はてなキーワード: 一部の人とは
11話
あの日、この国のリーダーは、世界が二度ともとに戻らないことを宣言した。緊急事態宣言の解除。それが新しい時代の合図だった。
彼は“新しい生活様式”という言葉を使った。今後も人との適切な距離を取ること、通勤や通学をなるべく控えることを人々に求めた。
サタはその“号令”を聞くまで、この国がまた元の不合理な世界に戻ることを懸念していた。そのせいか、彼女はやたらと胸を踊らせてその言葉を聞いていた。私たちはこの国の盛衰を見てきた。サタの懸念も当然だった。
工業分野で一度成功を収めたこの国は、その後、情報通信分野で他国に後れをとっていた。その理由はいくつもある。成功体験を手放せなかったとか、政治家と特定の産業の癒着のせいだとか。権力者たちが発想のバージョンアップを怠ったせいだとか。
しかし本当のところは、工業分野での成功をもとに社会システムが構築されたため、新しい分野を受け入れる余地がなかったためだ。
たとえば子どもたちが義務教育期間中に学ぶのは、国語や算数だけではない。集団として生きていく術の習得さえ、教室という閉じた空間に一任されていた。彼らはやがて満員電車で通勤し、この国の経済に貢献することを期待される。これが古いシステムのバックボーンだった。
集団を前提とした教育から労働までの一貫した流れ、それに特化したかたちで社会システムは構築されていた。これまでの経済的な成功には、集団での活動が不可欠だった。
そこにリモートワークやオンライン授業が介入すればどうなるか。このシステムの、“集団での生産活動”という基本理念が崩壊することになる。つまり“それ”にとって、その手の技術は障害でしかなかった。通勤や通学ありきで敷かれた公共交通も無駄になってしまう。
本当は、誰もがその集団を前提とした古いシステムに疲れていた。柔軟性のなさに飽き飽きしていた。もっと本質的なところで効果的なやり方があるはずだと、みんなうすうす気づいていた。
しかし(本当の意味で)より合理的なシステムに作り変えるには、既存のものを一度壊さなければならない。壊すということは、そこ(特定の産業など)に深く携わっている人が犠牲になるということを意味する。
安定を好むこの国の人々にとって、その選択は難しかった。誰かに起こる悲劇は自分にも起こりうる。明日は我が身。共感性の強い人々のそういった思考習慣が、それを阻んでいた。そしてそれは、最終的には、為政者の政治判断に反映される。
政治家と特定の産業の癒着や、国家予算といった表面的な問題のその底に、この国に住む人たちのそのような集合的意識がひっそりと流れてた。ほとんど気づかれることなく。
実は一度、この古いシステムを再構築する試みがあった。しかしそれは犠牲を生んだだけで、何の成果も得ることなく中断された。多くの求職者と自殺者を生んだだけだった。
失敗の理由は明白だった。それぞれの人間の思惑が介入しすぎたためだ。古いシステムには当然のことながら、長年のしがらみが複雑に絡みついているが、新しいシステムの構想もまた、一瞬にして誰かの思惑に取り込まれる。
そして中途半端に壊れ、(一部の人の意図に沿って)中途半端に機能する、中途半端なシステムが完成した。完成したと言っていいのかすらわからないが。
ともかくこの国の人々は、その生殺しシステムの上で、前にも後ろにも行けずに30年、止まった時を彷徨うことになった。
それに終わりを告げたのがSARS-CoV-2だった。そこに人間の介入はない。ただ、自然の摂理、あるいは不可抗力と共存するためのシステムモデル、そして本当の意味での合理性の追求があるだけだ。
それだけが、完全なる破壊を遂行できた。特定の意図の介入を阻むことができた。
破壊の後の自由の上で、それぞれの技術は本来の能力を発揮することを許された。呪縛は解かれ、初めてリミッターが外された。為政者たちは、もう古い理念、古い技術による古いシステムに場を提供し続ける必然性がなくなった。逆に言えば、それらを護るために新しい可能性は制約されていた。
場は、新しい技術に明け渡され、ウイルスやその他の脅威から人を護るため、都市全体の空気を清浄化するシステムや、生体情報の管理調整を担うウェアラブルデバイスの開発が加速した。
