倫理的または論理的支柱がないと厳しいと思うの。
元増田ちゃんの考えを見るに、あまり一貫した基盤を持っていなさそうだし、環境問題についても詳しくなさそう。体系立てて学ばないと混乱して変な結論にたどり着いちゃうものよ。
いろんな視点、論者ごとに調べてみて、自分に合う立場のものを探してみるといいわ。まずは模倣からよ。
おすすめはピーター・シンガー。「すごいなあ。ぼくにはとてもできない」ってなるわ。
(3) 食生活的ヴィーガン(Dietary vegan)になっちゃう
食事だけヴィーガン。健康目的が多い。一番気楽なタイプのヴィーガン。動物倫理とかうっちゃってる(またはつまみ食い)。毛皮のコートも着ちゃうかも。時たまニセ科学に両足突っ込んでるから注意。
やめたいときにやめられるし、始めたいときに始められる。亜種として一時的ヴィーガン(Part-time vegan)なんかもあるわ。
「ちょっと一週間くらいヴィーガンになるかー」とかできちゃう。「それヴィーガンなの?」という気持ちに蓋ができるならおすすめ。
私は現役東大生だが、
「現役東大生だが、上野千鶴子の祝辞はゴミだと思う」(https://anond.hatelabo.jp/20190413114026)に反論を試みたいと思う。
ここには上野氏の祝辞(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html)がほとんど引用されていないので、論旨が追いづらいかも知れないが、読んでくださる諸氏にはご容赦願いたい。
以下、引用中略は[……]、上野からの引用は「」、上記はてなからの引用は四角い枠と “ ” 、私自身の強調は[]で示した。
↑ソースはここhttp://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/09/10/1409128_002_1.pdfで、六年間の推移が1.17→0.76→1.31→0.95→1.04→1.04でその平均が1.03なので仮説検定をすれば有意でない、すなわち平等とわかる数値なんですが、なんでこんなに持って回った言い方するの?
この後に述べられている通り、「医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、何らかの説明が要る」。そして平均としては確かに1程度である(女子は医学部にだけ特別に入りにくい)ので、他の大学より遥かにマシだとはいえ、このデータには読み解くべき何かがあることになる。
↑ここまでの話をまとめると、私立大医学部ではどうやら不正な入試が行われているが東大では医学部はじめ全ての科類で平等な入試が行われている。ということなんですが、これはもはや私大の医学部の問題[……]で、東大の入学式の祝辞の一発目に持ってくる話題としては不適当では?
東大は(権利問題として)特権的な学府ではなく、他の最高学府と並列の、ただの[大学]だ(事実問題は置いておいて)。だから、他の大学の話は、東京大学という固有名において確かにそれだけ関係が薄いし、しかし大学であるという点において強く関係している。他の大学との交渉も避けられない状況、そして例の不正が、入学試験という、どの[大学]にもある制度に於いて発生した不正である、ということに鑑みると、やはり他大入試の不正は無関係であるとは言えないだろう。
↑ここ統計データを示せよ。なんで女子が差別されてる話は具体的な数字出しまくったのに女子が優れている話は具体的な数字出さないんだよ。
これは、追記
(https://anond.hatelabo.jp/20190414151912)
により推察されているとおりだと思う。
女子学生の偏差値のほうが上だというのは、東京大学の受験者を母集団とした時の偏差値のことで、偏差値の正規分布に性差はないというのは、母集団を全体とした時の話である。そのくらい、現役東大生なら読み取りましょう。
