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2021-02-20

マック飲み物をこぼした子供、見ていたおれ、助けたおばちゃん

マクドナルドの二階、階段から一番近い席で、おれはポテトをパクつきながらスマホをいじっていた。

その奧、壁際の席ではおばさんが二人、向かい合って談笑している。

そこへ一人の少年トレイを持って階段を上がってきた。

おれの席からはその姿が嫌でも目に入る。

階段上り切るその瞬間、少年最後の一段につまづいてバランスを崩し、飲み物トレイから落としてしまった。

床に広がっていくコーラ直立不動で固まる少年少年を見つめるおれ。

少年と目が合い、数秒間見つめ合う。

「え、こぼした。飲み物めっちゃこぼれてる。え、助けた方がいいのか、何してんのトレイを一旦横の回収棚かテーブルにでも置けばいいんだ、助けるっていっても出来ることないよな、外国の子かな、ナプキン余ってるから拭いてやるか、こっち見てる、二枚じゃたいして吸えない、いやそこまですることないだろ、なに固まってるんだ、棚に置いて店員呼びにいけばいいのに」

時間にして3,4秒。咄嗟のことで何も出来ず、ただ頭の中でぐるぐる思考を巡らすおれ。固まるおれたち二人の間に奥の席で談笑していたおばちゃんの一人が割り込む。

あらあら〜、もう一回店員さんのところに言ってこぼしちゃったって言っといで!たぶん新しいのくれるから

少年に近寄り、自然に指示を出すおばちゃん

助け舟を出された少年は指示に従い、階段を引き返していった。

おばちゃんは席に戻り、もう一人のおばちゃん

「優しいわね〜、やっぱり子どもがいると違うわね」

と、おばちゃんファインプレーを讃える。

ということが先程起こったんですが、おれの情けないことと言ったらね。

なんであそこで動けないのか。優しさを発揮する前に「でもそこまでする必要あるかな」とか余計なことを考えてしまうんだよな。

少年マスクをしていて表情が読めなかったとか、落としたのがハンバーガーだったら拾ってやったけど飲み物はもう拾えないし特にしてやれることがなかったとか、このパターンは初めてで戸惑ったとか言い訳じみたことは色々思いつくものの、おばちゃんの方が立派だよね。人として。

自分が行動を起こす妥当性というか「これ、おれが助ける必要があるか?一人でなんとか出来そうじゃない?」とか一旦考えてしまうんだよな。優しさなんてその原理からして妥当性を超えたところにあるんだから、余計なこと考えずに助けてやればいいものを。とりあえず近付いて「大丈夫?」とか声を掛けてやればいいものを。

もし、飲み物を零したのが自分だったら、即座にカップの残骸を拾って捨ててトレイ一旦置いて店員さん呼びに行くから、なんで子どもが何もしないで突っ立ってるのかマジで理解できなかったんだけど、中一ぐらい?ってあんなもんなのかね。どうしていいかわかんないものだったっけ。お兄さんもう覚えてないや。

しかも、その時スマホで見ていたのが倫理学講義レジュメだっていうのが、また情けなさを引き立てるよね。「医師は、重度の知的障害者を持った新生児が命を落としかけていた場合に、両親が望まぬ手術を施すべきか」なんて問題医者になる予定もないおれがうんうん考えてる暇があったら、もっと現実的問題に目を向けろ。「マック飲み物をこぼした少年を助けるべきか」を考えろよ。知行合一でないと。頭だけでっかちでも仕方ないんですよ。実践経験のない現代っ子はこれだから困る。

でも本当に子どもと関わる機会なんてゼロからね。どこで実践なんて積めばいいんだ、という話でした。少年トレイに新しくもらった飲み物を乗せて、今度は転ばずに階段上り切り、それじゃおばちゃんまで届いてねーだろってぐらい小さい声でボソッとお礼言ってました。おわり。

2021-02-03

anond:20210203202834

https://twitter.com/tm2501/status/1356865620206186496 と連続するツイート

主張を箇条書きにしてみると、こんな感じだろうか

 

原:何度も言ってるけど、「社会学哲学は真理の探求や再発見目的とした学問じゃないことが問題」なんですよ。

訳:社会学哲学は、真理の探求や再発見目的とした学問に見えず、問題であると感じる。

理由は示されない。事実ではなく感想

 