変化は、テクノロジーだけではなく、人々の精神においても加速した。今まで科学や社会通念の“外”にあるとされていた物事が、“内”に組み込まれることになった。
和田秀樹らによるいわゆる「暗記数学」の要点をまとめると、以下のようになるだろう。
これは従来、数学の入試問題を解くのに必要なのが曖昧模糊とした「ひらめき」や「才能」だと思われていたことへのアンチテーゼである。「暗記」という語はその対比であり、特別な才能がなくとも、基礎事項を確実に習得することで、入試を通過できる程度の数学力は身に付くことを主張している。
そもそも、大学入試は大学で研究をする上で重要な知識や考え方の理解度を問うているわけであって、徒な難問を出して受験生を試しているわけではない。したがって、そのような重要事項(つまり、教科書の基礎事項や、数学を活用する上で頻繁に出てくるような考え方)を身に付けるのが正攻法である。
そのための教材としては、エレガントな別解や難問に拘ったものよりも、基礎事項や入試頻出の問題を網羅したスタンダードなものが良いとされる。
これはいわゆる解法暗記である。なぜ、具体的な実例を学ぶのかと言えば。数学に限らず、具体的な経験と関連付けられていない知識は理解できないためである。
実際、教科書を読んだばかりの人の多くは、自身の知識と入試問題との間にギャップを感じる。たとえば、ベクトルの内積の定義や線形性等の性質を知っただけでは、それを幾何学の問題に応用するのは難しいだろう。教科書を読んだばかりの段階というのは、将棋で喩えれば駒の動かし方を覚えただけのようなもので、実戦で勝つのは難しい。実戦で勝つには、定跡や手筋のような、ルールだけからは直ちに明らかではない、駒の活用法を身に着ける必要がある。
将棋の定跡を初心者が独自に発見するのが難しいのと同様に、数学の自明でない実例を見出すことも難しい。そのほとんどは歴代の数学者が生涯をかけて究明してきたものなのだから、当然である。しかし、現代の高校生には既に教科書や入試問題がある。特に入試問題は、数学の専門家が選りすぐった、良質な実例の宝庫である。受験生はこれを通じて数学概念の活用のされ方や、論理の展開等を深く理解するべきである。
そしてこれは、大学以降で数学や工学を学ぶ際も同様である。特に、大学以降の数学では、抽象的な概念が中心になるため、ほとんどの大学教員は、具体的な実例を通じて理解しているかを非常に重んじる。たとえば、セミナーや大学院入試等では、以下のような質問が頻繁になされる。
教科書の記述や、解いた問題は完全に理解すべきである。つまり、
といったことを徹底的に自問するべきである。自分の理解が絶対に正しいと確信し、それに関して何を聞かれても答えられる状態にならなければいけない。「微分で極値が求まる理屈は分からない(或いは、分からないという自覚さえない)が、極値問題だからとりあえず微分してみる」というような勉強は良くない。
そして、理解できたと思ったら、教科書の一節や問題の解答を何も見ずに再現してみる。これはもちろん、一字一句を暗記するということではなく、上に書いたような知識が有機的な繋がりを持って理解できているのかを確認することである。ある事実が、どのような性質を前提としていて、どのように示されるのかという数学のストーリーを理解していれば、何も見ずともスラスラ書けるはずだ。
また、問題を解く際は、いきなり答えを見るのではなく、一通り自分で解答を試みてから解答を見ることが好ましい。実際に手を動かすことにより、分かっている部分とそうでない部分が明確になるからである。
以上のことは、何も受験数学に限った話ではない。他の科目でも、社会に出て自分で調べたり考えたりしたことを他人に発表するときでも同様である。
要するに、数学の専門知識と社会的常識のある人は暗記数学に賛成しているようだ。
逆に、反対している人。
反対しているのは、金儲けが目的で目立つことを言っているか、何かをこじらせて勉強法に無駄な拘りを持っている人たちのようだ。
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思うに、アンチ暗記数学派というのは、精神の根底に以下のような考えを持っているのではないのだろうか?