大学進学率の男女差の原因分析は、統計一本では不可能だ。たしかに、その差が統計的に有意かどうか示されていないのは穴かも知れない。原因が性差別によるものだということも、根拠は示されていないのもそのとおりだ。だが、それは先にも指摘したように統計のみによる分析ではない。他の統計やフィールドワーク、社会学的な先行研究などを踏まえて、より厳密な研究において慎重に示されたものだろう。それが省略されたものだと読むのが適切だろうと思う。
まあ、なにか根拠を示して欲しいとは思うが、そこは論文を読めということを世論に誘導しているのだろう()。
そう……彼女はここに於いてことごとく結論を省いているのだ。それを私が補うこともできようが、それは実に恥ずかしいのでしない。とにかく、その空隙はみな、彼女の策略だと読むことができる。……できる、というのが曲者であり重要で、テクスト読解における著者の意味論的意図をどう扱うかという問題に繋がるのだが、とりあえずここでは、そのように[読める]ということはそのような解釈を受け入れて良いと言うことでもあると述べておこう。
↑てか普通に考えたら 第一:女子は安全志向 第三:親が性差別している を要因として 第二:東京大学入学者の女性比率が二割以下 が発生してるって話になるだろ。なんで並列なんだよ
ここは正直、言っていることがよくわからない。第一及び第三を原因として第ニは導き出される、ということを言いたいのだろうか?それを指摘すれば丁寧だったかも知れないが、特に指摘する必要はない。
ここで示されているのは、①女子は安全志向(ゆえ男子と比べ偏差値的の高い人が東大を受験する)、②女性比率が二割以下であり、偏差値の高低に性差はないため、男子と比べ(略)、③女子は男子より四年生大学進学率が低く、大学受験自体への逆風がある、ということだ。追記にある、③への疑問はもっともで検証は必要かも知れないが、大学進学をdiscourageする気風がある中で尚、東大進学を果たす人の集団がそうでない人の集団に比べ優秀であると推測するのはそう不自然なことではない。
東大の「1.03」という数字に不正の影を見るかどうかはわからないが、少なくとも医学部に女性を入れにくくする何か(不正に限らず)が働いている、と疑いを抱く読み解きはおかしなものではないだろう。
↑「娘の翼を折らないようにしてきた」という父親の事例を挙げて得られる結論がどうして「多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきた」なんだよ。
確かに論理的にはそこからそれは導き出せないが、これは論理的な筋を追う文章ではなく、レトリックとして、別の事例に於いてしかし同様の自体が起こっていることに結びつけ、全体の帰結を引き出している、ある種の帰納的な修辞だ。繰り返すように、これは論文ではなく演説である。
↑どうやって?
確かに画一化。まあしかし東大男子が全体の傾向として異性にアトラクティヴなものとして映るというのは間違いではないように思う。
男子大学生は東大生であることに誇りを持っていることは傾向として否定できないと思いますけどね。
統計的傾向は個人を説明し切ることが出来ないが、かと言ってそれ自体を否定できるものではない。
そもそもここでの画一化は突然ではない。初めから、男女という、大きな別々の傾向性を持つ、二つの、緩やかな集団の話をしている。
〜同様のため中略。極めて不毛。〜
↑どんな目で見られてるかちゃんと言えよ。マイナスイメージ[……]が正しいと言いたい(文脈的にこっち)ならそれは性への圧だろ。
[どのように]見られているか明確に言わない、というのはやはり演説的(というか普通の意味で)レトリックであろう。文学に於いて、全てゴテゴテ説明したら品がないし衝撃を薄めてしまうのと同じかと思われる。
高学歴男性批判なのだから、『彼女は頭が悪いから』における見方に一定の価値を置いていることは明白であるし、“性への圧”をかけていることを批判しているのだから、その抑圧的な側の“性への圧”になるのは当然だ。“圧”をかけねば批判できないのだから。
↑男子サークルって書き方からして完全に男子を悪者にしてるけど他大学の女子が競争相手を減らすために東大女子を入れないようにしてる可能性だってあるだろ。性差別か?お?