原:これが科学なら(以下略

訳:社会学哲学科学ではない。「議論に参加するまでの難しさ」や「成果を示すこと」によって、大衆を納得させることができないかである

意味不明。主張者が科学一般的定義について理解しているのかは不明

 

原:だから個人的には哲学歴史学倫理学の一部ぐらいに(以下略

訳:社会学哲学は、真理の探求や再発見目的とした学問に見えず、問題であり、また、社会学哲学科学ではないから、哲学歴史学倫理学の一分野として扱うべきだし、社会学民俗学経済学又は心理学の一分野として扱うべき。

意味不明

 

原:これが国なら不法行為を取り締まるのは基本警察以下略

訳:国家機関官公庁)に例えてみると、不法行為を取り締まるのは、基本的には警察である

 但し、法律で定めのあるものについては、公正取引委員会麻薬取締官労働基準監督署国税庁消費者庁等所管が違う場合があ(って、一見ややこしく見え)る。

 

原:「ややこしく見える」は控えめな言い方で(以下略

訳:哲学者や社会学者は、自らの学問のみでなく、周縁の学問についても深い学識を有すべきだが、そうした訳でもなく、自らの狭い理解物事を語ろうとしており、問題である

→前の主張とどう繋がっているのか、いまいちからない。また、実例が挙げられないので、有効な主張としては取り扱えない。

 

原:お国で言うと特に犯罪が多かったり

訳:国家機関官公庁)で言えば、被害額の多い事件等、ある種の犯罪については、警察とは違う官庁に取り扱わせようというのは、合理性があるから、納得できる。

 

原:でも、社会学哲学って(以下略

訳:しかしながら、社会学哲学は、現代において重要性が低く、また独立した一ジャンルとして扱う必要合理性は認められない。これが世論見解である

理由根拠が示されないので到底同意はできないし、それが世論であるとは言えない。

 

 

以上

全般言葉足らずだな。本人の中では納得できてるんだろうけど

Twitter仕様のせいなのか、余計文章としてまとまりがなく、非常にわかりにくい。

anond:20210203222654

なるほど

警察」←「社会学哲学

公取・麻取・労基署国税庁消費者庁」←「歴史学倫理学民俗学経済学心理学

と対比させてるのかと思って全然理解できなかった

横だけど感謝しま

anond:20210203202834

意訳です。ニュアンス違ってたらごめんね。

哲学社会学は、世間の人に、難しくて偉い学問だと捉えられているふしがあるけれど、実際は大したことない。

例えば、哲学歴史学倫理学の一部とみなせるチンケな学問だ。社会学も、民俗学経済学心理学包含される狭い学問に過ぎない。

ところで、『哲学社会学』と『歴史学倫理学民俗学経済学心理学』との関係を、日本実在する組織になぞらえてみると、

警察』と『公取・麻取・労基署国税庁消費者庁』との関係に似てるのかも。いや、そうでもないかな。

哲学を学ぶ人は歴史学倫理学も併せて学んでいるだろうし、社会学にも他の学問知識が求められるはず。

これに対して、『警察』と『公取・麻取・労基署国税庁消費者庁』との関係は、互いに独立している。ということは、そんなに似てないか

とはいえ、『哲学社会学』と『歴史学倫理学民俗学経済学心理学』との関係を、『警察』と『公取・麻取・労基署国税庁消費者庁』との関係になぞらえるというアイディア自体は、悪くないと思う。

なんか頭良さそうで格好いいし。だから、こだわっちゃう。

例えば、一つの組織だけではカバーできないほど業務領域が拡大した場合に、その組織とは異なる新たな組織作成するのはアリだと思う。

同じように、『歴史学倫理学民俗学経済学心理学』でカバーできない学問領域があるならば、それらの学問とは異なる『哲学社会学』という独立した学問領域を設定するのもアリだと思う。

でも、現状の『哲学社会学』は、『歴史学倫理学民俗学経済学心理学』でカバーできない学問領域を探求するものではない。やっぱ、『哲学社会学』って不要だと思う。

anond:20210203202834

頑張って原文いかしつつ書き換えてみたよー!