一部の人は、大学入試では「ひらめき」「発想力」「頭の柔らかさ」「地頭の良さ」などを試すために敢えて典型的ではない問題を出しているとか、「天才」を発掘するために常人には解けないような難問を出題していると思っているのかも知れない。しかし、先にも述べたように、大学入試は、大学に入って研究するための基礎学力を測っており、入試問題は、そこで問われている知識や考え方が重要だから出題されるわけである。したがって、そういう重要な知識や考え方を十分に身に着けていれば受かる。ただそれだけの話である。そして、良識ある教育者は、数学で重要なところが分かっているから、それに基づいて教材や予想問題を作っている。そうでない人はもしかしたら、大学が普通の受験生には解けないように徒に問題を複雑にしていると思い込み、ひねくれた問題を教えているのかも知れない。
また、「数学自体は重要ではなく、数学を通じて思考力を鍛えることが重要」とか「受験勉強は社会に出て嫌な仕事を我慢するための訓練」等と思っている人もいるかも知れない。特に前者は、自称数学好きにもいるようだ。しかし、深く考えるまでもなく、大学受験に数学が課せられるのは、大学で研究するために(少なくとも、教員が望む水準で)絶対に必要だからである。そして何度も言うように、入試で問われるのは、研究のために必要な知識や考え方であり、「頭の柔らかさ」などではない。また、数学をそれほど使わない学部にも、受験に数学が課せられるのは、多くの大学には転部等の制度があり、文学部から経済学部とか、農学部から工学部に転部するような事例は珍しくないからである。
上記2つに共通するのは、「理解」よりも「ひらめき」等のオカルティックなものを重視することである。これは、上に述べた胡散臭い教育業者や、受験生に絡んでる学歴コンプが暗記数学に反対する理由と符合する。金儲けがしたい受験業者にとって、「基礎を確実に理解することが重要」と言うよりも「入試本番に典型問題は出ないから、ひらめきが大事(。そして、ウチの教材を使えば、それが鍛えられる)」などと言った方が、客は集まりやすいだろう。また、SNS等で受験生や教員などに絡んでる奴にしても、数学の本質が理解できず霊感的なものに価値を見出しておかしな勉強理論にかぶれてしまったと考えれば納得がいく。
1.SNSが民主主義のツールと捉える利用者が多く感じる。政治的ツールとして使われるのであればプラットフォームとして中立である必要があるがそれにほとんどの人は気づいていないと思う。
2.ハッシュタグは知識がないのに、長いものに巻かれるように主張を自分のものとしてコピーしやすい手段でもある。当事者でもない人が感情に任せて叫びやすく、そこに同調することが正義だと思ってしまっている偽物も多い。例のハッシュタグはいわば'ファッション的缶バッジ'のようだ。
3.日本語で書かれたツイートを実在の日本人によるものだとすると、この国では現在政治的発言が忌み嫌われることが露呈したと見える。一部の人間による著名人に対する噛みつきは無視すべきもので、いちいち反応することでもないと感じる。刹那な感情は理性に勝ることはない。
Extra.他人を批判、否定することは同時に自己の存在否定になる。同じ人間で異なる考え、容姿でももしかしたら私はあなただったかもしれないという意識があるとSNSは新しい形で民主主義的になるのかな.