そのような事例は、全体の傾向からして少数派であると判断したからだろうという反論と、他大女子がそのような行動をしているというのならば、やはり女子は勉強が出来ると魅力が減るという偏見の存在を証明することになるという反論の二つが想定できる。
原因ではなく、東大に於いて性差別が存在していることを、別の形での表出を例示することで補足的に示している。
“時代性が交絡するようなデータ”というのが何を指しているのかよくわからないが(学部などの学内女性比率のデータと、学部長などに女性が極めて少ない上東大総長に女性がいないことを示すデータ、という2つがあることか、それぞれのデータが何年度の調査であるのか示されていないということなのではないかと思う)、両者は比較されていないので、双方共に有効なデータであれば問題なし。
これも文意がうまく取れなかった。
上野氏の話の内容が“祝辞で喋る”のにふさわしいかどうか、というのであれば、個人のスタンスによると思うので割愛。私の意見を結論だけ言えば、全く問題ないと思う。……少しは気の毒と思うけれど。素朴な親御さんにとっては。
↑これ普通に気になるな
気になりますよね。
闘ってきた、ということは事実の記述。恵まれた環境がそれを支えてきたかどうかとは別の問題。もちろん、その闘争も、努力のみならず、阻害しない環境が最低限整っていたというのは間違いないと思う。
不正入試だけではなく、大学における女性差別という[がんばってもそれが公正に報われない社会]がある、という話。
加えて、それでも、努力が[東大合格]という結果に対しての最低限、報われる環境という必要条件を満たしていたことは、観測選択効果により論理的に明らかである。
↑これはまあそういう意見もあるよね。
そうですね。
↑恵まれない人を助けることに繋がらない学問やっちゃいけないの?ブラックホール撮影しちゃだめ?ニュートリノ観測しちゃだめ?
第一ブラックホールの観測は、恵まれない人々を貶めない。むしろ間接的にではあれ勇気を与えることもあろう(嫉妬深いポスドクを苦しめるかも知れないが……)。
この言葉は決して、能力の使途範囲を積極的に規定しようとするものではない。「弱者」を貶めるために使うな、と言っているのだ。そうしなければ、差し当たり何に使っても構わない。「弱者」を助けるため[だけ]に使えなどとは言っていない。
そして、ここは確かに難しいところだが、社会的「強者」である東大生が持つ、大きなリソースが「弱者」に分配されれば、社会状況は良い方向へと一歩進むだろう。そのためにも、その力を「弱者」のために使ってほしいと、[お願い]しているのだ。命令でも、べき論でもない。これは[自由意志]に訴えるしかないのだから。
結局東大生に弱者であって欲しいのか弱者を助ける存在であって欲しいのかが見えてこない。弱者を助ける存在もまた弱者で、だから他の弱者に助けてもらいましょう。ということなのかな?全員弱者なら女子受験生の話をした意味は?
おそらく全ての人は、あるところに於いて「強者」であるとともに、また別のところでは「弱者」である。絶大な権力を持つ政治家は社会関係の多くの場面で「強者」だが、病院に行けば脆弱な身体を医者に晒しているかも知れない。東大女性だって、社会通念に於いてはそれが負の属性であるかもしれないが、知性を持つという事実に於いて「強者」でもある。「弱者」というのはここでは女性という属性のことだけではない。みなが持ち、みなが足蹴にする可能性のあるものだ。
↑まずこの弱者って特に女性を指してるの?だとすれば女性は謂れなき差別を受けていてそのために被害を受けているという話だったよね?てことは女性は謂れなき差別を受けたままで尊重されるべきってこと?意味不明じゃない?
[「弱者」である]ということは差別を受けるということと等価ではないだろう、当然。分かるよね?