国家において、不法行為を取り締まるのは基本警察であるしか刑法で定められる事件のうち、

特定の種類のものは、公取・麻取・労基署国税庁消費者庁など、警察とは独立した組織が取り締まることになっている。(2段落前半)

このように、不法行為の取り締まり警察に一本化されていないのはややこしい。(2段落後半)

とはいえ国家において「『警察』とは独立して公取・麻取・労基署国税庁消費者庁存在」していることはまだ納得できる。

件数特に多かったり、被害額が大きいような犯罪場合、それに特化した取り締まり組織を作ろうというのは、当然の発想だからだ。(4段落前半)

しかし、「『歴史学倫理学』とは独立して哲学存在」していることや、「『民俗学経済学心理学』とは

独立して社会学存在」していたりすることはどうなのだろうか。(独自に挿入)

哲学社会学は、『歴史学倫理学』『民俗学経済学心理学から独立させるほど重要性が高いのだろうか。

わざわざ「哲学者」「社会学者」という独立した仕事を作る必要があるのだろうか…と世論は見ているように思われる。(4段落後半)

なぜならば、哲学をやるには『歴史学 (世界史)や倫理学』に通じていることが当然求められる。

同様に社会学をやるには『民俗学経済学心理学 (歴史的観点人間心理観点)』など、

社会現象の背景を扱う根深学問視点が当然必要である

逆に、もし『歴史学 (世界史)や倫理学』を学んでいない哲学者や、『民俗学経済学

心理学 (歴史的観点人間心理観点)』的視点を持たない社会学者がいるとしたら、大いに問題と思われる。(3段落

まり哲学社会学には、「公取・麻取・労基署国税庁消費者庁を『警察から独立」させたような重要性はない。

哲学は『歴史学倫理学』の一部、社会学も『民俗学経済学心理学』の一部として位置付ければ十分ではないかと考える。(第1段落


技術的な点

哲学社会学警察と対比させる際に、警察では『警察』と「公取・麻取・労基署国税庁消費者庁」、

一方で『歴史学倫理学』と「哲学」のように、『』と「」のどちらが複数の要素を含むのかが逆転しているのが、わかりにくい理由の一つですね。

段落の『歴史学』が3段落世界史になったり、1段落の『民俗学経済学心理学』が

段落では「歴史的観点人間心理観点」になったりと、積極的意味なく置き換えているのも混乱の原因だと思います


追記

わかりやすくしようと、1行目に「刑法」とか入れましたが、労基とかが扱うのは別に刑法案件じゃないですね…すいません。

悪文読むのに自信ある増田ニキちょっと来てくれ

哲学歴史学倫理学の一部ぐらいにランクを落としたほうがいいし、社会学民俗学経済学心理学のどっかでいいんじゃないかな?と正直思う。

これが国なら不法行為を取り締まるのは基本警察。一部の法律だけは公取・麻取・労基署国税庁消費者庁あってややこしく見える感じ。

「ややこしく見える」は控えめな言い方で、これが学問だと「哲学者が倫理学世界史など周辺の学問を学んでないとしたら、そいつはなんだ?」って話だし、社会学が狭い領域のことに影響を受けてその背景をもっと根深学問歴史的観点人間心理観点など)から説明できないとしたらそれもそれで…

お国で言うと特に犯罪が多かったり被害額が多いモノを警察とはまた別の部署を作ろうって話になるのは納得できる。でも、社会学哲学ってそれは独立した学問として存在するほど重要性が高かったり、それ専門の仕事を作る必要があるものか?と言われると…っていうのが、世論からみた感じなのでは?

何を言いたいのか全然からないので誰かこの暗号みたいな文章をまともな日本語に直してほしい


意図だけならわからんでもない。言いたいことは最初の一文だけで、この書き手哲学社会学を何とかして貶めたいってことなんだろう多分。

そしてこの書き手社会学のことも哲学のことも国のことも警察のことも法律のことも何一つわかってないのに知ったかぶりをして何か語ろうとしていることもわかる。

そこまでわかっていても、あまりにも文章のつながりが意味不明

日本人日本語を使って書いた文章だと思えない。


こんな文章を読んだらまたzeromoon0ニキが不安になってしまう。

誰かこの意味不明文章を読解して意味の分かる文章に直してほしい。

正直、社会学叩きって哲学者(というか東浩紀関係者)叩き、パクリデザイン叩きと地続きに見えるんだよね。数理化しづらい学問及び仕事権威を振りかざして暴れてる光景に人々が「その権威、ホンマに正しい?」と