あるいみではあるが、一部の人が、だめなら、もう1回緊急事態宣言すればいいじゃない。みたいに、気軽に緊急事態宣言を発令できるようにしたいというほうがどれだけ緊急事態であるかという
コロナ禍でパチンコ店が猛烈なバッシングを浴びたのは記憶に新しいだろう。
それに端を発し、パチンコ・パチスロはアンチに叩かれまくった。
そんな中、アンチの前に立ちはだかったのはカジノ業界の専門家 木曽崇氏だった。
木曽氏はパチンコ業界人ではないものの、パチンコ業界に精通していることから最前線に立ち、孤軍奮闘、アンチをバッタバッタと切り捨ててくれたのだ。
この一件でパチンコ業界人は木曽氏に足を向けて眠ることができないだろう。
一部の人は声を上げていた。しかし、多くが腫れものに触りたくないと言わんばかりに口を閉ざしていた。
中でも、ライター、演者といわれる人たちの9割以上はだんまりを決め込んでいた。
ライター、演者とは、ざっくり言うとパチンコ・パチスロYouTuberである。業界内で最も人気と発信力のある人たちだ。
その人たちがだんまりを決め込み何をしていたかというと、大御所も小御所も揃いに揃ってオンライン生配信、オンライン飲み会、競馬、競艇、ツイキャス、インスタライブである。
パチンコ・パチスロの実戦動画を上げれないからせめてと気持ちでそうしてくれていたことはわかっている。
しかし、これまでさんざん世話になってきたパチンコ店がタコ殴りにされているのに、腫れものに触りたくないと言わんばかりに揃いも揃ってだんまりを決め込んでいる様にガッカリした。
「火中の栗を拾いたくなかった」「見ているだけで何も言えなかった」「ビビった」「炎上が怖かった」「雇われだから」「会社から発言することを止められていた」
理由はおそらくこんなところだろう。
ライターや演者は、人気取りや再生数稼ぎばかりに走らず、風営法および関連法規、業界の成り立ちや歴史、ギャンブル依存症のことを学び、業界が再び窮地に立たされた日には業界の一助となってもらいたい。
意識の高いメディアや皆様が「アフターコロナ」を声高に叫んで、
アクセス数を稼ごうとしている。
でも、誰もアフターコロナの世界を具体的に示している人はいないし、
ましてや自分自信の仕事に参考になることを話している人はいない。
東日本大震災の時もそんなことをあてにせず、震災後自分で判断していち早く行動した人が
短期的に銭を稼いだんじゃなかったっけ?
・公共工事
etc...
そのあとゆるゆると、世の中はもとどおりになり、コロナを迎えた。
これから1年前後、テレワークが増えて、オフィスの専有面積が減って
医療ベンチャーが盛り上がる、くらいのことがアフターコロナなんじゃないのかな。
あえて言うと1年の間に貧乏な人が増えるのがアフターコロナなのかもしれない。
その間に、特定の会社(旅行会社とかイベント会社)がつぶれて、
騒動が終わったら、雇い主が変わるだけで産業構造は変わらないんじゃないの。
生きながらえた飲食店はもしかしたら死ぬまで借金返済に追われる。
火事場のバカ力的に新しいものが生まれる可能性もあるけどそれは一部の人。
アンチ安倍の主張とは裏腹に、安倍政権はビビリだから、新解釈の強行でも改竄でも、コトの本丸には手を付けない傾向にある。
原理的にはやりたい放題になる可能性はあるんだが、それを利用してめちゃくちゃやるのかというと、そうでもない。
森友の改竄も、読めば確かに文書の趣旨は変わっておらず、まあ政治家とか首相夫人の名前が消えてたんで一部の人らは発狂してたけど、
彼らの関与で土地の値段が下がったわけではないのは明らかだったんで、あれ、野党マスコミにビビりすぎたのが最大の失態なのよ。
要は安倍政権というのは、とりあえず政権が存続することが至上命題になっている感すらある。改憲ですら与党陣営へのポーズに見えてしまう。
安倍が巨額のカネを動かすとか、どこ見てもないでしょ。疑惑になるのは、政権周辺の、せせこましい案件ばかりだ。
それにしてもポスト安倍となると、与党にも野党にも、インパクトのある経済政策を語れるものが少ない。
ええ、安倍のやってることは緊縮ですよ。ただし安倍に信念はない。風向きが変われば、コロッと2回消費増税を延期したりもする。