……付言するなら、「弱者」である自己を否定否認して「強者」に成り上がることだけがこの社会に生きる唯一の道だというなら、それは極めて殺伐とした恐ろしい世界だということだ。相対的に見て、ある能力に乏しい存在であるということは、[悪]を意味しない。そもそも、能力の優劣自体も、極めて価値論的な事態なのだから。
総評として、全称記号と任意記号の恣意的な混同によってデータを自分の都合のいいように改変して使用する、統計学ひいては学問を完全に馬鹿にした祝辞であったように思える。思想としてのフェミニズムであればこのような「過激な」スピーチにより注目を集めるのも一つの作戦なのだろうが、この人は「学問としてフェミニズムを修めている人間」として「これから学問を修める3000人の東京大学新入生」にスピーチしたわけで、その内容としては甚だ不適当だと言わざるを得ない。
はっきり言って、こんなものを褒めそやす人間は、たとえそれがどれだけメタ的な視点からの評価のつもりでも、科学の世界を脅かすありふれた権威主義の愚か者の集団に含まれる一人にすぎないと言えよう。
統計的根拠を一々述べ立てるアジなんざ、アジとしての役割を果たすわけないのだ。全称命題と存在命題とを断りなく混在させているのは事実だが、どれがどちらかというのはきちんと読み解けば理解できるものだし、そこで意味されている内容も至極真っ当なものばかりだ。根拠が常に明示されているということが学問の第一条件ではないし(科学的方法論に於いては絶対かも知れないが、それでも初めは根拠の見当たらないところから探求はスタートするのである)、目の前に立っている人間がいつも親切に根拠を示してくれると思うなら、それは歩行器に頼り切って自分は歩けると錯覚してしまっている憐れな赤ん坊でしかないだろう(そんな自意識的な赤ん坊はいないけれど)。
それに、学問的営為が実践と不可分であるような領野などいくらでもある。工学は社会実装を常に見据えてあるだろうし、医学や看護学や臨床心理学などは常に目の前に他人がいて、それにどう働きかけるかという視点がなければ成立しない。クローズドスキルだけでは学問は成り立たない。倫理学者が、平気で己の立てた操に反しているならば、それこそ非倫理的だろう。厳密にいうならば、程度の差こそあれすべての学問は日常に接続しているはずなのだ。そもそも、このスピーチは学問的に水準以上の盤石さの上に成り立っているものだと思われるわけだし。
権威主義を警戒する姿勢は全く健全なものであるが、目先の手触りのザラツキに神経を逆撫でされて走り出してしまうのはいただけない。きちんとテクストを読み解いてから、非難に当たるべきだろう。そのようなあり方こそが学問的な……という以前に、真摯な姿勢による対応だと思われる。
19世紀のアメリカにジェニファーという女性の神経学者がいた。彼女は学者というよりは詐欺師として扱われていたようだが、彼女が打ち立てた理論、Karma theory はのちの構造主義の前身となった。専門は神経学だったが、それだけでなく倫理学や哲学、キリスト教神学にも通じていた。彼女の論文の主張は、誤解を恐れずに言えば、神経学はキリスト教的視点を捨てて、もっと多角的に分析されなければならないということだ。
昨今、神経科学が倫理的でなければならないということは自明であるかのように言われているが、しかし実は全く自明ではない。
例えば、神経に電気を通して反応を観察する診断の事例がある。通電によって生じた影響が人体に長く残ってしまうかどうかは専門家の間でも意見が分かれている。もし倫理を優先するならば、治療の現場はこのような瑣末な判断で溢れてしまうだろう。そのような状況にもかかわらず、この直観に反する事例が報告された。
Q. その事例とはなにか。
マジな話をすると、痛覚の有無は幸福という道徳的観念の可否に関わるしそこで植物と動物に明確な線引きがなされる。
痛覚や幸福を感じない動物(たとえば知的障害をもつ人や意識不明のひと)を殺していいのかというのは倫理学上重要な話だけれど、そこで大事なのは「生きているから殺してはならない」なんて話ではなく、「理屈の上では殺しても問題がないはずだけど実際は抵抗を覚えるのはなぜか」という倫理の話。倫理の話になると「仕方がないと済ませるお前たちは目の前で家畜が殺されるのをみてなにも感じないのか。感じないなら仕方ないかもしれないが、殺されて一ミリでも『残酷だ』と感じるなら、それを無視するお前たちは倫理を大事にしないという点で間違ってる」くらいの反論は帰ってくる。
まあこの辺はめっちゃくちゃざつな例だけど、動物倫理学はその辺の論理武装くらいとっくに終えてるよ。ピーター・シンガーあたり読んだ?