何度も言ってるけど、「社会学哲学は真理の探求や再発見目的とした学問じゃないことが問題」なんですよ。

これが科学なら議論に参加するまでの難しさとか成果を示すことによって「この人達が偉い・大金使って研究してるのは納得できる」んだけど、哲学社会学大衆を納得させるのむずいもん

もちろん、社会学でもちゃん統計に基づいて「これおかしくない?」とか、「こういう問題ちゃんと取り上げて世の中をアップデートしたよ」って言えるような人はいるけど、テレビコメンテーターとそう変わらんことしか言ってない人については…まぁ…ね

から個人的には哲学歴史学倫理学の一部ぐらいにランクを落としたほうがいいし、社会学民俗学経済学心理学のどっかでいいんじゃないかな?と正直思う。

これを国で例えると、国なら不法行為を取り締まるのは基本警察。一部の法律だけは公取・麻取・労基署国税庁消費者庁あってややこしく見える感じ

「ややこしく見える」は控えめな言い方で、これが学問だと「哲学者倫理学世界史など周辺の学問を学んでないとしたら、そいつはなんだ?」って話だし、社会学が狭い領域のことに影響を受けてその背景をもっと根深学問歴史的観点人間心理観点など)から説明できないとしたらそれもそれで…

お国で言うと特に犯罪が多かったり被害額が多いモノを警察とはまた別の部署を作ろうって話になるのは納得できる。

でも、社会学哲学ってそれは独立した学問として存在するほど重要性が高かったり、それ専門の仕事を作る必要があるものか?と言われると…っていうのが、世論からみた感じなのでは?