信念がなければこそ、財政拡大派の学者をしれっとブレーンに据えたりもするし、またその下で金融緩和だけ続けつつ、財務省の言うがままインフレにならぬよういわゆるデフレスタビライザーで財政出動を抑え、財政健全化の実績を作っていたりする。
しかしこんな右往左往の安倍に対してですら、特にマクロの経済政策において、アベノミクスの問題点を個別に指摘し、うちの党は金融政策はこうやる、財政についてはこうだ、と語れる政治家もほとんど皆無だ。
アベノミクスは金持ち優遇!格差拡大!としか言えない奴ら、論外。「人への投資」しか言えないのも、論外。
さらにコロナ騒ぎで増税を正当化しようと躍起になっている連中が跋扈している。これに日本の国民が抵抗するのは、至難のわざだよ。
安倍みたいに汚れまくってる奴より、清廉な顔して、国民のために寝ずに働いてます、この身を犠牲にしてでも国民のために頑張ります、みたいな顔してる奴が、一番危険。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200424/k10012403771000.html
都に限らず大阪などを見ても、このような知事の毅然とした対応には一定の評価が上がっているが、しかし、私はこのパチンコ叩きは一都市の首長として相応しくない恥ずべき行為だと考える。
今の一部首長のやっているパチンコ叩きはハッキリ言って、目立つところを叩くことでイラだつ市民のガス抜きをし、コロナ対策してますアピールをする以上の意味はない、非常に非論理的な行為だ。
昨日や一昨日、街に出てみて実際に見てきたが、延長前の自粛期間である5月6日を過ぎて多くの娯楽施設が営業再開をしていた。
その中にはパチンコに負けず劣らずの感染リスクを持つ店も当然存在する。
少し前までならともかく、このような情勢下においてパチンコ店のみを名指しで叩くのはあまりに平等性を欠いている。
コロナ感染の原因になると晒し上げたければ晒し上げれば良いと思う。
ただ、もしパチンコを晒し上げるなら、同程度の混雑具合、不要不急具合の施設は全て晒し上げるくらいのことはやるべきだと思う。
明確な論理的基準を設けて、それに反するものは全て処罰するくらいでなければ、民主主義法治国家の行政に求められる公平平等性に著しく反しているだろう。
そのような当然のことさえせずに、少し悪目立ちをしていて、叩いても市民から反感を受けずらいからという理由だけでパチンコ店のみを批難するのは、行政の人間として余りにお粗末だ。
ちなみに、何百人も行列ができるようなパチンコ店は一部の人気店? 周囲に営業している店が他にないところ? だけであって、全てがあのような状態になっているわけではないということは言っておきたい。
(私はパチンコはやるが、原作知ってるアニメの台が出たら遊びに行くくらいで、ガチギャンブラーではないので、どういう店が人気になっているのかよく分からない。すまん。このあたり詳しい人がいたら教えてほしい)
私は都内に住んでいて、家のそばに二軒ほど営業再開していたパチンコ店があったので中を覗いてみたが、まあ平時と変わらないくらいの込み具合だった。
コロナ禍において好ましくない状態であることは否定できないが、他の業種と比べて特別槍玉にあげられなくてはならないような酷い状態ではなかったのは間違いない。
テレビで取り上げられているような人でごった返している店は休業した方が良いのではと私も思うが、全てのパチンコ店が極めて高い感染リスクを持っているというのは大きな勘違いであるということだけは認識しておくべきだ。
顔中血まみれにして肉を貪ってるぞ? 見苦しい、最悪。
しかも途中から割り込んで人の捕ったものを横取りするやつまでいるしよー
映像では映ってないけど捕るにしたってこいつら正々堂々のタイマン勝負じゃなくて多数に無勢で不意打ちかましてるからなー。クズ過ぎ。
こいつらがやってること、サッカーでボール持って走るのと同じだからな? どうしようもないよ、まったく。
こんなGUESSで恥ずかしい連中を英雄気取りで持ち上げる一部の人間連中は200%頭がおかしいとしか思えねえな。
人間が最も見習っちゃいけない類の連中だろこういうの。
いやー、全くの同意!