20☓☓年の日本ではクリエイターの権利は神聖不可侵のものとされていた。日本のコンテンツを海外に売り込もうという政府の意向と、表現の自由を最大限にしたいというクリエイターおよびそのファンの願望が合致したのである。保守派の議員が表現規制を推進しようとした時代はとうの昔に終わり、いまや与党の中枢は表現の自由戦士で占められていた。
刑法が改正されて「クリエイター侮辱罪」が制定され、表現の自由を侵害するフェミニストの一斉弾圧が行われた。それは表現の自由の侵害であると主張した憲法学者や弁護士たちも逮捕された。
現在、逮捕された彼/彼女たちは思想改造のため、強制収容所に収監され、萌え絵やエロ絵に囲まれて生活している。しかし、その一部は弾圧を逃れ、「隠れフェミ」として地下活動に励んでいるとされていた。警察はいまもその行方を追っている。
街角でも、萌え絵やエロ絵に対する批判はいっさい禁止され、公共の場に氾濫するエロ絵に「違和感」でも表明しようものなら、即座に密告され、逮捕・収監される状況になっていた。コミケでは、エロ絵のバッグが大々的に復活し、終了後のりんかい線やゆりかもめには幼女の裸のイラストが溢れる事態となった。
渋谷の大通りに幼女の裸体イラストの広告が大々的に掲示されたときには、CNNやBBCは「二次元ポルノ大国日本」として報じたが、そうした記事をSNSで紹介するだけでも「出羽守」「売国奴」とみなされ、たちまち糾弾の対象となった。
街角の書店はほぼ全滅し、大規模書店が大都市の中心地にみられるだけになっていたが、そのなかで大部分の書籍の表紙は萌え絵になっていた。夏目漱石や森鴎外などの小説の表紙は言うでもなく、ハンナ・アレント『人間の条件』の表紙は当然のごとくデフォルメされた美少女アレントであり、アリストテレス『ニコマス倫理学』の表紙にはニコニコしながらマスをかいている美少女のイラストが描かれていた。フェミニストの書籍は言うまでもなく大部分が発行禁止になっていたが、ストロッセンや初期の牟田和恵などの著作は大々的に宣伝されていた。
この頃になると、全国民のあいだで「二分間憎悪」が行われるようになっていた。ある時刻になると、街角のスクリーンや各々のスマホの画面に「パブリック・エネミー」が現れる。それを国民全員で罵倒するという儀式である。
そのパブリック・エネミーには、かつて名を馳せ、いまは地下で活動しているとされるフェミニストが選ばれていた。そのフェミニストたちがスクリーンに登場するや否や、国民は男女を問わず「フェミナチ!」「全体主義者!」「表現の自由の敵!」といった罵詈雑言をぶつけるのである。二分間憎悪の最後には、そうしたフェミニストたちが性的に陵辱されるアニメが映し出された。これも「表現の自由」により擁護される表現なのであった。
そうした体制に違和感をもち、密かに「隠れフェミ」に関心をもった女性がいた。やがて彼女は『フェミニズムと表現の自由』なる著作を手に入れ、その内容に惹かれていく。だが、実は「隠れフェミ」は彼女のような異端者を駆り出すための仕掛けにすぎず、『フェミニズムと表現の自由』もその餌にすぎなかった。
熾烈な拷問の結果、彼女はクリエイターへの忠誠を誓って解放される。彼女はただ処刑されるのを待つだけの身である。彼女が見上げると、そこには巨大な幼女の裸体のイラストが掲げてあった。そうして彼女は泣きながら、自分がそれを愛していることに気づくのであった。