2時間

前にも言ったけどは諸刃の剣から

言ったこと全部覚えといても揚げ足取りだとか、逆にこっちが言ったこと覚えてなくて言われても文句言えないからね?そのことをあんまりわかってない人がこの言葉を使うんだ

だって重要なことは時間かけて説明したり、何度も言ったりする。

でも聞かないやつは出てくる。

そういう時にはキレないでほっとく。

もう、言ったんだから私は知らん。

考えがあるかも知れんし、やりたくないかもしれない人に説明しても無駄から

なぜ会話しないか考えなくていい。

私は言った。

もう終わった。

必要性に気づいたらまた聞きに来たらいい。

必要性に気づかないか、とくに困ってなかったから私の話を流したんでしょ。

伝わってるからいいよ




狂ってる?それ誉め言葉

私は変わってるかもしれない。

ただ、世の中に「自分意見命令他人絶対に聞かせないといけないこと」はすごく少ないんだ。

から私もあまり言わない。

言わないといけないと考える人支配欲が強いか優先順位がつけられないんでしょう。

知らんけど

誰も得しないというか「お互いにそう言われないために振る舞うことでコミュニケーションコストが高くなる」と思いました。

相手にやられても文句言えないし、嫌なことまで覚えられるリスクができるし

人間同士のコミュニケーションなんてアバウトでいいんですよ

責任ある立場の人ならまだしも普通の人同士で前にあれを言ったこれを言ったとお互いで覚えていて指摘し合うっていうのはすごく大変だから

インターネットではそういう大変なことをやりたがる人はいるけどあまりおすすめしない

2020-12-29

anond:20201229071910

わざわざ倫理学観点からって書いてる元増田に肉を食うのが自明かいコメントをする意味は?って言ってんだよ

anond:20201229071059

まあたとえば生物学でいうと魚類は痛覚があるかないかという点で議論されているし、

農耕・宗教学から日本ケガレ概念とかアニミズム議論だな

もちろんすべての分野で専門なんて人間はいないわけだが、

菜食主義とか動物福祉の話をするときには、少なくとも現代法学倫理学観点だけで語るのは不可能だと伝えたかったわけだ

人間近代以降定義したロジックだけで判断できる問題じゃないってことだけわかってくれればよい

また、それで判断しようとすれば肉食の肯定になるのは自明であるから議論意味がない

2020-12-28

anond:20201228220146

非常に面白かったが、やはり政治学法学倫理学という片方の視点からこの問題を論ずるのは限界があるとも思う。

あくまで上の3つの学問人間定義するものである

生物学医学環境学自然科学といった視点も取り入れないと包括的議論はできないし、

さらに本件は人類の農耕史と狩猟歴史にも関わってくるうえ、仏教ユダヤ教・ヒンズー・イスラムといった視点必要になる。

かろうじてホッブス契約概念などが出てくるが、これもやはり近代以降の西洋哲学上の定義ひとつにすぎず、

それだけをもって菜食主義議論するは素材が少なすぎると言わざるを得ない。

人間を中心にすえた議論においては、菜食の可否は議論俎上にすら登らないのが当然だし、

結論として肉食を続ける」というのは論者の研究分野の選択肢からしても、予期できるものと思う。

余談だが宇宙研究したり数学研究してつきつめる人は、菜食に興味を持つことが多いという。

肉を食っても(倫理的に)かまへんやんか

菜食主義ベジタリアンヴィーガン議論(直近だと anond:20201226231316 に対するコメントとか)において、特に肉食側から倫理的議論が少ないように思えるので、簡単ではあるが、倫理的観点からの肉食擁護を書いてみたい。

私はあくま素人であり、以下の文章個人見解以外の何物でもないことは最初に断っておく。

差別とは

 肉食を倫理的観点から批判する際の最も大きな論点は「種差別である。種差別とは、「単に種が違うからという理由だけで、ヒトとそれ以外の動物差別すること」である。肉食が相手の"命"を奪う行為であることは万人が認めるだろう。また人間同士では相手の"命"を奪う行為に大きな制限をかけるべきであるということも大多数は認めるだろう。であれば、「"命"を奪うことについて、相手人間以外の動物からという理由人間と同じだけの制限をかけないのは差別である」というのが種差別の考え方である

 この考え方は性差別人種差別形式と近い。例えば、男性利益を"男性から"という理由で優先して、女性には"女性から"という理由配慮しないことや、白人利益を“白人から”という理由で 優先して、黒人には“黒人から”という理由配慮しないことは現在では大多数の人が差別であることを受け入れている。同じ用に、人間利益を"人間から"という理由で優先して、人間以外の動物には"人間以外の動物から"という理由配慮しないことは差別であるというのが主張になる。

 一方で、関係する全員に対して平等な考えに基づいた適切な理由によって、ある存在と別の存在の取り扱いを変えることは差別ではなく、倫理的問題はない(※ここでいう差別とは”不公正な扱い”を意味しており”不平等な扱い”ではない)ことも重要である。「菜食主義だって植物の"命"を奪っているじゃないか!」という批判はよくあるが、多くの菜食主義者は"苦痛を感じる能力(sentient)"の有無を理由にして動物植物区別しておりそこに倫理的問題はないと考えている。(なお、植物本体を傷つけない果実のみを食べるフルータリアンはこの点で他の菜食主義者を批判する)

 このように倫理的観点から肉食を擁護するためには、人間動物を食べることについて、すべての生命に対して平等な考えに基づいた適切な理由検討して採用する必要がある。

肉食を擁護する適切な倫理的理由とは何か

 すべての生命に対して平等な考えに基づいた適切な理由検討といっても、何から手を付ければよいのかは難しい。考え方はいくつもあるが、ここでは、伊勢田の「動物から倫理学入門(2008)」の議論を元に進めていく。余談だが、この本は倫理学入門書としてはかなりオススメであるタイトルから菜食主義の本のように思えるがそうではなく、各主張を紹介した上で応用の一つとしてそれを動物に当てはめるとどうなるかを検討している。また、伊勢田自身菜食主義者ではないとのこと。

伊勢田はこの本で下記のように主張している。

倫理判断普遍可能である

遺伝差異自体差別をする理由にはならない

動物人間と同じように苦しむ

認知能力契約能力等、動物人間区別する道徳的重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)

限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない

これらの組み合わせから容易に「動物にも「人権」があり、危害を加えてはならない」という結論が導ける

(p320 終-3 結局動物とどう接すればよいのか)

「①~⑤を認めると動物危害を加えてはならない」ことが正しいとすると、肉食を擁護するためには少なくとも1つを削除する必要がある。それは①~⑤のどれにすべきだろうか?