今も昔も↑のような獣を英雄の比喩に用いられているということが、現代人の精神性が昔から全く進化していないことを明確に物語っている。
うーむ、職場の一部の人が実験してはいるらしいんだけど、それぞれの自宅のインターネット環境だからできるんだと思う。職場のシステムはとことんクローズドで、普通の人が使うwebサービスにはほとんどアクセスできないし、勝手に新しいソフトをインストールするのもなし。職場のパソコンから動画をアップできるようにするのも、外部とやり取りできるメールアドレスを増やすのも本社のお許しと設定変更がないとできない。情報が外部に流出することをとことん恐れて構築してきたシステムだから、職員とはいえ自宅から簡単にアクセスできないし、上司も向こうからこっちを見るのが至難の技なのだ。遅れてるよね。
100年に一度という未曾有のコロナウイルスショックに世界が見舞われている。
世界の多くの国でロックダウンが起こり、経済は停滞し、多くの企業が経験したことのない困難に見舞われている。
リーマンショックどころの話ではない、世界の人々の生活スタイルを大きく変え、これまでの価値観が大きく変化している。
生活スタイルの変化に伴い、人々のニーズは大きく変わり、これまで必要とされていたビジネスはどんどんその価値を失い、その一方で新しいビジネスの価値が高まりつつある。
私の視座はこうだ。
今回のコロナショックは「人類の壮大な過剰反応」であると思っている。
今回問題になっている新型コロナウイルスは人類にとって大きな敵ではない。
・これまでのインフルエンザと変わらない致死率
・感染していても本人が気が付かず無症状で免疫を獲得している人々の存在
・空気感染でなく接触感染もしくは飛沫感染を主な経路とした感染
その結果、想定の50倍以上の人々が「知らず知らずのうちに感染し免疫を獲得している」ということが分かってきた。
実際のところ、私たち人類がこのウイルスを脅威だと認識する以前から彼らは私たち人類に感染し続けていた。
まるでステルスマーケティングのように私たちの知らないところでじわじわと拡大していた。
拡大しているにもかかわらず気がつかない理由。
それは以下の二つ。
・極めて低い致死率
・もし人々がスマートフォンを持っていなかったら?
この二つの前提において、今回の新型コロナウイルスが感染拡大したとしたら?
おそらく、ここまで世界中の経済を停滞させ、人々の生活スタイルを変えるほどのインパクトはなかっただろう。
人々は通常通り経済活動を行い、 低い致死率で一部の人々が亡くなり、 インフルエンザの延長ぐらいの感じで新しいウイルスが流行っているのだと報道される程度であろう。
しかし実際はそうならなかった。
我々はインターネットやスマートフォンによって、身体的なつながりや、対面でのコミュニケーションで得られる範囲を超えて大きく繋がった。
そして、これによって不安や、誤った認識や、不信感も世界中で繋がっていく。
もし世界にインターネットが存在せず、普通の人々がスマートフォンを持たなかったとしたら、不安や、誤った認識や、不信感も広がっていくことはなかっただろう。
そして、今回のように大規模に経済も止まることはなかっただろう。
これから、日本でも抗体検査が行われるにつれ、すでに免疫を獲得している人がたくさんいることがはっきりしていくだろう。
免疫を獲得している人々は、いち早く経済活動に参画し普段通りの生活を行なっていくだろう。
そして、それによって「人の移動が必要とされない側面」に気がついてしまった。
具体的に言うと、
・飲食店に食事に行くのではなくウーバーイーツなどのデリバリーで運んでもらう
・飛行機で移動してビジネスホテルに泊まって出張するのではなく、会社からビデオチャットで仕事をする
・平日毎日学校に行くのではなく、自宅でビデオ教材やオンライン授業で学習をする
・病院に行って診察をしてもらうのではなく、電話やスマホを使った遠隔診察をしてもらう
今回の「人類の過剰な反応」によってもたらされたメリットがあるとすれば、こういったことに人類が気づいたことだと思う。
ほとんどの経済活動がオンライン化し、その反面「人が移動する価値」は「ラグジュアリーな体験として」のみ存在価値を維持し続けると思う。
ただ泊まるだけのビジネスホテルは消滅するが「ラグジュアリーな体験」としての旅行などの宿泊は高い価値を維持し続けるだろう。
ただ情報を伝えるだけの営業はどんどんオンライン化されていくだろうが「ラグジュアリーな体験」としての対面接客は残り続けるだろう。
私たちは新型コロナウイルスによって、新しい時代へと進化することができた。
今我々がすべきことは何か。
「新しい時代」を楽しもう。
新しい時代に、どんな働き方ができるのか。
もう一度言う。
「新しい時代」を楽しもう。