倫理判断普遍可能である

 普遍可能とは、簡単に言えば"ある状況である倫理判断を善いとするなら、同じような他の状況でも同じ倫理判断を善いとしなければならない"ということである。例えば、私が借金を貸す側のときに「借金を返さないことは悪いことだ」と言うならば、借りる側のときも同様に「借金を返さないことは悪いことだ」と言わなければならない。

 これを削除すると、多くの倫理判断社会ルール無効化されてしまう。例えば、貸し手のときは「借金を返さないとダメ」と言いながら、借り手のときは「返さなくても問題ない」と言えてしまう。こうなると強者弱者を思い通りにできる(少なくとも倫理観点から批判することは出来ない)社会になるが、それを良いとする人は少ないだろう。また「人間動物はお互いを殺してよいし、両者ともそれに抵抗してもよい」という方向で普遍化することも可能だが、それでは「人間人間を殺してもよい」を否定する理由が難しい。

遺伝差異自体差別をする理由にはならない

 (双子を除いて)完全に同じ遺伝子を持つ人間がいない以上、遺伝差異差別理由とするのは難しい。例えば肌の色を黒くする遺伝子を持つから差別していいとは多くの人は賛成しないだろう。生物学的種を考えて、交配して子孫を残すことが可能かという観点区別するという主張はあるかもしれない。だが種差別議論を考えると、交配の可否を"なぜ"差別理由としてよいか説明することは非常に難しい。また、(進化論を認めれば)すべての生物連続しているので、AとB、BとCは交配可能だがAとCは交配不可というA, B, Cが絶滅種も含めれば必ず存在する。Aの立場で考えて、Aと交配可能なBは差別してはいけないが、差別してはいけないBと交配可能なCは差別して良いとするのはルールとしての一貫性を欠くだろう。

動物人間と同じように苦しむ

 確かに、例えば未来概念や愛の概念の有無などによってその苦しみの程度は異なるだろうし、動物権利を主張する人たちも犬と人間が溺れていた場合に、より苦しみが大きいであろう人間を優先して助けることを否定するわけではない。しかし、多くの動物が少なくとも痛みや苦しみを感じる(sentient)ことは事実であり否定はできない。

 先にも書いたように、多くの菜食主義者はこの③について、「脳を持たない植物(主張によっては一部の貝なども含む)は人間を含む動物と同じようには苦しみを感じない」として植物動物区別し、植物を食べることに問題ないと考えている。「植物も実は苦痛を感じているかもしれないじゃないか」というのもよくある批判だが、これはあまり意味のある問いではない。確かに植物苦痛を感じている"かもしれない"が、動物は"明らかに"苦痛を感じている。何かを判断するときに、よくわからないことが1%あるから残りの明らかな99%も無視して良いとはならない。また、将来もし植物が"苦痛"を感じることが明らかになった場合は、菜食主義者の多くはフルータリアンなどに態度を改めるだろう。

認知能力契約能力等、動物人間区別する道徳的重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)

 これも事実であり否定はできない。人間の知能を動物の知能と直接比較すること(牛は人間でいうと何歳程度の知能か?など)はほぼ不可能であるが、それでも例えば0歳児や重度痴呆症、ある種の知的障害者などの限界事例の人たちと比較して牛や豚や鳥のほうが"賢い"と考えることは大きく間違っているとは言えないだろう。

限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない

 ③に関係して、動物人間と同じ用に苦しむのは事実だが、動物を苦しめずに殺すことは問題にならないと主張できるかもしれない。未来概念がなければ生活計画を持たずにその時だけを生きているので、殺害して未来を奪うこと自体倫理的問題がなく、苦痛を与えることだけが問題であるという主張である。また、④に関係して、認知能力契約能力などの"賢さ"によって人間動物区別でき、"賢くない"動物は殺しても良いと主張できるかもしれない。

 しかし、これらの主張からは、未来概念がない人間や"賢く"ない人間=限界事例の人たちを殺しても良いという主張が直接的に導かれてしまう。もし、限界事例の人たちを殺すのは良くないと考えるならば、その根拠人権であろう。であればこれを否定することも難しい。そして限界事例の人たちに人権を認めるなら、動物たちに「人権」を認めないとするのは一貫性に欠ける。


 以上のように①~⑤を検討してきたが、どれも削除するのはなかなか大変そうだ。「現代代表的倫理学者で動物問題について発言している人はほぼ例外なく動物が直接の配慮対象になるべきだという立場である伊勢田, 2008)」というのもよく分かる。

 しかし、倫理的観点から肉食を擁護するためにはどれかを削除する必要がある。私は差別であるという批判を受けることは承知の上で、⑤を削除することを提案したい。

続き:anond:20201228220146

2020-12-21

文学は役に立たないという主張がある。これに対して、文学はその役に立つ立たないの常識を疑うものである(よって存在意義がある)という反論がある。この反論常識を疑う役に立つという根拠のもとに文学擁護してしまっている。メタ的に問題設定を変えて、対処しているつもりかもしれないが失敗している。

常識を疑う役に立つのならば、文学のようなものを使わなくてもいい。倫理学心理学歴史学、はたまた経済学でも直接に常識を疑うことを学べるだろう。なぜ他でもない文学を使うのか、その必要性を論じてもらいたい。

2020-11-21

anond:20201121161457

ただの倫理学者気取りのお遊びだね

トロッコ問題と同じ

そんな非現実的な設定で可否を迫ったところでマトモな返答を期待しちゃいけないよ

2020-11-17

20代後半になって政治に一切興味が無くなった

10代の頃はちょうど日本中韓との関係悪化しだしたころで、慰安婦問題竹島問題尖閣問題に怒りを感じて、右翼寄りだった。この頃が愛国心も一番強かった。日本は偉大な国だと本気で思ってたし、だからこそ技術力が年々落ちていくのに本気で怒りを感じてた。

ただ、高校同級生過激言動(李って名前のやつの前で平気で朝鮮人がどうの言ったり)を見て引いてそこからノンポリ気味になった。

大学入って教養を深めていく中で、それこそ女性の権利マイノリティ問題移民問題とかの議論もしっかりできる程度には幅ができた。理系だが社会学倫理学はかなり勉強したし、海外の友人もたくさんできて国際交流、国際協調の大切さも実感した。一方で、この頃は日本人権意識の低さや労働生産性の低さを嘆いたりする、いわゆる海外かぶれと揶揄されるようなリベラルをやっていた気がする。

就職してエンジニアとして非常に恵まれ環境で働くようになってから、少なくとも自分の周囲は豊かで何不自由ない世界になってしまった。僕がさんざん共感していたはずの社会の生きにくさは途端に無関係ものになってしまい、大学時代あれほどさんざん議論した社会問題も一気にどうでも良くなってしまった。

これが高級フィルターバブルの内部だという事実認識していて、Twitterなどで出来るだけ色んな声を聞こうと情報収集してたが、それも疲れてしまった。

正直、格差の向こう側の人々の暮らしを見聞きしてもどうとも思わなくなってしまった。

勿論、僕は技術コミットしているし、世界をより良くすることに貢献をしている自負はある。

でも昔抱いていた「社会を変えるぞ」という熱量は薄れてしまった。

結婚子育てとなったらまた見方が変わるのかもしれないが、所詮自分は豊かな環境を与えられた途端に自分本位になる程度の人間だった、というのは少し悲しい。大学生の時は、大学に通えてる時点で豊かでそれを認識してない奴が多すぎる、なんて嘆いてたのにね。

シリコンバレーの連中とかも同じような感じなんだろうな、きっと。

2020-10-08

anond:20201008180614

マイクロプラスチック生態系への悪影響、生物多様性破壊生物資源の損失、食の安全の損失、人体への悪影響について語れれば提言としては十分だろ

生物学者「これは生態系へ悪影響を及ぼします」

倫理学者「生態系への悪影響は倫理的に悪です」

後者意見要らねえだろ

anond:20201008175934

理系学問は将来の海洋プラスチックの広がり方やらなんやらを計算することはできるけど

「このような将来になることは良い/悪いことである」という価値判断理系学問には含まれていない

良い/悪いの理由説明するのは倫理学とか哲学領分

2020-10-01

anond:20201001164453

ゴキブリ不快害虫であり頭も悪く、数が多くて絶滅心配もない。

食用にもなるのでやむを得ない犠牲としてもカウントできる。

動物倫理学虐待が許される特徴が目白押しだ。

2020-09-02

今こそ倫理学

しがない倫理学徒だけど倫理学意識されずに注目されているように思える。

倫理学って聞き慣れないと思うけど一応の哲学の一部で、善悪について考える学問です。有名なものだとトロッコ問題倫理学文脈から発生したものです。表現の自由も(法解釈系は法学領域だけど)思想的には倫理学範疇に入ります

Twitter増田ラブドール萌え絵善悪を語るなら倫理学に関する本を読むと既に議論が終わっていたり自分の考えを先人が言語化してくれていたりします。

レスバに勝つために学問をするのは理由としてはあまりに不純だと思うけど、きっかけなんて人それぞれだと思うしこの機会に倫理学

2020-08-25

anond:20200825224102

前提としてヴィーガニズム現代倫理学でも肯定的に扱われているし、一部ブコメのようなちゃちい反論もどきでは到底崩せるようなものではない、

というのは倫理学ちょっとでも勉強したことがある人なら知っているはず

はいダウト

これだと現代倫理学ヴィーガニズム伝道師なっちまうじゃねーか

せいぜい「ヴィーガニズム現代倫理学テーマとしても扱われることがある」ってくらいで、結論肯定否定か保留かは千差万別だろ

そもそも現代倫理学には「善とは本当に存在するのか?」を扱うメタ倫理学すら含まれる、というのは倫理学ちょっとでも勉強したことがある人なら知っているはず

ヴィーガン は「同じ思想になってほしい」って思っちゃ駄目なの?

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200824123957

件の増田の考えや決断について特にコメントはないです

思想や行動が合わなくて友人関係を見直すというのは一般的ことなので

けどさ、いつも思ってるけどさ、ヴィーガニズム話題になった途端に「思想押し付けは良くない」ってコメントするブクマカ多すぎない?

普段みんなフェミニズムとか表現の自由とかの時は「私と同じ思想になってほしい」みたいな風にでコメントしてるじゃん

友だちがワクチン接種推進動画拡散押し付けだ!もう友だちやめる!とか増田に書いた日にはブコメボコボコにされて魚拓まで取られるじゃん

ねえなんでヴィーガニズム話題だとスッと冷静に「やっぱり押し付けダメだよね」みたいな顔になるの?(一応、私は全部肯定してます

そんなのとヴィーガニズム表現の自由現代医学を一緒にするな、っていうかもしれないけど、

前提としてヴィーガニズム現代倫理学でも肯定的に扱われているし、一部ブコメのようなちゃちい反論もどきでは到底崩せるようなものではない、

というのは倫理学ちょっとでも勉強したことがある人なら知っているはず

少なくともヴィーガニズム疑似科学カルトのような、現代的な倫理観科学的知見に反する非論理的トンデモさんではないのですよ

もちろん、学術的に確立されてる思想なら押し付けて良い、ということには必ずしもならないけど

繰り返すけど、押し付けだと思ったから友人関係を見直す、というのは理解できる

けど、みんなヴィーガンの「私と同じ思想になってほしい」にだけ異様に厳しくない?なんなの?食べ物の恨みは恐ろしいってやつなの?

あとさ、食べ物の恨みならしょうがないとしてもさ、せめて「肉を食べないと怒りっぽくなる」とか「ヴィーガンカルト」とかみたいなデマを流すのは止めない?

2020-08-19

anond:20200819094331

それは単に(見た目の)公平性を求める人間の脳の仕組みがもたらすものだね。

 

サル自分キュウリ食ってるときに、隣のオリのサル葡萄食ってると怒る。

それは論理じゃない。感情だ。

ヒトがヒトであるかぎり無くならないし、お前に判ってないのは理屈ではなく感情

 

なお俺はガザニガを元にしゃべってる。

読んでみて

脳のなかの倫理―脳倫理学序説 マイケル・S. ガザニガ https://www.amazon.co.jp/dp/4314009993/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_FAhpFbGQ22FGT

2020-07-27

人生価値人生意味という概念自体有害概念である

まり哲学有害である

人生に悩んだ人はカウンセラー相談するべきであって、哲学に手を出してはならない。

哲学特に倫理学有害であることは、トロッコ問題が端的に示している。

2020-06-11

anond:20200611104028

みたいなことを、ピーターシンガーが言ったよね。

 

俺が思うのは、彼は倫理学に基づいて理論を述べたのであって、幸福になる方法社会運営する方法については言っていないということだ。

その通りにしたとして、人間が不幸になるのはもちろんのこと、動物すら幸福になるかは怪しい。

そして幸福目的としない倫理とはなんなのか?

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